☆ 文化八年(1811)
◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化八年刊)
柳々居辰斎画
『自讃狂歌集』初編 柳々居辰斎 俊満 素羅◎瓢天馬 広昌画 北渓画 抱亭五清画
額輔写 北寿画 蹄斎北馬画 蜂房秋艃画 菅川亭画
宿屋飯盛撰
☆ 天保元年(文政十三年・1830)
◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB画像〕(天保元年刊)
歌川広昌画
『狂歌年中行事』二冊 抱亭五清・北渓・広昌・額輔画 六樹園編 永楽屋東四郎板
☆ 天保四年(1833)
◯『全楽堂日録』渡辺崋山日記(『近世文芸叢書』第12巻所収 国書刊行会 大正元年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(19/259コマ)※半角括弧(~)は本HPの補注
〝天保癸巳(四年・1833)正月廿六日 沼津駅
此駅に大平屋といふ傀儡(使用人)ども多くもてる逆旅(旅館)あり、こは予が友なりし菊谿と聞えし、浮
世絵を善するもの此主となれり、はじめ(三字欠)忠左衛門どのゝ客(一字欠)なりし、絵事をこのみ
豊広といふものゝ弟子となり、名を広政とあらため、志かたに鋭して終に家を出、此わたりにさまよひ
しが、此家の入夫となりて、かぎりなきいやしき業なれど、家居大きやかに造り、此駅の冠なりとぞ、
朝まだきなれば起出ん事のおそかりぬべしと、消息認め、輿夫に門押かきすつるに、やがて主みづから
出迎ふ、大によろこびにたえず、門下にたゝずみ互いにふるきを話合ひ、帰立よらむと約しさる〟
〈「広政」とあるが、沼津駅・旅館大平屋主人・豊広門人とあるから歌川広昌の記事と見てよい。菊谿(きくけい?)と称
し、渡辺崋山とは相識の間柄だったようである。崋山は主君の領地、三河の田原に向かう途中、広昌とは旧交を温め
るいとまもなく早々に出立した。帰路を約したとあるから二人の交わりはかなり親密であったに違いない〉
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③304(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
「歌川豊広系譜」〝(豊広門人)門人 広昌【駿州沼津宿大平某、錦絵二三種アリ】〟
◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年序)
「歌川豊広系譜」〝(豊広門人)門人 広昌 駿州沼津宿大平屋某 錦画に三種あり〟
◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪189(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
「歌川豊春系譜」〝(歌川豊広)門人 広昌 駿河沼津宿住、大平屋某、錦絵二三種アリ〟
◯『浮世絵師便覧』p238(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝広昌(マサ) 駿州沼津の人、豊広門人、◯文化〟
◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p121(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)
〝(豊広)門人多し。広昌(駿洲沼津の旅店太平屋某なり、錦画二三種あり)、広重、広恒、広政等、皆
傑出の名あり。広重最も世に著わる〟
◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(58/103コマ)
〝歌川広昌【文化元~十四年 1804-1817】駿州沼津の人にて、大平屋某といふ、豊広の門弟なり〟
◯『浮世絵師伝』p162(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝広昌
【生】 【歿】 【画系】豊広門人 【作画期】文化
駿州沼津の人、旅人宿を業とし、屋号を太平屋といふ〟
◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)
◇「夷曲同好筆者小伝」p444(昭和六年九月十六日記)
〝広昌 駿河沼津人、屋称太平屋、学画豊広〟
◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
「歌川系図」〝歌川豊広門人 広政〟