Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
☆ ひろかげ うたがわ 歌川 広景浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕
   ☆ 万延元年・申(安政七年・1860)     <七月 豹の見世物 西両国広小路>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)    歌川広景画「口上(略)魯文」錦絵 署名「広景写生」(申八月)    ☆ 文久三年(1863)    ◯『藤岡屋日記 第十一巻』(藤岡屋由蔵・文久三年(1863)記)   ◇青物魚軍勢大合戦図    〝亥ノ十一月廿二日暮六ッ時頃 町内道場橋手摺に張有之 〈亥は文久三年〉                                浮世絵師  広蔭(ママ)    此もの義、先達て不容易御時勢之事、魚青物尽しに認め、錦絵に書候を、渡世柄に候得共、其余種々正写、    画等横浜異人共ぇ贈り、猶又此度諸国城絵并両御丸絵図等贈り候事、彼地ぇ遣送候探索方より申来り、其    身分相調候得共、居処不相分、若地面又長屋等に差置候はゞ仕方有之候間、不隠置、早々居町相認、此処    ぇ可張出もの也。若隠置候はゞ、可為同罪者也     十一月廿二日                     皇国有志 連      市中家主中                                       〟
    「青物魚軍勢大合戦図」 広景画     (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)      〈「青物魚軍勢大合戦図」は改印から安政六年(1859)十月の出版である。板元は辻岡屋文助。前年の夏から秋にかけてコ     レラが猛威を振るったが、この絵はそれを踏まえてコレラにかかりやすい魚と、かかりにくい青物の戦いに擬えるたと     される。しかしそればかりでなく、やはり昨年七月、将軍徳川家定の死去以降、一橋派(水戸派)と南紀派(紀伊派)     との間で激しく争われた将軍継嗣争いについても擬えたとされる。例えば、藤顔(冬瓜)は南紀派の井伊直弼、蛸は一     橋派の徳川斉昭であると。この皇国有志が広景を告発したのは、容易成らざる時勢(コレラの蔓延と将軍継嗣問題)を     題材にとった錦絵を、この六月開港したばかりの横浜の異人へ贈ったこと。加えてその後も、諸国の城の絵や同年十月     十七日に焼失した江戸城本丸の絵図をやはり横浜の異人に贈ったこと、この二点に拠るのだろう。ただ、よく分からな     いは、この広景の錦絵が出版された時より四年もの後の文久三年に、なぜ糾弾されることになったのかだ。広景は逃亡     を謀ったようで行方が分からないとある。さてその後、この皇国の有志の私的制裁はどう決着したのであろうか。2011     /11/22 追記〉     ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③187(浅野梅堂著・安政二年頃成る)   〝已ニ此頃ノ彦根元老浪人者ニ乱斫セラレシヲリニモ、野菜モノト魚類ノ闘争ノ図ヲ出シテ、人々例ノ推    度ニテ、冬瓜ノ鬚、題目書タル旗ノ上ニ、立花ノ紋アルヲソレ也ナンド言モテハヤシヌ。如此モノハイ    ツモイツモ制止セラルヽニ、夫マデノ二三日ノウチニ、売ドコロニテモ利嬴アリトテ、懲スマニ又モ繍    雕スル、忌々敷コトナラズヤ〟    〈歌川広景画「青物魚軍勢大合戦之図」に関する記事。伊直弼が水戸藩の浪士に殺害された「桜田門外の変」は安政七     年三月三日〉    ☆ 没後資料    ◯『浮世絵師伝』p157(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広景    【生】           【歿】    【画系】初代廣重門人    【作画期】安政~慶応    歌川を称す、「江戸名所道戯尽」あり〟     ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)   〝歌川広重門人 広景〟
    「歌川系図」    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    作品数:1点    画号他:歌川広景    分 類:絵画(一帖)1    成立年:記載なし    〈一点は『江戸名所道外尽』〉