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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ べいさく たぐち 田口 米作
浮世絵師名一覧
〔元治1年(1864)4月6日~明治36年(1903)1月18日・40歳〕
☆ 明治二十五年(1892) ◯『改正全国書画一覧』(竹村貞治郎編 開運堂 明治二十五年十二月刊)
(東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)
〝画家之部 (一段目)河鍋暁雲 東京 小島勝月 東京(以下略) (二段目)市川甘斎 東京 (三段目)
田口米作
東京 (張出)一流画 尾形月耕 東京〟 ☆ 明治二十六年(1893) ◯『七福神雷名競』番付(竹村貞次郎編集・出版 明治二十六年十二月)
(東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)
〈当時の著名人を七福神に見立てたもの。住所はすべて東京〉
〝詩文 亀谷省軒 画 衣笠豪谷 書画 小山雲譚 画
田口米作
書 服部恭斎 肖像 根元鶴城 書 岩城玉山〟 ☆ 明治二十七年(1894) ◯『読売新聞』(明治27年11月12日) 〝戦争絵 玄武門兵士先登の錦絵(
米作筆
)は日本橋本町二丁目の井上吉次郎方より売出せり〟 ◯『大日本書画一覧』番付(竹村貞治郎編集・出版 明治二十七年十二月刊)
(東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)
〝画之部 東京 寺崎広業 東京
田口米作
東京 英一晴(ママ) 東京 市川甘斎〟
〈一蜻〉
☆ 明治二十八年(1895) ◯『読売新聞』(明治28年1月12日) 〝戦争絵 第二軍金州城占領(
米作
筆)の三枚続きの錦絵は日本橋本町井上吉次郎方より売出せり〟 ☆ 明治二十九年(1896)
◯「国立国会図書館デジタルコレクション」
(明治二十九年刊)
田口米作画
『滑稽画談』二編 田口米作画 団々社(10月)
◯「双六年表」
〔本HP・Top〕
「滑稽ばけもの双六」
田口米作
水野浅次郎 明治29年12月 ③F-320-266 ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)
(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
〝
米作
田口氏、小林清親門人、明治〟 ◯『狂歌人名辞書』p202(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊) 〝田口米作、桜水と号す、東京芝西ノ久保に住す、小林清親門人にして狂画を善くし、又彩色法の研究家 たり、明治卅六年一月十八日歿す、年四十一、浅草感(ママ)光院に葬る〟
〈正しくは威光院〉
◯『浮世絵師伝』p168(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝米作 【生】元治元年(1864)四月十六日 【歿】明治卅六年(1903)一月十八日-四十 【画系】清親門人 【作画期】明治 田口氏、下野下都賀都野田村の人、明治六年父に従つて東京に移り、芝西久保桜川町に住す、父は米穀 商を営みしが、彼は絵を好みて、明治十四年の頃清親の門に入る、よく師風を学び得て同門中、井上安 治(探景)と双壁の称あり、頗るポンチ絵に巧みにして、また日清戦争の錦絵を数多画けり。墓所、浅 草栄久町威光院、法名、天真院覚道米作居士。(『浮世絵志』第二十七号、大曲駒村氏の記述を参考す)〟 ◯「集古会」第百八十四回 昭和七年一月
(『集古』壬申第二号 昭和7年3月刊)
〝相良顕三(出品者)米作画 奉天府日軍露営之図 三枚続 明治廿七年板 画中に七勇士剣を按して城門を望む所あり〟 ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊 ◇「水浴させた文晃の画 絵具の使い方を知らぬ画」p238 〝青緑山水の得意な文晃なども着色は確かなものであった。故
田口米作
画伯が文見の寿老人の画幅を愛蔵 していたが、あるとき幼い令息が、件の画幅へ赤インキを垂らした。画伯は直ちに物干しへ持ちだし、 画面へざあざあ水をかけた。門人が驚いて先生大丈夫ですかというと、画伯は「文晃の彩色だからこの くらいのことは平気だ」としきりに如露(ジヨロ)で水をかける。なるほどインキはほとんど消えたが、胡 粉を塗った鶴の姿も寿老人の彩色もなんら異状がなかった。さすがに文晃だが、これを確信して大切の 画幅を水攻めにした米作画伯の度胸もよい〟 ◇「旧口米作と永田錦心 不思議な縁で生れた大家」p285 〝清親についで漫画の先駆者「四睡の巻」「長短の巷」など奇想天外の傑作を遺した
田口米作
画伯は、も っばら古画によって学んだ人で、その画風は真に瓢逸の点で天下一品、しかし漫画以外は気に向かぬと 描かないので、その作品は至って少ない。 明治三十五年の一月十日、師の清親方へ年始に行って、午後三時ごろ帰宅すると突然脳貧を起し心臓病 を併発して、七日問ぶつ通しに昏睡したまま、ついに永眠。 芝桜川町の家へ通夜に駆けつけた清親翁、落胆しつつ語る、「もう二十五、六年前だ、私が愛宕山へ写 生に毎日出かけたが、いつも傍へ立って熟心に見ている子供があった。いかにも熱心なので絵を教えて あげようかというと、ぜひ願いますというので一緒に家へ行って両親に話し、こっちからとうとう弟子 にしたのがこの米作君で、その時の様子が今でも思いだされる」と感慨無量。 和漢の古画及び浮世絵にも精通し、ことに色彩の研究にはもっとも熱心で、その遺著『色彩新論』は当 時前人未発の卓見として金子子や末松男から大いに推賞された。一時は茶道にも凝って、ちよっと画筆 を持っても妙な手付きをするので、なんの真似ですというと「これは茶杓の扱い」、要するに趣昧の広 い人であった〟 △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序) 「浅草区」威光院(菊屋橋二ノ二)新義真言宗智山派 〝田口米作(画家)桜川と号す。小林清親に従ひ、団々珍聞に狂画を描いて名あり。明治三十六年一月十 八日歿。年四十。天慎院覚道米作居士〟 ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p91(樋口弘著・昭和37年改訂増補版) 〝米作(べいさく) 田口氏、下野の人、東京に出て清親の門に入る。明治の風俗画、ポンチ画を描いている。元治元年生れ、 明治三十六年、四十才で歿している〟