Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ はるのぶ すずき 鈴木 春信 二代浮世絵師名一覧
(司馬江漢〈こうかん〉参照)
 ☆ 享和年間(1801~1803)    ◯『増訂武江年表』2p27(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「享和年間記事」)   〝浮世絵師二代の春信といひしもの、長崎に至り蘭画を学び、後江戸に帰り世に行はれ、名を司馬江漢と    改む。又銅板画を日本に草創せるも此の人の功也〟    ☆ 文化八年(1811)    ◯『春波楼筆記』〔大成Ⅰ〕②20(司馬江漢著・文化八年成立)  〝(江漢少年時)其頃、鈴木春信と云ふ浮世画師、当世の女の風俗を描く事を妙とせり。四十余にして、    俄に病死しぬ。予此にせ物を描きて板行に彫りけるに、贋物と云ふ者なし。世人我を以て春信なりとす。    予春信に非ざれば心伏せず、春重と号して唐画の仇英、或は周臣等が彩色の法を以て、吾国の美人を画    く。夏月の図は薄物の衣の裸体の透き通りたるを、唐画の法を以て画く。冬月の図は、茅屋に篁繞り、    庭に石燈籠など、皆雪にうづもれしは、淡墨を以て唐画の雪の如く隈どりして、且其頃より婦人髪に鬢    さしと云ふ者始めて出でき、爰において、髪の結び風一変して之を写真して、世に甚行はれける。吾名    此画の為に失はん事を懼れて、筆を投じて描かず〟    〈春信の死後、江漢は春信の画名で贋作を画いた。すると世評はこれを春信作だと認めた。しかし江漢は、そのことに     納得がいかず、春重と号して画いたというのである。世評で春信二世と呼ばれることは当然あったものと思われるが、     江漢自ら二世と名乗ったとは思えない記事である〉    ☆ 没後資料    ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年 1818-21)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)   〝三馬按、此門人某、橋本町ニ在テ二代目春信ト成、後年長崎ニ至リ蘭画ヲ学ビ、再ビ江戸ニ帰リテ大ニ    行ハル。所謂司馬江漢是也。元祖春信ノ伝、並ニ錦絵ノ事等、別記ニアリ〟    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③294(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年(1833)成立)   (「鈴木春信」の項)   〝三馬按、此門人某、橋本町に住て二代目春信となる、後年長崎に至り、蘭画を学びて、再江戸に帰りて、    大に行る、鏡画の事等、別記にしるせり〟    〈蘭学者・銅版画家・唐画絵師、司馬江漢のこと。「鏡画」「別記」未詳〉    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   (「鈴木春信」の項)    三馬按、此門人某、橋本町に在て二代目春信となる。後年長崎に至り蘭画を学びて、再び江戸に帰りて大    に行る。所謂司馬江漢是也。〈本邦にて銅板を製し始む〉元祖春信の伝、并に鏡の事等、別記にしるせり。    〈江漢が画作、西遊旅譚あり。今行て尤よし。江漢は文政元年寅十月廿一日卒す、七十二才也、江漢不言    道人、名は峻〉〟    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1391(朝岡興禎編・嘉永三年(1850)四月十七日起筆)   〝春信 二代目〟    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪201(竜田舎秋錦編・慶応四年(1868)成立)   (「鈴木春信」の項)    〝式亭三馬按に、此人門人某橋本町に在て二代目春信となる。後年長崎に至り蘭画を学びて、再び江戸に    帰り大に行る。所謂司馬江漢是なり。江漢名は俊、字君岳、号春波楼、不言道人、皇朝にて銅板を制す    ること、此人よりはじむ。文政元年寅十月廿一日歿す。七十二歳〟    △『増訂浮世絵』p110(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝鈴木春重    錦絵の創始された明和の当時に、名声嘖々たりし春信の風に倣つて美人画を画いた。春重の才筆は巧み    に春信の風を摸することができた。(『春波楼筆記』を引いて、春信の死後贋物を画いたこと、また春    重と号して美人図を画いたことを記す。省略。詳しくは本HP、司馬江漢の項、明和七~八年記事参照の    こと)肉筆美人絵で、蘭亭春重と落款して、春信の印章を捺したものがある。また(中略)鈴木春重と    署名して、春信の印を用ひた美人画がある。これらを綜合すると、春信に私淑し、春信風に画いたので、    その門人であつたといふことも強て、否定し得ないかも知れない。然し必しも二世春信を名乗つて居る    といへない〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    二代目鈴木春信名の作品はない。ただ勝川春重を司馬江漢としている