Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ えいたく こばやし 小林 永濯浮世絵師名一覧
〔天保14年(1843)3月23日~明治23年(1890)5月27日・48歳〕
   展覧会(明治) 博覧会(明治)(展覧会・博覧会の出展状況は本HP浮世絵事典の「展覧会・明治」参照〉  ☆ 慶応二年(1866)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治年二刊)    鮮斎永濯    『御府内八十八ケ所道しるべ』天 口絵「鮮斎永濯」・挿絵「二代目改 喜斎立祥」大和屋孝助等 ②      地の刊記「慶応二丙寅年正月新調板」人の巻末「慶応二年寅九月 光明講発願主 銀座一丁目 大和屋孝助(後略)」  ☆ 明治四年(1871) ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」明治年刊(国立国会図書館)    鮮斎永濯画「雷電 越の危難」錦絵 署名「一鮮斎永濯 一立斎広重書分」甘泉堂板(明治4年刊)  ☆ 明治五年(1872)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」明治年刊(国立国会図書館)    河鍋暁斎画『珍奇物語』初編 東江楼主人 挿絵 惺々暁斎 大黒屋平一他版(10月序)  ☆ 明治六年(1873)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇歴史戦記(明治六年刊)    鮮斎永濯画『近世紀聞』十二帙三十六冊 永濯画 條野伝平・染崎延房輯 甘和屋他版(明治十四年完結)    ◇翻訳翻案(明治六年刊)    鮮斎永濯画『通俗和聖東伝』二巻二冊 鮮斎永濯画図 長沼熊太郎翻訳・為永春水和解 南部利恭版    ☆ 明治七年(1873)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明治七年刊)    小林永濯画    『耶蘇一代弁妄説』二冊 画図鮮斎永濯 任天社蔵板〔漆山年表〕    『義烈回天百首』 一冊 鮮斎永濯画図 染崎延房編 辻岡屋文助板〔漆山年表〕    ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇翻訳翻案(明治七年刊)    鮮斎永濯画    『耶蘇一代弁妄記』三帙六冊 鮮斎林永濯画 田島象二著 任天社版   ◇伝記(明治七年刊)    鮮斎永濯画    『義烈回天百首』  一冊 鮮斎永濯画 染崎延房編 金松堂版    『近世百人首』 三号六冊 永濯画   染崎延房編 金松堂版    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(国文学研究資料館)    小林永濯画    『近世紀聞』一-四編 鮮斎永濯画 染崎延房 甘泉堂・金松堂版  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」明治七年刊(国立国会図書館)    小林永濯画『台湾外記』口絵・挿絵 鮮斎永濯 染崎延房 永保堂(12月)    ◯ 錦絵版『各種新聞図解の内』創刊(明治七年十一月)(『大衆紙の源流』土屋礼子著 世界思想社)    政栄堂(政田屋平吉)版 画工 小林永濯 記者 転々堂鈍々(高畠藍泉) 7年11月~8年2月    ◯「聖堂 書画大展観目録」第二号 博覧会事務局 明治七年五月一日開催   (『博覧会出品目録』国立国会図書館デジタルコレクション)    〝現今筆者    瀑布之図   柴田是真    人物     鮮斎永濯    五節句美人図 落合芳幾〟  ☆ 明治八年(1874)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明治八年刊)    小林永濯画『報国百人一首』一冊 鮮斎永濯・孟斎芳乕画図 高畠藍泉編 山中市兵衛板〔漆山年表〕     ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇歴史戦記(明治八年刊)    鮮斎永濯画    『上野戦争実記』 二冊 永濯画 高畠藍泉輯 文永堂版    『明治太平記』初-八編 鮮斎永濯画 桜斎主人・村井静馬編 延寿堂版   ◇翻訳翻案(明治八年刊)    鮮斎永濯画    『耶蘇一代弁妄記』三編 鮮斎林永濯画 田島象二著 任天社版   ◇伝記(明治八年刊)    鮮斎永濯画    『近世報国百人一首』一冊(口絵)鮮斎永濯・(肖像)孟斎芳虎画 転々堂藍泉編 政栄堂版    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇実録(明治八年刊)    小林永濯画『上野戦争実記』二冊 鮮斎永濯画 高畠藍泉編 文永堂版〔目録DB〕    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(国文学研究資料館)    小林永濯画    『小学掲図教授法』   鮮斎永濯 文部省編  書学教館版    『復古夢物語』四-五編 鮮斎永濯 松村春輔著 文永堂版    『近世紀聞』 五-六編 鮮斎永濯 染崎延房著 金松堂版  ☆ 明治九年(1875)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(明治九年刊)    小林永濯画『茗壺図録』二冊 図写小林永濯 奥玄宝著〔目録DB〕    ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇歴史戦記(明治九年刊)    鮮斎永濯画    『明治太平記』九-十三編 鮮斎永濯画 村井静馬編 延寿堂版    『復古夢物語』六-八編  鮮斎永濯画 松村春輔著 文永堂版  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(国文学研究資料館)    小林永濯画    『春雨文庫』初編   永濯画   松村春輔著 大島屋版    『近世紀聞』七-八編 鮮斎永濯画 染崎延房著 金松堂版  ☆ 明治前期    ◯「【当時一品】名誉博覧会」明治前期刊(『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)   〝日本橋ノ三道 みぎも左りもお好みしだい       佐瀬得所・鮮斎永濯・小金井芦洲・鶴沢勇造・中村翫雀〟    〈この番付の刊年は明治七年と推定される。根拠は下掲本HP「浮世絵事典」の「浮世絵師番付」参照のこと〉     浮世絵師番付「☆明治前期」参照  ※◎は判読できなかった文字   ◯「名家見立鑑」発行人・鈴木繁 明治前期刊(『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)   〝当画屋新治郎    (見立ての文字判読できず)    小梅  鮮斎永濯(明治23年(1890)没)    福井丁 柴田是真(明治24年(1891)没)    浅クサ 淡島椿岳(日本画家・梵雲庵淡島寒月の父。明治22年(1889)没)    米沢丁 小林清親(大正4年(1915)没)    ◎◎丁 荒川国周(明治33年(1900)没)    浅クサ 松本芳延(明治23年(1890)没)    神田  月岡雪貢(切金砂子師、月岡儀兵衛。没年未詳)    本郷  猩々暁斎(明治22年(1889)没)    〈この番付は明治十年代のものか。小梅は向島の村名〉    ☆ 明治十年(1877)  ◯ 内国勧業博覧会(明治10年(1877)8月21日~11月30日・於上野公園)      ◇『明治十年内国勧業博覧会出品目録』1 内国勧業博覧会事務局   (国立国会図書館デジタルコレクション)    〝第二区(製造物)第九類(衣服宝玉及装飾)     扇 親骨象牙珊瑚青貝象眼、中骨牛骨、裏花鳥画 榑正町 林善兵衛 堀留町 鮮斎永濯       (出品者)榑正町 井上利兵衛   ◇『明治十年内国勧業博覧会出品目録』4 内国勧業博覧会事務局    (国立国会図書館デジタルコレクション)    〝追加 第二区 第五類     錦絵 鶏・鳩 画 小林秀次郎 彫 山室◎◎ 摺 長野金蔵        楠将監夜廻 画 小林秀次郎 彫 渡辺栄蔵 摺 山中孝次郎        日本武尊 摺 中島久蔵        高名人物三名 画 小林秀次郎 彫 政次郎  摺 藤太郎       (出品者)吉川町 松木平吉      ◇『明治十年内国勧業博覧会出品解説』山本五郎纂輯    (国立国会図書館デジタルコレクション)     〝第三区 美術 第二類 書画     小林永濯 鮮斎永濯 彩画絹額 堀留町三丁目      安政二年狩野元信ノ苗裔ナル狩野永悳ノ門ニ入リ、二十余年画法ヲ学ブ。着色術ハ一ニ師伝ニ拠     ルト雖モ、其ノ他ノ旧套ハ悉ク之ヲ脱却シ、意ヲ写生ニ注ギテ専ラ本邦固有ノ画法ヲ研究ス。遂     ニ世人ノ錯愛ヲ被リ、別ニ一機舳ヲ開クノ称タリ〟     錦絵 高名人物 小林秀次郎(小林永濯)(出品人)山本平吉     錦絵 鶏・鳩 小林秀次郎(小林永濯) (出品人)林吉蔵   ◇『内国勧業博覧会出品雑誌』田中寿嗣編 墨水社 明治十年十一月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)     〝美術館     神武天皇 日本武尊 御像画額二面 製出 洋(ママ)斎永濯 価金百三十円〟   ◇『内国勧業博覧会委員報告書』p267 内務省勧商局 明治12年5月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)    〝出品々評     東京府 鮮斎 神代絵ノ額ハ其服飾等百鬼夜行ノ変体トモ謂フベシ。然レドモ必ズ出所アラン〟    ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇歴史戦記(明治十年刊)    鮮斎永濯画『明治太平記』十四編 鮮斎永濯画 村井静馬編 延寿堂版    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇往来物(明治十年刊)    小林永濯画『開化千字文』一冊 鮮斎永濯画 松村春輔作 文堂板〔目録DB〕    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十年刊)    小林永濯画『春廼雁可袮』1-2編 口絵・挿絵 鮮斎栄濯 松村春輔 弘書堂(5月)    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(国文学研究資料館)    小林永濯画    『春雨文庫』二編 永濯画   松村春輔 大島屋    『近世紀聞』九編 鮮斎永濯画 染崎延房 金松堂  ☆ 明治十一年(1878)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇歴史戦記(明治十一年刊)    鮮斎永濯画『明治太平記』十五-十九編 鮮斎永濯画 村井静馬編 延寿堂    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(国文学研究資料館)    鮮斎永濯画『近世紀聞』十編 鮮斎永濯画 染崎延房 金松堂    ◯『懐中東京案内』二編 福田栄造編 同盟舎 明治十一年十月刊     (国立国会図書館デジタルコレクション)   (「廿三 有名の画家」の項)   〝和画  菊地容斎   於玉ヶ池    和人  松本楓湖   浅草諏訪町    今様  柴田是真   浅草上平右エ門町    浮世画 猩(ママ)々暁斎 湯島四町目        大蘇芳年   土橋丸屋町        鮮斎永濯   上槙町        豊原国周   上野町一        一立斎広重  京橋弓町        孟斎芳虎   神田須田町        山嵜年信   浅草北富坂町        楊洲斎周延  上野北大門町〟  ☆ 明治十二年(1879)    ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』)   ◇合巻(明治十二年刊)※角書は省略    鮮斎永濯画    『格蘭氏伝倭文賞』初編(画)鮮斎永濯(著)仮名垣魯文 辻岡文助板〔東大〕                  「出版御届明治十二年七月十七日」             二編(画)鮮斎永濯(著)仮名垣魯文 辻岡文助板〔東大〕                  口絵 国政補助「出版御届明治十二年七月十七日」   ◇翻訳・翻案(明治十二年刊)    鮮斎永濯画    『哲烈禍福譚』八巻八冊 永濯画 宮島春松訳述  大盛堂    『格蘭氏伝』 三編九冊 永濯画 仮名垣魯文和解 金松堂   ◇歴史戦記(明治十二年刊)    鮮斎永濯画    『明治太平記』二十-二十一編 鮮斎永濯画 村井静馬編 延寿堂   ◇翻訳・翻案(明治十二年刊)    鮮斎永濯画    『哲烈禍福譚』八巻八冊 永濯画 宮島春松訳述  大盛堂    『格蘭氏伝』 三編九冊 永濯画 仮名垣魯文和解 金松堂  ◯『現今書画人名録』高崎脩助編 椿窓堂 明治十二年三月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)〈浮世絵師以外は浮世絵と縁のある画人〉   〝画家之部  柴田是真  浅草上平右衛門町          松本楓湖  浅草〟   〝浮世画之部 惺々暁斎  湯島四丁目          鮮斎永濯  掘留町二丁目          大蘇芳年  土橋丸屋町五番地          豊原国周  上野町          進斎年道  猿楽町          一立斎広重 京橋弓町          孟斎芳虎  神田須田町四番地          楊洲斎周延 上野北大門町十一番地          梅堂国政  長谷川町〟  ◯「東京名誉二個揃」(番付・明治十二年夏、秋刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝一流 風画 小梅   鮮斎永濯〈小林永濯、本所小梅町住〉    シヤシン 真画 中ヲカチ丁 松村兼〟〈写真師〉    ☆ 明治十三年(1880)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明治十三年刊)    小林永濯画『万物雛形画譜』初二編二冊 画工鮮斎永濯 音川安親編 江藤喜兵衛板〔漆山年表〕     ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇歴史戦記(明治十三年刊)    鮮斎永濯画    『明治太平記』二十二・三編 鮮斎永濯画 村井静馬編 延寿堂   ◇伝記(明治十三年刊)    小林永濯画    『現今英名百首』一冊 永濯画 真亭逢多編 宝文閣               見返し「鮮斎永濯画」(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」画像)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」明治十三年刊(国文学研究資料館)    小林永濯画『近世紀聞』十一編 鮮斎永濯画 染崎延房著 金松堂  ☆ 明治十四年(1881)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(明治十四年刊)    小林永濯画    『万物雛形画譜』三-四編 鮮斎永濯画〔漆山年表〕     『近世奇聞』   十二編 小林永濯画 染崎延房撰 辻岡文助板〔漆山年表〕     〈〔目録DB〕明治十五年刊とする〉    ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇歴史戦記(明治十四年刊)    鮮斎永濯画    『明治太平記』二十四編 鮮斎永濯画 村井静馬編 延寿堂   ◇伝記(明治十四年刊)    鮮斎永濯画    『新聞記者奇行伝』初編一冊 永濯画 細島晴三編 墨々書房    『現今英名百首』 一冊 鮮斎永濯画 真亭逢多編 京都 近藤太十郎     (早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」より)  ◯『明治文雅都鄙人名録』岡田霞船編 聚栄堂 明治十四年四月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝画 小林永濯 秀次郎 南葛飾郡請地村八百七十三番地〟     浮世絵師 人名録(『明治文雅都鄙人名録』)  ☆ 明治十五年(1880)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明治十五年刊)    小林永濯画『万物雛型図譜』五編 鮮斎永濯 武田伝右衛門〔漆山年表〕    ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇伝記(明治十五年刊)    小林永濯画『明治名人伝』初編一冊 永濯画 岡大次郎編  ◯『明治文雅都鄙人名録』岡田霞船編 聚栄堂 明治十五年五月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝画 小林永濯 秀次郎 南葛飾郡請地村八百七十三番地〟    〈明治14年版人名録と同じ〉    ☆ 明治十六年(1883)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇戯作小説(明治十六年刊)    小林永濯画『佳味句数籠』十編十冊 永濯画 大河内八郎編 玉林堂  ◯『龍池会報告』第壱号 明治十六年十月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   「第一回巴里府日本美術縦覧会記事」    〈明治十六年六月、日本美術の展覧会がパリで開催される。それに向けて龍地会が選定した作品は、狩野・土佐・四條・     浮世絵を中心に、新画五十一幅、古画の二十二幅の合計七十三幅。そのうち浮世絵に関係ある作品は以下の通り〉    〝新画    河鍋暁斎  龍頭観音図  柴田是真  藤花ニ小禽図    小林永濯  少婦戯猫図  渡邊省亭  雪竹ニ鶏図    橋本周延  美人泛舟図  久保田米仙 宇治秋景図    中井芳瀧  婦女観花図〟    〈東京・京都の画家から三十余名を選抜して作画(全て懸幅)を依頼、それを榛原直次郎がすべて表装して送り出した〉   ☆ 明治十七年(1884)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明治十七年刊)    小林永濯画『温故年中行事』一冊 鮮斎永濯画 松崎半造〔漆山年表〕    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」明治十七年刊(国立国会図書館)    小林永濯画『鮮斎永濯画譜』初編 鮮斎永濯 錦栄堂(大倉孫兵衛)(3月)    ☆ 明治十八年(1885)  ◯ 第一回 鑑画会(明治十八年九月開催・於両国中村楼)   (『明治期美術展覧会出品目録』より)    小林永濯 僧祐天夢に不動を見る図 一等賞〈翌年の第二回展覧会目録に受賞とあり〉    歌川広近 秋景山水・伯夷叔斉    三島蕉窓 鳶・猫・葡萄・遊女    尾形月耕 仏師運慶の図    ◯『東京流行細見記』(登亭逸心撰・清水市太郎編・国立国会図書館近代「デジタルライブラリー」)   (当時の諸職芸能人や専門店を吉原細見に擬えて序列化した戯作)
    「東京流行細見記」「浮世屋画工郎」    〝(暖簾の文字)「錦」浮世屋絵四郎   (上段 合印「入山型に△」)〝日の出 新流行 大上々吉 大々叶〟〈細見全体での序列は十位〉     同  つきおか 芳 年 〈月岡〉     同  はやし(ママ)永 濯 〈小林〉     同  おちあい 芳 幾 〈落合〉     同  とよはら 国 周 〈豊原〉     同  とりゐ  清 満 〈鳥居〉     同  あんどう 広 重 〈安藤〉     同  おがた  月 耕 〈尾形〉     同  あらゐ  芳 宗 〈新井。二代目芳宗〉   (中段 合印「入山型」)〝日々流行 上々吉 大繁昌〟〈細見全体での序列は十三位〉     同  いねの  年 恒 〈稲野〉     同  うた川  国 政 〈歌川〉     同  やうしう 周 延 〈楊洲〉     同       年 方 〈(水野)〉     同  かつ川  春 亭 〈勝川〉     同  あだち  吟 香(ママ)〈安達〉     同  こばやし 清 親 〈小林〉     同  うた川  豊 宣 〈歌川〉     同  うた川  国 峯 〈歌川〉     同  うた川  国 梅 〈歌川〉   (中段 合印「入山型」)〝日々流行 上々吉 大繁昌〟〈細見全体での序列は十三位〉     同       広 近     同       年 景     同       芳 藤     同       年 参     (以下、禿(かむろ)と遣り手は省略。本HP「浮世絵用語」【う】の「浮世絵師番付」参照のこと)    〈明治八年(1875)、平民苗字必称義務令なる法令が出され、苗字を名乗ることが義務づけられた。これを受けたものと    思われるが、浮世絵師の間では、歌川などの画姓を従来通り使う人と、新たな苗字を画姓として使う人と、対応が分    かれたようである〉  ☆ 明治十九年(1886)  ◯ 第二回 鑑画会(明治十九年四月開催・於池之端松源及び蓬萊亭)   (『明治期美術展覧会出品目録』より)    小林永濯 僧祐天夢に不動を見る図(第一回大会で一等賞受賞)    ◯ 東洋絵画共進会(明治十九年四月開催・於上野公園)   (『東洋絵画共進会出品目録』滝川守朗編・今古堂・五月刊)    小林永濯 天孫臨降ノ図・風神    狩野派 号永濯 小林秀二郎 四十四年 南葛島郡小梅村三百三十五番地  ◯『東洋絵画共進会論評』(清水市兵衛編・絵画堂刊・七月刊)    銅賞 小林永濯   〝小林永濯の風神に猿田彦は兼て評せし如く該区中一等とも云ふべく染法筆法申分なし〟  ☆ 明治十年代(1878~)    ◯「明治年代合巻の外観」三田村鳶魚著『早稲田文学』大正十四年三月号(『明治文学回想集』上83)    〈鳶魚は従来の整版(木版)合巻を江戸式合巻と呼び、明治十五年から登場するという活版の合巻を東京式合巻と呼ん     で区別している〉   〝(東京式合巻)清新闊達な芳年の筆致は、百年来の浮世画の面目を豹変させた。彫摺りも実に立派であ    る。鮮斎永濯のもあったが上品だけで冴えなかった。孟斎芳虎のは武者絵が抜けないためだか引立ちが    悪く、楊州周延のは多々益(マスマ)す弁じるのみで力弱く、桜斎房種もの穏当で淋しく、守川周重のもた    だ芝居臭くばかりあって生気が乏しい。梅堂国政と来ては例に依って例の如く、何の面白みもなかった。    やはり新聞の挿画を担当する人々の方が、怜悧な往き方をするので際立って見えた。その代り芳年まが    いを免かれぬ『絵入自由新聞』の一松斎芳宗、『絵入朝野新聞』の香蝶楼豊宣、それにかかわらず一流    を立てていたのに『絵入新聞』の落合芳幾、『開花新聞』の歌川国松がある。尾形月耕は何新聞であっ    たか思い出せないが異彩を放っていた。東京式合巻は主として新聞画家から賑わされたといって宜しか    らろう〟    ☆ 明治二十三年(1890)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明治二十三年刊)    鮮斎永濯画『永濯漫画』二編一冊 鮮斎永濯画 大槻如電序 松崎半造版〔漆山年表〕  〇『新編東京独案内』伊藤栄次郎 金麟堂 明治23年4月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   (書画有名家居所)   〝松本楓湖(画)浅草栄久町    鮮斎永濯(画)向嶋小梅村    柴田是真(画)浅草区平右衛門町〟  ◯『至極重宝』森知幾編 内田書店 明治二十三年五月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   (「東京著名書画及詩文家住所姓名」の項)   〝柴田是真 画 浅草上平右衛門町十一番地    鮮斎永濯   小梅村〟    ☆ 没後資料    ☆ 明治二十六年(1893)     ◯『浮世絵師便覧』p228(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝永濯(タク)    鮮斎と号す、狩野家の門人、小林氏、俗称秀次郎、画本団扇画、錦画、明治廿三年死〟    ☆ 明治二十七年(1894)    ◯『名人忌辰録』下巻p14(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝小林永濯 鮮斎    称秀次郎、狩野永悳門、後一派の画風を興す。明治廿三年五月廿七日歿す、歳四十八〟    ☆ 明治二十八年(1895)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明治二十八年刊)    鮮斎永濯画『温古年中行事』一冊 鮮斎永濯画 松嵜半造版〔漆山年表〕     〈国立国会図書館デジタルコレクション画像あり〉  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯ 明治美術会展(創立十年記念・明治三十一年三月開催・於上野公園旧博覧会跡五号館)   (『明治期美術展覧会出品目録』所収)    鮮斎永濯 弁慶 水彩画    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p86   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   ◇「新聞挿画の沿革」1p86   〝 芳年氏と相並んで一方の頭目と仰がれたのは鮮斎永濯氏である。氏は通称小林秀次郎、名は徳宣(トクセ    ン)、幼時狩野(カノ)永悳(エイトク)の門に入(イ)り弱冠にして大老井伊家のお抱へ画師となつた事もあるが、    夫れより後諸名家の筆法を学んで一機軸を出すい至つたのである。同氏が始めて新聞挿画の筆を執つた    のは私も創業に与(アヅカ)つて居た絵入朝野で、その創刊の準備中挿画は誰に頼まうかとの問題が起つた    時一つは歌川国松氏に、今一つは是非とも永濯氏の筆を煩はしたいとの社中の希望であつた。其折此使    に当つたのが私で、小梅の宅を訪ひ懇々と依頼した処が、こちらの指名する彫刻師に彫らせるならば書    いて見ようとの承諾を得て其後下絵や画料を携へて屡々永濯氏を訪問した事があつたが、其の都度取次    に出られたのが今の小林永興(エイコウ)氏であつた事を、十数年後に至つて永興から聞かされ、アゝさうで    あつたかと坐(ソゾ)ろに懐かしく思つた事があつた。茲で又金銭問題を持出せば、其頃の挿画の画料が    芳年永濯の一流どころで一枚一円、第二流になると三四十銭で五十銭といふのが最高の相場であつた。    昨年京都から久し振りに上京して拙宅を訪れた歌川国松氏の直話(ジキワ)に拠ると、同氏が明治十三年ご    ろ有喜世新聞の挿画を一日二個づゝ書いて居た時の報酬が月給制度で一ヶ月十二円であつたとの事だ、    又同氏の話にやはり同じ有喜世新聞の表紙画として、地球図の中に諾冊(ダクサツ)二尊が立つて居るとこ    ろの絵を永濯氏に頼む事となり、其使を命じられたのが国松氏であつたが、社主の寺家村(ジケムラ)氏が    是れでよからうと包んで出した目録が金二十疋(五十銭)それは余り少なからうと再三押問答をしても    聞入れぬので、たうとう国松氏が自腹を切り一円にして持つて行つたとの事である。     永濯氏の筆は本画から出た丈(ダケ)あつて品も備はり且丁寧で、人物の容貌などは如何にも其人らし    く、殊に背景の樹木や山水は浮世絵派の及ばぬ処があつて、一点も投(ナゲ)やりに描いた処がなく、腕    はたしかに一段上だつたに拘はらず、芳年氏の如き奇抜な風もなく又芳幾氏の如き艶麗な赴(オモム)きに    乏しかつた為めに、俗受けを専らとする新聞の挿画としては気の毒ながら評判に上(ノボ)らず、芳年氏    の為めに、稍や圧倒せられた気味があつた。併し私の敬服したのは他の画家中には記者の下画に対して    人物の甲乙の位置を転倒したり、或は全く其の姿勢を変へたりして、下絵とは殆ど別物の図様(ヅヤウ)に    書き上げる人が多かつたのに、一人永濯氏のみは魯文翁や私の下絵通りに筆を着けて少しも其赴きを変    へなかつた一事で、是れは氏の筆力が自在であつた証拠だと思はれる。只一度私が生来左利きの為めツ    イ間違へて左の手で楊枝を使つて居る人物を書いた時「これは左利きになつて居りますから楊枝を右の    手に持換へさせました」との断り書(ガキ)を添へて其絵を送られた事があつた〟     ◇「(八)新聞挿画の沿革」1p88   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期に    属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟    ☆ 昭和元年(1926)以降    ◯『狂歌人名辞書』p29(狩野快庵編・昭和三年(1928)刊)   〝鮮斎永濯、通称小林秀次郎、名は徳宜、江戸の人、始め狩野永悳の門に入り、後ち諸家の筆意を学びて    一機軸を出す、明治初年に読本草双紙は多く此人の画く所にして、十年以後は新聞紙の挿画にも筆を執    り、又日本風俗の版画を描きて外人の喝采を博せり、明治二十三年五月廿七日歿す、享年四十八〟    ◯『明治百話』「明治のいろ/\話」上p235(篠田鉱造著・原本昭和六年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝 待合オタコに絵具皿     (新橋の芸者屋三浦屋の記事、上略)     永濯一門は申すまでもない。永洗洗耳といった連中で、都新聞の挿画画家でした。永濯画伯はことに    絵馬の妙手で、堀の内に『加藤清正』と『日蓮虚空像』が献(アガ)っています。その門下の永洗君が洒    脱の人でした。市松模様が好きでした。この人は華村さんに道楽を仕込まれて、よく遊んだ人ですが、    芸妓は物を言わぬ妓(コ)という注文で、待合の女将(オカミ)もこれには閉口して、「唖の芸妓はありませ    んよ」とよく言っていました。芸妓に饒舌(シヤベ)られると、口が聞けない、世間話をしらないから、相    槌が打てない。世辞気のない、ムッツリの芸妓がいいという注文でした。性来酒を呑まない、シラフの    芸妓買い、コレには一番困るでしょう。鈴木華村君は道楽の大家で、梯子上戸ですから、ソレからソレ    と酔い廻る。飲み廻るんでなくって、酔い廻るという人でした。妻女は常磐津のお師匠さんで、先生の    酒には弱っていました〟    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝永濯    【生】天保十四年(1843)  【歿】明治二十三年(1890)五月二十七日-四十八    【画系】狩野永悳門人    【作画期】文久~明治    藤原姓、名は徳直、霞堂と号す(以上、肉筆の落款に拠る)、小林氏、俗称秀次郎、鮮斎・夢魚・梅花    堂などの号あり、父は三浦屋吉三郎といひて新場の魚問屋なり、永濯は狩野永悳(中橋大鋸町住)に学    びて後ち、将に井伊家に仕へむとせしが、父の急病にあひて沙汰止みとなりし由、また同門の先輩狩野    永洲の家に養子となりしが、故ありて復歸せり、其の頃暫く彼は永洲を名乘りしことありと。(『浮世    絵新誌』第十三號所載、島田筑波氏の説に拠る)    彼が独立後の居所に、初め中橋上槙町なりしが、其が体質虚弱の爲め南葛飾郡請地村に移りしも、病に    罹りて更に今戸町に転じ、其処にて遂に他界せり。画く所のもの、肉筆の外に『鮮斎永濯画譜』・『萬    物雛形画譜』及び雑書の挿画などあれど、錦絵は比較的少数なり、肉筆は屡ば外國人の需めに応じて画    きしことありとぞ〟    ◯『浮世絵年表』p221(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   「天保一四年 癸卯」(1843)   〝鮮斎永濯生る。(小林氏、明治二十三年五月二十七日歿す。行年四十八歳)〟  ◯「浮世絵雑考」島田筑波著(『島田筑波集』上巻・日本書誌学大系49)   △(「鮮斎永濯」の肉筆)p359   〝永濯が贅沢という変名で書いた美人絵の肉筆(中略)その図は三升の浴衣を着た美人が、蚊帳から外へ    出ようとしてゐる処のあぶな絵式のものであつた。表装もかなりこつたもので、かまはぬと云ふ紅地の    白ぬきで、舳には牡丹の蒔絵をしたどこまでも成田屋好みのものであつた。そして此の絵は、深川木場    の材木商で町田本次郎と云ふ人の好みで書かれたもので、この湯上がりの浴衣美人は、もと吉原の宝来    楼のおいらんで、本名をおまつと云つた妾の写生だそうだ。この絵よりも実物の方がもつて愛嬌のあつ    た女だつたと聞いている〟   〝(堀の内祖師堂の加藤清正像)この額は永濯野生まれた新場から奉納したもので、杉板に自から箔を置    て極密の彩色を施したもので寸法から云つても九尺からの大さがあつて、永濯の作品としてはこれほど    のものは他には見当たらぬ。この額を奉納したのは永濯の若い時で、狩野派から浮世絵風にかはらうと    するときの作品である〟   〝(新場稲荷に奉納した額)源義家と義貞を描いた、例の衣の袖はほころびにけりの故事を画いたものが    あつたが惜しいことにこの額は震災で焼けてしまつた。これには霞堂と云ふ落款があつた。永濯に霞堂    または永洲の別号のあつたことは誰れも知らない。これは新場の生まれた家から別れて日本橋の上槙町    に一戸を構へた頃の名前である〟   〝元来永濯家は新場の三浦屋と云ふ魚屋で、親父は新場の吉と云つた人で、永濯は生まれながらの職人気    質の人である〟    〈子供の頃から絵が好き、家業には向かないと案じた父親は、狩野法印宮内卿永徳に入門させた。修行が成って彦根井伊家     のお抱え絵師に内定したが、中風を患い出仕できなくなって話は立ち消えに。一時狩野の弟子筋の家に養子に行ったものの、     その家は代々眼を病むとのことで出てしまう。そして上槙町に世帯を持つ〉   〝この時代に霞堂または永洲と名乗つたことがある。その時分に百鬼夜行の錦絵の板下をたのまれて画い    て問題が起こつた。それから永濯は浮世絵に変じてしまつたのである。この錦絵四五枚出版されてゐる    が、これが永濯の版画のはじまりである。そのころ狩野派では錦絵の板下などは、職人の仕事として卑    しめていたので意地の悪い兄弟子があつて大分やかましい問題が起り、永濯を破門するとかしないとか    の騒ぎになつたのを、猩々狂斎が永濯に同情して     狩野派の画と云へば、とかく御手本通りにしか画けないが、ソレでは画かきとしての本当の修行にな     らぬ。板下であらうとなんであらうと、自分の意匠で画くのに差支えない筈だ    と肩を持つての扱ひに、永濯はそれ以来狂斎に親しく交はるやうになり、なにかと狂斎の引立てをうけ    て浮世絵に這入つてしまつたのである〟      ◯『こしかたの記』p185(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   「口絵華やかなりし頃(一)」   〝 永洗の師小林永濯は狩野派から出たと云うが、明治八、九年頃に新聞の社会種を錦絵にして売り出す    ことが流行して、筆者はもっぱら芳年、芳幾などと、永濯もこれを画いている。芳年は錦昇堂、芳幾は    具足屋、永濯は政栄堂が板元で、三者それぞれの特色を見せてはいるが、画風はやや硬いけれどさすが    に永濯のものは卑しくない。肉筆の制作には好んで日本神話に取材したものが多く、人物の肉色にいつ    も代赭の隈取をするのが特色になっていた〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「世田谷区」正法寺(松原町二ノ四九四)真宗本願寺派(旧京橋築地)   〝小林永濯(画家)名徳宜、通称秀次郎、鮮斎と号す。狩野永悳に学び別に一家をなす。門人に富岡永洗、    村田永輝あり。明治二十三年五月二十七日歿。年四十八。大行院徳宜釈永秀居士〟    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p86(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)   〝永濯(えいたく)    小林徳直、通称秀次郎、鮮斎、霞堂を号とした。江戸の人、父は三浦吉三郎という日本橋の魚問屋であ    つたが、幼時より絵を好み、狩野永悳の門に入つた。幕末より明治中期の歿前に至るまで、肉筆画に彩    管を揮う一面、錦絵、絵本、のちには新聞雑誌の口絵も描いた。歌川派の末流で占められていた明治の    浮世絵界で、永濯の地位は極めて特異性のあるものであつた。天保十四年生れ、明治二十三年、四十八    才で歿している〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    作品数:3点    画号他:鮮斎永濯・霞堂・夢魚・永濯    分 類:合巻1・和歌1・往来物1    成立年:明治7・10・12年序(3点)
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