☆ 安政三年(1774)
◯『時雨廼袖』続編巻の三(平亭銀鶏編・安政三年(1774)記)〔『江戸叢書』巻の十 p353〕
〝安政三丙辰の三月十五日、寺島新田に住居しける、書林良助を尋ねけるに、折能在宿なりければ、兼て
頼置たりし蜀山翁の随筆三十幅の筆工を催促に及び、夫より愚作の狂文玉子のからの板下を出し彫刻の
相談など話し居ける処へ、浮世絵師英泉の遺弟森川英喜といへる画工来れり、此者は大阪難波新地の産
にて、おのれ先年浪花遊歴の折から、煎茶家花月庵毛孔の家にて、初て面会を得、それより引続き懇意
せしが、おのれ江戸へ帰りし後も、静斎英一と同道にて余が茅屋を訪ひ呉しことあり、其後久々打絶安
否も聞ざりし処、今計ずも此処にて再会を得たれば、互に無事を祝して難談に及び(云々)〟
〈英泉の弟とあるが、江戸生まれではなく大坂難波の産とある。しかしなぜ江戸と大坂との別れて暮らしているのだろ
うか、二人の関係は今ひとつ分からない。銀鶏とは大坂で懇意となり、以来、江戸に出て来たときは、静斎英一とと
もに銀鶏宅を訪れたという。銀鶏の大坂滞在は天保五年(1834)から一年間、また英一の没年は嘉永元年(1748)であ
るから、英喜と英一の銀鶏宅訪問はその間のこととなる〉