Top              『新燕石十種』            浮世絵文献資料館    新燕石十種               あ行                  ☆ あんど かいげつどう 懐月堂 安度  ◯『花街漫録正誤』④191(喜多村筠庭著・成立年未詳)   〝奥州之図、このうつし絵は、寛文の頃、茗荷屋奥州といへる遊女のすがたにて、懐月堂【元和中浅草に    住ひしける人にて、御府内浮世絵師のはじめなり】といふ人の筆也云々、(中略)(挿絵に「奥州之図」    「花明園蔵」「日本戯画懐月堂安度図之」とあり)    〔正誤〕懐月堂ヲ元和中ノ人ニテ、御府内浮世絵師ノ始トハ何ヲ以テイフゾ、滅法界云モ程ノアルモノ     也、コノ人ハ奥村正信ラト同時ニテ、享保ノ末ニ行ハレタリ、板本ハナク、濃ク彩リタル女画往々ア     リ、下手ナル画ナリ、上ニ出タル菱川ノ印アル画モ、コレガ筆ト見ユ〟    〈〔正誤〕の前の文が『花街漫録』の本文。〔正誤〕以下が喜多村筠庭の批評。「下手ナル画ナリ~」は懐月堂を指す     のではなく、原本を模写した『花街漫録』所収の插画のこと〉    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶  ◯『花街漫録正誤』④194(喜多村筠庭著・成立年未詳)   〝安聡袖裏、【〔正誤〕衣服トカ何トカ有ベキ事也〕一蝶画、文山之讃【絹地竪八寸二分、横一尺六分】    元禄の頃、安聡という豪富の商家あり、紀文、一蝶、其角、文山などゝ友たり、常に此里に遊びて、京    町一丁目三浦屋孫三郎が抱遊女若紫に深くむつびにけり、ある時、きぬ/\あしたいいとさむかりしを、    若紫がせつなる心にや、是をとて、おのが小袖をいたしたるを、其儘着て帰りけるに、袖のせばさに、    白きかひねりを袂にはきて、安聡下着とはなしたる也、其頃、揚屋町海老や次右衛門が宅にて、一蝶、    かの下着の袂に、戯に墨絵を画きしかば、とりあへず、文山讃をぞなしたりける、こは古今集とものり    が歌、【君ならで誰にかみせん梅の花色をも香をもしる人ぞしる】といへるを含みて、香遠裳とかきた    るなるべし云々、    (「梅」の插画、「香遠裳」「北窓翁一蝶画」「竹谿」印あり)    〔正誤〕佐々木文山玄竜ガ弟ヲ文山ト号ス、九皐ガ話ニ云、兄弟トモニ、印章五ツ六ツニ不過、イツモ     同印也、文山ハ磊落ニシテ何ニテモ書タル人なり、草双子、遊山船ノ額、鳰ト云浄ルリ本ノ序モ書タ     リ、然レドモ、文雅ハナシ云々、コノ書、竹谿ト云印、文山ナリヤシラズ、同袖裏、【竪八寸一分、     横壱尺二分】    〔正誤〕按ズルニ、一蝶ハ、仏師民部、村田半兵衛ラ三人、故アリテ流罪セラレシハ、元禄十一年十二     月ナリ、此時イマダ一蝶トハ名乗ラズ、宝永六年九月、御赦免アリテ帰リテヨリ、英一蝶ト、姓名ト     モニ改タリ、北窓翁ノ号モ晩年ニ付タル也、シカレバ、此絵、元禄中ノ画ニアラヌ事知ベシ、モトヨ     リ誰ガ衣服トモ知ガタキ(以下略)〟  ◯『翟巣漫筆』①附録「随筆雑記の写本叢書(一)」p7(斎藤月岑書留・慶応二年記)   〝七月十六日、朝四時より夕七時迄湯島霊雲寺画軸虫払、本堂に掲て拝せしむ、両界曼荼羅其外色々アリ、    涅槃像ハ中大のもの也、八十余軸を見たり、英一蝶筆釈迦文殊普賢絵三軸、探幽筆六十九才書滝見観世    音、草画、見事也〟  ◯『睡余操瓢』⑦附録「随筆雑記の写本叢書(七)」p7(斎藤月岑書留・明治三年頃)   〝雪旦子話       英一蝶、師宣か画る婦人の張り物する図の傍に柳を画て     洗濯の相手にたゝぬ柳哉  一蝶〟    〈雪旦子とは斎藤月岑の『江戸名所図会』の挿絵を担当した長谷川雪旦。月岑との関係は親密であった。     菱川師宣の画に、一蝶が柳の画と発句の賛を添えたのである〉  ◯『百戯述略』④226(斎藤月岑著・明治十一年成立)   〝正徳、享保の頃、羽川珍重、鳥居庄兵衛清信、西村重長、奥村政信、続て懐月堂安慶(ママ)、石川豊信等    が専に一枚絵画出し、梓に鏤めて世に行れ、彩色摺は紅と萌黄の二色に有之〟    ☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿  ◯『伊波伝毛乃記』⑥130(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   〝文化二年乙丑の春より、絵本太閤記の人物を錦絵にあらはして、是に雑るに遊女を以し、或は草冊子に    作り設けしかば、画師喜多川歌麿は御吟味中入牢、其他の画工歌川豊国事熊右衛門、勝川春英、喜多川    月麿、勝川春亭、草冊子作者一九等数輩は、手鎖五十日にして御免あり、歌麿も出牢せしが、こは其明    年歿したり、至秋一件落着の後、大坂なる絵本太閤記も絶板仰付られたり〟    〈読本『絵本太閤記』は、武内確斎作・岡田玉山画で、寛政九年から享和二年にかけて出版された〉  ◯『百戯述略』④226(斎藤月岑著・明治十一年成立)   〝寛政頃、鳥居清長巧者にて、専に行れ、歌川豊春、喜多川歌麻呂等も多分に画出し、勝川春章は歌舞伎    役者肖像を画き出し、門人多く、一枚絵多分に画き、世に被行申候、又其頃、東州斎写楽と申ものも、    似顔絵を画始候へども、格別行れ不申候〟    ☆ おうきょ まるやま 丸山 応挙  ◯『卯花園漫録』⑤252(石上宣続著・文化六年序)   〝丸山応挙に臥猪の画を乞ふものあり、応挙いまだ曾て野猪の臥たるを見ず。心に是をおもふ、矢背に老婆    あり、薪を負てつねに挙が家に来る、応挙婆に問ふ、儞野猪の臥たるを見たる歟、婆云、山中たま/\こ    れを視る、挙云、儞かさねて是を見ば、はやく我に知らせよ、篤く賞すべし、婆諾す。一月計ありて、老    婆が家のうしろなる竹篁の中に、野猪来りて臥を、婆これを見て大によろこび、京にはしり行て挙にこれ    を告ぐ、挙が云、儞まづかへれ、必しも驚すべからず、といふて、俄頃に酒食をたづさへ、門人一両輩を    将て矢背に至れば、野猪はなを竹中に臥したり、挙側筆を採て是をうつし、婆に謝して、其夜家にかへり、    其後これを清書して、工描既にとゝのふ。時に挙が家に鞍馬より来る老翁あり、この翁めづらしく来ぬ、    挙こゝろに臥猪の事をおもふ、側問て云、汝野猪の臥たるを見たるか、翁云、山中につねにこれを見る、    挙画する所の臥猪を示して云、此画如何、翁熟視する事やゝ久しくして云、此画よしといへども臥猪にあ    らず、是病猪也、といふ、挙おどろきて其故を問ふ、翁云、凡野猪の叢中ひ眠るや、毛髪憤起、四足屈蟠、    おのづからいきほひあり、僕山中にして病猪を見たる事あり、実に此画のごとし、挙はじめて暁て、翁に    臥猪の形容を問ふ、翁是を説くことはなはだ詳也、こゝにおゐて、挙さきの画をすてゝ、更に臥猪を図す、    工夫もつぱら翁が口伝によれり、四五日ありて、矢背の老婆来ぬ、挙さきに見たりし野猪を問へば、婆云、    あやしむべし彼野猪、その結朝竹中に死たり、挙是を聞て、いよ/\翁が卓見を感じ、ふたゝび其おとづ    れをまつに、一旬計を経て翁又来ぬ、挙後に図するところの画幅をひらきて、是を見せしむ。翁驚歎して    云、是真の臥猪也と、挙よろこびて厚く翁に謝す、其画もつとも奇絶也、今はを京師某に家にあり、挙が    画に心をもちゐし事斯のごとし【嘯風新話】、亦西定雅の話に、応挙わかゝりし時、馬の草をはむ所を図    せり、一老翁見て難じていふ、是盲馬也、挙云、其故如何、翁云、夫馬の草をくらはんとする、かならず    目を閉、これ草じに目を傷ん事をいとへば也、其馬叢中に鼻づらを入れながら、その両眼なを見ひらきて    ありき、盲馬にあらずして何ぞや、挙ふかく其説を感ず、抑この翁何人ぞ、野夫にも巧者ありとは、これ    らをやいゝつべき〟