Top            『続燕石十種』             浮世絵文献資料館
   続燕石十種              あ行                 ☆ あしくに あさやま 浅山 蘆洲    ◯『京摂戯作者考』①337(木村黙老著・成立年未詳)  (「浮世絵師」の項に所収)  〝大坂の人、俗称布屋忠三郎、蘭林斎門葉、蘭秀斎と言、後、狂画堂と改む、文政三年戊寅九月五日没、 下寺町遊行寺に碑有、釈順清、行年四十余〟    ☆ いっしゅう うらかわ 浦川 一舟   ◯『京摂戯作者考』①336(木村黙老著・成立年未詳)   (「浮世絵師」の項に所収)  〝浪華の人、上田公長門人にして、公佐と号す、当時、島の内周防町に住す、俗称播磨屋佐兵衛と云〟   ☆ いっしゅう はなぶさ 英 一舟   ◯『一蝶流謫考』①345(涼仙老樵(山東京山)編・成立年未詳)  (「一蝶家譜之略」の項)  〝一蜩門人一舟【養子、続師家、名信種、等窓翁と号す、俗称弥三郎、明和五年正月廿五日没、二本榎 顕乗院に葬】〟    ☆ いっすい はなぶさ 英 一水   ◯『一蝶流謫考』①345(涼仙老樵(山東京山)編・成立年未詳)   (「一蝶家譜之略の項」)   〝一舟門人一水【後嵩之と改、本姓佐脇、名直賢、字子岳、昇々観、中岳堂、東宿、一翠斎の諸号あり、 俗称甚内】〟   ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶   ◯『只今御笑草』③248(二代目瀬川如皐著・文化九年三月序)   (「山猫まわし 本名傀儡子」の項)   〝宝暦斎の句に、春雨や楽屋をかふるくわいらいし、その出立は能人の知れる者、英一蝶の画に見へて、 寸分違はぬもの也〟   ◯『一蝶流謫考』〔続燕石〕①343(涼仙老樵(山東京山)編・天保八年記事)   〝英一蝶は、承応元年壬辰、摂州に生る。姓は藤原、多賀氏、父は医師也、名を伯庵と云、一蝶十五歳の 時、父に随ひて東都に来り、狩野安信を師として画を学び、名を信香、一に安雄といへり、幼名猪三郎、 後治左衛門、或は助之進といふ、又朝潮の名あり、別に翠蘘翁、牛丸【幼名といふは非也】暁雲【俳号 也】旧草堂、一蜂閑人、隣松庵、隣濤菴、北窓翁等の諸号在り、(一蝶の印譜あり、略)一蝶、書を佐 々木玄竜【文山と号す】に学び、後一家を風をなす、俳諧は其角の門人也、俳号暁雲、或は和央といへ り、仏師民部、村田半兵衛等を花街の友とす、音声よくて、唱歌をもなせしゆへ、葉歌といふ物の作多 し、洞房語園にのせたるかやつり草といふ葉歌も、一蝶が作也、こゝに元禄十一年戊寅十二月、【元禄 八年とするは非也】罪ありて謫せらる、【江戸呉服町に一丁目に住せし時也】時に年四十七、謫居に在 りし事【伊豆国三宅島】十二年、宝永六年己丑九月、大赦に寓ふて帰郷せり、其頃は、深川霊巖寺のう しろ【俗に海辺新田と云】宜雲寺といへるに寄食せしよし、一蝶が筆、此寺に残れり、故に、俗呼て一 蝶寺といふ
    〔頭書〕斎藤長秋が江戸名所図絵巻之七曰、一蝶寺、海辺大工町新田藪の内に在り、宗蒼山宜雲寺と      いふ、元禄七年甲戌創建の梵園にして、卓禅和尚開山たり、英一蝶翁、曾て当寺に寓居す、其頃の      すさみに、仏殿、僧房の屏障、悉く翁の画也、故世俗一蝶寺と字す、以上
   そも/\英一蝶といへるは、帰島の後の名也、一説に、母の名を花房といひすゆゑ、英の名に作り、英 の文字より、一蝶と名つきたりといへり、世に英一蝶と落款したる画は、宝永六年以降の物也、宝永六 年は、今天保八年をさる事百二十六年也、一蝶、宜雲寺を去つて何れの所に住せしや、いまだその審な る説を得ず、享保九年甲辰正月十三日没す、年七十三、二本榎日蓮宗承教寺塔頭顕乗院に葬墳在り、法 名英受院一蝶日意、     辞世 まぎらかす浮世の業の色どりもありとや月のうす墨の空   一蝶が母は、一蝶島に在りし間、彫物師横谷宗珉の家に養はる、【宗珉が家、日本橋檜物町に在り】正 徳四年甲午三月晦日没す、法名本是院妙寿日量、【妙寿は剃髪の名也】
    一蝶が文藻    一蝶に葉歌の作多し、元禄六年板松の葉といふ三弦の曲譜に載せたる、しのゝめといふ小歌は、一蝶が    作也、洞房語園には、みじか夜の早歌【一名かやつり草】とて、是をのせたり、朝妻の作は、普く人の    知る所也【此曲松の葉にものせたり】宝永年間、吉原仲之町の茶屋爾来といひしものゝ作【写本】、よ    し原つれ/\草といふものに、かやつり作なンどの朝潮が歌こそ、また哀れなることこそおほかんめれ、    とあり、朝清水の記は、謫居中の作也、和漢の故事どもを引いでて書つらねたる文章を視れば、学力も    ありしと覚ゆ、    嵐雪撰、其帒【元禄三年板本】に句あり、     花に来てあはせ羽織の盛かな    暁雲      此句、其角が花つみといふ句集にも載たり     朝寐して桜にとまれ四日の雛    同      河津又野角力の図【大津絵也山東庵蔵】     大津絵にまけなん老の流れ足    一蝶トアリ      此外、自画讃の句ども、挙尽しがたし
   一蝶家譜之略     初祖   英一蝶     二代目  一蝶 名信勝、俗称長八     一蜩(テウ)【俗称百松、後源内、一説孤雲】     一蜩門人 一舟【養子、続師家、名信種、東窓翁と号す、俗称三郎、明和五年正月廿五日没、二本榎             顕乗院に葬】     一舟門人 一水【後嵩之と改、本姓佐脇、名直賢、字子岳、昇々観、中岳堂、東宿、一翠斎の諸号あ             り、俗称甚内】     一水門人 一蜂【明和九年七月六日、年六十六没、春窓翁と号す】     一蜂門人 高嵩谷                       以上、嵩谷蔵
    一蝶流謫(「竜渓小説」)
    「一蝶流謫」
    秘録の写     北條安房守掛り 【呉服町一丁目、勘右衛門店之者】多賀朝湖【酉ノ四十二歳】      元禄六年酉八月十五日入る、      是は御詮義之儀有之候に付、安房守宅より揚り屋へ入る    右者、元禄十一年寅十二月二日、三宅島へ流罪、御船手逸見八左衛門方ぇ渡す、     同人掛り    【本石町四丁目、茂右衛門店之者】 仏師民部【酉ノ四十歳】             【本銀町三丁目、次郎右衛門店之者】村田半兵衛【酉ノ三十歳】      同断八月十五日入る     右者、朝湖一件之者共御詮議之義有之、安房守宅より揚り屋へ入る、    右之者共、元禄十一年十二月二日、八丈島へ流罪、御船手逸見八左衛門ぇ渡     右之者共、此度依大赦、流罪御免に付帰着仕、元支配名主共へ相渡、      宝永六年丑九月
   【〔頭書〕涼仙曰、此書稿成て後、或家の秘記を見しに、一蝶が事記あり、左の如し、元禄十一寅年、     三宅島ぇ流罪、呉服町一丁目新道勘右衛門店之者、絵師多賀朝湖、此朝湖、今度常憲院様御法事に付、     遠島赦免、宝永六年丑八月廿一日申渡】
    涼仙案に、右三人之者、元禄六年酉八月十五日入牢、獄に在りし事出入五ヶ年、元禄十一年寅十二月     二日、流罪に所(シヨ)せられ【一蝶は伊豆の三宅ノ島阿古村に在し也】在島十年にして帰国す、しかれ     ば、家を離れて罪人たりし事凡十五年也、宝永六年帰国して、家に在りし事十五ヶ年にして、享保九     年甲辰正月十三日没せり、年七十三、二本榎日蓮宗承教寺塔頭顕乗院に葬墳在り、しかれば、右十五     ヶ年の間に筆を採りたるは、一蝶、或北窓翁など落款したる物也、僅に十五ヶ年の間に画たるもの、     障屏、巻幅の類、幾品在らん、茲を以て、世に贋作(ニセモノ)の多を知るべし
    伊豆三島の図     こゝに三島の絵図を挙て、一蝶が謫居【〔左注〕シマニヲル】の地を知らしむ(三五二、三五三頁図)
    一蝶島画之縮図       (*図は省略)     此画幅、今本町辺の富家に蔵す、嘗、亡兄醒翁模本を得て、山東菴に蔵す     (右図)【古画備考に、三谷氏某ニ、一蝶謫居ヨリ母ノモトヘ贈シ画ヲ蔵ス、謫居ノ趣ヲ細ヤカニ絵          ガキタルモノ也、元宗珉ノ家ニ遺リシトゾ、とあるは、この画のことなるべし】       (*図に〝初松魚からしもなくげ泪かな 牛麿〟の自賛あり)    一蝶が母は、流罪の後、横谷宗珉に養はる、    一蝶、三宅島より母の許へ、ふみに、かやうなる所に居るとて、ふみに添て贈りたる画也といひ伝ふ、     涼仙案に、朝清水記を見れば、此図は、一蝶島に来りたる最初の謫居なるべし、後には、歳ごろし     たしみふかゝりし紀文などやうの、富家の助けを得て、島に在りながらも、穀物、酒などの商ひをも     なしたるさま、朝清水の記にてもしらる、島にて絵もかきし事、同じ記に見ゆ、今世に島一蝶といふ     もの、是なるべし
    一蝶が源氏の絵    御留主居柳生主膳正殿、同心喜十郎事大野応介【年四十四歳】文政五年午九月廿五日、罪ありて、同年    十月廿五日、八丈島へ流罪、此者、八丈島の名主菊地某といへる者の家に、白き麻の婦人の帷子へ、墨    画にえ源氏の絵を画しを貰ひうけて、文政十年の春、江戸に在し婦の方へ贈りけるを、請求て分ち得る    ものは【墨画の極細なるもの也】     空蝉 夕霧 椎本 佐野肥前守     夕顔       牧野伊予守     鈴虫       酒井但馬守     小蝶       能勢靱負守     橋姫 浮舟    大島飛騨守     明石       平岡越前守     桐壺       村越伯耆守     須磨       中島三左衛門     榊        根岸九郎右衛門     若紫       関伝悦     箒木       菅沼林斎    以上十四図、所分十一人、各々蔵家為珍     文政十一丁寅年六月  成着記
    朝清水記
       「朝清水記」
    天保八年丁酉之秋八月七日       筆を京橋の山東庵に採る     涼仙老樵       追加  四季絵辞
        「四季絵辞」   ◯『筠庭雑録』②370(喜多村信節著・成立年未詳)   (「英一蝶 大仏師民部」の項)   〝一蝶は多賀伯庵といひし医師の子也、信香といひ、朝湖と号せし頃、仏師民部、村田半兵衛と三人ひと    しく、故ありて、元禄八年遠島に謫せらる、【竜渓小説云、民部、半兵衛、八丈島、朝湖は三宅島に流    さるといへり、南島雑話、三宅島の条、富賀明神本地、薬師堂十二神像、一蝶が筆也、一蝶此島へ流罪    によりて、此外にも筆跡多しといへり、又同書八丈島の条、宗福寺の薬師如来、大日如来は、法橋民部    作とあれば、これ又、民部こゝに謫居の間作れりし事としるべし、◯(ママ)何の罪科といふ事さだかなら    ず、江戸真砂の説も信じがたく、又、竜渓小説にいへるは、殊更妄誕也、大田南畝の話に、不受不施法    華の故なりと、いへり、さもありしにや、委は聞だりき】宝永四年、御赦によりて帰郷しぬ、【一説に、    元禄十一年より宝永六年迄、十二年の間謫居せり、といへれど、予が家の日記、宝永五年子三月十二日    の処、民部が名見えたり、御赦にあへるも、三人同時なるべし】朝湖は姓名を変て、英一蝶といひしか    ど、民部などはなほもとの名にて有し、半兵衛も同きにや、詳ならず、この輩、わかきほどは遊里に戯    れ、大家の幇間ともなりしかど、さすらへの事の後は、昔の如き事あるべくもあらねど、そのかみより、    知己の家などの酒宴には招かれて、やみがたきには出会せしなるべし、其頃の酒席には、酌取女といふ    ものはなく、鳴ものは瞽者のわざにて、袴着て出たるもの也、朝湖もと呉服町一丁め新道に住しが、配    所より帰りては、しばし深川長堀町に居り、其後また、旧宅のあたりに帰住せしにや、(以下「四季絵    の跋」と一蝶の母妙寿尼、謫居の間横谷宗珉に養われて、帰省後正徳四年身まかりし記事、略)一蝶は    享保九年正月没す、享年七十三とぞ【二本榎なる承教寺の内顕乗院に葬る、日蓮宗也、墓所一覧に、字    は君受とあるは、法名の英受をまがへたる歟、(「柳川直政」の記事、略)】◯(ママ)按るに、一蝶が父    伯庵は、近江の産なるべいし、江洲に多賀氏あり、一蝶が朝湖と号せしも、朝妻舟の作もよしある也、    (中略)宝永八年辛卯三月十六日、暮より樽屋三右衛門へ振舞に参候、竹内徳庵、民部、一蝶、お留都    出会、八ッ半頃帰宅とあり、(中略)お留都といふは、三絃をならす盲法師也、民部は石町に居たりと    ぞ、江戸真砂に、村田半兵衛は、本石町山丁目に住りといへれば、近隣なるべし〟   ◯ 同上 ②三七二(喜多村信節著・成立年未詳)   (「横谷宗珉」の項)   〝(筆者注、宗珉)四十歳の時【正徳年中】始て彫刻の法一家を立、専ら英一蝶が粉本を用、【草稿を一    蝶に書しめたるなり】これに依て、世に絵風と称せらる〟   〝朝妻船の小柄は、すべて銀の四分一がねにて、表は、人に知たる柳の蔭に遊女舟に乗たる図、裏は、四    分一がねに金と銀と二筋斜に入たる上に、彼小唄を毛彫にしたり、是も一蝶が書しなるべし、(中略)    宗珉が子孫のもたりし一蝶がかける蝙蝠の下絵は、美濃紙一枚にかはほり五ッばかりあり〟    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶 二代    ◯『一蝶流謫考』①345(涼仙老樵(山東京山)編・成立年未詳)   (「一蝶家譜之略」の項)   〝二代目 一蝶 名信勝、俗称長八〟   ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蜩   ◯『一蝶流謫考』①345(涼仙老樵(山東京山)編・成立年未詳)    (「一蝶家譜之略」の項)   〝一蜩【俗称百松、後源内、一説孤雲】〟   ☆ いっぽう はなぶさ 英 一蜂   ◯『江都百化物』③20(馬場文耕著・宝暦八年九月序)   (「絵画の化物」の項)   “一蝶弟子の当時、百馬鹿の内にも入られて、一ッ風有英一蝶といふ者なりしが、とう/\化しすまし、    是も目出度白狐の化粧の類也、新吉原、虎少将が部屋の張付絵を頼まれ、虎が座敷は竹の一ッ色、少将    が座敷は西湖の夜るの雨の景色、巴屋にて絵を書ながら、饅頭を取つて引喰ひ/\して、凡一分饅頭を    八十一程不残喰ひけると也、近き頃、西本願寺御下向の筋、小田原町より本願寺へ献上の巻物を、一峰    に絵がゝせ上しに、桃太郎一代記を認けり、本願寺御満足甚敷、御目見へ被仰付、蕎麦切とけんどん一    ッ宛被下けるに、午前にて右のそば切を喰ひて、大きに胸をつかへて騒ぎしとなり、堺町の中村利兵衛    聟、新材木町山形屋惣右衛門相伴にて、大きにこまりしと也、是も化物とほゝ敬白” ◯『山東京伝一代記』②422(山東京山著・成立年未詳)  〝文化元甲子の冬に、「近世奇跡考」五巻を著せしに、英一蝶が伝の事により、一蜂といふ者障りければ、    其板を毀ける〟    〈この一蜂は四代目か。「浮世絵師総覧参照」〉    ☆ いっぽう はなぶさ 英 一蜂   ◯『一蝶流謫考』①145(涼仙老樵(山東京山)編・成立年未詳)   (「一蝶家譜之略」の項)   〝一水門人一蜂【明和九年七月六日、年六十六没、春窓翁と号す】〟   〈この英一蜂は何代目にあたるのであろうか〉   ☆ うたがわは 歌川派   ◯『紙屑籠』③72(三升屋二三治著・天保十五年成立)  (「役者似顔絵師 歌川」の項) 〝元祖 歌川豊国【豊春門人、植木町に住】    二代目豊国【豊国実子】    三代目豊国【初国貞、亀戸に住す】    豊国門人 国貞 同 国安      同 国政【富三郎、高麗蔵、うちは絵大首の始、二代目国政は役者絵出さず】      同  国芳 其外、歌川の絵師は役者絵を出さず。こゝにしるさず、そのいにしへは、いま残りた    る役者絵をみず、たま/\見れども、古代の役者故、絵師を書ても当代に益なし〟    ☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿   ◯『反故籠』②170(万象亭(森島中良)著、文化年中前半)  (「江戸絵」の項)  〝金摺、銀摺を初めしは喜多川歌麿なり〟   ☆ おうきょ まるやま 丸山 応挙   ◯『式亭雑記』①76(式亭三馬記・文化八年四月五日)   〝丸山応挙の図也とありて、     ◯(ママ)大像のうしろむきたるかた     ◯(ママ)異形の竜の全体    右は清水庄三郎主人より借得たり、【清水氏の朋友安喜永之助といふ人、当時石町一丁目に旅宿せり、 彼人の所蔵なり、安喜氏は京都の住、もとは阿波の産なるよし】法帖模刻正面摺の達者也、同人より恵 投ありし石摺一枚、予が蔵にあり、     白紙一枚の石摺、     鍾馗像【応挙画 皆川淇園賛也】    右も安喜氏蔵板〟