Top 『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)浮世絵文献資料館
増補浮世絵類考 あ行
☆ あしくに あさやま 浅山 蘆洲 〝浅山芦洲〈アシクニ〉 号 青陽 文化中多くよみ本を画く 浪花の人なり 狂画堂、蘭英斎、浅山氏〟☆ あんど かいげつどう 懐月堂 安度 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝懐月堂 浅草諏訪町に居住す 俗称〈岡崎〉源七 号 安慶 〈曳尾庵云、我衣に、懐月堂末葉度秀〈イ慶秀か〉あり。月岑蔵懐 月堂末葉安知の女絵あり〉 宝永正徳の頃の人、世事談に見ゆ。姓名詳かならず。いまおほく其絵を見るに、懐月堂とのみあり(以 上類考ノ追考)〟〈「安慶」は安度の誤記。『無名翁随筆』(渓斎英泉著。別名『続浮世絵類考』)にはあった江島生島の記事を削除。 江島は大奥の女中なので、町名主斎藤月岑はお上を憚って削除したのだろう〉 ☆ いっく じっぺんしゃ 十返舎 一九 (「喜多川歌麿」の項) 〝歌麿の吉原年中行事を大いに流行す。作者十返舎一九が云、吉原の事を委しく書し文章故に行れしと云 ひければ、歌麿は絵組ゆへに行れしと互いに争ひ、大に取合となりし事ありしとぞ。是を以て察するに 大にほこりし人と見ゆ。 歿故の前、絵草紙問屋云合せ、歌麿必此度は病死すべしとて、各錦画板下を頼み、夥しき書物なりしと ぞ。其頃は外に画者なきが如く用られし人なり。 因に云、月岑按るに、十返舎一九、画をなせり。自画作の草双紙多し。拙き画なれど膝栗毛全部の画 は略画にして、いさゝかの風韻あり〟☆ いっけい 一桂 「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」「英一蝶系譜」 (高嵩谷門人) 〝一桂(ママ) 本所徳恩寺橋通住 天保十四年十二月廿一日 八十 アキ 才ニテ終〟☆ いっしゅう はなぶさ 英 一舟 「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」「英一蝶系譜」 〝一舟ハ門人ナリ、養子トナリテ師家ヲ継 名信種 号東窓翁 俗称弥三郎 明和五年正月廿七日歿ス 顕乗院ニ葬ス〟〈『総校日本浮世絵類考』には〔種彦本〕は廿三日卒すとある由〉 ☆ いっしょう 一笑 「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」「英一蝶系譜」 (英一桂(珪)門人) 〝嵩翏 一笑〟☆ いっすい はなぶさ 英 一水 (佐脇嵩之参照) 「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」「英一蝶系譜」 〝門人 一水 一蝶晩年ノ門人 後ニ嵩之ト改ム 本姓佐脇 名道賢 字子岳 号果々観 一号中岳堂 亦東窓 一翠斎等ノ号ナリ 俗称 甚蔵 明和九年七月六日歿 年六十六 誓願寺中称名院】〟☆ いっせん はなぶさ 英 一川 「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」「英一蝶系譜」 〝一舟男 一川 〔種彦本〕【名宗隆 号松庵】〟☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶 初代 ◇「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」「英一蝶系譜」 〝英一蝶 七十三 【承応元年生ル、享保九年歿す】〟 ◇「英一蝶」の項 〝英 一蝶(一蝶の伝諸書に記すを見るに、誤り多く、浮世画師には有ねども、時世の人物を画き、師宣 が絵風に出たる事も見ゆれば、暫く浮世画に列す) 姓 藤原 多賀氏(一に英氏と云、母の姓花房と云)摂州大坂の人也 俗称 助之進〈或は次右衛門、 幼名猪三郎。承応元年摂州大坂に生る〉父は〈多賀伯庵といへる某侯の侍〉医〔医〕也。〈寛文六年〉 十五歳の時、江戸に来り、狩野安信(古右京養子、探幽、尚信、常信、安信は続〈貞享二、九月四日卒 七十三才〉慶安正徳の人)門人となる、名は信香、一に安雄。始め多賀朝湖と云、後に英一蝶と改め、 一家をなす書画ともに能す。風流の秀才子也。欄外 〔名信香、一に安雄〕 号 翠蓑翁(一簑翠と云は誤也)牛丸(幼名と云は非なり)和央〈和応〉一閑散人、暁雲(俳諧の名 なり暁雲とも云)旧草堂、一蜂閑人(後門人にゆづる)隣樵庵 鄰濤庵、北窓翁(数号あり) 伝に曰、一蝶は親に孝なりし人と云り〈書を佐々木玄龍に学び〉俳諧は芭蕉翁の門人にして、其角嵐雪 等と友なり。名を暁雲和央、一に和応と云しは、花街に於て呼し也と云り。元禄十一年十二月(八年と するは非なり)呉服町〈一丁目〉新道に居住の時、故有て謫せらる。時に歳四十七歳、謫居になる事十 二年、宝永六年九月(四年とす るは非なり)帰江せり。其後英(一説花房とす、母の姓也と云)一蝶と 称〔す〕〈し〉北窓翁と号す。〈深川長堀町に住〉享保九年甲辰正月十三日歿す。行年七十三歳、〔麻 布〕〈芝〉二本榎日蓮宗承教寺塔〔中〕〈頭〉顕乗院に葬す。(法名英受院一蝶日意) 辞世 まぎら〔か〕〈は〉すうき世の業の色どりもありとや月の薄墨の空 一蝶〟 一蝶に老母一人あり、剃髪して妙寿と云、一蝶八丈島に配流せられて〈一に三宅島トモ〉後、一蝶が友 宗珉が家にやしなはる。〈宗珉〉俗称横谷次兵衛、檜物町に住す。正徳三巳年三月三十日歿す。顕乗院 に葬す。(以上、類考追考京伝が記) 一説に、一蝶配流せられ老母を養ふ親族なし。官舎へ此事を願ひ、謫居より画を売事を赦せられて〈よ り謫居の図をこまやかに画きて、鬻くべき画の中に入て、母の許へ送り越したる〉其価を以母を養ふ。 島〈シマ〉一蝶と云は是なりと云。(未詳 横谷宗珉へ謫居の図を母に見せ度送りしは私の事也。ひさ ぐべき画の中へ入て送りたると思へば是とするところもあり) 嵐雪選其袋(元禄三年板 一蝶の句あり) 花に来てあはせ羽折の盛かな 暁雲 朝寐して桜にとまれ四日の雛 同 高嵩谷蔵 英氏系図之略 英一蝶 七十三 承応元生ル 享保九年歿す「英一蝶系譜」 欄外 〈江戸真砂六十帖別ニ説有〉 或書に曰、元禄の頃、将軍家吹上御庭にして御遊興に美を尽し給ふ。三の丸お伝の方と申は、第一の御 寵愛にて、君の御心に叶ひける。〈阿伝の方は小身十五俵一人扶持黒鍬組白須才兵衛娘なり。後年に至 り、御旗本に昇進して、一度朝散大夫白須遠江守に任ぜられたり〉此お伝の方、小鼓の上手にて、公御 謡遊せば、御側にて鼓の一調を打つ。或時は吹上御庭の池に舟をうかべ、公は棹さし給へば、お伝の方 は鼓をしらべ、公謡遊しつつ棹さし御楽み遊す。是平日の事にて不知人はなし。其比多賀朝湖と云画師、 百人女﨟と云絵を書て、貴賤の姿画を写し、其中に世上専ら風聞故、舟中に鼓を打、棹さし謡ふありさ まを、うつくしく書たり。此事誰が公に告奉りけん。立所に奉行所に召捕れ入牢す。罪の表は、朝湖御 禁制の殺生を好なり、鳥を取魚を釣ける御咎に遠島仰付られける。朝湖、願に寄、配所へ絵具持参御免 被仰付、配所にて一子を設しを島一蝶と云。後、御赦免ありけり。百人女﨟の内、お伝の方舟遊びの躰、 至極の出来にて、御咎に逢しは其業に依て刑せらるゝ事、本意にも近かるべしと、憂ふる色もなかりし と也。百人女﨟の絵は我心にもいみじく出来しとおもひしが、図を書改めたり。今は十が七八は伝らず。 英一蝶と名を改、浅妻船と云絵を書り。欄外 〈註、此書に宝暦七年と有〉鼓を持、舞装束の白拍子、船 に乗たるは以前の図をやつせしものなり。当時英一蝶など専ら此図を画く。一蝶浅草寺境内にて、千幅 絵を書し時も人々是を好みけるとかや。 朝妻船讃に云 隆達が破れ菅笠しめ緒のかつら永く伝りぬ。是から見れば近江のや、あだしあだ波よせ てはかへる浪、朝妻船のあさましやあゝまたの日は誰に契りをかわして色を枕はづかし、うらみ〈イい つはり〉がちなる我床の山、よしそれとても世の中 後水尾院御製 今宵寝ぬる浅妻船のあさからぬ契りをたれにまたかはすらむ 此一蝶が百人女﨟の絵をもとゝして、後、洛陽の西川祐信、百人女﨟品さだめと云好色本を書けるとぞ。 因曰 一蝶は小歌の作なども多し、自画賛の句枚挙すべからず。松の葉(元禄六年板、小唄の集)に 〈載る〉しのゝめと云小唄は一蝶の作也。洞房語園には、みじか夜の早唄(一名)かやつり草と号て 是をのせたり。浅妻舟の賛も、其頃、節を付うたひけるにや、松の葉(後偏を松の落葉と云)の端歌 の部に載たり。宝永の頃〈写本〉吉原つれ/\草と云物に、かやつり草の朝湖が歌こそ又あはれなる 事おほか〔ん〕めれ云々。或説に一蝶声よくて〈自ら〉も小唄を能うたひけるよし。老人になりても、 紀国や文左衛門などに付て、廓中にのみくらしたるとなれば、左も有べし、 三谷何某が蔵する所、一蝶八丈島(一本に三宅島とあり)に在りて、母の元へ謫居の趣をこまかに画 き送り越したる物あり。横谷宗珉の家にのこりしものなりとぞ(以上追考の説)〈以下、「英一蝶四季之絵跋」あり。省略。『大田南畝全集』十八巻『浮世絵考証』⑱444 (寛政十二年五月以前記)を参照のこと〉 按るに、朝湖、呉服町一丁目新道に住せし頃、元禄十一寅年十二月、三宅島に流さる。時に歳四十六也。 宝永六丑年九月御赦免、深川に住す。是謫居より帰りての文なり。享保九辰年正月十三日歿(以上類考) 湯原氏記云 元禄七年四月二日、 従桂昌院様、六角越前守〈御使〉被遺之、金屏風一双、吉野立田之図、多賀朝湖筆、本願寺え、同一双、 大和耕作之図同人筆、新門え(以上) 〈月岑云 岩瀬百樹が編、一蝶翁流謫考一巻あり。摹して別に蔵せり〉〟〈『無名翁随筆』(渓斎英泉著。別名『続浮世絵類考』)にほぼ同じだが、斎藤月岑はお万の方を寵愛した五代将軍綱 吉の名を削除。また、お万の方の実父の記事及び漢文の略伝を削除している。町名主としてお上を憚ったのである〉 ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶 二代 「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」「英一蝶系譜」 〝二代目実子 一蝶 名信勝 俗称長八郎 一説 二代目一蝶ハ八丈島ニテ出生ス赦ニアフトキ共ニ江戸ニ具シタリ 是ヲ島一蝶ト云リ 一説ニ云 一蝶ノ子多賀長八郎信勝 号一蜂〟☆ いっちょう はなぶさ 英 一蜩 「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」「英一蝶系譜」 〝二男 一蜩 俗称 英〈多賀〉百松 後 源内ト云 初メ信祐 又湖雲 後一舟トナル〟☆ いってい 一螮 (「歌川国貞」の項) 〝按るに、近頃国貞英一蝶の画印を用るを度々見たり。五渡亭国貞と画名をかき、花押は(花押にはある べからず、印歟。本文誤なるべし)英一蝶とあり、いかなる故ある事にや、嵩谷の裔嵩陵の門に入て、 故人の名跡を望むとにや、役者似顔の錦絵には似付かぬ画名を慕し事也(月岑按るに、英〔一珪〕〈嵩 陵〉の門に入て、英一螮 といふ印面を見て、此作者一蝶と見違へしにや〟☆ いっぽう はなぶさ 英 一蜂 「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」「英一蝶系譜」 〝門人 一峰 号春窓翁〟☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝喜多川歌麿 俗称 勇助〈名豊章〉 居(神田久右衛門町 後馬喰町三丁目に住す) 号 紫屋 江戸の産也、 石燕豊房の門に入て、狩野家〈鳥山石燕〉の画を学ぶ。後一家をなして、浮世絵の名人と呼れし也。男 女時世の風俗を写す事上手にして、近世錦絵の花美を極めたり。生涯役者絵をかゝずして、自云、劇場 繁昌なる故、老若男女贔屓の役者あり。是を画ひて名を弘るは拙き業也、浮世絵一派をもて、世に名を 轟すべし、と云しと也。其意に違はず、其名海内に聞へたり。 長崎の人、清朝の商船より歌麿が名を尋て、多く錦画を求たり。唐迄も聞べし浮世絵の名人なり。殊 に春画に妙を得たり。文化年間〔中〕奥州岩城より来れる者あり。此人浮世絵を好むの一癖あり。元 江戸の産なりしが、業を旅中にのみす。南部、出羽、加賀、能登に往来す。其頃一陽斎豊国の役者絵 専ら行る。此人云、遠国他郷に往ては、江戸絵名人は歌麿とのみ云て、豊国の名を知る人稀にもなか りし、と云り。流行の役者絵は白雨の降が如し。其用る所によるのみ也と。歌麿が高名、是にて知る べし。 役者絵に、市川八百蔵一世一代おはん長右衛門の狂言をせし時、桂川の絵評判にて求ざる人なかりし。 歌麿は美人画にておはん長右衛門道行の画を出し、是に讃を書り。近頃浮世絵かき蟻の如くに這出む らがれるの趣を悉く嘲哢て書たり。今蔵たる人多く有るべし。 歌麿門人多く浮世絵のみにあらず。花鳥虫魚の写真等、精巧緬密の彩色摺画本等多し(歌麿浅草の水茶 屋難波屋おきたの姿画を出せり。瘡もりおせん おくら おふじ おきた三人狐けんのゑあり) (絵本太閤記の図を出して、御咎を受たり。其後尚又御咎の事ありて獄に下りしが、出て間もなく病死 す。おしむべし) 浮世絵類考曰、始、歌麿通油町蔦屋重三郎と云絵双紙問屋に寓居せしと有り。画本枚挙すべからずとい へども一二を挙ぐ。 吉原年中行事(十返舎一九文 彩色摺 二冊) 絵本百千鳥 (極彩色狂歌入) 同 虫撰 (極彩色狂歌入) 同 駿河舞 三(江戸名所の絵本なり。狂歌あり)
「喜多川歌麿系譜」 歌麿の吉原年中行事は大いに流行す。作者十返舎一九が云、吉原の事を委しく書し文章故に行れしと云 ひければ、歌麿は絵組ゆへに行れしと互いに争ひ、大に取合となりし事ありしとぞ。是を以て察するに 大にほこりし人と見ゆ。 没故の前、絵草紙問屋云合せ、歌麿必此度は病死すべしとて、各錦画板下を頼み、夥しき書物なりしと ぞ。其頃は外に画者なきが如く用られし人也。 (因に云、月岑按るに、十返舎一九、画をなせり。自画作の草双紙多し。拙き画なれど膝栗毛全部の画 は略画にして、いさゝかの風韻あり〟☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿 二代 (「喜多川歌麿」の項、歌麿門人)「喜多川歌麿系譜」 〝二代目歌麿 俗称(空白) 馬喰町に住す 二世恋川春町と云し人なり 書を善す 故歌麿が妻に入夫 せしなり 錦画あれども拙き方なり 文化より天保の頃の人〟☆ えい かつしか 葛飾 栄女 (「葛飾為一」の項)「葛飾北斎系譜」 〝葛飾為一 末子 女子 栄女 画を善す父に随て今専画師也 始南沢に嫁し離別す〟☆ えいいち せいさい 静斎 英一 (「渓斎英泉」の項) 〝渓斎英泉門人 英一 静斎〟☆ えいざん きくかわ 菊川 英山 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝菊川英山 文化文政 俗称 万五郎 市カ谷の産 麹町に住す 号 重九斎 名 俊信 (英山、南嶺門人にもなりしと云) 始父英二に業を学びたり(英二は狩野流の門人東舎と云人の門人なり。板刻の画はかゝず。菊川一家の 浮世絵師なり。造り花を業として近江屋といふ)北渓は幼年よりの友なりしかば、其画法を慕ひ、北斎 流の画をかけり。古歌麿歿してより後、歌麿の画風に似せて板刻の美人画を出し、行れたり。其比、豊 国、春扇とともに行れたり。始は役者絵も書り(文化三四年の頃、堀江町の団扇問屋、故有て悉く豊国 の新板画を不出、一年英山の役者画の団扇ばかり出せし事有、其翌年の頃より、国貞も始て歌右衛門が 猿回しの与次郎が画の団扇を出したり、夫よりうちは画、年々英山は役者を止てかゝず、美人画を多く かけり。国貞より二三年も早く世に行れたり。麹町三河屋伝左衛門と云、絵双紙屋は英山の画を出し、 大に売れしと云、豊国の役者絵に、上表紙へ一陽斎の画像を英山画し、英山の画に豊国寄合書き等あり、 交り深く、互に懇意なりしかば、諸侯方へも二人つゝ席画にも出、花押年の字年、菊の字菊、織もの煙 草入などへちらしに付たるを持り。英山文政の末より多く板下を不画) 読本は不画、草双紙四五種あり(英山画才あれども、読本草紙を画く事は甚疎しと云々) 英山門人(此外数十人あれども、板本をかゝざるものは爰にのせず) 英章(錦画 団扇有 浅野氏) 英泉(末に記) 英里(冬木氏 錦画あり) 英信(安五郎 摺物画多し) 光一英章(章三 狂言作者也 春画あり)英蝶(摺物画あり)〟〈(末に記)とは英泉の項目を設けてそこに記すという意味〉 ☆ えいざん つきおか 月岡 栄山 (「三代堤等琳」の項、三代目堤等琳門人)「堤等琳系譜」〟 〝月岡栄山 浅草山谷〟☆ えいざん はるかわ 春川 栄山 〝春川栄山 (空白)年中 俗称(空白)号(空白)居(空白)☆ えいし 英之 「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」「英一蝶系譜」 (英一水(佐脇嵩之)門人。名前のみ)☆ えいし べいかさい 米花斎 英之 (「渓斎英泉」の項) 〝渓斎英泉門人 米花斎英之 俗称源二郎 米花斎 よみ本し〟☆ えいし ちょうぶんさい 鳥文斎 栄之 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝細田栄之 寛政年中人 俗称(空白) 始浜町、後本所割下水住 姓 藤原 名 時富 治部卿 号 鳥文斎 天明より寛政の間、浮世絵の風俗を写して、錦絵に傾城美人画多く、専ら世に行る。故在て姑く筆を止 む、狩野流の筆意を学んで、今猶彩色〈一枚〉絵多し〈狂画の絵巻画軸等多くのこれり〉欄外 〈月岑云、按に、狩野家を学びし故、山水草木は可成よし。北斎が風をまねて遊女を多く画きた れど、甚拙なりし〉 門人 栄理〈昌栄堂〉栄昌 栄笑、其外多し 月岑云、寿阿弥の話に、鳥文斎と号る事は、栄之もと狩野栄川の弟子にてありしが、浮世絵を画出し、 後、文龍齋にも学び、鳥居風の浮世絵をもしたひしかば、鳥居の鳥と文龍斎の文の字をとりて、鳥文斎 と号せしよしいへり。按るに、葛飾北斎が画風を学びしと見ゆるもの多し。一枚画珠に多く、雲母を引 るものも多く見ゆ〟☆ えいじ きくかわ 菊川 英二 ◇「菊川英山」の項 〝英二は狩野流の門人東舎と云人の門人なり、板刻の画はかゝず、菊川一家の浮世絵師なり。造り花を業 として近江屋といふ〟 ◇「渓斎英泉」の項 〝(英泉)又戯場狂言作者(初代)篠田金治(後並木五瓶也)の門に入、千代田才市を名を続て作者とな りしが、再画工菊川英二が家に寓居す(英二は英山の実父なり)〟☆ えいしゅん 英春 (「渓斎英泉」の項) 〝渓斎英泉門人 英春 俗称大木氏 小石川住 錦絵多し〟☆ えいしょう 英章 (「菊川英山」の項、菊川英山門人) 〝英山門人 此外数十人あれども板本をかゝざるものは爰にのせず 英章 錦画 団扇有 浅野氏〟☆ えいしょう 栄笑 (「細田栄之」の項、栄之門人) 〝門人 栄理 昌栄堂栄昌 栄笑、其外多し〟☆ えいしょう しょうえいどう 昌栄堂 栄昌 (鳥高斎栄昌参照) (「細田栄之」の項、栄之門人) 〝門人 栄理 昌栄堂栄昌 栄笑、其外多し〟☆ えいしょう こういち 光一 英章 (「菊川英山」の項、菊川英山門人) 〝英山門人 此外数十人あれども板本をかゝざるものは爰にのせず 光一英章 章三 狂言作者なり 春画あり〟☆ えいしん きくかわ 菊川 英信 (「菊川英山」の項、菊川英山門人) 〝英山門人 此外数十人あれども板本をかゝざるものは爰にのせず 英信 安五郎 摺物画多し〟☆ えいせん けいさい 渓斎 英泉 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝渓斎英泉 文化文政より天保〈弘化〉にいたる 俗称 善次郎 後里介 居住〈江戸数ヶ所に転宅して住所不定 始番町 後根岸新田村 根津 池之端 坂本一丁目〉 姓 藤原 名 義信 一に茂義 本姓 池田氏 江戸産 号 一筆庵 別号 無名翁 可侯(戯作の名也 草双紙中本等あり) 幼年の時、狩野白桂斎の門人となり(白桂斎ハ赤松某侯と云り、狩野栄川法印の高弟也)後独立して、 浮世絵をかけり(国春楼、又北亭といへり)青雲の志ありて仕官せしが、壮年にして流浪す。従来宋明 の画を好み、書を読むの癖ありて、通宵〈よもすがら〉眠る事を忘る。又戯作を楽みとし〈多く〉作出 せり。(渓斎英泉と同名の人下総にありしが、又上州にもありしとて、告来るものありしと、又渓斎と 云人、江戸にも有、画風同く板下をかゝず)当時の流行に傚て、美人絵多く画り。北斎翁の画風をも取 り一家をなす(英泉が工風の色ざし、亦は巧たる画風の新たなる事を、国貞が学びて出せしもの多し。 画を学ぶ人にあらざれば不知べし)吉原遊女の姿を写すに、悉く其家々の風俗襖〈うちかけ〉姿を画く に、役者の狂言振に似せず、時世の形をあらたに画しは、此人也)近頃、国貞も傾城画は、英泉の写意 に似せて画し也。草双紙合巻画入読本数十部を画り(役者画はかゝず)(団扇絵も多し、藍摺の山風は 此人の工風なり。京大坂の読本をも江戸に在て画り) 浮世画譜 (画手本 自初編至五十編 尾州名古や本町七丁目 永楽屋東四郎板) 容艶画史 (美人画の画則なり) 錦袋画叢 (諸職の画 大坂心斎橋河内や茂兵衛板) 絵本初心画譜(西村や与八板) 画本錦之嚢 (一冊 和泉や市兵衛板) 武勇魁図会 (二冊) 此外多くあり枚挙に遑あらず。 渓斎英斎門人 英春 俗称 大木氏 小石川住 錦画多し
英蝶 初春川五七門人、京の人在江戸歿す 草そうし錦画を書欄外 〈英蝶 初春川五七門弟 京の人 江戸住す 錦画草双紙在〉
英之 俗称 源二郎 米花斎 よみ本多し
泉寿 俗称 伊三郎 英斎 浪花に在住して名を改む 錦画中本よみ本多し
泉晁 俗称 吉蔵 貞斎 霊岸島 草双紙錦画多し
泉橘 俗称 仙吉 紫領斎 向島 中本多く画作あり 筆耕を業とす
泉隣 井村氏 山斎 桜田 中本多し
泉里 俗称 弥六 嶺斎 麹町 中本あり欄外 (文斎 磯野氏 名 信春 長崎住〉
英一 静斎
板刻の画を見ざるは爰にのせず。英の字を画名とする浮世絵師夥数あり。英山門人と混同す。一時の人 あれば也。 略伝に云、一筆庵英泉は星岡の産なり。父母存生の中は遠不出(父は池田茂晴、援山不言葊の門人に て書を能す。読書を好み俳諧茶事をこのめり)母は泉六歳の時歿す〈父并〉継母に仕へして孝あり。其 家まづしかりし、文化の始、父母一年の内に歿す。幼き妹三人を養ひしに、讒者の舌頭にかゝりて流浪 し、志を廃して浮世絵師となれり。又戯場狂言作者(初代)篠田金治(後並木五瓶)の門に入、千代田 才市を名を続て作者となりしが、再画工菊川英二が家に寓居す(英二は英山の実父なり)土佐の門に入 てより、近国を編歴する事三四年にして東都に帰れり(其頃英山世に行れて、諸侯の召に応じ、彩色画 多くなりしが、肥州侯に命ぜられ、門人不残の画を望給ふ。其列に入て英泉と画名を記し出せしより、 是を名とす。英山門人といふはじめなり)もとより名を不好、飄々として住所を不定、凧を画き羽子板、 幟の絵を彩り、需るに従て辞する事なし。(職分筆の達者二人分をなす)板刻の画本をかきかけて行所 を不知。板元(書林)迷惑して所在を尋しに、娼門に酔て死るが如し。漸にして其跡を画て是を与ふ。 芝金杉の浜に碇屋六兵衛と云し魚問屋あり(後に巴や仁兵衛と云板元也)従来錦画其外の板元を業とす る事を好むが故に、泉を携て家に養ふ、泉衣類を借着して出て不帰、主人漸に行処を知て尋しに、其の 衣類を酒に換て、酔て本性なし。虎鰒を生ながら蝶と共に煎て是を喰ひ、猪を好て喰し、羽折を着し下 駄をはき、近辺に出しと思へば、夜船に乗じて上総木更津に至る(木更津より五里程入、周堆郡に池田 氏の旧家あればなるべし)かゝる放蕩無類の人といへども、人是を不悪。居を宗十郎に定めてより食客 を集て、夜中門戸に錠を不用、家主後難を恐れて迷惑す。如此行状なれども、親族他人に金銀を借らず。 己が業により価を得て、捨る如くに遣ふのみ。後妻を迎へ、子無きが故に一女子を養ふ、是より後、人 に帰りて、板刻の絵に精を抽〈ぬきん〉で昼夜を不寝画り。天保の頃より筆を止て云、盛なれば必衰ふ、 人に弄られんより、人を弄るに不如〈しかじ〉と、需るに不応して、根岸の時雨の里に隠る(根津花街 等に娼家をせし事もあり)後年俗事に苦心して志をとげず、遺憾といふべし。因にこゝにこれを記す。 〈月岑云、英泉が伝自身に己が行状を誌せり。世に聞人の伝数多あれども、己が伝を作りたるを聞かず。根津門前木村長右衛門が判を盗て押し 事露んとしたる時、亡命〈カケオチ〉したる事を漏せり。惜 しむべし〉 欄外 〈嘉永元申の秋歿せり〉〟☆ えいちょう 英蝶 (「菊川英山」の項、菊川英山門人) 〝英山門人 此外数十人あれども板本をかゝざるものは爰にのせず 英蝶 摺物画あり〟☆ えいちょう 英蝶 (「渓斎英泉」の項) 〝渓斎英泉門人 初春川五七門人 英蝶 京の人 在江戸歿す 草そうし錦画を書〟〈英笑と同記事〉 ☆ えいり 栄理 (「細田栄之」の項、栄之門人) 〝門人 栄理 昌栄堂栄昌 栄笑、其外多し〟☆ えいり きくかわ 菊川 英里 (「菊川英山」の項、菊川英山門人) 〝英山門人 此外数十人あれども板本をかゝざるものは爰にのせず 英里 冬木氏 錦画あり〟☆ えんきょう かぶきどう 歌舞伎堂 艶鏡 〝歌舞伎堂艶鏡 寛政年中の人 俗称(空白)居住(空白) 役者似顔のみ画たれども拙ければ半年ばかりにして行れず〟