Top             『燕石十種』             浮世絵文献資料館
    燕石十種              あ行                 ☆ あんど かいげつどう 懐月堂 安度   ◯『独寝』③106(柳沢淇園著・享保一〇年成立)  〝浮世絵にて英一蝶などよし、奥村政信、羽川珍重、懐月堂などあれども、絵の名人といふは、西川祐信  より外なし、西川祐信はうき世絵の聖手なり〟   ◯『無名翁随筆』③294(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝懐月堂【浅草諏訪町居住ス】     俗称源七、号安慶、    宝永、正徳の比、三月、奥女中江島殿一件にて、生島新五郎遠流の時、共に暫伊豆の大島に謫居すと云、    木挽町山村座欠所となりしは此時なり、享保中の人、世事談に見ゆ、姓名つばらならず、いまおり/\    其絵を見るに懐月堂とのみあり【以上、類考追考】〟    〈「安慶」は「安度」の誤記か。「世事談」とあるのは『本朝世事談綺』(菊岡沾涼著・享保一九年刊「日本随筆大成」     第二期十二巻参照)。同書に〝浮世絵 江戸菱川吉兵衛と云人書はじむ。其後古山新九郎、此流を学ぶ、現在は懐月     堂、奥村正信等なり〟とあり。「以上、類考追考」とあるから、英泉は山東京伝の考証をそのまま引用したのである〉   ☆ いっく じっぺんしゃ 十返舎 一九   ◯『戯作六家撰』②83(岩本活東子編・安政三年成立)   〝十返舎一九     重田氏、名貞一、通称与七といふ、駿河の産にして、居を橘町又深川佐賀町に占め、畢に通油町【書肆    仙鶴堂が裏】に移住せり、    墨川亭曰、一九幼き時、市九と呼ぶ、故に市を一に作り雅名とす、若冠の頃東都の出、或侯【一説に、    小田切君江都尹にておはせし時、その館にて注簿たりしといふ】に仕へ、そのゝち大坂へ登り、彼の地    に住て志野流の香道に称誉あり、十返舎の号は、黄熟香の十返をとりて然よぶといへり、其頃のことに    や、並木千柳、若竹笛躬と倶に、木下蔭の繰戯曲を編述したる由、後、故ありて自ら香道に遊ぶ事を禁    ず、寛政六寅年、復び東都に来りて、始て稗史両三部を著述して、耕雲堂が梓に上せて発市せり、天保    二辛卯年、病て没す、浅草土富店善竜寺【俗にぬけ寺と云】地中の東陽院に葬る、【墓所は惣乱塔裏門    方より二側目にて東三軒目】  (墓の図あり)心月院一九日光信士【天保二辛卯八月上ノ七日】    辞世 此世をばどりやおいとまにせん香とともにつひには灰左様なら 十返舎一九   (以下、文化十一年に発生した十返舎一九と墨川亭雪麿との騒動顛末記あり。発端は、前年、雪麿が書     き上げた『稗史通』(黄表紙作者略伝)の記事。一九漂泊中、寺の門番にもなりたることありとの内     容。これに一九が浮説として激怒し激しく対立する。が、程なく雪麿と同門の式麿の書画会で両者和     睦する由の記述あり。また一九の狂歌あり。略)〟    〈『戯作者撰集』に同文あり。ただし戯作名の下に細書で〝寛政七乙卯年より〟とある。これは戯作の初出を意味する     のであろう。「国書基本DB」はこの年の一九自作自画の黄表紙を三点あげている。もっとも絵師としての登場は一     年早く、寛政六年のこと。『戯外題鑑』及び「国書基本DB」は黄表紙『初役金烏帽子魚』(山東京伝作・十返舎一     九画)を寛政六年としている。なお「木下蔭の繰劇曲」とは浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』のこと。一九は「近松余七」     を名乗りし由、注記あり。また「始て稗史両三部を著述して、耕雲堂が梓に上せて発市せり」は『戯作者撰集』には     正しく「耕書堂」(蔦屋重三郎)とある。『稗史通』は黄表紙作者の伝記で『戯作者撰集』の源流。この『稗史通』の     記事をめぐる騒動は墨川亭雪麿の項参照のこと〉   ◯『戯作外題鑑』⑥80(岩本活東子編・文久元年)   (「寛政七乙卯年」時評)   〝十返舎一九出る、作の体おかしみを専一とす、年々に著述し、文政にいたる。又洒落本膝栗毛、大に名    あり〟    〈『稗史提要』に同文あり。前項に見るように、「十返舎一九出る」は自作自画の初出という意味〉   ☆ いっしゅう はなぶさ 英 一舟    ◯『無名翁随筆』③284(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「英一蝶」の項、初代一蝶門人)「英一蝶系譜」   〝【一舟ハ門人ナリ、養子トナリテ師家ヲ継、名信種、号東窓翁、俗称弥三郎、明和五年(月ヲ脱ス)廿    七日歿ス、顕乗院ニ葬ル】〟    〈『浮世絵類考追考』には〝名信種、號東窓翁、俗称弥三郎、明和五年正月廿七日歿、顯乗院に葬〟とある〉    ☆ いっすい はなぶさ 英 一水 (佐脇嵩之参照)   ◯『無名翁随筆』③284(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「英一蝶」の項、初代一蝶門人)「英一蝶系譜」   〝門人 一水 一蝶晩年ノ門人〟   ☆ いっせん はなぶさ 英 一川   ◯『無名翁随筆』③284(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「英一蝶」の項、初代一蝶門人)「英一蝶系譜」   〝一舟男 一川〟   ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶 初代   ◯『独寝』③106(柳沢淇園著・享保一〇年成立) 〝浮世絵にて英一蝶などよし、奥村政信、羽川珍重、懐月堂などあれども、絵の名人といふは、西川祐信    より外なし、西川祐信はうき世絵の聖手なり〟   ◯『老のたのしみ抄』⑤304(市川栢莚(二世団十郎)著・享保一九年~寛延三年記事)   〝(享保十九年)五月廿一日、雨降、予芝居より帰り、座敷にて人参をきざむ、向に小屏風、某の為出し    置、屏風は一蝶牛馬の画なり、【〔頭書〕楓窓按、翠簑翁、謫居十二年、宝永六年帰郷して後、英一蝶    と称し、享保七年七十一歳なり】予が好みにて、往年書也、七十一歳とあり、予つく/\思ふに、予は    今年四十七歳なり、一蝶の年にくらぶれば、今年より廿五年生て七十一歳なり、しかればのたのもしき    事なり、七十一歳にて画の筆勢至極出来、言にのべがたし、まことに名物の術芸なり、常に生をやしな    はゞ、など七十一まで生ぬといふ事やあるべき、飲食、酒色、気の持ちよふ工夫有べき事ども也〟    〈『老のたのしみ』の「予」とは二代目市川団十郎(柏莚)。〔頭書〕の「楓窓」は文化五年これを写した「楓窓主人」〉   ◯ 同上 ⑤311   〝寛保元年八月二十七日、晴天、芝居大入大桟敷、此日、暁雨丈楽屋へ御出、沖中丈頼みのよしにて、顔    見世の図一蝶の画、父子発句を書、     顔見世や富士も筑波も朝日山 柏莚     顔見世や曙白きほしの花  三升〟    〈この三升は三代目市川団十郎。寛保二年二月二七日没(二十二歳)。したがって半年前の記事である。暁雨は初世団十     郎二七回忌に際して編まれた追善集『父の恩』(享保一五年刊。二世団十郎柏莚編)に二句あり。暁雨から暁翁と改名     したのは宝暦三年のこと。(『大尽舞考証』⑤233〝宝暦三年、浅草の暁雨、暁翁と更名したる時の集冊、新むさしぶ     りに〟という一文あり)。また「古典文庫第二六六冊」『江戸座俳諧集四』(鈴木勝忠校訂)所収の俳諧師「名録」には     〝暁雨改暁翁、大口氏、琴筑堂、宝暦三年没〟とある。沖中は未詳〉   ◯『江戸真砂六十帖』①142(元禄二年生の作者和泉屋某六十余歳執筆、宝暦初年成立)   〝村田半兵衛牽頭之事    本石町三丁目村田半兵衛、絵師和応、仏師式部とて、此三人は其頃の至り牽頭なり、其節、六角越前と    て新地一万石を給はり、屋敷は小川町にあり。此越前殿は桂昌院様甥のよし、京都より下り、俄大名な    り。金銀は沢山なり。吉原へ右三人召つれて通ひ給ふ。大かた浅草伝法院へ入り、裏道より田中へぬけ    通ひける。或時、田中に町人切殺しありて縮緬の単羽織片袖ちぎりしにや、落て片原に有り。紋所鶴の    丸なり。大方は六角殿と知る人申合ぬ。依て伝法院御吟味の上、遠慮して引籠り、六角殿も申わけ立が    たく知行召上られ、外の大名へ遠く御預に被成候。其頃、百人女﨟といふ書物一冊、本屋摺出しぬ、是    は、大名方の御本妻、器量のよしあし、また食物の好不好、其所/\を明白に仕たり、上より御咎有て、    本屋牢舎になりて、何者の作り出したるとの御詮議、村田半兵衛、絵師の和央【〔頭書〕活東子云、和    応、板本洞房語園に和央とあり】仏師の式部なりと訴る。右三人召捕られ、牢舎して伊豆の大島に流罪    す、十七八年目に帰参して、和央は英一蝶と名を替へて、しばらく暮しぬ、半兵衛も式部も程なく病死    す〟    〈〔頭書〕の活東子は「燕石十種」の編者岩本活東子〉   ◯『近世江都著聞集』⑤52(馬場文耕著・宝暦七年九月序)   〝多賀長湖百人女﨟を画きし御咎にて遠流并後年英一蝶となるの話〟   (原文長文のため要旨のみ記す。◎多賀長湖の時代、貴賤の女の絵姿をうつした『百人女﨟』の中に、     将軍綱吉寵愛の「おでんの方」を、船中鼓打つ姿に描いて、遠島処分になりしこと。◎配所にて英一     蝶と改名せしこと。またそこで生まれた一子を「島一蝶」と呼びしこと。◎「朝妻舟」の「小舟に女     の舞装束にてひとり鼓を打つ体」の絵は、「おでんの方」の舟中鼓打つ姿の「やつし」であること。     画賛の〝あだしあだ波、よせては帰る波 ~〟と後水尾院御製〝このねぬる朝妻舟のあさからぬ契を     たれに又かはすらむ〟を記す。◎西川祐信の『百人女﨟品定』は一蝶の『百人女﨟』に倣いしこと)〟   ◯『当世武野俗談』④120(馬場文耕著・宝暦六年序)   (「桑名屋嵐孝が女房悟の名言」の項、吉原遊女・中近江屋半太夫の談として)   〝すべて女郎の身の上は、四季折ごとに見世へ出て、昼夜面壁同前たり、達磨は九年、我には苦界十年な    り、達磨のうは手なり、と笑ひし、此事画工英一蝶が筆に、半身の達磨の顔を傾城に書初て、世上にて    はやり、団扇、たばこ入れ、柱がくしまでに、人々女郎達磨を用ひけり、半身達磨傾城の画の讃に、       そもさんかこなさんか     九年母のすゐより出たるあまみかな 柏莚       又     九年何苦界十年花の春 同〟    〈所謂「半身の女達磨」誕生の挿話である〉   ◯『瀬田問答』①348(大田覃・瀬名貞雄問答・天明五年~寛政二年成立)   〝一、英一蝶、初は多賀長湖と申候由、大島へ被謫候年月、何頃に候や、 答、一蝶事、書留無御坐候、猶又可相尋候、凡、元禄、宝永、正徳時分の者と被存候、    覃後按に、古今人物志、英一蝶、姓多賀、名信香、字暁雲、称暁雲堂、北窻翁、号一蝶、又称簑笠翁、    又号潮湖斎、摂津人、以石州侯命師事狩野安信、意匠運筆巧玅、遂作一家、承応三甲午年、生於摂州、    有二子、長男信勝長八、次男源内、享保九庚申正月十三夜没、享年七十一、初居深川長堀町、葬東武麻    布二本榎承教寺内顕乗院、 辞世 まぎらはすうき世のわざの色どりもありとや月の薄墨の空     直政按、一蝶三宅島へ被流候は、元禄十一寅十二月なり、時四十六なり、表徳和央、呉服町一丁目新道    に住す、宝永六丑九月九日御赦免、夫より深川に住す〟    〈大田南畝の質問に瀬名貞雄が回答したもの。「覃後按」の「覃」は南畝。辞世まで記述は『大田南畝全集』(巻十七)     所収と同じだが、「直政按」以下の記述はなし。「直政」は未詳〉    ◯『大尽舞考証』⑤239(山東京伝著・享和四年正月序)   (「大尽舞」の歌詞)   〝扨其次の大尽は奈良茂の君でとどめたり、(中略)附添たいこはたれ/\ぞ、一蝶民部にかくてふや(以    下略)〟   〈一蝶は大尽・奈良茂の取り巻き連として扱われている。「民部」は仏師、「かくてふ」は角蝶、俳諧を其角に学び、画    を一蝶に学んだ村田半兵衛である。前出『江戸真砂六十帖』参照。この山東京伝の考証では一蝶を〝世上に普くしる所    なれば〟として記さず〉   ◯『大尽舞考余』⑤252(谿舎龢山人補・成立年未詳)   〝〔一蝶〕多賀長湖と云よし、諸分名女煙草に、正徳年中の刻、波賀長歌など、至りな末社共が、万能に    達して、仕て取た跡なれば、さりとはむづかし、別に波賀長歌とも云たるにや、百人の美婦を刊本に造    りし故、一蝶、民部、角てふ、遠島〟    〈『大尽舞考余』は前項、山東京伝の『大尽舞考証』を補ったもの〉   ◯『墨水消夏録』②253(伊東蘭洲著・文化二年六月序)   〝一蝶寺并伝     深川高橋黄竜山宜雲寺を、世に一蝶寺といふは、一蝶島より帰る時に、暫此寺に居、杉戸、屏風、掛物    等迄、悉一蝶が画なる故也、一蝶、本姓多賀、承応元年摂洲に生る、父は多賀伯庵といふ医者也。寛文    六年、十五歳の時、江戸に下り、画を好て狩野安信を師とす、名は信香といふ剃髪してより潮湖と称す、    後一家をなせり、書を佐々木玄竜に学び、俳諧を嗜て芭蕉にしたがふ、翠蓑翁、牛丸、暁雲、旧草堂、    隣松庵、隣濤庵、北窓翁等の称あり、性胆勇なれども、母につかへて孝あり、島より帰りて、其画ます    /\世に行はる、島に流されしは元禄六年十二月八日、三宅島に流さる、この時、本銀町三丁目村田平    兵衛、本石町四丁目仏師民部三人、百人女﨟といふ書物一冊、本屋摺出しぬ、これは、諸大名方奥形の    器量の好不好、其品々を明白に書たり、よりて詮議の上、右三人遠島となる、宝永六年に大赦にあひ、    帰国せり、島に居る間も、画を母に贈りて、衣食、小遣に充しとなり、一蝶母の名を妙寿といふ、一蝶    謫せられし後は、其友人横谷宗珉、檜物町の宅に養はる、一蝶肝勇なることは、或時、両大国の君、石    燈籠を争ひもとめ給ふと聞て、やがて走行て、数多の金を出しておのがもとめて、狭き庭のうちにうつ    しける、折しも、初茄子を売ものあり、価の貴をいはず需て、生漬といふものにして喰ひ、かの燈籠に    火をともし、天下第一の歓楽なり、といへり、其磊落豪放、凡此たぐひとぞ、或人云、島にありしとき、    ある朝、草花に蝶のとまりしを見居ける内に、赦免の船来りしかば、これより一蝶と改とぞ、文雅も有    し人故、其遺文、又発句、画賛等もあり    (以下、一蝶の著作、「朝清水記」(元禄十五年、配所での作)、「朝妻舟」「短夜の早歌」「投節」な     どの小唄、発句、「画軸の跋」(『大田南畝全集』巻十八の「浮世絵考証」所収「英一蝶四季絵跋」     と同文)あり、略) 一蝶帰国の後、宜雲寺の住僧へ、形見にとて、七十の齢にして、寺院の障壁にこと/\く画す。惜哉、    大水の時損じ、其後消失して今はなし、一蝶、享保九年【〔傍注〕正月十三日】七十三にて没す、墓は    麻布二本榎承教寺塔中顕乗院にあり、碑面に、英授院一蝶日意と記、〔頭書〕一蝶辞世、まぎらかすう    き世の業の花とりもありとや月の薄墨の空〟    〈遠島は元禄十一年が正しい。また、同時に謫せられた二名の名も異なっている。辞世の方も同様、『瀬田問答』とも     次項の『無名翁随筆』とも微妙に違っている〉     ◯『無名翁随筆』③283(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝英 一蝶【一蝶ノ伝諸書ニ記スルヲ見ルニ、誤リ多シ、浮世絵師ト云ニモ有ラネドモ、時世の人物を画    キ、師宣ガ絵風ニ出タル事モ見ユレバ、暫ク浮世画に列ス】     姓藤原、多賀氏、【一英氏ト云、母ノ姓花房ト云】摂州大坂の人也、俗称助之進、父は医師也、十五     歳の時、江戸に来り、狩野安信【古右京養子、探幽、尚信、常信、安信続、慶安、正徳の人】門人と     なる、名は信香、一に安雄、始め多賀朝湖と云、後に英一蝶と改め、一家をなす、書画ともに能す、     風流の秀才子也、号翠蓑翁、【一蓑翠ト云ハ誤ナリ】牛丸、【幼名ト云ハ非ナリ】暁雲、【俳諧ノ名     也、暁雲堂トモ云】旧草堂、一蜂閑人、【後ニ門人ニユヅル】隣樵庵、鄰濤庵、北窓翁等の数号アリ、    伝に曰、一蝶は親に孝なりし人と云り、俳諧は芭蕉翁の門人にして、其角、嵐雪等と友なり、名を暁雲    和央、一に作和央と云しは、花街に於て呼し名なりと云り、元禄十一年十二月、【八年とするは誤なり】    呉服町一丁目新道に居住の時、故有て謫せらる、時に歳四十七歳、謫居にある事十二年、宝永六年九月、    【四年とするは非なり】帰朝せり、其後、英【一説花房とす、母の姓なりと云】一蝶と称し、北窓翁と    号す、享保九年甲辰正月十三日歿す、行年七十三歳、麻布二本榎日蓮宗承教寺塔中顕乗院に葬る、     辞世 まぎらかすうき世の業の色どりもありとや月の薄墨の空 一蝶〟    一蝶に老母一人あり、剃髪して妙寿と云、一蝶八丈島に配流せられて後、一蝶が友宗珉が家にやしなは    る、宗珉俗称横谷次兵衛、檜物町に住す、正徳三巳年三月三十日歿す、顕乗院に葬す、【以上、類考追    考、京伝が記】     一説に曰、一蝶配流せられ、老母を養ふ親族なし、官舎へ此事を願ひ、謫居より画を売事を赦せられ     其価を以母を養ふ、島一蝶と云は是なりと云、未詳【誤ならんか、横谷宗珉へ謫居の図を母に見せ度     送りしは、私のことなり、ひさぐべき画の中へ入て送りたるを思へば、是とするところもあり】    嵐雪選其袋【元禄三年板一蝶句あり】     花に来てあはせ羽折の盛かな  暁雲     朝寐して桜にとまれ四日の雛  同 
        「英一蝶系譜」       一蝶の画鑑定するに、狩野安信の門人なれども、狩野氏にて是をせず、骨董画といやしめて不用、町     画となりしゆゑなり、土佐の又兵衛是に同じ、    或書に曰、元禄の比、五代将軍綱吉公【常憲院殿ト申ス、宝永六年薨去】好色に耽らせ給ひ、吹上御殿    にて御遊興に美を尽し給ふ、第一の御寵愛にて、五の丸お伝の方と申君の御心に叶ひける、【お伝の方    は、至極小身の十五俵一人扶持、黒鍬組白須才兵衛娘なり、后年に至り御旗本に昇進して、一度朝散大    夫白須遠江守に任ぜられたり】此お伝の方小鼓の上手にて、公御謡遊せば、御側にて一調を打つ、或時    は吹上御庭の池に舟を浮め、公は棹をさし御楽遊す、是平日のことにて、不知人はなし、其比、多賀朝    湖と云画師、百人女﨟と云絵を書て、貴賤の姿画を写し、其中に世上専ら風聞故、舟中に鼓を打、棹し、    謡給ふありさまを、うつくしく書たり、此事誰が公に訴奉りけん、立所に、奉行所に召捕れ、入牢す、    罪の表は、朝湖御禁制の殺生を好み、鳥を取、魚を釣ける御咎に、遠流仰付られける、朝湖願に寄、配    処へ絵具持参御免被仰付、配所にて一子を設けしを、島一蝶と云、后、御赦免ありけり、百人女﨟の内、    お伝の方舟遊びの体、至極の出来にて、御咎に逢しは、其業に依て刑せらるゝ事、本意にも近かるべし、    と憂ふる色もなかりしとなり、百人女﨟の絵は、我心にも、いみじく出来しとおもひしが、図を書改め    たり、今は十が七八は伝へず、英一蝶と名を改、朝妻船と云絵を書り、鼓を持舞装束の白拍子船に乗た    るは、以前の図をやつせしものなり、当時英一蝶など、専ら此図を画く、一蝶浅草寺境内にて千幅絵を    書し時も、人々是を好みけるとかや、    或書に、於伝の方実父白砂才兵衛、甲州士甲賀同心、三十俵二人扶持、新地千石に召出さる、甲賀与力    小山田弥市、才兵衛にいこん有て、討はたし行衛しれず、五の丸様御歎に付、御威光を以て、下総竜ヶ    崎にて召捕、江戸中引廻しの上、品川にて磔に掛られたり、才兵衛改易となり、五の丸様御願にて、美    濃八幡の城主遠藤右松、早世にて断絶す、才兵衛実子御取立にて、双方家名相立、新地一万石にて、江    州三上城主遠藤主膳正胤親と名乗る、窓のすさみに曰、山田弥七郎と有り、【此書ニ宝暦七年トアリ】    讃に云、あだしあだ波よせてはかへる浪、浅妻船のあさからぬ、嗚呼またの夜は、誰に契りをかはせて    色を、枕はづかし、うらみがちなるわが床の山     後水尾院御製      今宵寐ぬ浅妻船のあさからぬ契りをたれにまたかはすらん    讃の趣異り、隆達が破れすげ笠しめ緒のかつら、永く伝り有る、是から見れば、あふみのや、あだしあ    だなみよせてはかへすなみ、あゝまたの日は、たれに契りをかはせて色を、枕はづかし、よしそれとて    も、世の中うらみがちなる我床の山、と有り、世にしる所なり、    此英一蝶の百人女﨟の絵をもとゝして、後、洛陽の西川祐信と云浮世絵師、百人女﨟品さだめと云好色    本を書けるとぞ、以上、        近代絵事の巧、北窓翁に若くは莫し、其の気象の豪放、筆力の遒勁、以て古名人に追蹤するに足る。新    奇洒落、其れ独り得る所の者なり。翁姓多賀氏、諱信香、一名朝湖、又暁雲、翠蓑、隣樵等の別号有り。    考白庵と曰ふ、諱某、京師人。翁幼くして江戸に遊ぶ。某侯嘗て其の頴悟を愛で、画を牧心斎先生に学    ばしむ。居ること久しうして、尽く其の筆法を得。時に又戯れに岩佐重起、菱川師信に倣ひ、時世の風    俗を画く、春蠶糸を吐き雲行流水の姿有り、而して翁の名籍甚だし。元禄中事に坐し、三宅島に配流せ    らる    〈原漢文。『温知叢書』本には「北窓翁退筆塚記」とあり。「春蠶糸を吐き雲行流水の姿」は画筆軽妙自在の喩え〉       因曰、一蝶は小歌の作なども多く、自画賛の句枚挙すべからず、松の葉【元禄十六年の板行、小唄を     集たるものなり】しのゝめと云小唄は、一蝶の作也、洞房語園には、みじか夜の早唄、一名かやつり     草と号て、是をのせたり、浅妻舟の賛も、其比、節を付てうたひけるにや、松の葉【後編を松の落葉     と云】の端歌の部に載たり、宝永の比、吉原つれ/\草と云物にかやつり草の朝湖が歌こそ、又あは     れなる事おほかめれ云々、或説に、一蝶声よくて小唄をうたひけるよし、老人となりても、紀国や文     左衛門などに付て、廓中にのみ暮したるとなれば、左も有るべし、三谷何某が蔵する所、一蝶八丈島     【一本に三宅島】に在りて、母の元へ謫居の趣をこまかに画き送り越したる物有り、横谷宗珉の家に     のこりしものなりとぞ、【以上、追考説】
        「英一蝶四季之絵跋」        按るに、多賀朝湖呉服町一丁目新道に住せしに、元禄五寅年十二月、三宅島に流さる、時に歳四十六   也、宝永六丑年九月後赦免、深川に住す、是謫居より帰りての文なり、享保九年四月二日歿、【以上   類考】【深川藪の内一蝶と云者】  湯原氏記云、元禄七年四月二日、従桂昌院様六角越前守へ被進之、金屏風一双、吉野竜田の図、多賀朝  湖筆、本願寺へ同一双、大和耕作之図、同人筆、新門へ、以上〟    〈記事の多くは京伝の『浮世絵類考追考』によっている。ここに京伝及び渓斎英泉の「浮世絵」観を窺うことができる。     画題としては「時世の人物」、画風は菱川師宣風である。一蝶の立場は京伝には微妙に映っていた。「暫く浮世画に     列す」と留保がついている。とはいえ上記のように狩野派からは「町絵」と蔑まれて無視されている〉   ◯『神代余波』③122(斎藤彦麿著・弘化四年秋序) 〝二代目市川団十郎が日記だつ、老の楽といふ随筆の中に、我幼年の頃、始て吉原を見たる時、黒羽二重    の三升の紋の単物振袖を着て、右の手を英一蝶にひかれ、左の手を晋其角にひかれて、日本堤を行し事、    今に忘れず、この二人は世に名をひゞかせたれど、今はなき人也、我は、幸に世にありて、名も又頗る    聞えたり云々とあり、(以下略)〟    〈一蝶と其角に手を引かれたという二代目団十郎のこの挿話は「燕石十種」巻五所収の『老のたのしみ抄』     にはない。『神代余波』の編者斎藤彦麿は別系統の写本でもみたのであろうか。それにしても、其角・一     蝶(暁雲)・団十郎(柏莚)、芭蕉なき後、江戸座俳諧の場は、さながら流行の最先端を行く、文芸・画芸・     演芸の達人たちの華やかな交流の場であったようだ〉   ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶 二代    ◯『無名翁随筆』③284(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「英一蝶」の項、初代一蝶門人)「英一蝶系譜」   〝二代目実子 一蝶【名信勝、俗称長八、一説、二代目一蝶ハ八丈島ニテ出生ス、赦ニアフ時、共ニ江戸ニ    具シタリ、之ヲ島一蝶ト云ト】〟    〈なお「島一蝶」には、老母を養うため、役所に願い出て、英一蝶が三宅島にて画いた作品の呼称という説もある。同     書③284〉   ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蜩   ◯『無名翁随筆』③284(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「英一蝶」の項、一蝶門人)「英一蝶系譜」   〝二男 一蜩【俗称多賀百松、後、源門ト云】〟   ☆ いっぽう はなぶさ 英 一蜂   ◯『無名翁随筆』③284(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「英一蝶」の項、初代一蝶門人)「英一蝶系譜」   〝門人 一峰 号春窓翁〟   ☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿(北川豊章参照)   ◯『無名翁随筆』③301(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝喜多川歌麿【(空欄)年中歿す】     俗称勇助、居始弁慶橋、又久右衛門町、後馬喰町三丁目に住す、号紫屋、江戸の産也、    はじめは石燕豊房の門人に入て、狩野家の画を学ぶ、後一家をなして、浮世絵中興始祖の名人と呼れし    なり、男女の風俗流行を写す事、近世此人より錦絵の華美を極めたり、自云、生涯役者絵をかゝず、劇 場繁昌なるゆへ、老若男女贔屓の役者あり、是を画きて名を弘るは拙き業なり、浮世絵一派を以て世に 名を轟すべし、と云しとなり、其意に違はず、其名海内に聞ゆ、一豪傑と云べし、     因云、長崎の人へ、清朝の商船より歌麿が名を知て、多く錦絵を求たり。唐までも聞へし浮世絵の名     人なり。殊に春画に妙を得たり、此人浅草の水茶屋難波屋おきくの姿絵を出せり。かさもりおせん、     おぐらやおふじ、なにはやおきく、三人狐けんの絵あり。絵本太閤記の図を出して、姑く咎めを受け     たり。其の後、咎の事ありて獄屋に入しが、出手間もなく病死す、おしむべし。文化年間中、奥州岩     城ゆおり来れるものあり。此人浮世絵を好む一癖あり、元江戸の産なりしが、業ひを旅中にのみす、     南部、出羽、加賀、能登に往来す。其比、江戸にては一陽斎豊国の役者絵専ら行る。此人云、遠国他     郷に往ては、江戸絵名人は歌麿とのみ云て、豊国の名を知る人は稀にもなかりきし、と云り、流行の     役者絵は、白雨の降が如し、其用る処のみなりし、歌麿が高名なる、是にて知るべし。     役者絵に、市川八百蔵一世一代、おはん長右衛門の狂言をせし時、桂川の絵評判して、求めざる人な     かりし、歌麿は、美人画にておはん長右衛門の道行の絵を出し、是に讃を書り、近頃浮世絵かき蟻の     如くに這ひ出しむらがれる趣を、悉く嘲りて書たり、今蔵る人多く有べし、    歌麿に門人多し。浮世絵のみにあらず、花鳥虫魚写真等、精巧細密の彩色摺画本等多し、此人伝奇説多    しといへども、委しくは別記に追てしるす、姑くこゝに云はず、浮世絵類考曰、始め、歌麿通油町蔦屋    重三郎と云絵双紙問屋に寓居せしとあり、      吉原年中行事 彩色摺二冊 十返舎一九狂文入      絵本 百千鳥 極彩色狂文入      同 虫選   極彩色狂歌入     其他、枚挙するにいとまあらず、世に知所なり
        「喜多川歌麿系譜」      歌麿云、吉原年中行事を大に流行す。作者十返舎一九が云、吉原の事を委しく書し文章故に行れし、と    云けれども、歌麿は、絵組ゆへに行れし、と互いにあらそひ、大いに取合となりし事ありしとぞ。是を    以て其気質を察するに、大にほこりし人と見ゆ。歿以前、絵草紙問屋云あはせ、歌麿必ず病死すべしと    て、各錦画板下を頼み込み、夥敷く書物多かりしとぞ。其比は外に画者なきが如く、錦絵をさせず、是    末なるべし、或画双紙問屋の老人ものがたりし〟   ☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿 二代(恋川春町二代参照)   ◯『無名翁随筆』③303(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「喜多川歌麿」の項、歌麿門人)「喜多川歌麿系譜」   〝歌麿門人 二代目歌麿【俗称(空欄)、馬喰町ニ住ス、文化ヨリ天保ノ頃ノ人、二世恋川春町ト云シ人    ナリ、書ヲ善ス故、歌麿ガ妻ニ入夫セシナリ】〟   ☆ えい かつしか 葛飾 栄女   ◯『無名翁随筆』③312(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「葛飾為一」の項) 「葛飾為一系譜」 〝葛飾為一 女子栄女【画ヲ善ス、父ニ従テ、今専画師ヲナス、名手ナリ】〟   ☆ えいざん きくかわ 菊川 英山   ◯『無名翁随筆』③315(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝菊川英山【文化、文政ノ比】     俗称為五郎、市谷ノ産、居麹町ニ住、号重九斎、名俊信。    始め父英二に業を学びたり(英二に関する割書、略、菊川英二参照)北渓は幼年以来の友なりしかば、    其画法を慕ひ、北斎流の画をかけり、古歌麿歿故して、後自立して歌麿の画風に似せて一家をなし、板    刻の美人画を出せり、大に世に行れたり、豊国、春扇と並び行れて、浮世美人絵中興一家の祖となり、    始めは役者絵も書けり、【文化三四年ノ頃、堀江町ノ団扇問屋、故有テ悉ク豊国ノ新板絵ヲ不出、一年    英山ノ役者画ノ団扇バカリ出セシ事アリ、其翌年ノ頃ヨリ、国貞モ、ハジメテ歌右衛門ガ猿回シノ与次    郎ノ画ノウチハヲカキシナリ、夫ヨリウチハ画、年々□(ママ)英山ハ役者画ヲヤメテカゝズ、美人画ヲ多    く出セリ、国貞ヨリ二三年モ早ク世ニ行レタリ、錦画、麹町三河屋伝左衛門ト云絵双紙問屋版元ニテ、    始メテ英山ノ画ヲ出シ、大ニ売レシト云、歌麿歿シテ美人画絶タリ、時ニ逢シモノナリ】役者画は豊国、    美人画は英山と並び行れ【豊国ノ役者画ノ上表紙ニ、一陽斎ノ画像ヲ英山画シ、英山ノ画ニ、豊国寄合    書キ等アリ、交深ク、タガヒニ懇意ナリシカバ、諸侯方ヘモ二人ヅヽ、席画ニモ出、絹地彩色画モ両人    ヘ命ゼラレタリ、年ノ字、年菊の字、菊織物煙草入ナドヘチラシニ付タルヲ持リ、現ニ在リ、英山ハ南    嶺ノ門人ナリ、能ク写意ヲ学べり】草双紙四五種あり、【竹塚東子作、三馬作、大雞塚、板元西村是ハ    ジメナリ、橋本徳瓶作、二三年続テ出タリ】読本は不画、美人浮世風俗は、狂言振と不似、やはらかに、    当時の風俗をかき、遠国迄も名高き一時の妙手なり、錦絵は夥敷開板せり、世に知る処也、文政の末よ    り業に廃せられて、多く板下を不画、門人多し、菊川流と改む     菊川英山門人      英章【錦画、浅野氏、ウチハアリ】  英泉【別ニ記ス】      英里【錦画アリ、冬木氏】      英信【スリモノ画多シ、安五郎】      光一英章【春画本アリ、狂言作者ナリ、名章三】      英蝶【スリモノ画アリ】     其外数十人あれども、板刻の画をかゝざるものは、爰にのせず。    因に云、英山は画才あれども、読本、草双紙を画く事には甚疎し、十返舎一九の貧福論のさしゑは、此    人の画なり、草双紙も徳瓶が作の姉川頭巾と云し双紙の画は、豊国の人物の中に、自己が女画を書加へ    しゆへ、其頃評判もよかりしゆへ、北嵩も是に倣て画し草双紙、よみ本、多くありしなり〟    〈一九の「貧福論」とは文化九年刊の滑稽本『世の中貧福論』前編、「国書基本DB」は一九画とする。     「姉川頭巾」とは文化九年刊の合巻『黒船染姉川頭巾』〉   ☆ えいざん つきおか 月岡 栄山   ◯『無名翁随筆』③320(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「堤等琳」の項、三代目等琳門人) 「堤等琳系譜」   〝月岡栄山【浅草山谷】〟   ☆ えいし べいかさい 米花斎 英之   ◯『無名翁随筆』③317(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「英泉」の項、渓斎英泉門人) 〝【米花斎】英之【俗称源次郎、麹町、中本、読本ニ多ク出セリ】〟   ☆ えいし ちょうぶんさい 鳥文斎 栄之   ◯『無名翁随筆』③295(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝細田栄之(空欄)年中ノ人     俗称(空欄)、細田氏、始浜町、後本所割下水住、姓藤原、時富、号治部卿鳥文斎      天明より寛政の間、浮世絵の風俗を能写して、絵画に美人傾城画多し、専ら世に行る、故有て姑く筆を    止む、狩野流の筆意を学んで、今猶彩色絵多し、門人、栄理、栄昌、外多くあり〟   ◯『戯作六家撰』②69(岩本活東子編・安政三年成立)   (文政三年三月上旬の記事)   〝栄之翁の書画会ありける時、隅田の桜のかた画たるに 三馬    隅田堤老木も時におくれずといつもお若い花の顔ばせ    狂歌堂真顔翁、傍におはしけるが、我も流行にはおくれじとて、文晁翁が蝶のかた画きたる扇に 真顔     今はやる人のかきたる絵扇は蝶々静に腰へさしこめ    猶おのれにも歌よめとありければ、ことばの下に 三馬     今はやる蝶々静とよまれては急に趣向もこりや又なしかい    時は文政の三とせ弥生のはじめつかたなりき 式亭書〟    〈当時「てふてふしづかにさしこめ」という囃子入りの唄が流行したという記事が、上記の前段にある。また、大田南     畝『半日閑話』巻八によれば、文政三年二月「いつも御わかひ」という詞が流行ったという。鳥文斎栄之の書画会の     席上、谷文晁、式亭三馬による流行を踏まえた即興のやりとりであった〉   ☆ えいじ きくかわ 菊川 英二   ◯『無名翁随筆』③315(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「菊川英山」の項)   〝英二ハ狩野流ノ門人東舎ト云人ノ門人ナリ、板刻ノ画ハカゝズ、菊川一家ノ浮世絵師也、造花ヲ業トス、    近江屋ト云〟   ◯ 同上 ③317   (「英泉」項)   〝(英泉)戯場狂言作者初代篠田金治【後並木五瓶也】の門に入、千代田才市の名を続て作者となりしが、    再画工菊川英二が家に寓居す、【英二ハ英山ノ実父也(以下略)】〟    ☆ えいしゅん せんちょうさい 泉蝶斎 英春   ◯『無名翁随筆』③317(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「英泉」の項、渓斎英泉門人)   〝英春【俗称大木氏、小石川、春画、錦絵多シ】〟    ☆ えいしょう 栄昌    ◯『無名翁随筆』③(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「細田栄之」の項、栄之門人)   〝門人、栄理、栄昌、其外多くあり〟   ☆ えいしょう 英章   ◯『無名翁随筆』③315(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)    (「菊川英山」の項、菊川英山門人)   〝英章【錦画、浅野氏、ウチハアリ】〟   ☆ えいしょう きくかわ 菊川 英章    ◯『無名翁随筆』③315(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「菊川英山」の項、菊川英山門人) 〝光一英章【春画本アリ、狂言作者ナリ、名章三】〟   ☆ えいしょう はるかわ 春川 英笑(菊川英蝶参照)   ◯『無名翁随筆』③317(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「英泉」の項、渓斎英泉門人)   〝【初メ春川五七門人】英笑【京ノ人也、在江戸歿ス、草双紙、錦画ナリ】〟   ☆ えいしん きくかわ 菊川 英信    ◯『無名翁随筆』③315(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「菊川英山」の項、菊川英山門人) 〝英信【スリモノ画多シ、安五郎】〟   ☆ えいせん けいさい 渓斎 英泉   ◯『無名翁随筆』③316(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝英泉【文化、文政ヨリ天保ニイタル】     俗称善次郎、後里介、居住江戸数ヶ所ニ転宅シテ、住所不定、始番町、後根岸新田村、姓藤原、本姓     池田氏、【江戸産、池田氏男也】名義信、一ニ茂義、号渓斎、一号一筆庵、別号無名翁、可候、戯作     ノ名ナリ、戯作ノ草双紙、中本、春画本等アリ、 始め幼年の頃、狩野白桂斎の門人となりて画を学ぶ、【白桂斎ハ赤松某侯ト云ヘリ、狩野栄川法印ノ高    弟也】後独立して、浮世絵をかけり、【国春楼、又北亭ト云リ】青雲の志ありて、仕官に在りしが、壮    年にして流浪す、従来宋明の唐画を好み、書を読の一癖あり、通宵眠る事を忘る、戯作を楽みとして、    近世、草双紙、中本、春画、好色本を多く出せり【薄彩色摺ノ春画ニ工風セリ、画作ノ枕文庫勝レテ行    レタリ】当時流行の絵風に傚て、浮世美人絵を多く画き、一時大ひに世に行れたり、北斎翁の画風を慕    ひ、画則、骨法を受て、後一家をなす、青楼【新吉原を云】遊女の姿を写すに委く、其家家の風俗、襖    姿を画くに、役者の狂言振に似せず、時世の形体を新たに画しは、此人に起れり、近頃、国貞も傾城画    は、英泉の写意に似せて画し者也、役者絵はかゝず、浮世絵師の見識を慕しと見ゆ、草双紙、合巻、中    本、繍像、読本、数十部を画く、此人僅文化の末より文政の間大に行れたれども、筆する処の読本、錦    画、夥敷板刻せり、【団扇画モ多シ、近世藍摺ノ錦画ハ此人の工風ヨリ流行ス】京、大坂の書肆より、    読本多く出板す、三都の刻本を、江戸に在住して画しは、北斎と此人のみ也、門人も多くありし、      浮世画譜【画手本】自初編至十編 尾州名古屋本町一丁目、書林東壁堂永楽屋東四郎板      容艶画史【美人画ノ画則也】 江戸書肆合刻      錦袋画叢【諸職ノ画手本】 大坂心斎橋博郎町北へ入、群玉堂河内屋茂兵衛板      絵本初心画譜 馬喰町二丁目 西村屋与八永寿堂板      画本 芝神明前 甘泉堂和泉屋市兵衛板     此他数本あるべし、枚挙するに遑あらず、別記に出す     渓斎英泉門人      英春 【俗称大木氏、小石川、春画、錦画多シ】     【初メ春川五七門人】英笑 【京ノ人也、在江戸歿ス、草双紙、錦画ナリ】     【米花斎】英之 【俗称源次郎、麹町、中本、読本ニ多ク出セリ】     【英斎】泉寿 【俗称伊三郎、錦画、中本、ヨミ本多クアリ、浪花ニ在住シテ名ヲ改ム】     【貞斎】泉晁 【俗称吉蔵、霊岸島、草双紙、錦画多クアリ】     【紫領斎】泉橘 【俗称仙吉、向島、中本多ク、画作ヲ出セリ、筆耕ヲ業トス】      泉隣 俗称井村氏、桜田、中本サシヱアリ     【嶺斎】泉里 【俗称弥吉、麹町、中本サシヱアリ】    板刻の画を見ざるは、爰にのせず、英の字を画名とする浮世絵師夥あり、英山門人と混同す、一時の人    なれば也、    是より漢文        略伝に云、一筆庵英泉は星岡の産也、父母存在の中は遠不出、【父ハ池田茂晴、援山不言斎ノ門人ニテ 書ヲ能ス、読書ヲ好ミ俳諧ヲ嗜ミ、千家ノ茶ノ湯ヲ楽シム、不白抔ト友ナリ】母は泉六歳の時歿す、継 母なりしが、更に其心なく、双親に仕て至孝なり、尤家貧しかりけり、文化の始め、父は夏歿し、母は 冬歿す、幼き妹三人を養育せしに、讒者の舌頭にかゝり流浪の人となる、水野家に血族多くして、撫育 せられしが、世のなりゆきを歎じ、志を廃して浮世絵師となり、戯場狂言初代篠田金治【後並木五瓶也】    の門に入り、千代田才市を名を続て作者となりしが、再画工菊川英二が家に寓居す、【英二ハ英山ノ実 父也、其頃英山行レテ、諸侯ノ召ニ応ジ、彩色画多クアリシガ、肥州侯命ゼラレ、門人不残ノ画ヲ集給 フ、其列ニ入テ英泉ト画名ヲシルシ出セシヨリ、是ヲ名トス、英山門人ト云フ始メナリ】元より名を不 好、飄々として住所を不定、酔るが如く凧を画き、羽子板、幟絵を彩り、需に従て辞することなし、 【此頃凧ヲ画クモノハ一日二百文ナリシヲ、英泉七匁五分ヅゝ取シナリ、是ヨリ以後、他人モ今ニ至テ 三匁ト定リシト云、職分筆ノ達者ノ人ハ二人分ヲナス】板刻の画を半かきて行所を知らず、発客迷惑し て行所を尋れば、娼門酒楼に酔て死せるが如し、漸に其後を画て是を与ふ、芝金杉の浜に碇屋六兵衛と 云し魚問屋有、【是後ニ巴屋仁兵衛ト云ル板元ナリ】此人、従来錦絵其外の板元を業とする事を好むが 故に、泉を携て家に養ふ、泉衣類を借着して出て不帰、主人漸に行所を知て尋れば、人の衣類を酒食に 換て、酔て本性なし、虎鰒を生ながら蝶【〔傍注〕鰈カ】と共に煎て是を喰ひ、猪を好て喰し、羽(本ノ    ママ)のを戛し、下駄をはき、近辺に出しと思へば、夜船に乗じて上総木更津に至る、【木更津ヨリ五里程    入、周准郡ニ池田シノ苗家アレバナルベシ】かゝる放蕩無頼の人といへども、更に是を不悪、人衆の板    元のすゝめにより、居を新橋宗十郎町に定めたり、食客を集て、昼夜門に錠を不用、家主後難を恐れて、    大いに迷惑す、如此の行状なれども、親族、他人に金銀を少しも不惜、只己が業により其あたへを取て、    捨る如くに遣ふのみ、其後妻をむかへ、子無がゆへに一女子を養ふ、是より後、人に帰りて、板刻の絵    に精を抽て夜を不寝、昼夜門外に不出、拾有余年の間、彫刻発市の絵本、錦絵、衆人に勝れて筆する事    夥く、世に発市す、爰にをいて一家をなし、門人を多く置て業とするに、苦心して志をとげず、遺憾と    云べし、因て是に記す〟   ◯『戯作者小伝』②49(岩本活東子編・安政三年成立)   〝一筆庵英泉    名義信、字英泉、渓斎と号し、又無名翁と号す。通称池田善次郎といふ、茅場町植木店に住居す、画を 善くす、また戯作をなして、一筆庵の号あり、嘉永元戊申年七月二十三日没す。年五十九〟   ◯『戯作六家撰』②83(岩本活東子編・安政三年成立)   (「曲亭馬琴」の項)   〝文政十二己丑年卯月すゑの七日、渓斎英泉、予が家に訪来て、物語のついでにいはく、在下いぬる日、 曲亭翁が元にいたりし時、翁の申さるゝは、(以下、長文にのため、要旨のみ。昨日、自家製の奇応丸 を購入した者で、今春出版の『近世説美少年録』を誉める一方『傾城水滸伝』を謗る内容の封書を置い ていった者があったこと。また『傾城水滸伝』において、日本にありもしない「蒙汗薬」(痺れ薬)を 趣向として使うのは不審だとする投書があったこと。それに対して、そもそも「蒙汗薬」なるもの、    『水滸伝』の宋代にも存在しない、原本でさえ作者のこしらえ物、したがって日本においても憚ること    なし、その非難は当たらないとして、一笑に付した)と翁のいはれしとて、渓斎ものがたりき〟    〈ここの「予」は『戯作六家撰』の編者岩本活東子ではなくて、その原本となった『戯作者撰集』の石塚豊芥子である。     英泉の『無名翁随筆』は天保四年の成立、曲亭馬琴の『近世物之本江戸作者部類』は天保五年、そして石塚豊芥子の     『戯作者撰集』は天保末年以降の成立とされている。それらに先立つ文政十二年の記事である。英泉は『浮世絵類考』     『浮世絵類考追考』の典拠を持っている、馬琴は出版界での体験や見聞が豊富な上に抜群の記憶力を誇っている。ま     た豊芥子は『稗史通』(墨川亭雪麿、文化十年成立)や北斎の聞き書きを典拠としている。こうした出会いがもたらし     た影響はどのようなものであったのだろうか。因みに、英泉は曲亭馬琴の七作品に挿画を画いている〉   ☆ えいちょう きくかわ 菊川 英蝶(菊川英笑参照)   ◯『無名翁随筆』③315(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「菊川英山」の項、菊川英山門人)   〝英蝶【スリモノ画アリ】〟    ☆ えいり 栄理    ◯『無名翁随筆』③(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「細田栄之」の項、栄之門人)   〝門人、栄理、栄昌、其外多くあり〟      ☆ えいり きくかわ 菊川 英里    ◯『無名翁随筆』③315(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「菊川英山」の項、菊川英山門人)   〝英里【錦画アリ、冬木氏】〟