「根来滅亡」 「根来紀行」
根来衆の武装図=貝塚市史より
(根来寺蔵「兵法虎の巻」)
20.21章
小牧長久手の戦い地図
(日進市教委「岩崎城の戦」より
旧参謀本部編 日本戦史小牧役)
(正進社 総合日本史地図)
12、79章
根来寺と貝塚の戦場の地図
34、52章
(正進社 総合日本史地図)
【あらすじ】
「根来紀行」
出典は後日掲載します。 根来の戦跡
【横組み】 縦組みは下に 根来寺
nego1
風吹峠 . 根来・和泉守護抗争の場
nego2 根来の門前
nego3 成真院
nego5 覚鑁上人
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nego7 鉄砲修行
2013年10月25日 katagi
nego8 月夜に霜
nego9 家康への懐疑
nego10 大衆詮議
nego11 定尋の熱弁
nego12 槍部隊
nego13
教如落魄.
nego14 貝塚の海
nego15 和泉発向
nego17
尾張出兵
nego18 松林の戦い
nego19 敗退
nego20
小牧長久手の戦い
nego21 長久手の苦汁
nego22 奥の院
nego23 明算思索
nego24 田植え
nego25 七山村
nego26
島の人たち
nego27 和解
nego28 ささら越え
nego29
疫病神
nego30 平家物語」
nego31 岩室坊
nego32 高野と根来
nego33 粉河への誘い
nego34
専識坊
nego35 三池坊の勧説
nego36 茶々
nego37 桜の記憶
nego38 火花
nego39 能狂い
nego40
屏風絵の少女
nego41 茶の楽しみ
nego42 台子の茶
nego43
台子と利休
nego44 内向する怒り
nego45 仏の相伴
nego46確執
nego47 古田織部
nego48 交渉
nego49
娘たち
nego50 和泉の国
nego51 武士
nego52
旅引付
nego53 説得交渉
nego54 明算と秀一
nego55
銃声
nego56 襲撃
nego57 新趣向
nego58
黒田官兵衛
nego59 神の教え
nego60 殉教への憧れ
nego61
再び大衆詮議
nego62 戦か和平か
nego63 激論
nego67
足利氏
nego68 秀一逃走
nego69 応其と秀一
nego70 (欠番)
nego71 秀吉逆上
nego72 右近の苦悩
nego73
フロイス
nego74 小西行長
nego75 真鍋貞成
nego76
日根野元就
nego76続き 日根野
nego76(続々)悲劇の淡輪氏
nego79
攻撃開始
nego80 神前是光の苦汁
nego81 狙撃
nego82
畠中城への投降勧告
nego83 城内の葛藤
nego84 僧兵と武術
nego85
千石堀城の攻防
nego86 両軍の陣容
nego87 おちかの死
nego88
高井城の陥落
nego89 根来攻撃
nego90 天狗草子
【縦組み】
negoro70 (keuban)
◇
05年の年末30日にまた、貝塚の根来の戦跡を訪ねました。420年前の悲劇はすっかり忘れ去られ、人々は迎春準備に追われておりました。
砦の守将たちの子孫はいまも、先祖が血を流して守った土地に住み、恵まれた暮らしをしているようでした。先祖ありゃこそー。
畠中(はたけなか)砦の中心になった要(かなめ、旧姓神前=かんざき)家。
100メートル四方の広大な敷地は土塀で囲まれ、砦の面影を残しています。
ここには地元の百姓たちがたて篭りました。秀吉軍の猛攻によく耐え、
最後は貝塚願泉寺の住職の説得で無血開城しました。
平安時代815年に編纂された氏族名鑑「新撰姓氏録」に百済(くだら)
からの渡来人である神前氏の祖先の神前連(かんざきのむらじ)賈受君
(読み方わからず)が従六位上の位を賜ったことが出ています。663年
の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本が負け、百済が滅びたときに亡
命した百済の王族の子孫でしょうか。
神前家は1186年、源義経に味方して頼朝に追われた源行家を自宅に
かくまったそうです。行家は捕らえられ、殺されます。
激戦があった千石堀城。根来の主力が奮戦しましたが、筒井定次の
兵が放った火矢が城内の火薬庫に引火し、女子供を含む五、六千人
全員が死んだと伝えられています。道路から数十メートルの低い丘です。
正月前で近所の人が飾りの松を取りにきていました。「もっと貝塚市教委
はちゃんと整備しないと」といっていました。千石堀城あとで。200年後の
江戸時代文化のころに焼け焦げた米俵が出土した記録が残っています。
根来衆と地元の百姓200人が守っていた高井砦。福島正則の攻撃で、
城将の行(ゆき)左京ら全員が討ち死にしました。行さんの子孫はいまも、
砦の近くにたくさん住んでいます。縁者までは殺さなかったようです。
根来の防衛線になった近木(こぎ)川。写真右側の河岸段丘に積善寺
(しゃくぜんじ)城が築かれました。城将、出原(いづはら)右京の子孫の
お宅はいまも立派な家が多いようでした。この城も説得で無血開城しました。
根来焼き討ちのときに巻き添えになって焼かれた
水間観音の塔(江戸時代に再建)。泉南名物の
蒸し和菓子「村雨」を買いました。初詣の準備中でした。