中国雲南・貴州を訪ねて

2002.8.10−17


大理・麗江・貴陽の少数民族との交流の旅


連日の猛暑、毎夜の熱帯夜。今年の夏も「異常」という名がマスコミに踊る。インドでは熱波、ヨーロッパでは洪水、そして、我々が向かう中国南西部も記録的洪水に見舞われていた。6月には「死者数百人、被災者1億」との情報がインターネットに載る。「本当に行けるのか」との不安は、7月に同地を旅した知人から「大丈夫だった」との情報で払拭されたが、なにせ行ってみなくては分からない。
昨年の中国内モンゴルを中心として行われた「中国辺境ツアー」からちょうど一年、同一メンバーでの2002年の旅は8月10日(土)の成田出発から始まった。

今年の出発は成田発11時50分の便ということもあって、自宅からの時間を考えてもかなり楽なスケジュール。少し時間に余裕をもって出かけた私たちは成田空港内で朝食をとり集合時間を待ったが、さすがにお盆休み初日とあって空港内は旅行客でごった返している。定刻、全員集合。1年ぶりに再会した挨拶を交わしいざ中国へ約5時間のフライトだ。

昆明空港に着いたのは午後6時近く、東京とは1時間の時差があるので6時といってもまだ真昼間である。着後すぐにマイクロバスで一泊目のホテル「昆明飯店」(昆明市東風路52号)に直行。約30分後にホテル着。直ちに部屋割りをして荷物を置き、旅行最初の夕食となった。円卓テーブルに並べられた特別料理。きのこ料理のオンパレードだ。真ん中には海老をかたどった肉料理が色鮮やかだ。「さぁ、これからどんな行程となるのやら」と期待に胸を膨らませて食事を終わると、まず最初の企画は「雲南歌舞ショー」の見物。ホテル近くの公演会場まで出かけての観覧だが、例によって中国特有の高音鳴り響き、ピンクや青の照明に照らされて民族衣装を身にまとった踊り子たちが華麗に踊りまくり、旅の疲れを癒すというより、覚醒作用のほうが大きい。内容は少数民族の恋物語だということで、女性を巡って男たちが様々な笛を使って誘惑する姿を描き出していた。ショーが終わったのが10時過ぎ、外は本格的な雨だ。

   

翌朝、5時30分モーニングコール。まだ外は暗い。朝食に行ったらまだ準備中だという。実はこれは場所違いで、我々の朝食場所はくねくねと通路を通った裏の裏。バイキングとは言えない程度の軽い朝食で、早々に切り上げ出発。昆明空港を7時45分発の中国雲南航空で大里に向かう手はずであった。しかし、ここでまず一難。飛行機が飛ばない。大里空港が雨雲のため視程不良だとのことだ。たしかに空港から山の方をみれば雲が低くたれ込んでいる。飛行時間は約40分ほどなので、大した距離ではないが、なにせ大理は高地。こういうことはちょくちょくあるのだろう。
待つこと2時間、ようやく昆明空港を飛び立った中国雲南航空3Q4445便は雲海広がる中、北にむかう。そして大理空港に降り立つ直前、眼下に見えたのは一面の紅い大地であった。この紅い大地を縫うように走る無数の川がやがて長江へと流れ込む。
民族衣装をまとったガイドのお嬢さんが出迎えるなか、我々は雨の大里への一歩を踏み出した。大理は白族(ぺー族)自治州の州都で、標高約2000bの山岳地帯だ。ガイドさんの来ている衣装は白族の民族衣装で、頭に被っている帽子は「風・花・雪・月」の大理四美を表しているとか。それにしても白やピンクの美しい民族衣装だ。



彼女のガイドで我々はまず「蝴蝶泉」へ。「蝴蝶泉」は文字通りの泉で春には合歓の木が咲き、数千の蝶が踊ると言われているところだ。「蝴蝶泉」には伝説がある。泉の側に住んでいた美しい娘が、結婚を約束していた青年との仲を領主に引き裂かれた悲しみから青年とともにこの泉に身を投げたというもの。その時、七色に輝く大きな蝶がに導かれて無数の蝶が泉を覆ったという。似たような話しは日本の各地にもあるようで、身近では万葉集にも詠われた「手古名」の伝説(千葉県市川市)がある。
大理石で囲まれた泉には郭沫若の書による「蝴蝶泉」の題字があったが、この郭沫若の書はこのほかにも各地で使われていた。
泉までの道は石畳になってはいたが、雨のために水たまりが多く歩きにくかったし、観光客の傘に遮られて見通しも悪い。途中、土産物屋もあるが、やはり雨のため商いは低調のようだった。

   

昼食後、我々は藍の絞り染め工房に寄った。石造りの家が列んでいて人影も少ない村の一画にあった藍染屋さんだったが、若い女性が何人か働いていて、いろいろ商品を勧めていたが、メンバーが今年も持っていったポラロイドカメラが威力を発揮し、「私も撮って」とせがまれる有様、お礼にと藍染のコースターを分けてくれたりした。最後には出口まで見送ってくれた姿が素朴で印象的であった。

   

この日はかなりの強行軍である。我々は続いて喜洲(ペー族の村)を訪れ、ぺー族の古い建築を見学、その中で三道茶を飲みながら民族舞踊を見る。三道茶とは「一苦、二甘、三回茶」で表すぺー族のもてなしで、要するに三種類のお茶を飲みながら踊りを見るという大理名物の一つだそうだ。

 

依然降り続く雨のなか、ジャリ道を抜けると、そこは耳海である。大理市の17%を占めるという大きな湖だ。耳の形をしていることからこの名がついている。(本当は耳にさんずいがつくのだがワープロにない)。豪華版観光船にのると遊覧に4時間ほどかかるというが、飛行機の遅れで時間の押していた我々は小さな発動機舟をチャーターした。乗り場は壊れたコンクリートの岸壁脇で、舟に乗るには幅30aほどの板一枚。かなり危うい乗船であったが、なんとか全員乗り終え、向かったのは湖に浮かぶ小さな島。ここに何やら古いお寺があって、そこに行くまで両側に屋台がずらりと列ぶ。売っているものは干し魚や海老などの海産物、真鍮でできた置物や双眼鏡など、観光客相手のものだが、食べ物は生臭そうで手が出ない。小さな犬が「自分の領分を侵された」とでもいうように大きな犬を吠えながら追い払っている姿がユーモラスだった。そう言えば、昨年行った大連では、犬を飼うのは金持ちだけだと聞いていたが、今回の旅行では犬の姿が目立った。この地では犬も食べるという。即ち「空を飛ぶものは飛行機以外は全て食し、地にある四つ足はテーブル以外は全て食す」のだという。但しパンダは除くとの注意書き付きだ。

   

  

夕刻近くに三塔へ。大理古城にある三つの有名な仏塔である。昔は崇聖寺という仏教寺院の中にあったというが、今は寺はなく巨大な三つの塔がそそり立っている。大理の観光案内には必ずこの塔の写真が出ているので、すでにその外観は目に焼き付いてはいたが、実際に見るとその大きさに驚く。中心の一番大きな塔の高さは約70b、見上げると覆い被さる巨大な塔だ。
塔の前には「永鎮山川」の文字があり、自然災害を鎮める役目を果たしているという。ここから眺めると昔の人の祈りが分かるような気がするから不思議だ。
これで2日目のスケジュールは終了。レストランで夕食後ライトアップされ夜空に浮かび上がる三塔を車窓から見ながら我々は今宵の宿、亜星大飯店(大理市古城南郊旅游渡假区)に向かった。ホテル着は午後8時30分、かなり疲れた一日であった。

亜星大飯店は山の中腹にあって、近くに兵舎があるのか、昨夜は多くの人の掛け声が山にこだまし、10時頃には消灯ラッパが鳴り響いていた。そして朝、モーニングコールは7時30分とされたが、朝霞のなかに「パーパラパーッ」と鳴り響く兵舎からの起床ラッパに起こされて5時には起床。

 

今朝も雨模様だ。朝食後マイクロバスはペー族の沙坪バザール会場へ向かう。このバザールは毎週月曜日に開かれ、小高い丘の上に立錐の余地なく列んだ市場に近隣から大勢の買い物客が集まる。その熱気とエネルギーはすさまじいものであった。売っているものは野菜や肉、粉、麺類などの食料品のほか駕籠や衣料品などで、生きた動物では鶏や豚などもいて、何でもありの感じだ。雨のため坂道がぬかるみ、荷物を運んできたオート三輪車がスリップしたり、買い物客がひしめき合って歩行もままならない状態の中、どうやら一巡りはしたが、もう少しゆっくりと散策すればいろいろな発見があったのかも知れない。
この混雑の中で女性メンバーが足を滑らせ、山盛りに積み上げられた野菜に頭を突っ込み、焦った彼女は思わず「謝謝!!」と口走ったとか。この話しをバスのなかで聞かされ爆笑となった。

   

バザール見学後、いよいよ麗江へ。バスで約200q走破の移動だ。バスの中では話しがこの地の少数民族の結婚風習に及ぶ。つまり母系家族だから、男は嫁を娶らず、女は嫁に行かない。結婚は男が女の処に通うことで成り立つが、子供が出来ても男は養育しない。子供は女の家族が養うのだ。従って男に姉や妹がいれば、その子供の面倒を見る。家長は常に女である。「男の天国です」とガイドさんは言っていたが、そういうものではなさそうだ。(このことについては事前に知人から借りた「中国雲南・モソ族の母系社会」(遠藤織枝著)に詳しく書いてあった。)
昼頃には長江第一湾に到着。この長江第一湾は長江の支流である金沙江が地形に阻まれ西北から東北にV字型に大きく進路を変える名所である。観光写真などを見ると、中州も見られる大河も、この日は水量が多く、巨大な帯となって方向転換していく様は、まさに大自然の造形美だ。

 

ここから川沿いに数qのぼると玉龍雪山の麓、「虎跳峡」に至る。「虎跳峡」は両側が斧で削られたように切り立った高低差が3000bにも達する大渓谷だ。谷底の幅は30bしかなく、虎が飛び越えたという説からこの名が付いている。「虎」というところが中国的で、日本だったら「鹿跳峡」とでもなるのか。ここを長江第一湾で見た大河が一気に流れ込むのだから、その怒濤のすさまじさは言うまでもない。ゴーゴーという流れの音は周囲を圧倒している。我々は片道40分のルートを徒歩で進んだが、何人かは人力車を利用。この利用料は20元。乗った人の意見は「気持ち良かった」と「お尻が痛かった」に分かれていたが、脇で見ていても、人力車をひく若き青年たちは、かなりのスピードで跳ばしていた。
ルートは幅2〜3bの石畳で歩き易が、頭上には岩が今にも崩れ落ちそうに張り出し、実際、各所で崖崩れの跡が見られるなど、決して安全なルートとは言えない。行く手左に渦巻く急流、右に覆い被さる絶壁を見ながら進むとやがてトンネルをくぐり展望台にでる。滝のように水しぶきを巻き上げて砕け落ちる流れが眼前に広がり、写真を撮るには絶好の場所ではあるが、やはり増水のためか、波は時々展望台にも迫り、ハッとする危険な場面も何度かあった。
道はさらに先に延びるのだが我々はここでUターン。帰りは皆が徒歩で戻ったが、10元札を握りしめ最後まで人力車に乗ろうかどうか迷っていたカミさんが、結局は徒歩を選択、予想通り大幅に遅れをとり、メンバー2人にサポートされての下山となった。
「虎跳峡」を後にしたのはすでに午後8時で、我々は麗江では最高級のホテル「官房大酒店」(麗江県香格里拉大道)に入る。このホテルは連泊だ。連泊だと衣類の洗濯などができて便利だと思ったが、やってみると意外に乾きが遅く、ドライヤで乾かすなど努力が必要。内緒だが我々の部屋ではドライヤが壊れるハプニングも。

   

 

8月13日(火)。依然雨模様。まず、朝一番に添乗員からスケジュールの変更について同意を求められた。つまり、この日のメインテーマであり、本旅行の目玉の一つでもあった玉龍雪山を間近に見るロープウェイ登山を中止したいということだ。理由は雨天のため視界がきかないこと。ロープウェイにのるのに約1時間待ち、雲杉坪へ登っても何も見えない、では観光にならない、ということだ。「ごもっとも」とメンバー全員がこれを了解し、この日は麗江市郊外に出かけ観光することになった。
麗江はナシ族自治県の中心で標高は約2500b。標高が高いといっても路の両側には延々とトウモロコシ畑が続き、農民の働く姿が見られる。メンバーの中には過去にチベットに行った苦い経験から高山病を心配する声もあったが、全員元気いっぱいだ。ここは歴代王朝の地方出先機関が置かれていたこともあって、歴史的遺産が多く、街にも古い建築物が目立つ。まず行ったのが「玉峰寺」。例によって本堂までの道の両側には土産物屋がずらりと並び、本堂階段下では三人のナシ族衣装を着た女性が手をつないで歌をうたっていたが、写真を撮るとお金を求められるというので、上から隠し撮り。(何もそこまでケチらなくても・・と後から思ったのだが)。少数民族も観光慣れして、どこでもモデル料(10元ほど)を要求される。
目を引いたのは本堂前の線香。2bもあろうかという巨大な赤い線香が立てられている。まわりは線香の葉だろうが中は竹で出来ているようだった。これに触ると手が紅く染まるので、服などにつかぬよう要注意だ。まさかこれを土産に担いで帰る人もいないだろうが、30aほどの小型版を売っていて、ここでは6本ほどの束が10元(後日、別な場所では5元で売っていた。)これを買ってはきたが、はて、どこでどう使ったものやら、帰国後未だに思い悩んでいる。
この寺はチベット仏教寺院で歴史的にも由緒あるものらしいが、なんと言っても有名なのは境内にある「山茶之王」と呼ばれる椿の木だ。1400年後半に植えられ、当初は2本だったものが、成長するにつれて互いに絡み合い、3bほどの一本の木(に見えるだけだが)となったという。春には2万以上の花をつけるというから、その姿は見事だろう。

   

花と言えば、移動の途中で野の花が沢山咲いている草原に出た。思わず車を停めてももらって散策したが、菜の花やもじずりなど日本でも知られた野草があちこちに咲いていて、空気も清々しく、気持ちの良い一時であった。

   

昼頃に着いたのが白沙村の「大宝積宮」という寺で、ここには白沙壁画と呼ばれる壁画がある。壁画は写真撮影禁止とあって撮ることは出来なかったが、色使いなどが細やかで保存状態が良い。題材は大乗仏教やチベット仏教が取り上げられているそうだ。ここでは他の日本人観光ツアーと一緒になったが、その添乗員の一人が腰からテルテル坊主をぶら下げているのが笑えた。皆、毎日の雨にうんざり、早く上がることを祈っているのだ。
次ぎに訪れたのが「玉泉公園」、別名「黒龍潭」。 狭い路地を馬の糞を避けながら進んでいくと池があり、その水が透き通っていて青い。これまで、どこを見ても茶色に濁った水ばかりを見てきたせいか、この清水には新鮮さを感じるほどだ。この水が流れる小川で村人が洗濯をしたり、野菜を洗っていた。この公園の中に「トンパ博物館」があり、中ではトンパ文字(象形文字)の実演販売をしていたり、ナシ族の伝統文化を紹介している。トンパ文字と言えば、最近日本でも若い女性達を中心に一種のブームになっているようで、テレビに取り上げられたり、各地にトンパ教室なども開かれ、解説書も出回っているようだ。私も、日本語で解説したトンパ文字の本を持っているが、その言い回しの単純さと文字柄のおもしろさが興味をそそる。

   

 

この日の最後を飾るのが世界遺産にも指定されている「四方街」だ。ここも観光案内には必ず掲載されている、いわゆる古い街並みが一望できるところ。まずここに行って驚くのは店の多いこと。まるで原宿や刺抜き地蔵前を思い出させる賑わいだ。旅行案内には「青や赤など原色の鮮やかな民族衣装を着た女性たちとすれ違うこともある。」と書かれていたが、人並みは絶えることなく、肩と肩がぶつかり合い、少し大げさだが押すな押すなの騒ぎ。
旧市外の街並を見下ろすには中心の広場からかなり階段を登って行く必要があり、ここで我がカミさんはストライキ。どこかでお茶でも飲もうということになって、広場脇の喫茶店に入った。一階では従業員がマージャンに熱中していたためか二階に案内され、紅茶とトマトジュースを飲んでいると、他のメンバーが登っていくのがチラチラと見える。後で聞くと「一番見晴らしのいい場所は竹でふさがれていて見えなかった」と怒る人もあり、やはり観光用写真で見るのが一番かもしれない。再び皆が揃ったところで、周辺で買い物をしながら駐車場まで。入口の水車の前で記念撮影を行い、再び官房大酒店に戻った。


夕食では「雪茶」が出た。「雪茶」とは玉龍雪山などの高地で採れる苔の一種で、今回の旅行の直前にテレビで紹介された。テレビでは女性レポーターがこの苔を求めて山に登り、結局は季節はずれのために見つからず、打ち合わせ通り現れた地元のオジサンに分けて貰うといった筋書きであったが、かなり貴重なものとして扱われていた。白く細長いものだが、それ自体だと苦いというので、他のお茶とブレンドして飲むのだそうだ。主に高山病などに効くと言う。実は「雪茶」は土産物屋でちゃんと売っている。
その後、我々はナシ古楽見学。今回三度目の舞踊見学であったが、このナシ古楽はまるで日本の宝塚歌劇を思わせるような豪華な舞台装置で、踊り子もかなり粒揃い、演技も洗練されているように思われた。腕をコマ送りのように動かして鳥の姿を演じる女性がマドンナなのか、地元の人気度も高く、終了後は観客が舞台に登り、踊り子と記念撮影するなど、かなり熱狂的であった。

   

5日目。朝5:30モーニングコール。6:40分出発。麗江空港から雲南航空で昆明に戻る。但し、この飛行機も約1時間遅れ。依然として天候は優れない。
昆明から航空機を乗り継いで貴陽へ向かうのだが、空いた時間を利用して昆明中心街にある「円通禅寺」へ。約1200年前に建立された寺院である。ここは昆明市内唯一の仏教寺院とのことで、多くの参拝者で賑わっていた。もちろんここも雨で、もうこうなると開き直るしかなく、濡れるに任せての参拝。スーパーに立ち寄って土産物などを漁ったあと、空港に引き返して午後2時10分、中国南方航空機で貴州省貴陽に向かった。

 

約50分の飛行で貴陽空港着。迎えのマイクロバスにのり黄果樹に向かう。ここからは青年旅行社のガイドさんがあまり中国辺境の旅には似つかわしくないが背広姿で同行。若い見習いガイドの女性も加わっての旅となった。貴州省には「天に三日の晴れはなし、地に三里の平地なし、民に三分の銀もなし」と言い伝えられている通り、雨の多い土地。といってももうここまでで充分に雨は満喫しているのであるが・・。そして起伏に富んだ地形を行くためにバスの乗り心地は頗る悪い。先ずは「甲秀楼」の見学。明の時代に南明河のほとりに立てられた三層の優美な楼閣である。ここから貴陽市内をみると高層建築が建ち並び、まさに現代と古き時代が同居している様がよくわかるが、押し寄せる近代化の波が歴史的建造物を飲み込む姿も見えてきて、いささか興の冷める思いもする。興ざめと言えば先頭を歩く背広姿のガイドさん。団体旅行の小旗を掲げ、「我々しかいないじゃんよ」と周りを見回して苦笑するメンバー。この後黔霊公園(ケンレイ公園)などを散策して、バスはこの後黄果樹へ向かう。

   
車窓を走る街並みが続くが貴州は「民に三分の銀なし」と言われるとおり、中国でも貧しい地域だそうだ。ところで、何気なく街並みを見ているとやたらに壁に書いてある数字が気になった。そのほとんどが10桁ほどの数字で殴り書きだ。目の前に座っていた見習のお嬢さんガイドに聞いてみる。彼女は今年貴州大学を卒業したばかりの新人で、以前、日本の九州にホームステイしたことがあるということで、かなり日本語も達者であった。その彼女が教えてくれたのは「この数字は職を求めている労働者が自分の服務証明書番号と携帯電話の番号を工場や商店の壁に書いて、仕事を分けて貰おうというもの」だった。しかし、この服務証明書番号はほとんどがニセものだそうで正しい職探しの方法ではないとのこと。「良くないことです」と彼女は眉をひそめて語るのであった。

   

車は貴陽の街を抜け、安順へ。途中は田園風景だが道は整備され直線だったこともあり車はかなりのスピードで飛ばす。我々もうつらうつらしかけた時、突然、一羽の鷺が道路横断を試み、我々のバスに激突したのだった。鷺はバスの右側サイドミラーにひっかかり、あえなく殉死。ドライバーは動揺することなくゆっくりと車を停止させ、鷺を鷲掴みにしてガードレールの外に放り投げたものだ。ガイドは「鳥がこのように自由に飛べるということは良いことです」と言っていたが、鷺にとっては災難な事故ではある。そして、その気で眺めていると、この道路、交通量が少ない割にはやたら事故が多い。横の溝に突っ込んでいるトラックや、脇道から出てきた車とぶつかっているもの。皆、スピードの出しすぎなのだろう。

 

既に暮れかかった頃に「黄果樹風景区」に入る。貴陽から150q南西に入ったところだ。この地区に入って目に飛び込んできたのは、曲がりくねった道の両側に連なる「波波糖」(ボーボータン)の店だ。暗闇に派手な照明が浮かび上がり別世界に入ったようだ。「波波糖」は飴のことでここで作っているのだという。食べるとまわりはきな粉状で中に胡桃などがはいっていて、柔らかいお菓子だ。ならば、きっと「元祖波波糖」という店もあるに違いないと目を凝らしていると、やはり「元祖」と書かれたの店も現れる。どこの国でも名物には「元祖」が付き物だ。この日は「波波糖」の店にも寄らずにホテル「黄果樹賓館」(安順市黄果樹国家級風景名勝区内)に直行。夕飯にありついた時はすでに午後9時を回っていた。
疲れ気味のメンバーが食卓に着き、並べられた料理を見つめていると「これ蛇じゃないの」との声。「蛇だ」「蛇だ」と波紋は広がり、スープを覗いてみると、明らかに蛇をぶつ切りしたと見られる身が数個。皮もしっかり付いている。一度は出るとは聞いていたが、こんなにハッキリとそのものが分かる形で出なくてもよさそうなものだ。スープは脂っこくて、先入観のせいか生臭かったので飲み干せなかったし、もちろん身を食べるのも遠慮申し上げた。で、これだけかというと、肉はネズミだという。ネズミといっても竹の根を食べるネズミだと店の人は言い訳していたが、食べるほうにとってはネズミはネズミ。しっぽはどこかと探したが、それは見つからなかった。味はと聞かれても、これまでネズミを食べたことがないので批評しようもない。

 

このホテルはバナナの木などが繁る広い敷地に建てられていて、ますます激しくなった雨の効果もあってまるで熱帯地域にいるような感じ。部屋はなんとなく湿っぽく、またカビ臭くて、風呂はシャワーだけ。いろいろな昆虫が部屋に住んでいるのも特徴だ。ガラス張りのシャワー室の中にいる虫をみると、まるで標本を見るようだ。虫退治に追われ、葉を叩く激しい雨音を聞きながらの一夜だった。

8月15日(木)。6時30分モーニングコール。引き続きの雨。これまで露天で買った傘は10元という安さだけのことはあって直ぐに壊れて使い物にならず、カミさんが意を決してこの日はホテルの置き傘を購入。フロントで聞くと30元(日本円450円)だとか。ワンタッチの長い傘でおまけに「黄果樹賓館」のネーム入り。少々人目にはカッコ悪いがこれならしばらくの間は使えるはずだという。
芝や植木で整備されたホテル内の敷地を歩いて十数分行くと「黄果樹大瀑布」に着く。この滝はアジア最大を誇り、高さ75b、幅80bだという。観光案内の写真で見ると水流は幾つかに分かれて岩肌を優雅に下り落ちているのであったが、我々の眼前に展開する光景は、なんと濁流が渦巻き怒濤のごとく流れ落ちる恐怖の滝と化していた。もちろん続く雨で増水したためだ。この滝は裏側からも見られるし崖の上を横断もできる、と聞いていたが、とんでもない。湯煙のように立ち上るしぶきと轟音で、近寄るだけで恐怖を覚えるほどの迫力だ。しかし、ここは当然観光の名所で、夜はライトアップされるらしく、途中の木々に電飾のコードが巻き付けられているのが、自然の美と全くのミスマッチ。そこまでサービスしてくれなくとも・・と思う。この滝を見るためにはかなりの坂を下って行く必要があり、例によって途中でカミさんは進行停止。ガイドのお嬢さんが付き添って、来た道をフーフーハーハー息を切らせて戻っていく。雨と汗で全身ずぶぬれ。いかにも滝を見てきましたと言わんばかりの風体だ。我々が行った時は朝がまだ早かったせいで観光客もほとんどおらず坂の下りも楽であったが、帰るころには続々とバスが到着して下る人と登る人が交錯しての混雑だった。

  

「黄果樹風景区」には9つの滝があるとのことで、バスで走っていてもあちこちから水しぶきが上がっているのが見えたが、滝のみならず、途中の道路も濁流に遮られていて、洪水寸前の状態。片側の崖から、反対側の河へ濁流が道路を超えて下り落ちる。バスはそこをモノともせずに強行突破。しかし、一つ難関を越えてもまた先の道路が水没しているという危険な移動である。
幾つかの難所を超えて着いたのは「天星橋景区」。水と岩とが織りなす美しい風景が繰り広げられている場所のはずだった。民族衣装を着飾った少女が傘を肩に所在なげに飛び石の上に佇み、一緒に写真撮影に応じてくれる客を待っている。どうせ有料なのだろうと冷たくその横を通り抜け、洞窟をくぐるとその先は・・案の定、水没していて進行不能。どこもかしこも、大雨のために水に沈み、思ったような観光ができないうらめしさ、である。どうせなら、と途中で車を停めたのは、山肌を覆う急流で、「こんなスゴイ風景はめったにありません」とガイドさん。確かに大自然の猛威だ。

 

我々は途中、布依(ブイ)族の村に立ち寄った。布依族の村は石造りの家で囲まれている。我々が石で作られた村の入口から広場に入ると、村人が土産物を抱えて走って集まってくる。少数民族には一人っ子政策は適用されないということで、子供の数がやたらに多い。鶏の親子や子犬が自由に歩き回っている広場で我々は直ぐに村人に囲まれてしまった。布依族の民族衣装は青色が基調で、売るものも綺麗な刺繍を施した布が多い。後で、一枚買ってくれば良かった、と思った。そう言えば、知人から「買い物をするなら店で買わず個人から買ってやって。彼らはそれで食っている」と言われていたっけ。
村の入口の前は増水した河が流れていて、大人や子供が網で漁をしていた。何が獲れるのかバケツの中を覗いてみると、小さな小魚が入っていたが、この急流で不漁なのだろうか。柵もない川の縁を小さな子供達が平気で歩いているが、これが日常なのだろう。

   

しばしの交流のあと、また何カ所かの濁流を超えて「龍宮大鍾乳洞」へ。全長4qにもなるという鍾乳洞だが、舟に乗って見物できるのは800bほど。確かに中は巨大な鍾乳石が垂れ下がり、あるいは広大な泉があって美しいのだが、もういい加減書き飽きたが、ここも水量多く、頭が石にぶつかりそうな場面がいくつか。船頭さんもヤケッパッチで、舟をあちこちにぶつけていた。鍾乳洞はどこもそうだが、赤や緑の照明で照らされ、演出されている。これが良いのか悪いのかはよく分からない。

 

昼過ぎ、我々は地元に伝わる民族舞踊を見せてくれるという村に立ち寄った。布依族の村だ。この村でも我々は人々の輪に囲まれた。子供も大人も皆笑顔と好奇心に満ちた目で迎えてくれる。舞踊は雨で外がぬかるんでいるために屋内で行われることになっていたが、まだ準備が整っていないため、少し離れた博物館を見ることに。博物館といっても小さな館一つで、中に仏壇があり、壁には舞踏で使うお面が飾ってある。お面は先祖の使った兵士の面だろうか。その表情が豊かで興味深い。暫く見学後、再び舞踏会場に戻ってみると、演技者が右往左往して仮想の真っ最中。少年までも動員した大がかりなものだ。そんな中で部屋の真ん中にズデンと座ったまま動かない老人が一人。白いヒゲを生やし、眼だけをギョロギョロ動かして我々のカメラ撮影に応ずるその御大は村の村長さん。さすがの貫禄である。やがて、準備が整い、村長さんの鳴らすドラの音を合図に舞踏は始まった。伝統の衣装を付けた演技者が次々と登場し、会場狭ましと踊りまくる。踊りは戦いを表現しているようで、激しい立ち回りが続くことから判断すると、外的から村を守った戦士たちの物語だろうか。ふと、目を外に転じると、窓の外には黒山の見物人。恐らく村の人達にとっては、この舞踏上演はかっこうの娯楽に違いない。約40分にわたる演技だったが、その素朴さと伝統の重みに感動したのであった。このような伝統文化は是非、末永く伝承して欲しいと念じられずにはいられない。

   



村を離れた我々はその後、安順を経て再び貴陽に戻る。途中、藍染屋に寄って土産物を買う。ここは藍染では有名先生がデザインしている工場だそうで、確かに、模様は洗練されていた。メンバーから「自由市場を見たい」との要望があって、夕刻の買い物客で混雑する市場を散策。デジカメを覗いていると一人の少年が近寄ってきて、物珍しそうに見ていたので写真にパチリ。彼は我々がバスで現地を離れるまで手をふっていてくれた。その後、貴陽飯店(貴陽市北京路66号)に入る。歩く距離が長かったのか、両足にかなり疲労感があった。

 

8月16日(金)。7時モーニングコール。8時30分出発。貴陽郊外の「青岩古鎮」へ。青い岩肌が多いということで青岩というらしい。ここに明代の兵士の駐屯地があった。見上げる城壁は当時の面影を残しているのだろう、まるで中国映画のセットを見ているようだ。街の様子も、石畳を敷き詰めた通り、石造りの家並み、おもしろい屋根の瓦。一つ一つが絵になる。街の奥に寺があって、ここでも巨大に線香が静かに煙りを挙げていたが、ついにメンバーの一人が、この巨大線香を購入。しかし、重いし、手は赤く染まるし火をつけるのが大変だ。「回しながら火をつけるのだよ」と村のおじさんがアドバイスしてくれて、では、というので一人ずつ順番に手にとって聖火よろしく点火式、記念撮影に及んだのであった。ここでもポラロイドカメラが大人気で、赤ん坊を抱いたお母さんやら、子供やらが大はしゃぎ、笑顔、笑顔の交流であった。

   

午後、ガイドさんたちと別れ、中国南方航空で最後の地、広州へ。南部中国の都会である。早々と最後の宿泊地、超一流ホテルの「白天我賓館」(広州市沙面南街1号)に入った。今夜の夜食はホテルから少し離れたレストランで、それぞれが食べたい食材を選び料理してもらうというもの。入口には生きた食材がずらりと並び、カニ、海老、ヒラメなどオーソドックスなものから、蛇、ウミヘビ、虫やその幼虫など、いわゆるゲテモノまで各種取りそろえてある。「ゲテモノのはよそうね」との暗黙の合意でカニや海老などを中心に頼んだが、味付けも美味しく、楽しい夕食であった。食後にメンバーのお茶の買い出しに全員が付き合い、お茶屋さんを占拠して振る舞い茶のご馳走になりワイワイがやがやと最後の夜。皮肉なことに、悩まされた雨も上がり、ホテルの部屋からは川の流れにそってビルや店のイルミネーションが輝いていた。

 

翌朝、我々は団体フロントロビーで一種異様な光景を目にする。大人数の欧米人らしき女性達が、皆一人ずつ東洋系の幼い子供を抱えている。あるものは抱っこし、あるものはベビーカーに乗せた彼女たちはそれぞれ自分の子供をあやしながら出発の時を待っているようだ。つまり「養子ツアー」だ。子供を求める欧米の親たち、そして一人っ子政策ではみ出た中国の子供達。ほとんどが捨て子として施設に収容されていた子供たちだという。歴史的に移民政策を受け入れ、差別こそあれ、人種の壁に抵抗を持たない欧米人の感覚と、単一民族としての歴史しか知らない日本人感覚とのギャップ。「日本円で20万円ぐらいで養子縁組ができます。手続きには1週間程度。観光しているうちに済むのです」と現地がガイドさんが説明してくれた。
ホテルを後にして我々は広州市内を観光。これまでと違って広州は暑い。食料品市場に立ち寄ったが、豚や鳥の生肉や内臓など、立ちこめる生臭い臭いに「こりゃ、ダメだ」とカミさんは逃げ出すほど。市内の公園に行っても中に入らず、入口にあったお茶屋に逃げ込み、しっかりとお茶のサービスを受けるだけだ。
昼は飲茶料理で締めくくり。ここまでくるとさすがに日本人観光客が多く目立つ。
そして、いよいよ帰国。雨にたたられた1週間だったが、思い出も沢山出来た2002年中国の旅。空港ではバス事故にあったという日本人ツアーが頭や腕に湿布をして痛々しい姿を見せていたが、我々はなんとか無事にこの旅を終えることが出来た。