貧血の炎


久方ぶりに飲めない酒を飲んで、私は最終電車に乗り込んだ。

ほぼ満員の車内は例によって酔客の吐く酒くさい息で満たされていた。

まだ喋り足りない自慢話し好き、説教好きの中年男の声高な無意味なおしゃべり、そしてハイになった若者の嬌

声と絡み付き。

笑いと嘆きと愚痴との混じるそんな饗宴のなかで、私は孤独にもやがてやってくるだろう貧血の予感と向かい合

っていたのだった。

「どうも、この歳になってもクセが直っていないようだ」

私は吹き出る汗をぬぐった。

アルコールの異常反応なのかどうかは知らないが、酒が体内に入ると、途端に頭から血が下がり、一気に貧血状

態に陥るのは昨日今日のことではない。

子供の時に悪戯心で部屋の片隅にあったウイスキーの瓶の蓋をあけ、中身の液体が鼻をかすめ通った瞬間に、そ

の場で気を失って以来、私はアルコール拒絶症になったようなのだった。


もちろん、飲めるふりをしたこともあった。

私の勤めていた会社はテレビのCMフイルム製作会社で、何とかという大手のウイスキー会社の宣伝を請け負っ

ていて、そのクライアントのウイスキーが飲めなければ、社員としての存在意義がないのだった。

サイケデリックな壁紙に囲まれたオフィスの中にはモダンなカウンターバーが設けられていて、社員も来客もい

つでもそこで宣伝商品を試飲することができたし、そういう一見型破りな日常に身を置かなければアイデア勝負

の業界で生き残れないという妙な理屈があった。

だから私だって一応課長補佐という肩書きをぶら下げていたのだったから、時には流行るあてもないキャッチコ

ピーを連発して水割りをあおるまねごとをしたのだ。

そして、結局はトイレで逸物を露出したまま貧血でブッ倒れ、総務課に巣くっていた世話焼きの女性社員に介抱

される羽目になるのだ。

「ただ酒だと思って、そんなに飲む奴があるかっ!」

と部長に怒鳴られ

「イエ、薄い水割りの臭いをかいだだけです・・」

とも言えず、女子社員に逸物をしっかりと見られた気まずさと、自分のふがいなさに、結構つらい思いもしたの

だった。



今もまた電車のなかで窓の外を流れる街の灯がだんだんと白くボケはじめ、瞳が激しく動き出して、私は意識を

失っていくことになるのだ。

闇に包まれた広い公園の片隅にひっそりと置かれたベンチに私は横たわっていた。

静寂のなかで古ぼけた水銀灯が放つわずかな光が、辺りの木々をほんのりと浮かび上がらせていた。

ようやく意識が蘇りつつある自分を感じながら、足下で一人の少女が私をのぞき込んでいることを知った。

もう真夜中のはずであった。

木立の間から見えるはずの街の灯は落ち、人影もない空間のなかで、少女は瞳を輝かせながら私を見つめていた。

「君はナゼここにいるの?」

問いかけようとして私は言葉を飲み込み、彼女が移した目線を追った。

杜の中にそびえ立つ古い館がそこにあった。

その館の小さなホールで、私はついさっきまで酒を勧められていたはずだった。

私の横に座った男は何杯かの水割りをあおった後、私の肩を抱くようにして

「君に愛する家族がいることは充分知っているよ。娘さんだってまだ小さいんだしな。だからさ、だから君だけ

に辞めろなんてことは言わないさ。俺も君の後を追って辞めるさ。」

と退社をすすめたのだった。

「俺だつて会社にとってはお荷物だってこと知ってるんだ。アハハハ、君より先に辞めなくてはいけないのは俺

かも知れない。社長も人を見る目がないよなぁ・・。」

彼の役目は、私の退職の同意を得ること以外にはないはずなのに、そして私は彼になんらの反論も加えていない

のに、彼は慌ただしくグラスをあおりながら喋り続けるのだ。そして最後に、

「なぁ、約束するよ。君の将来については俺は君の親友として相談に乗ろう。とりあえず今は会社のためだ、決

心してくれ。」

と締めくくって、ここは俺のおごりだと立ち上がったのだ。

どうせ、その場限りの友情と信頼。

どうせ、その場限りの不信と軽蔑。

結局は何もなかったし、何も変わるはずのない時間の浪費だった。外に出ると男は、 「君とは親友だから・・

・」
と繰り返しながら、ふらつく足で去っていったのだった。


一筋の煙が立ち上がったのは、まさに私が座っていたはずの館の片隅だった。

蔦に覆われた館の壁に白い線をひいて舞い上がった煙は、すぐに黒灰色に変わり、一階の窓から吹き現れた火し

、ついには紅蓮の炎となって、いっきに建物全体を包んだ。激しい火の粉を暗黒の空に吹き上げながら、館は悲

鳴を上げて燃え上がる。


しかし、炎が館を覆う直前に、誰もいないはずの館の破られた出入り口から、数人の子供が歓声を上げて駆け出

てくるのを私は見ていたのだ。

彼らは渦巻く黒煙のなかから、まるで運動場で鬼から逃げる喜びを体中で表現するように飛び跳ねながら。

そして、私のそばから彼らに走り寄った少女と手を合わせあうのだった。

彼らは消えかかった水銀灯の下で輪をつくり、燃え上がる館を見つめている。

やがて周囲はけたたましいサイレンの音に包まれ、鎧で身を固めた黒い集団によって寸分の隙もなく包囲され、

公園の出口は封鎖された。


「公園内にいる者は両手を頭の上で組み、直ちに外に出ろ!」

退去を命ずる甲高いマイクの叫びが静寂を破って響きわたる。

少女は子供達に微笑みかけ、杜の奥を指さして、やがて彼らは一人ひとり暗闇の奥へ消え去ったのだ。

「燃えてしまえ!燃えてしまえ!」

私は心で叫びながら、四方から津波のように押し寄せる真っ黒な集団の銃口の前に立ちはだかったのだった。

いつもの貧血なら、ドウと倒れた直後から回復に向かい、爽快な覚醒を迎えるはずであった。

もちろん、ほぼ満員の車内にそれなりの小さな混乱を巻き起こし、非難と好奇と軽蔑の眼で見下ろされたとして

も、若い女性のミニスカートを下から覗き見られる幸運を味わうことだってできたのだ。

しかし、今日の私はいつまでも覚醒せず、やがて、一人車内に取り残されることとなった。

倒れる前まで窓の外を走っていたはずの街の灯は見知らぬ田舎のほの暗い星明かりに変わり、人々の喧噪は地虫

の奏でる切なげな音に変わっていた。

あの館の炎は職を失った私に捧げられた哀悼の送り火なのか。

それとも、これまでの私の生きざまに対する決別の烽火か。

あの少女が率いる幼い子供たちの破滅的行為は、友情という欺瞞を前に闘わずして坐した私に対する無垢な抗議

か。

ようやくにも蘇りつつある意識のなかで私はいつかあの総務課の世話焼きな女性が、トイレで倒れた私のズボン

のチャックをしめながら、そっとパンツのなかに差し入れた一通のメモを思い出した。

    あなたはB型牡牛座生まれ

    ムラッ気、不器用、マイペース

       陽気なようで陰湿で、穏和なようで排他的

      強がり、自惚れね秘密主義

    だけど、ほんとは寂しくて、じっと助けを待つあなた

       あなたはB型牡牛座生まれ

ケッ、冗談じゃネェや! 猿芝居は終わりだ!