遼の遺跡を訪ねて

承徳・赤峰・翁牛特旗・巴林左旗・巴林右旗・白音敖包・錫林浩特

2005年8月10日から17日


4月に発生した反日デモも、一応の収束を見て、今年も「中国辺境ツアー」は契丹・遼の遺跡巡りから内モンゴルの大草原に向けて挙行された。
参加者は昨年と同様のメンバー11名。
8月10日、成田組と関空組がそれぞれ出発、北京空港で一年ぶりの再会を果たしたあと、直ちにバスで承徳へと向かった。

今回の旅行にも幾つかの見所があって、その一番目がこの日訪れる「司馬台長城」だ。
北京から北東に約120qにあるこの長城は、まだ訪れる観光客は少ないものの、明代の姿をそのままに残す歴史マニアにとっては魅力の地だと聞く。
現地到着の時間が遅かったせいもあるが、観光客は少なく、リフトで登る客は我々だけ。二人乗りの小さなリフトで上を目指すのだが、日本のスキー場などと違って地上との高さがかなりあり、途中で止まってしまったらそう簡単には降りられそうもないな、なんて考えながらコトコト・・。
見下ろすと、急な斜面に植樹がなされている。それも白い石で囲いをつくり土の流れを防ぐ丁寧さ。機器も入らないこの地にいったいどうやって植林したのか、ハゲ山を緑豊かな自然に帰そうとする執念を感じる。

  


 

終点まで行くと、後はあるいて長城まで登るのだが、ここで問題が発生した。
リフトの運行が時間切れだというのである。聞くと、職員は登りにも難色を示したのだが、頼み込んでの運行だったとか。
だから、このまま長城まで上ると確実に帰りは歩いて下るほかはなく、その所用時間は1時間余だとか。
「ぎぇ〜!」「旅行初日からそんなご無体な〜!!」ということで、皆長城に上ることを断念、そのままリフトでUターンするハメとなった。
思えば「司馬台長城に行くの?いいなぁ、あそこはすばらしいというから・・」との見送りの声に、自慢げにやってきたのに、これじゃなんとも中途半端・・。
しょうがないから、せめてもの土産にと撮ったのが、10p以上もあろうかという巨大なヤスデ?。

後ろ髪引かれる思いで現地を後にすると、なんと帰り道はタクシーと衝突したバスでふさがれていた。この事故を起こしたバスは、我々が入場したときにすれ違った外国観光客を乗せたバスで、かわいそうに警察が来るまで留め置かれるとのこと。
周辺には村人が集まり、「あぁあ・・」という感じて見守っていた。
我々のバスは全員を降ろしたあと、なんとか脇をすり抜けて通過。まずは前途多難を思わせる一幕であった。

 

北京から北に約250q、承徳は清朝の夏の離宮「避暑山荘」のある地方都市である。古くから「長城以北の真珠」と呼ばれていたという。我々はここで二泊し、避暑を楽しむことになっているのだが、実際は避暑どころか、猛暑の中での観光となった。熱射とスモッグのせいか街はかすみ、奇峰「磬錘峰」もぼんやりと浮かび上がるだけ。武烈河周辺を歩いてみたが、昔ここに住んでいた日本人には懐かしい佇まいであろう。

   


2日目。
現地女性ガイドが言うには、「朝8時から避暑山荘の入り口で入館者の歓迎式典があり、とてもすばらしいから是非見て」というので、朝食も早めに切り上げて、門前に出かけた。ジャジャ〜ンとドラの音が鳴り響き、門内で明代の衣装で着飾った演技者によって式典開始。
では入門して・・と思いきや、入場券がない!。ガイドがあわてて券売所で買っている間に式典が進み、ようやく入門できた時にはすでに式も終盤、見映えのいい高台に上ってカメラを構えた直後に式は終了してしまった。これまた、なんとも中途半端な・・・。

   


避暑山荘は中国現存で最大規模の庭園で面積は564万u、園内には120を超える亭、台、楼、閣があるという。もちろん短時間では歩き回れるわけもなく、廷内巡りの専用カーが走っていて、これがまたジエットコースターよろしく急カーブを右に左に。
数カ所で下車して周辺を見渡すのだが、なにがどこにあり、どこを誰が使っていたのかさっぱり分からず、唯一、高台から眺めて判明したのは、「昼飯はあそこで食べるのね・・」というぐらい。
ともあれ、清の康煕と乾隆時代に約90年かけて作り上げたという壮大さに感心するばかりである。

昼食後、外八廟の見学に。
「外八廟」とは避暑山荘の東と北にある普楽寺、、普寧寺、普祐寺、須弥山福寿之廟、普陀宗乗之廟、など12寺をいうのだと。
ここで疑問が。「外八廟」の「外」は避暑山荘の外にあるから「外」、というので分かりやすいのだが、寺や廟は12カ所で「八廟」とは数が合わない。で、聞いてみると、12寺の内普寧寺、普陀宗乗之廟、福寿之廟、など八寺が清朝の少数民族管理機関である理藩院に属していたので、習慣上外八廟と呼ばれているのだとか。分かったような分からないような話なので、興味のある方は専門サイトをご参考に。

普寧寺は世界最大の千手千眼観音像があるところ。22.28m、腰の周囲15m、重さは110t。下から見上げると、その巨大さにめを見張る。2本の腕のほかに、40本の腕があり、手のひらには眼が描かれているというが、よく見えなかったし、写真撮影も禁止されていて(撮っても全体は撮れない)記録はない。

境内で禁煙の標識を見つけた。「禁煙するもの禁止する」と日本語で書いてあり、なにも「喫煙禁止」だけでいいのになぁ、とつまらないことに興味を持ち、肝心のことは記録していない。

チベット・ラサのポタラ宮を模した普陀宗乗之廟。12階建てのビルを徒歩で上るに匹敵するというここの階段はきつい。
熱射のなか、登りきりホットしていると、頭にピンクの羽飾りを付けた女の子を見つけた。話すと、親子四代の一族とか。玄孫を持つおばあさんの元気さに我々一同感心しきりであった。

我々は少し休んで三々五々階段を下り始めたが、廟内は通路がわかりにくく、うっかり曲がるべきところを通り過ぎるとすかさず現地女性ガイドが後ろから「みぎっっ!!」とどなる。難行苦行の寺見学であった。

   


3日目
朝から雨模様のなか赤峰(に向かう。いよいよ内モンゴル入りだ。現地ガイドもモンゴル族出身者に替わり、さらに遼の遺跡を訪ねるということから、遼時代の研究者が説明員として随行することとなった。

約1100年ほど前、中国北方の遊牧民「契丹」が唐やウィグル帝国の衰退のスキを突いて勢力を拡大、この地を中心に「契丹国」=「遼」を作り上げたとか。帝国は約200年後に滅ぶのだが、その間の栄華を極めた遺跡が現在も残されている。

ここ数日の雨で道路がぬかるんでバスは右・左へと揺れる。
我々はまず「喀喇沁旗モンゴル族王府」を見学。
残念ながら、専門的知識は持ち合わせていないので、内容については専門誌やサイトに委ねるが、興味のある人には貴重な資料館なのであろう。
かの随行していた研究者は、食い入るように展示物を覗き込み、はては、硝子戸にゴチン!と頭をぶつける始末。これを目の当たりにした女性説明員は、吹き出したまま笑いが止まらず、必死にこらえながらも役目を果たそうとする姿は可憐であった。そういえば、この説明員、この仕事に就いて半年足らずとか。彼女に象徴されるように、我々が今回出会った若者は皆、意欲的で将来に夢と希望を抱いて生きているようであった。

   

その後、我々は遼代の遺跡・大明塔に向かったが、途中、雨のため道路が寸断されていて、200qほどの行程を迂回に次ぐ迂回を重ねで500q。着いた時にはすでに夕闇が迫りつつあった。
この大明塔は八角13層で高さ約73メートル、現存遼代の塔では最大のものだという。
見学者はここでも我々だけだったが、物珍しがり屋の周辺住民が三々五々集まり出し、我々一行もポラロイドカメラを取り出しての交流に盛り上がった。

そして、帰路、雨も上がったということで、宿泊地の赤峰市中心街へ向けてバスは近道を強行突破を図ったが、道路は依然として各所で水没。行っては戻り、戻っては進む暗闇で、時にはドライバーが下車して水深をはかるなど緊迫した道程となった。

 


4日目。
雨は取りあえず上がったものの、バスはさらに悪路を6時間かけて巴林左旗へ。
ここまで来ると車窓にモンゴルらしい草原が広がり、放牧している馬や牛、そして草原には欠かせない羊の群れが姿を見せる。
天気さえ良ければまさに「天は蒼々、野は茫々、風吹き草低(た)れて牛羊を見る」(勅勒歌)風景が展開されているはずである。
途中で立ち寄った食堂で、若い店員さんたちが我々を見つけてそわそわ。「あんたが声をかけなさいよ」「私恥ずかしいから、あんた行きなさいよ」としばらくモジモジしたあと、意を決して「日本人ですか?」と声をかけてきた。「そうですよ」と応えると、「一緒に写真撮って下さい」と・・・。みな人なつこくてかわいい少女たちだ。

ここらは鶏血石の産地だそうで、参加者の希望で印鑑用の石を求めて市場へ。
炎天下、多くのテントが立ち並び大小の石が売られている。安いものは数十円から高いものは数十万もするという。この市場、西安や桂林などの土産物屋のように店員によるしつこい販売はなく、店員さんはみなノンビリと店番。
ここで小型のポラロイドカメラで店員さんを撮ったら、お礼にと石をひとつくれた。
帰り際、市場の入り口で土産品を売っているおばさんを見つけ、買った「虎??のマクラ」が大人気。なんでも手縫いだそうで、買いそびれた仲間が翌日の帰路、買いに走ったが、おばさんの姿はなく、品切れ休業との噂も。

   

  

車は再び草原を走る。
道路も良くなり、天気も快晴となった。やがて、前方に人だかりが見え、なにやら祭をやっている様子。「行ってみよう」と好奇心いっぱいの我々のツアーである。
乗り付けると、なんとナーダム(娯楽遊芸)で「モンゴル相撲」の開催中。
新しくできた政府機関の建物の完成を祝う祭だそうで、周辺から多くの住民がバイクや車で見物に来ている。このような祭に出くわすというのはごく希なことだそうで、大変ラッキーであった。

会場に入っていくと、「日本人なら中に入って写真を撮りなさい」と勧められ、何重にも取り囲んだ見物人をかき分けて最前列へ。時まさに力士格闘の真っ最中で、激しくぶつかる激しい息づかいが聞こえる。なかには鼻血をしたたらせて闘う者もいて、祭とはいえ真剣勝負だ。そして勝負が決まると大歓声に包まれていた。


 

まだモンゴル相撲の興奮さめやらぬ我々は、岩山の中腹にある「真寂寺」へ。
ここには遼代の石窟があり、涅槃物が置かれている。石窟は中が暗くて良く見えないが、カメラのフラッシュに浮かび上がる仏像の荘厳さは古き時代の信仰の深さを物語っているようだ。

 


翌朝は朝4時半起床。
前日、祭の会場で現地ガイドさんが「明日の朝、草原で競馬がある」との情報を入手してきて、我々はその見物に諸手をあげて賛成したためだ。
道に不案内のドライバーが何度か迷ったあげく、会場に到着。朝日に照らされて裸馬にまたがる騎手が、大地を轟かせて草原を疾駆する勇壮なイベントだ。ここにもたくさんの競馬フアンが詰めかけていて、ひいきの馬に歓声を上げている。
偶然に出会ったモンゴルの文化。我々はこの旅の大きな目的を達した思いであった。


  


さらに偶然は重なるもので、我々はモンゴル相撲、競馬に続いて草原を走る蒸気機関車に遭遇する。
その機関車は草原の直中に静かに停車していた。単線の鉄路のなか、ここで対抗機関車とすれ違うためだ。我々は車から降りて、機関車に近寄り写真撮影。この草原の汽車、わざわざこれを撮るためにカメラ愛好家が訪れるほどだとか。
やがて、反対側からやってきた汽車とすれ違い、乗務員は我々に手を振りながら大草原を去っていった。

昨日から今朝までのいくつかの遭遇は、今回の旅で特筆すべき出来事であった。



5日目。
巴林右旗にある菩福寺を見学。ここまでくると主催者には申し訳ないが寺巡りはいささかウンザリという気持ち。
さらに予定を一日前倒しして広大な湖ダライノールを訪れる。この湖、かなに観光地化されていて、中国人観光客が多く、賑やかではあったが、湖自体決して綺麗なものではない。
観光用に放されていた子羊と民族衣装を着飾った幼い女の子が人気の的であった。

そして、砧子山岩絵。遊牧民の数少ない岩絵に期待を抱いていた参加者も多かったようだが、なんと、「乗馬の客がいるので岩絵まで車を乗り入れるのはダメ」ということで、やむなく断念。
今回の旅では、はじめに予定されていた見所の幾つかがキャンセルされたのが残念であった。


  

今夜はパオに宿泊。
パオと言えば4年前に内モンゴルのハイラルを訪れたとき、宿泊したパオが大草原のまっただ中にあって、周辺の景色がこの上なく美しく、夜は満天の星に包まれた経験があって、今回も期待したのだったが、着いたところは雑草生い茂る観光パオ。草地にはペットボトルやゴミが散らばり、快適というにはほど遠い地であった。
おまけに、暗くなってから無情の雨も降り出し、四方から浸水、星を見上げることもできず、恨めしい一夜となった。

  


6日目。
明け方、部屋のなかにうごめくバッタ一匹。
よくみると糸くずに絡まれているような・・。明るい場所につまみ出してみると、その糸くずが鎌首をもたげて、うねっているではないか。気味悪いのと好奇心とで眺め続けていると、それらは一匹づつほどけて右へ左へ散っていく。つまり、バッタの腹に巣喰う回虫である。一匹の長さ、およそ30p。こんなものを腹に抱えていたバッタの苦労を察するよりも、つまみ上げた我が指の不幸が身にしみる。

朝食後、バスは草原にポツンとたたずむパオを訪問。ご主人は他に仕事に出かけているとかで、奥さんが一人留守をしていた。部屋の中を見せてもらうと、カラフルに彩られたベットや装飾品が置かれていて、綺麗に清掃されていて清潔そのもの。我々もこういうパオで一夜を過ごしたかった。

  

バスはさらに7時間かけて最後の訪問地、錫林浩特へ。
ここでまたハプニング。高速道路を走っていたバスがパンクしたのだ。こんな平原にタイヤを売っている店があるわけもなく、パンク箇所が右後輪の一本とあって、荷台からトランクを積み替え、座席を左前方に詰めて騙しだましの走行となった。
結局は右後輪は残された一本のタイヤで約200キロをノロノロと走り抜くのだが、その間、何度か停車して、沼から汲み上げた水をぶっかけて冷やし、なだめつ、ヒヤヒヤしながら街にたどり着いたのであった。

 

錫林浩特は草原につくられた人口17万人の都市で、近代的都市作りを志しているとか。
高台に上ると、街の拡張が手に取るようにわかり、自然保護から拡張に反対の声もあるとかで、今後は自然との調和が問題となりそうだ。

この街の中心にある貝子廟はチベット仏教寺院で、折から寺院の中で、若いラマ僧の修行が行われていた。
「中に入ってもいいですよ」というので、読経中のなかを進む。
時折興味深そうに目線をこちらに向ける僧は15歳前後か。堂の片隅で小さな男の子が普段着のまま、僧にあわせて経を読んでいる姿がひときわ目を引く。
読経の節目でドラや太鼓、そして巨大なチャルメラを吹き鳴らす様は、荘厳ではあった。


   

周辺には多くの土産物屋が並んでいて、観光化が進んでいたが、路上でノンビリ刺繍をするおばあさんがいたり、射的場で遊ぶ若者がいたりして、ほのぼのとして雰囲気も漂う。
我々が休んだお茶屋さん、10人も入ってお茶とパンを注文したのに、全部で4元だと。

夜は馬頭琴の生演奏を聴きながらしゃぶしゃぶの特別料理。
その後、夜の錫林浩特空港を飛び立ち、北京経由で帰路についたのであった。


   


草原に咲く花たち