06年12月
◎ジープとライフル
映画「硫黄島からの手紙」を見てきたのだが、
力作であることは確かだけれど、没入できなくて困った。
というのが、たとえば栗林中将が硫黄島に到着するシーン。
輸送機から降りてきた彼は、勲章や従軍記章をベタベタにつけており、
おまけに肩から胸にかけて金色の、いわゆる「縄」を吊っている。
それはまあ、赴任のとき勲章をつけていくことはあるだろうけど、
金色の縄は飾緒といって参謀が吊るものだろう。
あれでは小笠原兵団長という最高指揮官が、
同時に参謀だということになってしまうではないか。

でもってその彼が、着任早々だが島を見てまわりたいと言うと、
迎えた側が、「それでは、ジープを用意しましょう」
まさかと驚き、自分が聞き違えたのかとも思ったのだが、
確かあとでもう一度「ジープ」という言葉が出てきたから、
このときもそう言っていたのだろう。帝国陸軍の高級将校が、
しかも戦争中の最前線でジープなんて言うかね。
そのころ内地では、車のハンドルのことでさえ
走行転把とか操輪転把とか言わせてたんだよ。
同じく英語使用では、洞窟内で上官が部下に
「ライフルを取ってくれ」というのもあった。38式だか99式だか、
とにかく寄越せと言っているのは、日本陸軍の小銃ですぜ。

おまけに突撃シーンとか、栗林中将自決介錯のときとか、
すらりと抜き放たれた軍刀は、妙に幅が広くて
ダンピラという雰囲気だったし、こちらが没入しかけるたびに
そういう言葉や映像が出てくるので、
「いったい、どうなっておるのだ。
リアリティは細部に宿るという鉄則を知らんのか」と、
いらいらがつづいたのだ。
つまるところそれらは、クリント・イーストウッドもしくは
アメリカ人スタッフがイメージする日本軍の雰囲気であり、
日本刀であるということなんでしょうかね。
下っ端の兵隊たちの服装なんかが粗末貧弱なのはリアルだったが、
もしそいつらが出っ歯で眼鏡という顔だったら、
わたしゃ怒り出してたに違いおまへん。

◎ロストシティのことなど
先日、日経新聞の連載エッセイに、神戸の街のことを書いた。
大学時代以降、震災以前まで、おりにふれて「うろついた」経験を
題材にしたのだが、字数に限りがあるので、省略したことも少なくない。
思い出しついでに、ここに書いておくことにするのである。

カントリーやブルーグラスの生演奏を楽しめたのは、
元町大丸の近くにあった「ロストシティ」という店。
野崎さんという人がやっていて、一時期、
伝説の名フィドラー、田淵章二氏も参画していたらしい。
桃山学院大学、ブルーグラス・ランブラーズで名を馳せた人で、
この人は卒業後渡米して、いろいろ苦労したのち、
アメリカンドリームを体現した。ミズーリ州ブランソンという、
アンディ・ウイリアムズやオズモンド・ブラザーズが住んでいるという街
(以前には、パットブーンとかブレンダ・リーもいたらしい)で
レストランシアターだかを経営し、テキサスに牧場、
ハワイにコンドミニアムを所有しているという話である。
そして本年、小泉首相が在任中最後の訪米をしたとき、
ホワイトハウスでひらかれた歓迎演奏会にも選ばれて出演した。
小泉首相が、わざわざスタンドマイクを斜めに突き出し、
音を拾いやすくしようとしている写真などもネット配信されたのだ。

神戸市役所の斜め向かい海寄りには「デキシーランド」という店があり、
グランドピアノがそのままカウンターになっていて、中川さん、
通称「なっかん」という人の演奏を聴きながら飲む。
外国人の客も多く、神戸らしい、いい雰囲気の夜があったものだった。
「ハイウエイ」「テキサスタバーン」「ギリシャビラッジ」なども
よく行ったのだが、このうちどの店が現在も営業しているのか、
ぼくは知らないのである。ロストシティが無くなったことは確かなのだが。

◎プロの気遣い
現在、このホームページの「OBC、生ワイド」欄に、
先般開催された「10万人のふれあい広場」の関連写真を載せている。
このときには、ぼくと中西さんも屋外ステージで
挨拶と番組宣伝をしてきたのだが、その控え室になっていたテント内では、
ベテランタレントの水谷ひろしさんが、ピシッと決めた紺のスーツ姿で
立っておられた。スタッフがパイプ椅子を勧めても、
礼を言うだけで、やはりずっと立っておられる。

上着やズボンに皺が寄らないようにするためとのことで、駆け出し時代
「タレントは舞台衣装に着替えたら、座らずに立っておけ」と
仕込まれたのだという。 「そしたら、待ち時間が長い時は大変ですね」
そう言うと、「いや。もう慣れてしまってますから、何時間でも平気です」
とのこと。それぞれの分野で、
プロはいろんな気遣いをしているものだなあと、感服いたしました。

◎ついでのことに
上記、今月のお写真。その説明で書いたことの補足を。
小学生時代以来、作ってきた模型は数知れないが、
旧日本海軍の艦船に限っていうなら、まず思い出すのは巡洋艦古鷹。
これは改装前の単装砲時代のスタイル。空母大鳳。同、飛鷹。
戦艦金剛。同大和、武蔵。駆逐艦朝霧。巡洋艦羽黒。同香取……
これらは木製だったが、プラモデルでは豆サイズの大和、空母飛龍、
潜水艦伊15。縮尺不明というか、随分いい加減な製品も多かった時代、
航空戦艦伊勢なども作ったっけ。1000分の1で、空母翔鶴も作ったな。
こいつは中学のときだったか、高校のときだったか、
近くの模型店になかったので、わざわざメーカーに
現金書留で代金を送って取り寄せたのだ。

大型サイズなら伊号400。これは電池とモーターで自動的に
潜行と浮上を繰り返しながら進むというふれこみだったのだが、
友人の家の近くの池で試したけど、うまくいかなかった。
その他、いまとなっては思い出せないほどあれこれを作ったのち、
ウオーターラインが発売になって以降、艦船模型は
もっぱらこのシリーズということになった。
しかし、数がふえると置き場所に困ることになる。
引っ越しで処分し、ほこりまみれになったので処分し、現在に至っては、
買ったままでビニール袋も破ってない同シリーズ製品が二百隻近く。
どうすりゃいいのか、思案橋状態なのである。

06年11月
◎今年も11月25日に読み返したのだが……
・サントリー「リザーブ」、贈答用特製パッケージ入り、2700円。
・タイメックス電子腕時計、防水、カレンダー付き、16500円。
・東芝、電気カミソリ。乾電池式「ソル・スマイル」、2300円。
・コロンビア、4チャンネル・マルチステレオQX、110000円。
・トンボ鉛筆、「デルポイントペン」、50円。
・大和証券、ダイワの公社債投信、実績予想分配率、年7分7厘。
・整形外科、新橋駅前「十仁病院」、電話03(571)2111〜8。 
・東武鉄道観光、忘年会、新年会に「乾杯旅行」新発売。
 鬼怒川温泉、一泊二日、往復運賃、宿泊料、税サ込み、
 夕食7品ビール1本、朝食6品以上、お一人様3500円。

などと、きりがないのでこれくらいにしておくが、上記は「週刊現代」
1970年12月12日増刊、三島由紀夫緊急特集号(定価150円)、
そこに掲載されている広告の、ごく一部である。
いつのまにか名前を聞かなくなったアメリカの時計、
公社債投信の利率、まだ3ケタだった東京の電話局番などなど、
時代の雰囲気がわかって興味深い。

鬼怒川温泉、夕食7品ビール付き朝食6品以上で3500円。
額面だけ見れば嘘みたいな値段だが、なに、この年に
社会人になったぼくの月給は、額面が3万8千なにがしだった。
その一割弱だから、現在の初任給20万前後で換算すれば、
まあ19800円という見当なのだ。
それにしても、三島由紀夫切腹の緊急特集号にも、
消費社会到来を示す広告の多数載っているところがすごい。
東武鉄道観光の広告写真など、おじさんとOL二人がどてら姿で、
フォークギターを弾いてうたっているのである。

◎不気味な計算結果
1990年代の半ばから後半にかけて、北朝鮮で
台風や洪水などの自然災害が頻発し、農作物の収穫が激減して、
大規模な飢餓が発生した(と言われた)時期があった。
無論、国連や世界各国が人道援助をしたのであるが、
一説によれば200万人とも300万人ともいう餓死者が出たという。
ところがいまになって公開資料をもとに計算してみると、
国外からの食料援助トン数に北朝鮮が輸入したトン数をプラスしただけで、
国民全体の最低必要量を満たしていたという。

つまり、その時期の国内収穫量がゼロであったとしても、
飢餓が発生するはずはなかった計算になるというのだ。
しかも餓死は援助物資が届き始めたのちに発生し、そのエリアは、
中国に近い山間部の咸鏡北道と南道に集中しているとのこと。
さあ、この謎をどう解けばいいのか。答は「金正日 隠された戦争」
(萩原遼・文春文庫)に、詳細に書かれている。
それが事実だとすれば(ぼくは事実だと思うが)、
金王朝の二代目は、ヒトラーにも劣らない男なのだ。

◎これはうまそうだ!
朝のラジオ番組に「ホームルーム」というコーナーがあって、
これは毎朝ひとつのテーマを決め、リスナーからFAXやメールで、
それにまつわる意見や体験談を送ってもらうものである。
先日は「我が家の鍋自慢」というテーマでやったところ、
ちょうど寒くなった朝だったからか、いろんなメニューがどっと送られてきた。
そのなかで、思わず「これはおいしそうやなあっ!」と言いつつ読んだ鍋。

まず土鍋に小石を敷きつめる。次に酒と水を半々にしたものを、
小石がひたひたになるくらい入れる。そしてその上に殻付きの貝、
海老、白身魚などを好きなだけ並べ、
さらにその上から生ワカメをどさっとかぶせる。
でもって土鍋の蓋をし、強火で蒸す。
貝がパカッと口をひらいたら出来上がりで、これをポン酢で食べる。
だし汁で煮炊きすると貝のうまみが汁に出てしまい、
貝そのものは味が薄くなるが、この方式だとうまみが肉に閉じこめられて、
コクがあるとのこと。何と称する鍋なのかは書いてなかったが、
ぜひ一度、試してみようと思っております。

◎クリビツテンギョウ! 恐れ入ってござる。
ある件でネット検索中、偶然、高校時代の知り合いの名前が出てきた。
詳細を追及していったら、東京の恵比寿で
バーのオーナーになっていることがわかった。
顔写真がついているわけではないので、同名異人の可能性もあるが、
紹介文から考えて、まず間違いないだろう。

そこで興味が広がり、思い出すままに何人かの名前を入れて
検索してみたところ、某百貨店の経営企画部長(顔写真あり確定)、
某県某市自動車学校の事務長(同上)、
某市中央公民館の館長兼生活文化研究家(顔写真なしなれど、
多分当人)など、高校の知人や顔見知りの現在が判明した。
そしてもっとも驚いたのが、当時、軽音楽部で
ドラムを叩いていた知り合い、通称カドキューと呼ばれており、
浪人したそのあとは知らなかったデカ頭の男の姓名を入れたところ、
いきなり金沢工大のホームページが出てきたこと。
顔写真付き、出身高校名付きで紹介されていた、
その経歴は以下のコピーのごとし。

■略歴 大阪大学基礎工学部生物工学科卒。通産省工業技術院電子技
術総合研究所研究官として任官。音響研究室にて、聴覚情報処理に関す
る研究に従事。聴覚研究の応用として、騒音評価に関する研究に従事。
1982年、1983年ワシントン大学および米国中央難聴研究所客員上級研究
員。電子技術総合研究所に帰任後、聴覚音声の研究に聴覚誘発脳磁場
計測技術を応用するため、超伝導量子干渉素子(SQUID)を用いた生体磁
場計測システムの研究開発を行う。1990年、研究交流促進法に基づき、超
伝導センサ研究所所長を経て、1995年本学教授就任。1998年より先端電
子技術応用研究所所長を兼務。

そういえば、彼とは中学も一緒だったのだが、
その時代に聞いた記憶では、早くに亡くなった父親も研究者で、
何かの賞を受けたこともあるとのことだった。
いやまあ。実にどうも何ともはや。心底、恐れ入りました。
お〜い、カドキュー。覚えてるか〜。高校時代、西山、早川、
磯浜なんかと一緒に落語研究会やってた、わしでっせ〜。

06年10月
◎おもしろいぞ〜!
『サンカの真実 三角寛の虚構 』(筒井功・文春新書)を読んだら、
無茶苦茶におもしろい。サンカ研究の第一人者とされてきた
三角寛の著作内容が、いかにでたらめであるかを、
驚異的な調査力でもって暴きつくしている。

なにしろ報告書や読み物はもちろん、博士論文もでっちあげであって、
その内容に合わせて衣装や小道具を自分で用意し、
知り合いのサンカ出身者に着せたり持たせたりして撮影して、
それを証拠写真にしたというのだ。
彼らが使っているという独特の言葉も、伝承されてきた歴史も、
組織形態も指導者の呼称も、すべて三角がでっちあげたもの。
要するに彼は、フィクションをノンフィクションとして出版し、
その分野における地位と名誉を獲得したわけなのだが、
いまだにその信奉者が多くいて、批判は受けつけないのだという。

これ、何かに似てるなと思ったら、ジョージ・アダムスキーの
「空飛ぶ円盤」書籍、ならびにその信奉者たちの姿勢と一緒なのだった。
往年の「一杯のかけそば」騒ぎでもわかるとおり、三流フィクションでも、
これは実話なのですと言えば、売れ行きがぐんと伸びる。
「そらまあ、その手を使えば楽やわなあ」であって、
作家の矜持を少しでも持っている者なら、絶対にやらないことなのだ。
帯にいわく。「虚言者・三角寛に、ねじまげられたサンカ像を完璧に粉砕!」
おみごと!

◎新快速延伸
JR西日本の新快速が、これまでは滋賀県の長浜(北陸線)
までだったところ、10月21日から福井県敦賀まで延伸された。
敦賀は大学時代、毎年夏に合宿していた街で、
当時は特急「雷鳥」で行き来していたものだった。
それがこれからは乗車券2210円のみで行けるとは、
実にありがたいダイヤ改正。さっそく、ラジオ番組でネタにするべく、
その初日に出かけてきた。

そして姫路から来た電車だったか、とにかく大阪駅を9時15分に出る
やつに乗ったところ、土曜日だったこともあってか車内は満員。
帽子、リュック、ウエストバッグというハイキングスタイルの
おじさんおばさんが多く、京都までは座れなかった。
無論、大阪駅以下、各駅のホームには「鉄ちゃん」連中がカメラの放列。
県境のトンネルを抜けて敦賀に近づくと、新快速の新型車両がめずらしい
のか、踏み切りで手を振っている人たちもいた。

また敦賀に着くと、駅頭では子供たちが祭の恰好をして
太鼓を叩いているわ、テントを張って鉄道部品即売会をやっているわ、
駅前大通りも店を挙げての歓迎ムード。混雑していてやかましいので、
勝手知ったる懐かしの街、ぼくは裏道をぬけて、
気比神宮から敦賀漁港、そして気比の松原へと歩いてきたのだった。
今度は冬、雪が積もったときにでも行こうと思いつつ帰ってきたわけだが、
学生時代と同じ調子で歩きまわった結果、翌日、足腰が痛みだした。
脚も「吊るが」の街であります。

◎ひでえもんだ
いやまあ大変なもので、崩壊する崩壊すると言われながら、
まだ体制は保たれている。しかし、崩壊したとき彼はどうなるかであるが、
思いうかぶのは次のような事例である。
ルーマニアのチャウシェスクのように、国民怨嗟の的になって銃殺される。
イラクのフセインのように、逃亡して穴蔵に隠れたりしても発見され、
裁判の場に引き出される。カンボジアのポルポトのように、
自殺したと発表されるけれど、実は内部処理で毒殺される。

さらに範囲を広げれば、ヒトラーのように自殺する。
ムソリーニのように殺されて逆さ吊りにされる。
スターリンのように脳内出血を起こして倒れても、
わざと周囲が暗黙の同意のもとに医師を呼ぶのを遅らせ、
死に至らしめられる。独裁者たちの最期はかくのごとしなのだが、
例外が毛沢東で、大躍進政策の失敗や文化大革命で一千万だか
二千万だかの人民を消滅させながら、ちゃんと長寿をまっとうしている。
彼も案外、そうなるかもしれないのである。

◎オリンピックで思い出す
「体育の日」は、東京オリンピックの開会日を記念して設けられた祝日。
当時、高校2年だったぼくは、毎日放課後、
講堂の地下にあった食堂に友人とたむろし、
プラッシーを飲みながら中継を見ていたものだった。
コーラなんかまだ売っておらず、飲み物といえばプラッシーだったのだ。

開会式のセレモニーで、自衛隊のジェット機5機が飛来して
各機色つきの煙を噴射し、青空を背景に五輪マークを描いてみせた。
ブルーインパルスというチーム名を、すでに使っていたのかどうかは
覚えていないが、飛行機がF86セイバーだったのだから、
それだけで時代がわかる。
聖火ランナーの最終走者はサカイヨシノリ君という男性で、年齢が19歳。
当時、「中途半端な年齢だな。同じことなら、20歳の人にしておけばいいの
に」と思ったのだけれど、これにはちゃんと意味があるのだった。
開催の年である昭和39年は敗戦の年から19年目にあたっていたわけで、
わざわざ昭和20年生まれの候補者のなかから選んでいたのだ。

競技で印象に残っているのは、やはり女子バレーボールと男子マラソン。
前者は「大松監督・日紡貝塚・俺についてこい!」であるし、
後者は円谷選手がトラックに入ってきてから、
いかにも苦しげな顔で走っていたからだ。
その後、この人は「もう走れません」と自殺してしまうのだが、
その遺書は文章の大半が、「あれがおいしゅうございました、
これがおいしゅうございました」という、食べ物に対する御礼づくしである。
体調管理のため好きなものも自由に食べられなかったのかと思うと、
気の毒を通り越して、残酷な話だなあと思う。

06年9月
◎メールをくださった方々へ
日経新聞掲載のエッセイ「フィギュア人気に思う」に関し、
複数のメールをいただきました。賛成・反対・中立、それらの御意見、御指
摘、御批判等々を、私はまず、そのまま受け入れさせていただきます。
私自身やその仕事に関するマイナス判定等につきましても、同じくそのまま
受け入れさせていただきます。受け入れてどうするかと申しますと、
考える材料にさせていただきます。
その意味から、すべての皆様に、御礼を申し上げます。

反対意見のなかには、当方の思考や文脈をこちらの主旨どおりに
御理解いただき、その上に立って、「けれども」という批判や反論をくださっ
た方が、何人かおられました。一番ありがたく、同時に一番考えさせられる
姿勢ですので、その方々には、「居ずまいを正す」という気持ちで御礼を申
し、頭を下げさせていただきます。
中立的な立場で、別の視点からの捉え方を提示してくださった方もおられ、
その分析角度には思考の広がる予感がいたしましたので、
嬉しさを感じました。どんなテーマに関しても、賛否にかかわらず、
私は考えの広がる、進む、深まるような意見が好きです。
賛成意見のなかには「あおり」的なものも混じっておりましたが、
それらにつきましては、私の思考主旨や姿勢とは異なっておりますので、
逆に「哀しく」なりました。

また、コミュニケーションということの必然ではありますが、
「いろんな受け止められ方があるもんだなあ」と、
今回あらためて強く実感いたしました。
申し上げにくいことながら、部分の全体化・記述されてないことまでへの拡
大解釈・文脈中の因果関係の逆理解などもまじっておりましたが、
それらも、「ああ書けばこう読まれ、こういう反応が返ってくることもある」と
いう事例としてとらえ、冒頭に述べましたごとく、そのまま受け入れさせて
いただきます。激語のみの反応に関しましても、同様です。

御教示によってスレッドも拝見いたしましたが、賛成・反対・中立、
それぞれの有意味な書き込みに関しましては、同じ受け入れ方をさせてい
ただきたく、ただ「あおり」や「荒し」の多さには辟易したことを、
申し添えさせていただきます。
終わりに、文章を書く者が有する「業」を正当化するつもりはありませんが、
文章というものが持つ「宿命」につきましては、
御理解のほどをお願い申し上げる次第です。

◎嘘つく人と信じる人
北芝健という警視庁出身の人がおり、
ロングセラー漫画、「まるごし刑事」の原作者、
最近ではテレビのスタジオ番組にもよく登場して、
犯罪事件の解説などをしていた。
書店にも現役時代の経験や警察の内幕を描いたらしい著書が
続々並ぶので、ぼくも一冊くらいは読もうかと思っていたのである。

ところが、週刊現代先週および先々週号によると、
彼は経歴詐称をしており、四十八歳と言っているが本当は六十歳、
「ジャスコ」という総合商社に勤務したあと転職したと言っているが
そんな大型商社はなく、刑事だったと称しているが実は巡査だった、
公安にもいたと言っているが交番にいただけだったと、
あれこれ暴露されている。
公安と交番は耳で聞けば一字違いだから、当人、
「人が聞き間違えただけだ」と弁解しているのかと思ったのだが、
そうは言っておらず、暴露されるその結果については
「覚悟してますよ」とのこと。現にテレビ局二、三局からコメンテーターの
仕事をキャンセルされ、残った局もキャンセルされるでしょうと言っている。

しかし、ロングセラー漫画の原作者なんだから、経済的に困っているわけで
もないだろうし、その分野での評価も得ていたはずなのだが、
何を思ってそんな詐称をしたのか、そのあたりが当方にはわからない。
そしてもうひとつ、「戦後未解決事件史」(宝島文庫)という本のなかで、
新右翼「一水会」の顧問、鈴木邦男氏が、
「赤報隊事件はなぜ解決しなかったのか」と北芝氏に聞いたところ、
「鈴木さんが庇ってたからです」と即答され、
びびったという話を披露している。
こいつは凄いやつだと思って動揺したと書き、
北芝氏の「記憶力には自信があるんです。元公安ですから」という言葉も
紹介しているのだが、これはどう解釈すればいいのだろう。
鈴木氏が、ころりと騙されていたということなのだろうか。
新右翼のカリスマともいうべき人が、
そんなお人好しだとは思えんのだけれど。

◎世界はだまされた!?
9月11日は、ニューヨークの世界貿易センタービルが
特攻自爆攻撃を受けて壊滅した日であるが、『9.11の謎』(成澤宗男著)
という本を読むと、「世界はだまされた!?」ということになるらしい。
あれだけのビルが、いかに大型とはいえ飛行機の激突くらいで
完全崩落することはありえず、かつその自壊の様子と
かかった時間の短さは、爆薬で崩落させるときの状態と同じである由。
しかも現場にいた者の証言では、地下または低い階で何度も
爆破音がしたという。要するに、当日のテロ攻撃を察知していたアメリカ側
が、知らぬ顔でやらせておいて、その効果を激烈にするため、
あらかじめ爆薬を仕掛けておいたのではないかという説なのだ。

「まさか。いくら何でも」と普通は思うところだが、
実行犯の名簿はでたらめで、無関係の生存者数人から抗議を受けた
アメリカ大使が謝ったとか、崩落したビルの鉄骨群はなぜかただちに
スクラップ業者に売り払われてしまったとか、ペンタゴンに激突した飛行機
の開けた穴が、直径わずか数メーターのきれいな円形であって、
これはミサイルの命中だと考えたほうが理屈に合うとか、
そんな記述や写真に接すると、「ありえんことではないな」と思ってしまう。

知っていながら黙ってやらせるのは、往年、日米の開戦時にも
使われた手であって、「相手に先に手を出させる」アメリカの常套手段。
9.11も、アルカイダを殲滅するべく、アフガニスタン攻撃を正当化する
手段として使われたのかもしれないのだ。
この書籍は、週刊金曜日に連載したものをまとめ、(株)金曜日から発行し
ているので、若干「割引き」して読んだほうが妥当かとも思う。
しかし、実はこれ以外に、ベンジャミン・フルフォード著の
ぐんと分厚い同種の本も出ている。それはまだ読んでないが、
読めば、心底愕然とするかもしれないのである。

◎番組の取材で、
東京ディズニーシーへ、行ってきました。
広い+暑い+人が多い=疲れた〜!
てなわけで、今週は当ホームページの更新、
ごく一部にさせていただきます。

06年8月
◎電池も熱を持ちだした
デジカメを首からぶらさげ、酷暑のなか、
大阪ランダム案内の取材に出かけた。もっか淀川区をやっており、
次は東淀川区である。ところが、早くも汗だらだらで柴島(クニジマと読む)
の浄水場に着き、煉瓦造りの記念館を撮ろうとしたところ、
モニターの液晶画面が出てこない。
夏空が明るすぎて、映ってるけど見えないのかと思い、
手で囲って確かめたりしたのだが、やはり出ていない。
電池切れかと考え、近くのコンビニで買って入れ替えたけれど、
やっぱり駄目だった。つい先日撮ったときには何ともなかったのに、
本日、いきなり具合が悪くなってしまったのである。

しかも何度もスイッチを入れたり切ったりしているうちに、
何となくボディが熱くなってきたように感じだした。
念のために電池を取り出してみると、それも明らかに熱を持っている。
チップの故障か配線の不具合かはわからないが、
電流が正常に流れていないことは明白なのだ。
これはやばいと思い、電池を抜いたまま、撮影もあきらめ、
汗みずくの姿でかなり距離のある仕事場へもどった。
そしてあれこれいじってみたけど、どうにもならない。
普及品で、保証期間もとうに切れているから、修理すれば案外高くつくに違
いない。結局、新しいのを買うことにして、また梅田まで出かけたのである。
先月はコピー機が壊れたし、いろいろ物入りでございます。

◎カンタローさん
先日、大学のクラブの同期仲間で、お食事会をした。
そのとき女性陣が言うことには、「カンタローさん」という先輩が、
在学当時、非常に素敵だったという。ある女性など、
「カンタローさんが入部勧誘してはったから、入ったんよ」だそうだ。
そして当方、その通称は覚えているけど、
正確な姓名や顔が思い出せないと言ったところ、
あんな素敵な人を覚えてないのかとばかりに総すかんをくらった。

ただし女性陣は後日談も教えてくれて、
ある年のクラブのOB会総会、そのパーティー会場で、
「カンタローさん、来てはるよ」「えっ。ほんと。どこどこ?」という騒ぎになり、
某女性会員が教えられた方向を見たところ、そこに、
そこらの町中にいくらでもいそうな中年のおっさんが立っていた。
「嘘。あれ、カンタローさんと違うわ」「違うことない。カンタローさんよ」
「そんな。なんぼなんでも、あんなおじさんが」 押し問答のあと、
どうしても納得できなかった彼女、くだんのおじさんに近づいて挨拶し、
古い伝聞知識を思い出して聞いた。

「あのう。在学当時、お父さんは、
これこれこういう商売をしてはりましたっけ」 
相手は「そうです」とこたえ、その瞬間、むかいあって立つただの中年男が
、カンタローさん以外の誰でもないことが確定した。
彼女、深い落胆を胸に、その場を離れたというのである。
わははは。ざまあみろ。わしなんかOB総会に出て、
間違われたことないぞーっ。内心で凱歌をあげたのだが、
間違われん代わりに、先輩後輩男女を問わず、誰もが皆、
ちらちらと頭に目をやるのはどうしてじゃ。

◎無駄足に安心
前々から探している絶版本があって、以前、ネットの
古書検索を試したのだが、加盟店中にはどこにもなかった。
先日、駅前第一ビルの地下および阪急三番街かっぱ横丁の
古書店街をハシゴしたのだけれど、やはり見つからなかった。
そこで念のため古書検索をもう一度やったところ、今度は一店だけ
在庫ありと出た。しかもその店は大阪近郊の住宅都市にある。
それなら申し込んで送ってもらうのを待つより、行ったほうが早い。
購入すれば即、帰りの電車のなかで読みだせると思い、
昨日、酷暑のなかを出かけてきたのである。

しかるに一帯は住宅密集地で、古書店などどこにもない。
所番地は連棟住宅の一軒だったが、人が住んでいるようにも見えない。
どうやらネット専門の商売をしており、そこは倉庫に使っているらしいのだ。
仕方なく、大汗をかいてもどってきたのであるが、まあ、
そんなしんどいめをしてでも特定の本を読みたいと思うという、
その意思の健在(?)ぶりに、自分ながら安心したことであった。
結局、ネットで注文。もっか到着待ちである。


06年7月
◎お祈り申し上げます
朝日放送の看板アナウンサー道上洋三氏が、
もっかラジオ番組を休んでおられる。良性脳腫瘍で視覚および嗅覚に
障害が出てきたので、手術と療養をされる由。
したがって略称「おはパソ」、今年で30年目という人気長寿番組である
『おはようパーソナリティー道上洋三です』も三カ月の休演で、
同局のアナウンサー二氏が代役を勤めている。一方おおむね同じ時間帯、
毎日放送では『ありがとう浜村淳です』という番組をやっており、
これもまたすでに30年を越している超長寿人気番組。
そのゆえをもって道上、浜村の御両人は、二巨頭と称されている。
対する当方、1年半ですでにへとへとになっている一ミクロマンなのだ。

で、それはともかく、思い起こせば
若者向けの深夜放送が全盛期だった大学時代、ほとんど毎晩聞いていた
『ABCヤングリクエスト』を担当しておられたのが、
まだ20代だった道上さんだった。
また、いまの仕事で早起きを始めるまで、実はぼくは隠れ「おはパソ」ファン
で、ほぼ毎朝、全部ではないけれど、この番組を聞いていた。
それだけに道上さんに対する思い入れは強く、
ある種の畏敬の念も持っている。手術の成功と予定通りの御復帰を、
切にお祈り申し上げる次第なのである。


◎「さん」付けで呼ぶいやらしさ
北朝鮮のミサイル問題、靖国神社をめぐる昭和天皇の「お言葉」問題。
どちらも、論じだすときりがないのでやめておくのであるが、
後者のA級戦犯合祀問題のなかに、松岡洋右という外交官がでてくる。
国際連盟脱退時に派手な演説をぶって退場した男であり、日独伊三国同
盟を結び、返す刀で日ソ中立条約を電撃的に締結した人物でもある。
当人、英雄気取りで凱旋し、新聞雑誌も世論もそれを助長したのだけれど、
同盟も条約も、ヒトラーやスターリンにうまく利用されたのであることは、
以後の歴史が証明している。本人も後年、あの同盟と条約で
対米戦争を避けられると思っていたのだがと、慚愧の言葉を吐いている。

しかしその当座は得意満面であったわけで、交渉の経緯を語るとき、
ヒトラーのことを「ヒトラーさん」、スターリンのことを「スターリンさん」などと呼
んでいる。こういう場合、ヒトラー総統、スターリン首相と呼ぶのが普通であ
って、外国の首脳を「さん」付けで呼ぶのは、どこかおかしい。
本当に親しい仲であるなら、「ヒトラーがね」とか、「スターリンがさ」などと
呼び捨てにするほうが自然であり、それを変に親しげな呼び方をするという
のは、無意識にせよ、自己を大物と思わせたいがためだと
判断せざるをえない。唾棄すべき俗物根性であると、そう考えるのである。
そして、これは過去だけの話ではない。
北朝鮮を訪問した文化人のなかに、帰国後、金日成主席のことを、
「金日成さん」と言ったり書いたりしていた人物がいる。
最近、沈黙気味であるが、いやまあ実にどうも何ともはや。


◎両京または全京
今年は、小松左京イヤーである。
『日本沈没』が33年ぶりに新たに映画化され、
上下2巻の文庫も小学館から再刊された。かつ、ファンが延々待ち続け、
ひっょとしてもう出ないのではないかとあきらめかけていた
『日本沈没・第二部』が、一種の集団制作
(小松さんの構想+ブレーンの討議+谷甲州氏の執筆)というかたちで、
遂に実現した。映画は試写会で見せてもらい、第二部は昨日読み終えて、
ほっと一息ついていたところ、本日はさらに、
『SF魂』(新潮新書)という本まで届いた。

語り下ろしによる、小松さんのSF人生記であって、
さっき、とりあえずぱらぱらとめくってみたら、筆名の由来が載っていた。
小松は本姓だが、名前を右京にするか左京にするか迷っていたところ、
当時姓名判断に凝っていたお兄さんから、右京なら名誉と金が手に入る、
左京なら新しいことができると言われた由。
「左がかった京大生」だったので左京にしたというのだが、
新しいことをやって、かつ金と名誉も手に入ったのだから、
このペンネームは、小松両京または小松全京という
ものすごいパワーを秘めていたことになるのではないか。
無論、名前が仕事をしたわけではなく、御当人がなさったんですけどね。

◎鹿沼のイメージ
先日、映画「不撓不屈」を見てきた。
高杉良氏の原作は読んでないのだが、ある会計士と税務署や国税庁との
戦いを描いた内容で、時代は昭和30年代半ばから後半にかけて。
主要舞台は栃木県鹿沼市および東京である。

「別段賞与」という概念をめぐって、それが節税であるか脱税であるかの
対立がつづき、地元税務署と国税庁は官僚の権威で抑えつけようとしたり
、圧力をエスカレートさせて卑怯な手を使ったり、
遂には刑事事件まででっちあげようとする。
このあたり、当方ムカムカしながら見ていたのだけれど、
それはそれとして、鹿沼という街の映像に初めて接して、へえっ、
こんなに美しい、歴史のありそうな落ち着いた街なのかと一驚した。
無論、時代設定に適合した場所のみを映しているのだろうが、
こちらの勝手な想像としては、高度成長期以降かバブル期に開発された、
ゴルフ場にも近そうな、別荘地風の住宅都市という印象を持っていたのだ。

なぜか? この鹿沼は、故半村良さんが最後に住んでおられた街だから。
転居魔の半村さん、今度は栃木県鹿沼市と聞いたとき、
「もう、いいお年だし、東京からはちょっと距離を置いて、
ゴルフなんぞを楽しみつつ、ゆっくり仕事をしていきはるのかな」と思った。
それで、上記のような連想をしてしまっていたのである。


◎懐かしのプロレス大会
早くも七月に入った。ひたすら毎日、何とか毎週、ようよう毎月をば、
あたふたと送っているわけで、こう書いているうちにも秋が来て、
師走が来て、新年になっているのである。

それはともかく、大学時代の七月八月といえばクラブ
(広告研究会)の合宿で、福井県敦賀市のお寺で寝泊まりしていた。
広告の実践的研究と称して、名勝「気比の松原」の海水浴場で
浜辺の喫茶店を経営していたからで、男子会員は七十畳の大部屋に
数十人が雑魚寝というプライバシー皆無の環境。
おまけに禁酒、禁麻雀、禁パチンコなどという、
厳しい戒律のもとに過ごしていたので、自由時間にはどうしても、
ストレス発散のための無茶遊びをするようになっていく。
プロレスごっこをやったり布団蒸しをしたり、といってもぼくは
もっぱら後者の加害者兼被害者であったのだが、まあ、
あのころは元気だったなあとしか言いようのない日々を送っていたのだ。

そして時が流れた結果、そんな仲間たちも、もろ団塊の世代であるため、
来年あたりから定年を迎えだす。浪人している男なら、今年かもしれない。
リタイア記念にあのお寺で合宿し、懐かしのプロレス大会、
思い出の布団蒸し大会をやればおもしろかろうと思うのだが、
いかがなものか。捻挫7名、骨折3名、頓死1名などと、
地元の新聞を賑わすこと必定であろうと思うのだが。


06年6月


◎肉体改造の可否
もっか、えげつない腰痛に見舞われている。
ある雑誌に「疲れ知らずの身体になる方法」というのがのっており、
それをわずか三日(三回)試しただけで、こうなったのだ。
方法自体は簡単で、仰向けに寝て、伸ばしたままの両脚を三十度ほど
上げる。次にその姿勢のまま、今度は上体を同じくらいの角度上げる。
そして五つ数えるだけその姿勢を保てば、それでいいというのだ。

そこで寝る前にやってみたところ、強烈な反動が来た。
両脚を上げるのは腹筋を使う動作で、
これはときどきやっていたことだからか、特に反動もなかった。
だが、上体を上げる動作は腰の左右を走る筋肉を
ぐいとストレッチしたことになるわけで、まあ、翌朝から痛いの何の、
三回やったら痛さのあまり胸が悪くなるほどになってしまった。
先週後半(6月21〜23)のことで、その結果、土曜はまるまる一日、
うなりながら横になっていた。姿勢を仰向け、横向き、うつぶせと変化さ
せながら、本くらいは読めたけれど、ほかの作業は何もできず。そのため、
このホームページの更新も最小限にせざるをえなかったのだ。

それにしても、言葉の威力というのは恐ろしい。
「疲れ知らずの身体になる」という、その見出しだけで、
もっか常に疲れ気味の当方、すぐさま飛びついたのであるが、
やはり年齢や体形体質を考えれば、無理なことはせんほうがいいのか。
それとも、この激烈な痛みを乗り越えれば、
本当に疲れ知らずになれるのだろうか。

たまたま、日曜放送の番組、『別冊ミラクル・アンチエイジング宣言』の
ゲストに、ネジのコノエという会社の会長さんが来られたのだけれど、
この人は60歳になってからトレーニングを始めて、
1年間で、冬のホノルルマラソンに出場し、完走したという。
現在78歳。去年までで17年間連続完走しており、その間、
夏に直腸癌の手術をした年もあったという。
還暦前まで、スポーツといえばつきあいでゴルフをしていた程度という
小柄な人なのだが、もともとそれだけの体力があった方なのか、
そうでなくても苦しさを乗り越えれば、誰でもそうなれるのか。
このあたり、一定年齢以上になってからの肉体改造に関して、
その可否を思うわけである。

◎外れたのか、変わったのか。
先般、桂米朝師匠にお話をうかがう機会があり、
まことに得難くありがたい時間を過ごさせていただいた。
師匠御自身や上方落語に関してはもちろん、大阪の遊びや商売など、
さまざまな分野について語っていただいたわけだが、そのなかには、
初めて聞いたエピソードもあった。

師匠は中年期頃だったか、「わしは五十五で死ぬ」と公言しておられ、
これは「そうなってもかまわんように、やるべきことを早くやっておく」という
決意のための言葉だったそうなのだが、どうも、半分以上本気で
その寿命を信じておられた雰囲気もあった。
その背後には、実の父親も落語の師匠も五十五で亡くなったという事実が
あったのだけれど、そしてぼくはそれらのことを聞き知っていたのだけれど、
「それだけで、そこまで思い決めるものかなあ」という疑問はぬぐいきれな
かった。ところが今回うかがった話のなかに、こういうエピソードがあった。

戦争中、陸軍病院に入院していたとき、患者仲間に占いをする男がおり、
それがよく当たるというので、皆があれこれ聞いていたのだという。
そして師匠(当時だから、十九歳の中川二等兵)には、「五十五歳のとき、
自分が死ぬか子供を亡くすか、とにかく命にかかわるようなことがある」と
言ったという。当方、「なるほど。そういうことがあっての話か」と、
膝を叩く気になったのだ。
無論、現実には師匠にも御子息たちにも何事もなく、
したがって素人占いはまるまる外れたということになるのだが、さてこれは、
単に外れたのか、そう決まっていた運命に変更が加えられた結果なのか、
どっちだろう。高島嘉右衛門、水野南北などの伝記を読むと、
積善によって運命が変わることはあるという。
大勢の弟子を育て、上方落語を隆盛に導き、研究成果を残して、
滅んでいたネタの復活も成し遂げた。これが巨大な積善であることに、
異論を唱える人はいないと思うのだが。

◎空想デザイン大賞
空飛ぶ円盤というものが、存在するのかしないのか。
現実の宇宙人の乗り物としてのそれは、まあ、存在しないということになっ
ている。この宇宙内に知的生命体が存在する確率や、
地球と太陽系外惑星との距離や、宇宙船の航行速度などの
関係から計算して、来訪はありえないというわけである。
だから目撃例はほぼすべて、錯覚、妄想、虚言であると判定されているの
だ。ただし、ごくごく、もうひとつくっつけて、ごくごくごく少数の事例には
判定の下せないものがあるそうで、存在論者はその一点を信じて
想像を広げていくわけである。星間距離と航行速度の関係にしても、
光速を超える移動法が発見されておれば問題はないからだ。

一方、霊的存在としての円盤を言う人もおり、これは客観的な観測も
検討もできないのだから、当人の言うがままを聞いておくしかない。
何でこんなことを書いているかというと、いわゆるアダムスキー型の円盤を
、「よくできたスタイルだなあ。宇宙人が母船から偵察艇を発進させるとした
ら、まさにああいう形状のものを使うだろうと、人々が思ってしまうような
かたちに仕上がっているよなあ」と、前々から感心しているからである。
一説によると、あれはアダムスキーが照明器具の笠に細工して作ったもの
だというが、上部の磁気極といい、周囲の窓といい、底面の着陸ギアといい
、「それらしさ」という意味では抜群のデザインだと考える。
以後、数々の類似円盤、模倣円盤を生みだしたという点からも、
あれは空想デザイン大賞に価すると思うのである。

◎十三公園の猿
大阪ランダム案内で、先般、十三公園の猿をとりあげ、
片隅にぽつんと一匹だけ座っている、あいつはいったい
何者なのだと書いた。そして、正体を御存じの方は御教示をと
願っておいたところ、公園の近くに住んでおられる方から、
メールをいただいた。それによれば、
『猿の像のことですが 私の記憶では 今の噴水があった場所に 
円形の水溜りの真中にこの猿の像があり 口(パイプ)から
水が出ていた記憶があります いわゆる小便小僧みたいなもんですね 
何故猿なのかは不明ですが…』とのこと。
当方、なるほど、噴水が新設されるときに、
猿だけ隅っこへ移されたのかと納得した次第。
菊川さん、わざわざありがとうございました。
それにしても、ほんとに、なぜ猿なんでしょうかね。

◎上の写真で思い出す。
福島では駅前や繁華街、住宅街などをうろつきまわり、
私鉄に乗って田園地帯を走ったりもした。
住宅街を歩いていたとき、町内各戸の苗字を記した案内板を見ると、
斉藤・及川・清野などというのがあったので、「これはこれは!」と、
自分が東北の入り口(?)に来ていることを実感した。

掲示板内に三軒もあった斉藤は、山形に多い姓で、
北杜夫氏の父君、斎藤茂吉の出身地。及川は新潟で目立ち、
及川古志郎という海軍大将もそこの出身。清野とくると、
SF作家としては当然、半村良さんを思い出す。本姓が清野で、
確か御先祖は福島だったはずなのだ。

私鉄に乗り、適当な駅で下りてぶらついていると、農村地帯の嫁不足のた
めか、国際結婚相談の看板を出している家があった。
取材に行ったのは連作長篇を書くためだが、それとは別に、
「単線のローカル私鉄、田園地帯、外国人の女」というあたりからの連想と
妄想で、のちに『無人駅の女』という短編もできあがったのだ。