フリーメモ。05年8月〜12月。

05年12月
◎トリビの大和
『男たちの大和』を見てきた。迫力があり見ごたえがあり、
戦闘場面を無数のフラッシュカットで構成した手法が、
成功していると感じた。じわぁ、ぽろ、つつーっなどと、
涙の出てくる場面が何度もあった。
水兵から高級士官まで、エキストラもふくめて、
「不敵なつらがまえ」の俳優を起用しているところも、大いに結構だった。
ああいう映画で、現代風のアイドルタレントみたいな顔が出てきたら、
しらけてしまう。見終えて、もう一度見たいと思い、外に出たときには眼が据
わっており、提げていたブリーフケースを士官が提げていた黒鞄のように
感じたのだから、かなり「はまった」ことに間違いはないのだ。

また、夏に尾道の向島造船所内に作られた原寸大セットを見てきており、
艦橋や主砲など、省略されている部分も知っていたので、
そのあたりをどう処理しているかも興味深かったのだが、
実写と模型とCG映像の合成技術がみごとで、その面でも感嘆した。
アメリカ雷撃機が魚雷を投下して反転していくシーンなど、
記録フィルムに着色して使っているのかと思ったほどなのだ。
ただし、元プラモデル少年、戦記雑誌『丸』少年として
気になった点もいくつかはあった。

1)CG映像の主砲発射場面は結構だったが、
実写のそれは砲口から噴き出す火柱が貧弱過ぎる。
18インチ砲の砲火は、あんなもんじゃございますまい。
2)水兵たちがハンモックで寝ていたが、大和は三段寝台になっていたはず
。少数のハンモックは候補生の教育用に使われたようだと、
パンフレットにも書いてあるではないか。もちろん、その少数のハンモックに
実際に寝ていたのだという生存者の証言があったのかもしれず、
かなり前に読んだ辺見じゅん氏の『男たちの大和』を、
再読してみようとは思っているが。
3)現実の第二艦隊司令長官、伊藤整一中将は丸刈り頭だった。
まあ、渡哲也を丸坊主にするわけにはいかなかったのかもしれないが。
4)水兵から長官までの敬礼、肘を張りすぎているように思った。
軍艦の内部が狭いので、海軍の敬礼は腕を立て気味にしていたのだ。
5)出撃にあたって艦長訓辞を聞き終えるや、それに応えて士官、下士官
から水兵までの総員が右腕を突き上げ「おおっ!」 
それはないでしょう。一瞬ながら、あそこでリアリティが崩れて
安っぽくなりましたぜ。それとも、あれは事実ですか?

◎亜細亜のベルベでチャチャチャ!
先日、豊中市の広報誌「広報とよなか」からの依頼で、短い原稿を送った。
掲載は年を越してからだそうだが、同市に住んでいた
小学校高学年〜高校時代の思い出を書いたのだ。そしてそのなかで、
小学生時代、友達と一緒に、コメディアン佐々十郎さんや
藤田まことさんの家を見にいった話を書いたのだが、この藤田まことさんは、
通っていた南桜塚小学校の近くで見かけたことが何度かある。

国道176号線(通称、産業道路)の南桜塚に亜細亜製薬
(亜細亜はアジアと読む)という会社のビルがあり、当時藤田さんは、
その会社の滋養強壮アンプル剤「ベルベ」や、
あれは何剤といえばいいのか、飲みつづければ
肉がついて元気になるという錠剤、「フトルミン」の広告に起用されていた。
藤田さんの家はその頃、現在の北桜塚、当時の豊中警察署の斜め向かい
にあったので、亜細亜製薬までは産業道路沿いに徒歩15分ほどで行ける。
挨拶なのか打ち合わせなのか、大きなシェパードを散歩させながら
亜細亜製薬へ向かう姿を、いまでもよく覚えているのだ。
無論これは、『てなもんや三度笠』以前の話。
『てなもんや』がスタートしたのは昭和37年(1962)で、
そのときこちらは中学3年生になっていた。

なお、ベルベのコマーシャルソングを唄っていたのは、
「トリオこいさんず」という女性3人のグループ。美人2人および、
かわいらしい子ひとりというメンバーだったと覚えているが、
その後どうなったのかな。ちなみに、CMソングで記憶している部分は、
「パパママ坊やに弟に妹、うちじゅうみんなでベルベ」というもの。
音節の関係上、弟をオトトと発音していた。
「亜細亜のベルベでチャチャチャ!」というフレーズもあったから、
リズムはチャチャチャだったのだろう。その後、亜細亜製薬は倒産し、
藤田まことさんは、「おれがこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」で
知られていくようになる。以上、思い出すままに。

◎さたけ様。
何度も恐縮です。無論、水谷氏の分も、ありがたいのです。
よろしく、お手配のほど、お願いいたします。
局からの電話の件、多忙で忘れてるんでしょう。申し訳ありません。

◎ さたけ様。「ドンドコ」の件
よろしければ2〜3本、〒552−8501 ラジオ大阪(住所不要)
かんべむさし宛で、お送りいただけませんか。
(中西氏のものがあれば、それを。なければ永井氏のもので)
プリントさせていただき、御返送いたしますので、よろしく。 

◎山崎様。メール拝見。
お役に立ちましたようで、結構でした。とりいそぎ、そのことのみ。

◎検印省略
先日、ラジオ番組のリスナーからのメッセージ募集コーナーで、
「略しました。略します」というテーマを採用した。
「もう高齢なので、私は年賀状は略してます」などという、そんな葉書や
FAXが来たわけだが、そのときこちらは仕事柄、検印省略の話をした。
若い人は「検印」という言葉さえ知らないかもしれないが、
これは書籍が5千部なら5千部、間違いなく発行されていることを
著者が確認した証拠となる捺印のこと。
切手大あるいはもう少し大きい紙片に印鑑を押し、
それを書籍一冊一冊の奥付ページに、一枚ずつ貼り付けていたのだ。
出版社によって検印紙の意匠が異なり、作家も印形に凝ったりするので、
これはコレクションの対象になってもいるらしい。

そしてこの制度(慣習?)は、戦前はもちろん当方の学生時代まで、
まだ十分生きていた。とはいえ、それを略して奥付ページに
検印省略と印刷した本も多くあり、そのうちほとんどがそれになって、
さらには検印廃止と印刷されだした。現在では、省略とも廃止とも、
何とも印刷されていない本がほとんどなのである。
ただし、まだ律儀にそれを守っている出版社もあって、
たとえば青蛙房の「桂米朝 上方落語ノート」(第一集)には、
横4センチ弱、縦5センチの検印紙が貼られている。
鳥獣戯画から採った、蛙の立ちあがった姿が薄緑色で印刷されており、
そこに「結び柏」(師匠の紋である三つ柏を簡略化したもの)に
桂米朝と名前の入った印が、赤の印肉を使って捺されている。
冊数の番号も捺されていて、ぼくが持っているのは1054なのだ。

当方、「検印省略」時代にデビューしたため、残念ながら
自分の本に検印を捺したことはないのだが、こういうのを見ると、
一回くらい経験してみたいなあと思うのである。
もっとも、それが百万部突破などというベストセラーになったら、
捺すのが大変だろうけれど(ならへん、ならへんと世間の声)

◎国家の品格
上記は、故新田次郎さんの御子息にして数学者たる
藤原正彦氏の著書タイトル(新潮新書)。
これも講演をもとに補筆された本であることからもわかるとおり、
氏は精力的に「国語教育の重要性」を説いておられ、
先般来、日本ペンクラブや日本文藝家協会の会報にも、
別途講演の抜粋が掲載されていた。
そしてぼくはその論旨に、ほぼ百パーセント賛成するものである。
小学生に英語など教えていたら国際人は生まれない。
同じくパソコン操作法など教えていたら、パソコンを(ハードもソフトも)
作れる人間が出てこなくなる。まったくそのとおりであって、
この年代の者たちには、読み・書き・計算を叩き込むことが、
すべてのスタート教育となるのだ。また、論理というものの限界、
論理以前の「情緒」の重要性については、当方の学生時代、
奈良女子大教授で天才的数学者だった岡潔先生が、
著書でるる説いておられたこと。
数学者が国語や情緒教育の復権を説かずにはおれなくなるという、
その切迫感に、戦後日本および現代日本の「危機」を思うわけである。

05年11月

◎OB会総会
26日の土曜日、大学時代に所属していた広告研究会の
OB会総会があったので、ひさしぶりに西宮市上ヶ原へ行ってきた。
結婚披露宴もできる豪華な会館ができており、そこで議事進行のあと、
ビュッフェスタイルの昼食をとりながら歓談したのだ。
広研だけあって、先輩や同期生たち、広告、放送、新聞など、マスコミ界に
進んだ者が少なくない。一般企業で、宣伝部に配属されていた例も多い。
そして驚いたことに、ほとんど我々の子供に当たる年齢の後輩OB連中、
さらにいい会社へ行きだしている。電通でCMを作ってるやつがおり、
もっか話題のTBSに勤めているのもおり、大日本印刷、角川書店など、
昔なら到底無理だったようなところへ入っているのだ。
関学全体の学生レベルが上がったのか、広研会員中に優秀なのが増えた
のか。まあ、OB総数が600人近いというのだから、
カシコが増えたかわりに、アホも多くなってるのかもしれないが。

◎これは何ガスだろう?
先般、人からぶどうをもらった。もらいものは大抵そのまま
家へ持って帰るのだが、家族で分けて食べるほどの量ではなかったので、
仕事場で半分ほど食べた。残りの半分は、ちょうど三分の一ほど飲んだ
焼酎があったので、一粒ずつぽとりぽとりと落とし込んでおいた。
もちろん、それでワインができると思ったわけではない。
ぶどうは疲労回復にいいと聞いていたので、滋養豊富なインスタント果実
酒を作ろうと思ったのだ。そして一週間ほど置いておいたところ、
瓶の底に沈んでいた粒が膨張して、浮いてくるようになった。
と同時に、キャップをあけるとプシュッと音がするようになった。
どうやらガスを発しているらしく、瓶の胴体にマジックで印をつけてみると、
一晩で水位(?)が1センチほども下がっていた。
内部にたまったガスの圧力が、液体を押し下げているのだ。
「ずっと放置しておくと、しまいに瓶が破裂するのではないか」 
そう思ったほどの力なのだが、ではこのガスは何ガスなのだろう。
炭酸ガスか、それとも何か別のガスなのか。
一度、マッチの火を近づけてみようと思っているのである。
なお、ぶどう漬け焼酎は、すっぱみがあって、
なかなか結構な味にしあがっております。

◎あとから効いてきて、長引く
高校に入った直後、父親が脳内出血で倒れ、数日間意識不明のまま、
轟々と高いびきをかきつづけて、そのまま亡くなってしまった。
当方、15歳になったばかりで、「人は死ぬものなんだな」と深く悟らされ、
成人してからも、友人知人が亡くなると、反射的に思うようになった。
「仕方がないな。人は死ぬものなんだから……」
とはいえ、これは多分、とっさの精神的な自己防御反応であって、
本当に高僧のごとく悟っているわけではないから、
ショックや哀しみは、あとからじわじわと出てくる。
たとえば、枝雀師匠については畏れ多いからおくとして、
桂歌之助さんの死など、いまだに尾を引いており、
「あの件、一遍、歌さんに聞いてみよか」と思ったのち、
「ああ。もう、おらへんねや」と、あらためて事実を噛みしめたりする。
今年は広告マン時代からの知人が亡くなったのだが、これもまた、
「しばらく飲んでないな。電話してみよか」と思って、ぐっときている。
今度の桂吉朝さんの死去についても、長引くことは必定なのだ。
癌治療に関する医療外(?)情報をふたつ知っており、
ひとつは伝えたのだが、もうひとつは、その機会を逸してしまった。
それだけに、なおのことである。

◎ニッポン縦走
上記タイトルの小説を思いついた。北から南へ、北海道からスタートし、
通過する各地の地名を織り込んで、リズムよく、テンポよく突っ走るという、
日本全国高速案内的な短編である。
冒頭のフレーズは決まっていて、「小樽の駕籠屋だホイサッサ」という。
ここから始めて走りだし、各地の名所旧跡、歴史事実、特産品、方言、
独特の苗字、出身者などを網羅しつつ、沖縄に至ろうという趣向である。
しかしこの手のモノは、あんまり長くなると読者がだれてしまう。
まあ、30枚程度に収めれば、ひきしまってちょうどいいと思うのだが、
いざ書くとなったら大変だろうなあということは、思いついた瞬間に見当がつ
いた。じゃによって、とりあえずここにメモだけしておくのである。

05年10月
◎ナンバープレートのトリック
毎朝、タクシーで43号線を走っていると、いろんな車と併走する。
先日、大型のトレーラートラックが横にきて、
ぬいたりぬかされたりしていたとき気づいたのだが、ああいうトラックは、
前のナンバープレートと後のそれとが、別々ということがあるんですな。
つまり、牽引トラックは単独で走ることもあるから、その前後にプレートをつけ
ている。そして引っぱってもらう台車というのか何というのか、
コンテナを積んだそれも、公道を走るのだから後部にプレートをつけている。
合体して走ると、牽引車の後部プレートは後方からは見えなくなり、
併走状態でも覗くようにしないと視認できない。
結果として、前と後ろが別ナンバーの車ということになるのである。
こないだ見たのは、牽引トラックが福岡ナンバーで、
台車は岐阜ナンバー。積んでるコンテナもエスライン岐阜のものだった。
そこで、「これ、推理小説のトリックとか、ミスディレクション用の仕掛けに使
えるのではないか」と思い、その具体化例をあれこれ考えようとしたのだが、
どうも思考が発展しない。

何か大事件か事故があり、関係しているらしいトラックの目撃証言を集めた
ところ、一人は福岡の車だと言い、もう一人は岐阜の車だと言う。
実はそれは同じ車輌で、すれ違ったとき見た者と、
走り去っていくところを見た者との違いなのだが、探偵がその矛盾する証言
にふりまわされて推理の迷路に入ってしまう……
ここまでは考えられるのだけれど、ミステリー構成の勉強をしていない人間
の悲しさで、それをどんな全体のなかにはめこめば活きてくるのか、
見当がつかないのだ。また、
「こんなの、おれが知らなかっただけで世間はみんな知っており、それを使
った推理小説だって、とっくの昔に書かれてるのかもしれんな」とも思う。
だからまあ、ちょっとした頭の体操材料としてのみ扱い、
仕事用のメモには加えなかったのであります。

◎想起限界面をいかに突破するか
難しげなタイトルをつけたが、ごくごく個人的な話である。
世界の民族音楽を集めたCD集があって、そのイスラエルの巻を聞いている
と、二、三曲のメロディーあるいはフレーズから、幼稚園時代もしくは
それ以前の何かを思いだしそうな気になる。
ところが、その何かが何であるのか、何度聞いても明確にならない。
北陸の冬の光景のような気がすることもあり、当時ラジオから流れていたの
かもしれない、類似のフレーズを持つ歌を思い出すのではないかと感じるこ
ともある。しかし、戦後歌謡大全集などをチェックしても該当する歌はなく、
ラジオの懐メロ番組に出てくる当時の曲のなかに、「これだ!」と膝を叩いた
例もいまだにないから、それはよほどマイナーなものだったのかもしれない。

イスラエルの音楽については、以前、山下洋輔さん篇による
『音がなければ夜は明けない』というアンソロジーに、「ハバ・ナギラ体験」と
いう一文を載せてもらい、妄想SF的な考察を書いたことがある。
そしてその文中では、自分が初めてイスラエルの曲を聴いた可能性を、
小学生時代にまでさかのぼらせていたのだけれど、
上記のCD聴取によれば、さらに幼少のときだったかもしれないのである。
「だけど昭和二十年代に、ラジオでそんな歌や曲が流されるかなあ」
そう思う一方、とにかく何かを思い出せそうになる感触は確かなので、
この先は、これより古いことは霧の彼方という「想起の限界面」を、
いかに突破するかという問題になってくる。
催眠術でもかけてもらおうかと思ったりしているのである。

◎マニアの集まり
ラジオ番組をやっているチームの、ディレクター某氏はカーマニアである。
御本人が世間に公表されるのを嫌がっているので名前は書かないが、
スポーツカーの名車を所有している。そしてそれは某県山奥の実家に
専用の車庫を設けて置いてあり、乗るのは月一回程度、
実家へ行ったときだけなのだそうである。かつ、この人は
ミニカーマニアでもあって、同じく実家に約1000台所蔵しているとのこと。
「ちょっと、金をおろしに銀行へ行ってきますわ」
そう言って局を出るときには、「あ。また、ネットオークションでミニカー買うた
んやろ」と、あきれ半分の声がかけられるのだ。

アシスタントディレクターの某君は、ミリタリーマニア、自衛隊マニアであって
、実際に陸自の入隊試験にも通っていたらしい。
「だけど、二士ですからね。二年満期で辞めないかんのです」
二士は二等陸士で、昔の階級で言えば二等兵。当人は「曹」すなわち
下士官コースを選んで、長く御奉公(?)したかったらしいのだ。
そして、男性アナウンサーの某氏も同じく自衛隊マニアであるとて、
二人は暇があると、侃々諤々、知識と情報の交換をしているのだという。
局内には他にもいろんなマニアがおり、
もちろん軟派マニアなどもいる由だが、その分野に関しては、
「○○放送の男性アナウンサー連中がえげつない。他局の女性アナウンサ
ーやスタッフにまで、手をひろげとる」などと、評判らしいのである。
何にせよ、マメな業界であります。

◎午後の映画
週に何回か、サンテレビ(神戸のUHF局)で午後1時から、
映画をやる日がある。邦画もあれば洋画もあり、
古いのもあれば比較的新しいやつもある。少し前には、
カナダ映画かアメリカ映画か、半分眠りながら見ていたので記憶してないの
だが、航空機開発秘話といった内容の古い作品を放映していた。
米ソ冷戦時代の初期、カナダのアブロ社が超音速機を試作し、
試験飛行も成功して量産を始めかけていたのに、
政治的な理由で全機破棄を命じられる。アメリカの横槍が入ったからで、
憤慨したテストパイロットが上司の黙認のもと、そのうちの一機を分捕り、
どこかへ飛び去っていくのである。そしてラストシーンでは、
設計者の何某はその後こうなった、パイロットの誰それはどうなったと、
後日談が語られる。設計者だったかはイギリスへ渡り、
後年SSTを完成させたというのだ。

つまり、どうやら事実をもとにした映画だったらしく、実際、アブロ社という飛
行機製造会社はイギリスにあって(いまもあるのかどうかは知らないが)、
第二次大戦に使われた爆撃機「ランカスター」は、この社のものである。
だから多分、カナダのアブロ社はその系列会社なのだろうけれど、う〜む、
コンコード(フランス名ならコンコルド)の発想元はカナダだったのかと、
往年のプラモデル少年、ひとつ賢くなって満足したのである。
作品中に出てくる戦闘機やヘリコプターなども、
時代の雰囲気が出ていておもしろかったしね。しかもつい先日には、
「ガメラ」の第一作をやってて、そのちゃちっぽさや、設定、考証のイージーさ
に、むしろ感嘆した。これから精々、放映作品をチェックして、
あれこれ見ようと思っているのだ。
ソファに寝そべって見ていると、早朝出勤による慢性睡眠不足で、
上記したごとく、途中うとうとしてしまうのが難点ではあるだが。

◎追悼、マックス・スマート氏
懐かしき連続テレビ映画「それゆけスマート!」で、おとぼけ諜報部員
マックス・スマート役を勤めていたコメディアン、ドン・アダムスが亡くなった。
死因は肺感染症。82歳だった由。9月28日の朝刊に
死亡記事が載って知ったのだが、驚いたことにこの人、海兵隊出身で
第二次大戦にも参戦したのだという。テレビで見る限り、
アメリカ人にしては小柄で、貧弱な体形だと思っていたのだけれど、
実物は海兵隊員が勤まるほどには頑健だったのか。
そしてもうひとつ驚いたことに、スパイ映画のパロディ版コメディーだったこの
ドラマ、エミー賞を三度受賞していたのだという。
設定やギャグのバカバカしさは大好きで、ぼくはこの作品から大きな影響を
受けているのだが、それほどの評価を受けていたとは知らなかった。
低予算で、脇役などはB級を使って製作しているように感じていたのだ。
それにしても、ドン・アダムスも82歳になっていたのか。
としたら、相方の99号、バーバラ・フェルドンなんて、
生きてても超婆さんになってるんだろうなあ。

05年9月
◎裁判員制度
陪審制の変形みたいなかたちで、一般市民を裁判に参画させる
裁判員制度というものが、近い将来導入されることになっている。
ただし、『世間のウソ』(日垣隆著、新潮新書)という本によると、
特定個人、ぼくならぼくが裁判員に指名される確率は、
宝くじで1千万円に当たる確率と同等だという。
だからまあ、生きてるうち、ボケてないうちに、指名されることはなかろうと思
っているのだが、万が一指名されたら、断るつもりでいる。

正当な理由なく断れば科料も有りうるらしいが、そしてぼくには職業的な立
場上、理路整然と説明できる正当な理由もあるつもりだが、とにかく断る。
なぜか? もし判断を間違えて無実の人を有罪にしたら、
その罪の意識でこっちがつぶれてしまうからだ。
詳しく書くのは大変なので省略するけれど、とにかくこれは、
いろんな意味で危険かつ愚劣な制度だと思うのだ。
また、裁判員には守秘義務が課せられ、それを破ると「六ヶ月以下の懲役」
もありだという。このことについて『世間のウソ』では、「本来裁判はすべて公
開なのに、もらしていけない秘密事項がどこにあるのか、プロの裁判官の
言動を暴露されるのが怖いんだろう」という意味の解釈をしている。

それが当たっているかどうかは知らないが、そもそも、こんな具合に
科料だの懲役だので縛ってまで、何で素人を
引っ張り出さなければならないのか、それがわからない。
そんなことをやる暇に、プロの数をもっと増やせばいいのだし、
その「世間知らず」による判断の偏りを矯正したいのなら、
彼らにそのための教育を施すのが先決なのだ。
いつだったかの新聞に、この制度には七割が反対という調査結果が載って
いたが、そのとおり、それが良い意味での「世間」智なのである。
以上、万一の未来に備えて、2005年9月26日、この文章を公開しておく。

◎自転車の利便料
堀晃氏と同様、ぼくも大阪市内の移動には自転車を多用している。
無論、遠距離は地下鉄やタクシーを利用するが、
ちょっとした場所へなら、自転車のほうが便利なのだ。
愛用してきたのは、身体と体力に合わせたミニサイクル。
16インチの折り畳み式であって、これまでのやつは何と20年ほど乗ってき
た。パンクは何度もしたし、タイヤも二度か三度か取り替えたけれど、
フレーム自体は丈夫で、まったく壊れなかったからだ。
とはいえ長年雑な乗り方をしてきたので、細い支柱が曲がったり、
カバーがはずれかけたり、全体に薄汚れてきたり、まあ貧相にはなってきて
いた。このあたりでと思い、同じタイプの新車を買うことにしたのである。

すると驚いたことに、前回、まだ折り畳み式ミニサイクルが普及していなかっ
たときには2万数千円したそれが、今回は7980円で買えた。
計算しやすいよう、旧車は2万4千円で買って20年間乗ってきたとすると、
年に1200円、月100円で、その利便性を得られていたことになる。
これでも「安いなあ。タダと一緒やな」と思っていたのに、
同じくこの先20年乗るとすれば、新車は何と年に399円、月に33円、
つまり一日1円ちょっとで、便利さが満喫できるのだ。
ただし今度のそれに、本当に20年乗れるとは思ってないけれど。
なぜならそれまでに、多分当方「あっち」へ行ってるだろうし、
まだ「こっち」にいても、80近くなってペダルを漕いでいるとは、とても思えま
せんからね。ということは、ふうむ、これがおいらのラスト自転車か。

◎職業病症状
ラジオの生ワイド番組がスタートして以来、
小説の執筆はストップしているが、これは
スタミナ不足の自分がパーソナリティという役割を引き受けるにあたって、
「片手間でできる仕事ではないから、半年ないし一年くらいは、
そうなってもかまわない」と、思い決めていたことである。
実際、翌日の準備、取材、インタビュー、資料調べなどを
毎日つづけている現在、慢性の睡眠不足で常に疲れ気味だし、
気をぬけるのは金曜の午後から土曜の午前中にかけてだけなのだ。

ただし、原稿をまったく書いてないかというと、そうではない。
産経新聞の夕刊に週一回、ごく短いものだがコラムを載せているし、
随時のエッセイ依頼などは受けている。また、勘を鈍らさないために、
ホームページ用の原稿を一応はコンスタントに書いており、さらには
毎日の放送で体験したこと、聞いた話や業界談、ゲストの印象などは
適宜メモしている。だから半年たちかけている現在、
ちゃんと職業病の症状も出て、「この体験を長篇小説にまとめるとしたら、
どんなタッチ、どんな構成にすればいいのだろう」などとも考えだしている。
毎日の番組進行表と、自分で用意している日々の話題メモも保存してある
から、エピソードやディテール材料には困らない。
タイトルは、番組名をそのまま使って『朝はミラクル!』
そこまで決まっているのである。
ただし、いつ書けるか、本当に書けるのかどうかはわからないが。

◎これがまあ、ついの仕事か、「管理」職。
高校時代の友人から電話があり、今度また、サラリーマンになるとのこと。
彼、もともとサラリーマンを十何年やり、脱サラして、うどん屋になった。
これまた十何年やってきたのだが、途中、身体をこわしたこともあって、
五十を越してからは、厨房に立つのがしんどくなってきたという。
そこで三年ほど前に店をたたみ、知り合いの小さな会社を引き受けた。
しかしこれは、損はしないものの、伸びる事業ではないと思われた。
見切りをつけ、某住宅会社に、正社員として入ったというのである。
58歳の男を正社員として採用するのは、いったい、どんな仕事なのか。
その会社が京阪神一円に多数持っている、賃貸や分譲のマンション。
その各マンションの管理人を管理する、文字通りの「管理」職であって、
募集の年齢条件は55歳〜60歳だか。定年65歳で、2年の延長も可。
月給は安いけれど、勤務時間9時〜5時で、残業なしなのだという。
したがって応募者殺到で、倍率18倍だったというのだが、
われわれ団塊の世代、近づきつつある還暦を前に、
こういう仕事につくようにもなってきたのだなあと、感慨しきりであります。

05年8月
◎地震体験フォーラム
8月27日(土)上京し、日比谷公園で開催された
「地震体験フォーラム」に参加してきた。
これは民放連のラジオ委員会と日本損害保険協会が主催し、
東京消防庁や丸の内消防署が協力したもので、
全国民放ラジオ101社からの参加があった。
で、屋内で煙が充満した状態を体験したり、救出訓練でチェーンソーを使っ
たり、あれこれ実地に試してきたのだが、起震車の試乗では興味深い経験
をした。トラックの荷台にコンテナ状の小部屋が造られ、
そこにはテーブルが置かれて、天井からライトも下がっている。
それを揺らすわけで、震度7の状態も再現できるという。

そして係員いわくは、「最初に震度7をやりますから、まず、
地震だあっとか何とか叫んでください。それからテーブルの下にもぐり込むの
ですが、このときはしゃがんだ姿勢で爪先立ちです。
尻をべったりつけて座ると、揺れがまともに身体に伝わって不安定になりま
すから、爪先立ちで揺れを吸収するんです。
そして、テーブルの脚を持つときは、上の方を持つ。下の方を持つと
握った力でテーブルが動いたりして、かえって危険ですからね」
だが参加者たち、特に女性アナやパーソナリティたち、揺れ出すなりきゃあ
きゃあ声をあげ、なかなか係員の指示通りにはできない。
「ね。実際に揺れに遭ってみると、思うようにはできないものでしょう」などと
、係員いささか得意げである。

ところがぼくは、それが全部できた。軽くできた。震度7から始まった途端、
「ああ。こんなもんやったかな」と思いつつ所定の動作をし、
揺れが震度5に落とされたときには、「何や。これくらい、怖いことも何ともな
いわ」と言いたい気持ちになっていた。
なぜなら当方、阪神淡路大震災を震度7地帯で迎えた被災者。
その激烈な揺れがもっと長くつづき、家具や本棚が倒れて書籍がばらばら
落下してくるという状況を、たっぷりと経験しているからである。
無論こんなこと、経験してない方が幸せなのであるが、
やはり身体が覚えていたのか、起震車くらいでは驚かなくなっていたのだ。

◎大和漬け、海軍漬け
往年のプラモデル少年、「丸」少年、
ラジオの生ワイド番組から、短い夏休みをもらって、
広島県尾道市で公開されている、「大和」の原寸大セットを見てきた。
これは、12月公開予定の『男たちの大和』のロケ用に造られたもの。
ただし、こうやってフレームとアングルを工夫したから、それらしいけど、
さすがに映画のセットだけあって、艦橋がない煙突がない、
一番砲塔には砲身もない。映画では艦橋は、CG合成するんでしょうな。
そのあと当方、呉へ行って「大和ミュージアム」を見学。
「回天」の実物復元展示には、「えげつないモノを造ったなあ!」と驚嘆。
旧海軍の鎮守府、長官官舎、海兵団などを見て、
さらに江田島の旧海軍兵学校へと足をのばしたのでした。
さあて。その見聞知識を背景に、
阿川弘之さんや吉村昭さんを読み返すとするか。

◎使用済みか未使用か
月曜から金曜までだが、毎朝ラジオの生放送をやっていると、アドリブ的
もしくはインプロビゼーション的な(そんなエエモンか!)会話が多いので、
経験談や記憶している各種エピソードの「消費」量が非常に多い。
それは別にかまわないのだが、その多さゆえに、
軽い記憶の混乱が起き出したことには驚いている。つまり、
放送中に何かおもしろいエピソードを思い出したとき、
「あれっ。この話、すでに一度しゃべったんだっけ。
それとも、まだだったかな」と、とまどうようになってきたのだ。

なぜかというに、これは他の作家もそうしているのかどうかは知らないが、
ぼくは出先や酒の場で何か興味深い話やエピソードに接したとき、
とりあえず頭のなかで一度整理し、話の骨格を記憶するようにしている。
そして翌日、その内容を詳しく思い出してメモすることもあるし、
項目だけを発想用のカードに書いておくこともある。
そうやって一度整理しておけばこそ、時間が経過してからでも、
小説やエッセイの材料として想起できるのである。

ところが、その整理作業は「内言語」でやるわけで、実際面としては、
「仕入れたエピソードを人に話して教える」という、そんな想定で、
話し言葉で整理することも少なくない。だから、その整理記憶と、
現実にマイクにむかってしゃべったことの記憶とが区別しにくく、
困惑反応が起きるようになってきたのだ。
コーナーの内容によっては、会話ではなく
一人でリスナーに語りかける形式で進めることもあり、これは事前に
頭のなかで、当然ながら話し言葉であらましを組み立てている。
これなど、作業としては上記の整理とまったく同じことをしているわけなので
、なおさら混乱が起きやすいのである。
え、何ですか。使ったネタやエピソードを記録しておけばいいって? 
いやいや。実感としては、そんな記録作業など追っつかないと思うほどに、
次から次へと、高速消費されていってるんですよ。

◎上の写真に関係した話。
8/3・土。店内勤務のあと、また宿直。案の定、ほとんど徹夜で、
グラウンドの交通整理となる。ところで、昼前から午後にかけては、
海水浴客が列をなす状態で、海の方へと流れていく。そして夕方、
五時過ぎくらいからは、それが逆の流れになって、皆、帰っていく。
そのあと、夜にはまた店に客が来るのだが、その間、
夕方から夜までの時間、流れが消え、客もおらず、
店内がしんとすることがある。レコードはかけていても、あたりは静寂という
感じ。そして西日が射して、外の光景がオレンジ色に見えている。
その時間帯には、寂しいような、泣きたいような、「おれはいま、なんでここ
にいるのかなあ」という、センチメンタルな気分になるのである。
(昭和43年、すなわち1968年、
当方20歳の夏の合宿日記より紹介。青春ですなあ)