玉石混淆・ふりーめも
聞いた話に、見た話。思考の断片、読んだ本。
経験したこと、させられたこと。何が出るかはわからないけど、
嘘とデタラメは書きません。……ほんとかな?
今月のお写真。JR福井駅前に位置する、福井鉄道「福武線」の福井駅停留場。
福井鉄道はバスやタクシーと電鉄の会社で、電鉄には往年複数路線があったが、
現在は、越前市の武生(たけふ)と福井市を結ぶ福武(ふくぶ)線のみ。
当方その端から端まで20q余り乗ったのであるが、そのほとんどが「鉄道」で、
上のような「軌道」部分は、福井市内中心部など限られた箇所だけだった。
また福武線の本線は写真奥で左右方向に交差する道路を通っている。だから
このJR福井駅前に至る短い部分は支線であり、本線に生えた髭のようなので、
ヒゲ線と呼ばれているそうだ。よって駅前繁華街の終点なのに単なる停留場で、
画面左下のレールの端っこには、停止位置標識も超過走行防止設備もない。
ゆるゆると入ってくるので、暴走などするはずがないということだろうか。
それはともかく、この型式の車輌には子供時代以来、新潟電鉄や島根の一畑
電鉄、京都の叡山電車、高松の琴平電鉄などで乗ってきたので懐かしかったな。
ただし、福井鉄道は現在もっとモダンな車輌を走らせており、写真の車輌は
2019年に休車となり、23年からは保存状態に置かれているとのことだが。
昨年10月から、noteにも原稿を書いています。
かんべむさしの「ネタ子を起こして」 で検索を。
御愛読、御吹聴をいただけましたら幸いです。
2025年5月
◎別に誘導尋問したわけでもなかったのだからな。
先般、ある大きな会合のあと慰労会があり、軽く飲み食いしながら
当方より少し年下の隣席男性と雑談していると、それがそのうち
相手の打ち明け話になった。家庭事情が複雑で、子供の頃から
親戚をたらいまわしされて育てられたとか、小学校の教師から
理不尽で差別的な扱いを受け、それは友達も同情してくれていた
とか、そんな内容である。そして一区切りついたあと本人いわくは、
「こんなことまで人に言ったのは初めてです」。それはこちらの
「聞き方がうまいので、ついしゃべってしまうんです」とのことだっ
たが、実は当方、往年同じことを晩年の老母からも言われていた。
大正から昭和の戦前という古き良き時代、灘(なだ)の御影(みか
げ)という酒どころで、その関係の商売をしていた大店(おおだな)
のお嬢さんとして育ち、女学校時代、宝塚歌劇を見に行って夕方
阪神電車の御影駅に帰ってきたら、丁稚が迎えに来ていたという。
そんな話がおもしろくて興味深くもあるため、あれこれ問いを重ね
ていったら、老母にすれば「こんなことまで言ったのは初めて」だっ
たのだろう、後日いわくは、「あんたがうまいこと聞くから、あの
晩、頭が興奮していろいろ思い出して寝られなかったわ」というの
だった。そこで思うに、これはやはり作家になって以降、取材目的
で人に話を聞かせてもらうときの問い方や気遣いなどが、自然の
稽古になっていたゆえではなかろうか。
なぜならそれ以前、広告マン時代には当方、打ち合わせ事項の
説明が精一杯で、そうやって人と話をするのがむしろ面倒臭くて
仕方がなかったからだ。また作家になってさらに後年、ラジオで月
〜金ベルトの早朝生ワイド番組を3年余り担当させてもらったことも、
大きなトレーニングになったと思う。おおむね週に二人程度のゲス
トが入り、1年53週で約100人、その3年余りだから、ゲストの
合計は300人以上という計算になる。対面にせよ電話収録にせよ、
こちらがお願いして出ていただくインタビューだから、問い方や気
遣いのさらなる稽古を300人分したことになるわけなのだ。ただし
冒頭に書いた男性の打ち明け話は、別に当方そんなことは聞いて
ないのに始まっていた。こちらのどんな話、どんな言葉がその
きっかになったのか、正直なところ見当がつかないのだ。
4月
◎夢がかなって本当に暴れ買いできたらなあ!
小学校高学年から中学高校、さらに大学時代も社会人に
なってからも、飛行機だの軍艦だの戦車だの、プラモデルを
数多く作ってきた。さすがに中年になって以降はその熱が
低下したが、いまでも往年のプラモの夢を見ることがある。
大抵は日本にプラモデルが普及しだした時代のもので、
マルサンのマッチ箱シリーズや三共のピーナッツシリーズ、
どこそこのミサイルシリーズ、何々の100分の1シリーズ
等々、当時30円とか50円だった小さいプラモの箱が、
ほこりをかぶって店の隅の棚にいっぱい置かれている。
それを現在の当方が、嬉しいことに値段もそのままなので、
暴れ買いをするのである。
そして往年、その僥倖を求めて大阪や神戸の下町、旅行
先の地方商店街の模型店を探索した時代もあったのだが、
一度も夢が現実のものにはならなかった。それについて
忘れられないのが神戸の新開地近くにあった薄暗い模型
店で、高い棚が狭い間隔で何列か並んでおり、そこに分
野別にプラモの箱が各段ぎっしりと積まれている。そんな
品揃え豊富な店なのに、そのときには当方しか客がおらず、
店の中年女性が奥に立って知り合いらしい女性と世間話
をしていた。ところがその中年女性、当方が各棚の各段を
探査しだしたところ、その食い入るような視線や雰囲気が
異様だったのか、胡散臭さを感じたらしい。
こちらが次の棚へと移動するたびに、視野の片隅に映って
いる彼女も世間話を続けながら横移動しだした。明らかに
監視しており、早い話が万引きを警戒していたのだ。それ
だけ当方がマニアックな雰囲気だったのだろうが、内心
むかつき、肝心の「出物」もなかったので、結局何も買わ
ないままその店を出ていたのである。その動きによって
彼女は、怪しい中年男の万引きを防止できたと思ったか
もしれないが、あの店はいまもあるのだろうか。正確な
場所は記憶してないので、確かめにも行けないのだが。
◎背景に「メトロポリス」を持ってきたのも見事だな。
1969年にメジャー発売された「In The Year 2525 」という曲が
ある。「西暦2525年」という和訳タイトルもあるが、おもし
ろくも何ともなく、これはやはり原題で記憶しておくべきものだと
思う。「ゼーガーとエバンス」というアメリカ(テキサス)の男性
二人が唄っており、1969年は当方大学4年だったから、当時
よく聴いていた若者向けの深夜放送でも頻繁に流されていた。
しかしそのときは聴き流していたけれど、いまになってユーチュ
ーブで聴き返すと、「あんな往年に、これはどんなきっかけで出
来た曲なのだろう」と、意外さ以上の驚きを感じる。バックの映像
に戦前のSF名画「メトロポリス」のシーンが使われているから
でもあるが、和訳された歌詞からは「desperate」という
単語を思いうかべてしまうのだ。
『2525年 もし男がまだ生きていたら 、女も生き残れたら、
わかるだろう/3535年 本当のことを言わなくていい。嘘もない。
考えることもすることも、言うこともすべて今日飲んだ薬による
から/4545年 歯はいらない。目もいらない。噛むものなんか
ない。 誰も君を見ない/5555年 腕はただぶら下がっている。
脚も役に立たない。機械が動かしてくれる/6565年 夫はいら
ない。妻もいらない。息子も娘も選べばいい 。長いガラスの管
の底から/7510年 もし神が来るなら、この頃には来ないと
多分周りを見回して言うだろう。きっともう審判の日なのだ/
8510年 神はその全能の頭を振って、人間がいて嬉しいと。
でなければ最初からやり直す』とまあこんな内容であり、いまウイキペディアを見てみると、
「当時の社会背景から行き過ぎた環境破壊や人類の奢り、人
類の危機に対する警鐘と人類滅亡の危機を歌ったもの」だそう
で、「環境問題を捉えた歌としてまた時代の先を読んだ歌として
現在でも評価が高い」と書いてある。そして「累計売上は500
万枚とも全世界2000万枚以上ともいわれる」大ヒット曲になった
というのだ。しかしこの「ゼーガーとエバンス」はその後ヒット曲
に恵まれず、1971年に解散したそうだ。エバンスが1964年
に「30分ほどで作った」というこの曲のみが、いまも残っている
のだが、本当にどんなきっかけで彼はこんな曲を作ったのか、作
れたのか。それこそ、「神から一瞬の不可視の稲妻を脳に受け
てのことではないか」と思ったりするのである。
◎目立つことなく日々働いているその姿勢が偉い。
先日来新聞各紙のサイトで、「はあっ。おもしろいなあ」「ううむ。
偉い人がいるなあ」と共感や感服した記事が複数あった。おも
しろいなあと思ったのは、熊本県の某県立高校に漫画学科が
あるというニュースで、山間部ゆえの定員割れを解決する案と
して、県も所在する町もバックアップしている。数十名規模の学
科だが、全国各地からの入学者が寮生活をし、理論と実技の
授業を受けて、すでにプロデビューした生徒もいるというのだ。
人間的と言うか何と言うか、当方、成績オンリーの進学校より
よほど共感できるし親しみも感じる。「そうとも。教育はこれで
いいんだよ。人それぞれに適性というものがあるんだから」
と思い、応援したい気持ちになったのだ。
一方「偉い人がいるなあ」の件は、NTTが「空飛ぶ避雷針」と
でも言うべき、ドローンの飛行実験に成功したという話である。
雷の発生しそうな天候を見て地上300メートルだかにそれを
上げ、わざと雷を受けて、長く垂らした金属線で地上にアース
するという。将来的には、その巨大な電力の蓄電と利用も目指
しているそうで、こういう理系の叡智には当方素直に感服する。
また別の記事では、北海道新幹線に使用する1本の長さが
150メートルもあるレールを、製造した北九州の工場から現地
まで、鉄道で輸送したというニュースもあった。従来は船やトレ
ーラーに乗せられる長さに切断して運び、使用時には溶接して
いたが、長いまま在来線のカーブでも支障なく輸送できる技術
が開発されたそうで、同じく「偉い人がいるなあ」なのだ。
それぞれ「道によって賢し」であり、漫画学科も含めて、そうい
う人たちが自由に発想し、わくわく生き生き、喜び勇んで実験
や実行のできる環境、世の中、社会であってほしいと切に思う。
話が飛ぶようだが、安倍首相が「美しい国づくり」と言い、麻生
内閣は「日本を明るく強い国に」、岸田内閣は「新時代共創」、
現石破内閣は「納得と共感」というスローガンを掲げている。
それぞれ意味はわかるけれど、具体性に乏しく、上記した「わく
わく生き生き」の活気に欠けているように思えて仕方がない。
政治家たちは、「社会の各分野には、偉い人がいっぱいいる」
とは思ってないのではないかと邪推するのである。
◎五箇条の御誓文も覚えたけど意味あったのかね。
ネット記事をあれこれ見ていたら、「日本三大急流」というものが
出てきた。流れの速い河川であって、長野・山梨・静岡各県に
またがる富士川、熊本県の球磨川、そして山形県の最上川だと
いう。ただし「これらより急流の河川に常願寺川(富山県)がある
が、知名度の点から含められてない」とも書いてある。当方
「それなら、三大急流と違うやないか」と思ったのだが、「暗記の
ための語呂合わせに、ふじみのくまさんもがいてるというものが
ある」という記述には、自分が小学校以来さまざまな覚え方をして、
いまだに記憶している事例を思い出していた。
「ちぱしえこはじしてりぺに」 というのは、小学校高学年のとき覚
えたことで、これは法定伝染病12種の頭の文字を並べたもの。
すなわち腸チフス・パラチフス・赤痢熱・疫痢・コレラ・発疹チフス・
ジフテリア・猩紅熱・天然痘・流行性脳脊髄膜炎・ペスト・日本脳
炎である。ただし疫痢は後年除外され、いま調べてみると、
さらにずっと後年には伝染病予防法という法律自体が廃止された
ので、「現在は法定伝染病といえばもっぱら家畜伝染病予防法に
定められた家畜伝染病を指す」とのことだ。「何じゃい。せっかく覚
えたのに」であるが、同じく小学校高学年のときに習った色相12
環、赤・ダイダイ・黄ダイダイ・黄色・黄緑と進んでぐるっとまわり、
紫・赤紫・赤で元にもどるやつは、覚え方も何もなく、ダイレクトに
記憶してしまった。子供の脳はこんな具合に「まるごと」「そのまま」
覚える力を秘めているのである。
中学の歴史で、コロンブスがアメリカ大陸に到達した1492年は、
参考書によって「意欲に燃えたコロンブス」または「イヨッ。国が見
える」と、別々の語呂合わせが載っていた。太平洋戦争冒頭、日本
海軍が真珠湾を奇襲した1941年は、友人が「行くよ一撃真珠湾」
と、立てた右手の人差し指を前へと振りながら言ったので、その場
でその動作込みで覚えてしまった。そして高校3年になり受験勉強
を始めてからは、複数科目の膨大な事項や5千だったか7千だっ
たかの英単語を、もっと高度(?)な方法によって覚えていくことに
なった。渡辺剛彰氏の「記憶術」を採用したからで、これによって
当方、連想飛躍力を大きく伸ばしてもらえた。そしてそれは社会人
になって以降、広告マン時代も作家になってからも、まことに有効
な武器になったのである。
◎末尾は「作家の想像だな」と自分で思うけれど。
ヤクザに知り合いはいないが、「その世界に入ったのでは
ないか」と思う男は二人いる。どちらも高校時代の同学年で、
一人は体格は良かったが案外気の弱そうな面もある男だっ
た。どんな理由があってなのかは知らないが、在学中から
当時の言葉で言う「ぐれた」人間に惹かれていたらしい。
ある夏、市民プールへ泳ぎに行ったとき、そのタイプの年長
男性と何かトラブルになったことがあったそうだ。一緒に行
っていた同学年生の話によると、相手から殴られて彼は謝り、
そのあと「弟分にしてもらえませんか」と言って、また殴ら
れたというのだった。
そして後年、別の同学年生だった男が阪急百貨店に勤めて
いたのであるが、伝わってきた話によると、そこへ上記の男
が訪ねてきて、自分が扱ってる商品を置いてくれないかと
頼んできた。しかしその商品とは、大判だの小判だの一分銀
だの安っぽい模造品をずらっと並べて収めた大きな額だった。
普通のデパート、ましてや名門阪急百貨店に置けるわけが
なく、内心あきれながら断ったという話だった。聞いた当方、
本人が「その世界」に近いような業界で、しかも下っ端仕事
をしているのではないかと思っていたのだ。対してもう一人
は良い家の息子だと聞いたけれど、在学中からぐれだして、
見る見るという感じで人相が変わってきた。目つきが険悪に
なり、歩き方にも人が避けるような一触即発の雰囲気を
漂わせだしたのだ。
頭は悪くなかったらしく、大学は「関関同立」のうちの一校
に入ったが、そのあと当方がたまたま見かけたときには、大
学生がドスキンの背広で黒のソフト帽という、完全に「その
世界」の住人の姿だった。無論、人相も雰囲気もそれに相応
していたのである。また彼は高校在学中、同じ学年の女生徒
とつきあっていたのだが、彼女も徐々に人相が変化していき、
高校生なのに「情婦」的な雰囲気を漂わせるようになった。
彼がその後どうなったのかは知らないが、ひょっとしたらど
こかの組の幹部クラスになったのではないかと思ったりする。
そしてその夫人は、二人だけにわかりあえる「純情」で結ば
れた彼女ではなかろうかと。
◎これらはもはや「番組」でさえないと思うのだ。
年齢ゆえに明け方前に目が覚めてしまい、朝食時間まで
二度寝するときラジオをつけているのだが、民放が聞けなく
なってきた。なぜなら各局ともその時間帯には通販番組が
増えており、しかも15分の枠が複数設定されている。その
内容は八味地黄丸だの何だの漢方薬の販売が大半で、
収録されたものを流しているから、こちらは複数枠で同じ
内容を聞かされることになる。おまけに構成がわざとらしく、
別々の番組でも「今朝もリスナーさんからお手紙をいただき
ました」から始まり、「私はこれこれこういう症状で困って
ました」というものだが、そのあと 「実はこのお手紙には
つづきがあるんですよ」という決まり文句が入る。
そして、人から教えてもらった漢方ナニナニ薬局の八味地
黄丸を通販で買って服用したら半月ほどで効果が現れだし
て云々と、まったく同じ型で通販申し込み案内に移っていく。
八味地黄丸とは別の薬でも同じパターンであり、しかも別の
局の通販番組でも同一のものが流されていたりする。簡単
に言えば、あっちでもこっちでも同じものを流しているのだ。
民放AM局の現状が非常に厳しいことは知っており、だから
これらは「背に腹は代えられん」ための編成だろう。しかし
こちらにすれば、長い長い15分のコマーシャルを繰り返し
聞かされているようもので、まだ半分眠っている頭でも
うんざりさせられ、しまいに腹が立ってくる。
その点、神戸のラジオ関西はそれが少ないのでまだしも
聞きやすいのだが、逆から言えばこれはその種のスポン
サーがついてないということだろう。何にせよもっかの当方、
その時間帯になるとNHK第二放送にダイヤルをまわして
いる。小学生向け、中学高校生向けの英語講座をやって
いるからで、同じく15分枠の積み重ねだが、耳障りになら
ないところがいい。単語やフレーズは記憶に残らなくても、
会話の流れの雰囲気や、やりとりのアクセントとイントネー
ションが自然と身につくようにも思うのだ。
◎高齢化の多様性を頭髪の変化で紹介すれば。
高校時代からの友人が、当時のクラスメートで当方もよく知っ
ている女性と卒業後も、さらに双方がそれぞれ結婚してからも、
接触を保ってきた。別に怪しい仲としてではなく、カントリー
ミュージック関係の縁ゆえである。そして先般も久しぶりに会
ったそうで、電話でいわくは「髪が銀髪になってたぞ」。聞か
された当方、「へえっ。その変化でどんな顔、どんな雰囲気に
なってるのか、いっぺん会って確かめたいな」と思っていた。
一方、同じく高校のクラスメートで当方も含めて「仲良し」グル
ープだった男3人女4人がおり、女性の一人は大学も一緒だ
ったから、その関係もあって5年とかの間隔をおいてながら、
会って雑談することがある。
そして2年ほど前にその機会があったときには、高齢女性に
多いらしいのだが、抜け毛が進んで髪の毛の本数が減り、
頭頂部の地肌が見えるようになっていた。それを隠すための
カツラなどは使わず、パーマの一種なのか、そのあたりの髪を
ふわっと浮かせるスタイルにしていたのだ。そうかと思うと、
大学時代のクラブで一年下だった女性は、頭髪全部が完全な
白髪(しらが)になっている。OB会のホームページに、仲間
たちと旅行したときの写真を投稿しており、当方それでその
現状を知ったのだけれど、顔も非常に老けていて、実年齢
より10歳くらい上に見えるから、まさに「老婆」である。
同じく一年下の別の女性も写っており、そちらは黒髪で顔にも
大した変化はなかっただけに、二人の落差に驚いていたのだ。
対して男性はどうかというと、同じクラブの同期で、若い頃と変
わらず濃いままの髪がみごとな銀灰色になっている男がいる。
30代からすでに薄くなりだして、もうとうに禿頭になっている
やつもいる。ならば当方はどうかというと、頭頂部は大阪弁で
言えば「ずんべらぼん」、娘の表現によるなら「すっぱらぱー」
であるが、頭の周囲には密度が低下したとはいえ、黒髪が
残っているのである。まあ、いろいろあるものです。
◎それをあの世から見るのもつらいことだろうが。
「プレジデントオンライン」というサイトで、神戸女学院大学の
元教授で評論家としても幅広い活動をしている内田樹氏が、
こんな発言をしていた(2025/4/4)。『2024年6月の調査で、
朝日新聞は発行部数340万部、読売新聞は586万部だった。
15年前に朝日は800万部、読売は1000万部を称していたから
すさまじい部数減である。2013年に私が朝日新聞の紙面審議
委員をしていた当時、毎年5万の部数減だという報告を聞いた。
危機的な数字ではないかと私が質したら、当時の編集幹部に
鼻先で嗤われた。「内田さん計算してみてくださいよ。年間5万
部なら800万部がゼロになるまで160年かかるんですよ」。
でも、実際には10年で60%部数を減らした』。
当方、既存マス媒体の凋落ぶりは知っていたが、こうやって
実数を示されたら、「このまま進めば、新聞の存立自体が危う
いのではないか」と思ってしまう。実際、無責任な噂話かもしれ
ないが、「朝日新聞は新聞事業ではとうに採算が取れなくなっ
ており、東阪両本社など高層ビルに入っているテナント各社の
賃貸料金で食う不動産業になっている」という話を聞いたこと
があるのだ。内田氏はまた「京大の藤井聡教授と農業について
話す機会があった」とも言っており、その内容についても恐ろし
い実数を紹介している。『1950年代、日本の農業就業人口は
1500万人だった。総人口の2割が農業に従事していた計算に
なる。2030年の農業従事者は予測で140万人。かつての1割
以下にまで減ることになる』 そしてわが国の食糧自給率は
38%と言われているが、『鈴木宣弘東大教授によると実は
10%以下らしい』そうなのだ。
もっか米価の値上がりが激しく、政府が備蓄米を放出しても
まだ上がっているようで、その根本には、政府の減反政策失
敗によって国内の生産量が低くなり過ぎた問題があるという。
『食糧自給率はカナダが266%、オーストラリアが200%、ア
メリカが132%、フランスが125%、ドイツが86%、英国が65%、
イタリアが60%。日本は先進国最低である』『政府は2030年
には自給率を45%まで上げることを目標にしているが、農業
従事者が減り続けているのに、どうやって農業生産を増やす
ことができるだろうか』というのである。まことにもっともな意見
であり、当方「日本の未来はかなり暗いな」と思っていたのだ。
◎店名は金時屋だが表札は坂田ではない。
大阪市西区、四ツ橋筋の肥後橋から少し歩いた一画に
金時屋(きんときや)という食堂がある。ごく普通の二階建て
家屋で一階を店にしており、当方以前から知ってはいたが
まだ入ったことはない。市道に面した磨りガラスの窓も戸も
閉められており、たまたま昼食時間帯に通りかかり、客が
ガラス戸を開けて入ったりするとき、ちらっと見ると定食屋
であるらしい。周囲にはマンションが多いがオフィス街でも
あるから男性客、特におじさんの客が目立ち、女性客は
見たことがない。思い出せば、当方が北区鶴野町に仕事
場を置いていた往年、近くに定食屋があってよく行っていた。
棚からコロッケだの焼き魚だののおかずを取り、飯と味噌
汁を頼んで食べる方式で、麺類や丼物もあった。そこでも
客はおじさん年代の男性客がメインで、女性客は見たことが
なかった。だから金時屋も同様だろうと思うのだが、鶴野町
の店はガラス戸が解放されていたけれど、こちらは常に
閉められており、表に品書きなども出てないので、入りにく
いのだ。ところが先般、自宅で食事中その話をしたところ、
娘の一人が「あ。その店一度行ってみたいと思ってたんだけ
ど、一人では入りにくいから、いつか平日の昼食時間帯に
待ち合わせて連れていってほしい」と言った。
当方「何でそんな店を知ってるんだ」と聞くと、驚いたことに
ネットの「町なかのお奨め食堂」式のサイトに金時屋も
紹介されており、古くからある店で安くておいしいのだという。
店内の写真も載っていて、当方の推測通り棚からおかずを
取る方式だし、麺類や丼物もあるそうなのだ。彼女の仕事は
ローテーション勤務で平日が休みになることがいくらでもある。
それでそういう依頼をしてきたわけだが、おじさん的な嗜好が
あるとは知らなかった。嗜好はあるけど入りにくいというのも
よくわかる。だから「そしたら機会があったら」とこたえていた
のだが、まだ実行はしていないのだ。
◎突然拘束される国だから行きたいとも思わない。
中国が台湾周辺の海域で大規模な軍事演習をし、前々から
題材になってきた「台湾有事」のニュースがさらに目立つよう
になった。もし中国が本当に台湾に侵攻したら、当然日本に
も直接間接の影響が大きく及ぶわけで、八重山群島住民の
避難と輸送をどうするかという論も報道されている。しかし
軍事常識として、上陸侵攻する側は防備撃退する側の3倍の
兵力が必要とされており、兵員や舟艇や車輌の数は揃えられ
るとしても、台湾軍の迎撃でその何割かは撃破されるだろうし、
その後の物資弾薬食料等々の補給となると、なおのこと撃破
される割合が高まるのではないか。
また当方、「そんなことあるわけない」と思ってはいるのだが、
仮にトランプ大統領の任期中に侵攻したら、彼は予想以上の
強硬策を命じるだろうと思う。あの大統領は何をするかわから
んタイプだし、アメリカにとって究極の敵はロシアではなく中国
だと考えているそうだからだ。さらにトランプの次の大統領が
誰になっても、有事に傍観で済ませるはずがないとも思う。
そんなことをしたら、いまでさえ中国は日本やフィリピンの経済
水域や領海を侵犯してトラブルを起こしているのが、「図に乗っ
て」それをエスカレートする可能性が大だからだ。
そんなわけで当方、「台湾が好きか中国が好きか」と問われ
たら、躊躇無く台湾とこたえる。そもそも報道や表現の自由が
ないという、それだけでもいまの中国は嫌な国だと思う。おま
けに外国にひそかに自国の警察組織を置いたり、IT関係以下
の先端技術を国の主導で盗んだりしている。習近平が退陣す
れば対外姿勢も変わるのかもしれないが、当方、もっかの
中国をまったく信用しておらんのです。要するに右でも左でも、
独裁体制というものが諸悪の根元なのだ。
◎万国博が始まったらもっと増えるのかね。
あいかわず大阪の街なかでインバウンドの姿が目立つ。
ホテルの多い北区中之島界隈では、ぞろぞろと言っていい
ほど歩いている。大きく分ければ白人と中国人と韓国人、
それに東南アジア系の人々で、白人は若いのも中年も
老人もいる。カップルもおり夫婦もおりグループもいる。
アメリカやヨーロッパ各国からの観光客だろうが、大柄で
背が高くしかも均整が取れていてスマートだという中年
夫婦を見かけたときには、その見た目の良さに、「これは
北欧系なのではないか」と推測した。広く言えばゲルマン
だろうが、そのときの印象ではドイツ人ではなくスエーデン
かノルウエーの人ではないかと感じさせられたのだ。
一方、中国人には台湾の人たちも含まれているはずだが、
見ただけではわからない。背が低く小太りしていて、顔の
四角さが目立つ人物は華南かどこかの出身ではないか
と推測する。ケ小平よりもっと四角く立方体的な頭と顔を
見ると、「旧満州などの東北にはいないタイプだな」と感じ
させられるのだ。韓国人は一見しただけではわからず、
しゃべりながら歩いてきた彼らとすれ違うとき、韓国語だと
わかって初めて「ああそうか」と思う。それだけ日本人と
変わらない顔や雰囲気の人が多いのだろう。 東南アジア
系は、インドネシアかパキスタンか、イスラム教徒で頭を
スカーフで包んだ若い女性が目立つ。また男性は肌の
色や人相で遠くからでも識別できる。
ついでに書いておくと、中国人で均整が取れた身体付きと
整って上品な顔という、周恩来タイプの人物に遭遇したいと
思っているのだが、まだ見かけたことはない。もうひとつ
追加しておくなら、大阪だけのことかもしれないが、夫婦に
せよグループにせよ、当方黒人のインバウンド客を見かけ
たことが皆無に近い。アフリカから遠路の来日は少ない
としても、アメリカからならいくらでもいそうに思うのだが、
なぜだろう。彼らが日本に魅力を感じないためか、
それともやはり収入レベルの問題なのだろうか。
◎実際に大頭で大飯食いの男がいたのかな?
若い頃、戦争中に海軍にいたという人から、「パチンコを
しているとき突然軍艦マーチが流れ出すと、ハッとして
打つ調子が狂ってしまう」という話を聞いたことがある。
「ははあ。なるほど」であるのだが、当方は軍艦マーチを
聞くとまったく別のことを連想する。父親の転勤で新潟に
いた小学校低学年時代、すなわち昭和30年代前半の
学校で、軍艦マーチのメロディーによるこんな歌がはや
っていたのだ。
♪ じゃんじゃんじゃがいもさつまいも。頭のでっけえしょは
まんまいっぺ食う。それよりでっけえしょはもっといっぺ食う。
それよりでっけえしょはもっといっぺ食う。それよりでっけえ
しょはもっといっぺ食う。それよ〜り〜でっけえしょ〜は〜、
もっと〜いっぺ〜食う〜。それよ〜り〜でっけえしょは〜、
もっと〜いっぺえ食う。♪ チャカチャンチャン。頭のでっけえ
しょは〜と、何回でも繰り返し唄うのである。
「でっけえしょ」は新潟の方言で「でかい人」という意味で
あり、この歌詞の場合は「やつ」という方が正確だろう。
すなわち「頭のでかいやつは飯をいっぱい食う」という歌
なのだ。そして、試しに声に出して唄ってもらえばわかると
思うが、歌詞が軍艦マーチの軽快なメロディーによく合って、
一遍ではやめにくく感じたりする。だから当時の当方も
しきりに唄っていたに違いないのだが、思い出して「これは
いったい何なのだ」とも思う。ナンセンスという言葉の
非常に顕著な実例ではないかと考えるのだ。
◎やはり何でもまず修行ということでしょうね。
勉強させてもらっている宗教では、「徳」という言葉がよく
使われるのだが、辞書によれば徳とは、「精神の修養に
よってその身に得たすぐれた品性。人徳」「めぐみ。恩恵。
神仏などの加護」だそうだ。また明治後半から昭和の
戦争中まで人助けを続けたある教会長は、「神徳とは
どんなものかと聞かれても、私にはどうも話しにくくて、
はっきり説明がつきません。昔は、神さまからじかにお知
らせいただくことを、神徳と言うておったようですが、これ
は狭い意味の神徳」で、「一般的に言いましたら、信心
させていただいて、だんだんと人に敬われるようになった
ら、それを神徳を受けたというてよろしいのではないです
やろか」と言っている。 それは信心以外にも当てはまる
ことで、学生が真面目に一生懸命勉強すれば「学徳と
いう徳がつく」。奉公人が主人に尽くして仕事に励めば
「商徳という徳がつきます」と。
ちなみに「昔は、神さまからじかにお知らせいただくこと
を、神徳と言うておったようです」については、別の教会の
教会長が、本部の教師養成機関で講義した速記録があり、
「皆さんのこの学院における修行も、そのご神徳をいただく
基礎になっているのです。しかしこの学院でご神徳をいた
だくことはないのです。ここでいただいたというたら、それは
ノイローゼですわ」「今そんなものをいただいたら子供に
出刃包丁を持たせたようなもので、危なくてしかたがない。
だから若い時にはあまりご神徳をいただくというようなこと
に心を向けるよりも、信心修行に重点を置いたらよろしい」
とのことだ。当方、「ノイローゼですわ」には思わず笑って
しまったが、これはやはり、そういう勘違いをする学生も
いたということだろう。そう簡単なものではなかろうにね。
3月
◎思い出せば時代の様相がよく出てたな(2)
(承前)普通なら基礎のコンクリートに等間隔でずらりと
鉄筋を立て、個々のブロックの穴をそれに通して積み
重ねて、セメントで固めていく。ところが驚いたことに、
使われていたのは鉄筋ではなく針金で、直径せいぜい
5oくらいの錆びたやつが、撤去作業によってぐにゃり
と曲がった状態で現れたのだ。
その光景を当方鮮明に覚えており、小学生の自分でも
手で曲げられそうな細さに、「えげつないことをするなあ」
と思っていた。おまけにガス風呂の点火口がそちらの
側の外にあり、銅製の排気ダクトが付けられていたの
だが、塀を撤去したあと新しいやつが立つ前に盗まれ
てしまった。アカ(銅)は金属回収屋に持っていくといい
値がつくそうだから、昼間見かけて眼をつけた誰かが、
夜中に外して持っていったのだろう。
郊外住宅都市の、市役所に近い町内にも広い麦畑が
あった/悪辣な手抜き工事をする建て売り業者が、
確かにときどきニュースになっていた/朝鮮戦争の特需
期でもあるまいに、アカの製品はまだよく盗まれていた
等々、高度成長期以前の、給食はどちらもまずいコッペ
パンと脱脂粉乳だった時代の話である。
◎思い出せば時代の様相がよく出てたな(1)
昭和33年(1958)に新潟から転居してきた大阪府
豊中市では、二階建て家屋の前にも後にも小さな和風の
庭があるという、一応は立派に見える社宅に住んでいた。
父親の勤務先が、買ったのか購入者から借り上げたの
かは知らないが、新築の建て売り住宅である。
ただし総務か厚生か会社の担当者が建築中のチェックは
しなかったらしく、住んでるうちに、となりとこちらの
土地を区切る長いブロック塀が、べたーっとした全体の
形状は保ったまま傾きだした。となりは人家ではなく広い
麦畑であり、ブロック塀はそちら側に傾いたので、同じ
ブロック塀の、前の道路に面する側との接合部に隙間が
あいて、次第に広がってきた。
基礎部分もへしゃげたのか、地中の配水管から水がもれ
だすようにもなった。遂には風呂の排水が麦畑に流れ込み
だし、クレームがついて、ブロック塀を造り直すことに
なったのだ。そこで作業員がまず問題のブロック塀を壊し
て撤去したところ、傾いたのも道理で、ひどい手抜き工事
だったことが判明したのである。
◎本当に「一期一会」の方々だった(2)。
異能のお笑い芸人だったテントさんは、上岡龍太郎氏の
弟子というか上岡ファミリーの一人だったが、持ちネタが
一般受けするものではなかったため、もっぱらライブハウ
スや小規模な発表会で見せていた。自動式パチンコの
形態模写など長い両腕をふりまわし、度の強い眼鏡の
なかの目玉をぐるぐるまわして、全身で表現していた。
言葉のギャグも「考えオチ」的なものが多く、「忠臣蔵で
吉良の首を切りますけど、首を切るというのは、その上
の頭を切り落とすことなんですよ。ほんまに首を切り落と
そうと思ったら、2回切らんといけませんからね」など、
わかる人は大笑いするが、わからない人はしらけて
しまうのだ。ゲストに出てもらったときには、そんな芸の
話やパチンコ三昧だという普段の生活ぶりを聞かせて
もらったが、収録前のうちあわせで、「貧乏してることは
言わないでください」と言ったのが印象に残っている。
そして酒井くにおさんは岩手県の出身で、だから上京し
てからも、あるいは後年大阪に移ってからも長い年月が
過ぎていたのに、まだ言葉に若干訛りが残っていた。
当時漫才のなかで何かギャグを言って受けなかったら、
弟のとおる氏が「ここで笑っとかないと、あと笑うところ
ないよ」とフォローするのが定番になっていた。それも
聞かせてもらって笑っていたのだが、こちらとの受け答え
に関しては、兄のくにおさんが細かく気を配っており、
弟のとおるさんは意外にクールな雰囲気だったと覚えて
いる。なお、いまウィキペディアをチェックして驚いたの
だが、当方と同年齢のくにおさんは東京教育大を中退し
ており、それは在学中全共闘の一員として、大学紛争
や70年安保反対闘争に加わっていたからだそうだ。
◎本当に「一期一会」の方々だった(1)。
藤田まこと2010年76歳。高石ともや2014年84歳。
(大空)テント2016年65歳。酒井くにお2022年74歳。
これは何かと言うと、昔当方が月〜金ベルトで担当させて
もらったラジオ大阪の早朝生ワイド番組「むさし・ふみ子の
朝はミラクル」に、ゲストで出てもらった諸氏の死去情報で
ある。藤田、高石、テント氏の逝去は承知していたが、兄弟
漫才コンビとして人気を博した酒井くにお氏のそれは不知
だった。たまたまネットで知って驚き、あらためて他の諸氏
も確認させてもらったのだ。
藤田まことさんは当時封切られた主演映画「明日への遺言」
のキャンペーン中だったが、来局ではなくこちらが宿泊先の
ホテルへ出向いてのインタビューだった。さすがに存在感が
抜群で、疎開児童だった戦争中の話も出たりしたため、緊張
継続の収録になっていた。ただし終了後の短い雑談で、昔
住んでおられた豊中市内の家を小学生だった当方が見に行っ
た話をしたところ、藤田さんもリラックスした笑顔で対応して
くださったので嬉しかったのだ。高石ともやさんからは、
コンサート情報とともにマラソンランナーとしての話も聞かせ
てもらい、アメリカの「鉄人レース」に52歳のとき参加した
話には心底驚愕していた。
トランスアメリカ・フットレースというそれは、ロスアンジェ
ルスからニューヨークまで大陸を横断する。64日間かけて
4700qを走破し 、毎日70q以上を走った計算になると
いうのだった。また当方が若かった時代の晩秋、大学祭で
夜の屋外ステージに登場して大歓声を浴びた、同じく若かっ
た高石氏のギター姿と反戦フォークソングを明瞭に記憶して
いた。その話も出せて、内心満足していたのである。
◎毀誉褒貶の激しい人物だとは知っていたが。
今年の1月末に文庫化された「田中角栄の昭和」(保坂正康。
朝日文庫)を2月初めに買っていたが、実は当方身心の調子が
乱れて気力が低下し、2月いっぱい生産的なことはほとんど何も
出来ないというありさまだった。依頼されていた短い原稿や懸案
事項など、必要最小限の作業を処理するのみで、反対に酒量は
増えていたのだ。だから文庫本は400ページを越す分厚さだし、
ぱらぱらと見ただけで内容の重さがわかったこともあり、2月中
には読み出せなかった。
3月に入った先日、ようやく「読んでみようか」と思ったときも、
「気力が続かなければ中断してもかまわんのだから」と、自分に
言い聞かせつつだったのだ。ところが読み出してみると、その
吸引力の大きさに引き込まれてたちまち没入し、日曜日の午前
と午後で一気に読了してしまった。田中角栄の誕生から死去まで
の道筋をたどりつつ、彼がつまりはどういう人間だったのか、
生活や各種事業や政治活動の根底をなす価値観はどのような
ものだったのか、いわばその秘密を分析し赤裸々に暴露もして
いるのだが、そこに現れてくるのは、「極度の私利追求者が
違法脱法の技を駆使して成り上がり、権力を握ってからは自己
利益のための法律まで作ったという、唾棄すべき男」である。
当方、政治家が清廉潔白のみでやっていけないことは当然だと
思っており、父親の転勤によって小学校低学年時代新潟にいた
者としては、「越後」の出世頭とも言える田中角栄にはある種の
親近感を抱いていただけに、愕然とさせられたのだ。分厚くて
内容も重い本を一気に読了できたという、気力の再生には安心
もしたけれど、「ううむ」という唸りの方がきつかったのである。
◎標準語には「味」がないからなあ(2)。
戦後の例でも、尾道の先生は「世のため人のために
ならんといけん」、「それがにゃあ、ガリガリ亡者が参る
のが多いんよ」と言っている。久留米の先生は、「子孫
までも残していけるというほどしの」、「ありがとうして
涙がこぼれる」、「世界人種の品評会のごとある」で
ある。そしてそもそも、この宗教の発祥地はいまの岡山
県で、幕末から明治にかけて活動した教祖の言動は、
教典や伝記に記録されている。
教典は読みやすいようほぼ標準語に改訂されているが、
伝記には教祖や信者の言葉や会話がそのまま収録されて
いる。「水をかべって(かぶって)行をするというても」、
「一度にのばしたものは、どっとみてる(なくなる)ぞ」、
「蜘蛛がえぎ(巣)を世界に張ったとおなじことじゃ」等で、
その雰囲気やニュアンスが実に魅力的だ。それをもって
「はあん。昔の田舎の民間宗教か」と思う人もいるだろうが、
実は教えとしては普遍宗教であり、当方、それを地元の
言葉で語っているところが逆におもしろかったのだ。
また仕事柄こんなことも考える。「それらの記録をいまあら
ためて文章化するとして、方言はわかりにくいだろうから
と全面的に標準語にしたら、味もそっけもないものになっ
てしまうだろう。方言を残しつつ、しかも読みやすくわかり
やすくするという、その工夫が必要だろうな」。そして当方、
プロの技として、それをやってみたいと思ったりするので
ある。「ござんすよ」など、ぜひ残したいですからね。
◎標準語には「味」がないからなあ(1)。
勉強させてもらっている宗教は全国各地に教会が
あり、明治初期以来の長い歴史を持つところも少なく
ない。そしてそんな教会が、創設者が当時の参拝者
たちに語った教話を収録した、本や冊子を私家版で
出している。本部公式サイトにそれらを買える通販の
ページもあるので、当方あれこれ読んできた。教話の
内容はもちろんだが、方言や古い言葉がふんだんに
出てきて興味深く、仕事上の勉強にもなるからだ。
たとえば明治生まれで神奈川県で布教していた先生は、
もとは東京の日本橋あたりで育った「江戸っ子」だった。
だから話のなかに、「これこれこうなんでござんすよ」と
いう言葉が出てくる。「はあっ。ござんすよか。ええ
なあ!」であって、参拝者を前に話をしている雰囲気や
内容が、ぐっとリアルに感じられたのだ。
一方、同じく明治以降の大阪で教えを説いた先生のそれ
には、「せんども」(先日も)、「恥を言わんと理が聞
こえまへん」、「口のはたに交番所がないと思うて」等々、
もうとうに使われなくなっている古い大阪弁が出てくる。
長年の上方落語ファンである当方、噺のなかでしか聞い
てこなかった言葉や言い方まわしの頻出に、上方落語
のリアリズムを思ったりしていたのだ。
◎小道具も大道具も史実の再現だろう(3)。
その仕掛けのアップと、落ちて首を切って着台する
ときのドーンという衝撃音。それが何度も繰り返され
るシーンは、処刑される者の顔のアップや首が飛ぶ
光景より、よほど怖いものになっていた。もちろん、
そうやって連続処刑するには、ロープをゆるめて
ヤットコ金具を下ろし、下端部で刃をはさんで巻き
上げればすぐなのだ。
ロウソクを消す小物にしろ、このギロチンの仕掛けに
しろ、当然時代考証があってのことで、ハリウッドの
小道具係、大道具係が考えたものではないだろう。
だから当方、見ながら思っていた。「円錐形のロウソ
ク消しなどシャレで済むけど、あのギロチンの込み
入った、しかし効率は良いという仕掛けを、どんな
人間が、どういう思いで考え、設計図を描き、作らせ
もしたのだろう。そしてまた、請け負ったのか命じら
れたのか、その刃や金具を作った鍛冶屋は、
どんな思いでそれを作っていたのだろう……」
しかしそこで考えてみれば、20世紀になってからも
世界各国で、もちろん日本でも、残酷な処刑や拷問
用の道具などはいくらでも作られていたし、国によっ
ては21世紀の現在でも、「加虐と効率」を両立させ
るそれを考案製作する、悪魔的な頭脳と心の持った
専門家はいるのである。そいつらが、普段は普通に
生活してるのか、それとも世間からは無言のうちに
軽蔑や差別をされているのか、それを知りたいな。
◎小道具も大道具も史実の再現だろう(2)。
(承前)当方、あれは重くて分厚い鋼鉄の刃をロー
プで引き上げておき、そのロープを合図とともに
切るか放すかして、それで落下させるのだと思って
いた。しかしこの映画では、首を差しのばす姿勢に
された者の顔のアップとか、それがぽーんと飛ん
でしまうところとか、そんな光景はない。
その代わりに、ロープで巻き上げた鋼鉄の刃がどの
ようにして落下するのか、その瞬間のシーンが何度
も出てくる。アップで映されるそれによると、ロープ
の先にヤットコのような形をした金具が付いており、
その下端部が重い鋼鉄の刃をはさんで閉じている。
刃の上縁部には小さな穴があけられていて、そこ
に金具の先が入っているのだ。また、左右の太い
支柱には鋼鉄の刃をはめ込む溝が作られている。
さらに、吊り上げられた刃がその最頂部に達すると、
そこには下から上へと左右の間隔が狭くなる誘導金
具が取り付けられている。だからヤットコ型金具の
支点より上、つまり開いている部分が、その誘導金
具によって自動的に閉じられていき、当然支点より
下の部分は開いていくわけで、次の瞬間、金具から
はずれた鋼鉄の刃が、音を立てて落下していくのだ。
◎小道具も大道具も史実の再現だろう(1)。
往年のアメリカ映画「嵐の三色旗」。これは原作が
ディケンズの「二都物語」で、フランス革命時代の
物語である。だから18世紀後半のロンドンやパリが
舞台になっており、DVDで見ていると、「あんな物が、
わざわざそのために作られていたのか」と、驚くより
はあきれるような小道具が出てくる。
フランス貴族の館(やかた)の豪勢な寝室で、数多く
の燭台にロウソクがともされている。主人が寝るとき、
それらを執事が順に消していくのだが、小さな鋏で
灯心をひとつずつ切っていく。多分それ専用の鋏
だったはずで、それはまだわかるけど、別のイギリ
ス邸宅のシーンでは同じ作業をするための、別の
小道具が出てきた。20センチか30センチほどの
細い棒の先に、金属製で小さな円錐形をしたものが
付いており、それを小間使いの女が、ロウソクの
炎ひとつひとつにかぶせて消していくのである。
「そんなもの、ふっと吹いたら消えるじゃないか」と
思ったのだが、数多いロウソクにそれをやったらほっ
ぺたが痛くなるからか、それとも優雅ではないためか。
とにかく笑いたくなる物が作られ、使われていたのだ。
しかし、同じ映画に出てくるギロチンとなると、
その仕掛けの細部紹介には、ゾ〜ッとさせられる。
◎もっと聞いてればジロー物語が書けたな(2)。
(承前)聞いていた当方や周囲の社員たち、ハッとして
固まったわけだが、それは当時の業界の実情として、
テレビの準キー局と零細代理店との関係、歴然として
向こうが上だったからである。理屈で言えばこの場合、
こちらはスポンサーの代理としてクレームをつけている
のだから、その当人には放送局も新聞社も、「お得意
様」の代理者として接するべきだとも言える。そして
巨大代理店の担当者に対しては、そうしていたのだろう。
けれども零細も零細という会社の課長「ふぜい」に対し
ては、そんなもの、歯牙にもかけないという対応が普通
だった。だからこのときの怒鳴りとガチャンは、「うわあ。
えらいことしはったな」「下手したら、なおもめるぞ」と
いうものだったのだ。だから、そのあとどうなったのかは
知らないが、ひょっとしたら、次に先方に出向いたとき、
ジローさんが謝ったのではないかと思う。それに対して
相手が、形だけとはいえ同じく謝ったのならまだいいが、
顎でもあげて鼻を鳴らすような人間だったら、課長の内心、
爆発寸前だっただろうと思う。
当時の同僚から後年聞いた話では、その後ジローさんは
退社して帰京し、ラジオ関係のプロダクションを始めたと
いう。想像するに、大阪よりはそっちの方が、仕事が
しやすかったことだろう。在社していた時代の後期には、
経理部にいた九州某県出身の若い女性社員と同棲
していたとも聞いたが、意外な組み合わせだったので、
そのきっかけや雰囲気については、想像が広げにくい。
結局別れて、彼女は地元に帰ったそうなのだが……
◎もっと聞いてればジロー物語が書けたな(1)。
新卒で勤めた広告代理店に、東京出身の課長がいた。
当方が入社した当初からではなく、途中で同業他社から、
媒体課長として引き抜かれて来た人だった。細身で色黒。
当時は少数例であったことだが、三十代半ばでまだ独身。
そして日大出身と聞かされたけれど、その彼がいかなる
理由で大阪に「都落ち」してきていたのか、そのあたりは
聞いていない。在阪の放送局にも人脈があり、だから主と
して電波媒体との折衝業務を担当していた。名前が滋郎
だったから、局でも「ジローさん」と呼ばれていたらしい。
ところがそのジローさん、普段は愛想がいいし冗談なども
よく言う人だったが、熱血漢の江戸っ子だったのか、カチン
と来ると戦闘的になる。たとえばあるとき、某テレビ局の
CM課が、コマーシャルフィルムの扱いでミスをした。オン
エア開始日を間違えたのか、キー局とローカル局では別の
フィルムを流すよう指定していたのに、全局同じ素材を使っ
てしまったのか。詳細は記憶してないけれど、ジローさんが
電話でクレームをつけていた光景は、よく覚えている。
最初はおだやかに話をしていたのだが、どうやら局の担当
者が責任を認めず、謝りもしなかったらしい。
それどころか、相手は当時(そして多分現在も)テレビ局に
間々いるタイプの人間だったのか、「天下のナニナニ放送と
弱小代理店では格が違う」「だから、おれとあんたでは、
おれの方が上」という姿勢で、何かカチンと来ることを言った
らしい。ジロー課長、その段階では「それはおかしくありま
せんか」と、やんわり問い返していたのだ。ところがそれに
対しても相手は偉そうに対応したらしく、聞くなり顔が変わっ
た。次の瞬間、「自分がミスしといて、その言い方は何です
か!」と怒鳴り、ガチャンと電話を切ってしまったのである。
2月
◎修羅場を潜ってはいないが見てはきた(2)。
(承前)たとえば「2号になるのが夢だ」と公言してい
たらしい女性がおり、この人など顔や雰囲気がもろに
水商売的で、それも銀座や北新地のクラブではなく、
場末のアルサロのホステスという印象。夢ばかりで
はなく実際にも、いまの言葉でいう「不倫」相手が
いたようだった。そしてそのことは、社内でもなかば
公然の秘密になっていたらしく、ある月曜の朝に突然、
「今日は休みます」という電話の入ったことがあった。
上司の対応が聞こえていたわけで、その問いかけや
確認から推理するに、たとえば「親が急病になったので
週末に田舎へ帰り、いま飛行機で伊丹にもどってきた
ばかりだが疲れてるので」などと言っているらしかった。
するとそれを耳にした社長が横から受話器を取り、本気
でどなった。「ええかげんにせえ。適当な理由をつけて
るけど、わかっとるんや。出てこい!」
このあたり、飛行機で云々という部分は彼女が言った
のではなく、社長が「どうせ、伊丹の空港からでもかけ
とるんやろ!」と決めつけたことの記憶だったかもしれ
ない。その辺は曖昧なのだが、もし社長が言ったこと
なら不倫相手は東京にでもおり、彼女は月に一、二度
往復していて、社長もそれを知っていたのかもしれない。
◎修羅場を潜ってはいないが見てはきた(3)。
(承前)平社員からの電話に社長が出てどなるという、
その点からも会社規模とオフィスの狭さを想像してもらえ
る話だが、そのあとどうなったか。1時間余りの遅刻で
彼女は出社してきたのだけれど、髪はばさばさ、化粧っ
気のケの字もないすっぴんの顔がむくんでおり、眼も
腫れぼったくなっていたのだった。
そして、これ以上の不機嫌な表情もなかろうという
ふてくされた顔で上司に何か言い、外回りの資料など
を揃えて、また出ていったのである。とはいえ、いつも
の飛び込みセールスなどやる気にはなれず、喫茶店
にでも入って仮眠したのだろう。
そして、その光景を思い出して推測すれば、飛行機に
乗って帰ってきたのなら化粧くらいはしていたはずで、
実は不倫相手と泊まったどこかのホテルで眼を覚まし、
電話してきたのではないかとも思われる。まさにまだ
ケツの青い「坊ちゃん」だった当方、こういう社員も
見つめつつ、社会人へと成長(?)していったのだ。
◎修羅場を潜ってはいないが見てはきた(1)。
往年、新卒で勤めた零細広告代理店の営業部門は、
一部と二部に別れており、一部は新聞雑誌テレビ
ラジオなど、マスメディアに出す広告を扱っていた。
一応クライアントごとの担当者が決められており、
そこへ通って、レギュラーや臨時の出稿案件を進め
ていたのだ。対して営業二部は案内広告、すなわち
一般紙やスポーツ新聞に載っている、3行、5行、
10行といったスペースの求人広告を扱う。
準レギュラー的な出稿もあるものの、常に新規開拓し
ていかなければ成り立たないから、日々の飛び込み
セールスが業務の基本になっていた。そしてその部
員には、男性もいたが女性の方が多く、向き不向き
のある仕事ゆえ、男女とも入れ替わりが激しかった。
営業一部の社員や当方は固定給だったが、こちらは
基本給プラス歩合になっており、結構な金額を取って
いた女性もいる代わりに、ほとんど歩合給のつかない
男性もいたからである。
営業一部は全員(といっても4、5人だが)大卒だった
が、二部は大半が高卒で、そのこともあってか、両者
間には微妙な違和と距離の感があるようだった。また、
そういった「地べたを這う」ような営業活動で鍛えられ
てか、年長の女性部員にはしたたかな、海千山千的
な者もおり、その眼に映った営業一部の面々や当方
など、「ケツの青い」坊やに見えていただろうと思う。
◎ルーツをたどれて便利だと思ったが(後半)
ところがその後、じっくり読んでルーツを探ろうとしたら、
まとめて保管してある書類一式のなかに、それが見あた
らない。それだけ別の場所に保管したが他の書類か何か
と混じってしまったのか、それとも税務署からもどってきた
書類のなかに云々という記憶が間違いなのか。そこは
明確ではないが、とにかく何度探しても発見できないのだ。
祖父母「藤太郎・はつ」の時代、すなわち大正から昭和の
戦前にかけて、店は番頭、丁稚、女衆(おなごし)たちを
抱える大店(おおだな)になっており、そこの「お嬢さん」
である当方の母親は、女学校時代前後、宝塚歌劇の
ファンだった。一円なら一円の小遣いをもらって見に行き、
夕方、御影の駅へ帰ってくると、丁稚が迎えに来ていた
という。また藤太郎氏は、当時は兵庫県武庫郡(むこぐん)
御影町だったそこで、一時期、町会議員にもなっていた
らしい。そういった聞き覚えの断片知識を、古い戸籍謄本
を熟読しながら系統立てたいと思うので、機会があったら
今度は自分で、父方母方双方の代々謄本を取ろうかと
考えている。
ちなみに最初に書いた熊吉氏の店は、彼が始めたか、
もしくは継いだそれを一代で大きくしたものだと思われる。
酒を買ってくれる馴染み客用のものらしい、五合入りの
「通い徳利」が手元にあり、そこには平仮名で「みかげ」、
ならびに漢字で店の通称、山田熊吉を略した「山熊」と
いう文字が焼き込まれているからである。みかげ・山熊。
当方その曾孫なのにまったく商才がないのは、これは
確実に父方の遺伝だろうと思うのだが。
◎ルーツをたどれて便利だと思ったが(前半)
多分明治時代だろうと思うが、ひょっとしたら江戸時代の
末期からなのかもしれない。神戸の御影(みかげ)に山田
熊吉なる人がいて、酒の醸造に使う大きな木の樽を製造
していた。加えて灘の酒どころだから、自分の店でも商標
をひとつ持って製造販売もしていたという、なかなか遣り
手の人物だったらしいのだ。実はこの熊吉氏、当方の母
方の曾祖父に当たる人なのだが、無論直接には知らない
し、その妻すなわち曾祖母に当たる人の名前も知らない。
それどころか祖父母についても、藤太郎・はつ、という名
前は聞き覚えているものの、どちらも戦前戦中に亡くなっ
ているので面識がない。これは父方の祖父母についても
同様で、どちらも当方の誕生以前に亡くなっているので、
徳蔵・ふじ、という名前を知っているのみ。すなわち当方、
いかなる因果因縁ゆえなのか、お祖父さん、お祖母さん
という人にあやしてもらったとか、遊んでもらったとか、
そういう経験がまったくないのである。
で、往年、母親が亡くなって遺産相続の手続きをしたとき
(父親はもっと昔に死去)、添付の必要があったのか、依
頼した税理士が双方の戸籍謄本を代々さかのぼって取っ
たことがあった。古いやつなど手書きされたもののコピー
であり、税務署へ提出する前に見せてもらったところ、
確かに上記の人たちの名前も載っていた。後日、税務署
からもどってきた書類のなかに、確かそれが添付された
ものもあったと思うのだ(つづく)。
◎姓名判断は漢字の画数で見るからな(その後半)
(承前)しかし、そこからの連想で考えてみるに、姓名
判断は普通、文字の画数で運勢を占断するもので、姓
名が表す意味や雰囲気は判断材料にはしていない。
姓名判断を批判する人が、「長寿(ながひさ)と名付けて
も早死にする人もいるし、正直(まさなお)とつけたって
泥棒するやつもいる」と言ったりするが、これも文字や
単語のイメージで判断している。長寿氏の短命や正直
氏の盗癖を姓名判断で点検するなら、意味やイメージ
ではなく、画数でやらなければならんのである。
などと考え、そこで上記の富倉宝氏をネットの姓名判断
サービスで、もちろん本当の名前の方で確認してみた
ところ、総画とか外画とか何種類かの判定があり、その
半分ほどは「吉」だったが、あとの半分は「凶」「大凶」
だった。そして「吉」の解説には、かくかくしかじか、
「凶」「大凶」の方には、「挫折」や「事故」という言葉
が出てきていた。「それなら吉凶半々でしょう。だから、
もしその人が吉の方の人生コースを歩んでても、当たっ
てることになるじゃないですか」 仮に批判者からそう
言われたらその通りであり、とすると、吉凶どちらが
現実化するかの分かれ目は何なのだろうと、また
考えるわけである。
ついでに書いておくと当方のペンネームは、「どんな作
品を書いてもいいように、特定の意味やイメージを持た
ない名前を」という意図で、わざと平仮名にしたものだ。
しかし平仮名にも画数はあるから、これを姓名判断に
かけてみると、おおむね良い解説が出てくるのだが、
良くないそれとしては、「仕事面で、好調不調の波が大
きい」のだという。これはなぜかその通りで、これまで
何度も困ってきたことなのである。
◎姓名判断は漢字の画数で見るからな(その前半)
いま住んでいるマンションは1階だが、その前には27階
建て高層棟の14階にいた。その時代の某日、当方は不在
だった午後、家人が室内にいたところ斜め下すぐあたりで、
突然ガラスの割れる派手な音がしたという。ベランダ側は
リビングルームでガラス戸になっており、全戸ほぼ同じ間
取りだから、どうやらそこのガラス戸が割れたらしいなと
思っていたところ、そのあと女性の悲鳴が聞こえたと言っ
ていたのだったか、とにかく何かあったらしく、そのうち
救急車のサイレンも聞こえてきた。
つまり、すぐ下の階に住んでいた一家の主人が、ガラス戸を
叩き割ってベランダに出て、飛び降り自殺をしていたのだ。
後日伝わってきた話によれば、その人は銀行マンだったが、
鬱病か何かで休職していたそうだ。高層マンションだけに
万一のことを考え、夫人はガラス戸や窓には別途で鍵をつけ
ていたが、ちょっと目を離した隙にということだったのだ。
そしてその主人、これは一階の集合郵便受けで当方も名札
を見て驚き感心していたのだけれど、実に縁起の良さそうな、
銀行マンにぴったりという姓名だった。そのまま書くわけには
いかないので仮名で紹介するなら、富倉宝(とみくらたから)
といったものである。だから当方、「せっかくの名前なのに、
名は体を表すにはならなかったんだな」と思っていたのだ。
◎船にまつわる記憶を探る(その後半)
(承前)なぜかというと、仲良しグループの女の子が別府で
パイナップルをまるごと一個買い、船内で切って分けてくれ
た。それを食べたところ、まだちゃんと熟れてなかったのか、
猛烈な腹痛と下痢に襲われた。そんなことは女の子に言え
ないから、何か別の理由をつけてだったと思うが、大部屋
式の船室の隅っこで、ずっとくたばっていたからである。
したがってこの初めての大型船体験、覚えているのは
神戸に着いた夜、ポートタワーの真下に接岸して、照明で
浮かび上がっている赤い鉄骨のタワーを仰ぎ見ていたと
いう、その光景のみなのである。
パイナップルなど食べなければよかったと後悔したわけで、
「それで海を渡る術を航海術と言いますな」と、これは確か
仮名垣魯文の「西洋道中膝栗毛」だったかに出てきた地
口である。で、それから十年後だったか十一年後だったか、
脱サラした当方、初めての海外旅行に出かけたのだが、
これが神戸〜パラオ〜セブ〜神戸という、二週間の船旅
だった。いやまあ、その嬉しさ楽しさ、感動感激、興奮驚愕
の体験たるや、なかったね。
後年もう一度、香港クルーズにも参加したことがあるが、
最初が太平洋のどまんなか体験だったからその記憶に
圧倒されてか、こちらはほとんど何も覚えていない。
そしてそれ以降、停止したそれになら横須賀の記念艦
「三笠」、神戸港に入った練習帆船「日本丸」に乗った
ことがあるが、動く船には乗っていないのだ。機会があっ
たら、護衛艦の見学航海にでも申し込んでみようかとは
思っているのだが。
◎船にまつわる記憶を探る(その前半)
最近の子供たちがどうなのかは知らないが、昔の男の子の
通例で、当方も乗り物は好きだった。ただし、電車、バス、
タクシーなどには幼児期から乗っていたが、飛行機は一般
の大人にとっても「高嶺の花」という時代がつづいたから、
当方が初めて乗ったのも何と社会人になってからである。
一方、船はどうかと記憶を探ってみると、小学校の修学旅行
で伊勢へ行ったとき、鳥羽の湾内で小型の遊覧船に乗った
のが最初のようである。
中学の修学旅行は、二泊三日で箱根、鎌倉、東京見物(
羽田空港、東京タワー、皇居前広場)という強行軍だったが、
このとき芦ノ湖で遊覧船に乗ったような気もするものの、
明確な光景記憶がない。鳥羽のそれをはっきり覚えている
のは、小雨のなかの乗船時、当方と友達の二人が客室に
入らず、操舵室前の甲板に立っていたところ、背後で突然
パッパーッと警笛が鳴った。驚いてふりむくと、操舵室内の
船員が怖い顔で、「なかへ入れ」と手で合図していたからで
ある。本当に小さな船だったから、動き出すときの動揺で
倒れたりしたら、海に転落する恐れもある。
いま思えば危ないことをしていたわけで、先生に見つかった
らきつく怒られていたに違いないのだ。高校の修学旅行は、
往路が夜行の専用列車で長崎、熊本、別府をまわり、復路
は別府から関西汽船の大型船に乗った。これも修学旅行用
の船だったのか、それとも一般の客船を貸し切りにしていた
のか、そのあたりは覚えていない。それどころか、せっかく
瀬戸内海を端から端まで通過したのに、風光明媚な島々の
様子なども全然記憶にないというお粗末さである。
◎行かなければ「体感」記憶が残らんからなあ。
昔、ある雑談の場で新井素子さんが、山口県の秋吉台へ
取材に行く話をしていたことがある。一度行ってきたのだが、
作品のなかでそこの夜の様子や雰囲気が必要になった
ので、それを確かめにもう一度行くということだった。
そしたら同席していた某放送局のプロデューサーが、怪訝
半分、冗談半分という様子で、「それ、あらためて行かな
きゃならないんですか。(すでに見てきた昼の光景を)暗く
すればいいんじゃないんですか?」と言ったので、
当方爆笑していた。
たとえば、テレビドラマ用に昼間の秋吉台をビデオ撮影して
きて、後日そこの夜の光景が必要になったとしたら、
映像処理でそれらしいものは作れるだろう。確かに「暗く
すればいい」わけで、「しかし小説の文章で暗くすればって、
具体的にはどうするんだ」と、とっさにはその処理方法の
わからない「宙ぶらりん」的な感覚が、大笑いを呼んだのだ。
対して現在、名所の光景でも地方都市の街の様子でも、
ネット情報だけで書く作家が増えているのかどうか。もし
増えているとしたら、その作品のリアリティや、書く者として
の「安心」感などは、どうなっているのかと思う。新井さん
はその「リアルさ」と「安心」を求めて再訪したのだろうが、
いまや書くだけならば、それこそ秋吉台の映像を取り込み、
画像処理で「暗くして」、それを見ながら夜の光景を書くこと
だってできる。「できるけど、とは言うもののなあ」なのだ。
◎この頃から一人で遊ぶのか好きだったのかな。
画用紙を切って直径10センチほどの円盤を作り、その円周に
沿って1センチ間隔くらいで、これも1センチほどの切り込みを
入れていく。そしてその各部分を、円盤を水平に持った場合
にはだが、上、下、上、下と、交互に折っていく。そうやって
折り終えると円盤は垂直に立つようになり、これを風が吹いて
いるとき道路に立ててやると、その力を受けて回転走行しだす。
小学校低学年の新潟時代、友達に教えてもらったのか、
それとも自分で偶然「発見・発明」をしたのか、風の強い日に
それを作って試したことがある。
当時のことで道路は舗装されていなかったが、雨の降らない
日がつづいていたのだろう、土の表面は乾いてカチカチに
なっていた。そこを小さな円盤が予想以上のスピードで走り
だし、こちらもそのあとを小走りに追っていく。途中で倒れる
こともなく、倒れたとしても二度か三度くらいだったと思うが、
立ててやればまたくるくるまわって走りつづけ、となりの町内、
さらにまたそのとなりの町内へと進んでいく。人通りがなく、
車など元来ほとんど通らない道だったから、延々とまわり
つづけ、追いつづけ、遂にバスや車の通る道路につながって
いる場所へまで行ってしまったのだ。
小学校低学年の自分には遠出であり、さすがにその先は
危ないからそこでストップしたのだが、夕方に近い時刻、風の
強い無人の道路を、ひたすら回転円盤を追って走っていく子供。
その姿を想像すると、それだけで短編が一本書けるとわかる。
昭和30年代初めのことであるが、時代と主人公を現在の子供
にしても書けるのか、それともやはり設定を当時にしなければ
不自然になり、雰囲気なども伝えにくくなるのか。そこは検討
しなければならないが、何かを象徴または暗示するような、
情感のこもった作品になると思うのだ。
◎当方、働くこと自体が好きでもありますからね。
よく通る道筋に小さな商店街があり、弁当屋、酒店、喫茶
店などが営業している。折々その様子を見ると、「みんな、
よく働いてるなあ。偉いなあ」と、本心で思わされる。
弁当屋は、周辺がオフィス街だから、サラリーマンやOL
の昼食用弁当を作って売っている。朝からどころか、
前日の夕方からおかずの煮炊きにかかっており、月曜に
売るためのそれは、日曜の午後に出てきて用意を始めて
いる。店は休業だが、店内で翌日の仕込みにかかって
いる姿が見えるのだ。
そしてそこは、40代と30代くらいの夫婦がアルバイト
店員を使ってやっているようで、夫は早朝から、妻は午前
10時前後に出てきている。小学生の女の子と就学前の
男の子がおり、妻は自転車のチャイルドシートに下の子を
乗せて出てくるし、春休みや夏休み中には、上の子が店
の表に置いた長テーブルに、弁当を並べたりして手伝って
いるのである。また、酒店は朝の8時頃から開店準備を
始めており、40代らしい主人は日本酒や洋酒の重い瓶を
ごつい自転車に積んで、毎日配達に走りまわっている。
もちろん喫茶店はモーニングサービスをやっており、
だから8時前にはすでに営業を始めている。それらの光景
を見せられると、仕事の調子が悪いときなど、「おまえは
何をしてるんだ。もっとしっかり働け!」と、自身を叱り
たくなるのだ。過去、仕事の依頼が続いたり重なったりし
て多忙になったときには、こちらも決して負けないだけの
働きぶりを見せてはきたつもりなのだが。そして現在から
未来に向けて、いつでもそうさせてもらう気はあり、
その用意も態勢も整えているのだが。
1月。
◎人の「念」は第三者にもちゃんと伝わる(2)。
(承前)そこでさらにその範囲を拡大して、自他を含めた
望ましき未来を確定させる祈念法はあるのかというと、
あるとされている。願望達成法の本によく出てくる、「すで
にかなえられたと思い、それに対する感謝で願え」という
方法で、具体的には「これこれこうなりまして、ありがとう
ございます」と、御礼を先に言ってしまうことだという。
これは、ひとつの言い方をするなら、「時制を超えて、
確定未来を現在に取り込む」ということである。
そもそも、過去も未来も現実には存在せず、すべては
現在の一点のなかにあるという説もあるくらいだから、
その意味において、「未来を現在に取り込む」という作業
は、思念の世界においては不自然または不可能なこと
ではない。それらを「実感」をこめて行えば、通常の意味
における未来も、まさにそうなって現れてくるという理屈
なのだ。関連書籍には、「この世はつきつめれば人の
思いで成っている」「思いは願いになり、願いは必ず
実現する」という言葉も出てきている。
この場合「実現する」はプラス方向の思いについての
言葉だが、悲観や恐れなどマイナス方向の思いについ
ては、「現実化してしまう」と表現した方がわかりやすい
だろう。当方、長年願望達成法の学習もしてきたので、
このあたり非常に興味深く感じており、さらに追求して
いこうと思っているのである。
◎人の「念」は第三者にもちゃんと伝わる(1)。
薬剤のプラシーボ効果は現実にあることで、多種多様な
実験で確かめられている。そしてこれは被験者の、意識
せずしての自己暗示効果だと言うことができる。一方、
意識しての自己暗示にも効果があり、これは当方、自分
の身体の調子や健康について実感済みである。もう10
年以上医者に行ってないのは、勉強させてもらっている
教会で、折々祈念というかたちで、身心健全の自己暗示
をかけつづけているからだろうと思うのだ。
では、その暗示は身心の健全だけではなく、自身の未来
や運命に関しても効果があるのか。あるだろうと思うが、
まだ驚愕するほどの経験はしてないので、断定はできない。
しかし「現在」の身心から「未来」の運命へと暗示対称を
広げるのは、決して不自然で非論理的なことではないと、
そう得心できる理由が主観的な仮説にせよ組み立てられ
れば、実体験にも近づけるのではないかと考える。
話を広げて、ならば、上記した祈念は自分に関することしか
効果がないのかというと、そうではない。第三者に対する
善意の祈念を続けると、相手の思いや姿勢が変化してくると
いうことは、驚きとともに実感済みなのだ。 それを他者
暗示というのは無理があるが、人のために良いことをしよう
としたら、それが状況上少々無理なことでも、シンクロニシティ
(意味のある偶然の一致や僥倖)が起きやすくなり、意外に
うまくいくことも何度か体験した。とにかく祈念には、
「自」から「他」への伝達波及効果もあるようなのだ。
◎虎の尾を踏んでしまうと食い殺されるのだ。
トランプ大統領が、不法移民を大量送還するとか、性別の
登録は男女の2種類しか認めないとか、あるいは輸入品の
関税を一律に上げるとか、さらにはカナダ、メキシコ、中国、
ロシアには一層厳しい措置を取るとか、就任前からの言い
たい放題を続けている。あまつさえ、グリーンランドを手に
入れるためには、軍事力の行使もありうるなどともだ。どこ
まで実行する気なのか見当がつかず、「何をするかわから
ん人間だな」と感じさせられる。ただし当方、そんな列挙の
なかでひとつだけ期待しているものがあり、それはケネディ
兄弟とキング牧師、この3人の暗殺捜査記録を公開させる
という予告である。
1960年代前半から後半にかけての事件であり、3件とも
犯人とされた者が果たして真犯人なのかどうか、黒幕の
存在も含めて、当時から数々の疑惑が示されてきた。当方
も関心を持ち続けているから、長らく非公開だった記録に
何が書かれているのか興味津々なのだ。とはいえ思うに、
大統領令で公開を命じられても、関係諸機関は陰に陽に
抵抗するのではなかろうか。すべてを明示すれば国家を
ゆるがす大問題になるかもしれず、自分たちにとって都合の
悪い事実が出てくる恐れもある。FBIやCIAはその代表
だろうと思うし、それぞれの事件に関与した各地元警察も、
戦々恐々としているかもしれない。
もっと大きな組織としてペンタゴンがあり、その指揮統制下
にある陸海空以下の各軍も、非公式の諜報や陰謀を受け
持つ部署を持っていることは公然の秘密になっている。
実際ケネディ大統領暗殺事件については、その関与説も
出ていたのだ。そしてさらには、黒幕の背後には大抵「軍産
複合体」の冷徹な意思があるとされており、その「産」勢力
の後ろには金融以下の財閥が複数控えている。それらが
公開反対のために動いたら、場合によっては新たな大事件
が起きるかもしれない。マフィアだのイスラム系だのの、
暗殺者が動員される恐れもあるのではないか。などと言え
ば下手な陰謀論のようだが、当方、アメリカはそういう冷酷
で荒っぽい国だと判定しているのだ。
◎なぜかこんなことを突然思い出したりする。
小学校3年か4年のとき、音楽の男性教師がハーモニカに
力を入れていて、当時としては贅沢な半音付きのそれを
買わされた。後記するエピソードから考えれば、全員では
なく希望者だけだったことになるが、授業でも使っていた
ように思うので、そのあたりは記憶が曖昧である。そして
この教師は、生徒たちのハーモニカ同好会のようなものを
作り、週に1回か2回か、放課後練習することになった。
当方も参加していたのであるが、その最初の練習には
教室いっぱいと覚えているほど、男女の生徒が集まって
いたのだ。そして練習を始めてしばらくしたとき、その教師
が一人の女の子に不審げな声をかけた。
それは彼女がハーモニカを持たずにじっと座っていたからで、
「君はどうしたの」「持ってないんです」とか何とか、そんな
問答のあと教師は笑顔で、「ああ。今日は忘れてきたのか」
と言った。ところがそうではなかったので、彼は今度はあき
れたような声で言った。「ハーモニカ持ってなくて、どうやっ
て練習するの」 途端に皆がどっと笑い、女の子は席から
立って、小走りに教室を出て行った。しかしこのとき、当方も
一緒に笑っていたかというと、そうはしなかった、というより、
できなかった。女の子が本当に恥ずかしそうに顔を真っ赤
にし、逃げるように走り出て行った姿がかわいそうだったか
らで、記憶のなかにあるのは、よく漫画にある「冷や汗を
飛び散らせながら」という顔なのだ。
だからいま思うに、その女の子は家に帰るなり、大声で
泣いたのではなかろうか。そして当方、「そんな言い方を
しなくてもいいのに」と思ったからか、その教師の容姿も
よく覚えている。青色のダブルの背広で蝶ネクタイという姿
が多く、額の広い顔に黒縁の眼鏡をかけていた。いかにも
音楽教師らしいスタイルであるが、芸術を好む者にしては
無神経だったのではないか。些細なことと言えばそうかも
しれないが、「子供に罪なことをしてやりなさんな」なのだ。
◎数学から思考の「持ち駒」ふたつを得た(2)。
(承前)「集合」については、習ったのは本当に初歩の初歩
だけだが、これもまた図で示す方法に納得ができた。Aと
いう条件を満たす集合があり、Bという条件を満たす集合が
あるとしたら、そのそれぞれを大きさの異なった円形で描く。
そしてこのとき、Aであって同時にBという条件も満たして
いる集合、Bであり同時にAという条件も満たしている集合
があれば、それはAとBの円形を重ならせて描くことで示す。
本来の集合論において、この図示例がどんな意味を持ち、
どう使われていたのかは、当方まったく覚えていない。
けれどもベクトルと同じく「援用」という意味では、さま
ざまな問題の分類や規定に関して、頭のなかにこの図示
例を思いうかべることで、その特性が大きくつかめるのだ。
そんなわけでベクトルと集合は、俗流使用とはいえ、
思考の持ち駒になっているのである。なお、今回も
ついでに書いておくなら、昔、当方と先輩SF作家の堀晃
さんとで共著を出したことがあり、後年、落語会の打ち
上げの酒席でその話が出た。
そこで当方、「それぞれのファンが買ってくれて、部数も
伸びるやろと期待してたら逆やった。両方のファンですと
いう人しか、買ってくれなんだらしい」と言ったところ、桂
雀松(現、文の助)さんが笑いながら、「集合論の図の、
重なってる部分だけやったわけですな」とこたえた。
「それそれ。それですわ」と、こちらも笑いつつ、「高校
数学の援用者がここにもいた!」と、喜んでいたのだ。
◎数学から思考の「持ち駒」ふたつを得た(1)。
数学は苦手も苦手で、中学校の段階ですでに脱落していた。
まして高校のそれとなると、何が何だか見当もつかなかった。
ただし「ベクトル」と「集合」という概念だけは頭に残って、
その後も俗流的にだが援用している。ベクトルについては、
「静止物体に対して同時に2方向へ、異なる大きさの力を加え
たとき、その物体はどの方向にどれだけ移動するか」という、
この問題を図示で解くというのが、「なるほどなあ」と得心
できたのだ。仮にA方向に3、B方向に5の力を加えるなら、
それをAの矢印線3センチ、Bの矢印線5センチで描く。そして
それを2辺とする平行四辺形(2辺が直角の場合は長方形)を
作って、その対角線を取る。その対角線の長さと方向が、
静止物体が実際に移動する距離と方向なのである云々。
で、当方がこれをどう援用してきたかというと、数学には無縁の
人生コースだけれど、ものごとを考えるとき使ってきた。政治情
勢とか、経済や社会問題とか、企業内のパワーバランスとか、
そういったことにはすべて「異なる方向への、異なった大きさの
力」が関係している。だから新聞の解説記事や関連書籍を読む
とき、上記の図示例を思いうかべて当てはめると、大筋の見当
がつけやすいのだ。また、それらの「先の見通し」についても、
「あの力がかくかくで、対抗する力がしかじかだから、少なく
とも、これこれこういうことにはならないだろう」と、当たらず
と言えども遠からずの予測ができることもある。
ついでに書いておくと、ある本を読んでいたら、戦前の海軍の
水雷学校だったかの教科書に、「直進する駆逐艦から、その方
向に対して直角に魚雷を発射したら、どんな航跡を取るか」と
いう問題が載っており、答は「斜め後ろに進む」だったそうだ。
そして疑問を感じた士官が計算し、「斜め前方に進むはずだ」
と申し立てた。実験してみたらそのとおりだったという話だが、
こんなの、ベクトルの図示をすればその場でわかることで、
戦後なら高校生にさえわかることが、戦前の海軍ではわかっ
てなかったということになる。「それだけ、世の中が進んで
きたということか」と、驚きも得心もしていたのである。
長くなったので、集合については次回に書くことにしよう。
◎それにしてもマンは恐ろしい結末を考えたものだ。
若い時代に読んだので記憶が曖昧になっているが 、トーマス・
マンに「トビアス・ミンデルニッケル」という短編がある。
貧しいユダヤ人が主人公で、彼は居住する街で差別され、外
を歩けば子供たちからもからかわれるのだ。そして当人は犬
を飼っており、何かにつけて「おお、おお。かわいそうにねえ」
と抱きしめ、そいつの立場だったか不運だったかに同情する。
しかしそのあと、正確な経緯は覚えてないけれど、犬からも
自分に対する軽視を感じたのだったか、あるいはいつもの
言動だけでは心理量的に足りなくなったのだったか、彼は
ある行為を示す。ナイフで犬に傷をつけ、血を流しているそれ
を、「おお、おお。かわいそうにねえ」と抱きしめるのである。
当方その結末部分にぞっとし、言外の心理描写の重さや深さを
実感していた。つまりトビアスは、犬を傷つけることによって
内面の屈折を表出させたのであるが、一方、当方の知り合い
にはそれを自分に向け、黙っていれば誰も知らないことを
わざわざ言ってまで自身を心理的に出血させ、そのあとその
傷をなめるという、そんな言動を反復している者もいた。ある
種の自己確認だろうが、きつい言い方をすれば、これは周囲
ならびに自分に対する「悪甘え」であり、同じことを何度も
延々と訴えられる周囲は、しまいにうんざりして離れていく。
するとそれをまた阻害と捉えて新たな傷とする。際限がない
わけで、上記した「黙っていれば誰も知らないことをわざわざ
言う」という、その「ぐっと我慢」をしておかなかったことが、
彼の人生コースの岐路になったのではないかと思う。そういう
我慢をしている者は少なくはなく、無論当方だってしている
事柄があるわけで、そこから生まれてくるものもあるのにだ。
以上、ふっと思い出したので書いてみた。実はその知り合い
は、名前を書けば知っている人も多い、同業者だったのだが。
◎クルト・ユルゲンスが良い雰囲気だったけど(2)。
(承前)また映像のリアリティという面を考えると、「なぜ作品中
に、実際の記録映像を使わなかったのか」という疑問も湧いてくる。
何ヵ所か記録映像らしきシーンもはさまっているけれど、最重要と
思われる上陸シーンで強くそれを感じた。というのが、輸送艦艇
から兵たちが上陸用舟艇に乗り込むとか、ドイツ軍の猛射撃下、
海岸に達して飛び出すとか、それらはすべて映画として撮影された
ものである。しかし史実では当日の海は荒れていて波が高く、記録
映像では舟艇群が大きく揺れて、がぶりながら進んでいく。
そもそも「Dデイ」すなわち上陸決行日がなかなか決まらなかった
のは、気象条件が悪かったからで、それで史実でも映画でも、最高
司令官アイゼンハワー元帥以下が苦悩するのである。なのに映画
のそのシーンでは、海は荒れておらず波も高くなく、舟艇は普通に
進んでいく。「ここは首脳陣の苦悩をフォローし、現場の迫力を示す
ためにも、記録映像を使うべきだろう」と思ったのだ。海岸に到達
してからの戦闘シーンも同様で、記録映像では舟艇から飛び出す
なり敵弾が命中して倒れる兵が何人か映っている。映画でもその
シーンは再現しているが、見る側に「衝撃を与える」という点におい
て、記録映像のリアリティには及ばない。映画の製作については、
アメリカ軍やNATOが多大な協力したというから、そこに保存され
ている記録映像だって使えたはずなのにと、怪訝に思っていた。
記録映像も映画もモノクロなのだから、随所でインサートしても
違和感は出なかったはずなのだ。そしてまた、そこであらためて
考えてみると、当方が原作を読んで得た「大量・濃密・リアリティ」
の感は、学生時代以来、テレビの解説番組や映画やビデオ等々
で見てきた、それらの記録映像を思い出しながら読んだためだっ
たのかもしれない。ライアンの原作は当方においては、活字と
映像の融合作品として記憶されていたわけで、いかに延々3時間
の超大作映画でも、それにはかなわないと感じていたのである。
◎クルト・ユルゲンスが良い雰囲気だったけど(1)。
長くなるので2回に分けて書く。第二次大戦のノルマンディー
上陸を題材にした「史上最大の作戦」。これは元来、コーネリ
アス・ライアンが1959年に発表したドキュメンタリー作品であり、
それを原作として、20世紀フォックスが1962年に映画化した。
どちらも世界的な高評価を得て、前者は大ベストセラー、後者
は超ヒット作品になった。ジャーナリストのライアンは、この
作品執筆に数年間専念し、その過程で2万ドルの借金を作って
いたという。また20世紀フォックスも、その前の大作「クレオ
パトラ」に製作費をかけ過ぎて、実は倒産寸前だったらしい。
幸いどちらも起死回生、一挙挽回の成果を上げたわけである。
そして当方、原作も映画のDVDも折に触れて再読再鑑賞して
きているのだが、それは両作品を対比して考えると、あれこれ
勉強になるからである。ちなみに、映画は往年テレビの洋画
劇場で見た記憶があるけれど、詳細は覚えていなかった。
だから後年DVDで見たのが、いわば初見に近い鑑賞だった。
一方、活字作品はDVD購入のはるか以前に読んでおり、愛読
書の一冊になっていた。で、そんな経緯で映画を見たところ、
上映時間3時間に及ぶ大作が、いささか「平板」に感じられた。
さすがに後半の迫力は結構だと思うが、何か「物足りない」感じ
も受けた。そして考えた結果、それは原作に含まれている膨大
な人物群とエピソード群から、「あれをつまみ、これを使い」
という、そんな構成法を取っているからではないかと思った。
それでも3時間になったわけで、対して手元にある文庫本の本
文は約400ページである。すなわち内包情報量は原作の方が
圧倒的に多く、まずは活字作品の強みを確認できる。そのすべ
てを映画で描くことなど、不可能に近いのである。だから省略や
短縮のため、「あのエピソードと、このエピソードをひとつに
する」や「あの人物の意見を、この人物に言わせてしまう」など、
その種の手法も使われている。しかしとにかく、すでに原作の
圧倒的な大量感、濃密感に接していた当方には、映画は平板
さや物足りなさを感じてしまうものだったのだ(つづく)。
◎さすがに終戦とともに公職を辞したそうだが。
戦前戦中の東京帝大に、平泉澄(きよし)という国史の教授が
いた。元神主で「皇国史観」を講義しており、時代背景ゆえに、
陸軍士官学校や海軍大学校などからも講演を依頼されていた。
いわば「売れっ子」だったわけだが、史実を無視するようなガチ
ガチの天皇帰一姿勢には、学術としての歴史を研究する同じ
帝大の別の教授や、自由な精神による学問を良しとする海軍
士官などから強く批判されていた。そして当方、阿川弘之氏の
著書でその概要は読み覚えており、先般、「物語日本史」(講
談社学術文庫)という本を、皇国史観確認のため読んでみた。
少年向けだそうだが、最初に刊行されたのは昭和45年(19
70)で、著者は高齢晩年の時期である。そして昭和45年は
当方が大学を卒業した年でもあり、当時の日本ならびに世界の
激動ぶり、あるいはその頃の小学生や中学生の生活を考えれ
ば、読みながらその内容と雰囲気に 「どんな少年が読みます
ねや」と思っていた。とりあえず全3冊の上巻を買って読んだの
だが、ほとんど天皇のことばかり述べていて、かつ「何とすばら
しいことではありませんか」「愉快ではないですか」等々、勝手
に礼賛や価値付与をしている。
古代の天皇の寿命が140歳だったとかの説については、当時
の中国の説に合わせて「引き延ばした」などと、一応科学的に
判断している。しかし、勝手な価値付与の頻出ぶりは、まさしく
良くも悪くも「物語」としての歴史であって、戦前戦中も日本史
全体を天皇物語として把握し、講義していたのだろう。よって、
あんなものは社会「科学」ではないという批判も、まことに正当
だと思った。正直なところ、あきれてあほらしくなり、中巻と下
巻は買う気になれないのだ。なにしろ、農民の歴史について
質問した学生に、「百姓に歴史がありますか。豚に歴史があり
ますか」と、言い放ったという話もある人物なんだからな。
◎そのお下がりの成分を科学的に検査したくもなる。
勉強させてもらっている宗教は全国各地に教会があり、教会長が
日々信者たちに、教えたり導いたりする話もしている。それを
まとめて収録した書籍を出している教会も多くあり、あれこれ読ん
でいくと、「おもしろいなあ」と思うエピソードに接することも
少なくない。そんな一冊に、喘息を治してもらった信者の話が載って
いた。いまなら医者にかかり、薬も服用するわけだが、教会名は
明示されてないけれど昔の話だという。だから医者にかかるカネが
なかった人かもしれず、あっても「神様に治してもらう」という思い
の強い、熱心な信者だったのかもしれない。
とにかくその人が快癒を願い出たので、その教会の先生は神前に供え
てあったミカンをひとつ下げ、「これを頂いて治してもらいなさい」
と彼に渡した。そして翌日また参ってきたので、「お下がりを頂いて、
喘息は治っただろう」言うと、「いいえ。治りません」とこたえた。
そして概略こんな問答があった。「そんなはずはない。どんな頂き
方をしたのか」「皮をむいて中味を頂いて、皮と袋はごみ箱に捨て
ました」 先生いわく「それはミカンを食べたのであって、お下がり
を頂いたのではない。私があげたのは、ただのミカンではない、
神様のお下がりである」 なるほどと思ったその信者、帰宅して
ごみ箱から皮と袋を拾い出し、きれいに洗って火で焼いて、黒焼き
にした粉を全部頂いた。そしたらそれで治ってしまったという。
そして当方が「おもしろいなあ」と思ったのは、「それはミカンを
食べたのであって」という部分であり、お下がりを渡した先生の
思いと信者の対応との落差には、「おかしさ」も感じていた。昔から
「昆布の黒焼き」は喘息や気管支炎に効くと言われてきたが、この
人がミカンの黒焼き粉を頂いて快癒したのは、一種のプラシーボ
効果だったのかもしれない。といって「ミカンを食べた」だけでは
喘息が治らないのも確かだろう。それで済むなら、世の中に喘息
患者はいなくなる。興味深い話で、一遍に覚えてしまったのだ。
◎いい雰囲気だったな。枝雀師匠も健在だったし。
広告マン時代、新年の挨拶は1月初頭の、初出勤の日に
かわしていた。同僚に挨拶し、朝礼で支社長が挨拶し、その
あと営業の連中はクライアントへ、媒体担当者は放送局や
新聞社へ、挨拶まわりに出かけていく。当方が所属していた
企画制作セクションは、その日は仕事などないから無駄話で
時間をつぶすのだが、そこへ印刷会社、デザイン事務所、
写真スタジオなどの面々が順不同でやってくる。定番の挨拶
をかわし、あとはその彼らと雑談したり、喫茶店へ行ったりす
るのである。脱サラして数年後からだったかは、梅田に近い
桜橋の産経ホールで1月2日と3日に催される桂米朝独演会、
その3日の分を聞きに行くようになった。
3日の終演後には、場所を移して打ち上げパーティーがあり、
米朝師匠以下一門の皆さん、小松左京さんや石毛直道先生
など、大勢の常連客に会えて、新年の挨拶をかわせるからで
ある。さらにそのあと、当時小松事務所があったホテルプラザ
へ移動し、あらためて飲んでしゃべったりする。まことに新春
らしい気分を味わえる、嬉しく楽しい時間だったのだ。そして
その習慣が長くつづいたのだが、小松さんも米朝師匠も亡く
なられ、産経ホールは建て替えられて、ホールも狭くなって
しまった。新年の米朝一門会はあるけれど、申し訳ないこと
ながら、いつしか足が遠のくことになったのだ。
長女が法律事務所に勤めており、所属弁護士や事務方の
人数も多い大型事務所で、年末の仕事納めには社内
パーティーがあるという。オフィスに寿司やピザが用意され、
缶ビールで乾杯のあと懇談という簡単なものだそうだが、
聞いた当方、思わず「懐かしいなあ」と言っていた。広告マン
時代、同様の社内パーティがひらかれた年もあったからだ。
ただしこちらは、年末ではなく初出勤の日だったが。だから
オードブルも寿司も、年末に作って置いておいたやつを持っ
てきたらしく、パサパサで皆が文句を言っていたのだが。