玉石混淆・ふりーめも

聞いた話に、見た話。思考の断片、読んだ本。
経験したこと、させられたこと。何が出るかはわからないけど、
嘘とデタラメは書きません。……ほんとかな?



今月のお写真。霞が関〜永田町を歩いたことがあり、お上りさん
同様、「ははあ。これが国会議事堂か」と眺めていた。角度から考
えれば、衆議院第二別館あたりから撮ったものだろうと思われる。
竣工したのは昭和11年(1936)で、2・26事件時にはまだ工事中。
建物はできていたから、反乱軍制圧のため、海軍は連合艦隊を
出動させ、東京湾に入った第一艦隊、その旗艦「長門」が、主砲の
照準をこの議事堂の尖塔に合わせたという。もし本当に射撃したら、
吹き飛ばされた大理石だの何だのが一帯をなぎたおし、早稲田の
あたりまで拡散する計算になったそうだ。何にせよ、戦争の時代が
あり、戦後の混乱期があり、60年安保の騒動もあった。そのときの
首相は岸信介だが、もっかその孫が、あれこれ策を弄しているのだ。

2018年10月

イトマン事件が起きた時代でもあった。

往年、仕事場を北区の一画、いまの毎日放送
のすぐ近くに置いていた時期があった。ただし、
毎日放送のそばだから決めたのではなく、そ
こで何年か仕事をしていたら、北梅田の再開
発で毎日放送が大阪郊外の千里丘から移転
してきたのである。で、朝は阪神梅田駅から
地下街伝いに三番街を抜けたり、地上ならば
新御堂筋に沿った道を歩いたり、15分ほど
歩いて通っていた。そしてそのときというか、
その時代というか、なぜか頭のなかで、やた
らに「怒って」いたことを思い出す。

あんなやつに、こんなやつ。サラリーマン時代
以来、折々遭遇してきた嫌な男女のムカつく
言動が頭にうかび、「くそったれめ。こてんぱ
んにやっつけたろか!」などと、内心本気で
怒っていた。いま思うに、これは彼らの顔を
思い出したので怒り始めていたのではなく、
とにかく「怒気」というものが心に発生し、それ
が彼らを想起させていたのであるらしい。なら
ば、なぜその怒気が頻繁に発生していたのか。
それは、当時はバブル時代のまっただなかで、
著名銀行や不動産会社が地上げ屋を使い、
買収に応じない家や建物には、放火させたり、
ダンプカーを突っ込ませたりしていた。

天下のナニナニ銀行、どこそこ不動産が、そん
なことをやらせているのは公然の秘密にもなっ
ていた。当方が仕事場まで歩く道筋でも、茶屋
町という古くからの下町的な長屋街が、軒なみ
地上げされてブリキ塀で囲われていたりする。
遂には広大な区域全体が、ブリキ塀の街になっ
た。それを見ながら歩くのだから、上記した大
企業の悪辣さに義憤の念が湧き、それが怒気
の元になっていたのだと思う。
現在、若い連中
で賑わっている茶屋町は、いわば札束と暴力
で造られた街なのである。

大阪弁は、大人でも幼児語を使える。

先日、あるパーティーに出て、昼間からビール
を飲んだ。それでトイレに行ったところ、当方
より年長の二人が用を足しており、片方が立
ったまま言うことには、「気持ちを集中せんと、
出えへんねん」。するともう一人がこたえて、
「難儀なチンチンやな」。聞いた当方、思わず
ブーッと吹き出しかけて、ぐっとこらえていた。

前者は多分、年齢ゆえの前立腺肥大気味な
のだろうが、それを「難儀なチンチン」とは、
「実に大阪弁の会話であるなあ!」と、感心
していたのだ。そして仕事柄、「このやりとりを
標準語でやったら、どうなるだろう」とも考えて
いた。というのが、そもそも標準語の会話で、
大の大人が「チンチン」という言葉を使うか
どうか。といってペニスでは生々しいし、
チン
などは下品過ぎる。となると、話をイチ
モツには飛躍させず、前立腺肥大自体で
受けざるをえなくなるのではないか。

としたら、「気持ちを集中しないと、出ないん
だよ」「困った症状だねえ」などという、「おも
ろいことも何ともない」応答になるだろうと
思ったのだ。対して、鹿児島弁や熊本弁、
あるいは秋田弁や山形弁なら、「難儀な
チンチンやな」に匹敵する、すばらしい応答
があるのではなかろうか。とにかく、あほな
話は、方言に限るのである。ちなみに、
大阪弁で大人でも使える幼児語としては、
飴ちゃん、うんこちゃん、などというのもある。

欧米商品の旭日にも抗議するとは

韓国が海上自衛隊の旭日旗を「戦犯旗」と
称して、韓国領内での掲揚に反対している。
旭日旗は旧陸軍の連隊旗としても使われて
いたから、韓国国民が嫌悪感を覚える根源
は、厳密にはそちらではないかと思うのだが、
海軍も鎮海に要港部、元山に航空隊基地を
置いていたから、当時の軍艦旗も同等の嫌
悪を招くのかもしれない。しかしそこで思うに、
戦犯旗と称するなら、韓国国民にとっての
それは、旭日旗よりは日章旗、「日の丸」の
国旗の方が、はるかに重罪戦犯(?)なの
ではないか。なのに日の丸に対して、韓国
内で使うなと言わないのは、なぜだろう。

国旗を否定や拒否すると、問題が大きくなり
過ぎるからなのか。というのが、もし過去の
所業を理由に国旗を否定するとしたら、イギ
リスのユニオンジャック旗など、アジアやアフ
リカ諸国から総スカンをくらうべき国旗だが、
「下ろせ」と言われたら、イギリスは断交も
辞さないのではないか。それくらい大きくな
る問題ゆえ、韓国国民も自制しているのか、
このあたり、よくわからないのである。また
韓国の旭日旗拒否論には、ナチスのハーケ
ンクロイツ旗に匹敵するものだからという意
見もあるという。しかし、あれは党のマーク
であり、国旗や軍艦旗の一部に入れても
いたが、それは私人私党が国家や軍を乗っ
取ったからで、問題の由縁が違うように思う。

またベトナム戦争時、派遣された韓国軍の
一部が残虐行為をしたり、現地女性との間
に私生児を大勢つくって放置したという話は、
まあ、本当のことだろう。そこで、もしベトナ
ム国民が、それを理由に韓国軍の軍旗や
軍艦旗を拒否したら、韓国側はそれに従う
のか否か。多分、従わないだろうと思うの
だが、このあたりもよくわからない。さらには、
もし韓国に大災害が起き、海上自衛隊の
補給艦が援助物資を積んで急行するとして、
そのときも旭日旗を下ろせと言うのかどうか。
とにかく、わからんことが多い問題なのだ。


◎昼書いて夜訂正、朝に再読などと。

こつこつ書いてきた宗教家の伝記が、
一応ラストまで書けた。まだ全体の再読、
訂正、追加や削除が必要だが、何はともあ
れ一安心である。そしてそのラスト部分で
あるが、その前の節で臨終場面を書いたの
で、内容としてはそこで終わったことになる。
しかし、それで伝記も終了にすると、ぶった
切ったようなラストになってしまう。だからそ
のあと、短い回想談やエピソードをいくつか
並べ、フェイドアウト的な終わり方にした。

ただし、そのいくつかの短い要素を、どんな
順序で並べればいいのかについては、ちょ
っと難しかった。無作為に並べれば読者が
混乱するし、時系列に沿って並べると、それ
とは別の、読者を最後に得心させる論理
系列が乱されてしまう。箇条書きにした
メモを睨みつつ、「これは一種のジグソー
パズルだな」と思っていたのだ。

そして、そう思ったことで配置のおもしろさ
を感じだし、何度か試考したあと、複数の
ピースをぴたりと 「はめ込む」ことができた。
前節の臨終場面から通して読み返してみ
ても、違和感や唐突感はない。「よ〜し。
これで結構!」と、まずは一件落着にした
のである。原稿枚数は380枚の予定で、
完成は375枚。これもまた結構でした。


双方、悪事だとは思ってないのだ。

中学校に、本職なのか召集されてなのか
は知らないが、戦争中は陸軍少尉だった
という、社会科の教師がいた。中国にいた
ということで、授業中にその当時の話をし
ていわく。村に入って行くと、すでに皆避難
して誰もいないので、残っていた鶏だか
豚だかを捕まえて食料にした。笑って言う
ことには、「カネを払おうと思っても、誰も
おらんから払われへん。それでタダでもろ
たんや」 聞かされた生徒たち、当時は
当方も含めて笑っていたけど、考えてみれ
ば、これは公立学校の教師が、往年の
略奪行為を披露していたことになる。

社会人になってから、ある酒の席で、元
騎兵将校だったという人の話を聞かされ
たこともある。同じく中国におり、行軍して
村に入っていくと、まず食料の調達をする。
騎兵だから長時間乗馬してきており、足
腰は疲労していないから、すばやく逃げる
豚でも走って追いかけて捕まえられる。
反対に歩兵部隊の連中は、長時間の行
軍でふらふらになっているので、遁走する
豚には追いつけず、のたのたと走ってでも
捕まえられる鶏を狙う。だから、村に入っ
て行ったとき、どんな家畜が残っているか
によって、先にそこを通過した部隊の兵
種がわかるというのだった。

聞かされた当方、「へええ。なるほど」と得
心していたが、これもまた、徴発とは称して
いても略奪行為である。こんな事例が何千
何万とあったはずで、それは中国に限らず、
東南アジアから南洋諸島に至るまで、全戦
域で実行されていたことだろう。しかも、こ
れは食料徴発のほんの一例であり、米や
麦や芋、野菜だの魚だの塩だのと、事例
はいくらでも広がるはずだ。加えて、作戦
の必要上という理由によって、家屋、橋、
城壁等々を破壊し、焼却し、人員を徴発し
て荷物を運ばせ、言うことを聞かなければ
……と、類推できる個人の行為、部隊の
行動はどんどん拡大していく。そして多分、
それらは実際に行われていたのである。


◎芸能もレベルが上がると芸術になる。
以前、歌舞伎の女形(名前は失念)の踊りと
対談、それから昔の名優の踊りの記録映画
を見る会があった。ぼくは歌舞伎については
ズブの素人だが、人にチケットをもらったので、
鑑賞させてもらい、非常におもしろかった。
どういう点がかというと、まず女形の役者の
踊りを見ていると、「色っぽさ」を出すために
だろうが、眼の焦点をずっとぼやけさせて踊
っていた。そして当方、セックス中の女性が
そうなるので、歌舞伎の女形はそれを芸に
取り入れたのだという話を読んだことがある。
断片知識そのままの姿に、「なるほど。これ
かあ」と得心していたのだ。

また対談では、司会者が歌舞伎界のことなど
もあれこれ質問した。それに対する回答や
説明を聞いていると、「あれは誰それの伯父
さんに教えていただいたことで、私などが
その芸をお見せするのはまだ早過ぎるので
すが」とか、「私ごときが申すのもおこがまし
いのですが」とか、名の知れた役者なのに、
とにかくへりくだる。ときにはそれが過剰だと
感じることもあり、これもまた、別の意味で
「なるほどなあ」だったのだ。また、伯父さん
というのは実際の親戚ではなく、名前の系列
上、伯父に当たる役者という意味である。

そして、昔の女形の名優が踊る記録映画は、
大方1時間ほどの長さを、こちらをダレさせる
ことなく、一気にラストまで見せてくれた。ズブ
の素人も惹きつけて放さない流麗さと迫力で、
「芸の力というものは、恐ろしいものだな」と、
心底感服していたのだ。記憶に間違いがなけ
れば、六代目・中村歌右衛門の 「娘道成寺」
だったと思う。映写が終わるや、期せずして
場内から拍手が起きて広がっていた。映画に
対する観客の拍手など、昭和30年代だった
子供時代以来の経験だったのだ。


酒は呑むべし。呑まれるべからず。

若い頃、東京で一度会ったことのある、週刊
誌のフリー記者がいた。体格も良く、言動に
エネルギッシュな雰囲気があって、「なるほ
ど。週刊誌のフリー記者というのは、こういう
タイプの人間なのか」と、納得していたのだ。
ところが後年、同じく彼を知る人物から聞い
た話では、あるときその男が何年ぶりかで
彼を訪ねてきたのだが、「尾羽打ち枯らした」
様子だったという。アイロンのかかってない
よれよれのワイシャツを着ており、精気の
ない顔で、手が細かくふるえている。

話を聞くと、離婚して、アパートに一人で住
んでいるという。仕事もないらしく、どうやら
酒浸りになっていて、手のふるえはそのた
めらしかったのだ。そして彼は、「これから
人と会う約束になってるんだけど、財布を
忘れてきてしまったんですよ。悪いけど一
万円貸してもらえませんか」と言った。聞か
された人物、それは口実で、本当はカネが
なく、しかし貸しても、すぐ酒を飲みに行くに
違いないと思ったので、「いやあ。そういう
話は勘弁してくださいよ」とか何とか、言を
左右にして断った。それでも相手は粘り、
遂には「千円でもいいです」と言ったそうだ。

オソロシイ話であって、千円札一枚持って
出ていくとなると、行く先は、酒の自動販売
機となるのだろう。酒浸りになったので、
仕事がなくなり、離婚もしたのか。それとも、
離婚して酒浸りになったので、仕事もなく
なったのか。その順序はわからないが、
そこまで困窮していたのなら、その後、アパ
ートも出ざるをえなかったのではないか。
「酒浸りにだけは、なってはいかんな」と、
心底思っていたのだ。肝臓も壊すだろうし。


時空を超えた座談会。聞きたいね!

寺田寅彦は戦前の物理学者で、夏目漱石
門下の一人でもあった。だから文筆の才も
優れていて、独特の視点によるエッセイを
数多く残している。先日、仕事上の必要が
あってそのなかのひとつ、「電車の混雑に
ついて」書かれた文章を再読したのだが、
読みながら思わず笑ってしまった。この場
合の電車は戦前の東京の路面電車であり、
それが乗客ぎゅう詰めでやってきたりする。

とても乗れないので次を待つと、それも同
じく満員だったりするが、そのまた次は
がらがらで、楽に座れるということがある。
それはなぜか。なぜどの電車も均等の混
み具合にならないのか。その理由を探るた
め実地観察し、時系列化と数表化を施して、
考察を進めている。本人は「受けよう」とか
「笑わせよう」と思ってではなく、大まじめに
やっており、そこに巧まざるユーモアの、
「おかしみ」が表れているのだ。そして当方、
読後には、時間を越えた想像をしていた。

「この寺田寅彦が往年のSF作家クラブに
入っていて、星さんや小松さんと話をしてい
たら、おもしろかっただろうなあ」。旅行先
の旅館かどこかで、食べながら飲みながら、
何の遠慮もない馬鹿話をして大笑いする。
往年のその雰囲気を思い、聞かせてもらう
側としては、特に星さんとのそれが、抱腹
絶倒の会話になっただろうと思ったのだ。
うん。漱石と星さんなら、もっとおかしくな
るだろうな。森鴎外では、駄目だろうが。


9月
候補案は、もう出てるのではないか。

先日の産経新聞サイトに、次の元号の予想
アンケート記事が載っていた。ソニー生命が
全国規模で行ったもので、1位「平和」、2位
「和平」、3位「安久」などの回答が示されて
いる。以下、未来・自由・新生・大成・羽生・
希望・安泰・安寧・大平とつづくのだけれど、
回答者は「本当の」予想をしたのか、それと
も 「こんなのどうだろう」「こんな元号だった
らいいな」と、自分の思いをこたえたのか、
どっちだろう。というのが、本当の予想をする
としたら、羽生など論外としても、平和、自由、
希望などは、まず採用されるはずがない。

なぜなら、平成は「内平外成」「地平天成」
から取っており、昭和は「百姓昭明、協和
万邦」、大正が「大亨以正」という具合に、
中国の古典の文章や成句を原典にしている。
次の元号もそうなる可能性が高く、平和や
自由や希望という言葉自体に同様の原典
があるなら別だが、良い言葉、かくありたい
単語だからといって、そのまま使われること
はないと思うのだ。また、新生、大成、大平
は企業名にあるから、後追いで元号には
しないだろう。したら依怙贔屓(?)になる。

安久、安泰、安寧は、江戸時代の安政以来、
頭文字がAの元号はないので、狙い目では
ないかという推理によるものだという。しかし
当方が思うに、上記の予想は、十中八九、
全部はずれると思う。中国の古典を研究する
学者たちの思考は、もっともっと保守的で、
選定法も前例踏襲でやるに違いないからだ。
よって、その分野に何の素養もない当方、
予想を聞かれても、「わっかりましぇ〜ん!」
としか、言いようがないのである。


写真を撮っておけばよかったなあ。

自宅近くの住宅街に古い木造の家があり、
その庭には茶室が設けられている。ごく
狭い庭だから、それだけでぎりぎりという
余裕のなさで、歩行者がそこを通過する、
そのすぐ横に位置しているのだ。しかし
その小さな茶室は、実にいい雰囲気であ
る。家屋と同じく築後何十年らしいから、
古びており枯れており、通過する一瞬に、
長い静寂を感じさせてくれる。

当方、茶道については門外漢もいいとこ
ろだが、「わび」「さび」というのはこんな
枯淡の雰囲気を言うのかと、感嘆してき
たのだ。ところが先日、その茶室が家屋
もろとも取り壊された。最初は家屋だけ
だったので、茶室は残すのかと思ったの
だが、翌日通ると、それも折れた古木材
と崩れた壁土の集積になっていた。

住人が亡くなって、誰かが相続したのか。
更地にして、売るのか貸すのか、それと
も新しい家屋を建てるのか。それはまっ
たくわからないが、「もったいないことした
なあ」と思い、大阪弁で言うなら 「ざんな
いなあ」とも感じていた。無論これは、
その家の事情も何も知らない、第三者の
勝手な思いであるのだが、「それにして
もなあ」なのだ。京都とか、地方の城下町
では、よくある話なのかもしれないが。

◎スマホ全盛で、これも売り上げ減?

前に、「もう来年のカレンダーが売られてる。
せわしない!」という話を書いたが、同じく
手帳も並び出しているので、
それで思い出
したことを書く。中学高校の生徒手帳は別と
して、学生時代に手帳を買ったことはなく、
社会人になってようやく持ち出した。しかし、
これも買ったものではない。広告代理店に
勤めていたから、年末になるとテレビ局の
翌年の手帳が手に入るのだ。当時、関西
テレビの手帳が使いやすいと人気があり、
緑色だったかの表紙に、KTVという金箔文
字が押されていたことを覚えている。ただし、
社内で取り合いになっていたのか、もらえ
たのは一度だけだったように思う。

TBSの手帳をもらったこともあり、とはいえ
当方、仕事予定だの何だのをいちいちメモ
するのは面倒臭いから、ほとんど使わなか
った。これは作家になってからも同様で、
日本文藝家協会の手帳が毎年送られて
くるが、まったく使わない年がほとんどだ。
公私の予定は、書き込みのできる大判の
カレンダーとデスクカレンダーで処理してい
るからで、文藝家協会の手帳は、広告マン
時代の同僚に進呈したことも何度もある。

巻末に新聞、出版、放送各社のアドレスや
電話番号が掲載されているから、相手にとっ
ても便利なのである。ただし、作家やエッセ
イスト諸氏のそれも載っているので、嬉しが
って電話しそうな調子者には渡せない。その
あたりは、こちらも考えて進呈してきたのだ。
何にせよ、手帳は当方にとって無用の長物
ということになる。「おれはほんまに、面倒
臭がりなんやなあ」と再認識。


◎わからん者には、どう言ってもか?

先般、東洋経済オンラインで読んだ記事
だが、近年、大学が世界レベルで崩壊して
いるそうだ。いわゆる「新自由主義」が
グローバル化し、何でもすぐに直接の成果
を求める傾向が強まった。その結果、大学
は理系とビジネス系だけあればよく、人文
系など不要だということになってきたという
のだ。そして確かに、日本でもそんな論が
出てきている。しかし当方思うに、これは
「専門学校」「実業学校」の思想であり、
大学がその機能を含むのはかまわないが、
それのみというのはまずいのではないか。

歴史や哲学などを、大学生全員に必修で
課す必要はないにせよ、その分野が好きだ、
知りたい、研究したいという学生から、その
機会を奪うのは間違っていると思う。第一、
それでは学術世界の裾野が広がらず、衰退
を招いてしまう。「そんなものを研究して、
何の役に立つのか」というのは、ものごとを
経済効率でしか見てない者の論であって、
「豊かさ」ということを狭く薄くしか捉えて
ない証拠であり、往年の日本人が批判された、
エコノミック・アニマルと変わらなくなる。

直接の(それも経済面での)成果がすぐに
出ないことを批判する人間は、学術がもたら
す間接的な成果の大きさや価値を、推測も
想像もできないのではないか。上記東洋
経済の記事には、そういう大学が増えると、
「秀才は育っても天才は生まれない」という
意味の記述があった。なるほどと思うし、
さらには叡知というモノサシにおける、
「ノブレス・オブリージュ」も育たないと思う。
「無用の用」は、実は「重要な用」なのだ。


夜の夢こそまこと(乱歩)ならばね。

睡眠中に見る夢には、友人知人、仕事で
関係した人間などの出てくるものがある。
それで思ったのだが、いつ・どんな夢に・
誰が出てきたか、その個別例を逐一メモ
しておいたら、そこに何か傾向や法則性
が出てくるのだろうか。たとえば当方なら、
夏の夜の夢に大学時代のクラブの仲間
が出てきたら、それは多分、潜在意識で
当時の合宿を思い出していたからだろう。

3年5年とチェックして、毎年の夏そんな
夢をよく見るとわかったら、「自分は暑気
や季節感が生む夢をよく見る」と、ひとつ
の結論が下せるのだ。他の季節や年中
行事、折々の精神状態、仕事の調子、
公私のトラブルの有無等々。これらのこ
とも夢の登場人物を決定づけているかも
しれず、そうやってデータを揃えていけば、
当方個人に関する、まだ意識できてなか
った何かが認識できるかもしれない。

そしてさらに、その作業を老若男女多数
について実行したら、そのビッグデータ
から、現代とか日本の社会とか日本人
とか、そんなテーマに関する何かが把握
できるかもしれない。しかもそれは昼間
の意識調査ではなく、夜の意識下調査
だから、愕然もしくは呆然とさせられる、
傾向や法則が出てくるかもしれない。
どこかの大学で、そんな調査をやってる
のなら、ぜひともレポートを読みたいと
思うが、ありやなしや? なのである。

ブラック企業も体質は同じである。

日大アメフト事件以降、ボクシング連盟が
どうの体操協会がこうの、日体大の駅伝や
重量挙げ協会まで、ニュースになってきた。
まとめて言うなら、要するに「体育会」体質の
問題だ。服従関係、暴力容認、成績絶対等々、
こういった体質は、昭和の高度成長期、いわ
ゆる猛烈社員全盛期には、企業から重宝さ
れてきた。命じられたことを文句も言わずに、
法律を無視してでも実行するからだ。そんな
連中が出世して経営陣に名を連ね、企業
犯罪を犯したりもしてきたのである。

そしてその当時、スポーツは好きだがその
体質が嫌いだとか、ついていけないと思う
学生は、体育会の部ではなく同好会やサー
クルに入っていた。当方の感覚では、その
方がスポーツ本来の目的にかない、楽しめ
る度合いも高いだろうと思う。しかし体育会
側に言わせれば、「楽しむなどとは何たる
甘さ。そんな根性で敵に勝てるかっ!」と
いうことなのだろう。そこで思ったのだが、
外国のスポーツ界にも、そんな体育会的な、
根性第一の体質はあるのだろうか。

軍隊なら、下級者いじめをするのは大抵の
国に共通することらしく、刑務所内の人間
関係となると、これも各国共通で、さらに
陰湿かつ暴力的になるらしい。けれども
それらは、強制された閉鎖環境における、
特殊な上下関係ゆえだと推測できる。
そう考えると、もっか問題になっている
体育会体質は、疑似「軍隊」的とも言えそ
うなのだが、それもまた各国共通なのか、
それとも日本独特の「いびつさ」なのか。
まあ、当方には生涯無縁の世界であるが。


◎おのずと本性がバレてくるわけだ。
すでに消えてしまったが、局アナ出身の某
男性タレントに関して、別の放送局の知人
から聞いた話である。その知人はプロデュ
ーサーを勤めていた番組で彼を起用し、
ゴルフなどにも一緒に出かけた仲だったと
いう。そしていわくは、「あいつ、わがまま
なんや。自分の思う通りにならなんだら、
ADとかアシスタントの女性タレントをどなり
つけたりしよるねん」とのことだった。

当方、意外な話に 「へえっ」と驚き、「おれ
も面識はあるけど、そんな面は感じなかっ
たけどなあ」と言うと、「それはあいつが、
この人は作家やからと思って、遠慮してた
か、自分を押さえてたんと違うか」とのこと。
一応は明るく軽い雰囲気だけれど、良く言
えば「坊ちゃん」、悪く言えば「世間知らず」
の面を持つ男にありがちな、常に自分が
中心になりたがる人間だということだった。
だから、チームで進める番組の仕事など、
レギュラー出演者として周囲との接触頻度
が高まるにつれ、遠慮や気遣いが消えて
「地」が出てくる。それが仕事の減っていっ
た一因ではないかという推測なのだった。

別の角度から言えば、周囲がわがままは
承知の上で出演して欲しいと思うほどには、
腕やキャラクターが図抜けてはいなかった
ということだろう。いま思えば、軽さは調子
の良さでもあって、表面的な対応には卒が
なくても、じっくりと掘り下げた勉強などには
縁遠いタイプだった気もする。まあ、どこの
業界にも、そんな人間はいますけどね。


八切説は、実は「怖い」説なのだが。
先般のネットニュースによると、名古屋市が
6月に「都市ブランド・イメージ」調査を行い、
市の関係者が 「覚悟はしてましたけど」と
いう結果が出たそうだ。東京、大阪、名古屋、
札幌、福岡、横浜、京都、神戸。この8都市
を対象としてチェックしたところ、名古屋は
「遊びや買い物に行きたい」が最下位、
「魅力に欠ける」がダントツのトップだったと
いうのだ。ただし、その結果を見た名古屋
市民からは、「自分たちにとっては住みや
すい街なんだから、それでいいじゃないか」
という、覚めた意見も出たそうだ。

それはそのとおりで、市民が「来てくれ」と
望んでいるのにこの結果だったら、ぜひとも
改善策を取らなければならないだろう。しか
し 「別に来てくれなくてもいいよ」と思ってい
るのなら、痛くもかゆくもないはずだ。そして、
三遊亭円丈師の著書によれば、名古屋の住
民たちはもともと自己完結しているところが
あり、大学も企業も揃っているから、名古屋
の文化圏、経済圏から外に出る必然性がな
いし、外から来てもらう必要もないのである
らしい。としたら調査結果は、なおさら
「それでいいじゃないか」になるのだ。

また、それに関連して思い出すのは八切
止夫の説であって、名古屋は昔から、わざ
と「隔絶」されていた土地なのだという。
その証拠に、江戸時代も御三家のひとつ
が配された一大城下町だったのに、東海道
はそこを通っていない。それどころか、三河
の国の「宮」(熱田)から伊勢の国の「桑名」
までは海路で直行させており、あの東海道
が、そもそも尾張の国にさえ入っていない。
考えてみれば不自然な話で、意図的な隔
絶説が事実らしく思えてくる。その影響が
いまも残って、上記の調査結果や感想を
招いたのなら、住民に対する徳川三百年の
潜在意識形成力は、恐ろしいものだと思う。


アメリカ総領事館のすぐ近くである。

先日、北区の大江橋近辺を歩いていて、
広告マン時代の仕事相手だった、グラフィ
ックデザイナーを思いだした。その裏手に
あるマンションにオフィスがあったからで、
そこの狭いけど明るい部屋を借りていた
のだ。一人でやっていたから、それで十分
という雰囲気。デスクと参考資料を並べた
本棚があったが、応接セットがあったか否
かは記憶していない。当時のことだから、
ポスターカラーの瓶を並べた小棚があり、
デスク上には製図板を置いていたと思う。

そのころの当方、独立に憧れていたので、
「こんな部屋で、仕事ができたらいいなあ」
と思っていた。相手は少し年長で、どんな
経歴なのかは知らないままだったが、まあ、
卒なく仕事をこなす、便利な外注先だった。
一度、広告コピーのアルバイトを持ちかけ
られたことがあるが、そのときには当方、
すでに短編やショートショートの原稿を書
いていたので、御勘弁を願っていた。

そうではなくて、広告や販促の仕事だけを
していたのなら、そんなところから小遣い
稼ぎの機会や、人脈が広がっていったか
もしれない。ただし、それらの仕事には
すでに熱意を失っていたのだから、長くは
続かなかっただろうが。なお、この人は後
年デザイナーを廃業し、喫茶店を始めたと
いう。その先は知らないが、要するに当方
も彼も、広告業界には 「見切り」をつけた
わけだ。昔も今も、その種の人間が多い
業界で、まして東京では、だろうと思う。

人参ぶらさげて、馬を走らせるのだ。

OL向けの広告や記事などで、「自分にごほ
うびを」というフレーズを見ることがある。が
んばって仕事をしたから、帰りにおいしいス
イーツをとか、一年間働いたので年末年始
は海外でとか、まあ、そんなことである。
そして当方、このフレーズには 「何ちゅう甘
ったるい表現や!」と思うが、
仕事や作業
をはかどらせるための、事前の報酬設定
という意味では、その効用は認めている。
だから、以前からその手は使ってきている。

もっかも設定しており、予定枚数360枚プラ
スアルファの伝記原稿、現在280枚まで来
ていて、あと30枚ほどで第四章が終わる。
「そしたら、買い置きの特撮映画DVDを見て
もよい」であり、そのあと第五章を60枚ほど
書けば終了だから、「そのときには、まる一
日フリーにして、JRでぶらっとどこかへ出か
けてもよろしい」と決めているのだ。無論、
終了は完了ではなく、そうやってリラックスし
たあと、全編の再読訂正にかからなければ
ならない。それも無事に済ませたら、「その
ときには!」なのである。

そのときには、どうするというのか。実はこ
れは 「どうする」ではなく、「どうなるだろ
うな。ああか、こうか」という、完了後の展開
に対する期待的想定であって、これも作業
促進には有効なのだ。過去、「獲らぬ狸の」
に終わった例も多かったが、「天」から
予想外の「ごほうび」をもらって、飛び上が
ったことも何度かありましたからね。


◎拳拳服膺。
文芸も文章の芸だからね。

センスがないとナンセンスにならない。その
ためには、自身のセンスの蓄積が必要で
ある/「せりふ」は「競り符」であり、競り合わ
なければならない。競り合ってなかったら、
それは単なる「会話」である/アドリブは、
思いついてすぐに言うのがアドリブではない。
思いついたら記憶し、最適のTPOを考えて
練っておく。そして、それに遭遇したとき出す
と大受けするのだ/役者の基本は「ように」
とか「らしく」である。茶碗に本物の飯が入っ
てなくても、あるように見せて食べる。その
腕がなく、「リアリティを出すため」とか言って
本物を要求するのは、学芸会である云々。

これらは平成11年に死去した名喜劇俳優、
三木のり平の言葉だが、その時代すでに上
記のようなことを守らない、蓄積の努力をし
ない、俳優やコメディアンが増えていたのだ
ろう。まして現在、若手の漫才コンビだの、
お笑いタレントには、当方の基準で見れば、
学芸会にもなってない者が多い。しかし一方、
のり平氏にしろ当方にしろ、それは「芸」の
錬磨と修得を大前提にしていると言える。

けれどもその芸とは、ある意味「こってり」と
した、いまの若い客からは 「古臭いなあ!」
と言われそうなものでもある。漫才にしても
軽演劇にしても、当方はその、良い意味の
こってりさ、しつこくはないこってりさに、
「うまいなあ」と喜ぶのだが、そういう反応
や評価姿勢自体が古臭いものになっている
のなら、現在の漫才や軽演劇とは根本的に
合わないことになる。そうではなく、やはり
うまい人はその種の芸を持っているのだと
思うし、そんな人もいることは確かなのだが。


◎キャリーバッグを引いてるが何者か?

大阪弁で言うなら、「何やしらん、むかつくな」
という人間がいる。ときどき電車内で見かける
男もその一人で、当方より年長だろうと思わ
れる。しかし、その爺さんの何がむかつくのか、
見かけるたびに考えているのだが、いまだに
わからない。服は普通または割りに上等の
ものを着ているから、それが何か不快感を
与えてくるわけではない。ただし常に布製の
鞄を肩から斜めにかけており、それが洋風
の物なのに、だらんとしてズタ袋のように見え
るのが、気になると言えば気になる。

灰色に近い白髪で、これは整えておらず、
ばさばさの上からソフト帽スタイルの帽子を
かぶっている。その髪の乱れ方が見苦しい
のかもしれないが、そんなヘアスタイルの
男はいくらでもいるから、老人がそんな髪
だというのが、貧相に見えて当方の神経に
刺さるのだろうか。また、「何やしらん、むか
つく」理由のひとつとして、こちらが子供の
頃なり若い時代なりに、似た顔をした嫌な
やつがいたという可能性も考えられる。
しかし、思い出す該当者はいない。

眼の下がたるんで隈になっているが、それ
は歳だから仕方がない。唇が分厚く、特に
下唇は下へとまくれて濡れており、それが
原因ではないかとも思うのだが、それでは
なぜそんな下唇だったらむかつくのか、
思い当たる節はない。もっかのところ、それ
らの全体が「何やしらん、むかつく」としか、
言いようがないのである。無論、第三者が
当方を見てそう思う可能性もあるから、
極力、目立たぬ恰好で動いているのだが。


せめて、何か取りどころでもないとね。

先日、ナチスドイツのミサイル「V2号」の開
発物語、といった内容の本を読んだのだが、
ネタ元の大半が、開発責任者の一人だった
ワルター・ドルンベルガーの戦後の著書、
「宇宙空間をめざして」(岩波書店)であるこ
とがまるわかりで、興醒めした。著者(日本
人)が作家なのか軍事専門家なのか、その
本に何も表記されてないのでわからないが、
ドルンベルガーの本に出てくるエピソードを
次から次へと使っており、なのに巻末には
原典も参考書籍も明記されていない。

「まるで、安物ライターのやっつけ仕事みた
いな本だな」と、憮然としていたのだ。ただ
し、ひとつだけ 「おっ」と思った点があり、
それは構成に関してである。プロローグで、
V2号の原型であるA4ロケットの、初の発
射実験成功シーンが紹介される。そして本
編では時間が過去に飛んで、第一次大戦
後の彼らのロケット開発の経緯が、一から
語られていく。それはまあ、よくある構成な
のだが、その記述が何章か進んでいく。

そして、いよいよV2号が実用化され、イギ
リスに向けて発射される段階に達したとき、
章が変わって、その情報をイギリスがどう
把握していたかの説明になる。流れが一瞬
で切り替わり、反対側からの視点でV2号
を語る部分に入ったわけで、インサートカッ
トならぬ、有効なインサート章という感があ
った。憮然とした本だから書名と著者名は
書かずにおくが、「この手は使えるな」と、
そこは収穫だったのである。


8月
◎もちろん来年モノに元号は入ってない。

文具店やスーパーの文具売り場に、もう来年
のカレンダーが出ている。大阪弁で言えば
「せわしない」話だが、そこからの連想で記憶
を探ってみた。それによると、子供の頃から
大学卒業まで、カレンダーは家にある物を見
ていただけで、自分で買って、自分用に使っ
たことはない。受験生時代、勉強の予定を立
てるときにも、何月何日までにこの問題集を
などと、日付まで区切ったスケジュールは組
んでなかったから、月単位のそれを、適当な
紙に一覧表にでもしていたのだろう。

サラリーマンになってからは、机に日めくり
式のデスクカレンダーを置いていたが、これ
は会社から支給されたものだった。どんな
具合に使ったのか覚えてないから、あまり
活用はしなかったのかもしれない。だから、
自分でカレンダーを買ってスケジュール管
理をしだしたのは、作家になってからで、
シンプルな白地のやつを使ってきた。写真
も何も入っておらず、各月の一枚が一日
ずつ小枠に区切られていて、そこに予定を
書き込んでいくスタイル。それに加えて
デスクカレンダーも買い、三カ月先とか
半年先とかの行事や予定は、とりあえず
そちらに、予告的に書いておくことにした。

仮に忘れてしまっていても、毎日めくってい
るうち、「今月末ナニナニあり」などと、一週
間ほど前の日付部分に出てくるので、壁の
カレンダーに記入し忘れていても大丈夫な
のだ。そんなわけで、年末にカレンダーを
複数もらっても、使ったことがない。自宅の
それは家人の趣味で選択されているから、
友人知人に進呈したこともある。とはいえ、
死蔵したままという例の方が多く、各家庭
やオフィスで、どれだけのカレンダーがそう
なっているのかと思ったりする。まして、
いまやスケジュール管理はスマホでという
人が大半だろうから、紙のカレンダーは無
用の長物化が進んでいるのかもしれない。


◎電池と言っても、いろいろありまして。
以前使っていたデジカメは、単4のアルカリ
電池2本を電源にしていた。だから旅行に
持って行って、あちこち撮りまくって消耗し
ても、コンビニやスーパーで電池を買えば
それでよかった。だが現在使っているやつ
は専用のリチウム電池で、消耗したら充電
しなければならない。出先で撮影中そうな
ったら困るから、大量に撮るとるときには、
常にフル充電して出かけてきた。

無論、専用電池をもう一個買ってそれも
充電していけば安心なのだが、カメラ本体
にカチッとはめこむ、その接続部の形状が
特殊で、そこらの店では同じ電池が見あ
たらない。ネットでチェックしても、カメラの
型番が古いのか、発見できなくなっている。
「まあ、そのうち見つけたときに」と思って
いたのである。すると先日、スーパーの関
連コーナーを見ていたら、USBチャージャ
ーという物が売られていた。小さな直方体
のボックスに単3アルカリ電池を2本入れ、
USB充電ケーブルで機器とつなげば、
それでチャージできるという。

充電ケーブルはデジカメに付属品として
ついており、いつもそれで充電しているの
だから、あらためて買う必要もない。「何と。
これと充電ケーブルをバッグに入れて出か
ければ、電池は自由に買えるんだから、
消耗問題は全面解決するではないか!」 
ボックス自体は普段は空箱だし、充電ケ
ーブルも短くてごく軽いから、持って行くの
に何の支障もない。これは便利だと、即
買っていたのだ。「こんなに安くて簡単な
解決法があったなんて。やっぱり常々、
商品チェックはするもんだなあ」なのだ。


◎まったく「枯れ」だしてませんな。
先日、人と会って軽く飲み、「一杯機嫌」と
いう感じで、帰りの電車に乗った。発車
まで少し時間があり、座った席のとなりは
空いていた。そして当方、もっか書いてい
る原稿の資料写真コピーをバッグから出し、
顔をうつむけて見だしていた。そしたら
そこへ女性がやってきて、空いている横
の席に座った。こちらは下を向いているか
ら、視野にワンピースの下部と靴が入り、
それは若い女性のものだと思われた。

そこで、男の常プラス一杯機嫌によって、
視線をあげてちらっとその顔を見たところ、
若いのはワンピースや靴だけで、本人は
30代後半から40代という雰囲気だった。
当方、「何じゃい。おばはんか」と思ってい
たのだが、そこでよく考えてみると (よく
考えなくてもだが)、こっちはその「おば
はん」より、30歳以上は年上なのである。

世間一般の基準で言えば、高齢者が
自分より格段に若い女性を、おばはんと
いう「年長者」的な呼称で規定していた
わけで、内心、思わず「ぶふっ」と笑って
いたのだった。「いまのおれの思いは、
主観的には何歳の男のものだったのか」
そう考えると、なおさらおかしくなってきて、
写真コピーを眺めつつ、にやにや笑いを
つづけていたのだ。当方の一杯機嫌には、
こういう 「アホげな」傾向があるのだが、
男なら誰でもですかね。


◎適宜、勉強もしてるのでございます。
『当方の感得した全体像として、定住せず、
資産を持たず、過去をフェイドアウトさせ、
未来を思わず、ひたすら時間と空間内を、
「現在」にこだわって漂流している民族と
いう雰囲気。定住する他民族のなかでの
異民族であり、当然差別や警戒もされるが、
彼ら自身も相手たちを確然と区別している。
そうやって、現代 (書籍では1930年代〜
第二次大戦期)のなかで、中世的な馬車
による集団移動生活をしているのである。

以下その特性断片〜(中略)〜概略以上
であるが、三角寛的な虚構の「サンカ」を
連想させ、王朝時代から中世の「傀儡師」
集団的でもある。傀儡師集団は、常に移
動し、夜は酒を飲んで唄い踊り云々だっ
たとのこと。何にせよ、「定住巨大集団の
なかの、非定住少数集団」という括りで
見れば、生活や対応や掟などが似てくる
のかもしれない。「煮え詰まって」くれば
似てくるということか。異世界小説に応用
するなら、再読して一般化すればよい』

以上は、ずっと以前に読んだ 「ジプシー」
(ヤン・ヨアーズ。早川文庫)を、先般再読
した読後メモの一部であり、「応用」すると
きのために、頭に残った特性を列記して
おいたのだ。だから上記で(中略)とした
部分が、原稿用紙で7枚分ほどある。
ひとつだけ紹介しておけば、女は一時滞
在地で占いをしたりする。客に対する
深層心理の操縦的な対応であり、内心
では小馬鹿にして笑っている。そして、
ちょっとしたトリックを使ったりもする。
客から赤ん坊が男か女かと聞かれ、仮に
男とこたえたとき、手控えの帳面には依
頼者名や日付とともに、女と書いておく。
生まれてから客が文句を言ってきたら、
それを見せて煙に巻くのだそうだ(笑)。


◎菅笠様。メール拝見。
そいうことは、確かにあったと思います。
作家になってからですが、たまたま入った
小料理屋で、出版社の社員と某県教師が
その談合をしているのを、聞きましたから。
まあ、要するに「商売」なんですね。

◎思わず声に出して言うこともある。
何年か前、ホームセンターでアロエの鉢植
えを買った。毎日パソコンに向かって座り
つづけているから、どうしても運動不足に
なり、おのずと便秘気味にもなる。そんな
ときアロエをかじれば、効果があるという
からである。そして小ぶりの鉢を仕事場の
ベランダに置き、適当に切ったりして利用
していった。その結果、どれくらいの期間
が過ぎてのちかは覚えてないが、食べ尽
くすようなことになってしまった。そこで
それはそのままにして、もう一鉢買った。

そして同じように使いだしたら、アロエは
繁殖力が旺盛だから、その間に最初の
鉢から別の芽が複数出てきて、いつしか
元のような姿になった。それどころか鉢が
小さ過ぎるような状態にもなってきた。
だからその時点で、横長で中型のプラン
ターふたつと園芸用の土を買ってきて、
二鉢とも植え替えておいた。肥料の小袋
も買い、以後、適宜それを与えて、水を
やるようになったのだ。そしたら、どうな
ったか。現在、中型プランターでも、小さ
過ぎるような状態になっている。

こっちのアロエをかじっていく間に、あっ
ちのアロエが繁殖する。食べ尽くしかけた
やつをそのままにしておいて、繁殖した方
を使っていけば、その間に放置しておいた
やつが復活再生する。その交互利用で、
いまや無限供給状態になっているのだ。
ただし、いくらでも増えるのをいいことに、
アロエを長めに切ってかじると、効き過ぎ
て下痢をする。内心、 「おまえはアホやろ」
「はい。自分でもそう思います」などと言い
ながら、パソコンから離れるのだ。


◎参考書の記憶をたどる・その2。
前回の続きであるが、高校に入ってから、
普段の勉強のために参考書を買ったの
かどうか、それも記憶にない。もちろん
学校の指示で買わされたものは別だが、
それにしたところで、果たしてそんな参
考書があったのか否かも覚えていない。
いま思うに、当方よっぽど勉強が嫌いだ
ったのだろう。いや。「だろう」ではなく、
まさしく 「嫌いだった」のだ。

それが大学受験の勉強を始めてからは、
赤尾の「豆単」 (ポケットサイズの英単
語集)を初めとして、各科目の参考書や
問題集を、やたらに買っていたように覚
えている。不安にかられ、焦っていて、
ついつい買ってしまっていたのだろう。
だから、買ったけど活用できなかったも
のも多かったはずで、書名などは全然
記憶にない。頭に残っているのは、各
科目の要点だけを列記した新書版の
シリーズを何冊か使ったことと、豆単だ
けではなく、「単総」と呼ばれていた大
型の英単語集も買ったことくらいだ。

旺文社、学研、受験研究社、駸々堂と、
出版社名は覚えているのだが、表紙も
何も、全然うかんでこない。一方、
参考書と言っていいのかどうかはわか
らないが、大学卒業後の広告マン時代
には、かなりの解説書や専門書を買っ
て読んだ。作家になって以降なら、広い
意味では、どんな本も「参考書」だと言
える。別にキザなことを言っているわけ
ではなく、本当にそうなのである。


◎参考書の記憶をたどる・その1。
電車のなかで、塾の夏季講座を受けてる
らしい中学生が、参考書を読んでいた。
それで思い出してみれば、当方が参考書
や問題集を買ったのは、中学3年の高校
受験期が最初だった。小学校時代はもち
ろん、中学生になってからもまともに勉強
してなかったし、参考書らしきものは学習
雑誌の付録で十分だったのかもしれない。
そして高校受験のとき、まず何とかしなけ
ればならかったのは英語だった。英語の
キザな若造教師が嫌いで嫌いで、それが
1年から3年まで、毎年クラス替えがあっ
たにもかかわらず、ずっと担任でもあった。

その結果、英語は入門段階で落ちこぼれ
になり、本当に一からやりなおさなければ
ならなかったのだ。そこで、当時学研から
「プログラム学習」という方式で全10冊の
ドリルが出ていたので、親に頼んで買って
もらった。その成果たるや大変なもので、
それまで英語の試験は常に19点とか23
点とかだったのが、二学期初めに50点代
になり、学期末には89点だかになった。
これは、こちらの理解力が優れていたから
ではなく、まったく100パーセント、
「馬鹿でもできる」「どんどんおもしろく
なる」プログラム学習のたまものである。

だから当方、全10冊のラストは総集編だっ
たので、大学受験のときその1冊だけを
再度買って、中学英語のおさらいから始め
ていたくらいなのだ。それ以外の科目に
ついては、どんな参考書や問題集を買って
いたのか。あれこれ買ったはずなのだが、
具体的な記憶はまったくない。上記の英語
ほど 「劇的ビフォー・アフター」にはならな
かったからか。それとも参考書というものが、
その特性上「おもしろくない」ものだったか
らか。( この続きは次回といたします)


◎10円機はさすがに売り切れが多い。
缶コーヒー50円、烏龍茶30円など、安値で
売っている自動販売機がある。大阪市福島区
には、福島名物と称して10円均一自販機も
あり、ただし「何が出るかはお楽しみ」で、
商品が見えないから選択はできない。その
前を通りかかるとき、運試しにと思って何度
か買ってみたことがあり、緑茶の缶が出て
きたり、ミネラルウォーター500ミリリッ
トルのペットボトルが出てきたりした。

で、それはともかく、安いのは消費期限が
近くなっているからで、メーカーや販売会社
が格安で卸すのだそうだ。だから飲料類に
限らず、菓子や食品なども、ときどきドラッグ
ストアやスーパーで、同じような商品を
売っていたりする。期限間近と言っても2週
間先とか1カ月先だから、すぐ利用する者
にとっては何の支障もないのである。

そこで元広告マン、販促プランナーとして、
そういう商品専門の店につける、MAGICA
という店名を思いついた。消費期限間近の
間近であり、「こんな値段て、マジか!」の
マジかである。そしてまた、イタリア語で
「魔法の」という意味のMAGICAであって、
流通の魔法を表してもいる。いい店名だと
思うのだが、そんな専門店が成り立つか
どうか、それは業界事情を知らないから
見当がつかないのである。


◎第一8時間など、トイレが持たん(笑)。
就寝時はクーラーも扇風機もつけず、窓を
少し開けているだけだから、連日の猛暑
朝5時半頃には目覚めてしまう。そこで、
自宅にいるときには扇風機をつけ、ラジオ
を聞きながら再仮眠する。朝食は娘の出
勤に合わせて7時過ぎだから、それまで
1時間ほどは眠れるのだ。仕事場に泊ま
った朝も同じ頃に目覚め、この場合は一
度起きて、ネットで情報チェックをする。
そのあと寝ころんでラジオを聞くこともあり、
本を読むこともあるが、これもまた、いつ
しか1時間ほど再仮眠していたりする。

仕事場での昼食後は、短い昼寝を取る
のが長年の習慣になっており、20分から
30分ほど仮眠する。ただし疲れていると
きには、1時間以上になったりもする。
夕食後、自宅では寝ころんで本を読むの
だが、これはずっと読んでいたいのに、
途中で寝てしまうことも間々ある。ただし
そのまま朝までではなく、12時過ぎとか
にふっと目覚めるので、そのとき消灯する
のである。仕事場に泊まるときも同様で、
寝ころんで本を読んでいると、大抵途中
で1時間弱寝てしまっている。

9時過ぎなど早めに目覚めたら、もう一度
パソコンに向かい、昼間書いた原稿の
再読訂正をしたりするのだ。そして、以上
を概観すると、とにかく小刻みに睡眠を
補っていることになり、それで一日の必要
睡眠量を確保しているのだろう。もっかの
早朝覚醒は猛暑ゆえだが、根本傾向とし
ては、若い時代のように一気に8時間とか
は、眠れなくなっているからだ。「寝るにも
体力がいる」というのは、本当ですな。


◎実行させる者、させられる者がいる。

中近東をはじめ、アジアの回教国でも、あい
かわず「イスラム国」関係らしい自爆テロが
断続的に起きている。男ばかりか女子供も
その実行者になり、一家で自爆した例も
あるという。西欧世界の常識では考えられ
ないことだが、彼らにとっては、それが神の
意思に添うことになるのだろう。しかしこの
自爆テロ、「テロ」と規定しているのは被害
を受ける側であって、加害側は正義の戦争
における「攻撃」だと考えているだろう。

としたらそれは、「大義のための捨身」と
いう意味において、太平洋戦争における
日本の特攻隊と同種のものなのだろうか。
それとも、まったく異質のものなのだろうか。
無論、前者の大義は神や宗教の世界にお
けるものであり、後者のそれは皇国史観を
バックにした軍国社会におけるものである。
皇国史観も一種の宗教と言えるかもしれな
いが、言わば「疑似」宗教であって、天皇も
神道も本来はそれとは別の物である。また、
もちろん特攻隊に女子供は参加させられて
おらず、若い男性のみである。

ただしその隊員は、志願に寄って選ばれて
いたことになっていて、それが事実であった
例も確かにあったようだ。しかし同時に、
「志願しろ」と命令されて志願者として扱わ
れた例や、最初からその要員として部隊を
編成され、もろに命令されていた例もあった。
幸い終戦になって出撃せずにすんだ者が
多かったわけだが、人数から言えば後者
二例によるものの方が多数であったことは、
種々の回想談や記録で点検できるという。

前途ある青年たちに死を強制した、その
命令者や責任者が戦後も生き残り、知らぬ
顔をしていた事実は、陸海軍ともに少なか
らずある。これも、その回想談や記録が残
っている。そういったことは、イスラム国に
おいても同じなのか、違うのか。何にせよ、
どちらも恐ろしい話であり、同種なのか
異質なのか、浅薄な結論など出せるはず
がないとも思わされるのであるが。


◎「
金鳥の夏、日本の夏」も今年は。

8月3日の産経新聞サイトに、猛暑で蚊の
活動が鈍くなっているという記事が載って
いた。だからKINCHOもアースも、去年
に比べて殺虫剤の売り上げが減っているそ
うだ。蚊は気温が25度から30度だと活
発に動くが、それ以上になると飛びまわる
ことが少なくなるという。30度以上の日が
つづくと、普通は10日ほどの寿命が短く
なり、死亡率が高くなるとも書いてある。

「人間と同様、蚊も猛暑でへたばる」との
ことで、当方、「ああ。やっぱりか!」と、
膝を叩く気持ちになっていた。というのが
この夏、蚊に刺されたのは、樹木や草む
らの多い公園内を歩いていたときだけで、
自宅でも仕事場でも、まだ一度も刺され
ていない。夜、窓を開けて寝ていても何と
もないから、せっかく買ったスプレー式の
殺虫剤にも出番がないのである。

定期的に墓参りに行っており、アレルギー
症の当方、夏場には虫除けスプレーと抗
ヒスタミン軟膏を持っていくのだが、この夏
にはそこでも刺されていない。墓地と言え
ば数多い墓の花生けに水がたまって、
ボウフラの浮沈場所と決まっているような
ものだが、今年はその花生けも干からび
て、蚊の発生を抑えているらしい。「危険な
暑さ」も、その点では良い暑さなんですな。


◎ゲルは、ゾルとゲルのゲルだろうな。
机の引き出しのなかに、ボールペンが何
本も入っている。万年筆型のちゃんとした
やつもあれば、鉛筆型の使い捨て用もあ
る。前者は人からもらった物だし、後者は
何かのおまけ(?)についていた物などだ。
勝手に本数が増えて、以前には10本近
く貯まっていた。だから、いつも肩からか
けているバッグの中に1本、別のバッグに
も1本、自転車の小物入れに1本、自宅
でベッドサイドにメモ用紙とともに1本とい
う具合に、あちこちに分散配置した。
何かメモする必要が生じたとき、いつでも
どこでも可能なようにである。

一方、自分で普段買って使うボールペンは、
ゲルインクの鉛筆型で、机の上に黒と赤を
常備している。ゲルインクは滑りが良くて、
ほとんど抵抗なくすらすらと書ける。当方、
小説の構想などを立てるとき、まずは肉筆
でダーッとメモしていく。その思考速度と
一致させて書けるのが、このゲルインクの
ボールペンで、使い出したらやめられなく
なった。上記した「勝手に本数が増えた」
のは、普通のインクのボールペンを使わな
くなったからでもあるのだ。

原稿も肉筆だった若い時代、筆圧が強い
ので万年筆で連日書いていると腕が疲れ、
遂には頸肩腕症候群になってしまった。星
新一さんが、滑りがいいからと、「証券用ボ
ールペン」を使っておられると聞き、それも
試してみたのだが、当方には効果はなかっ
た。あの時代にゲルインクのボールペンが
あったら、もっと楽に書けていたなと思う。


◎こうろえん方面様。メール拝見。
「奇想天外」とは、懐かしい誌名ですね。
書籍名も懐かしい。いろいろ、お読み
いただきまして、ありがとうございます。


◎「信じようと信じまいと」の世界だ。

物事の成就や達成を常に思いつづけ、願い
つづけていると、あるとき思いがけない幸
運が訪れて、それが実現する。第三者から
は 「それは偶然だろう」と言われるような
ことが起きて、バタバタッと良い結果に至っ
たりする。願望達成法の「型」であり、それ
は当方もこれまでの人生で、何度か経験
してきているのだ。ただし、長い年月のなか
でだから、そういった幸運は当方の場合、
「たまに」起きていたということになる。

しかし、その頻度が上がればどうなるか。
「たまに」が「ときどき」になり、「ときどき」
が「よく」に変化して、それが「しきりに」
へと、接近していくと表現できるだろう。
そして、「たまに」や「ときどき」くらいなら、
それらは本当に単なる偶然の幸運かも
しれないが、「よく」から「しきりに」の域に
近づくにつれ、第三者も 「単なる偶然だ」
とは言いにくくなってくるのではないか。

まして、「しきりに」から「常に」となると、
これは必然と変わらなくなる。「願えば、人
からは偶然だろうと言われるような幸運が、
常に起きる」のだから、それは必然の法則
なのだ。だが、現実の世の中で、実際に
そんなことがあるのか。あるんですねえ。
高徳の人物が強烈な祈念力で願えば、
100パーセントは無理としても、80パー
セントくらいは「常に」と言える結果が出て
いたという、そういう世界がね。もっか、
その人物の本を書いているのだが、理屈
と常識を超えてるので大変でございます。

7月

◎7月27日(金)にメールされた方。
当ホームページのメール欄からですが、
エラー送信になっていて、送信者も内容
も不明です。念のため、お知らせまで。


◎ビル街はまるで無料のサウナだ。

二社に勤めた広告マン時代、最初の会社
と移籍した会社とでは、服装のルールに
違いがあった。前社はスーツにネクタイが
当然の定めだったので、製作の現場仕事
をしていた当方も、その姿で催事の展示
商品を詰めた重い段ボール箱を運んだり、
撮影用の照明機材を担いだりしていた。
夏場も、上着は脱いでもネクタイは外せず、
足元も靴下をはいて靴を履いているので、
首筋や足首に汗がたまって往生した。

後社は営業マンはスーツにネクタイだった
が、企画製作の人間は割りに自由で、夏
には半袖のサファリジャケットにジーンズ
とか、カジュアルシャツだけで上着なしとか、
少なくとも首筋に汗のたまることはなくなっ
た。靴下も綿の白いやつで、靴だって
いまでいうスニーカーで一向にかまわない
から、こちらの汗も軽減した。そして当方、
脱サラしてからはさらに自由になり、夏場
はポロシャツやTシャツにジーンズ、足元
は素足にサンダルという姿が多くなった。
ホテルで人と会うとか、新幹線で上京する
とか、そんなときにはさすがに靴下と靴に
なるが、近畿一円の移動くらいなら、サン
ダル履きで平気で電車に乗る。

だから真夏の午後、酷暑のなかスーツに
ネクタイで歩いているサラリーマンを見ると、
気の毒になってくる。近年の日本、特に
今年の夏は、亜熱帯もしくは熱帯と言って
いい気候なのだから、クールビズにとどま
らず、サラリーマンにもマレー、フィリピン、
インドネシア、さらにはポリネシア風の服装
を認めてやればいいのにと思うのだ。戦争
中の陸海軍だって、南方の部隊は半袖
半ズボンの略装を制定してたんだからね。


◎危険な暑さで、頭も危険領域に?

先日、「わしのドタマ」という、お笑い小説を
思いついた。
ドタマというのは、頭にドの字
をつけた、ドアタマがなまった言い方だ。ド
は強調の接頭語で、大阪弁では 「うだうだ
言うてたら、ドタマかち割るぞ」とか、「こん
なこともわからんのか。ごっついドタマして
やがって」とか、喧嘩や叱責で相手の立場
や能力を下に見て使う。だから普通、自分
の頭をドタマとは言わないのである。

しかし、「私の頭」や「ぼくの頭」というタイ
トルにすると、何か「自分の才能を自慢する
小説なのか」と思われそうで、「決してそん
なつもりはないのです」という気持ちを示し、
同時に 「これはお笑い系の小説ですよ」
という示唆もしておくため、「わしのドタマ」
とつけたのだ。けれども、そんな考慮もわし
のドタマがしたわけだが、その気の弱さや
ニタニタ笑いが、ドタマのどのあたりに収め
られているのかは、自分でもわからない。

で、それはともかく、その 「わしのドタマ」
の案を展開すると、これは創作法公開に
なり、自身の意識解剖になり、脳の機能紹
介になり、さらには、人間は要するに「脳」
だという視点になり、その脳は異世界との
接触交流もできるのだという話になり、
宇宙や時間のなかでの存在意味を探る
ものにも、なるのかもしれないと、見当が
ついた。そしてそれを目指すのなら、舞台
やストーリーや人物は、逆にシンプルで
理解しやすく、あほらしく、アチャラカ的な、
そんなものの方がいいかもしれない。
などと考える、わしのドタマなのだった。


◎アパート街は、いまもあると思う。

広告マン時代、1年間だけアパートに住ん
だことがあり、トイレは共用で風呂もなかっ
たから、銭湯へ行っていた。豊中の、空港
に近い場所で、町名が箕輪(みのわ)だっ
たから、銭湯も「箕輪温泉」だったと思う。
夜遅くまで残業したり、同僚と飲んで深夜
に帰ったりもしていたから、ここへ通ったの
は毎晩ではなく、二日または三日に一度
くらいだった。日曜の夕方に行くとき、家賃
の安そうな木造アパートが建ち並ぶ町内
に強い西日が差し、空港からはジェットエ
ンジンの整備稼働らしい轟音が響いてくる。

そこを夏なら綿パンに綿シャツという姿で、
石鹸をくるんだタオルだけを持って、25歳
か6歳の当方が歩いていた。安月給で、
「この先、どうなるのか」と、常に不安や焦
燥に狩られていたこともあって、「場末の
光景だなあ」とそのときも思い、いまも何と
も言えない気持ちになるのである。同じく
夏の夜、雨が降っていたので傘をさして銭
湯に行き、帰りかけると、女湯から出てき
た若い女性が、傘を持っておらず、濡れ
ながら歩き出した。OLなのかどうかはわ
からないが、近くの安アパートに入ってい
る様子だったので、「入れたげましょか」と
声をかけ、一緒に歩いたことがある。

そして数区画先で礼を言われて別れたと
いう、それだけの話であり、無論アパート
の名前や場所など聞きもしなかった。後年、
半村良氏の「新宿馬鹿物語」を読んだとき、
「あの人なら、それがきっかけで、なんて
こともできたかもしれんな」と思った。その
あたり、うまいですからね。漏れ聞いてい
た現実の生活面でも、作品面でも。当方、
まったくそういうタイプではなかったから、
「箕輪阿呆物語」は生まれなかったのだ。
以上、夏の銭湯の思い出でした。


◎まあ、坊さんは着物姿で歩いてるが。

何で読んだか忘れたが、大阪でも自由民権
運動が盛んだった明治時代前期、「いつも
角袖巡査に尾行されていた」という、民権家
の経験談があった。いまで言えば私服刑事
だが、その私服は着物だったのだ。大正11
年の3月、大阪毎日新聞社が、記者に洋服
を着せることにしたという記録がある。それ
までは着物姿で取材に走っていたことに
なり、この頃から洋服が一般化してきてい
たのだろう。しかしミナミの花月だったか、
昭和戦前の大きな寄席の客席写真では、
ほぼ全員が着物姿で写っている。

ソフト帽をかぶった男性や日本髪の女性、
鳥打ち帽をかぶった丁稚風の少年など、
「なるほど。こういう人たちが客だったのか」
と納得させられるのだ。また戦後の昭和30
年代でも、超人気テレビ番組 「番頭はんと
丁稚どん」を提供していた便秘薬会社
「七ふく」の専務は、着物に前垂れという、
まさに番頭スタイルで仕事をしていたと、
花登筐氏の 「私の裏切り裏切られ史」に
書いてある。当方が広告マンだった昭和
45年から50年頃、繊維の街「丼池」(どぶ
いけ)で、着物に下駄という姿で大きな風呂
敷包みをかたげて歩く年輩者を見かけ、
感動して立ち止まって、見送ったこともある。

しかし現在、女性は別として、男性の着物姿
を見かけることは皆無に近い。たまに地下街
や駅で見ることがあるが、それは踊りか長唄
か、明らかに芸事の師匠だとわかる人くらい
である。落語家など、ジーンズ姿で、衣装は
キャリーケースに入れてひっぱっている。
逆に外国人観光客が男女とも、着付けサー
ビスで着物姿になって喜んでいるようだが、
日常の衣服としては、とうに過去のものなの
だ。今週は天神祭があり、そのときには
若い男女の浴衣姿が目立つのだけれど。


◎中国も内心あきれてると思うがねえ。

先日、ネットの新聞社サイトに、「金正恩氏
激怒」という記事が載っていた。発電所の
建設現場を視察したところ、堤防が着工
から17年たっても完成していなかった。鞄
工場へ行くと 「陳列室がみすぼらしく放置
されて」おり、温泉保養施設では 「湿って
不快な臭いが」して、浴槽は「魚の水槽に
も劣る」貧弱さだったという。「意を決して
直接来てみたが、言葉が出ない」と、「心
から激怒」したのだそうだ。読んだ当方、
「よく言うよなあ」とあきれ、「これでまた、
関係者が処刑されたり収容所へ送られた
りするんだろうな」と、気の毒になっていた。

なぜなら、そんな事態になったのは社会や
経済が根底から破綻しているからで、建設
機械がない、建設資材が足りない。道路は
ガタガタで、鉄道も老朽化で輸送力が低下
しており、電力だって不足している。第一、
食う物すら満足には配給されてない。もっ
かの制裁以前から、国全体がすっからかん
になっているのだ。おまけに縦割り組織は
硬直化し、人々は責任追及を恐れて、ひた
すらその場をごまかすだけらしいから、それ
で成果が上がったら、これひとつの不思議。
そして誰がそこまで破綻させたかといえば、
金日成であり金正日であり、三代目を継い
だ自分自身なのである。

そこで思うに、日本でもこのパターンはあっ
て、ワンマン社長やそのあとを継いだ馬鹿
息子、保身第一の狡猾な上司、無理難題
を押しつけてくる発注者、などという連中が
似たことをやっている。「おまえは言うだけ
やから、なんぼでも立派なことは言える
わい!」であって、自分の無能や失敗の
責任を弱者に転化するという、その実例は
当方、直接間接に山ほど知っている。しか
し日本と北朝鮮が違うのは、こちらでは、
そんな環境から逃げようと思えば逃げられ
るし、クビや左遷を覚悟の上でなら、ケツ
をまくって直言もできる。あちらは組織から
も社会からも逃げられないし、直言したら
殺される可能性が大なのである。

となると疑問がふたつ浮かび、ひとつは金
正恩は国全体の現状を実は知らんのか、
それとも知ってて好き勝手なことを言って
るのかというもの。もうひとつは、そんな
指導者や国家と、なぜ韓国が融和したがっ
ているのかというものだ。将来統一でもした
ら、「ここまでひどいとは思わなかった!」
になることは、わかりきっていると思うのだ
が、何をそんなに憧れてるんですかねえ。


◎もちろん蝶々、蛾、蚊も多かった。

小学生時代、夏には普通の住宅街にも、
昆虫はいくらでもいた。カナブンなど、それ
こそぶんぶん飛んでいたし、ちょっとした
草むらにはバッタやカマキリがあちこちに
いた。体長10センチ以上で、胴の太さが
1センチ以上ある大きなバッタを見つけて、
驚いたこともある。樹木にはカブトムシ、
カミキリムシ、クワガタなどが取り付いて
おり、蝉の抜け殻もよく眼に付いた。ツノ
を立てた牡のカブトムシをつかまえ、その
ツノに糸を結びつけて、グリコのおまけの
自動車を引かせたりもしたっけな。

トンボではオニヤンマだかギンヤンマだか、
大きなやつをつかまえたら指先をかまれ、
それが意外に強い噛み方で痛かったので、
これもまた驚いていた。シオカラトンボなど、
つかまえようとも思わないほど、多く飛んで
いたように覚えている。昭和30年代の前
半で高度成長期以前だから、低学年期に
住んでいた新潟、高学年期にいた豊中にも、
「自然」は豊富に残っていたのだ。ずっと後
年、作家になってから、たまたま通りかか
った住宅街で、脱皮しかけている蝉が木
から落ちているを見つけ、そっとつまんで、
家まで持って帰ったことがある。

そして室内の観葉植物にとまらせておいた
ところ、みごとに脱皮したのであるが、その
直後の蝉というのは、色といい柔らかさと
いい、まるで握り寿司の海老みたいだと
知り、これは驚くよりは感動していた。一瞬、
「わさび醤油で食べたらうまいかな」と思っ
たのだが、そんなかわいそうなことはせず、
翌日だったか、海老が蝉になったので放し
てやったのである。仕事場の近くに大きな
公園があり、数多い木々は蝉の抜け殻
だらけである。周辺の複数の保育所から
幼児たちがやってきて、それを集めたり
しているので、連鎖的に思い出しまして。


◎天孫降臨は宇宙人の来着だとか?

異説、怪説、珍説、妄説。日本の歴史にも
そんなのが山ほどあって、キリストは遠路
はるばる日本まで来て戸来村で亡くなり、
聖徳太子は架空の人物で、鎮西八郎
為朝は八丈島から琉球に渡って、その
子孫が琉球王朝を立てたという。源義経
は蝦夷からシベリア経由、モンゴルに行っ
てジンギスカンとなり、百地三太夫と藤林
長門守は同一人物なのだった。上杉謙信
は女であり、明智光秀は天海僧正となり、
徳川家康は願人坊主が化けた偽者だった。
天一坊は本当に吉宗の子だったし、大塩
平八郎は何とロンドンに逃れたという。

幕末から明治となると、皇女和宮は江戸
へ下る途中で入れ替わったし、孝明天皇
は岩倉具視に毒殺されたし、明治天皇も
別人によるすり替わりであって、西郷隆盛
は城山で死なずロシアに逃れたのだ。
そこで思うに、これらがすべて事実だった
としたら、それらを排除し、押さえ込み、
一笑に付して構築してきた、公式・正統・
正調の日本史そのものが、虚構の説と
いうことになる。誰が構築したかというと、
そのときどきの勝者、権力者、お上、政
府であり、自己の立場の正当化のために
大変なエネルギーを費やしたわけだ。

そして一方、異説怪説珍説妄説をその
まま組み込んだ日本史を構成すると、
そこにはしぶとく、したたかで、文字通り
「殺しても死なん」人間がぞろぞろ登場
するという、猥雑にしてエネルギッシュな
民族史が現れてくることになる。世界各
国の歴史でもそれをやったら、有史以来
の地球が一大ドタバタ惑星になる。学校
で教える歴史としては、そっちの方が
おもしろかろうと思うのだが、教える方も
習う方もくたびれ果てるかもしれない。
ついでに書けば、幕末から明治維新、
戊辰戦争から西南戦争に至る公式史は、
薩摩と長州の勝ち組連中が自分たちに
都合良く作らせた、なかば虚構の歴史
なのだという説もある。それについては、
どうもそうらしいなあと、当方も思う。


◎菅笠様。メール拝見。
いやあ。ごっついジョッキがありますから
ねえ。しかも当方、いまや大瓶もようよう
で、普段はレギュラー缶ですし(笑)。


◎7名執行はやはり驚きだったのか。

先日、半村良さんの夢を見た。御自身の
広告マン時代を思い出してなのか、新製
品の特性を語っている夢で、業務用の
大型コピー機に関するものである。そして
その内容には、いかにも夢らしく込み入っ
た理屈が含まれていた。例として半村さん
は古典の和歌をいくつかあげ、そのなか
のひとつには、「奥の意味があるんだよ」
と言う。そこで、その表面上は隠された
奥の意味もコピー機に読み取らせる。
そしてその新製品は、メモリー部分に深い
意味を隠して貯えておけるのだという。
「イラストや写真でも、ニュアンスを読み
取って、貯えておけるのよ」とのこと。

すると、以後は文書でも画像でも普通に
コピーをしていけば、それらのコピーにも、
貯えられた深い意味やニュアンスが反映
されるので、他社のコピー機よりリアルで
質感の良いコピーが取れるというのだ。
しかし起きてから考えてみるに、当方ここ
しばらく半村さんの本は読み返してないし、
思い出してもいなかった。また、もっか書
いている原稿とも何ら関係はない。だから
「出所不明の夢だな」と思っていたのだが、
ひとつだけ可能性を思いついた。オウム
真理教の教祖が死刑を執行されたので、
自分は潜在意識で長編 「岬一郎の抵抗」
を思い出していたのではなかろうか。

というのが、あの教祖が上九一色村で
逮捕されて都内に護送されたとき、テレビ
カメラがずっとその移動を空撮で追って
いた。当方その生中継を見たとき、「岬
一郎の抵抗」のラストシーンだったか、
護送車で都内を「ひきまわし」にされる
シーンを思い出し、「この生中継は、あれ
と同じだな」と思っていた。それを先日の
睡眠中、潜在意識が想起していたのか
もしれんなと思っていたのだ。ただし、
業務用コピー機との関連は不明だが。


◎しかし、もう大ジョッキは飲めんなあ。

若い時代のある年、秋になってから、何か
胃が痛いような感じのつづいたことがある。
そこで医者へ行ってそのことを告げたら、
「夏の間、ビールを飲み過ぎたのと違います
か」と言われた。夏場に胃を冷やしていると、
秋になってからその報い(?)が出てくると
いうのだ。作家になってから、そう無茶にビ
ールを飲んだことはないはずだから、これは
広告マン時代の経験だったのだろう。企画
部や制作部のプランナーとかデザイナーとか、
気のあった連中とビアガーデンへもよく行き、
気楽な話をしながら飲んでいたのだ。

妙に覚えているのは、「大阪支社のメンバー
で内閣をつくるとしたら、総理大臣は誰が適
任か」という仮定の話題で、あるプランナーが
某営業マンの名前をあげた。そして当方も同
じ人物を思いうかべており、それは鹿児島の
生まれ育ちで、出身大学も鹿児島大学という
係長だった。大柄で頭も大きく赤ら顔。西郷
隆盛とまではいかないが、まあ、「ボッケモン
というのはこういう男を言うのか」と思わせる
タイプだった。仕事上の問題や人間関係を、
大きく把握する能力があったようで、それで
総理大臣候補の一人になったのだと思う。

ただし後年、彼が東京本社で部長になった
と聞いた覚えはあるが、その先は知らない。
何にせよ、ビアガーデンというとこの話を思い
出すのだ。大阪の堂島、サントリー本社ビル
の屋上では、いまも毎年、夏になるとビアガ
ーデンが開かれている。若いサラリーマン
諸君も同じような話題で盛り上がっている
のか、それともI Tの話でもしているのか。
一度その横のテーブルに座って、さりげなく
飲みながら、聞いてみたいと思ったりする。


◎洗脳説で片づけられれば簡単だが。

先日、オウム真理教の教祖以下、元幹部
6名の死刑が執行された。一日に7人も処
刑するというのは恐ろしい話だが、同事件
の死刑囚はあとまだ6人残っており、合計
13人を散発的に処刑していくのも、逆に
残酷感を高めるような感じがする。といって、
そんなことはありえんだろうが、もし新天皇
即位の恩赦で無期懲役に減刑でもしたら、
多数の被害者だけではなく国民が納得し
ないだろう。死刑制度の是否論も難しい
問題だが、オウム真理教事件の場合は、
それがさらに難しくなってくるのだ。

で、それはともかく、彼らが起こした一連の
事件については、「つまり何だったんだ?」
という点において、当方いまだに見当が
ついていない。地下鉄サリン事件直後から、
週刊誌の臨時特集号が出て、新聞社の
緊急出版本が出て、評論家や宗教学者の
書籍が出た。当方、それらを次から次へと
読んでいったのであるが、その原動力は
「つまり何なのだ?」という疑問に対する、
明確な答を得たいという思いだった。

たとえば反体制・反国家・武装蜂起といっ
た面について、往年の全共闘や左翼過激
派の主張なら、何を根拠に、どう現実を
把握し、いかにそれを打破すべきだと言っ
ているのか、少なくともその理解はできる。
それらは根本面で間違っていると思うが、
だから賛成はしないが、とりあえずその
主張の読解はできるのだ。ところがオウム
真理教事件については、ヤクザがからみ
政治家がからみ、ロシアがからみ北朝鮮も
からむと言われ、ボアがどうのコスモクリー
ナーがこうのと、問題が複雑と言えば複雑、
無秩序な拡散と言えば拡散状態になって
いたから、本質や核心がつかみにくい。

「実は本質も核心も何もない、あの教祖の
自我肥大による、妄想世界の膨張と混乱と
破綻なのか」とも思うが、とすると、それに
追随した医師や科学者たちの、思考・認識
・判断レベルは、いったいどんなものだった
のかと、さらに疑問が増えていく。上記の
週刊誌や書籍は段ボール箱に詰め込んで
あるので、ひさしぶりに読み返してみようと
思っているけれど、「さあて。それで膝が
叩けるかなあ」なのである。


◎サッカーのニュースから思い出した。

高校のとき、体育の教師たちは職員室では
なく、別の部屋に机を置いていた。体育館
のそばだから、授業の利便をはかっての
ことかもしれないが、本人たちは何か、格下
扱いをされているように感じていたかもしれ
ない。で、こちらがその部屋の前を通るとき、
窓やドアが開いていたら内部が見えるのだ
が、ある年輩の体育教師が、よく魚獲りの
網をいじっていた。ちらっと見えただけの
記憶によれば、机の上に目の細かい網を
広げ、その底辺部分には小さな鉛の錘が
たくさんついていた。その錘をつけ替えてい
たのか、網の破れを補修していたのか。

そして小柄で赤黒い顔をしていたその教師
は、口数が少なく、授業でもどなったりはし
ない人物だった。グラウンドで2クラスがサッ
カーをやっていたとき、ちょっとしたトラブル
で、こちらのクラスの生徒があちらのクラスの
担当教師と口論になったことがあった。その
教師は、いかにも体育教師的な粗暴さを見
せる若い男だったが、そのときにもこちらの
担当だった上記の教師は、相手がぐっと年下
なのに、何も口をはさまず黙っていたのだ。

しかし一方、噂によれば彼は酒癖が悪いそう
で、梅田で酔っぱらってふらふら歩きながら
クダを巻いている姿を、目撃した生徒が複数
いた。なかには、一緒に飲もうと強要され、
逃げた生徒もいたという。だから当方、「おと
なしい教師が、何かの事情で網の補修の
内職でもしており、あれやこれやの鬱屈を
酒で晴らしているのかな」と、いま思えば
実に通俗的な想像をしていた。伊丹市か
尼崎市か、武庫川の近くに住んでいると
聞いた覚えがあるから、単に趣味の川魚
獲りの網を、補修していただけなのだろうが。


◎店、炊事当番、交通整理の夏だった。

大学時代、所属していた広告研究会では
毎年の夏、「広告の実践研究」を旗印に、
福井県敦賀市の海水浴場で浜辺の喫茶店
を開いていた。7月15日の海開きから一カ
月間の営業で、その前後には準備や撤収
の期間もある。その「サマーストア」に、一
年のときは交替で1週間、二年で2週間、3
年のときには全期間参加する規則になって
おり、近くのお寺で合宿生活をしていた。

自炊の食費やお寺への謝礼が必要だから、
合宿費を払わなければならず、一年二年の
ときには、7月1日からの夏休みに入るや、
一カ月ほどアルバイトをして稼いでいた。
1年のとき、1週間の参加期間を終えたあと
敦賀から富山へ行き、富山地方鉄道と
関西電力のトロッコ電車に乗って、黒部へ
行った。それから富山にもどり、確か新潟発
だったと思うが、夜中の12時過ぎに富山を
出る鈍行列車に乗って、翌朝6時過ぎだった
かに大阪に帰ってきた。宿泊費の余裕が
なかったからだが、合宿費を払ったあと、
その程度の貧乏旅行なら、できるくらいの
カネは稼いでいたことになる。

しかし3年のときには、どうしていたのだろう。
オープン前に敦賀へ行き、撤収期間を終え
るまで40日余り滞在したから、その前も後も
長期のバイトはできなかったはずなのだ。
それとも、春頃から断続的にバイトをして貯め
ていたのだろうか。女子会員も同様だったが、
ずっと後年、お嬢さん育ちの会員が 「親に
出してもらってたよ」と言ったので、憮然とした
ことがある。まあ、さまざまな青春だったのだ。


◎もっか、連日そうしているのです。

肉筆で書いていた時代、白紙の原稿用紙に
向かうときのプレッシャーは、大変なものだ
た。息を詰める感じで用紙を睨み、書き出
しの文章を脳内で検討する。冒頭のセンテ
ンスだけではなく、それに続ける台詞や
センテンスも決まらなければ、書き始めても
文章が流れ出さない。いわば、1ブロックを
形成できて、初めて冒頭が書けるのだ。
よって、それがなかなか決まらないときには、
胸が悪くなり、吐きそうにもなっていた。

だから後年、ワープロを採用したときには、
書き出しプレッシャーの軽さに、「こんな結構
な機械があるか!」と歓喜していた。なぜ
そう軽くなったかというと、試しに書いて
ぴったりこなければいくらでも消せるからで、
そこから考えると肉筆時代のプレッシャーは、
「うまく進まなくて訂正や削除を重ねたら、
原稿が汚くなる」 「あまり汚くなったら清書
しなければならず、それだと二度手間だし、
用紙の無駄遣いにもなる」という、そんな
思いがあってのことだったのかもしれない。
いま考えてみれば、それなら冒頭の1ブロッ
クを、ザラ紙なり何なり、他の用紙に好きな
だけ試し書きしておけばよかったのだ。

しかしとにかく、現在使っているパソコンの
ワープロソフトも、いくらでも追加、訂正、
削除ができるから、往年と比べたらプレッシ
ャーは無いに等しい。ただしそれは、リラッ
クスして書き出せるけれども、気を弛めて
書いているということではない。やはり緊張
はしており、その感が強いときには、「これ
は下書きの、また下書きなんだから」と思っ
て始めたりする。そうやって自己暗示をかけ
つつ、放送用語で言うなら、「テスト本番」を
開始するのである。


6月
◎前世でそんなめにでも遭ったのかね。

先日、悪夢を見た。現実の仕事場ではなく、
もっと広いマンション(その一階の部屋)を
仕事場にしており、夜なのであるが、ドアの
外でどなりあう声がする。ドアをあけて見る
と、中年らしい男二人がもめており、そいつ
らはダイバーか何かであるようだった。
明神岬だか舞神岬だか、そんな名前の観光地、
ダイビングスポットをめぐるトラブルらしい。
ところがそこで気がつくと、ドアの蝶番
(ちょうつがい)がはずされており、ドア自体
もはずれている (それをどうやって開けたの
かは不明)。「何をするんや。おれはトラブル
に関係ないやないか」と言うと、二人は当方
に対して攻撃的になり、しかもその仲間
らしい男たちがどんどん集まってくる。

ヤクザではないけれど、カタギでもない雰囲
気の連中で、スーツを着ているので、たとえ
ばフロント企業の社員という雰囲気。彼らは
勝手に部屋に入ってきて、机や何かの引き
出しをあけてなかみをぶちまけたり、パソコ
ンを開いて内容を見たりする。怒って文句を
言うと、そのなかの二人がこちらにつかみ
かかり、右手の指を刃物で切ろうとするのだ
ったか、ライターで焼こうとするのだったか。
当方、恐怖感がつのり、「やめろ。やめてく
れーっ!」と叫び、もがきながら、切られる
か焼かれるかの寸前、「これは夢だから、
覚めれば逃げられるのだ」と思って、
そこで覚醒していたのだった。

時計を見たら夜中の2時過ぎで、それから
しばらく眠れず、悪夢の由来を考えていた
のだが、出所不明だった。ここしばらくの
ニュースでは、「和歌山のドンファン」なる
資産家の覚醒剤殺人、堺市の姉が弟を
偽装自殺スタイルで殺人容疑、などが頭
に残っているが、悪夢との関連はなさそう
なのだ。右手を切るだか焼くだか、これも
自分の体験記憶にある要素ではない。
深層意識に伏在している何かが変形した
のかどうか、それも判然としないのである。


◎画期的を、カキテキと読むアナもいる。
ネットでもテレビニュースを流しているので、
ときどき見ることがある。しかし、地上デジタ
ル局のネット配信ではなく、ネット内テレビ局
のそれには、耳に「ひっかかる」ものがある。
たとえば、伝達の区切りごとに語尾を上げる
女性アナウンサーがおり、地震被害の報道
や殺人事件のニュースなどでは、それと内容
とがそぐわない感じがする。「捜査本部の
発表によりますと」の「と」を上げて「とぉ」、
「容疑者は否認しているとことですが」の「が」
で、また上げて「がぁ」。「目撃者の証言に
よりましてもぉ、凶器に使われたサバイバル
ナイフはぁ」と、のべつ上げている。

そしてその上げ方は、そこらの姉ちゃんの
「ナニナニだからあ〜」的なものではなく、
ソフトと言っていいプロ的な上げ方なので、
「通販番組の商品説明か何かなら、これで
いいのかもしれないが」と思ったりする。
そこで推理するに、ネット内テレビ局では
地デジ局のように、アナウンサーを新卒採用
して一から育成などしておらず、タレントや
フリーアナウンサーと契約しているのだろう。
だから上記した女性アナも報道番組の訓練
は受けておらず、普段の非「報道」仕事で
しゃべりなれた、もしくは癖になってしまった
話法でやっているのではなかろうか。

また、製作陣も手薄で、それを矯正しないの
か、できないのか。当方、若い時代にラジオ
CMやテレビの生コマを数多く作り、作家に
なって以降、ラジオ番組も何度か経験して
きた。よって耳の敏感さは現在も保持して
いるだけに、気になるのだ。「この上げ方を
もっと臭くしたら、変に馴れてしまったバス
ガイドになるなあ」とも思ったのだが、まさか
バスガイドをひっぱってきて、ニュースを
読ませてることはなかろうしなどと。


◎「へ。またですか」と思うんですよね。

2020年に東京でオリンピックが開催され、
2025年には大阪で万国博を開こうという
計画が進んでいる。1970年の日本万国博
は空前の大盛況で、内外からの入場者数
が概算6千万人だった。そしてそれ以降、
沖縄、神戸、筑波、大阪、愛知など、各地で
あれこれの博覧会が開催されてきたのは、
どれも一応の経済波及効果を示したから
だろう。しかし70年万博ほどの大成功例が
ないのは、やはり時代が違うからだと思う。

1970年は高度成長期のまっただなかで、
日本全体が「押せ押せ」の上げ潮ムードに
なっていた。そこへ国内では初めてとなる
国際博覧会で、テーマが「人類の進歩と
調和」であり、明るい将来、輝く未来の姿を
見せてくれるというのだから、「それはまあ、
全国各地から団体客が殺到しただろうな」
と得心できるのだ。政財官以下、国をあげ
て動員策を実行したわけで、早い話がケイ
ンズの「イベントオリエンテッドポリシー」が
まるまる成功したのだ。しかし当方、これを
大学で習ったとき「お祭り資本主義」と解釈
していたのであるが、お祭りが大賑わい
するには、まず大勢の人の気持ちが賑わ
っていることが必要となるだろう。

そして70年万博のときには、まさに国民の
多数派たる「大衆」レベルで、皆、賑わいだ
していた。当方もその一人であって、広告
マンを志望したことにも、その賑わいが大き
く影響していたのである。けれども、次の
東京オリンピックは別格としても、2025年
に大阪で万博をやって、どれだけの賑わい
が生まれるだろう。上意下達の動員策で
一定以上の観客が来ることは確かだろうが、
国内の経済動向や格差社会の進行によっ
て、しらける人数も多いのではなかろうか。
おまけにその万博計画は、会場予定地に
カジノを常設する案もセットになっているら
しく、「何かどうもなあ」と思う。いまの気持ち
としては、「招待券をもらったら行くだろうが、
チケットを買ってまではなあ」なのだ。


◎疲れだしてるけど、良い状況である。

広告マン当時は、週休二日制など欧米の
話という時代だった。おまけに土曜も夕方
までとか、スタジオ撮影でもあれば夜の
十時過ぎまでとか、残業をしていた。それ
が習い性になり、作家になってからもずっ
と、休養日は日曜だけというスケジュール
でやってきた。逆に多忙なときでも、日曜
だけは休んだ。そうしないと身が持たない
からで、だからその日曜は午前も午後も
夜も、ひたすら横になって本を読んだり、
とろとろと仮眠したりする。いくらでも寝ら
れる感があって、頭も身体もよほど疲れ
ていることがわかるのだ。

そしてそんな状態で読む本は、内容や
文章について、同業者として「ついつい」
考え出さずに済むよう、そのとき書いてい
る作品とは無関係のジャンルを選ぶ。
経験上、エッセイやルポ、時代小説や歴
史小説が適しているとわかり、なかでも
司馬遼太郎さんの作品が結構だと実感
してきた。もっか長編伝記を書いており、
同様の日曜を過ごすことになって、先日
からは、もう何度目になるのか、 「坂の
上の雲」を、読み返し始めている。

これに限らず司馬さんの作品は、「翔ぶ
が如く」にせよ「龍馬がゆく」にせよ、文庫
本で八巻だ十巻だという大長編が、断続
的にとはいえいくらでも読める。「この読み
やすさや、たちまち引き込んでしまう力の
秘密は何なのだろう」 とまあ、それくらい
のことは考えつつ読んでいるのである。
ただし、それを分析しだすと大仕事になる
から、そこはするっとパスしてだが。そして
また、読んでるとその影響で、ついつい、
原稿に「余談ながら」と書きかけるのだが。


◎あいかわず地震の多い国であります。

先日 (6/18)朝8時前の地震であるが、
そのとき当方、出勤する娘と一緒に阪神の
特急に乗っていた。そしたら野田駅にかか
る直前、突然車内で「ウインウインウイン!」
という耳慣れない音響が発生した。空間全
体が鳴ってる感じで、とっさには何だかわか
らず、周囲の乗客たちもふりむいたり、天井
を見上げたりしている。そこで判明したのは、
通勤時間帯だから、「多分」ではなく「まさに
乗客全員」のスマホやガラケーが地震速報
を受信した音なのだった。珍しい経験であり、
「なるほど。同時一斉に受信すると、あんな
反響音になるわけか」と得心もしていたのだ。

しかし、電車は別に揺れもしなかったけれど、
そのあと全線で運転見合わせとなった。梅田
は次の次の駅だから無理としても、せめて
次の福島まで移動してくれたら、そこから
15分ほど歩けば仕事場に行ける。対して
停車している野田からは、30分以上かかり
そうだ。そこでしばらく待ったのであるが、
少なくとも午前中は見合わせがつづくらしか
った。「いらち」の当方、結局娘と別れて、
野田から徒歩出勤していたのである。そして
着いてみると、本棚の本が何カ所かで落下
散乱し、床に積んだそれも崩れたりしていた。

野田からの移動中、特に異変の目撃もなか
ったし、「阪神淡路大震災と比べれば、何とい
うこともないな」と思っていたのだが、震度6
だったそうで、死者や火災も発生したというの
だった。メールの往復で知ったところによると、
JRも各社私鉄もストップしたので娘は自宅
待機となり、梅田まで歩いたという。そこから
タクシーで帰るつもりが延々たる人の列で、
結局帰宅したのは午後1時過ぎだったらしい。
地震雷火事親爺。怖くなくなったのは親爺
だけという、そういう国なのですね、やはり。

◎各位様。地震お見舞いメール御礼。
ありがとうございます。無事ですので御安心を。
本棚の本が、大分落下散乱しましたが(タハッ)。

◎雨降るふるさとは裸足で歩く(山頭火)
以前から、「雨の日は心が落ち着いて気持ち
がいい」と感じることが多く、その一例として
明確に覚えているのは、鞍馬山へ行ったとき
のことだ。寺の境内に古い木造のお堂があり、
そこには縁側がついていた。屋根が張り出し
ていたのだったか、その縁側は乾いた木肌
のままで濡れてなかったので、「この雨のな
か、あそこにあぐらでもかいて座って、じっと
してたら気持ちいいだろうなあ」と、実感の
こもった思い方をしていたのだ。そして自分
がそんなことを思う根本には、子供の頃、
何かそれに類した経験があるからではない
かとも考えてきた。昔のことで、お寺だの神
社だの木造家屋だの、縁側のついた建物は
いくらもあった。小学校低学年時代、雨の日
には友達とそんな場所に座って、話をしたり
遊んだりしたことがありそうに思えるからだ。

そしたら先般、アンドルー・ワイルというアメ
リカの医師が書いた「癒す心、治る力」という
本を読んでいたところ、ハタと膝を打ちたく
なるようなことが書いてあった。効果的な
休息や安眠のためには、「ホワイトノイズ」
発生器を使うのも有効だそうで、なぜなら
「白色光に可視光線のすべての周波数が
ふくまれているように、ホワイトノイズには
異なった多くの波長の音波がふくまれて」
おり、その音には「騒音を遮断し、こころを
静める効果がある」からだという。そして
その発生器から出る音は、シャワーヘッド
から水が流れているような音が基本になっ
ていて、豪雨の音や海の波の音なども
選択できるというのだった。

自分の体験に照らし合わせて非常によくわ
かる機器であり 、そこから推測するに、雨
は「天然自然のホワイトノイズ発生装置」で、
さまざまな周波数の音が、周囲の雑音騒音
をうち消してくれているのだろう。ただし、
とすると、上記した「縁側」「子供時代」云々
は、雨の日に気持ちが落ち着く絶対条件で
はなかったことになる。とはいえ、それを
当方が感じたのはそういう場においてだっ
たという、そのことは、条件反射的な「落ち
着き」誘発要因になってきていたのだろう。
何にせよ、「雨音とノイズ遮断」の関係に
ついて、得心のいく解説を得ることができ、
「壺中の天地ならぬ、雨中の天地だなあ」
などと、根元的な(?)想像もしていたのだ。


◎楽して優越感を得る方法なんだな。
サラリーマン向けの「能力向上」ハウツー本
には、「自分より立場や能力が上の人とつき
あえ」というアドバイスがよく出てくる。そして
そこには、自分よりそれらが下の者、または
同じ立場でも、「不平不満や愚痴を言い合う」
ような相手とばかりつきあっている者もいる
けどという、反面教師的な事例も紹介されて
いたりする。すなわち、それをやると自己の
優越を感じたり、一種の安心感を得られたり
もするかわりに、能力やレベルが相手と同
等になってしまうというのだ。これは非常に
よくわかる教示で、なぜなら広告マン時代、
その実例をいくつも見てきたからである。

たとえばクライアントだったカーディラーの
担当者で、いかにも不平家らしい雰囲気を
示す男がいた。ぼくより年長で、顔立ちは
整っているのだが、何となく親しめない。
「にやり」くらいの笑いを見せることはあって
も、明るく陽気に笑うのを見たことがないし、
うちあわせでも素っ気なくしゃべるのだ。
あるとき、たまたま同僚と入った飲み屋で、
彼が二、三人の連れと飲んでいたことがあ
った。その連れとは、ショールームの展示
や看板などを請け負っている業者であって、
話をしたことはないが、顔ぶれは何度か見
かけて知っていた。つまり下請け業者が彼
を誘い、安い接待をしていたのだろう。

先方はこちらに気づいてないのでそのまま
飲み出していると、すでに酔っているらしい
業者の大きな声が聞こえてきて、それは彼
を持ち上げ、ほめそやすものだった。ちらち
らと担当者の様子を見ると、そんな場でも
声高にしゃべったりはしていなかったが、
これはもう完全に自己の優位的立場を楽し
み味わっているような、何とも言えないにや
にや笑いをうかべていた。「そうか。あの男
はそういう人間なのか」と得心できた気がし、
だから後年、上記のようなハウツー本を読
むたびに、その顔がうかぶようになったのだ。

ただし、「それなら、おまえはどうしてたんだ。
サラリーマン時代から、推奨されてるような
ことをしてたのか」と聞かれたら、「してません
でしたし、できる立場や仕事環境でもありま
せんでした」とこたえるしかない。しかしその
かわりに (という意識はなかったけれど)、
雑学趣味の読書をつづけていた。それによ
って、世の中には偉い人、立派な人、才能
のある人がいっぱいいるのだと知り、
「それに比べて、おれは何をしてるのだろう」
「この先、いったい自分はどうなるか」と、
不安焦燥の感にかられていたのである。


◎故・高松宮の鼻梁と人相も高貴だった。

司馬遼太郎氏の「峠」だったと思うが、幕末に
来日していた外国人が日本人の顔について、
日記だか手紙だかに書いているという話が
出ていた。武士と武士以外の人間を比べると、
武士には鼻筋の通った顔が多く、位の高い者
にそれが目立つ。町人たちには低い貧弱な鼻
が多いというのだった。そして人相学でも、鼻
筋が通った顔は高貴の相であり、そうでない
のは下賤の相だという鑑定がある。江戸時代
の大阪の観相家、水野南北の「南北相法」に、
その双方の絵が載っていたと記憶するのだ。

また、イギリスの王室や貴族にもその傾向は
あるらしく、チャールズ皇太子などみごとに鼻
筋が通っているし、第二次大戦前の外交官、
サー・ネビル・ヘンダーソンという人の横顔
写真には、鼻筋のあまりの見事さに、「くーっ
!」と唸ったことがある。ということは、鼻筋と
高貴さとの関係、人種や民族を問わず成立
することなのだろうか。しかしそうなると、もと
もと鼻の平たいアフリカ人などは、昔の王様
でも高貴ではなかったのか。

逆に北欧人種は、吸い込んだ冷たい空気を
あたためる必要性から、長い年月を経て鼻腔
が長くなったという説がある。とすると、彼らは
下々(しもじも)の者でも鼻筋が通っていること
になるが、そうではなくて、やはり短く平たい
鼻で、寒冷の空気にくしゃみを連発してきたの
だろうか。浮世絵の美人とお多福やおかめ。
コリーと狆。アリクイと豚。連想は飛躍するが、
こんなことを考えだしたのは、ひさしぶりに桂
米朝師匠の顔写真に接し、「ええ顔してはっ
たなあ!」と、感慨を新たにしたからである。


◎東京飯店は、日本の東京か中国のか?

菅笠様、メール拝見。いや、見間違いなんか、
当方しょっちゅうですよ。さて、以下は本題。
中華料理店には、北京飯店とか上海楼とか、
中国の地名をつけた店名がある。香港、天津、
四川などもよく見かけるが、四川は味なりメニ
ューなり、中華料理のなかのジャンル名から
つけたものかもしれない。一方、通りすがりに
見かけて、「へええ。こんな地名も使われて
るのか」と思った店名もある。高雄、金陵、
敦煌などで、高雄は台湾南部の都市、金陵は
南京の美称、敦煌は昔でいう西域、シルク
ロードのオアシス都市である。そこで思うに、
それらの店の経営者は華僑なのだろうか、
それとも日本人なのだろうか。

高雄は台湾から来た人が出身地を店名に
した可能性が高く、日本人は何かよほどの
曰く因縁がなければ、わざわざそんな都市
名は選ばないのではないか。金陵にしても、
南京の美称であると知っている人の割合は、
華僑の方がはるかに大きいと思うのだ。
逆に敦煌は、「そこの出身です」という華僑
の存在より、井上靖の小説を読んでとか、
シルクロードのロマンをイメージしてとか、
日本人の命名であると考えた方が得心しや
すい。そしてさらに思うに、「よほどの曰く
因縁」や「美称を知っている」という日本人を
考えてみると、これは戦前住んでいたとか、
戦争中に駐屯していたとか、そういう人が
戦後帰国して開いた店なのかもしれない。

というのが、過去に見かけた店名には、吉林、
ハルビン(哈爾濱)というものもあったからで、
どちらも中国東北部(旧・満州)の地名。
「そこ出身の華僑が」と考えるより、「戦後
引き揚げてきた日本人が」と判断する方が、
はるかに蓋然性が高いと思うのだ。ハルビン
と表記した店は大阪市内で見かけたのだが、
哈爾濱とまともに書いた店は新潟市のJR
新潟駅前にあった。となると、「引き揚げてき
て、戦後の闇市の露店みたいな店から始め、
あちらで覚えた料理を」と、想像が無理なく
広がるのだが、どんなものだろう。なお、
東京は、洛陽の古い別名でもあるのです。

◎面識ある年長者の例を紹介すれば。

日大アメフト事件で俄然注目(?)された関西
学院大学の学生は、昔から男女とも、明るい
けど少々軽いという雰囲気があった。頭は
悪くない学生が授業や試験は適当にこなし、
いわゆる「阪神間」文化、「神戸」カルチャー
の世界で、好きなことをして遊んでいたのだ。
当然、卒業後マスコミ業界に進む男女も多く、
アナウンサーやタレントも少なくない。上田彰
という人は、学年が何年上なのか知らず出身
学部も知らないが、在学中は放送部に所属
していたという。だから、卒業後は広告代理
店に勤めたものの、後年退社してフリーの
アナウンサーになった。ラジオ番組なども
いくつか持ち、パーソナリティーとして、関西
では知られるようになったのだ。

そしてさらに後年、彼はタレント事務所を設立
し、養成スクールを併設して新人タレントを育
てだした。かなりの人数を自分の事務所に
所属させ、自身は社長として局や代理店への
売り込みや折衝役にまわったのだ。失礼なが
ら、自身のタレントとしての最盛期はすでに
過ぎていたらしいから、これは非常に「頭の
いい」転身コースだったと言える。なかなか
「遣り手」だという噂もあり、とにかく適応力
に優れていたのだろう。立派なものである。

菊地美智子という人は、在学中放送部にいた
のかどうかは知らないが、卒業後ラジオ大阪
に入ってアナウンサーになった。四国の徳島
出身だそうで、南方系の明るい美人であり、
「ミッチー」と呼ばれて、リスナーからも親し
まれていた。往年のラジオ大阪の名物番組、
桂米朝師匠と小松左京さんの「題名のない
番組」でアシスタントを勤めていたし、先代・
桂春蝶さんとやっていた 「男と女でダバダバ
だ」という週一の生番組も人気があった。
頭の回転が速くて仕事の実力があり、同時
に自分を三枚目にしてぼけることなど、番組
内でも普段の会話でも、平気でやって大笑
いする人だった。上田氏と菊池さん。「どち
らも、関学タイプであるなあ!」なのだ。


◎皆さん、パンと分数のお話ですよ。

先日、電車のなかでものを考えていたら、
それがいつの間にか空想シーンに変わって
いた。自分が小学校の先生になって、子供
たちに分数を教えている光景であり、どん
どんリアルな授業になっていく。クラスの生
徒30人に、「おいしいパンが45個あるとし
ます。どんなパンが好きかな。大きなメロン
パンにしようか」などと、黒板に絵を描いて
言っている。「その45個を皆に公平に分け
るとしたら、まず一個ずつ配って30個。残っ
た15個も公平に分けるとしたら、さあ、どう
すればいいでしょう」 と問いかける。

無論こたえは、「15個をそれぞれ半分に切
ったら、半分パンが30個できるから、それを
30人にひとつずつ配ればいいわけですね」
であり、その図解で2分の1ということを教え
た。そしてそのあと、もともとのパンの個数を
あれこれ変化させ、分けにくい数なら一個を
4つに切るとか、6つに切るとかの工夫も教
えていた。さらにその流れで、「2分の1と、
4分の2と、6分の3は、同じ半分なんだよ」
と、これも図で理解させていた。「わかり
にくいときには、こうやって絵にしてみると
わかるよ」であり、「分数に慣れてくると、
頭のなかでこんな絵が描けるようになるし、
もっと慣れてくると、絵を描かなくてもわか
るようになりますよ」なのである。

それにしても、何がきっかけになってこんな
空想が始まり、下車するまで大方15分ほど
もつづいたのだろう。多分、当初ものを考え
ていたとき、そこに出てきた言葉か光景が、
意識下で「分数」とつながっていたのだろう。
けれども、それを子供たちに教えるという
設定については、どこから出てきたのか見
当もつかない。しかしこういう空想が、いつか
あるとき小説を書いていたら突然再生され、
「あっ。ここにあのシーンが使える!」と気付
くことになったりするのである。当方のでは
なく人間のという意味だが、脳は天才なのだ。


◎奴隷を使ってた国の真似したら駄目だ。

読みかじりの断片知識だが、マルクス経済学
のなかに、「絶対窮乏化論」というものがある
そうだ。資本家が労働者からの収奪を拡大し
ていくと、遂には労働者が、生活できないレ
ベルにまで追い詰められるということらしい。
それに対して後世、「しかし労働者が絶対的
に窮乏したら、工業社会で大量生産される
商品やサービスを、いったい誰が買うのだ。
マスの消費者がいなかったら経済が成り立た
ず、資本家も困るではないか」という反論が
出たという。言われてみればもっともで、いか
に悪辣な資本家と言えども、労働者に一定
以上の収入を与えなければ、そのうち自分の
会社や工場がやっていけなくなる理屈なのだ。

資本家という概念が古ければ、現代の日本
社会では、政財官が一体となった「総資本」
側と解釈してもいいだろう。そして当方、上に
「もっともで」と書いたが、格差社会の深刻化
だの、「働き方改革」だのの現状を見ると、
実はこの絶対窮乏化が進んでいるのでは
ないかと感じさせられる。非正規社員の収入
は正規に比べて不当に低くされ、働き方改革
は「改悪」であって、高度プロフェッショナル
などという美名のもと、残業料なしで長時間
働かせる手段である。若い世代の車離れが
言われているが、興味がないという理由とと
もに、第一そんな高いものは買えないという
人数も多いからではないか。結婚しない者が
増えてきたのも、経済的にできないからとい
うのが理由のひとつだし、窮乏化させておい
て、人口減をふせぐため結婚しろ子供を産め
と言ったって、誰が聞くものかと思う。

そしてこの窮乏化は、年金に頼る高齢者や、
現役で働く中年世代にも迫ってきているよう
だ。当方の思うに、これは冷戦終結後、アメ
リカで新自由主義が拡大しだしてから、見る
見る顕著になってきた傾向で、しめたとばか
りに日本も追随した結果、こういうことになっ
てきたのではないか。としたら、「もっと売れ」
「いや。いまや買えるのは極少数なんです」
に至る前に、手を打たなければならんはずだ
と思うが、「総資本」側にその気はあるのだ
ろうか。というより、それを可能にする、下に
も及ぶ経済成長などということが、日本の
未来にあるのだろうか。もっかの傾向は、
悪循環もいいところだと思うのだが。


◎ごく普通の町内にも、ドラマはある。

住宅街の最近の話を三つ。その1) 先般、
居住するマンションで管理組合の総会が
あった。そしてそのとき、管理業務を委託
している会社からのアドバイスで、「民泊
禁止」の議題が出された。外国人も宿泊
させるあの制度であるが、悪用されて
ややこしい事態になったら困るから、全会
一致で採択された。すると早くも翌日、
マンションの玄関に、「この建物は民泊で
きません」というプレートが掲示された。
日本語、英語、中国語、韓国語で記され
ており、ぐっとリアルさ(?)が増したのだ。
すでに管理会社が作っていたもので、と
いうことは他のあちこちのマンションでも、
同じ表示が増えつつあるのだろう。

その2) 道路の両側にコンクリート製の
電柱が立ち並んでおり、すぐ近くの一本の
上部に、カラスが巣を作った。木の枝を集
めたもので、粗雑な作りだが割りに大きい。
町内には以前から大きなカラスが何羽も
出没し、朝には回収前のゴミ袋を破って、
道路に生ゴミを散乱させてきた。巣に卵を
うんでそれがかえり、数が増えたら大変な
ので、自治会の役員が関西電力に連絡し
たという。関電もすぐさま対応したようで、
話を聞いた当方、翌朝マンションを出て
見上げると、すでになくなっていた。電力
会社にしても、巣の材料に針金でも混じっ
ていたら、電線がショートする恐れがある
から、スピード処理をしたのだろう。

その3) 駅まで歩く途中に、建築中の洋風
一戸建てがある。総二階で上下とも窓が
多く、ドアも両開きで、建物全体が白く塗装
されている。明らかに普通の住宅とは違う
ので、出勤する娘と一緒に通過しながら、
「クリニックかな」「私設の保育所かもしれな
いよ」などと推測しているのだが、まだ判明
しない。なぜか内装にかかる段階で工事が
ストップし、そのままになっているからだ。
「近所から反対意見が出たのかな」「予算
がオーバーしたのかも」などと、推測ばかり
がつづくのだ。何にせよ、以上を「お題」に、
住宅街の三題噺が作れそうに思う。


5月
◎ほんま。シャレになりまへんで。

当方が小学校低学年だった新潟時代、
近所の悪童たち(小学校高学年〜中学生)
が、こんなイタズラをしていた。道路に小さ
い板を置き、カンシャク玉を一個置いて、
さらにその上に板をかぶせる。歩行者が
知らずに踏んだら、カンシャク玉が破裂す
るのである。板二枚の間にはさんだのは、
昔のことで道路が未舗装で土そのままだ
ったから、そこに直接置いたら、踏んでも
めりこんで爆発しないからだ。

土の道であることを利用して、小さな落とし
穴を仕掛けるという例もあった。穴は新聞
紙でふさいで、それを土で覆い隠す。歩い
てきた大人が靴を取られて、つんのめるか
転ぶのを期待するわけである。なかには、
バス通りで待ちかまえていて、バスが通過
する寸前、大きめの石を投げ上げるやつも
いた。タイミングが合えば、石はバスの屋
根に落下して大きな音を立て、運転手や
乗客が驚くだろうという意図である。
さらにシャレにならないこともやっており、
建築中の家を破壊したやつらがいた。

当時の家は外装は板張りでもその内側は
土壁であり、細い竹を組んでそこに壁土を
塗っていく。夜になると誰もいないから、
悪童連中、まだ乾いてないその壁を丸太
で突き破って、大穴を開けていたのだ。
これはイタズラの域を越えて、犯罪だと
思う。落とし穴には当方も参加していたが、
とにかくまあ、無茶なやつらがいたのだ。
以上、川崎市で50代の男が道にロープを
張り、オートバイで通過する人を転倒させて、
殺人未遂で逮捕されたという、犯罪そのも
ののニュースで思い出しまして。


◎「気のええのもアホのうち」の世界だ。

米朝会談が突如中止になったが、これは
トランプ大統領が、「このまま進めば北朝鮮
と中国の術策にはまってしまう」と感じて、
急ブレーキをかけたからだろうか。それとも、
拘束されていたアメリカ人を取り戻したから、
この先は弱点なしの持久戦ができるという、
戦略的な判断によるものだろうか。で、
それはともかくとして、「国際政治というもの
は、勝手なものだなあ」と思う。なぜなら金
正恩なる男は権力を握って以来、義理の
伯父を処刑し異母兄を暗殺し、党や軍の少
なからぬ人間を粛清してきた。一説では20
万人以上とされる、強制収容所の被「完全
統制者」たちもそのままであり、一般人民
の生活は最低レベルがつづいている。

つまり彼は、殺人と抑圧虐待の命令者であ
る独裁者なのだ。そしてそれらの所業を、
韓国もアメリカもずっと非難してきたのだ。
なのに状況が変わって会談の運びとなると、
文大統領が金委員長を礼賛するのはまだ
わかるとしても、ついこないだまで「チビの
ロケットマン」と侮蔑していたトランプ大統領
までが、彼は聡明だとか言いだしていた。
それがまた今回の中止宣言であり、「ころこ
ろ変わるな!」と言いたくなってくる。しかし
それが国際政治というものの通例なのだ。

早い話が、スターリンは度重なる粛清で党
関係者を殺し軍人を殺し、1千万人以上とも
言われる人民を死に追いやっていた冷酷者
である。しかしヤルタ会談やポツダム会談
では、ルーズベルト、トルーマン、チャーチル
から、同盟国の指導者として鄭重に遇され
ていた。それが戦後の冷戦時代になると、
悪の権化扱いだ。毛沢東も同様で、粛清で
対立者を抹殺し、大躍進政策や文化大革命
で、これまた1千万人単位の人民を犠牲に
した暴虐者である。けれど米中国交回復時、
ニクソン大統領はそんなことにはこれっぽっ
ちも触れず、にこやかに会談していた。

話をもどせば、民主主義国の人権基準で
言うなら金委員長とその一派は、国際裁判
にかけられるべき人間たちなのだが、仮に
状況の再変化で米朝会談が実現しても、
そんなこと絶対に話題にはならないだろう。
「勝手なものだなあ」であり、抑圧されてい
る人民の側から言えば、「非情酷薄なもの
だなあ」なのである。まあ、それを別視点で
見れば、日本の政治家や外交官は、気が
良過ぎて認識が甘いのかもしれないが。


腹が立ちつつ、暗然ともさせられる。
岩波文庫「暗黒日記」は、戦前のジャーナ
リスト 清沢洌(きよし)が太平洋戦争中、
政治経済から日常の生活まで、さまざまな
事実を書きとめた記録である。知的である
べき分野でも、新聞各紙が美辞麗句を連
ねて軍部におもねっていたり、遠山満や
徳富蘇峰が愚にもつかぬことを語って、
それが仰々しく掲載されたり、東京帝大の
教授がナチスの敗色が歴然となってきて
も 「ドイツは優勢だ」と言っていたり、

本当にひどいものである。

通読すると、精神力一点張りの狂信的な
軍人はもちろんだが、時局に便乗した
それら新聞人、教育者、作家、思想家、
右翼などの、愚劣さや知的レベルの低さ
には、何度読み返しても虫酸の走る思い
がする。市井の生活者で言うなら、小人
に権力を持たせるとこうなるのだという
見本も多々ある。そして思うに、これは
戦争中だからという特殊例ではない。
状況や条件が緊迫して煮え詰まっている
ので、そんな事例も圧縮されて多数濃密
に現れているが、平時、平和時、つまり
現代でも現在でも、希釈されたかたち

でなら、いくらでもあることなのである。

その種の人間は、テレビや週刊誌を代表
とするマスコミ界に点在しており、一般人
も含めれば、ネット世界でダーッと裾野が
広がっている。したがって、それらを圧縮
すれば「暗黒日記」と同様の世界になる。
将来、万一また「戦時中」になったら、
時局全体が先祖返りして、愚劣な便乗者
がのさばりだすに違いないのである。
無論、清沢洌は自由主義者であり、経済
にせよ思想にせよ、官僚や小役人による
統制を唾棄すべきものとしている。まさに
そのとおりであると、当方も思うのだ。


◎菅笠様。メール拝見。
どうも大変な男で、実質的には、「怪我させて
こい」と、指示してたらしい。日大アメフト部、
多分、活動停止か解散処分になるでしょうね。

◎二人は東宝若手陣の看板女優だった。

先般、星由里子が74歳で亡くなり、「へえ。
あの世代の女優も亡くなりだしているのか」と、
意外な感じがした。朝丘雪路はぐっと年長だ
から、「まあ、亡くなっても不思議ではないな」
と思う。しかし星由里子は、当方の中学、高校
時代、円谷英二の特撮映画や、クレージー・
キャッツのコメディ映画に出ており、友達と一
緒に「街の映画館」へ見に行ったりした。そして
その映画のなかの彼女は、ほんのちょっと年
上の「お姉さん」タイプだったから、その印象が
記憶のなかで固定され、亡くなったと知ると、
「え。まだ若いのに?」と思ってしまうのだろう。

星由里子は三度結婚し、いまネットで調べて
みると、最初の相手は悪名高い「乗っ取り屋」
横井英樹の長男だったが、性格が合わず3カ
月弱で離婚したそうで、「何でまた、そんな人
物と」と、解せない思いになる。次の相手は
著名な作家脚本家の花登筐で、これはまあ
わかるし、こちらも知っていた。花登氏の遺作
「私の裏切り裏切られ史」に、妻として挨拶の
文を載せていたからだ。三度目は1990年代
になってからで、会社役員らしい。ただしその
結婚歴が、彼女の強靱さゆえなのか弱さゆえ
なのか、そのあたりは見当もつかない。

ちなみに、同じく街の映画館時代、こちらも
クレージー・キャッツの映画などで活躍して
いた浜美枝は健在で、星由里子と同年齢な
のだそうだ。三船敏郎の「大盗賊」というコメ
デイタッチの映画で、国籍不明(昔の東南ア
ジアらしい)の国のお姫様を演じており、その
バタ臭い雰囲気がよく合っていた。「軽さ」と
いう意味では、その時代の当方、好きだった
のだ。お姉さん年代の、前者には御冥福を、
後者には御健勝を、祈らせていただこう。


◎幾つ何十になってもチャレンジだね。

「あなたなら書けますから」と依頼を受けて、
ある宗教家の伝記を書き始めている。明治
生まれで、昭和末期に亡くなった高徳の師
であり、その生涯と事績を一冊の本にする
仕事なのだ。現在、まだ第一章の段階で、
原稿枚数も50枚余りにしかなってないが、
いやまあ、その難しさは大変なものだ。
というのが、88歳の一生だったから内部
資料がかなり多く、それらを通読して、使用
すべき事項、使えるエピソードなどを抽出し
なければならない。しかし明治時代の記録
など、年月日の定かでないものが多々ある。

年譜はあるものの、それは概略の項目記述
だから、各エピソードがそのどこに当てはま
るものなのか、別資料と照らし合わせて検討
していかなければならない。「それを大正か
ら昭和の戦前、そして戦後へと、延々やって
いかなければならんのか」と思うと、「いらち」
の当方、頭が過熱してくるのだ。また、事績
をただ紹介していくだけなら、時間さえかけ
れば何とかなるだろうが、それでは書いて
いておもしろくないし、公式的、タテマエ的な
本になってしまう。商売で引き受けたライター
ならそれでいいかもしれないが、作家として
は悪戦苦闘しつつも、対象とする人物の
全体像を把握し、本質や核心を追究してい
かなければ意味がないのだ。けれども、
たとえば高徳の宗教家が到達した境地など、
当方、本当にはわかるわけがない。

昔、唐の時代の幻術に呑馬術というものが
あり、人が馬を呑んで見せたという。どんな
仕掛けの術なのかは知らないが、こちらは
幻術ではなく現実の執筆姿勢として、しかも
馬どころか山を呑まなければならない感が
ある。そんなわけで、いつ書き終えられる
のか、もっかのところ見当もつかないのだ。
当方、小説にしろエッセイにしろ、長編の
構成力については一応の訓練成果を得て
きたつもりだったが、こういう題材は初めて
ゆえ、それが通用するか否かもこころもと
ない。まあ、内容面とともに、その面でも
勉強になることは確かなのだが。

あ。それから、全然話は違うが、日大アメフ
トの監督、しきりにカンサイ学院と言ってた
けど、カンセイ学院でっせ。もっと正確には、
ローマ字表記では、
kwansei と書く。
世間一般の人が知らんのは無理ないけど、
監督が長年対決してきた相手の大学名も、
覚えてませんのかな。それとも、ずっと
関学という略称で通してきて、正式名称は
ほんまに知らんかったのか。不思議な男や。
ヒノモト大学も、お困りでしょうな(笑)。

◎欧米なんか、もっと凄いんだろうな。
サントリーの往年の名物社長佐治敬三氏は、
創業者鳥井信治郎の息子だったが、養子に
行ったので姓が変わった。まだ社名が寿屋
だった時代だから、佐治社長はよく挨拶や
講演で 「洋酒の寿屋」をもじって、「養子の
寿屋です」と言っていたそうだ。戦後の政治
家で厚生大臣も勤めた山縣勝見という人が
おり、本来は某損保会社の社長だった。
そしてその会社は戦前からあった、酒の
白鹿系列の同業社がもとになっていた。

江戸時代から続く西宮の名家辰馬であって、
その御曹司だった勝見氏が、これまた名家
である東京の酒類問屋へ養子に行き、それ
で山縣になったのだという。とまあ、この二
例は前々から知っていたことだが、先般、
本を読んでいたら、播州龍野に永富という
旧家があり、その先祖は河内の楠正成だと
いう話が出てきた。そして戦前、そこの息子
が建設の鹿島へ養子に行き、それが政治家、
外交官、文化人としても著名だった、鹿島
守之助なのだと書いてあった。

こんな具合に、日本各地には何百年に及ぶ
名家旧家がいくらもあり、そのなかには分野
や距離を越えた養子縁組みで、閨閥を広げ
ていく事例も少なくない。もちろん娘たちの
結婚もその有力な手段で、茶道や華道、
仏教に神道、旧公家や皇族等々、それらの
世界に属する名家旧家が、政界財界高級
官僚界などと、複雑に重なり合った縁で結
ばれているのは、いわば常識。陰謀史観
ではないが、隠れたネットワークによって、
日本の社会の重要な部分が動いている、
もしくは動かされているのである。


◎変なのが多いからね。本当に。
新潟市の女児殺害事件は、JR越後線が
現場になり、昔住んでいた町からそう遠く
ない場所なので、やはり気になってニュー
スを追っていた。結局、近所に住む若い男
が逮捕されたわけだが、それで思い出し
たことがある。当方の娘3人が小学生だっ
たとき、学校へは集団登校していた。そし
たらある朝、その横をゆっくりと通過した車
のなかから男が声をかけてきて、しかも
それは我が家の娘の一人の名前を呼ぶ
ものだった。車はそのまま行ってしまったの
だが、娘は相手が誰だか知らないという。

そう聞かされると親として心配になるから、
当方万一の場合を考え、地域内の交番へ
相談に行っていたのだ。ただしこの件は
後日、声をかけてきたのがクラスの友達の
お祖父さんだったのだとわかり、笑い話で
済んだのだが、当時も現在も、やはり
「怪しい」男がいることは確かである。
だから当方、もし「児童見守り隊」か何かの
ボランティア募集があったら、参加しようか
と思ったりもする。一方、怪しい人間がいる
ために、迷惑をこうむっていることもある。

たとえば自宅の近所で、小学校低学年の
男児が空手の稽古着姿で歩いていたりする
と、仕事柄もあって、どこで習っているのか、
どんな稽古をするのかなど、聞きたくなる。
しかし下手に声をかけると怪しまれそうで、
その子が帰宅して報告したら、話がやや
こしくなりかねない。家でその話をしたら、
娘からも「やめとく方がいい」と言われた。
子供にうかつに声もかけられないという、
そんな世の中、絶対良くないのである。

◎いまならロボット活用で派手なやつも?
新潟にいた小学校低学年時代、ときどき街に
宣伝カーがやってきた。見た記憶があるのは
カバヤ、ライオン、オリエンタルカレーで、カバ
ヤはカバの形と色を模した自動車だった。
ライオンは車の形はよく覚えてないけれど、
ライオンの人形が何体か並んで立ち、顔と腕
を動かして歯を磨くという、その光景はうっす
らとした記憶として残っている。オリエンタル
カレーは確かバス型で、後尾が展望デッキ風
になっていた。そこにおじさんが立って何か
しゃべっていたのだが、ヤスダという名前が
頭に残っているのは、彼が安田か保田か、
そういう姓の司会者だったからだろう。

で、それらの記憶を確認しようと、ネットの
画像検索で「宣伝カー」と入れたところ、ある
わあるわという数の多さだったが、こちらが
思う宣伝カーとは違う車が大半だった。
つまり、現在も歌手の新曲キャンペーンなど
でよく見かける、コンテナトラックのボディが
映像画面になっているやつとか、単なる看
板カーとか走る広告枠自動車とか、そんな
のが多かったのだ。ただしもちろん、それら
のなかに当方が定義するところの宣伝カー
もまじっており、チキンラーメンや福助の
それがおもしろかった。現在も実働中なら、
ぜひとも見てみたいと思う。

また、冒頭に書いた三社の宣伝カーもモノ
クロの画像で出てきて、ライオンのそれは
大型のバスであり、その上部に確かにライ
オン人形が並んでいたことも判明した。
サンスターの宣伝カーもあったそうだが、
実物を見たことはない。そこで「宣伝カー 
昭和」と入れて再度画像検索したところ、
これこそ「おおっ。あるわあるわ」で、車全体
がハム1本の形をした徳島ハム、屋根に大
きなチューブを乗せたスモカ歯磨、巨大な箱
形の真空管ラジオを乗せたサンヨーなど、
見たこともないやつが数多く出てきた。「うう
む。子供の頃、新潟ではなく東京か大阪に
いたら、こんなのも見られたんだろうに」と、
少々悔しい気分になったのだ。

「阪急文化」の牙城だっただけに。

先般届いた日本文藝家協会の会報に、
「本の未来研究会リポート」が別刷りで入
っていた。ジュンク堂書店、田口久美子氏
のレクチャー記録である。当方と同年代で、
冒頭、「本がとても売れていた時代」の話
では、人気作家の単行本は初版10万部
が当然だったという話が出てくる。小松
左京さんの「日本沈没」も、「あまりに売
れるので、どうやって出版社から本を取
ってやろうかと、皆で知恵を絞りました」
とのこと。で、これらは「わかるわかる!」
だが、一方、「へ?」と思ったこともある。

その時代、「西武百貨店が書籍売り場を
作るという話が伝わってきた」が、「当時と
しては、これはすごい冒険でした。百貨店
は本をまともに売れないだろう」と、「取次
も出版社も相手にしなかった時代に、堤
清二さんは百貨店のなかで書店をやろう
としたんです」というのだ。しかし、梅田の
阪急百貨店にはそれ以前から広い書籍
売り場があったし、その一部はテナントと
して、キリスト教の書籍や関連品の売り
場になっていた。とにかく、落ち着いた静
かな売り場で、書籍の品揃えも堅実だっ
た。だから当方、高校時代からときどき
覗いて、本を探したりしていたのだ。
ということは、上記の「まともに売れない」
「相手にしない」の話は、東京の百貨店
に限っての話だったのだろうか。

それとも阪急百貨店が小林一三以来の
伝統で、それだけ文化的だったのか。
しかし阪神百貨店にも書籍売り場はあり、
阪急ほどではないが、一応の本は揃えて
いた。阪神の場合、すぐ横に伝説の旭屋
書店駅前店があったのに、それでも書籍
売り場を設けていたのだから、西武の話
には合点がいかなかったのだ。なお、
レクチャーの本論となると、あいかわらず
暗然たる事実が次々に出てくるので、省
略させてもらう。ただし、ひとつだけ紹介
するなら、ネット全盛の今日、本は「読む
人より、書く人の方が多い」し、そのうち
音楽と同じく、本も無料のものになって
しまうだろうとのことだ。いやはや。


◎皆々、アキレテゴスミダ(タモリ語)。

大韓航空以下を経営する韓進財閥の一家。
長女がナッツ姫で、次女は水かけ姫だが、
今度はその母親のトンデモ映像が公開され、
これまた警察が捜査に乗り出したという。
もちろん娘二人と同様、この母親もグループ
企業の経営陣に名をつらねており、そこが
建設するホテルか何かの工事現場で、社員
なのか建設会社の関係者なのか、若い女性
を叱責する様子で腕を強くひっぱる。止めよ
うとした男性たちにも悪態をつく感じで迫り、
書類の束を奪い取って放り投げ、何かを靴で
蹴り上げる。書類は散乱するわ、社員たちは
逃げかけるわ、いやまあ大変なものである。

そして当方、娘たちのニュースに接した段階
では、「傲慢な姉妹やな。父親がよっぽど甘
やかして、わがままに育てたのか」と考えてい
たのだが、今回の母親のニュースで「あっ」と
思った。「これは、母親がそういう女だったの
で、それがそのまま娘たちにも移ったのでは
ないか!」  というのが当方、これは日本の
話だが、著名企業の経営者で財界人でもあ
るという人物に関して、似た話を知っていた
からだった。そこの娘が何不自由なく育ち、
有名女子大を出て、世間知らずのまま結婚
した。しかし親の名前や立場を鼻にかける
雰囲気があり、近隣者に見下すようなことを
言ったりするので、悪評紛々だった。そも
そも母親が同じタイプの女なので、それが
そのまま移ったのだという噂だったという。

つまり、子供の頃からそんな母親の言葉や
態度を見て育ってきたら、他人や世の中に
対して、「こういうものだ」「こう接すれば
いいのだ」という見本が、多々刷り込まれて
しまったということだろう。伝聞記憶ひとつで
韓国の財閥一家を類推するのは乱暴だが、
当たらずと言えども遠からずではなかろうか。
ナッツ姫が「さらし者」のようになっていた続
報ニュースでは、いささか可哀想にも感じて
いたけれど、大韓航空の社員が後難を避け
るため仮面をかぶって退陣要求集会をし、
今回母親のトンデモ映像を見せられたら、
「どうやら、実態はもっとひどいらしいな」と
思えてくる。無論、多忙ゆえかどうか、妻や
娘たちがそんな女になっていくのに気付か
ず、放置していた夫(父親)にも、大きな責
任があるのだが。
それとも、超恐妻家か?

「何を」と「どう」も、奥が深いのです。

以前、某テレビ局の若い報道部員から、年輩
のカメラマンと議論して、喧嘩みたいになった
という話を聞いたことがある。それはニュース
に関して、彼は「何を伝えるか」が大事だと
言い、カメラマンは「どう伝えるか」が大切だと
主張したからだそうだ。しかし、これは対立さ
せる要素ではなく、「両方大事やろ」と並立さ
せるべき問題だと思う。というのが、たとえば
連休の高速道路で大渋滞が発生したら、まず
その事実を伝えることは、利用予定者や関係
者にとって、やはり大事なことだろう。そして
その映像は、料金所かどこかにカメラを据え
てそこの混雑ぶりを映しているだけよりは、
空撮で延々と連なる車列を見せた方が、
渋滞の実情がはるかに伝わりやすくなる。

すなわち「何を」が決まれば、すぐさま「どう」
の工夫が必要になるのである。ただし、その
事実をニュースとして取り上げるか否かは、
ニュース番組のディレクションという問題に
なる。他にもニュースは数多くあるのだから、
優先順位をつけて選択しなければならず、
「高速道路の大渋滞」がほぼ全局のニュース
番組で伝えられるのは、それだけ優先順位が
上だと判断されているからだろう。だからこの
場合の「何を」は、冒頭で書いた若い部員
いわくの「何を」とは、判断のレベルが違うこと
になる。同じく、ニュース番組内でそれを短く
伝えるか、たっぷり見せるか、何ならコメンテ
ーターにも意見を求めるか等々、「どう」の
判断にもレベルがあるわけである。

そしてまた、汚職だの何だの政治がからむ
ニュースでは、「何を」にも「どう」にも、さら
にレベルの違う判断が介在介入することに
なりやすい。局の上層部や経営者の姿勢に
よって、大きく扱う、小さく扱う、そもそもその
ニュースを流さないようにするなど、複雑微妙
に変化するわけで、その具体例はNHKにも
民放にもいくらでもある。新聞に関しても同様
で、同じニュースを新聞各社のサイトでチェッ
クすると、歴然とした違いがわかる事例も少
なくない。「何を」も「どう」も、現場レベル
から経営レベルまで多種多様だから、受け手
としては、特定局や特定社のニュースのみで
了解するという、そんな姿勢は取らない方が
「安全」なのである。言うまでもないことだが。


◎本気で考え出したら、滅入るしなあ。
サラリーマン時代の上司だった人で、日航機
の御巣鷹山事故で亡くなった人がいる。あれ
は東京から大阪へ向かう夕方の便だったから、
日帰り出張のビジネスマンが大勢乗っており、
だからあのあと関係する企業が社葬をしたり
合同慰霊祭をしたり、しばらくは梅田の地下
街でも喪服姿を数多く見かけたものだった。
それにしても、まさかそんなことで突然亡くな
るとは、乗客たちも、ぼくの上司だった人も、
これっぽっちも思っていなかっただろう。

だから遺言書も公私の案件に関する指示の
言葉も何もなかったはずで、遺族や周囲は
さぞ困ったことだろうと思う。一方、世話にな
った先輩社員で癌で亡くなった人もおり、大方
二年ほども入院生活を送ってのことだった。
しかし何度も見舞いに行っていたときの印象
では、それほど落ち込んでおらず、治る病気
だと思っていたようだった。とはいえ葬儀の
ときに聞いた話では、本人は手帳に日々の
思考の断片をメモしており、そのなかには、
「人間は無から来て、無に帰る」という、悟り
の境地に達したようなものがあったという。

ということは本人、いつか何かのきっかけで
覚悟をしたのかもしれず、夫人にも必要な
事項は伝えていたのかもしれない。そんな
ことを思い出していると、「やはり後のことは
書いておくべきか」と思うのだが、面倒臭さ
が先に立ってその気にはなれない。第一、
自分が死ぬのはずっと先だと思っており、
現実のこととしての実感が、まだないのだ。
明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹か
ぬものかは。親鸞上人のこの道歌だって、
単に知ってるというだけであって……


◎名前は確か、連林秋といったっけな。
アメリカが台湾政策を見直す気配があるとか、
日本の女性ダイバーが海中で紛失したカメラ
が、台湾で見つかって返してくれたとか、ここ
しばらくのニュースで思い出したことである。
往年、高校時代からの友人がうどん屋をやっ
ており、大阪市内の中心部に近い場所だった
から、ときどき覗きに行った。夕方からは一杯
飲み屋になるので、当方はビールを飲みつつ、
雑談していたのだ。そのあたりは繊維関係の
会社が多く、だからインド人や中国人も、よく
食べに来るということだった。その一人に台湾
の若者がおり、一、二度、話をしたことがある。

インド人がやってる商社に勤めており、ただし
それは貿易関係の実務を覚えるためで、将来
は台湾に帰って自分で会社を始めるつもりらし
かった。何かの特許にからんで、アメリカで
東芝の社員が逮捕された事件があった時期で、
それについては、「あれ、東芝の人は悪くない
です。愛国の行為です」と力説していた。中国
のみならず台湾でも、特許権侵害だろうと産業
スパイだろうと、「愛国無罪」的な考え方をする
ようだった。そして彼からは、「ビジネスで親し
くなっても、日本人が客を家に招待しないのは
なぜですか」と、質問されたこともある。

そう言われれば、中国や台湾の人と商売で親
しくなったら、家へ招待されて歓待されるという
話は読んだことがある。だから彼は、日本のビ
ジネスマンがそれをしないのを不思議に思った
のか、「冷たい」と感じていたのかもしれない。
そこで当方、いくつかの理由をあげて説明した
のだが、理解してもらえたか否かはわからない。
そして彼は、それからほどなくして会社を辞め、
台湾に帰ったそうだ。その後どうなったかは知
らないが、会社をつくって大きくして、客をどん
どん自宅に招待しているのかもしれない。


◎大体、教科書っておもしろくないからね。
イギリスとハンガリーの共作で2007年に公開
された、「ヒトラーの審判」という映画がある。
「アイヒマン、最期の告白」というサブタイトルが
ついているとおり、ナチスの戦犯アドルフ・アイ
ヒマンが1960年に潜伏地アルゼンチンで逮
捕され、イスラエルで取り調べを受けた、その
調書をもとにした作品である。で、それをDVD
で見たあと、段ボール箱に詰め込んだ書籍の
なかから、「捕らえた」(Q・レイノルズ)という
古い本を取り出し、その追跡ドキュメンタリ−を
読み返してみる。すると映像作品と活字作品、
双方の内容、光景、主張や論点が頭のなかで
組み合わされて、立体的な知識になる。

別の例で言えば、マイケル・ムーアの「華氏
911」というドキュメンタリー映画があり、
「9・11」事件と、そのときのブッシュ大統領の
対応、ならびにそのあとアメリカがイラク戦争へ
と進む内幕を告発している。DVDで見ていると、
アメリカ国内で兵隊を募集する様子とか、イラク
で戦死した彼らの出身階層とか、これは「ルポ・
貧困大国アメリカ」(堤未果)そのままだなと
感じさせられる。そこでその本を再読してみると、
同じく知識が立体化され、アメリカという国に関
する認識が、あらためられていく。

ひとつの事件や問題について、映像と活字の
双方から知識や情報を摂取するというこの方法、
非常に有効だから、学校教育の場でも応用
できるのではないかと思うのだ。もちろん例に
あげたのは、当方がたまたま見てそう感じた
テーマと作品であり、教育の場でというのは、
各種科目で教える内容についての話である。
つまり、各科目の教科書を、活字版と映像版、
セットで作ればどうかということだが、それ
くらい、すでに実施されているのだろうか。

4月
突然、その姿がうかんできたので。

1960年代後半の大学生だから、外では
泥沼化するベトナム戦争や70年安保問題、
内では授業料5割(!)値上げとか全学無
期限休校とか、在学中はもろに紛争の時代
だった。学内にも全共闘各派のヘルメット
姿があふれ、それは大半が男子だったが、
女子学生も混じっていた。高校が一緒で、
どちらも同じクラスになったことがあり、
どちらも文学部に入った女の子二人。
その彼女たちが相次いでヘルメットをかぶ
ったときには、両者とも「おとなしい」子
だと思っていたから、意外さに驚いた。

一人は中学生だと言っても通用するような、
本当に小柄な、見た目もかわいらしい女の
子で、確か人形劇のクラブに入っていた。
もう一人は大柄とまではいかないが、顔も
体形も幅広という印象があり、動作も少々
重たい感じがした。前者はよく笑うし、会話
がはずむこともあったけれど、後者は笑顔
と言ってもほほえみくらいで、あまりしゃべ
らず、だから当方、まともに話をしたことが
ない。何にせよ、どちらも自分の主義主張
を押し立てて相手に迫るとか、場合によっ
ては対立も喧嘩も辞さないとか、そんな
タイプの子ではなかったのだ。

だから別の見方をすれば、二人が「うぶ」で
「素直」な性格だったとしたら、それだけに、
教授・牧師・体育会など大学側の卑怯愚劣
な対応に、本気で怒ったのかもしれない。
そして彼女たちがその後、結局は普通に
就職でもしたのか、それともその世界に
深入りしたのか、あれこれ想像はできるも
のの、本当のところはわからない。「どう
なったのかなあ」と、いまでも考えることが
あるのだ。無論、それは当方の思い入れ
過剰に過ぎず、本人たちはそんな過去
などきれいに忘れ、いい婆さんになって、
孫の守りでもしているのかしもれないが。


◎二例とも、大阪市内の話である。
建設関係で、「嫌がらせ」で金儲けをすると
いう、その例を見かけたことが二度ある。
ひとつは高級マンションの建設現場であるが、
その横手にある二階造りのコンクリート家屋
に、巨大な看板が設置されていた。いわくは、
この建物は犬の大規模繁殖場になる予定
です。よって臭気とともに、昼夜にわたって
鳴き声なども響きますので、近隣の皆さまに、
あらかじめお知らせしておきます云々。都心
にそんな施設が置けるのかどうか、法律面
のことは知らないが、普通に考えてありえな
い話であり、明らかに、マンションの販売
会社に対する嫌がらせであると思われた。

業者側は、購入希望者が下見に来たとき困
るわけで、その巨大な看板を撤去してもらう
ため、少なからぬカネを払うことになったはず
なのだ。もうひとつは由緒あるホテルの改築
現場であり、その道路に面した正面の片隅
に、本当に狭くて奥行きも浅い土地があって、
そこでは別の店が商売をしていた。ところが
それが無くなったあと、そこに葬儀社がオー
プンした。といっても形だけのもので社員は
常駐しておらず、看板に電話番号さえ記され
ていない。ガラス張りの内部には祭壇が設置
されており、全体として黒と灰色の陰気な色
彩が目立っていて、確かお経も流れていた。

これまた明らかにホテルに対する嫌がらせ
で、結局、何ヶ月かが過ぎたあと葬儀社は
無くなった。どれほどのカネが動いたのか
見当もつかないが、改築工事完了後、そこ
はホテルの玄関の一部になったのだ。
つまりそれを仕掛けた人間は、まず別の
商売をしていた者からその土地を買い、
ついでホテル側に高値の購入をもちかけ、
それが入れられなかったら葬儀社をなどと、
一連の手順を考えてやったのだろう。到底、
カタギにできる所業ではないのである。


怒らず笑うから、なおエスカレートする。

子供の言語感覚についてであるが、長女が
幼稚園だったか小学校低学年だったかの
あるとき、「お相撲しよう」と言ったことがある。
部屋のなかで遊びでやるだけのことだが、
「それなら、何か名前をつけなさい」と言った
ところ、自分を「にわとり錦」と名付けた。
小錦が活躍していた時代だから、ナニナニ錦
というのはわかるが、そこになぜ 「にわとり」
が付くのか。当方仕事柄もあって、「不思議
な感覚だなあ」と感心していた。しかも
仕切りをして立ち上がるときには、「はっけ
よ〜い。べろべろ〜っ!」と言うそうで、これ
には思わず吹き出していたのだ。

そして小学校の学年が進むにつれ、この娘
は無茶苦茶にして的確という表現を多発する
ようになった。当時、当方の頭がそろそろ
薄くなりだしていたのであるが、それを称して
「てんづるぼん」とか「すっぱらぱー」などと言う。
下の双子も一緒に公園へ行き、枯れ松葉が
大量に落ちていたので、それを手裏剣にして
忍者合戦をしたところ、投げながらいわく。
「ええい。はげつるびんた、これでもくらえっ!」
「禿げツル敏太」と書くのかどうかは聞かなか
ったが、この言語感覚には爆笑していたのだ。

双子たちについては、幼稚園の頃、テレビの
マラソン中継を二人でぺたんと座って見ながら、
「ぱんか〜れ。ぱんか〜れ」と声援していた
光景、トウモロコシをトウモコロシと言っていた
ことなど、覚え間違いが耳に残っている。
「ぱんか〜れ」は無論、「がんば〜れ」のことで
ある。小学校時代だったか、ディズニー映画の
「アラジン」を見てきて絵を描き、「アラジンの弟、
カンジン」などという者を作っていたこともあった。
ぱんか〜れ、トウモコロシ、カンジン。それぞれ、
何かに使えそうなのだ。そして年月が過ぎた
現在、姉ならびにその影響を受けた双子たちの、
当方をからかうときの言葉たるや、きつい・おも
ろい・ユニークと、三拍子揃っているのである。

◎菅笠様。メール拝見。
「バット・マスターソン」は、あまり見なかった
けど、「バークにまかせろ」はファンでしたね。
字幕なしだけど、どちらもユーチューブで、
完全版や断片版が見られますよ。

顔は似てても、内面は違ってただろう。

昔、バーブ佐竹のそっくりさんで、ネオン佐竹
という芸人がいたが、その種の話である。
中学校の某教師が、チビなのに肩が張った
体形と、四角い顔で眼が細いという人相によ
って、プロレスのグレート東郷に似ていると言
われていた。驚くほどそっくりというわけでは
ないが、確かに雰囲気は似ていたのだ。
高校では、アラン・ドロンに似ていると評判の、
物理の先生がいた。若い頃のアラン・ドロンで
あるが、これは見る角度によっては本当に似
ており、だから女子生徒に人気が高かった。
高校2年の同級生に、橋行夫に似ている男が
いた。頭を角刈りにしていたこともあって、これ
もまた見る角度によっては、「ほんまや。似て
るやないか!」と驚かされたのだ。

大学のクラブで同期だった女の子のなかに、
大柄で溌剌とした美人がおり、ある先輩が
「ロッサナ・ポデスタに似てるな」と言って
いた。当方その女優を知らなかったのだが、
いまネットで画像検索してみると、それほど似
ているわけでもない。ただし、ショートカットに
していたヘアスタイルと大きな眼が共通してい
るので、先輩はそう感じたのかもしれない。
広告マン時代、営業部に背が高くて一応は男
前の先輩社員がおり、北新地のクラブで飲む
ときなど、店の女の子に 「ぼくはよく、ゲーリー
・クーパーと間違われるんや」などと、自分を
売り込んでいた。しかし当方の印象では、ゲー
リー・クーパーには全然似ておらず、その渋い
雰囲気もなく、むしろ 「バークにまかせろ」の
ジーン・バリーに似ていたと思う。

などと書いている当方自身であるが、先年、
ある私家版の記録写真集を見ていたら、若い
時代の自分と同じ顔、同じ人相、同じ髪型の
男性が映っていたので仰天したことがある。
眼の表情が同じであり、その頃は盛り上がる
ほどにあった(笑)頭髪も一緒であり、「世の
中には、自分とそっくりの人間が3人いる」と
いう俗説は、本当だなと思っていたのだ。
そこで当方、私家版を出した人にそのことを
言い、それは何十年も前の写真だというので、
その人物の近年の写真も見せてもらった。
すると年月が過ぎた結果、まったく違う顔や
髪型になっており、当方とは別印象の年長者
になっていた。人生の道筋やその環境によっ
て、双方の変化変容に差異が出たのだろう。


◎市電が通り、オート三輪が走る街だ。

岩波写真文庫という、1950年代に発行され
ていたシリーズ本があり、復刻版が1980年
代の後半に出た。冊子スタイルの写真集で、
その一冊に 「空から見た大阪 1953」という
巻がある。昭和28年の空撮写真だから、
「へえっ」と驚く建物や光景がいろいろ映って
いる。たとえば裁判所は現在と同じ場所だが、
石造りで中央に高い塔を持った、時代を感じ
させる立派なものである。堂島川をはさんで、
対岸には日銀大阪支店、大阪市役所、府立
図書館、中央公会堂と、みごとな建物が並ん
でいたエリアだから、裁判所もその景観の大
きな要素だったのだろう。「なのに、なぜこん
な立派な建物をまるごと壊してしまったのか」
と、解せない思いがするのである。

日銀は正面の一部だけとはいえ残されている
し、図書館や公会堂もそのまま現存している。
けれども市役所と裁判所は、似ても似つかぬ、
味も素っ気もないビルになってしまったのだ。
大阪城内にある、戦前は第四師団司令部だっ
た建物は、この写真集では「警視庁」と説明さ
れている。戦後GHQの指令によって、警察は
国家地方警察と各自治体警察に分割された。
昭和28年にはまだその組織が残り、自治体
警察としての大阪市警視庁があったのだ。
新世界も空撮されているが、通天閣はない。
戦争中に鉄材献納のため解体されたからで、
再建は昭和31年(1956)なのである。

また南区(現在は中央区の一部)には、ものす
ごく大きな和風邸宅が映っている。建物といい
庭といい、落ち着いた品のある豪邸で、それが
住吉区の帝塚山となると、もっと格上になる。
「なるほど。戦前からの高級住宅地というのは、
こういう雰囲気だったのか」と、見るたびに
驚嘆納得するのだ。一方、時代が時代だから、
市内各所の長屋街や復興住宅も撮られている。
昭和28年(1953)、当方は5歳で大阪には
いなかったが、もし住んでいたら、どんな建物
や光景を記憶しただろうかと興味深い。


◎かくて日本は、どんどん劣化していく。

先日、滋賀県で19歳の警察官が、同じ交番
に勤務する40代の巡査部長をピストルで
射殺し、逃亡したあと逮捕された。詳細は
よくわからないが、何か罵倒されたのが原因
らしい。19歳の若者(若僧?)がピストルを
携帯しているという事実も怖いが、罵倒され
た程度で撃ち殺すという、その精神レベル
はもっと怖い。別のネットニュースで読んだ
ことだが、大学のサッカー部でキャプテンを
務めてきた男が建設会社に就職し、新人研修
で叱責されたら、寮の自室に閉じこもって
出てこなくなったという話がある。

しかもそいつはそのまま退社し、それどころ
か、パワハラを受けたとて300万円だかの
慰謝料を要求してきた。ただし、会社側の
弁護士は 「そんな話は成立しないから、
ほっとけばいい」と言い、本人側もどうやら
弁護士が「無理です」と判定したらしく、
そのまま立ち消えになったらしい。叱責され
たのは、研修で建設現場に入るときヘル
メットをかぶってなかったためだそうで、
となるとそれは、彼の安全のために注意し
てくれたことにもなる。そんなことまでパワ
ハラだと言われたら、当方なら 「そしたら、
どうしろと言うのだ!」と激怒すると思う。

記事によると、学生時代、サッカー部の
キャプテンで「お山の大将」だったから、叱
責がショックだったのかもしれないというの
だが、滋賀県の射殺警官と同じく、これも
また精神レベルの未熟さに怖さを感じる。
人から叱られたことがない人間の危険性で
あって、そういう若い男女が増えつづけて
いるのだろう。親も学校の教師も、そうやっ
て「王子様」あるいは「腫れ物」扱いをし、
その結果、世間で通用せん人間を製造して、
次から次へと送り出しているのである。

神護景雲なんて、いい元号だな!

来年、天皇の代替わりがあり、改元も行わ
れる予定だが、次の元号はどんなものに
なるのだろう。奈良時代には天平感宝、
天平宝字、神護景雲などと四文字の元号
もあったが、まず二文字であることは確か
だろう。ただし、頭文字がアルファベットで
M、T、S、Hになるものは除かれるという。
なぜなら、そうやって略表記すると、明治、
大正、昭和、平成と一緒になってしまうか
らである。で、それはともかく、元号が変わ
ったら当方、昭和〜平成〜ナニナニと、三
時代に渡って生きていることになる。

大正生まれなら四時代、明治の最終年である
45年は1912年だから、現在106歳
以上の人など、五時代に渡る人生になる
わけだ。しかしそれを言うなら、幕末から
維新期に生きていた人たちは、もっとすご
いことになる。天皇は孝明と明治の二人だ
けだが、ペリーが来航した嘉永以後、安政、
万延、文久、元治、慶応、明治と、元号は
ころころ変わったからだ。ペリー来航から
明治改元まで、たった15年なのだが、その
間、井伊大老が殺された万延など、その
元年だけで、翌年が文久になっている。

だからその当時には、十時代前後に渡っ
て生きてた人が、いくらでもいたことになる。
逆に昭和は実質でも62年余りあったから、
その一時代だけで一生を終えた人も多か
っただろう。戦争もありましたしね。とまあ、
こんな具合に考えてみると、元号と一般人
の人生との間に、本来、絶対的な関係性
など何にもないのだと、わかってくる。
ところで、次の元号に話をもどすが、先に
発表はできないのだろうか。カレンダー、
手帳、書類や事務封筒等々、先に発表して
くれたら大助かりという事例は多いのだ。
そのかわり、街のゴム印業者はミニ特需を
逃すことになるのだろうけどね。


あのう。これでよろしいのでしょうか。

本を読んで感想文を書くのは、別に難しくは
ないと思っている。「感想」なのだから、自分が
感じたことをそのまま書けばいいわけで、それ
が的はずれだからといって、笑われはしても、
文責を追及されることはないからだ。つまり、
子供が名作を読んで「退屈でした」と書いても、
本人がそう感じたという意味において、間違い
ではないのと同様なのだ。しかし新聞や雑誌の
読書欄で誰かの著書を「紹介」するとか、文庫
の巻末で作品を「解説」するとなると、それでは
すまないから緊張する。何はともあれ内容や
骨格を把握しなければならず、それがスカタン
把握だったら、著者や作品に対して失礼になり、
誤った判断を広めてしまう可能性もあるからだ。

そして、さらにそれが小説の「書評」となると、
もっと緊張する。作品に対して何らかの評価を
下さなければならないからで、実は当方、その
作業にはいまだに自信が持てていない。「おれ
はこう読み、こういう評価を下したけど、それが
的を射ているかどうか。う〜ん。わからんなあ」
であって、その自信のなさの根本原因は、自分
が「文学青年」ではなかったということだ。
読書は好きで、高校時代以来あれこれ読んで
きてはいるが、雑学趣味の乱読派だから、小説
はその一部ということになる。無論、好きな作家
や作品も少なくないけれど、好きになった理由は
上記した「感想」の域に留まっていて、文芸世界
での一般性を持たないのではないか。とまあ、
そう思うからで、書いて渡すときも、本当に「恐る
恐る」という心理状態なのだ。

往年、小松左京さんと話をしていたとき、「かん
べちゃん。開高健が好きやと言うてたけど、どの
作品が好きなんや」と聞かれたことがある。そこ
で、「最初に読んだのは『日本三文オペラ』です
けど、好きなのというと『青い月曜日』なんか、
いいですね」とこたえたところ、聞くなり小松さん、
「あれ、ええやろ。なあっ!」と、顔を輝かせた。
当方内心で、「ああ。あれはやっぱり、いい作品
だったんだな」と、ほっとしていたのである。
そして、こういう「わかってる」人から、お墨付き
(?)をもらえて初めて安心した事例は、別の第
三者や作品についてもいくつもある。そこから
考えれば、「自分の判断や評価に、もう少し自
信を持ってもかまわんのかな」と思ったりもする
のだが、いざ書くとなると恐れが先に立つ。
だから、書き上がったものには大抵、直接にし
ろ間接にしろ、「私はこう思ったのですが、間違
ってるかもしれません」という、弱気なエクスキュ
ーズが含まれてしまうのである。


◎国歌斉唱は、隔靴掻痒だったのね。

「君が代」は、小学校の低学年時代に習った。
ということは、卒業式や入学式などに在校生
または卒業生として出席するとき、式次第の
なかで斉唱していたのだろう。しかし、その
意味をわかって唄っていたかというと、全然
わかってないままにだった。おまけに、「千代
に八千代に」のあとは 「さざれ石のいわおと
なりて」であるが、この部分はメロディーとの
関係上、「♪ち〜よ〜に〜い〜、や〜ち〜よ
〜に〜さざれえ〜、い〜し〜の〜」と唄う。
子供の頭では、「ちよにやちよにさざれ」と
いうのと、その次の突然の「いしの」が、
何のことだか理解できなかったのだ。

そこから推理するに、音楽の教科書に国歌
は載っておらず、歌詞を記した紙なども配ら
れず、耳から聞くだけの教えられ方で覚えた
のかもしれない。同様の例は文部省唱歌に
もあり、「荒城の月」のなかの 「めぐる杯、影
差して」の部分は、「♪め〜ぐ〜る〜さ〜、
か〜づ〜き〜、か〜げ〜さ〜して〜」と唄う。
その 「めぐるさ、かづき」というのが何なのか、
見当もつかなかった。低学年だからまだ言
語化しての思考はできなかったが、すれば
「そもそも日本語なのか?」と、不審だった
のだろう。ただし、これは教科書に歌詞が
載っていたはずだから、こちらがちゃんと
それを見ていなかったことになりそうだ。

こういう事例は記憶を探れば、子供の頃に
耳で覚えた歌謡曲などにも、いろいろあるだ
ろうと思う。まして英語のヒットソングなど、
「わけわからん!」なのだ。「♪あいむそ〜
やんげん、じょ〜そ〜お〜、じすまいだ〜りん、
あいびんと〜」 何の歌か、おわかりだろうか。
ポール・アンカの大ヒット曲、「ダイアナ」の
冒頭部分だが、これではお経じゃがな。


愚かだと笑うのは簡単ですけどね。

先日、大相撲の舞鶴巡業時、市長が土俵上で
挨拶中に倒れた。そこで関係者の男性何人か
とともに、観客席にいた看護師らしい女性二人
が土俵にあがり、そのうちの一人は市長の
心臓をマッサージした。ところが大相撲の土俵
上は昔から女人禁制なので、土俵下の行司が
「女性は下りてください」と、三度アナウンス
した。それがニュースになり、八角理事長は、
行司が動転したためのアナウンスで、「人命に
かかわる事態に不適切だった」と謝罪した。

ネットでチェックしたところ、スポーツ紙の記
事では、観客席から「女性を土俵にあげてもい
いのか!」と「かなりの怒号」が起き、それで
行司たちはパニック状態になっていたらしい。
そしてそれを読んだ当方、何十年も前の事件
を思い出していた。確か東京のビジネス街だっ
たと思うが、あるビルで火災が起き、複数の
消防車が出動した。ところが、その彼らがとな
りのビルの消防隊用消火栓を使おうとしたら、
そこの守衛が「総務部長の許可を取ってもら
わないと困る」とか言って阻止し、敏速な消火
活動ができなかった。消防側は激怒し、結局、
そのビルの社長か誰かが謝罪したという、
そんな新聞記事があったのだ。

つまりその守衛は、突発事態における「事の
軽重」が判断できなかったことになるのだが、
そのとき当方、そこには「自分が上司に怒られ、
責任を問われたら困る」という、恐れやおびえ
があったのではないかと思っていた。事の軽
重を判断するとき、自己の保身が「重」になっ
ていたわけで、今回の行司も、無自覚にせよ、
それがあったのかもしれない。そして当方、
元「零細広告代理店の下っ端社員」、何かトラ
ブルがあったら、上司からもクライアントから
も叱責追及される立場の経験者として、これは
決して他人事ではないなとも思ったのだ。


昭和レトロの雰囲気に満ち満ちとるな。

小学校低学年時代、まだプラモデルが普及し
ていなかったので、模型はすべて木製だった。
その頃の記憶であるが、全長20センチほどの
潜水艦の模型を作ったことがある。胴体も司令
塔も木で、艦首と艦尾の各両側に、ブリキ製の
小さなヒレ(潜舵)をそれぞれ釘1本で止める。
また胴体中央部の底には、細長い鉛のオモリ
を釘2本で止める。そして、これまたブリキ製の
スクリューを艦尾の底に取り付け、ゴム動力で
走らせれば、ヒレの角度を調節することによっ
て潜航していくのである。それ以外の部品とい
えば、短い針金とニューム管で作られていた
大砲くらいで、潜望鏡は竹ヒゴだったと思う。
ところがこのとき、セメダインがなかったので、
手元にあったアラビア糊という製品で接着した。

確かゴム糊と書いてあったが、乾けばセメダ
インのようになると思ったのだ。そしてその夜、
風呂に持って入り、ゴムを巻いて手を離したと
ころ、潜航しだしたのはいいけど、湯の温度で
ゴム糊が溶けて、胴体と司令塔が分離してし
まった。しかし、翌日か後日にセメダインを買っ
て作り直さなかったのは、その模型代だけで
小遣いがなくなり、買えなかったのだろうと思う。
同じ時代、木製の模型で覚えているのは貯金
箱で、これは小鳥の家のかたちをしていた。
それとは別に小鳥の姿に切り抜かれた木の
薄片があり、そのくちばし部分に金属製の小さ
な円形部品を取り付ける。そしてその小鳥を
微小な角度だけ斜めにして、箱の表に可動軸
で取り付ける。つまり円形部品に硬貨を乗せれ
ば、その重みで小鳥がくるっとまわって、コイン
が箱の窓からなかに入るという仕掛けなのだ。

ところがその微妙な角度調節が難しく、コイン
を乗せてもぴくりとも動かなかった。何度か取り
付け直したはずだが、結局うまくいかず、その
まま放置したように覚えている。そして潜水艦
も貯金箱も、木肌のままで塗装しなかったのは、
模型用のラッカーを買う余裕がなかったからだ。
図画の時間に使う絵の具を塗ってもよかったの
だが、潜水艦でそれをやると、これまた水なり
湯なりで溶けて流れてしまったことだろう。
小学校高学年期には、同じ木製の模型でも
飛行機や軍艦のソリッドモデルを作り出した。
そしてそのうちプラモデルが発売され、以後、
中学高校さらには大学時代にも、買いあさる
ことになっていったのである。


◎そのうち、作品集が出版されるかもね。

電車の駅で、プラットホームのゴミ箱から、捨て
られた新聞を集めている人がいる。当方が見か
けるのは普段利用している阪神電車だが、JR
や他の私鉄にもいるだろうと思う。大型のショッ
ピングバッグをいつくも用意し、電車の乗り継ぎ
で駅を移動して、集めているようなのだ。そして
それは古紙として売るのだろうが、いくらほどに
なるのかは見当もつかない。それともどこかの
駅前で、その日にのみ売れる商品として、スポ
ーツ新聞などを10円とか20円で売ったりする
のだろうか。場所は覚えてないが、当方そんな
光景を見た覚えはあるのである。

で、その何人かの収集者のなかに、以前、
車内でシートに座って、なぜか微笑をうかべて
いる男がいた。50代か60代かは不明だが、
その微笑は「怪しい」ものではなく、普通の人間
の「嬉しそうな」ものである。それを何度か見か
けた当方、「何だろうな?」と思い、少し離れた
席に座って注視してみた。すると彼は膝の上に
ノートを置いており、微笑しながらそこに鉛筆を
走らせて、ときどきチラッと視線を上げている。
そしてその視線は、向かいに座った客に向けら
れているようだった。推理するに、どうやらその
客の顔を、スケッチしているらしかったのだ。

当方、そうなると確かめずにはおれないから、
立ち上がってさりげなく移動し、彼の前を通過
しつつノートを一瞥した。そしたらそこにはまさ
に顔が描かれており、それも漫画風ではなく
デッサン風のもので、「うまいやないか!」と
思えるものだった。日々、新聞を集めながら、
そうやってノートに「作品」を増やしていくのが、
彼の趣味であるらしかった。どういう人物なの
かはわからないが、もしノートが何冊も出来て
いるのなら、それを見せてほしいと思っていた
のだ。最近見かけなくなったから、彼は、街の
似顔絵描きに転業したのかもしれない。


3月
◎如是我見、一切通俗。呵々大笑!

ずっと以前、仕事場にしていたのは、北区の
裁判所に近い場所で、狭いワンルームだった。
建物自体は大型マンションで、フロアによって
レイアウトが異なっており、低層階の広いスペ
ースには弁護士事務所も入っていた。しかし
大抵は、小さな会社、個人の事務所、単身
赴任者用などに使われていたようだった。
集合郵便受けの表示を見ると、そのなかに
仏教系らしい宗教団体の事務所があり、当方
と同じくワンルームを使っているらしかった。
マンションの向かいに蕎麦屋があり、あるとき
そこで昼食をとっていると、となりのテーブル
で男二人が、食べながら話をしていた。

その具体的な内容は覚えてないが、たとえば
「捨欲」とか「功徳」とか、そんなことを一人が
説き、相手が拝聴している。そしてその説いて
いる男は、上等のスーツ姿で、髪はビジネス
マン風。顔に格別の特長はなかったものの、
「あ。こいつが、あの宗教団体の代表か」と、
明らかにわかる人相をしていた。当方より年
長らしいとはいえ若く見えるその顔が、いわば
「型どおり」だったからで、自分の立場を疑わず、
自身の言葉に確信を持って、しかもにこやかに
人に説くという、ある種のセールスマンにいそ
うなタイプである。おまけに説いている内容は、
通俗的と言うか表層的と言うか、「それくら
のこと、言うだけなら、おれだっていくらでも
作って言えるわい!」と言いたくなるような、
これもまた型どおりのものだった。だから当方、
「はは〜ん。そういう宗教団体なのか。つまり
商売なのね」と思っていたのだ。

そして何年かのち、新聞の広告で彼の顔写真
と肩書きに接して、それが正しかったことがわ
かった。これまた具体的な内容は覚えてないが、
たとえば「仏教入門」とか「観音経講義」とか、
そんなカセット集の通販広告で、監修者である
彼はナニナニ宗の座主だか管長だか。そして
その出自たるや、ナントカ親王・第十何代の
子孫に当たるというのだ。「これを型どおりと言
わずして、何を型どおりと言うか!」であって、
こちらは思わず、にた〜りと笑っていたのである。
その後、ナニナニ宗やナントカ親王十何代氏が
どうなったのかは知るよしもないが、いまでも
にこやかに、「欲を捨てなさい」などと説いてい
るのかもしれない。自分は捨てずしてですね。


ドラマのないのが、ドラマだとかね。

長編や連作短編で、実在の人物を題材に
した、緻密に淡々と書かれた作品が多数
ある。その主人公は、外交官だったり、
連続殺人犯だったり、銃殺された兵士何人
かであったり、いろいろである。範囲を広げ
れば歴史上の人物、大名や文人や剣客
なども、同様の作品になっている。そして
その核心となる構成要素は、主人公の生育
環境や性格気質、時代背景、それらが生み
出した人生の流れと起伏なのである。

で、それらを読んでいるとき、「こういった
作品においては、主人公が何らかの意味で、
特異特殊な人間でなければ駄目なのかな。
読者をひっぱり込んで没入させ、300ペー
ジなり500ページなりを最後まで読ませて
いくという、その牽引力において、本当に
普通の無名人では長編が持たないのか」と
思うことがある。星新一さんの膨大なショー
トショート群は、エヌ氏やエフ氏という命名で
わかるとおり、社会や人間の日常的な事象
を「蒸留」した、いわば抽象化された人物が
主人公である。しかしそれでも、その「点」
的な人物は、何らかの意味や状況において、
特異であり特殊である。そうでないと、それ
こそ「お話にならない」わけなのだ。

だから、当方が思うのはそうではなく、世の
中の基準ではかれば特異も特殊も何もない
人生だったという、そんな一生を終えた、本
当に普通の無名人を主人公にしたら、長編
や連作が持たないのかという意味である。
仮に 「101人そこらの人」というタイトルで
くくるとして、そんな人物たちの人生を淡々と
緻密に書き連ねていけば、その全体から、
何か質量感、重量感が出てくるのではない
かと、そう思ったりするのだが。


◎次の卒業式は、年月未定の葬式だな。

幼稚園には当方、5歳になってから1年だけ
通った。ところが、その年齢になっていながら、
入園式の記憶はまったくない。ひょっとしたら
中途入園扱いで、同じ組の子供たちはその
前年、または前々年に、入園式を済ませてい
たのかもしれない。卒園式も覚えてないが、
そのとき茶話会があったことは記憶している。
母親たちのために福引きが行われ、「皇太子
御外遊」と書かれた札を引いた人は、外遊→
旅→足袋というシャレで、足袋をもらったという。
そのことだけが、くっきり頭に残ったのだ。
ちなみに上記の外遊には、エリザベス女王
戴冠式への出席も含まれていた。昭和28年
(1953)のことで、その記憶と年表の記録は、
ちゃんと一致するのである。

小学校の入学式もなぜか覚えておらず、卒業
式はこれまた式自体ではなく、そのあとの 「お
別れ会」的な行事だけを記憶している。クラス
全員が舞台に並んで合唱する。当方チビだか
ら最前列にいたのだが、後ろがちゃんと並んで
いるかどうかが気になって、何度もふりむいて
いた(なにしろ級長だったもので。笑)。それで、
見ていた母親から、帰宅後、「きょろきょろして、
落ち着きがない」と叱られたのである。中学校
については、入学式も卒業式もまったく記憶に
ない。講堂も体育館もない学校だったから、
全員集まっての式はなかったのか。それとも
運動場で行われて、式の実感がなかったのか。
なお、当方が母親と一緒に登校したのはこの
入学時が最後であり、以後は卒業時も含めて、
すべて単独でということになった。

高校には立派な講堂があったけれど、入学式
も卒業式自体も覚えてない。ただし、その日は
同志社の入試合格発表の翌日で、当方は法学
部に通っていた。だから講堂の入口で、仲良し
グループの一人だった女子生徒の母親が、笑顔
で 「おめでとう」と声をかけてくれた。「浪人せん
ですみました」と、こちらも破顔一笑でこたえた、
その光景はしっかり覚えているのである。大学
の入学式は、これも立派な中央講堂で行われ
たはずだが、記憶にない。各学部の新入生が
無茶苦茶に多かった時代だから、そもそも講堂
に入れなかったのかもしれない。卒業式も同様
で、当方ならびに大勢の学生たちは講堂前の
芝生に立ち、スピーカーから流れてくる式次第を
聞いていたのだ。北の山から寒風が吹き下りて
くるなかゆえ、さぞ寒かっただろうなと、いま思う。
そして以上を概観するに、当方、公式的なことは
何も覚えておらず、私的なエピソードによって、
各年代の入学式、卒業式を記憶していることが
わかる。多分、誰でもだろうと思うが、違うかな。


豚も集団で輸送されてるのを見たな。

いわゆる「脳トレ」のひとつとして、「これまで、
どんな動物を見かけたことがあるか」を思い
出してみる。動物園やペットショップは別として、
普段の街中や郊外でという意味である。犬や
猫は当然であり、子供の頃から現在に至るまで、
多数多種類のそれを見かけてきた。同じく飼育
されているものとしては、鳩、十姉妹、ハムスタ
ーなど。二十日鼠は、友人の家で見たことがあ
るような気がするのだが、正確な記憶ではない。
牛や馬は子供時代、まだそれに牽かせる荷車
が使われていた時代だから、何度も見た。競争
馬も新潟にいた小学校低学年期、近くに地方
競馬場があったので、走るところも見たし、運動
のためか市道を歩かせているのも何回も見た。

学校の裏手が海だったので、波打ち際に大きな
ヒトデが打ち上げられていたのも、同じ時代だ。
狸は中学校時代、グラウンドに走り込んできて、
ちょっとした騒ぎになった。豊中市の住宅街に
あった学校だが、近所には未開発の丘陵地帯
が広がっていたのだ。ただしこれは、皆が「狸だ
狸だ」と言っていただけで、本当は犬だったの
かもしれない。野兎は確かに見た。同じく豊中
時代で、30分ほど歩くと服部緑地公園がある。
当時その周囲は広大な未開発地で、森や竹林
が連なっていた。竹林のなかを、茶色の兎が
跳躍して逃げていったのだ。そのあたりにいくつ
かある池では、ザリガニ、雷魚、亀などを見た。

海の動物なら大学時代、夏休みに合宿していた
敦賀で、大量のクラゲを見た。毎年、お盆の前後
頃に発生し、こちらが泳いでいる横にもぷかぷか
浮いていたのである。ここではウミネコもたくさん
見かけたな。そうだ。野生の鳥を忘れていた。
子供の頃から、雀、鳩、燕、その他いろいろ見て
きていたのだ。社会人になってからの目撃例では、
深夜の梅田地下街で巨大なドブ鼠、ぶらりと出
かけた亀岡の城跡で1メーター以上ある青大将、
和歌山城の石垣にいたリス、大阪市内のマンシ
ョン街で、逃げ出したペットが野生化したらしい
イタチの仲間などがある。名前は何だったかな。

猪は六甲山から流れてくる住吉川、その河床
で見たように思うのだけれど、テレビニュースの
映像記憶が変形したものかもしれない。白ウサ
ギは筒井康隆さんの家で数匹見て、当方その
一匹を貰って飼っていた。またまた思い出した。
いつだったか、田んぼでモグラが死んでるのも
見たことがあるな。ちなみに、これまで街なかで
見かけた一番大きな動物はカバであって、新潟
時代、家の近くにやってきたので、子供たちが
群がった。ただしこれは本物ではなく、その色
と形を模したカバヤの宣伝カーである(笑)。


◎由々しき事態
だ。とも思ってないのかな。

昔、小松左京さんがアメリカ旅行中、レストラン
で食事をしていると、地元のおっさんが寄って
きて、「日本人が残虐なのは、砂糖を取り過ぎ
るからだ」と言ったそうだ。それはつまり、戦争
中の日本軍による残虐行為と、見たのか聞いた
のか、すき焼きの肉にも砂糖をかけるという
行為を、短絡的に結びつけての判断らしかった。
そこで小松さんが、「それなら世界一残虐なの
はアメリカ人だということになるぞ。国連の統計
では、一人あたりの砂糖消費量はアメリカ人が
トップなんだから」と言ったところ、おっさんは
ぶつぶつ言いながら、むこうへ行ったという。

ところで、前にネットのニュースで知ったのだが、
「トイレが詰まった」とか「家内が帰ってこない」
とか、110番にそんな通報をしてくる人間が少
なくないそうだ。そこで上記したおっさん式に、
これを別の事実と短絡的に結びつけて判断を
下すなら、その種の人間が増えているとしたら、
それは日本人が本を読まなくなったからだと
思う。詳しい説明は大変なので省略するが、
その因果関係はちゃんと成立させられるのだ。
そしてこの判断は、アメリカのおっさんのそれ
より、ぐっと事実に近いのではないかと思う。

別の事例で言うなら、いわゆる「ネット右翼」の
でたらめな主張など、まさに「本を読んどらん」
からそうなるのだと、断定してもいいのでは
ないか。別に紙の本でなくても、ネット上で
関連知識はいくらでも摂取できるのに、それ
すらやってないように思えるのだ。大学生の
半分ほどは、一日の読書時間がゼロなのだと
いう、最近の調査結果もある。かくして短絡
思考者が、ますます増えていくのである。


減っただろうけど、いることはいるのだ。

昭和60年前後だから、いまからもう30年ほど
前のことになる。その時代にすでに中高年に
なっていた女性何十人もに、人生の道筋を語
ってもらった私家版の記録があり、ある原稿
執筆の資料として興味深く読んだ。育ったのは
大阪を主として、その近郊および神戸や京都
など。共通する経験としては、太平洋戦争中の
空襲、戦後の混乱期における生活難などが
あげられる。なかには高等教育を受けた人も
おり、「大手前に行くか清水谷に行くか、迷い
ました」などと言っているのは、現在は大阪
府立の名門高校である両校が、戦前は
高等女学校だったからだ。

そしてそれらとともに、「なるほどなあ」と
唸る気持ちになったのは、養子の縁組み話が
多いことだった。たとえば自分には姉がいて、
どちらも結婚したけど、姉のところには子供が
できなかった。そこで自分の息子二人のうち
一人を先方の養子にし、彼にその家を継がせ
ることになった。伯母さんの家だから気兼ね
がなく、後年結婚した相手も良い人だったので、
いまも彼らは同居して仲良くやっている。
あるいは、私の家は女の子が三人できたの
だが、そのうちの一人に婿養子を迎えて、
我が家の跡継ぎにした。商売が好きな真面目
な人だから、家業も安泰でありがたい云々。

とまあ、こんな話がいくらもあるわけで、これは
つまり戦前には、「家」とか「跡継ぎ」とかが非
常に重く見られていたからだろう。その時代の
民法でも、家督相続ということが、厳密に定め
られていたのだ。「そうしないと家が絶えてしま
って、御先祖様に申し訳ないですから」などと
いう言葉は、現在、よほどの旧家である地方の
名家とか、都会なら昔から代々の商売をして
いる家などでしか、聞けないのではあるまいか。
ちなみに、当方の大学時代の仲間に養子に行
った
男がいるが、そこは出身地の名家も名家、
何々藩の家老の子孫で、広い屋敷と庭園は
文化財になっている。そういう家に娘しかでき
なかったら、これはもう、養子が絶対必要という
ことになるのだろう。だから彼はいま、十何代
目の当主として、「家」を守っているのである。


終身雇用なんてありえんのだろうな。

作家になってからの一時期、「リーダース・ダイ
ジェスト」という小型の雑誌を、定期購読していた
ことがある。確か10カ月分の料金を払い込めば、
1年分が毎月郵送されてくるというシステムだっ
たと思う。そしてこの雑誌は本社がアメリカで、
世界100カ国以上で翻訳刊行されていた。だか
ら日本語版も大半は翻訳記事で、アメリカやヨー
ロッパのニュース、人物評伝、書籍紹介などが
載っている。誌名でもわかるとおり、長い評論や
小説がダイジェストされているのだが、読んで
いて、無理な短縮とか不自然な省略とか、そんな
印象を受けたことはない。ということは、それだけ
ダイジェストがうまかったのだろう。

ところがこのダイジェスト誌、後年実売部数が
低下してきたらしく、あるとき突然、日本語版の
発行が休止された。それどころか、そのあと
リーダース・ダイジェスト社自体が撤退し、終戦後
に開設されたらしき、皇居のお堀端のビルに入っ
ていた日本支社は消滅した。漠然とした記憶だが、
そのときには身分保障や退職金問題で、労働
争議が起きていたようにも思う。当方、すでに
定期購読はしてなかったので実害は受けなかっ
たが、「ちょっと売れなくなったら、たちまち支社
ごと畳むのか。アメリカの企業はドライだなあ」
「外国の会社に勤めるのは、こういうリスクが
あるから考えものだな」と、あきれていたのだ。

いまネットで調べてみると、アメリカの本社は20
13年に倒産したという。そのときにも、さぞや激
しい争議が起きたのではなかろうか。そういえば、
アメリカの玩具販売会社「トイザラス」も昨年9月
に経営破綻し、全店閉鎖するらしい。日本でも
大型店を展開していたが、それはどうなるのか。
そこで考えてみれば、グローバル化によって
韓国や中国以下、いろんな外国企業が進出して
きているが、勤める者にとっては同様のリスクが
あるのではないか。無論逆に、海外に進出した
日本企業も、同じリスクを与えているのだろうが。

◎なのに「一強」という、それが問題なのだ
往年、自由民主党に所属する政治家たちには、
官僚派と党人派という色分けがあった。前者は
官僚出身の人々で、吉田茂以下、岸信介、池田
勇人、佐藤栄作などがその代表例。後者は地方
のボス出身とか、特定業界の強い後ろ盾を持つ
とか、そんな諸氏で、大野伴睦、河野一郎、田中
角栄などが有名だった。そして、これはあくまで
イメージとしてはであるが、官僚派はエリートで、
高度の専門知識や、怜悧な判断力の持ち主と
思われており、党人派は親分タイプで、義理人情
を重んじて、清濁併せ呑む大物という印象を与え
ていた。もしくは、売り物にしていた。

無論、実情実態はどちらも、そう明快に割り切れ
るものではなく、双方、裏ではどろどろの裏切り
もやれば、冷酷な切り捨てもしていた。それは
伊藤昌哉の「自民党戦国史」を読めばよくわか
るのだ。しかし、そうやって人材混合状態だった
自民党で、官僚出身ではない政治家も少なから
ずいるものの、いつ頃からか党人派という呼称
は聞かれなくなった。当方が思うにそれに連れて、
各省庁の次官や局長クラスを押さえ込み、政治
の主導権は、行政ではなく立法の府が握ってお
くべきものなのだという、その大方針を堅持でき
る大物が、少なくなったのではないか。

官僚出身の政治家は、やはり官僚的な思考法
が身についてしまっているだろうし、怜悧なエリ
ート社会にも独特の私利優先態勢や、かばい
合い、隠し合いの掟がある。そこで育った人間
が各省庁を押さえ込もうとしても、おのずと
限界が出てくるだろう。押さえ込むのは、やはり
非官僚出身の大物政治家が適していると思う
のだ。そしてさらに考えてみると、呉越同舟時代
の自民党は、いわば日本そのものの縮図だった
のだとも思えてくる。「村」社会の集まりであり、
利害は常にその村どうしでも対立するが、それ
をそのときどきの談合や調停によって、「まあ
まあ」とか「なあなあ」で収めていく。

また政治の大方針や施策にしても、たとえば右
に寄り過ぎて外部から批判が出れば、次は別
の集団(派閥)が担当して、少し左にもどす。
一定枠内でのこととはいえ、保守もおれば革新
もおり、国際派もいれば国内専門の人もいる。
いわば自民党一党だけで、変幻自在の政権
担当ができてきていたのだ。だからその視点で
見る限り、90年代以降の自民党分裂は、日本
にとって良くないことだったとも言える。安倍
首相は官僚出身ではないが、党人派のタイプ
でもない。だから官僚の押さえ込み方が、何か
せこいものになっている。党人派の最後の
大物は小沢一郎だったのかもしれず、いまも
彼が自民党内にいれば、安倍氏や各省庁に
対する直接間接の、大きな抑止力になってい
たはずだと思うのだが、どうだろうか。


◎客を取られて、街の模型店も減っていく?

モノタロウという会社があり、工具や建築資材
以下、さまざまな商品を販売しているそうだ。
阪神電車で尼崎市内を通過するとき、武庫川
の近くにその社名を表示した、巨大な物流倉庫
も見えている。そして先日、ネットで新聞社の
サイトをチェックしていたら、その横に突然モノ
タロウの広告が出てきた。別に当方が工具や
資材を検索した結果ではないから、クリックした
新聞記事のなかに、何か関連する呼び出し
(?)要素があったのかもしれない。

また、その広告には商品写真が複数並んで
おり、そのひとつは太陽光で回転する小型モー
ターだった。おもしろそうなので開いて説明を
読むと、低速回転の用途に向いているとあり、
価格は899円である。それ以外に、これも小型
の風力発電用モーター399円とか、リモコンの
ロボット組み立てキット769円とか、興味をそそ
られる製品もあれこれ出ている。そこで「これは
一遍、見に行かなければ」と思って、モノタロウ
の店舗検索をしたところ、何とこの会社はネット
通販のみで、店舗は置いてないのだった。

本社も尼崎市にあり、上記した巨大な倉庫が
デリバリーセンターなのだという。しかし当方、
ソーラーモーターとかミニサイズの風力発電機
とか、そういう製品を、あれこれ手に取って
見るのも好きなのだ。よって、他のホーム
センターでも売っているかもしれないから、
一度そちらをチェックしてみようと思っていた。
何にせよ、ネット通販のみで経営を成り立た
せる企業は、多様な業種でどんどん増えて
いくんでしょうねえ。黒猫ヤマトや佐川が悲鳴
をあげたように、配送会社は大変だろうが。


60代にしか見えない80代もいるしね。

繁華街や電車のなかで、「世の中、確かに
老人が増えたなあ」と思うことが多い。当方も
実年齢はそうなのだが、主観的にはまったく
そうは思ってないので、この場合は 「自分
でも老人だと思っているらしい男女が」という
ニュアンスである。しかし仮にその彼らの年齢
を確かめたとしたら、実は当方より年下だとい
う人も、少なくないのかもしれない。

なのに 「老人が」と思うのは、人相や表情、
服装の色柄などに、「へえへえ。私は老人
でっせ」と、言外の表明をしている例が目立
つからだ。もちろん、表情も服装も無理に若
作りする必要はなく、下手にやったらかえって
不自然になる。しかし、気持ちの張りとか、
服装の整え具合とか、「そんなこと、もうどう
でもよろしいねん」という雰囲気の男女を見る
と、「結局は何だろう。生活のなかでの目標と、
そのための気の張りかな」と考えたりする。

職業世界からはリタイアしていても、趣味
とかボランティア活動とか、目標にできること
はいろいろある。そして人間の脳は、「何か
具体的な目標を与えられたとき、その実行
や実現に向けて働き出す」特性を持って
いるという。そこから考えれば、「頭を興奮
させるというのか、要するに何らかの意味で
の高揚感かなあ」と思うのだ。無論、各人の
生き方、考え方の問題だから、老人自認を
悪いと言うつもりはないのだが。

◎「馴れ」が「狎れ」になっていると言うか。

先日来、仕事上の必要があって、伝記や評伝を
何冊か読み返していた。構成や記述スタイルを
確認するためで、参考になる手法や執筆姿勢が
いろいろ得られた。しかし一方、「これはちょっと
なあ」と思う事例もあり、明治時代に活躍した
人物の事績伝に出てくる会話にひっかかった。
さまざまなエピソードを、文章で描写あるいは
記述していくとともに、その本では会話形式でも
伝達している。仮に 「東京で政府の誰それに
面会し、事業案件を説明して、その尽力を得る
ことに成功した」というエピソードがあるとして、
それを登場人物の会話によって説明していく。

ときにはそれが小説風にもなっており、当然、
地の文で説明するよりは長くなる。加えて
「未処理」だと思われるそれがつづくため、全体
中の随所で、内容密度が希釈されてしまって
いると感じたのだ。エッセイにしろ小説にしろ、
そのなかで使う会話は、現実の会話とは異なっ
ている。「ええ〜」とか「そのお」とかの間投詞を
省き、必要である場合以外、話者に言い間違い
や繰り返しはさせず、いわば日常会話のなか
からエッセンスを抽出して、かつ、それを読みや
すい口語体で示していく。だからエッセイや小説
に出てくる会話は、そんな伝達効率のいい会話
は日常ではありえないという、その意味では
不自然なものなのだが、それを不自然と感じさ
せないように書くのが、作家の技術なのだ。

上に「未処理」と書いたのは、作品中に出てくる
会話にそのエッセンス化が不足しており、間投
詞や繰り返しなどはないものの、冗長さが目立っ
たことをいう。間延びと言ってもよく、そういう会話
が各所に配されているため、内容密度の断続的
な希釈を感じてしまったのだ。著者は伝記の主人
公の子孫にあたる人だそうだが、ものを書く仕事
や立場には就いていない。だから当方の勝手な
推理だけれど、「実際に書いたのは、依頼された
ライターではないかな」と思った。失礼ながら、
フリーライターの文章や会話には、ときどき同様
の事例があるからだ。放送作家の書く会話にも、
間々ありますね。どちらも、一応はうまいのだが。


◎高周波による無音削岩機もあるのかな。

パソコン周辺機器で、いま使っているプリンター
はインクジェット式だが、以前はワイヤードット
プリンターだった。インクリボンのカセットをセット
し、移動するその面を10何本だかの細い鋼線
の先端で、「突いて」いくことによって印字する。
当然、バチバチッ、バチバチバチッと音が断続
するわけで、うるさい機器だった。だから、
オフィスなどで大型の機種がのべつ印字して
いたら、周囲の者には騒音だったに違いない。

そこからの連想であるが、事務文書でも現在
はパソコンで作成するから、オフィス内に聞こえ
るのは、キーボードを叩く音くらいだろう。しかし
パソコンやワープロ以前はタイプライターだった
わけで、これは細くて小さいながらも、ハンマー
スタイルで文字を「打ちつける」ものだから、
その音はキーボードとは比べものにならない。
慣れた英文タイピストが打つときには、騒音の
洪水状態になっていたのだ。まして和文タイプ
となると、ハンマーの打撃音はさらに大きく、
バーン、ガシャーンというものだったのである。

もっと連想を広げるなら、輸送機器や産業機器
の製造工程で、いまはロボット溶接で処理して
いる箇所を、昔はリベットでやるという事例が
多かった。鋲打ち機というのか、大型で多数の
それを使う自動車や造船の現場など、どれほど
の騒音だったかと思う。機器の進歩は、静謐化
への流れでもあるわけですね。


◎真夜中、雛人形たちがささやきだし…

江戸時代から続くという旧家の広い屋敷で、
一体が高さ30センチほどもある、古くて立派な
雛人形を見たことがある。記憶が曖昧だが、
どこか地方へ行ったとき造り酒屋を見学したら、
ちょうどその季節だったので、それもずらりと
展示してあったのだ。そしてその重厚な屋敷は、
上がり框(かまち)といい柱といい梁(はり)と
いい、太くてがっしりとした木材が使われており、
築後百何十年の歳月を示して黒光りしていた。

台所には、いまの1ルームなどよりよほど広い
土間があり、隅に土造りの大きな竈(かまど)
が設けられていて、大きな羽釜が三つか四つ
か掛けられていた。土間をあがると板の間で、
奉公人たちは、そこにじかに正座して食事を
したのではないかと思われる。無論、主人と
その家族たちは奥の畳の部屋で食べたのだ
ろうし、そのおかずや品数にも格段の差があっ
たに違いない。また冒頭に書いたみごとな雛
人形は、たとえば跡継ぎである若主人、その
婚礼時の花嫁道具のひとつだったのか。それ
ともその後、女の子ができてあつらえたのか。

これらを封建時代の身分貧富の差という観点
で捉えると、「まあ、この広い屋敷や立派な
雛人形の背後には、嫌な話や悲惨な事実が
数多くあったのだろうなあ」と思わされる。
しかし一方、「こういう場を舞台にした小説を
書くとすれば」と考えると、家屋や一族の歴史
と、そこに関係する人々の姿を想像させられる。
いまあらためて考えるに、歴史小説や時代
小説ではなく、幻想的な、それでいてきちっと
した短編が良さそうに思うのだ。