玉石混淆・ふりーめも

聞いた話に、見た話。思考の断片、読んだ本。
経験したこと、させられたこと。何が出るかはわからないけど、
嘘とデタラメは書きません。……ほんとかな?


今月のお写真。2019年の火災で焼失する前の首里城正殿。先月、
琉球王国の国王を描いた肖像画以下、太平洋戦争の沖縄戦で所在
不明になっていた文化財がアメリカで発見され、沖縄県に返却された。
どうやら沖縄戦後、米兵が略奪して国に送り、それが人手に渡って
いたものらしい。それらの写真を見ると、昔の中国の影響が非常に
大きいとわかる。この正殿も同様で、城というより館(やかた)である。
対して、太古の珊瑚礁が生成した琉球石灰岩の城壁は、いかにも
南方風で、呂宋(るそん)か安南(あんなん)の城郭を連想させられた。
正殿はもっか復元工事中。無事完成をお祈りいたします。


『人間・湯川安太郎 神様は御主人 自分は奉公人』が
刊行されました。詳細はトップページを御参照ください。

2024年4月


◎咳は出るし、ずるずると長引くし。さっぱりわやや!
ひさしぶりに風邪をひき、丸三日間は昼も夜もひたすら横になっ
て寝ていた。その後もだるさがつづき、足かけ6日目の現在、
ようやく食欲はもどったけれど、まだ本調子ではない。最初の
日の夕方、仕事場でパソコンに向かっている最中、突然疲労感
に襲われ、「おかしいな」と思ったら熱も出てきたようで、計ると
37度6分あった。「ひょっとしてインフルエンザか」とびびった
のだが、もしそうなら熱も37度台では済まないだろう。幸いそう
ではなかったわけだが、しかし一時は38度2分にまで上がって
いたのである。そしてこの風邪、実は家族の誰かが外でもらって
きたものらしく、5人中三女以外の4人が順に発熱していた。

次女などここしばらく仕事多忙で過労気味だったらしく、起きられ
なくなって二日間欠勤していた。だから夕食には、麩と卵を炊き
合わせた「病人食」が出たりして、当方、「ああ。子供の頃に、風
邪をひいたらこんなのが出てきたなあ」と、懐かしく頂戴していた
のだ。また仕事場で横になるときには、足元に電気アンカを入れ、
毛布をかぶって温かくしながらだったが、仰向けの姿勢で本を読
みつつそれを始めると、たちまちとろとろと眠ってしまう。そんな
とき見る夢は、不気味な内容だったり何十年も前に経験した光景
だったり、仕事柄興味深いものが間々あるのだが、今回はその
夢も見られず、とにかく眠っていた。

食欲もないから、昼食はトースト半分に野菜スープのたぐい、泊
まりの夜の夕食も、うどん半玉の味噌煮込みなどで済ませてい
た。しかし栄養は摂らなければいけないと思い、近くのコンビニ
で珍しく牛乳を買ったり、ブドウ糖でエネルギーを補給するべく
ラムネ菓子を仕入れたりしてきた。牛乳を温めて飲み、風邪薬と
ビタミンCのサプリとブドウ糖で、何とか快方に向かっていたので
ある。それにしても、普段「風邪気味だな」と思ったときには、
就寝前に風邪薬を一回分飲んでおくだけで翌朝はすっきりして
いたのに、今回はそうはいかなかった。多分、抱えている個人的
な問題でストレスが蓄積されて、抵抗力が落ちていたのだろう。
「身体は正直なものだな」と、実感していたのだ。


あの会社は買ったが、この会社は売った。厳しいねえ。
産経新聞のネットサイトには、何年か前から戦記雑誌「丸」の写真
や記事も出るようになっている。「丸」は潮書房が発行してきた月刊
誌で、プラモデル少年だった当方、小学校高学年頃からときどき買っ
ていた。同書房はのちに光人社という出版社も設立し、ここは19
90年代になってから、「光人社NF文庫」という戦争関連の記録
作品を次々に出し始めたので、これまた当方あれこれ買ってきた。
そしていま調べてみると、2012年に潮書房と光人社が合併して
潮書房光人社になり、2017年には財産管理会社と事業会社に
分割して、後者の株式は産経新聞出版が全部取得したそうだ。
だから会社名は潮書房光人新社となり、その所在地も大手町の
東京サンケイビル内に移ったというのだった。

当方、「戦記雑誌や、戦争関連のドキュメンタリー文庫を出してる
会社を子会社にするとは、いかにも産経らしいな」と苦笑していた
のであるが、実際、産経新聞本紙にも零戦がどうとか沖縄戦が
こうとか、唐突な記事が掲載されるようになっているのだ。一方、
往年当方が早朝生ワイド番組を担当させてもらった大阪放送(
ラジオ大阪)は、設立以来産経との縁が深く、元の大株主だった
前田某氏がのちにそれを産経新聞に売却したので、以後はそこが
筆頭株主になっていた。上記した生ワイド番組の時代には、
社長はラジオ大阪の生え抜きだったが、専務が産経新聞からの
天下りで実権を握っていたのである。ところが2021年7月末
以降、同局の筆頭株主は「DONUTS」(ドーナツ)という会社に
なっており、「クラウドサービスおよび動画・ライブ配信サービス、
スマートフォンゲーム
開発などを主体とする企業」だという。

産経新聞が保有する株の大方をドーナッツに売ったためで、放送
局がその種の会社を子会社にするのではなく、その種の新興企
業が、世が世なら「天下の」と冠せられても不思議ではない放送
局を子会社にしてしまった。「世の中、変われば変わるものだ!」
なのである。そして当方、「しかし何でまた、そんな最先端の会社
が、わざわざ凋落傾向にあるAMラジオ局を傘下に?」と怪訝に
思い、企業買収などに詳しそうな人に聞いてみたら、「そういう業
種の金のある企業が、とりあえず他社を買っておく事例はよくあ
るんですよ。利用価値がないとわかれば、すぐまた売ればいいと
思ってね」とのことだった。ラジオ大阪の東京支社は長らく銀座に
あったのだが、現在、代々木のドーナッツ本社内に移っている。
「すぐまた」売られれば、そこも出なければならないわけで、そう
ならないよう、「願いたいのはやまやまなれど」なのである。


◎いやあ。本当に使い勝手のいい用紙でしてねえ。
零細と中堅。3年ずつ2社に勤めた広告マン時代、後社企画部
にはオリジナルの企画書用紙があった。ビジネス文書の用紙は
普通A4サイズだが、それより大きいB4の縦型で100枚ずつ
頂部が糊付けされており、用紙には目立たない細い罫線が方眼状
に印刷されていた。パソコンはもちろん、ワープロさえ無かった
その時代、大きなキャンペーンの企画書や競合プレゼンテーシ
ョンの提案書などは、元原稿をタイプ印刷に出して作成していた。
しかし手書きでもかまわない場合には、この企画書用紙で作って
いた。提案文章を書き、参考写真やイラストは別途に用意して
それに貼り付け、 必要な部数をコピーしていたのだ。そしてこの
企画書用紙、使い勝手が良く、仕事脳を刺激されて便利だった。

だから当方、脱サラして作家になったときほぼ同じ用紙を作り、
親しいデザイナー経由でよく知っている印刷会社に発注して、
大量に印刷してもらった。B4版の縦型で、罫線は薄いグレー
グリーンであり、方眼は30字×40行で1200字分ある。肉筆
で書きやすくするため、紙はインクをよく吸う中質紙である。
そしてこれは企画書ではなく、原稿の案を練ったり構成を考えた
りしていくための用紙だから、最上部には別枠を置いて、そこに
誌名・枚数・締切・担当者名を記入できるようにした。小説でも
エッセイでも、依頼を受けたらまず最上部の別枠を埋めて、
方眼紙部分に先方の依頼事項や、当方の心覚えをメモしておく。
締切が近づいたら、それを睨んで仕事脳を稼働させるのである。

そんなわけでこの用紙、何十冊刷ったのかは覚えてないが、
とにかく大量に用意して長年活用してきたところ、先日気が付い
たら、あと3冊しか残っていなかった。「よく使ってきたなあ!」
であり、「いつか来るラスト地点まで、使用量は3冊でちょうど
くらいかな。それとも余るのか、足りないのか?」なのである。
対して同じく大量に印刷してもらった原稿用紙は、同じB4で同じ
中質紙、罫線も同色にした20字×20行の400字詰めである。
そして左下隅の枠外に、当方の似顔絵を小さく入れてあるのだ。
ただし、こちらは上記用紙の何倍も使用してきたため、途中で
何度か増し刷りしてもらった。けれどそのうちワープロが新発売
され、ほどなくパソコンの時代にもなったため、未使用分は
死蔵することになっているのである。


◎いまの露・中・朝が危険な国であることは確かだが。
自衛隊は憲法違反の存在であるのか否か。九条の第二項には
「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は
これを認めない」と書いてあり、それに素直に従えば違憲だろう。
自衛隊は「その他の戦力」のうちに入らないのか。「交戦権」の
なかには自衛の戦いも含まれているのか。これらは専門家の
解釈議論になるから、どこまででも対立が続くのだ。しかし戦後
史の現実を見れば、なぜこんな問題が発生してしまったのかは
一目瞭然である。憲法制定時には、アメリカの「日本に軍国主
義を二度と復活させない」という意向が強く働き、国民間にも
「これでいい。理想的な憲法だ」と納得賛成する人々が多かった
のだ。しかしほどなく米ソの冷戦が露骨になり、北朝鮮の奇襲
による朝鮮戦争が起きて、理想論ではすまなくなった。占領国
最高司令官マッカーサー元帥の鶴の一声で、警察予備隊と
海上警備隊が作られ、それが現在の自衛隊の元なのだ。

だから九条を改定するならそのときやっておくべきだったのに、
それはそのままにしておいたから、問題が長く後を引いているの
である。で、それはそれとして、近年の中国、ロシア、北朝鮮の
強圧的な動きにより、いまや自衛隊などいらないと思っている国
民は極少数だろうと思う。いざというとき何の防御ができなくても
かまわないとは、まあ普通の市民は思わないはずなのだ。放って
おけば領空領海を侵犯され、離島を占領され、国民の生活にも
被害が及ぶだろうからだ。他にもサイバー攻撃があり、ネット世界
での洗脳的なプロパガンダ攻勢があり、現実問題として、丸裸で
はどうにもならないのだ。一方そこで考えてみるに、首相も防衛
大臣も文民で、現実の作戦や戦闘に関する専門知識と経験は
ゼロに等しいから、そこにはある種の「危険」が潜在している。

すなわち、戦前の用語で言えば軍政と軍令であり、当時は軍政
も軍人が担っていたが、戦後は文民が担当している。しかし統幕
以下の陸海空「軍令」集団は、文民「軍政」集団を、騙そうと思え
ばいくらでも騙せるだろう。秘かに何かの計画や準備を進めてい
ても報告しないとか、追及されたらごまかすということもできるは
ずだ。なぜなら文民は、本当に専門知識に劣るからだ。ちなみに
海自護衛艦隊の攻撃力は、とうに旧連合艦隊を超えているそうで、
いまや空母まで保有している。このあたり、中国・ロシア・北朝鮮
の動きを奇貨としての、過剰増強ではないことを、願うや切なの
である。なぜなら「軍」は必ず自己目的としての増強を意思しだす
からだ。戦前の日本の軍部はもちろん、文民統制の本家本元で
あるアメリカでも、軍産複合体がそれをやっているのである


◎先生の記憶その10。
中学に兼岡という体育教師がおり、こいつは暴力をふるう男だった。
授業中、横一列に整列していた生徒たちに突然乱れが生じ、一人
が前へよろめき出たことがあった。兼岡は「ふざけるな」とか言い、
するとその生徒が「横から押されたんです」とこたえた。途端に「言い
訳するな!」とどなって、彼にビンタを食らわせていたのである。
生徒は「本当です!」と泣きそうになって抗弁したのであるが、その
あとどうなったかは覚えていない。いまなら大問題になるに違いない
が、当時はそんなことがまかり通っていたのだ。また当方、小学校
6年のとき踵の骨の病気になり、病院に通って、体育の授業は半年
以上「見学」扱いにしてもらっていた。元来不器用なところにそれが
重なって、スポーツは不得手だし敬遠するようにもなっていた。兼岡
の授業でも、不器用さや下手さが目立っていたのだ。

すると後日の校外学習のとき、ベンチか何かに座っていたらそこに
兼岡が通りかかり、にたにた笑いながら、「よお。文学少年」と言った。
しかし当時の当方、プラモデルに熱中しており、その関連で戦記雑誌
「丸」などは読んでいたが、文芸作品にはまだ特に興味はなかった。
暴力教師であることに加えて、体育が下手だというだけで「文学少年」
と判定する思考の粗雑さに、当方黙ってこたえず、内心では軽蔑の
念を抱いていたのである。ずっと後年、この教師が別の中学校で教頭
になっていることを知ったが、多分その特性は変わらなかっただろう。
一方、数学だったか理科だったか、直接習ったことはないが橋本という
教師がおり、「街のあんちゃん」風に崩れた雰囲気があった。服装も
パリッとはしておらず、くたびれた物を適当に着ている感があった。

あるとき当方のクラスが自習になり、先生がいないから男も女もしゃべ
りだし騒ぎだし、遂にはわあわあという喧噪状態になった。すると、
となりの教室で授業をしていた橋本が現れ、「てめえら、いいかげん
にしやがれ!」とか何とか、まさしくあんちゃん風の言葉で大声の叱責
を始めた。詳細は記憶にないが、確かに「てめえら」と言ったことは覚
えている。3分だか5分だか、啖呵を切るような怒声が続き、こちらは
全員うなだれて沈黙していたのだ。それにしても、「べらんめえ」口調
による澱みのない啖呵は素人のものではなかったといまも思うのだが、
何者だったのだろう。まさかヤクザ出身ではなかっただろうが。


◎これもマーケットリサーチの一例報告になりますかね。
いつごろ始めたのかは覚えてないが、日に一度か二度、キャンディーを
口に入れるのが癖になっている。朝方、仕事場へ向かう電車のなか
でとか、帰宅時のそれとか、仕事場で寝ころんで本を読むときとか、
まあ、気が向いたときにである。ところがここしばらく、何でも
値上がりしている傾向がキャンディーにも及び、スーパーは価格を上げ
ているが、100円ショップでは価格維持のため、c数を減らし
ている。某菓子メーカーのフルーツキャンディー、これは一粒にレモン一個
分のビタミンCが配合されているというので、健康に良かろうと思って
よく買ってきた。しかしスーパーで130円前後だったのが、
いまは150円に近くなっている。

メーカーは100円ショップ用には同じ商品の内容を減らしており、
元は130cだったやつが、いまは100cになっている。コーヒー
キャンディーはその傾向がもっと顕著で、マレーシアからの輸入品は
160cだったのが、140になり120になり、いまや90cに
まで落ちてしまった。国産のコーヒーキャンディーも同様で、当方 「なぜ
だろう。原材料が値上がりしてるのか」と思ってきた。そしたら先般、
ガーナだったかで、天候不順でコーヒー豆の収穫が激減し、価格
が高騰しているというニュースがあった。当方納得し、「その影響
が早くもキャンディーにまで及んでいるのか」と一驚していたのだ。

ドラッグストアでも100円ショップでも、各種キャンディーがずらっと
並んでいるが、店によってはコーヒーのそれが入荷していない
こともある。仕方なく当方、最近はその代替品として、生姜入り
のキャンディーをよく買っている。ベトナムからの輸入商品で、いまの
ところは140c100円である。生姜は身体を温める効果がある
そうだし、キャンディーには微細な粒状の生姜が入っていて、甘辛い
のが結構なのだ。一方、新製品で「ほほう」と思ったやつを、試し
に買うこともある。薬草エキスとか、甘酒とか、マルチビタミンとか、
それらを配合したもので、しかし継続して買うようになった例はない。
つまるところ、コーヒー味が再度安価になることを願っているのだ。


◎あに学者や知事のみならんやでしょうけどね。
失言を重ねてきた静岡県の川勝平太知事が辞職を表明し、報道
を種々検索してみると、過去のそれは言いたい放題の感がある。
ダムの水利権問題に関していわくは、「県議会にはヤクザもいる
しゴロツキもいる」「反対する議員には文化力がない」「反対す
る人がいたら県会議員の資格がない」。以前、自分が学長を務め
ていた静岡文化芸術大学の女子学生について、「顔のきれいな子
はあまり賢いことを言わないと、なんとなく、もうきれいになる」。
「言わないと」は「言わなければ」という意味だと思うが、一方
選挙の応援演説では御殿場と浜松を比較し、「あちら(浜松)に
はコシヒカリしかない。飯だけ食って、それで農業だと思っている」
これまた「食って」は「作って」の聞き間違いではないかと思うの
だが、そこへ今般の県庁新入職員への挨拶である。

県庁というのは別の言葉でいうとシンクタンクです。毎日、毎日、
野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを
作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の
高い方たちです
」 本人は激励したつもりらしいのだが、「県の職
員というのは、そんなに偉いかね」と思う。本人、もともとは経済
学者で上記のごとく学長も務めてきた人物なのだけれど、当方、
批判されても非難されても失言を重ねるという、そのことにはどう
も合点がいかなかった。そしたら先日(4月3日)産経新聞サイト
の関連記事に、碓井真史教授(新潟青陵大・社会心理学)の説
が載っており、「ははあ。そういうことか」と得心させてもらえた。
すなわち碓井教授は、『失言を重ねる人の特徴として、@組織に
おいてワンマン的な立場にある A価値観がアップデートされて
いない B内省的な姿勢がない』などを挙げ、『川勝知事は、
こうした特徴にすべてに合致』すると言っている。

『差別意識などに敏感な現代の価値観を本人が持っていれば、
比較の対象として他業種を並べるなどということは、絶対に避け
るはず。何度批判を受けても失言を繰り返すのは、自身を内省
するのが苦手な性格である証拠で、もはや「癖」のようになって
しまっている』とのこと。まさに当方も、「普通ならそんな発言、
頭にうかんでも自制するはずだけどな」と、そこに合点がいかな
かった。しかし「内省するのが苦手な性格」であるのなら、自制
機能なども形成不足かもしれないのだ。当方、心配性ゆえに
内省過多の傾向があるため、「そんな人間もいるんだなあ!」
と、一種呆然とした。と同時に「学者たる知的能力と性格や気質
とは、まったく別なんだな」とも、再実感していたのである。


◎その面では我々は、気楽でしたたかな国民なのだ。
あいかわらずインバウンドの観光客が多く、中国台湾韓国や東南
アジアはもちろん、欧米からかオーストラリアからか、とにかく白人
の老若男女も目立つ。プロテスタントにせよカトリックにせよ、大方
がクリスチャンであるはずで、当方、「その彼らは、日本の町なかの
宗教施設をどう見ているのかな」と思う。というのが、たとえば大阪
市内でもあちこちに寺があり神社があり、天王寺区の下寺町(した
でらまち)など、道路の両側にずらっとお寺が並んで、25箇寺もある
らしい。おまけに市内各所で、路地の奧にお稲荷さんが祀られてい
たり、道ばたにお地蔵さんが立っていたりする。京都となるとそれが
もっと顕著だから、当方、「それらに接した彼らは、感嘆または困惑
するのではなかろうか」と想像するのだ。

すなわち、感嘆は「日本人はこれほど信仰心の篤い国民なのか!」
であり、困惑は「日本人は一体、このなかのどの神仏を信じている
のだ?」である。しかし、もし当方のこの想像が当たっているなら、
それは彼らが一神教のゴッド信仰を基準にして考えるゆえの錯誤で、
「実は我々日本人は、数多い神や仏を自分のそのときどきの目的の
ために、使い分けて拝んでいるのです」と言ったら、仰天するに違い
ない。つまり受験合格を願うときには学問の神様を祀った天神さんに
参り、商売繁盛を頼むときには戎さんやお稲荷さんを拝む。海路安全
なら金比羅さん、道路交通の安全なら成田さんで、良縁ならば出雲
の神様である。さらには縁切り寺があり、歯痛に効く神社があり、
イボを取ってくれる神様もおられる。そして我々は、そのときどきの
自分の目的によって適宜メニュー選択し、それぞれの場においては、
何の矛盾も抵抗も感じず、真面目に祈願するのである。

別の言い方をすれば、これは我々が人間(自分)を主にして考え、「
その人間を助けてくれるのが、神さんや仏さんだろう」という決めつ
け(?)のもと、自分のために神仏を「利用」しているのだと言える。
無論、キリスト様を拝むのもマリア様に願うのも、つまりは利用して
いることになるのだろうと思うが、しかしその根底には、ゴッドは
人間以上の超越存在なのだという厳然とした大前提がある。我々も
神仏はそんな存在だと思ってはいても、それが徹底しているわけでは
ない。よって上方落語「兵庫船」にいわく。「讃岐の金比羅様、お助
けいただきましたら御礼といたしまして、金の灯籠千灯籠、銀の灯籠
千灯籠、銅の灯籠千灯籠、必ず奉納させていただきます」 「おい。
そんな大きな約束して大丈夫か」「しーっ。いま神さん騙してんねん」
ここで客は必ず爆笑する。「そんなあほな」であり、「何たることを。
神仏を冒涜するにもほどがある!」とは思わないのである。


◎「桜に錨」マークのネクタイピンをもらったこともある。
もうとうに亡くなったが、家内の父親すなわち当方の義父は、海軍
兵学校出身だった。昭和20年に卒業した74期で、在校中の前半は
井上成美中将が校長だった。井上中将はそのあと、東条英機首相
退陣後の小磯国昭内閣で、すでに予備役だったが現役に復帰して
海軍大臣を務めた米内光政に請われ、海軍次官になって秘かに終
戦工作を進めていく。一方義父は卒業後の少尉候補生だった時期、
同期生たちと横須賀の砲術学校で訓練だか隊務実習だかを受けて
おり、その某日、横須賀か横浜か東京方面か詳細は聞いてないが、
とにかく大空襲があった。夜空を背景に大火災が広がり、そのとき
砲術学校の教頭が「候補生、あれをよく見ておけ!」と厳しく命じた
という。その教頭とは、海軍大佐だった高松宮宣仁親王である。

親王は本土決戦など出来るものではないと考えており、信用できる
関係者には、「お上(兄である昭和天皇)の思し召しは、この戦争に
いかに上手に負けるかです」ともらしていたから、「よく見ておけ!」
には、こんな愚劣な戦争を始めて、その結果がこのざまだという、
怒りがあったのだろう。義父はほどなく少尉になり、配属された山陰
の航空隊で通信任務に就いて、そこで終戦を迎えた。だから宇垣
纏中将が、「まだ停戦命令は出ていない」と、部下とともに沖縄へ
最後の航空特攻をかけたときの、機上からの決別電報も傍受した。
長いそれを、終戦後何十年たってからでも暗唱できていたのである。
また義父の父親も海軍軍人であって、大正末という時代に飛行機の
操縦をしていた。しかしその複葉の搭乗機が悪天候による視界不良
のため、鈴鹿山に激突して殉職した。そのときの義父はまだ一歳に
なるかならずで、だから当方そんな話を聞いていたとき、「私は父親
を知らんのですよ」と、しみじみ言われたことがある。

旧制中学校時代、義父は学者になりたいと思っていたという。だが
太平洋戦争が始まり、周囲は殉職した父親も兵学校卒なのだから
と、当然のようにその受験を勧めてくる。戦時下の状況とその圧力
ゆえに、そうせざるを得なかった部分も大きかったらしいのだ。戦後、
義父は京大の農学部に進んで農芸化学を学んだ。大学院を経て
製薬会社に就職し、そのあと博士号も取得したから、やはり学者的
な資質を有していたのだろう。とはいえ兵学校体験は終生懐かしみ、
大きな誇りともしていた。だから当方、戦前の同校で英語を教えて
いたイギリス人の著作 「英人の見た海軍兵学校」の、日本語訳書を
古書店で見つけたときには、すぐさま買って進呈していたのである。
以上、先日ひさしぶりに義父と飲みながら談笑する夢を見たので、
懐かしく思い出して書いてみた。


3月
先生の記憶その9。
中学校教師の続きだが、国語の教師で「黒パン」という渾名の女
性がおり、小柄で貧弱に見えるおばさんだった。あるとき漢字か
何かの小テストがあったのだが、何の間違いなのか、用紙が1枚
足りなかったことがあった。無論そんなことは知らず、次々にまわ
されてくると思った当方、後ろの席の生徒にはまわってなかったの
で自分のそれを渡したところ、結果として当方がテスト用紙無しと
いうことになってしまった。細かい経緯は記憶にないが、それに関
して黒パンが何かいらぬことを言い、ムッとした当方、「それなら
ぼくは受けなくてもいいです」とこたえた。そして小テストだから
10分か15分くらいだったと思うが、机の上で組み合わせた両手
に顔を伏せ、眼をつむってじっとしていたのである。

用紙が足りなかったのは教師のミスだし、自分でもいらぬことを
言ったと思ったのか、そのときもそのあとも黒パンは何も言わな
かった。担任の教師にも報告しなかったらしく、そのままになった
のだ。ただし後日談があって、次の本当の試験では当方、80何
点だかを取っていた。そしたら答案を返しながら黒パンが笑って
いわく、「あんた。反抗するくせに、ええ点取るから悔しいわ」。
別に意趣返しにがんばったわけではなく、 国語自体は好きだった
からなのだが。吉田という書道の先生がいた。下の名前は知らな
いが、号を「昭龍」と称していた。戦前の満州で建国大学を出た
そうで、この大学の出身者で当方が直接知っているのは、この
先生一人である。小柄で太り気味で赤ら顔で、髭の剃り跡が青々
としていた。「亀鑑」というタイトルで書の作品集を自費出版し、
職員室で他の先生たちに購入を頼んでまわったという。

堅物というか、融通が利かない雰囲気の人で、先生たちも敬遠
気味にしていたようだから、購入を頼まれて断るわけにもいかず、
さぞ困惑しただろうと思われる。当方が在校中に退職し、それは
書道で独立してやっていくためだという。朝礼のとき壇上に立って
その挨拶をし、「御父兄の皆さんに、吉田昭龍がよろしくと言って
学校を去ったと、お伝え下さい」と締めた。その言い方からも、
どこか堅くて融通の利かない性格を感じさせられたのだ。一方、
授業を受けたことがないので名前を覚えておらず、担当は確か
数学だったと思うのだが、大柄でスマートで男前で、いつもきちっ
としたスーツという先生がいた。そして、なぜ当方が記憶に残して
いるかというと、その先生が当時はまだ珍しかったマイカー通勤
をしていたからで、しかもその車が新発売のマツダR360クーペ
だったからだ。正面玄関の横手にとめられた本当に小さな赤い
車体を見ながら、「あの先生が、よくこのなかに入れて座れる
なあ」と感心していたのだ。


◎エネルギー補給には5%液の注射も有効だそうだ。
先日、ある原稿を書いていたらどうもうまく進まず、頭が疲れて
いるように感じた。そこで中断してネットで調べたら、スマホや
パソコン画面を見続け過ぎとか、複数の案件を処理しなければ
ならないとか、ストレスが蓄積されているとか、それらによって
脳が疲労するので作業能率も下がるという。対策として適度の
運動、十分な睡眠、ストレス軽減の工夫などとともに、受験生
やビジネスマン向けの速効対策として、ブドウ糖の摂取があげ
られていた。それが不足すると、同じく脳疲労を招くのであるら
しい。「なるほど」と納得した当方、その日の帰宅時、さっそく
ドラッグストアで袋入りのブドウ糖を買った。成分的にはラムネ
菓子でもいいのだが、「仕事や学習、パソコン作業時に」という、
錠剤タイプのやつを選んだのだ。

ただしそれは製薬会社ではなく、愛知県にある大丸本舗という
製菓会社の製品であり、翌日さらに調べてみると、ラムネ菓子
としてなら、明治、森永、春日井製菓以下、数多くの会社が発
売していた。大阪には島田製菓というメーカーがあり、従業員
10人ほどの小企業だが、商品は有名でよく売れているそうだ。
これもまた「なるほど」であって、当方もドラッグストアや百
円ショップで、それらしいやつを見かけたことは何度もある。
また体内のブドウ糖が不足すると、イライラ症状、
集中力低下、
判断力鈍化、注意力の散漫などが起きるらしい。もっとひどく
なると意識障害ももたらし、これは糖尿病患者がインシュリン
治療の副作用で、低血糖状態になったとき発現するという。

だから治療中の人は飴玉とか、それこそブドウ糖の錠剤を常
に用意しておくべきだというのである。ただしこのブドウ糖、
過剰摂取すると副作用もあり、下痢、嘔吐、肥満、極端な例と
しては高血圧や糖尿病にもつながりかねないらしい。「どれだ
け摂取したら、そうなるんや!」であるが、ブドウ糖は本来、
普段の食事で摂る糖質から体内で生成されるものだそうだ。
だから、それによって必要な量は得られているのに、なお
その上にラムネ菓子でもむさぼり食ったら、過剰摂取になっ
てしまう可能性があるのだろう。買ってきた一粒2・5グラム
のブドウ糖、一日の適量は4粒と書かれているので、安全の
ため、それより少な目に摂ることにしたのだ。


◎もちろん新たな繁栄を祈るや切なのであるが。
北陸新幹線が福井県敦賀まで延伸され、テレビニュースに映った
敦賀駅は巨大にものになっている。大学時代、所属していた広告
研究会が毎年夏休みに、敦賀の海水浴場で浜辺の喫茶店を開
いていた。近くのお寺で合宿し、1年から3年までを合計すれば
80日余りを過ごした街で、卒業後も何度も訪問してきた。その
記憶にある敦賀駅は、本当に地方都市の駅舎だったから驚嘆し
ていたのだ。しかしそれはいいのだが、延伸で観光客が増えた
として、彼らはどこを見てまわるのだろう。無論、夏の海水浴場
はわかる。気比の松原という名勝地にあり、当時から北陸一円
はもちろん、関西や中京方面からも、鉄道、車、観光バスに
よる日帰りツアーなど、海水浴客たちが大勢来ていたからだ。

合宿中の我々は地元への奉仕活動として、近辺の道路や臨時
駐車場になったグラウンドで交通整理もしていたので、その方面
各地の車のナンバープレートや、名古屋の東急鯱(シャチ)バス
という会社名を覚えている。一方、名所旧跡といえば気比神宮が
あり、これは越前の国の「一の宮」で、7世紀後半以来の歴史あ
る神社である。また敦賀湾に沿っては煉瓦造りの古い倉庫や、
ロシアから輸入された太い原木が山積みされた貯木場もあり、
旧敦賀港駅の駅舎は鉄道資料館になっている。これらは街歩き
ファンや鉄道マニアには、興味深い対象になるだろう。食べ物と
しては海の幸の豊かな土地だから、駅前の小料理店にでも入れ
ば、満足も堪能もできるはずだ。しかし気の毒なことに、少なく
とも当方が作家になって以降のうろつき記憶においては、それ
以外にこれといった推薦場所がない。

漁港のそばに海鮮市場があったが、それは夏場の仮設テント
によるものだった。まあ、ひょっとしていまは常設市場が出来て
いるのかもしれないが。ちなみに上記した鉄道資料館は、戦前
の「欧亜国際連絡列車」を扱っている。明治45年(1912)以降、
東京から滋賀県の米原経由で敦賀港駅まで、定期的に特急や
急行が往復していた。往路の乗客は連絡船でウラジオストック
に渡り、シベリア鉄道に乗り換えるのだ。そしてそれは、第一次
大戦やシベリア出兵時に中断したものの、昭和の戦争の時代に
至るまで続いたという。そんなわけで昔年は栄えたらしいのだが、
いまは街も人影が少なくて静まり返っているのである。


◎自分とは無縁の世界だなと、心の底から思う。
先般、高級腕時計に関する詐欺事件があった。所有者からそれ
を預かり、客に貸し出してレンタル料を取る。所有者にはそこから
手数料を払う仕組みで、ロンジンだかロレックスだか、ブレゲだか
オーデマピゲだか、それらを実際に預けた人も全国各地に複数
いた。ところがその事業の実行者は貸し出す客など集めておらず、
預かった現物は売り払い、会社を解散して海外に逃亡したのだ。
「悪知恵に長けたやつがいるもんだな」であるが、本当に貸し出し
客がいたとして、彼らは何に使うために借りるのだろう。モーパッ
サンだったかO・ヘンリーだったかに、パーティーに出るため人か
ら宝石を借りて云々という短編があるが、想定されていた日本国
内の借り手も、その種の人間なのかどうか、そこがよくわからない
のだ。そして当方、そもそも高級腕時計というものがわからない。

イギリス製にしろスイス製にしろ、選び抜かれた素材や部品を使っ
て丁寧な職人仕事で作り、正確で上品でもあるというそれが、高く
なることはわかる。それは当然だし、名実ともにジェントルマンと
いう富貴で品格のある人がそれをつけていれば、服装や彼自身に
みごとにマッチして、「ああ。さすがだな」とも思うだろう。
しかしそこに宝石をちりばめるとか、金無垢であるとか、超高額の
腕時計がわからないのだ。欧米のことは知らないが、日本で言う
なら、それを身につけている者は少なからず、要するに「おれは
金持ちだぞ」と誇示しているだけではないのか。そして、そうとし
か思えないその筋の親分や、成り上がりの成功者がそうしている
ことも事実だろう。また腕時計本来の機能としてなら、いまや普及
品でも電子化されていて正確なのだから、昔ながらのゼンマイと
歯車を使ったそれは、いわば趣味による持ち物だとも言える。

そうやって考えていくと、ダイヤだ金無垢だという超高額腕時計は、
ペンダントやブレスレットと同じく装飾品であり、それが時計の形を
しているだけなのか。「しかし、首筋から胸から腕から、そこまで飾
り立てるのは、いったいどんな心理によってなんだ?」と、ますます
わからなくなるのである。と、こう書くと、「それならお前は、どん
な腕時計を使っているのか」と問われるかもしれない。しかし当方、
腕時計を使っていたのは高校大学とサラリーマン時代のみで、
それは高校に入ったとき親に買ってもらったものだった。けれども、
長く使って壊れたので破棄して以降、使ってないし持ってもいない。
出先の室内やビル内はもちろん、外を歩いていようが電車の駅に
入ろうが、時計はどこにでもあって時刻は随時確認できる。まして
いまはスマホがあるから、当方においては、腕時計を持つ必要性
がまったくなくなっているのである。


先生の記憶その8。
当方、高校に入ったときから大学ノートに日記代わりに、不定期
断続のメモをしてきた。自分の経験や人から聞いた興味深い話
などを書き留めておくもので、これは中学時代のある先生の影響
である。というのは、校誌と言えばいいのか、年一回、教師の文
章や生徒たちの作文を掲載した冊子が出されており、ある年の
それにその先生の文章が載っていた。「自分は前から心に残った
ことを短くメモしてきている」という説明のあと、その事例が
複数紹介されていたのだ。そして、ひとつだけ記憶しているのは、
こういうものだった。「生徒二人が口論しており、その途中一人
がそれをやめて、相手の肩に手をのばした。そこにカマキリが
とまったのを、取って放してやったのだ。それで喧嘩が収まった」 

読んだ当方、そういう書き方をなぜか非常におもしろいと感じ、
それで高校生になったのを機に、まねしだしたのだ。社会科を教
えていた平井という先生で、いま思えば、良いことを教えてくれた
のだから、感謝しなければならない。大柄で髪が濃くて黒々とし
ており、黒縁の眼鏡をかけていた。授業に冗談などもはさむ人だ
ったが、あるとき戦争の体験談を披露した。中国の田舎に行って
おり、部隊で行軍して村に入ると、住民たちはすでに避難してい
て誰もいない。麦だかコーリャンだか、家々に残されていた食糧を
集めて食べたのだという。そしていわくは「カネを払おうにも誰も
おらんから、タダでもらったんや」 当方を含めた生徒たちはそれ
を聞いてどっと笑ったのだが、これは早い話が略奪だから、いま
なら教師の発言としては大問題になるかもしれない。

しかし昭和30年代前半という、終戦からまだ十何年しかたって
ないその時代には、笑って済む話だったのだ。確か少尉だったと
聞いた覚えがあるが、士官学校を出た職業軍人だったのか、それ
とも学徒出陣か何かで招集された一人だったのか、それはわから
ない。あるとき、授業の言葉尻を捉えて、いらぬ突っ込みを入れた
男子生徒がおり、途端にこの先生の顔が変わって怒り出した。大音
声で叱責し、何のつもりでそれを言ったかと追及して、「返答せよ
!」と迫った。顔といい大音声といい「返答せよ!」といい、「怒
ると軍人にもどったのかもしれないな」と、いま思っているのだ。


◎こんなのこそ「知的玩具」なのではないかと思う。
前回、子供時代に夜店で買ったアイデア商品のことを書いたので、
今回は一文菓子屋、子供相手に駄菓子やクジや安いおもちゃを
売る店で買った、アイデア商品のことを書いていく。小学校高学年
のとき、長さ7〜8センチくらいの、小さな潜水艦を買ったこと
がある。プラスチック製で、喫水線から上だけの胴体と司令塔が
あり、裏返すと内側は空洞。その中央には小枠があって、金属製
の蓋が付いていた。付属品として、小さなガラス容器に入った白い
粉が付いており、その粉を上記の枠に詰めて、金属製の蓋をする。
蓋には微小な穴が開いており、これをたとえば風呂で試すとどう
なるか。まず潜水艦が沈んでいき、底に到達してじっとしている。
しかしその間、白い粉が水に溶けて細かい泡を発しだしており、
それが空洞の胴体内に貯まるにつれて浮力で上がってくる。

水面に達すると、バランスを崩して横転し、ぽこっと泡を吐き出す。
そしてまた沈んでいき、同様の動きを二度か三度か繰り返すのだ。
発泡する粉が何だったのかはわからないが、いま思い出しても、
誰が考えたのか、アイデア賞もののおもちゃだった。当時10円か
20円だったと思うが、それも前回書いたような「百円ショップの
教材キットにならんかな」と、期待しているのである。3センチほど
の「Sの字」状のヘビが、細くて小さな胴体をくねらせながら、行っ
たり来たりするおもちゃも買った。小さなコマとセットになって
おり、コマの円盤も芯も鉄製で、芯には磁性を持たせてあった。
それを指先でひねって勢いよくまわし、鉄片製のヘビを寄せると、
磁力で芯にピタッと密着したヘビが、その回転で先へ送られ、後
に帰され、うねうねとした往復を繰り返すのである。ヘビをSの
字に作っておけばそんな動きを示すと、誰がどんな機会に発見し
たのか。10円くらいのおもちゃなのに、これはひとつの科学教材
だったのではないかと思うのだ。

10センチほどの椰子の木と、その根元に小さな猿がしゃがんで
いるおもちゃも買った。プラスチック製で、椰子の木もてっぺんに
繁る葉も猿も、それらしい色をしている。そして繁る葉のなかには
椰子の実もついている。猿は木の幹に隙間のあいた状態ではめ
こまれており、上下へのスライドができる。長めの右手も自由に
動くようになっていて、しゃがんだ状態だと、下に垂れている。
ところがその根元部分にはバネが仕込まれており、微小なレバー
を指先で弾くと、弾かれた猿は一瞬の垂直上昇で繁る葉に達する。
達してぶつかった途端、その反動でぶらぶらだった右腕が下から
上へとくるっとまわり、椰子の実をつかむのだ。力学的に計算され
つくしたようなみごとな動きであって、10回試して7、8回は
成功していた。これも小学校の理科の授業に使える、立派な
科学教材だったと思う。中学レベルでも使えるかもしれず、そん
なおもちゃを考案していた人たちに、敬意を表するのである。


◎65年余りのち、「そうだったのか!」と得心した。
小学校低学年の頃、夜店で買ったおもちゃに、映画を擬してか
テレビを擬してか、画面内の絵が横に動いていくものがあった。
プラスチック普及以前の時代だから、葉書大くらいの薄い箱は
経木(へぎ)で作られており、黄色く彩色されていた。画面には
セロファンが貼られていて、そこにはなぜか、狭い感覚で黒の
細い縦線が多数並んでいた。箱の内部には若干の長さを持つ
紙が巻いた状態でセットされており、具体的な記憶はないが、
たとえば森の動物たちの遊んでいる光景が多色で印刷されて
いる。薄い箱の右下に細くて小さな針金製のクランクが突き出
ており、それをまわすと動物たちが順に画面内を移動していく。
そしてそのクランクには箱の内部で微少な歯車式の突起が
つけられていて、まわすと微細な鋼線を弾いて音を出す。

ごく簡単なオルゴールであって、三音か四音くらいの繰り返し
とともに絵が巻き取られていき、終われば巻き戻すのである。
いくらだったかは覚えてないが、いま思えば、作るのに手間が
かかったに違いない。露天商の家族が自宅で作っていたのか、
それともそういう内職をしている下町の家々があって、そこから
仕入れていたのだろうか。そしてもうひとつ、これが単に絵を
横移動させるだけのおもちゃだったのか、としたらセロファンの
細くて黒い縦線は何のためだったのか、それがまったく記憶に
残っていなかった。ところが先日某百円ショップの文具売り場
に、子供向けの教材で、「スリットアニメ」というものがあった。
見た瞬間、「あっ。これだ」とわかり、すぐさま買っていたのだ。

箱形ではなく簡易オルゴールも付いておらず、シートが何枚か
入っているだけのキットだが、その1枚は透明プラスチックに
黒の縦線が狭い間隔で並んでいる。サンプルとして「光を放射
する星」と「跳んでいる3匹のウサギ」の絵が入っており、それ
らにも黒の細い縦線が描かれている。そして試してみて驚いた。
透明シートを重ねて横移動させると、星が回転し、ウサギたちは
左から右へと跳び動いたのだ。他に「はばたく鳥」「イカとタコ
が墨を吐く」塗り絵が入っており、指定通りに色を塗れば動く絵
になるという。説明書によると、これは眼の錯覚(錯視)を応用
したもので、アニメやぱらぱら漫画と同じ理屈だという。「そし
たら昔のあのおもちゃも、絵にも黒の細い線が多数入っていて、
動物たちが動いていたのか」と、ようやく得心していたのだ。


◎一方、今年は山羊座の大活躍の年らしいのだが。
ここしばらく、どうも寒くて仕方がない。空気の冷えが衣服を通して
伝わってくるという理由もあるが、それ以上に身体そのものが寒い
のだ。だから割に暖かめの日でも、外出時には手袋をしてコート
のフードをかぶっている。らちがあかないので、ネットで「冷え性
の原因と対策」を調べたら、複数のそれがあげられていた。「1。
ストレスで血管が収縮して冷えることがあるので、リラックス法や
ストレス管理を」「2。運動不足で筋力が衰えると体温が下がるの
で、適度な運動を」「3。汗をかかず水ばかり飲むと、むくみや冷え
性を起こすので、水分摂取は適切に」「4。筋肉をつくるには蛋白
質が必要だから、バランスの取れた食事を」「5。熱をつくる筋肉は
下半身に多いから、頭寒足熱で」「6。体温が低い人は、筋肉を動
かしたり体を温めたりする習慣を。体温上昇で代謝も上がる」。

そして当方、それらの原因のなかで思い当たるのは、1のストレス
と3の水分である。実はもっかある長引きそうな問題を抱えていて、
確かにそれがストレスになっている。血管の収縮は交感神経優位
になるためだそうで、つまりは緊張が続いているということだろう。
水分については、「そういえば、汗をかいてないなあ」であって、
歩くのはよく歩いているから運動不足ではないが、冬場だから汗
は出てこない。しかしそれもストレスゆえかもしれず、一方、パソ
コンに向かっているときには、横に置いたポットから断続的に茶を
飲み、夕方からは焼酎のお湯割りを飲んでいるため、水分摂取が
過剰気味になっているのかもしれないのだ。

食事は肉魚野菜など何でも食べ、仕事場では炒り大豆を毎日ぼり
ぼりやっているから、バランスは取れていると思う。また頭寒足熱
は、デスクにむかっているときには足温器、寝るときにはアンカ
を使っている。ちなみに、「身体を温める食べ物」をあれこれ調べ
てみると、どれもまず生姜をあげていた。そして生姜は仕事場で
昼食を作るとき必ず入れており、先般たまたま買った生姜入りの
飴が気に入って、毎日なめて追加購入もした。主因はやはり
ストレスらしいのだ。困ったものです。


◎政財官界とも、「いざというときの」人が必要なのだ。
先般来の朝日新聞によると、宮沢喜一元首相の「40年間に及ぶ
詳細な政治行動記録が見つかった」そうだ。大学ノート185冊と
いう膨大なもので、現在、朝日新聞と東大名誉教授の政治学者が
チームを組み、内容の分析とデータベース化を進めているという。
歳月が過ぎてからの回顧録ではなく、日々の同時記録だから、
資料価値も超一級のものなのだろう。そして当方、反射的に思い
出すのは、小松左京さんの「日本沈没」に登場する総理は、宮沢
氏をモデルにしたという話である。当時小松さんにそれを確かめた
ら、「日本がいざというときの」人物だからだそうで、小松さんは
宮沢氏をそれほど高く評価している様子だった。無論その時点
で宮沢氏はまだ首相にはなっておらず、そこで当方、「過去の首
相の例で言えば、誰に相当しますか」と聞いたところ、小松さんは
言下に「鈴木貫太郎」とこたえた。

海軍大将だった鈴木貫太郎は太平洋戦争末期の総理で、大命降
下があったとき、自分は政治のことは何も知らず高齢でもあるので
と、拝辞を願った。それに対して昭和天皇が「もう他に人がいない。
頼むから引き受けてくれ」と言われたという。そして就任後は軍部
の本土決戦論を抑え、ポツダム宣言受諾へと誘導していったのだ。
だから当方、小松さんの断言に「本当にいざというときですね!」
と、驚きの声をあげていた。一方、日録を紹介する朝日の記事では、
政治学者が岸信介元首相の、宮沢論的な言葉も紹介している。
岸氏は宮沢氏を、首相としては適任だと高く評価していたが、自民
党の総裁は務まらないと言ったという。

なぜなら、「人の世話をしないから子分がいない。頭がいいものだ
から、人がみんな馬鹿に見えるんだよ」とのことで、当方、これに
ついても思い出すことがある。往年某放送局の報道部員に聞いた
話だが、記者が何か的はずれな質問でもしたら、宮沢氏は露骨に
馬鹿にしたような顔になるのだという。また人に出身大学を聞き、
東大とこたえると興味を示すが、学部を聞いて法学部ではなかった
ら、これまた見下すような顔になるのだそうだ。しかしまあ、大物
政治家だったことは確かで、政治学者いわくは、「教養や知性に
あふれた第2,第3の宮沢喜一が生まれてこなければ、日本の
政治は良くならないだろう」とのこと。おらんのですかね、そんな
政治家が。「俺のことだ」と思う三流政治家はいるのだろうが。


先生の記憶その7。
市立中学校に入学して、最初の担任は確か松永という、中年前の
本当に小柄な先生だった。背広姿よりは、少々くたびれた上着に
替えズボンという恰好が多く、おまけに白のズック靴を履いていた
ので、何となく貧相に見えた。担任なのに名前をちゃんと覚えてな
いのは、この先生が一学期の末で退職したからである。その挨拶
によると、タイガー計算器という会社に転職するとのことだった。
コンピューターどころか電卓さえなかったその時代、企業や各種の
研究機関では計算器という物を使っており、タイガー計算器は同じ
豊中市内にある、一応は名の知れたメーカーだった。だから数学
教師だった先生は、研究開発部門に入ったのかもしれない。だが、
まだ子供のような新入生を一学期だけ受け持って辞めてしまうと
いうのは、いささか無責任ではなかったかとも思う。またその後、
時代の急速変化によって、計算器という物はどんどん使われなく
なっていき、タイガー計算器という会社もとうの昔に無くなった。

先生が定年まで勤められて、退職金もちゃんと受け取れたのか、
それとも途中でまた転職を迫られることになったのか、それを知り
たいと思ったりもするのである。で、二学期からは、その年の春に
新卒で赴任してきていた、池上という英語教師が担任になった。
小柄で度の強い眼鏡をかけ、髪をきちんと七三に分けて整髪料を
光らせ、まだ新しい背広を着ている。普通、そんな新卒の人間が
クラスをまかされたりはしないと思うのだが、教師の人数に余裕が
なく、いきなり担任を命じられたのかもしれない。なにしろ我々は
団塊世代だから、1クラスの定員が50人で、それが12組まであ
ったのだ。ともあれこの担任、半年前までは大学生だったわけで、
それが突然重責を負わされたのだから、内心には不安と緊張が
あったのだろう。そのためなのか、授業にしろ我々生徒との会話
にしろ、どこか不自然でぎこちなかった。冗談を言っても、無理
して言っている感があって笑えない。そして当方、それらを敏感
に感知するタイプだから、おのずと敬遠し、そのうち嫌いになり、
遂には学校へ行くのが嫌で嫌で仕方がなくなった。

いまならストレスで登校拒否生徒になっていたかもしれないが、
当時そんなことを「してもいいのだ」とは、考えもできなかった。
毎日重い気分で仕方なく登校していたので、勉強にも身が入らず、
成績がどんどん下がっていった。国語や社会はまあ70点くらいは
取っていたが、担任教師の英語など20点台というありさまだった。
だから保護者懇談のとき母親が、「英語だけこんな点というのは、
ひょっとして、私のことが嫌いなんでしょうか」と言われたという。
「当たり!」であるのだが、それを言っても新たな問題が生じる
だけである。しかも加えて、毎年クラス替えがあるのになぜか当方
一人だけ、2年のときも3年のときも、この教師が担任になった。
単なる不運だったのかもしれないが、「ひょっとして、自分が導い
て成績向上をとか何とか、あの教師が申し出たのではないか」と、
疑念を抱いていたのだ。そんなわけで、6・3・3・4の年月中、
この中学の3年間は劣等生であり、暗くて重い日々が続いたのだ。


◎栄耀栄華にはむなしさが付き物なのだ。
終戦後、占領軍の政策によって表現の自由が大幅に認められ、娯
楽の世界にもそれが広がった。だから昭和20年代〜30年代後半
あたりまでだったか、映画産業の全盛期があった。ハリウッド映画
が大量に上映され、フランスやイタリアの作品も入ってきたし、邦画
会社も多数の人気俳優を擁して、「我が世の春」を謳歌した時代が
あったのだ。昔、直木賞作家山口瞳のエッセイで読んだことだが、
その頃には映画関係者がロードショーの招待券を餌に、素人女性
を誘惑する例もよくあり、それだけで女性がついてきたという。山口
瞳は、「だから当時の映画関係者には世の中をなめていた雰囲気
があり、いまはテレビ関係者に似た雰囲気がある」と書いていた。
対してマスコミ分野では、昭和20年代半ばに民放ラジオが放送を
開始し、東京や大阪以下各地に民放局ができて、これもまた全盛
期を迎えていた。

パーソナリティーという呼称はまだ使われていなかったと思うが、
タレント、人気アナウンサー、ディスクジョッキー、またラジオ局の
プロデューサーやディレクター、出入りのプロダクション関係者等々
が、同じく我が世の春を謳歌する時代が続いたのだ。無論これには
映画関係者と同様、立場と権限を悪用して私腹を肥やすとか、女性
関係で好き勝手なことをする連中がいたことも含まれている。しかし
そのあと、映画もラジオもテレビの普及によって業績が悪化し、業界
全体が一時期「どん底」状態を経験させられるようになった。我が世
の春はテレビ関係者が謳歌することになり、それが長くつづいて、裏
では一部の者が「狡猾なことや悪いことの仕放題」という世界になっ
たのだ。けれど、ネットの出現と拡大にはさしものテレビもかなわず、
新聞雑誌やラジオと同じく、各局の業績低下が言われだしている。
このまま進めば昔の映画やラジオ業界のように、テレビも「どん底」
時代に入っていく可能性もあるだろう。

一方ネット世界は現在、真面目で貴重な情報発信が膨大であると
ともに、虚偽、誹謗中傷、陰謀論なども出し放題の玉石混交状態に
なっている。金儲けのためにそれをやっている者たちにとっては、
まさに我が世の春なのかもしれないが、そういう品性下劣な連中は、
そのうち淘汰されるのだろうか。それともネット世界に何か本質的な
問題が伏在していて、「悪貨が良貨を追放する」状態になっていくの
だろうか。さらにまた、将来か未来かに、ネット業界をどん底に追い
込むような、何か新しいメディアが出てくるのか否か。そしてその新
メディア関係者のなかには、同じく狡猾な連中がまじることになるの
かどうか。当方多分この世でそれを確かめることはできないだろうが、
「まあ、そうなるのではないかな」と思う。時の流れのなかで、同じ
ようなパターンが繰り替えされており、心の卑しい人間は必ずいて、
その欲望に変わりはないからだ。


◎国家にも「盛りを過ぎた」という現象があるのだろう。
厚生労働省の人口動態統計速報によると、2023年に生まれた
子供の数は75万8631人で、8年連続の減少で、過去最少だっ
たという。国家社会保障・人口問題研究所
去年4月に公表し
将来推計人口では、年間出生数が75万人台になるのは20
35年とのことだったから、推計より12年も早くそうなった。
一方、昨年の婚姻数は48
万9281組で、戦後初めて50万組を
割ったそうだ。結婚しない男女が増えており、結婚しても子供を
産まない家庭も増えていて、日本社会の少子高齢化と人口減が、
一層顕著になってきた。「いったい、この先どうなるんだろう」と、
当方の死後のことにせよ、心配になってくるのである。

ちなみに関連記事によれば、婚姻数が50万組を下まわるのは、
昭和8年(1933)以来だという。「その原因になりそうな災害
でもあったのか」と思って年表を見てみたが、「これかも
しれんぞ」と思う記述は何もなかった。またその年の婚姻数は少
なくても、当時は多子世帯が多かったため、出生数は200万人
を超えていた。昨年と同じ程度の婚姻数でも、昨年の2倍半以
上の出生数があったのだから、人口減など誰も心配していなか
っただろう。ただし、そのあと日中戦争・太平洋戦争があって、
軍人と一般市民を併せれば250万から300万という人口減が
あったのだが。とはいえ終戦後、ベビーブームで団塊世代が
登場し、それを補って余りある人数が生まれてきたのだが。

ともあれ、婚姻数や出生数減少の原因は単一ではなく、多数要
素の複雑な混合だろう。男女一人ひとりに、結婚や出産を選択
しない理由があり、その選択の背景には労働環境、住宅環境、
政治環境等々、社会や国家全体の要因もあるはずだ。それら
複数の要因がからみあい、「集合的無意識」の発現とも言えそう
な、世の中の大きな流れになっているのではないかと思われる。
としたら、それは誰にも止められない流れに違いなく、国や社会
の少々の対策など、焼け石に水なのだ。実際、韓国の現状は
それが顕著で、結婚も出産も、国家の奨励方針に対する抵抗や
拒否と見られる動きも出ているという。当方としては、
「黙って見ているしかない」気持ちになってくるのである。


ケンブリッジやハーバード以下、欧米の大卒はいない。
入試の季節で大学名がよく報道されるので、先日「自分はどれだけ
の大学の出身者を知っているのかな」と考えだしていた。友人知人
や仕事関係者など、故人も含めて面識ある人の出身校を並べたら、
かなり多くなりそうに思えたのだ。首都圏で言えば、星新一さんが
東大、鏡明が早稲田、川又千秋が慶応と、SF作家クラブだけでも
いろいろ出てくる。横田
順彌法政で、山田正紀は明治、大原まり
子が聖心女子大。豊田有恒さんは東大と慶応の医学部に両方合格
して慶応に進み、途中で武蔵大に入り直したという変わり種である。
編集者は早稲田が多いが、中央や上智の人もいた。国際基督教大
卒なら民俗学博物館の教授だった小山修三先生、国立(くにたち)
音大は山下洋輔さん。東京女子大卒の知り合いもおり、卒論で
「ナチス抵抗運動」を扱ったと聞いて驚いたが、これはショル兄妹
やキリスト教の牧師たちが対象だったという。

当方、聞いたときには東女(とんじょ)がキリスト教系とは知らず、
国防軍のヒトラー暗殺未遂事件を思いうかべて、「何でまた」と
思っていたのだ。桂米朝師匠は、戦争中の学生だったが、いまの
大東文化大。関西では小松左京さん石毛直道先生の京大、堀晃
さんの阪大以下、地元だからいろいろ出てくる。高校の友人やク
ラスメートだった男女が、大阪外大、大阪市立大、関学、関大、
同志社、立命、京都女子大、同志社女子大、神戸大、神戸外大、
松蔭、海星、神戸女学院等々に通っていたのだ。また、落語家の
桂雀三郎さんは龍谷で、往年、ラジオ番組の相方を勤めてくれた
中西ふみ子アナウンサーは府立大阪女子大、その同僚の男性
アナは大阪学芸大だった。ただし現在、市立大と府立大は統合
されて大阪公立大学になっており、学芸大学はいまの教育大だ。

ずっと年長で、神戸商船大卒の知り合いもいた。機関科を出て海
運会社に勤め、その後、陸(おか)に上がってボイラー会社に入り、
重役にまで出世した。しかしこの商船大も、いまは神戸大学に統合
されている。地方では、ジャズの坂田明さんが広島大で、落語の桂
かい枝さんは高崎経済大。広告マン時代の先輩社員には、鹿児島
大出身の人がいた。生粋の薩摩人で、大柄で頭も大きく赤ら顔と
いう、「こういうのがボッケモンなのか」と感心していたのだ。
海外では、中学校の某教師が建国大学だと言っていた。いまや
10人中9人は知らないだろうけど、戦前の満州国にあった大学
なのだ。とまあ思い出すままに並べた結果、東西の大規模大学中、
日大卒の知り合いはいるが、なぜか近畿大学出身という友人
知人が、いそうでいないことに気がついた。まあ、それを含めた
一切が、「別にどうでもええこと」ではあるのだが。


2月
◎入眠儀式と起床の儀式にも高齢化の影響が。
夜、12時前後に寝るときには、音量を小さくして何かしら聞き
ながら入眠している。何も聞かずに明かりを消して横になると、
それまで読書や映像視聴で稼働していた頭があれこれ考え出し、
目が冴えてしまうからだ。聞くものとしては、ラジオ、音楽、上方
落語等々、これまでいろいろ試してきた。しかしこちらの年齢上、
ラジオの深夜番組はとうの昔にやかましいだけのものになって
しまった。また、音楽は好きなジャンルのものを聞くわけだから、
頭がなかなか入眠状態に入らず、それは上方落語も同様である。
経験則として、ゆっくりとしたガメラン音楽、橘ノ円都師匠の落語
なら、おだやかな眠りに入れるとわかったので、自宅ではそれを
かけることが多いのだ。しかし仕事場に泊まる夜には、往年の
神田小山陽の講談、「徳川天一坊」が定番になっている。

30分ほどの口演であるが、うまいしおもしろいしで、「最後まで
聞いてやろう」と思っていると、なぜか逆に10分か15分あたりで
寝てしまったりする。一年二年と繰り返してきた結果、それが条件
反射になっていて、「それで結構。最後まで聞けるのもまた結構」
なのだ。そして眠ったあとどうなるかというと、これもまた年齢上、
トイレが近くなっているので真夜中に目が覚める。講談はオート
ストップで切れているから、再就寝するとき、あらためてスタート
させるのだ。だから一晩に2回聞く夜もあり、いまは冬で寒いため
3度になることもある。ただし3度目のトイレは午前4時半前後が
多いから、最近ではラジオをつけるようになった。とはいえ通販
番組が多く、どれもこれもわざとらしくてオーバーな推奨の弁や
会話が耳に障るから、かすかに聞こえるボリュームにしておく。

何のためにそうやってかけておくかというと、5時からの某局某
男性アナによる早朝ワイド番組が聞きやすいし、冒頭で天気予報
とニュースを流してくれて便利だからだ。人間の耳と脳の機能は
大したもので、通販番組のときには眠りなおしていても、本当に
かすかなのに局アナの声に変わるとパッと目が覚める。ボリュー
ムを少しあげ、以後は聞きながらまたとろとろと眠りなおすのだ。
そして7時には、自宅では娘たちが出勤の準備をするから、当方
も起きて一緒に朝食をとる。仕事場でもその前後に起きて、コー
ヒーを飲みつつ、まずネットで新聞各紙をチェックするのである。


◎先生の記憶その6.
「その5」の続きであるが、別のクラスの担任で、こちらには
理科を教えに来ていた中村という先生がおり、中年でかなり
小柄な人だった。よく悪ふざけをして遊ぶ生徒がおり、ある
日の中村先生の授業前、教壇の隅に立てかけられていた
小型の黒板をついたてにして、ズボンを脱いでいたか何か、
大阪弁で言う「いちびり」なことをしていた。そこに先生が入
ってきたので、彼は慌ててズボンを上げようとしたのだが、
ひっかかったか何かでうまくいかない。何分くらいかかった
のかいまとなっては見当もつかないが、もたもたしていたわ
けで、途端に中村先生が怒って歩み寄り、「席にもどりたく
ないのなら、ずっとそこにおれ!」と、立てた小黒板をぐいっ
と押して、彼を隅に閉じこめてしまった。

その生徒が泣きそうな顔で、なおまだもぞもぞしていた姿を
思い出すと、「昔の小学生は、アホなことしてたんやなあ」と、
思わず笑ってしまう。それとも現在の小学生にも、同類はい
るのだろうか。そのあとどうなったのかは覚えてないが、い
ちびり生徒の田村という名前は覚えている。校長は池田と
いう先生で、名前は「平」と書いて「たいら」と読む。小柄で
ちょっと太り気味で、眼鏡をかけていたのだが、当方と同じ
学年の別クラスにその子供(娘)がおり、眼鏡から何から
父親をそのまま小型にしたような顔をしていた。それにして
も校長親子が同じ学校にいたのだから、父親も娘もその
担任教師も、何かとやりくかったのではなかろうか。市立小
学校には校区があり、親は私立校へ行かせる気がなくて、
自動的にそうなってしまったのかもしれないが。

またこの池田校長、ある日の朝礼で愛国心について話をした。
「いろんな国からお客さんが来ます。そのとき、道路にゴミ
がちらばってたり、我々日本人が人を押しのけて電車に乗っ
たりしてたら、そのお客さんに対して恥ずかしいでしょう。
その、恥ずかしいと思う心が愛国心なのです」云々。正確に
は覚えてないが、まあこんな話だったわけで、当方大人に
なってから思い出し、「何で突然そんな話を朝礼でしたのか
な」と怪訝に感じた。そしてあれこれ関連事項を思いうかべ、
ハッと気付いていた。昭和33年(1958)5月に東京で
第3回アジア競技大会、通称「アジア大会」が開かれていた。
校長の話は、それを題材にしていたに違いないのだ。当方
が5年生のときのことで、学校が終わるなり友達と一緒に、
郵便局へその記念切手を買いに行ったのだった。


個室にこもって座っているときひらめいたのだが。
人間を飛行機に見立てて考えると、燃料は食べ物と飲み物
である。毎日あれを食べこれを飲み、それらをエネルギーに
変換して飛行しているのだ。そしてその残りかすは大便とし
て排出し、小便として放出する。生まれてから死ぬまで何十
年間、最近の長寿化社会では90年も100年も、そうやって
エンジンを稼働させていく。ただし飛行機のエンジンは、燃焼
と排気を連続させているが、人体エンジンはそうではない。
吸収も排出も断続的な反復であるから、これはドイツのV1
号に使われた、パルスジェットに似ていると言える。

むしゃむしゃ・ごくごく→ねきねき・じゃあじゃあ。毎日毎週、
毎月毎年、延々それを断続させ、そのエネルギーで肉体を
維持して動かすとともに、実は大小便ジェットのパルス反動
によって「飛んで」いるのである。だがそれは、どこを飛んで
いるのか。「時間」という、わかったようでわからぬ世界をで
あり、しかしパルスジェットは自力発進ができず、最初に速度
と風圧を与えてもらわなければならない。すなわち出産であっ
て、産道カタパルトから発射された小型人体は、それまでの
暖機状態から、吸収と排出のシステムを起動させるのだ。

ただし本物のパルスジェットは機体内に燃料を収めているが、
こちらは外部からそれを取り入れる。90年も100年も稼働さ
せるエンジンだが、それに足る燃料を内部のタンクに用意して
おくことなど不可能だからだ。そして葬祭のノリトで言われる
「うつそみの齢(よわい)の長き短きほどほどに」、寿命を迎え
て死んでいく。しかしそれは、単に肉体というエンジンが耐用
年数に達しただけのことなのか。それとも時間飛行は搭乗
していたパイロット、すなわちタマシイが、別の世界へ到達
するための移動であったのか。そのあたりはよくわからず、
この疑似論理が小説に使えるかどうかもわからないのだ。


◎といって、決して嫌いだというわけではないのだが。
ユーチューブで「名探偵ポアロ」のシリーズ作品が公開されている。
イギリスのテレビ局が制作したもので、50分余りの短編と90分前
後の長編が、どちらも数多くある。そして当方、折々それらを見せ
てもらっているのだが、「自分の頭は、ミステリーには対応できない
のかな」と、よく感じてきた。というのが、短編作品なら各登場人物
の区別ができ、ストーリーも理解できて、謎解きの結果にもまずは
納得がいく。ときどき、真犯人をポアロが察知する機会について、
「そんな都合のいい偶然はないだろう」とか、関係者を一室または
特定の場所に集合させて謎解きする定番的なラストに、「ドラマに
しても、不自然さがあるなあ」と思ったりはするが、それらはまあ、
「お話なんだから」と納得もできるのだ。ところが長編作品となると、
まず登場人物が多く、その彼ら彼女らのエピソードもあれこれ出て
くるから、初見の頭にはスムースに入らない。

進んでいくストーリーについていくのが精一杯で、ラストで謎解きを
示されても、「なるほど。そうだったのか!」と、ミステリーから
与えられるべき驚きや快感が得られない。何だかよくわからないま
ま、「まあ、ポアロがそう言ってるんだから、こいつが犯人なんだろ
う」と思い、「アガサ・クリスティが構築したストーリーとプロットに、
矛盾や破綻があるはずもないだろうし」と、理屈で自分を納得させ
ているのだ。だから長編作品については、二度三度と見直して登
場人物多数を覚え、ストーリーの流れも呑み込めたら、そこで初め
て「ああ。そうだったのか!」と、声を上げられるのかもしれない。
しかしもっかのところ、それは試しておらず、不完全燃焼の感が残
るままなのだ。そして、そんな具合に対応できないゆえなのか、
実は当方、ミステリーが書けない。そもそも、犯罪・犯人・アリバイ・
その矛盾やほころび・警察や探偵の推理等々、多数の込み入った
構成要素を、どう組み立てればいいのか、その見当さえつかない。

ミステリー作家は、まず時系列に添ったストーリーを考え、しかしそ
の犯人を最後まで読者に悟られないようにするため、それをあらた
めて複雑なプロットとして組み替えているのだろうか。それとも最初
からプロットが頭にうかんでくるのか。「としたら、どういう頭脳構
造なんだ?」と、ますます解せなくなってしまうのだ。若い時代、某
編集者から「一遍、長編ミステリーを書いてみませんか」と言われた
ことがあり、こちらもその気になって構想メモをつくろうとしたのだが、
思考がまったく発展しなかった。ドタバタSFで一点からスタートする
エスカレーションに慣れていたから、混沌から始めてそれらを一点
に収束させていくという作業は、思考をいつもとは逆方向に進めな
ければならない感があり、結局どうにもならずに放棄していた。
「道によって賢しという言葉は、本当だなあ」と思っていたのである。


◎カルタは「犬も歩けば」だが、歩いてない犬もいる。
高校の半ばから大学卒業あたりまでだったが、家で、子犬の
ときに人からもらった柴犬を飼っていた。大きな木箱を改造して
古タオルを敷いた小屋をねぐらにし、エサも飯におかずや味噌
汁の残りをかけて煮干しを加えた程度のものを適当に与えて
いた。しかし元気に育って中型犬になり、普段は庭をうろつく
程度だから、外に連れ出してやると大喜びする。首輪から紐を
外すと車道をターッと全力疾走して遠くまで行き、車にひかれ
たら大変だと思って大声で呼ぶと、また全力疾走で帰ってくる。
広い公園へ行ってボールを投げてやると興奮し、それが跳ね
るのに併せてジャンプしたり、転がるやつを口にくわえたりして
走ってくる。だから当方それ以後もずっと、犬とはそんな具合に
気軽に飼えて、元気に走りまわるものだと思ってきた。

ところが近年、自宅の周辺でも仕事場の近所でも、小型犬を
布製の用具で人間の赤ん坊のように胸に抱いたり、乳母車の
ようなものに乗せて歩く人をよく見るようになった。最初は当方、
怪我か病気か老齢か、そんな理由で動物病院に運んでいるの
だろうと思っていたが、それにしては見かける数が多過ぎる。
そこで家族に聞いてみたところ、それは室内で飼う小型犬を、
公園などで運動させるために運んでいるのだという。なぜなら
その往復も歩かせると、過剰な運動になって犬が弱るからだと。
また、飼い主と一緒に散歩している中型犬で、服を着せられた
やつもよく見かける。胴の部分にかけるだけの簡単なものも
あるが、ちゃんと脚の部分も付いていて、いわば長袖長ズボン
という姿をしているやつもいるのだ。

しかし当方、確か犬は汗腺がないのだったかその機能が弱い
のだったか、とにかく暑さに弱い動物で、舌を出してハアハア
いっているのは、その熱を散らすためだと聞いた覚えがある。
なのに胴から脚までを覆う服を着せたら、いまは冬だからいい
としても、春先以降は熱がこもって、犬は苦しいのではないか。
おまけにここ数年、仕事場の近所にはペットショップが明らかに
増えており、上記した用具や乳母車を揃えている大きな店から、
トリミングというのか、犬の美容室のような店もある。そういう
趣味や感覚は当方にはわからず、やはり全力疾走して飛び跳ね
る、自然状態に近い犬が好きなのだ。なお、韓国で犬の食用
禁止法が成立したという報道には、「よかった。よかった」と
思っていた。やはり、あれはどうもねえ。


◎結婚しない男女も増えてきてるそうですからね。
先般、毎日新聞のサイトに出ていたのだが、帝国データバンク
の調査によれば、昨年、結婚相談所の倒産が過去最多になった
そうだ。年間倒産件数11件で、休廃業や解散も同じく11件。
結婚相談所は現在も一定のニーズがあるものの、少子高齢
化や晩婚化など、ライフスタイルの変化の影響もある」という。
また明治安田生命の調査では、ここ1年で結婚した人たちの出
会いのきっかけは、4人にひとりがマッチングアプリの利用と
答えたそうだ。記事には、「マッチングアプリの利用者急増に
より懸念も出てきている。匿名性を保ちながら、好みの相手と
会うことができる手軽さなどが人気となっている一方、写真を
めぐるトラブルやミスマッチングといった懸念も多い」とも。

何にせよ当方には無縁のきっかけであって、独身時代、見合い
結婚というものが理解できなかった。正式な見合いは、身元も
確かな相手と釣書を交わし、気が進まなければその段階で断
ればいいのだという。だから実際に顔を合わせるのは、どちら
も乗り気になった上でのことだそうだが、それにしてもせいぜい
二度か三度か会うだけで、重大な決断を下さなければならない
という、「そんな怖いこと、ようしません」なのだ。だから見合
いをしたことはなく、まして結婚相談所を利用しようなどとは、
まったく思わなかった。若い頃、ある日曜日に神戸港の写真を
撮りに行ったら、相談所の企画なのだろう、明らかに「見合い
パーティー」に出席する、若い男女が10何人集まっていた。

港内めぐりの遊覧船を会場にするらしく、男たちはパリッとした
スーツ姿で、女たちもそれぞれ目立つ服装をしている。しかし
その内訳は男が多くて女は数人だったから、当方、何となく男
たちが気の毒になっていたのだ。無論、友人に見合い結婚を
した者は複数おり、ある男は後日女性の側が断ってきたのだ
が、女性の母親に電話して再アタックした。もう一人は直感的
に相手を気に入り、しかし話をする時間が足りなかったので、
その場で「もう一度会ってください」と頼んで、以後デートを
重ねる仲になった。どちらも結婚し、どちらも子や孫ができて
現在に至っている。結果オーライであるわけだが、その最初
の「大胆さ」が当方にはない。だから大学のクラブの同学年
仲間24人中、結婚したのは一番遅かったのである。


◎先生の記憶その5。
父親の再転勤で大阪府豊中市に転居し、近くの市立小学校に
5年と6年の2年間通った。クラスも担任も持ち上がりだったが、
授業は5組まであった各クラスの担任が科目ごとに分担し、そ
の時間にはこちらの教室に来て教えていた。確か当時、何かの
教育実験校になっていたので、その実践だったのかもしれない。
担任は北村という背の高い先生で、分担していた科目は、国語
に加えて体育を担当していた。特に怖くはなく、よく冗談も言う
先生だったから、当方を含めた生徒たちは安心していたと思う。
夏にプールで水泳の授業があったとき、クロールで泳いでいた
生徒の方向が、コースから大きくそれたことがあった。そしたら
プールサイドで先生が「北北西に進路を取れ〜っ!」と叫び、
周囲の我々はどっと笑っていた。当時公開されていた、ヒッチコ
ック監督の映画タイトルであるが、いま確認してみると、この作
品の日本公開は1959年9月26日となっている。

だから当方の6年のときのことだったとはわかるが、9月下旬に
まだ水泳の授業があったのかと怪訝にも思う。一方この北村先
生、まだ若かったからかもしれないが、いま思えば「あれはちょっ
となあ」と思う姿勢も示していた。大柄でもっさりしていて、中学
生にも見える生徒がおり、それだけに屁理屈も達者だったのだ
ろうか。あるとき授業中に何かで先生に注意されて屁理屈を言い、
口論に近い状態になった。そしたらそれ以降、先生はその生徒を
明らかに「目の敵」的に扱いだしたのだ。国語で俳句を作る授業
があり、秋のことだったのだろう、その生徒は「農民の稲刈るとき
の笑い顔」だったか何だったか、そんな句を作った。すると先生
はそれを読み上げ、「小学生が農民というのはねえ」と、「おまえ
には無邪気さがないんだよ」というニュアンスで皮肉っぽく否定し
たのである。対して当方、自由詩を書いたときなぜか非常に感
心されたことがあるが、どんな詩だったかは全然覚えていない。

別クラスの担任で中務(なかつかさ)という先生がおり、色白の男
前で、優しい人だった。しかしあるとき、当方を含めた二、三人が
放課後の運動場で遊んでいて遅くなり、通用門までまわるのは
面倒だからと、低めだった塀を乗り越えて外に出たことがあった。
そこには文房具店兼駄菓子屋という小さな店があり、我々は飴でも
買ったのか、「ミカン水」と称していた安物のジュースを飲んだの
か、それとも「黒パン」と呼ばれていた麩菓子を選んでいたのか、
とにかく買い食いをしながら帰ろうとした。するとそこにちょうど退勤
する中務先生が現れ、職員室から見ていたのか、「何だ君らは、
塀を乗り越えたりして!」と、本気だとわかる顔と声で叱責してき
た。意外な怖さに、我々は黙ってうなだれて、その前を通過して
いたのである。ちなみに、当時、豊中市内には中務という姓の
家があちこちにあった。古くは農村地帯だった土地だから、その
庄屋とか本家とか、そのまた分家
だったのだろうか。

◎まったく、いろんな人生があるものでしてねえ。
夢を見て、それは往年知り合いだった男性が出てきて、「やっと人前
に出られるようになった」と告げてくるものだった。ただし一瞬の光景
だったので、顔や姿は明確ではなかったようだ。ところがそのあと、
今度は当方の家人が告げてくる夢を見ていた。「誰それさんが家に
訪ねてきて、やっと人前に出られるようになりましたと、言うてはりま
した」 そしてこちらはその夢のなかで、「同じメッセージが二度繰り
返されたのは、それが本当のことだからかな」と思っていた。というの
がこの男性は、当方の高校時代に「仲良しグループ」だった男女数人
のうちの、ある女性と結婚した同年齢の人物であり、その縁で以後
何度も飲んでしゃべったりしていたのだ。親の跡を継いで化学関係の
中小企業を経営し、のちには工場の土地が高速道路用地として買収
されたので、10数億だかの金が入ってきたこともあったという。

当時その夫人に聞いた話では、彼女が「それで賃貸マンションを建
てたら、家賃収入で将来は安泰やね」と言ったところ、本人は「いや。
ぼくは事業に使いたい」とこたえたそうだ。そして工場を移転建設して
経営を続け、後年、某巨大企業から継続発注の約束を得て、生産ライン
の新設もした。ところが、バブル崩壊だったかリーマンショック
だったか、景気が急落したため、その巨大企業から「書類一枚で」
キャンセルされたという。それ以降、業績も資金繰りも悪化し、遂に
は弱り目に祟り目で、高額手形のパクリ詐欺にひっかかった。広い
自宅も差し押さえられ、負債を抱えた本人は、当方の視野からは消
えてしまった。夫人は実家に身を寄せたのだが、その翌年だったか、
「主人とは離婚しました」と聞かされていたのである。

とまあこんな経緯があって、それが遠い過去のことになっていた先日、
突然二度の夢を見たわけだから、起きてから当方、「やっと人前に出
られるという言葉が本当のことだとしたら、長年どこかで働き続けて、
ようやく負債が解消できたのかな」と思っていた。しかし別の可能性
もうかんできて、「ひょっとして本人も何か罪を犯してしまい、それで
服役していたのが、やっと出てこられたのか。それとも、歳が歳だから
病気か何かで亡くなって、それですべての重荷から解放されたという
ことかな」と思っていた。そして、明暗双方の可能性を考えつつ外出し、
駅への道を歩いていたら、むこうから本人がやってきて「やっと人前
に」と言った、となると短編小説のラストだが、現実はそうはいかない。
どれが正解かわからないまま、とりあえずここに書いてみたのである。


◎こういう世界では高度の知性と狡猾さが要求されるのだ。
報道によると、外務省の公電システムが中国にサイバー攻撃されてい
たそうだ。出先の各公館と本省との連絡に使う暗号通信で、もちろん
北京と東京との交信も含まれる。何年か前にアメリカから「読まれてる
ぞ」と警告され、日米共同で対処と改善を進めてきたらしい。国益に
かかわる機密情報が筒抜けになっていたわけで、当方、「あいかわら
ず気楽なのか。それとも、中国の解読技術が卓越しているのか」と、
危惧を感じていた。というのは太平洋戦争前、日本の外務省の暗号は
アメリカに解読されており、野村と来栖の両大使が伝えに出向いた開
戦通告も、ハル長官はすでに知っていた。海軍の暗号も読まれており、
そこから戦後、ルーズベルトはハワイ奇襲を知っていたが、日本に先に
手を出させるため真珠湾の艦隊を見殺しにしたという、陰謀論も生まれ
てきた。そして山本五十六の乗機が撃墜されたのも、海軍の出先の
暗号電報が解読されていたからなのだ。

冒頭に書いた外務省の暗号通信は、一般のインターネットを介さない
「閉域」システムで送受信していたそうだが、中国の解読チームは、
そこにも楽々侵入していたのだろうか。一方日本では、防衛省や警察
庁などがそれらに対処する内部組織を持っているようだが、それは防
御専門なのか、それとも相手システムへの攻撃や破壊もやっているの
か。IT技術が高度で複雑になったいま、外務省以下、多数省庁の情
報網を防御するためには、縦割りや個別ではなく、横断・総合・集中
の組織が必要ではないのか。そのあたり、本気になっているのが防衛
省と警察庁だけなのだったら、国益上やはりまずいだろうと思うのだ。
ちなみに、日本がその種のことに「気楽」なのは、自分たちの使ってい
る暗号や手法は高度あるいは独得のものだから、解読できるはずが
ないと思いこむためらしい。これも太平洋戦争前の話だが、海底ケー
ブル経由の国際電話で、何度か機密情報の連絡をしたことがあった。

そのとき外務省だったか海軍だったかの当事者は、鹿児島出身の話者
を選び、双方に早口の薩摩弁でしゃべらせた。「日本人でさえ、他県
の者にはわからないのだから、アメリカ人にわかるわけがなかろう」と
思ってのことだが、盗聴録音していたアメリカ側は日系二世に聞かせ
て鹿児島弁だと知り、次からは同県出身者に傍受させた。まるわかり
にわかってしまったわけで、そこが気楽だと思う。鹿児島の次は秋田、
秋田の次は沖縄という具合に、話者を毎回変えるくらいの工夫は必要
なのだ。陸軍の戦地暗号は遂に解読されず、それは変換表を毎日変
更していたからだという話もある。そのくせ占領各地の司令部などで
雇っていた親日の料理人や下僕が、実はスパイで、大小の情報を盗
まれていたという事実も多数ある。まして平和が続いてきた現在の
日本の我々、もっと気楽になっているかもしれないのだ。大阪弁で
言う、「気のええのもアホのうち」ではいかんだろうと思うのだが。


◎姉御タイプは苦手だから、ひたすら敬遠していたのだ。
ネットの関西ニュースに、某女性タレントが先月亡くなっていたという
記事があった。80代前半であるが、死因は老衰だそうだ。そしてこの
女性は、当方が広告マンだった1970年代の前半、すでに大阪の業
界では「関西さんばば」の一人にあげられていた。いまならセクハラ
にあたる呼称だろうが、3人の婆さんという意味である。しかし勘定し
てみると、1970年ならまだ30才前後のはずで、あとの二人も似た
年齢だったのだ。なのになぜ「3ばば」だったのか。当方、ラジオCM
だのイベント司会だの、3人とも直接の仕事依頼をしたことはなかった
が、その雰囲気は見聞きして知っていた。それぞれ「態度がでかい」
「文句が多い」「カネに細かい」「後輩タレントとか、局や代理店の年
下の者には、横柄にあたる」等々の特性を持っていた。

大阪弁に「おばさん」ではなく「おばはん」という言い方があり、これは
優しくやわらかで繊細な女性には使われない。いわば3人とも、若くして
おばはんだったのだ。それでよくタレント業が続けていけたなと思うだろ
うが、良く言えば、仕事の実力はあったからということになる。実際、3人
ともその意味ではまかせられるから、当時ラジオやテレビによく起用され、
メイン番組も持っていたのだ。当方が作家になってからも、大阪は人間
関係でも何でも狭いので、誰かのナニナニ記念パーティーなどで顔を
合わせることがあった。そんなとき上記した女性は、こちらが避けていて
も、「よおっ」などと声をかけてくる。狭さゆえに、互いに顔見知りにはな
っていたから、年下の当方に横柄な姉御風を吹かせていたわけだ。

そして、もう一人の女性はそういう場では愛想がいいし、三人目とは一度
も言葉をかわしたことがないので、この女性の記憶のみが強く残っている
のである。あるラジオ局で、月〜金ベルトの看板番組にアシスタントとして
起用された女性がいたのだが、一年でお役ご免になった。当方その番組
のプロデューサーと知り合いだったので、飲んだときそのわけを聞いて、
思わず笑ったことがある。彼女は上記した女性の弟子であり、「態度が
でかい」「文句が多い」ところが師匠そのままで、使いにくいから辞めて
もらったというのだった。ちなみに三人とも独身を続け、ただし一人は某
大物タレントと同棲していた時代もあったそうだが、のちにまた一人に
なったらしい。そのかわり(?)、三人とも莫大なカネを貯めていたとも
いう。失礼ながら、おもしろうて、やがて哀しき話ではなかろうか。


先生の記憶その4。
確かその3で書いた北上先生だったと覚えているのだが、初冬の某日、
放課後の教室で遊んでいたら、先生が来て「誰かお使いに行ってくれ
ないか」と言ったことがあった。竹製の物差しと、ついでにキャラメル
一箱を買ってきてほしいのだという。それで当方がお金を預かって外に
出て、学校から少し離れた店まで行ってそれを買った。キャラメルは
もちろん菓子店でだが、物差しは薬局で買っていた。現在もそうなのか
どうかは知らないが、その時代、いわゆる「度量衡」の器具は薬局で
扱っている例が少なくなかったのだ。ところが帰りかけた途端、その
季節の新潟特有の気象変化で、鉛色の低い空から急にみぞれ混じり
の雨が降ってきた。風も出て斜めの吹き降りになり、当方、必死に走っ
て学校まで帰ったのだが、頭から服からずぶ濡れになっていた。その
姿で職員室に入り、先生に買ってきた物を渡したところ、先生はキャ
ラメルの封を切って「お駄賃」に何粒かくれようとしだした。

しかし室温は低く、まだストーブも入っていなかったのだろう、指先が
「かじかむ」状態になっていたのか、セロハンの細い封線がなかなか
つまめず、箱を開けられない。何度か試したあと先生は、本当は自分の
おやつにするつもりだったキャラメルを、「ほい」と箱ごと当方に渡し
てくれたのである。いま思えば、「それをそのままもらって帰るとは、
おれも意地汚かったんだな」であるが、まあ、小学校四年の子供だし、
当時のキャラメルには、それだけの魅力があったのだ。一方、鈴木と
いう音楽の先生がいて、紺のダブルの背広で太り気味、顔も大きめで
黒縁の眼鏡をかけていたと記憶する。ハーモニカ教育に熱心で、強制
ではなく希望者のみだったが、四年のとき当時の子供には贅沢な、
半音付きのハーモニカを買わせてもいた。そしてそれでハーモニカの
クラブのようなものをつくり、週に何回か放課後に練習するという。

その第一回目には当方も参加し、初練習を始めていたのだけれど、
途中で先生がふっと気付いた顔で、ある女の子に声をかけた。彼女は
ハーモニカを持っておらず、黙って座っていたのである。そのことを聞
いた先生、「今日は持ってきてないけど、家にはあるんだね」と確かめ、
女の子は家にもない旨をこたえた。するとその教師、「ハーモニカを
持ってなくて、どうやって演奏するの」と、いささか小馬鹿にした口調
で言い、皆がどった笑った。女の子は立ち上がり、顔を真っ赤にして、
教室から走り出ていったのである。そしてこのとき、当方は笑わなか
った。当人、満座のなかでどれだけ恥ずかしかったか、家に帰ってから
泣いたのではないか、先生もあんな言い方をしなくてもいいのに。
子供だから明確な言語化はできなかったが、そんなことを思い、この
ときの「かわいそうに」という気持ちは、いまも残っている。教師は
音楽家の資質を持っていたのかもしれないが、それにしては神経の
繊細さに欠けていたのではないかと、いま思うのだ。


◎局内教育と環境の影響で、それが「普通」になるんだな。
先般、NHKの青井なにがしというアナウンサーが、親族が経営する
企業から役員報酬を受け取っていたというので、副業禁止の規則違反
で厳重注意を受けたという。そして夜のニュース番組も降板したの
だが、実は退局してフリーになり、春からは民放の同種番組に起用され
る予定だともいう。これら複数要素の時系列関係や因果関係は知らな
いが、親族企業というのは有名な丸井で、彼はその創業者一族の御曹
司なのだそうだ。電通や民放局には、業界用語でいう「人質」として、
政治家、経済人、著名文化人の息子や娘が大勢いるが、NHKだから
売上げ向上のための人質はとらないだろう。しかし別の意味のそれなの
か、同局には政治家の子女等々、似た立場の局員はいるそうだ。名家
の御曹司もおり、往年、松平定知というアナウンサーがいた。ある演芸
番組の司会で、出演者が「横町の若様、春風亭小朝です」と自己紹介
したら、そのあと笑顔で「本当の若様、松平定知です」と言ったので、
当方その呼吸の良さに思わず笑ったことがある。

同じく往年、何の機会だったか忘れたが、NHK大阪の男性局員と名刺
交換したら、勅使河原なにがしという名前だったこともある。名家か
否かは不明だが、会社経営者の息子で、母親は元女優だというアナ
ウンサーもいた。この人は若くしてフリーになり、民放ラジオで番組を
やっていて、そのゲストに呼ばれたことがあるのだ。そして当方、収録
用に長めの会話を進めていく途中、「ああ。この人やっぱりNHKだな」
と感じていた。人当たりよく笑顔で受け答えしているのだが、質問でも
何でも一定の線以上には踏み込んでこず、自分についても一定の線以上
には入らせない。公式的な卒のなさであって、民放アナウンサーとは
明らかに違っていたのである。若い頃、NHK東京のFM番組にゲス
ト出演したこともあり、そのときにも似たことを感じていた。リクエス
トした曲がかかっている間、当方マイクオフの会話で、「この曲は大学
時代に」云々と言い、年長の男性アナも「その頃、私はどこそこ支局に
おりましてねえ」とこたえて、うちとけた雰囲気になった。

ところが曲が終わってマイクがオンになるや、「さて、かんべさん。SF
についてですが」などと、一瞬で公式的な話と聞き方にもどっていた。
大阪の民放番組なら、双方がうちとけた雰囲気をそのまま持続させ、
「いま聞きましたら、かんべさん、大学時代にはこれこれこうだったんや
そうですな」「そうですがな。さっぱりわやですわ」などと、話を盛り上
げていたに違いない。そのときには、そうなるのが自然な流れだと思って
いただけに、「えっ。NHKではそれをぶった切りますのか」と、内心
憮然としていたのだ。ちなみに上記した「やっぱりこの人」のフリー氏は、
やはりどこか違うのか、その後名前を聞かなくなった。某民放局の人の
話によれば、親の会社の専務か何かになったらしいのだが、さて、
青井アナはどうなるのでしょうかね。


◎富島健夫じゃないけど、「雪の記憶」を。
父親の転勤で、生まれてから幼稚園を終えるまでいた金沢では、自宅
から園まで徒歩で通った。大人にとっても少々距離があり、しかも車や
路面電車が走る道路を、春夏秋冬、幼児が一人で歩いて往復していた
わけで、「車の往来が少なかったのかな」と思ったりする。当時は当方
に限らず園児全員、親の付き添いなどなく、一人で通園していたのだ。
無論冬は雪の街となり、身体も冷えるため、雪が積もった道を帰る途中、
オシッコが出そうになったことがある。だから立ち小便をしようと思った
のだが、指先がかじかんで、ズボンの前ボタンがはずせない。ジッパー
ならすぐに下ろせただろうが、当時はまだ普及していなかったのだ。
焦って何度も試したけれど、どうにもならず、遂にそのまま洩らして
しまった。ズボンの下には股引をはいていたはずで、小便がパンツから
股引を伝って、ゴムの長靴にまで入っていったに違いない。

その冷たさや気持ちの悪さは覚えてないが、帰宅して母親に言うと無
理もないと思ったのか、怒らず後始末をしてくれたことは記憶している。
父親の再転勤で新潟に移り、冬はさらに寒い地方だから、その断片
記憶はいくつもある。朝起きて顔を洗うとき、いまなら赤の蛇口をひね
れば湯が出るが、当時はそんなものはなかった。水で洗う顔も冷たか
ったが、両手を立てて洗っていると、その水が手首から袖口へと伝い下
りていく。皮膚に感じたその冷たさは、いまも覚えているのだ。パンツ
と長袖の下着シャツを着た上に股引と長ズボン、ネルのシャツにセータ
ー、その上から分厚いオーバーを着て、手袋とゴム長靴で登校する。
帽子は明確には覚えてないが、耳垂れのついたものだったと思う。
吹雪でも行かなければならず、学校に着いて石炭ストーブが燃えてい
る教室に入ったら、ほっとしていたのだ。だから当方も含めて両手が
しもやけになる児童が多く、先生が毎日一回、軟膏を塗ってくれていた。

雪が積もると広いグラウンドは見渡す限りの純白平面になり、低学年
だった当方の腰以上まであるから、遊びでそこへ足を踏み入れていく
こともできない。冬の間は体育館が全校生徒の遊び場になっていたの
である。 実際、自宅の塀の裏木戸ドアが、雪で開けられないほど積も
っていた。だから再々転勤で小学校5年から来た大阪府豊中市では、
冬になっても寒くも何ともなかった。秋になると男子生徒は、それまで
の半ズボンを長ズボンに替えていく。当方、クラスで一番遅くまで半ズ
ボン姿だったのだ。昔、信越や東北から東京へ働きに出てきた人たちが、
上野に着いたら冬でも青空だったので驚愕したという話があった。当方
は大阪に来て、冬でも学校のグラウンドが地べたのままだということに、
驚いていたのである。そんなわけで以後長らく、冬でもパッチや股引の
たぐいは、はいたことがなかった。さすがに近年は、年齢ゆえか寒さを
感じるようになり、タイツをはくようになっているのだが。

1月
◎京阪電車の淀屋橋終点(地下駅)はもっと狭いけど。
阪神電車の梅田駅は地下1階が改札フロアで、プラットホームは
地下2階にある。地上には高層化された阪神百貨店がそびえて
おり、その周囲も同じく高層ビルだから、梅田駅を拡張しようにも、
もはや阪急電車梅田駅のような、地上の巨大な高架駅を建設す
ることはできないのだ。また地下駅も前後左右が地下街や地下鉄
への連絡通路で囲まれているから、拡張する余地がない。乗客の
利便のために改造するとしても、地下2階で4番線までという、
その制約内で工夫するしかないのである。そしてその工事が先年来
延々と続けられているのだが、「へえっ。よく出来たもんだな」と
驚く結果が、徐々に現れてきている。まずラッシュ時の混雑を緩和
するため、3番線と4番線の間のホームがぐんと幅広になった。
全体の横幅は決まっているのに、なぜそんなことが出来たのか。

1番線側も4番線側も、まだ工事中の仮設壁で仕切られているから
正確にはわからないが、4番線の外側、阪神百貨店の地下2階売り
場に沿った通路を廃止し、そこに4番線の新しい線路を敷設して、
元の4番線スペースを加えた幅広ホームにしたのかもしれない。
1番線と2番線の間のホームも、どんな手を打ったのかは不明だが、
一部が幅広になっているから、仮設壁を取ればホーム全体がそう
なったとわかるのだろう。おまけに、地下1階の改札フロアは本当に
狭いから、工事開始以前には 「このフロアにエレベーターはありま
せん」という表示がしてあったし、無論エスカレーターもなかった。
ところが現在、上がりと下りの並列エスカレーターが2箇所に設けら
れており、エレベーターも出来ていて、「よくまあ、こんな狭い
場所に造れたなあ」なのである。

そのかわり現在も、仕切板や仮設壁があっちにもこっちにもあって、
まっすぐには歩けないせせこましさだ。しかし利用客である当方、
その状態にむかつくことはなく、逆に感心している。改造の全体構想
があり、けれど厳しい制約条件があり、ならばまずここをこうしておき、
その間こっちはこうして、次にこちらの側をこうやってと、緻密な計画
が立てられ、その工程表に従って実際の工事が進められてきたの
だろう。プロ集団たる関係者の能力に敬服しているのだ。ただし当方、
「いらんこと」も考えた。阪神電鉄は往年、村上ファンドの株式買い
占め攻勢を受け、阪急電鉄にTOBで助けてもらって経営統合された。
「それでこれだけの工事もできるんだろうな。いまも単独の会社だっ
たら、予算面で無理だろうから」と思っていたのだ。


◎雑学趣味だから候補書籍は多かったのですが。
家族から誕生日のプレゼントをあれこれもらい、5000円分の図書
カードもあったので、先日ジュンク堂へ行って1時間余り書棚を見
て歩いた。おもしろそうな本はいくらでもあり、買い出せばきりが
なくなる。書籍の値段が上がっているから、たとえば単行本3冊
でも5000円以上になる。しかしせっかくのプレゼントだから、とり
あえず今回は、「おっ。これだ!」と一瞬で決定するものを選んで
買おうと思った。ところがその方針で見ていくと、候補になる本が
それぞれの理由によって、「いまはまあ、やめておくか」になって
しまう。理由のひとつは、「これを読まなくても、ネットで調べれば
もっと詳しくわかる」というもので、古代巨石文化やピラミッドの
謎を解説した本がその一例だった。ぱらぱらと見たら写真や図解
も入っていたが、ネットで検索すれば、それ以上に詳しく解説した
サイトがあることは知っているのだ。

ふたつめの理由は、「もう見てるし、覚えている」というもので、
代表例は戦前から戦後にかけての、大阪の街や建物や鉄道の
写真集。これまで、その種の本は趣味と仕事のために何冊も買っ
てきており、棚から取って見た書籍の、大方の収録写真は記憶
していた。一部に知らなかったものもあったが、「これだって、ネ
ットに出てるだろうしなあ」になったのだ。理由のみっつめは、同
じく「もう読んで知っている」であって、第二次大戦中の日本およ
び各国の秘密兵器を紹介する本など、目次を見ただけで「ああ。
あれとこれとそれか」とわかる。同類の書籍は学生時代以来いろ
いろ読んできているから、解説の内容にも見当がつく。そしてまた、
仮に知らなかった秘密兵器があったとしても、これも同じくネット
検索の方が詳しくわかるのだ。そしてその「ネットの方が詳しく
わかる」は、ロシアのウクライナ侵攻、中国の強圧的拡大政策、
イスラエルとハマスの戦争など、時事問題解説書についても同
様であるし、ネット情報の方が鮮度が高いのだ。

そしてDVDコーナーも見てみたが、これは専門店ではないから
書棚ひとつ分に限られている。また、往年500円で売られていた
パブリックドメインの旧作映画が、いまは290円になっており、
ハリウッド以下、イギリス、フランス、イタリア作品が並んでいる。
しかし驚いたことに、そのなかの見ておきたい映画、おもしろそう
な作品は、当方すでに全部買って鑑賞済みだった。往年、ラジオ
の早朝生ワイド番組を3年余り担当していたとき、土曜と日曜だけ
がフリーだったから、金曜の放送終了後は大抵毎週、書籍何冊かと
500円DVDを2、3枚買っていた。以後も断続的に買って見て
きたから、あとは別に見たいとは思わない作品しか残っていなか
ったのだ。よって結局、小説一冊と演芸関係の本一冊だけ買って
いたのだが、上記した「ネットの方が詳しくわかる」の件からは、
「本が売れなくなるはずだな」と再実感させられた。同時に「すで
に知っている」については、「この歳になるまでの年月だから、
おれはかなりの本を読んできたんだなあ」とも実感していたのだ。


◎活力以前の、生命力の低下傾向なのかな。
先般、産経新聞のサイトに、「男性不妊の実態」を紹介する記事が
あった。男性の不妊と言えば、精液中の精子の数が少ないとか、
その動きが弱いとかを連想するが、この記事はそれではなく、
勃起や射精ができない、性機能障害の男性が増えている」こと
についてである。たとえば不妊治療クリニックに来院した30代の
夫婦が、「子供の作り方がわかりません」と訴え、そもそも「結婚
以来セックスはしたことがない」のだと言う。聞いた医師は、まず
そこから相談に乗らなければならんのかと、驚いたそうなのだ。
そしてその種の男性が増えており、複数の相談者のものだろうが、
記事ではこんな実情が列記されていた。「性的なことにはまったく
興味がなく、アダルトビデオも見たことがない」「初めて女性の陰
部を見て、怖いと思った」「手を使った自慰行為をしたことがない」

そして、「性暴力のニュースなどに触れ、性への関心が抑制される
子が少なくない」とか、「恋愛をトラブルの元と考えて遠ざけ、その
まま自慰行為を覚えず大人になる」とか、「インターネットにあふれ
る過激な動画を見すぎて、実際の女性では性的興奮を得られず、
性行為や射精ができない人も多い」とも書かれていた。またそれら
の背景には、「学校も親も、女子には生理のケアを教えるのに、
男子の射精は勝手に覚えるだろうと放置している」実態があるとも
いう。「なるほど。そう言われれば」であって、当方の小学校高学年
時代、女子だけが教室に残り、男子はグランドで遊んでいたという
時間が、確かにあった。いま思えばそれがケアの授業だったのだろ
うが、男子は小学校でも中学校でも、そんなことは何も教えてもらえ
なかった。だから我々は、生徒どうしの会話や露骨な写真が載って
いるエロ週刊誌の立ち読みなどで、「勝手に覚えて」いたのである。

しかも昔のことだから、大学生になっても、仮に交際相手ができても、
そう簡単には実体験ができなかった。やる気満々の若者が抑圧され
ていたわけで、クラブの飲み会では、代々伝わる春歌(エロティック
な内容の歌)を総ざらいして、ストレスを発散していたのである。そう
言えばこちらが中年になってからだったが、若い女性タレントと雑談
で大学のクラブの話をしていたとき、「男たちは飲み会で、いまでも
春歌を唄ってますか」と聞いたら、「シュンカって何ですか?」と聞き
返されたことがある。はぐらかしているのではなく、本当に知らない
という。そのとき当方、「隔世の感」を覚えていたのだが、「作り方が
わかりません」「怖いと思った」となると、隔世の感どころではない。
そういう男がどんどん増えると、ますます少子化が進んで、日本は
衰退していくのである。性暴力犯罪の記事はよく見るが、実はそれ
は極少数以下の男性の所業なのだろうか。


先生の記憶その3。
新潟時代、小学校三年の担任は中戸という先生で、名前が「
ゆうじ」だったことは覚えているが、勇二か祐司か、漢字までは
記憶にない。中肉中背で赤めの顔は額が広く、そこに前髪が
垂れ下がったりしていた。熱血漢という言葉などまだ知らなか
ったが、そんな雰囲気のある、子供の教育に熱意を傾ける人
だった。教室に額に入れた良寛様の言葉を掲げており、それは
「子供たちと遊んでどうこう」というものだった。いま調べてみると、
「子どもらと 手まりつきつつ霞(かすみ)立つ 永き春日を暮らし
つるかも」という歌である。良寛様は新潟に縁の深い人物だし、
子供好きでも知られていたから、中戸先生はそれを理想にして
いたのかもしれない。学校の指定ではなかったが、先生が選ん
できたらしい絵日記帳があり、クラス全員にそれを配って、毎日
何でも自由に書いて出すことになっていた。

そして当方あるとき、「ぼくはちょっとしゃくだった」と、その日、
先生から誤解されたことを書いた。夏のことだったか、その前日
に散水車がまだ舗装されていなかった道路に水を撒きながら走っ
ており、そのタンクには新潟市のマークが入っていた。そこで当方
それを伝えようと、「先生。昨日、誰それ君と帰るときにね」と言っ
た途端、何をどう誤解したのか、「告げ口は聞かん」と、ぴしゃりと
はねつけられた。絵日記にはそのことを書いたのであり、すると
翌日、「それは先生が悪かった。これから気をつけます」と書かれ
て帰ってきた。熱血漢だけに先生は「しまった」と思ったに違いなく、
こちらは先生が謝ってきたゆえをもって、長く記憶することになった
のである。四年の担任は北上という先生で、名前は覚えていない。
小柄ではなかったと思うが細身で、紺の背広姿が多かった。

にこにこしている先生という印象があり、実際おだやかな人だった
ようで、こんなことがあった。詳細は覚えてないが、先生どうしの
会話か何かで、北上先生が遠慮してるか我慢してるか、そんな
ことがあったらしい。それを見ていたクラスの生徒何人かが、教
室で憤慨するようにそれを先生に言った。生徒たちは、やはり
担任の先生が負けているのが悔しかったのかもしれず、また、
それだけ北上先生が好かれていた証拠かもしれない。そしたら
先生はにこにこ笑って、「みんなは神崎与五郎という人を知って
るか」と言った。無論誰も知らなかったが、忠臣蔵に出てくる義士
の一人で、大望を秘めている身とて、難癖をつけてきた馬方に
土下座して謝った人物だという。北上先生はその話によって、
我慢ということを教えていたのかもしれず、「勝つとか負けるとか、
そんなの大したことではないよ」と言いたかったのかもしれない。


◎末端の党員には善人が多いとも聞いておりますが。
今般の日本共産党大会で、志位委員長の退任と、女性幹部の
就任が決まった。志位氏は23年間委員長を勤めてきたそうで、
当方、「これは跡を継げるだけの人材が、23年間一人も育って
こなかったためか、それとも育ってきてたのだが、そのときどきで
排除されたゆえか、どっちだろう」と思う。前者なら「どんな党や
ねん」であり、後者なら「はあん。そういう党か」なのだ。無論、
党内で志位氏の側に立つ人たちは、「そうではなく、党員の多数
が彼を優れた指導者として支持してきたからだ」と言うだろう。
しかし、だとするなら、委員長の公選制を主張して除名されたり、
後難を恐れてか、顔を撮影させないままそれを訴えた党員たちも
いたのだから、一度試しに無記名投票で公選してみればよかった
のではないか。党員多数の支持が事実なら、志位氏は堂々と当
選していたはずで、望めばさらに委員長を続けてもいけるのだ。

同党は内部の意思決定を「民主集中」制でやっているそうで、
これは下からの自由な意見をピラミッド型の中級〜上級組織へと
上げていき、指導部が最終決定を下す方式であるらしい。そして
一旦決められたからには、幹部から末端に至るまでがすべて
それに従うべきで、反対するのは「分派」活動とみなされるという。
けれども当方思うに、これは上から下までの党員全員が、私利
私欲をまったく持たず、ひたすら客観的で公明正大な思考と行動
をする人間ばかりなら、理想的に機能するシステムかもしれない。
しかし人間とはそんなものではないから、思惑が入り打算が入り、
裏では権謀術数が渦巻くことになるのではないか。共産党だから
という意味ではなく、どこのどんな党でもそうなると思うのだ。
そしてまた当方、共産党については素朴な疑問も持っている。

すなわち、同党は憲法の全条項を守ると言っているが、その憲法
は象徴天皇、私有財産、言論の自由、検閲の禁止を定めている。
しかし、これらすべてを本当に守り続けるというなら、「どこが共産
主義の党やねん」であって、党名を変更すべきだろう。逆に党名と
思想を堅持して進むのなら、憲法を守るという現在の姿勢は、仮の
姿ではないかという疑惑が生まれてくる。もし政権を長期間確保
すれば、改憲以上の廃止と別憲法制定に進むのではないかと思う
わけだが、しかしそんな未来は来ないだろう。ソ連の崩壊、北朝鮮
の世襲独裁、中国の強権的な拡大姿勢。それらを見てきた多数
有権者は、学んで賢くなっているのである。繰り返しになるが、
以上は「共産党だから」と思って書いたのではない。当方、「支持
政党なし。どこも信用してませんから」という人間であり、同党は
その一例に過ぎないのだ。よって関係者の
反論や説得は御無用
に願いたい。議論する気はまったくないのだから。

◎もうすぐ印刷見本が出来るので楽しみにしている。
勉強させてもらっている宗教の、当方が通っている教会では、
今年の2月初めに初代教会長の80年祭を迎える。そこでその
記念配布品として冊子を作ることになり、昨年後半当方が執筆
を担当した。明治3年(1870)から昭和19年(1944)までの、
初代の人生の道筋をたどる小伝である。ただし当方、一昨年に
長編伝記小説を書き上げており、そのときには大量の資料を
調べ、出身地である和歌山市にも三度出かけて、関係する町
を歩いて取材した。主要な舞台は子供時代から青年期の初め
まで過ごした和歌浦と、20歳で奉公に出てきて以降の大阪市
であり、74年の人生は波瀾万丈のものだったから、小説として
ふくらませて書いたら原稿用紙700枚余りになった。教会の
私家版として出せば分厚い書籍になって、かなりの経費が必
要になるから、そう簡単には刊行できない。

そこでそれはキープしておいて、今回は100ページほどの冊子
をということになり、小説ではなくストレートな小伝として書い
たのだ。そして教会の各種冊子や書籍を製作してきた印刷会社に
聞くと、1ページあたりの字詰め行詰めから計算すれば、原稿用
紙150枚弱が適当だということだった。しかし上記した長編小説
中、フィクション部分は100枚〜150枚見当で、残りの600
枚〜550枚は事実の集積である。つまり、それだけ多量の要素
を150枚でまとめなければならないわけで、どう書けばいいの
か困惑した。またそれは長編小説のダイジェスト版ではなく、小
伝として独立した内容を持っていて、同時に読みやすくわかりや
すいものにしなければならない。あれこれ思考の結果、文章の
センテンスを短くし、各時代のエピソードも短く重ねていくことに
した。長編はアナログ的にゆるやかな流れで書いたが、こちらは
デジタル的に、内容を簡潔に断続させていく方法を採ったのだ。

とはいえ、興味深いエピソードや談話記録を大幅カットするにし
ても、スケルトンのみになってしまっては味気ない。また「各時
代の大阪の変遷ぶりも入れてほしい」という要望もあったから、
原稿は結局150枚では収めきれず168枚、冊子は100ページ
から少し増えて119ページになったのだ。ちなみに執筆自体は
そう難しくはなく、ときには楽しんで書いていけた。資料要素は
長編の原稿から抽出使用できたし、大阪で奉公していた時代の
雰囲気は、長年のファンとして覚えた上方落語の知識や光景を
あれこれ応用できたからである。なにしろ奉公先の主人が商売
に身を入れず、堀江や新町のお茶屋で、「居続け」で遊ぶなどと
いう事実談が出てくる。これなど、落語そのままなのだ。


◎すでに民俗学の先生が研究してることかな。
先日、信号待ちをした交差点で、当方の前に外国人(白人)の
若い女性が立っていた。ラフな服装でリュックを背負っており、
そこに小さな和風のキツネの面を2種類吊り下げている。キー
ホルダーであり、伏見大社かどこかへ行ったときに買ってきた
のだろう。それとも、いまは大阪駅などの売店でもインバウンド
客向けのグッズを売っているから、そこで買ったのか。とにかく
彼女は、日本風のキツネ面に何か魅力を感じたように思われ、
「どういうところが気に入ったのですか」と、聞いてみたくて仕方
がなかったのだ。そして考えてみると日本には、ネズミからイノ
シシに至る十二支の動物以下、インバウンド客が魅力を感じ
そうな、伝説、民話、おとぎ話風のキャラクターがいろいろある。

タヌキ、カエル、張り子の犬、カッパ、鬼、天狗、桃太郎に金太郎、
浦島太郎、乙姫様や天女等々、どれもキーホルダーや小さな
マスコットに出来、色と形をアニメのキャラクター風にすれば、受
けるだろうと思うのだ。対してその彼らの国では、そのあたりが
どうなっているのか、当方まったく知らない。欧米諸国にも、民話
やおとぎ話のキャラクターがいろいろ存在し、それらはキーホル
ダーやマスコットとして商品化されているのだろうか。たとえば
ペットの犬や猫には親しんでいても、それ以外の大型動物、馬
とか牛とか羊とかを「かわいらしい」キャラクターにしようという
意識があるのかないのか。「童話の三匹の子豚のキーホルダ
ーはありそうに思うけど、神話や伝説のペガサスやユニコーン
はどうなんだろう。ああ。そういえばネッシーは、現地で土産品
のマスコットになってるかもしれんな」と、興味が広がったのだ。

また宗教上の規範によって、サンタクロースは別としても、キリ
ストや天使や教会をキャラクターにするのは御法度なのだろうか。
日本では土産品のマスコットやキーホルダーに、当方が見たこと
があるものだけでも、お釈迦さん、お大師さん(弘法大師)、鳥居、
東大寺の大仏、大仏殿などがあり、そのあたりは日本人は平気
なのだけれど、あちらでは駄目なのかどうか。そしてさらにエリア
を広げて、アジア、アラブ、アフリカ、太平洋諸島、中南米に、キー
ホルダーやマスコットになるキャラクターが、どれだけあるのだろう
と考えていた。プラスチックや布地以外に、昔からの素材として木、
石、水晶、焼き物用の土などもあるから、何か宗教的、呪術的な
姿形がうかんでくるのだが、それを超越して漫画的なキャラクター
に仕立てる、「洒落と遊び」は許容されるのか否か。信号が変わっ
たので、キツネ面のキーホルダーを見ながら歩き出し、そんなこと
を考えていたのだ。いや。頭への良い刺激になりました。


◎先生の記憶・その2。
幼稚園を終えた3月末、父親の転勤で新潟に引っ越し、4月からは
家のすぐ近くにあった小学校に通った。1年のときの担任は小林チズ
という女性の先生で、細身ですらりとした、いま思えば美人と言って
いい顔立ちをしていた。
少し誉め過ぎ気味に言うなら、往年の宝塚
スター、寿美花代さんを細くしたような容貌。ただし名前のチズは、
平仮名だったかもしれず、千寿とか千鶴とかの漢字だったかもしれ
ない。集合写真では襟首に小さなリボンが付いた、腰から下がふわ
りと長いワンピース姿で映っており、それは当時(昭和29年)流行
していたスタイルだった。ネットの公開写真で古い女性雑誌や往年
の映画女優を見ると、その服装をしている例が多いのだ。同じ市内に、
公園にもなっていたチューリップ農園があり、日曜日だったか、母親
とそこへ行ったことがあった。そのとき母親いわくは、「小林先生が
男の人と来てはるわ」。当方、直接その姿は見なかったが、つまり
デートをしていたということだろう。まだ若くて独身だったのだ。

図画の授業で、折り紙でカタツムリを作ったことがあり、先生の指示
に従って折っていく。ところが当方、途中でその手順に着いていけ
なくなり、どうしていいのかわからなくなって、遂に泣いてしまった。
先生が「泣いてもできないよ」と優しく言ってくれたのだが、出来ない
ものは出来ない。結局、先生が席に来て折ってくれたのだった。当方、
その種のことに関して呑み込みは早い方で、小学校高学年以降、
別に困ったこともない。なのになぜ、このときには出来なかったのか。
大人になってから思ったことだが、これは「早生まれ」ということが関
係していたのではなかろうか。同じ年の4月以降に生まれた者は
次の年に入学するのに、1月から3月に生まれたというだけで、その
前の学年としてスタートさせられる。小学校1年という段階では、心身
ともにまだ発育の差が顕著だったからではないかと思ったのだ。

2年の担任は久代という女性で、こちらは色黒の顔にしわが目立つ、
年輩で小柄の先生だった。そしてこの担任は意地悪で、生徒のえこ
ひいきをし、いじめたりもするという、大阪弁のニュアンスをこめて
言えば「おばはん」だった。たとえば親と教師の懇談で、ある母親が
何か批判的なことを言ったらしく、すると翌日おばはんは教室で皆の
前で、該当する生徒を「ののしり」に近い言葉で叱責した。その生徒が
家でいらぬことを言ったから、自分が母親から批判されたのだという
怒りだったようで、当方、その鬼のような顔をいまだに覚えているのだ。
また、勉強のできない少々「とろい」生徒がおり、おばはんは露骨に
馬鹿にしていた。それでそのあとどうなったかと言うと、上記した
生徒二人の母親が「これはたまらん」とでも思ったのか、何か付け
届けをしたらしい。途端に態度が変わり、前者はひいきし、後者には
笑顔で接しだしたのである。当方がその被害に遭わなかったのは、
2年になってからは早生まれのハンディも乗り越えられたのか、
一応は勉強ができるようになっていたからだろうと思う。

◎山熊は山田熊吉の略。創業者で当方の曾祖父らしい。
1月は十日戎(とおかえびす)の月で、関西では「えべっさん」と
呼ぶ。お祭りは三日間続き、9日は宵戎(よいえびす)、10日が
本戎(ほんえびす)、11日を残り福と称している。大阪の今宮
神社と兵庫県の西宮神社が有名で、参道も境内も人で埋め尽くされ
るのだ。そしてこのえべっさんの前後は、灘、西宮、伊丹等々の酒
造会社が、絞り立ての新酒を出す季節でもある。したがって絞った
あとの酒粕が出まわる時期でもあり、スーパーなどでも板状や直方
体の塊や、ビニール袋詰めのバラで売っている。工場の横に直売
店を設けている酒造会社もあり、そこでは新酒や奈良漬けとともに、
進物にも使えるように、きちんと箱詰めにした酒粕も売り出す。
食べ方としては粕汁が代表例で、ダシを取った汁に酒粕を多めに
入れ、鮭のアラ、大根、人参、こんにゃくなどを入れて作るのだ。

とうに亡くなった母親から聞いた話では、昔の造り酒屋ではこの季
節、奉公人の食事にも粕汁が出て、丁稚も女子衆(おなごし)も、
この粕汁だけは何杯おかわりしてもよかったそうだ。造り酒屋だか
ら酒粕は山ほどあり、上記したような商品にできない切れっ端など
も大量に出て、それを使っていたのだろう。昔のことだから、鮭の
アラなども安かったに違いない。そして、当方の母親がなぜそんな
ことを知っていたかというと、実家が灘の御影(みかげ)で、酒造用
の巨大な樽を作って納める商売をしており、同時に「金鷹」という
銘柄を持つ造り酒屋でもあったからだ。だから奉公人も複数おり、
昭和の初めという時代、女学校の生徒だった母親が宝塚歌劇を見
に行き、夕方御影の駅まで帰ってくると、丁稚が迎えに来ていたと
いう。その父親もいわば大店(おおだな)の旦那だったわけで、浄
瑠璃を習って会に出たとか、まだ御影村だったか御影町だったか、
その議員選挙に出て当選したこともあるそうだ。母親が言うには、
それはぐんと大きな造り酒屋「大関」の意向を受けてのことだった
そうで、つまりまあ、土地の有力者の代弁役だったのだろう。

話を酒粕にもどせば、板状の酒粕を適当な大きさに切り、黒砂糖の
塊を包むかたちでまるめて、団子または巾着型にする食べ方もある。
火鉢で焦げ目がつく程度に焼き、熱いやつを食べるとなかの黒砂糖
が溶けていて、口のなかにじゅわっと甘い濃液が広がるのだ。母親
いわくは、それは丁稚のおやつだったというのだが、いくら食べても
よかったかどうかは聞きそびれた。当方の結婚後、家人が進物用の
酒粕を実家や親戚に送り、この団子式の食べ方も伝えておいたら、
「おいしかった!」と好評を得たそうだ。なお、母親の実家は戦争の
時代になって商売ができなくなり、金鷹の商標権も売ったので、戦後
は別の会社がその銘柄の酒を発売していた。世が世ならば当方、
大阪弁で言う「ええとこの坊ん」になっていたかもしれないのだが、
手元にある、「みかげ 山熊」という白い文字を焼き付けた、備前焼
の二合徳利だけが、その残滓、記念、証拠品なのである。


◎木村功はその前年の映画「真空地帯」にも出ていたな。
ユーチューブで昭和28年(1958)制作の映画、「雲ながるる果てに」
を見た。原版はモノクロだが、コンピューター処理でカラー化されてい
る。若い時代の木村功、西村晃などが出ており、監督は家城巳代治。
音楽は芥川也寸志で、特撮は円谷特殊技術研究所となっている。
映画界も群雄割拠の時代だったのか、製作したのは重宗プロと新
世紀映画で、配給は松竹と北星映画だというのだが、このあたりは
当方、松竹以外まったく知らない。しかしとにかく、太平洋戦争末期の
海軍飛行予備学生を描いた作品であり、原作は同タイトルの彼らの
遺稿集。映画では九州南部の特攻隊基地が主たる舞台になっている。
そして当方、意識をかなり集中させて見ており、それはストーリーや
エピソードとともに、作品中に出てくる兵舎、トラック、町の光景などが
リアルで、戦争中の雰囲気が良く出ていると感じたからだった。

終戦からまだ8年しかたっておらず、無論高度成長期よりずっと前の
時代だから、建物でも何でも、戦前戦中のものがそのまま残っていて
使えたのだろう。兵舎はまさに元の兵舎なのか、それとも近くの学校
でも使わせてもらったのか、それはわからないが木造の古くて暗い
建物である。トラックもいま見ればまことに旧型で、運転台は周囲の
鉄板も窓ガラスもカーブ面のない水平と垂直の武骨な構造。夜間や
休日に予備学生たちがその荷台に乗って出かけていく町の料亭も、
ひょっとしてセットだったのかもしれないが、当方の受けた印象では、
古くからのそれを使わせてもらっているように思えた。いま同様の
映画を撮るとしても、ロケで使える建物は非常に限られており、大半
をセットで対応しなけれはならないだろう。そしてそのセットは、いか
に時代の雰囲気を出そうとしても、どこか「つくりもの」感が出るのだ。

トラックにしても、上記した旧型などもう残ってないだろうから、現在の
それをカーキ色に塗装しなおして使わなければならない。ライトやバッ
クミラーくらいは旧型風に改修できても、上記した武骨な水平垂直構
造は示せず、鉄板も窓ガラスも現在のふくらみやカーブを有したまま
となる。実際、確か「男たちの大和」だったと思うが、そんなトラックが
出てきて、見ていた当方、興醒めしたことがある。そして何よりも出
演している俳優、特に脇役や兵隊役たちの顔が、まだ「戦前の日本
人の顔」だったのだとも言え、それが当方が思う戦争映画に適合して
いる。近年の戦争映画は、将校も兵隊も「いまの日本人の顔」なので、
見ている途中でしらけたりするのだ。なお、空中戦などの特撮技術は
時代とともに進歩してきたし、現在はCGも使えるから、ドキュメンタリ
ー作品などで、「おっ」と思うようなリアルな再現映像があったりする。
当方、何もかも「昔は良かった」などと言うつもりはないのである。


◎ともあれ、どちらも様の御冥福をお祈りいたします。
年末、12月31日の朝日新聞に、「2023年亡くなった方々」という
記事があった。1ページ全部を使った特集で、物故者がびっしり並んでいた。
政治経済から文化芸能スポーツまでを網羅しており、各分野の著名人を
セレクトしているのだろうから、その基準をゆるめれば逝去者はさらに増え
るだろう。そしてざっと読んでいくと、いろんなことを思い出す。たとえば
1月には、新右翼「一水会」の創設者、鈴木邦男が79歳で亡くなっている。
もちろん当方面識はないが、この人のエッセイや対談は好きだった。論旨
明快で、既成の右翼に対する批判も遠慮無くしていたからだ。朝日新聞
襲撃事件の「赤報隊」メンバーと何度か会ったこともあるそうだが、その
個人情報については完全黙秘を通したので、遂に見当がつかないままに
なってしまった。2月は辻村寿三郎、人形作家、89歳。この人の人形は
怖くて、不気味で、「どういう人だろう」と、その内面を知りたかった。

4月、海野弘、評論家、元「太陽」編集長、83歳。当方「スパイの世界史」
「陰謀の世界史」を何度読み返しているかわからない。著者の守備範囲
の広さ、読書量、勉強ぶりに驚嘆しており、著述者の「理想像」として、
尊敬する人だったのだ。同じく4月、ハリー・ベラフォンテ、歌手、96歳。
学生時代、レコードでこの人の「ハバ・ナギラ」を聞いて寒気が走り、何度
も聞き返して、果ては酔ったようになってしまった。以来現在まで、多様
な歌手のそれを聞いてきている。この人は非白人だから、ホテルで入館
だか宿泊だかを拒否されたことがあり、それならばとホテルそのものを
買収したという話があった。5月、中西太、プロ野球選手、90歳。当方の
子供時代、西鉄ライオンズはバッター中西、豊田、ピッチャー稲尾で全
盛期を迎えていた。某年の日本シリーズでは、ジャイアンツに3連敗した
あと、4連勝して日本一になったのだ。同じく5月、上岡龍太郎、タレント、
81歳。当方も面識があり、複雑な人で、好き勝手に生きてる人という
印象もあった。好き勝手のなかには、「シャレにならん」エピソードもある
わけで、放送業界の知り合いからそれを教えてもらったとき、「やっぱり、
住んでる世界が違うな」と実感していたのだ。

8月、福原義春、資生堂創業者の家系で元社長、92歳。文化人でも
あったこの人を覚えているのは、あるエッセイで悪筆の話を書いていた
からだ。悪筆者のなかには、頭の回転の速さに手が追いつかないため
という人もいるという。本人がそうだったか否かは知らないが、超悪筆
の当方、非常に納得していた。事実、実際、本当に、手が追いつかない
のである。11月、池田大作、創価学会名誉会長、95歳。そしてそこま
で読んで当方、「あれっ?」と思い、前半の月をチェックしなおしていた。
確か「幸福の科学」の大川隆法も、2023年の死去だったからだ。しか
し載っておらず、ネットで確認して3月に66歳でと知った。それが朝日
の特集に載ってなかったのは、担当者が忘れたのか、上記したセレク
ト基準ゆえの洩れなのか、それとも社の「見識」によるものだろうか。
何にせよ、二人とも組織内には衝撃が走り、葬儀も超大規模なものになる
はずだと思うのだが、そのあたりがどうなっているのかよくわからない。
12月、坂田利夫、コメディアン、82歳。死去の直後、死因は老衰と
発表され、思い出せば2022年に亡くなった「突破者」の宮崎学も、
77歳で老衰と報道されていた。当方も後期高齢者だが、二人の老衰
には合点がいかず、実感もまったくわかない。人によって細胞の生命
維持機能に差違があり、老化が早い体質というものがあるのだろうか。


◎先生の記憶・その1
幼稚園は年長組の1年間だけ行ったのだが、それを含めて以後
大学を卒業するまで、教育施設に17年間通ったことになる。先生、
教師、講師、助教授、教授。さまざまな人に接したわけで、今回か
ら断続的に、その記憶を書いていくことにする。昭和28年(1953)、
5歳だった当方、父親の転勤で住んでいた金沢市で、お寺がやっ
ている幼稚園に通った。園長先生が坊主頭だったのは、その寺の
住職だったからだろう。ただし卒園式の集合写真では背広姿で映
っており、当方も袈裟や衣という姿を見た記憶はない。写真による
なら長身で、中年前半という顔である。担任は桜井先生という若い
女性で、正確には覚えてないが、当方が住んでいた近所の、知り
合いの家の娘さんだったらしい。名前が「しずこ」(漢字か仮名かは
不記憶)なので、当方の母親は、無論幼稚園では「桜井先生」と
呼んでいたのだろうが、近所の人と彼女の話をするときには、
「しいちゃん」と呼んでいたのだった。

その幼稚園で普段どんなことをしていたのか、遊技、歌唱、工作、
運動等々、いまやまったく思い出せない。思い出せるのは、毎日
帰るときの「儀式」くらいのものである。先生がオルガンを弾きな
がら、たとえば「♪ミカちゃん、ミカちゃんはどこにいます?」と
唄で問いかける。問われたミカちゃんは立ち上がり、指先で自分
を示しながら、「♪ここです。ここです。ここにいます」とこたえる。
それを順にクラス全員分繰り返していくのであるが、驚いたことに
この歌は、幼稚園によっては現在も唄われているらしい。お寺の
幼稚園だから、4月8日の「花まつり」すなわちお釈迦様の誕生日
には、園児全員が本堂に座って園長先生のお話を聞く。どんな話
だったのかは覚えてないけれど、赤だの黄色だの五色の豆を
もらって帰ったことは記憶している。

また、そのときだったか別のときだったか、当方本堂で唾を吐き、
それが見つかって走って逃げたことがある。教室に逃げ込んで机
の下に隠れたのだが、追ってきた先生にたちまち見つかり、本堂
に連れて行かれて拭かされたのだ。ただし追ってきたのは桜井先
生ではなかった。他にも何人かいた先生は女性ばかりで、上記の
モノクロ集合写真には、時代と土地柄がよく出ている。卒園式
だから2月か3月で、年によっては豪雪に見舞われる寒い街だが、
当時のことで暖房も石炭ストーブだけだった。桜井先生も他の女
性の先生も、全員鼻全体の色が変わっており、カラー写真なら赤く
映っているに違いない。当時の雪国の若い女性たち、美容も何も
あったものではなかったのだろうなと、気の毒に思うほどなのだ。


◎年頭に困惑しつつ、本年もよろしくお願いいたします。
桂米朝師匠の数多い演目のなかに、「けんげしゃ茶屋」という
噺がある。「けんげしゃ」はとうに死語だが、とにかく縁起(ゲン)を
担ぎ、縁起の悪いことがあったり、そんなことを言われたりしたら、
非常に気にして嫌がる人のことである。そしてこのネタは、大きな
商家の旦那が元日のお茶屋に出かけ、けんげしゃの芸妓(げい
こ)相手に、散々ゲンの悪いことを言ったり、したりして遊ぶのだ。
往年の産経ホールでは、毎年正月に桂米朝独演会が開かれて
おり、何年かに一度はこの「けんげしゃ茶屋」が出た。大入り満員
の客たちは、正月早々ゲンの悪いあれこれを聞いて、大笑いする。
ただし師匠自身が著書に書いておられるように、それが嫌な噺に
聞こえるようではいけない。芸妓を、親しみをこめてからかって
いるという、そのあたたかさが土台になければならないのだ。

で、話が突然飛ぶが、当方も後期高齢者になっており、友人が亡
くなる知り合いが亡くなる、御面識を頂いていた著名な年長者も、
次々に鬼籍に入られるという状況になっている。そこで昨年来、
「他人事ではないな」と思い、自分が死んだら、あれはこう処理して
くれ、これはどこそこに連絡して手続きを取ってくれと、書き残して
おこうと思い始めた。また実際、そのいくつかはメモ程度にだが書
きもしている。しかしその「終活」文書には葬儀のことも書くはずで、
だから、死んだらすぐに読んでもらわないと意味がない。よって、
「これこれこういう文書を、どこそこに入れておくから、おれが死ん
だらまずそれを見てくれ」と、家族に伝えておく必要がある。

ところが、実は家人も娘たちも「けんげしゃ」であり、その種の話を
普通以上に嫌がる。家人は、子供時代にお祖母さんが言っていた
ので覚えたとかで、そんな話をすると顔をしかめて「鶴亀。鶴亀」
とつぶやいたりする。それがまた伝わって、娘たちなど子供の頃
から「鶴亀。鶴亀」と言うようになっていた。しかし落語ではないの
だから、終活文書に関する伝達は、からかうためではなく真面目
に伝えて、真面目に了承しておいてもらわないと困るものである。
けんげしゃ反応をやわらげるためには、皆が揃っている場で言うの
がいいのか。それとも誰か一人を選んで言うのがいいのか。しかし、
師走下旬に家人の母親が94歳で亡くなったばかりだから、いまは
いかにもタイミングが悪い。「さあて。どうしたものか」なのである。