発想・創作講座 その1

 大阪シナリオ学校
 エンターテインメント・ノベル講座、レクチャー再録。
 (現在は、分離独立して、創作サポートセンターが主催)
 会場は、北区天満橋・エル大阪会議室。
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 以下は、04年7月10日、上記講座で話した内容に、
 補足や訂正を加えたものである。
 この講座は、月2〜3回の講義で約一年間のカリキュラム。
 講師は眉村卓、芦辺拓、黒崎緑、堀晃の各氏ほか10名ほどで、
 毎年、終わり近くの一回を、当方が受け持っている。
 「小説の発想と構成」「ホラー小説の書き方」「ミステリーの書き方」など、
 個別のレクチャーは、それまでに他の講師がやっておられるので、
 こちらは受講者に事前にアンケート用紙を配布し、
 「何を教えてほしいか」「どんなことを聞きたいか」など、
 具体的な要望にこたえるかたちで、講義を進めている。
 なお、今回、アンケートにこたえのたは10数 人。
 受講者は、他の講座からの傍聴者もあって20人ほどだった。

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10 <参考書籍の紹介> 

小説というものはどうやって書くのか、どうすれば書けるのか。
その勉強をしていくについては、もちろん自分でいろいろ考え、練習作品を
書いていきながら、あれこれ工夫していくことが第一なんですけど、
やっぱり、ある程度以上の本も読んでおいたほうがいいと思います。
この場合の本というのは、小説作法の入門書や参考書ということですね。
好きな作家、うまい作家、レベルの高い作家の作品も読み、
一般教養や知識を身につけるためには、広く浅くでもいいから、
さまざまな本を読みつづける。と同時に、そういった創作姿勢や技術を
教えてくれる本も、読んでおくべきだと思うんです。

で、私は学生時代、好きな作家の本は読んでました。北杜夫さん、
開高健さん、山口瞳さん、野坂昭如さん。そのあたりから読みだして、
星新一さんや小松左京さんの作品も、ある程度は読んでました。そして大学
四年のとき、遂に筒井康隆さんの無茶苦茶な世界(笑)に到達して、
ワーッと読みまくりだしたわけです。
それから、もともと雑学趣味ですので、広く浅くの読書もしてました。
最近、というより、もうかなり前から、若い人たちが本を読まなくなってて、
大学生に対する調査で、月に一冊も本を読まなかったという回答が、珍しく
なくなってきてるらしいですね。私にしたら、それは考えられないことでね。
大学時代、私はいろんな本を、漫画もふくめてですけど、
月に最低10冊は読むように、それを自分のノルマにしてまして、
サラリーマン時代にもそれをつづけてましたけど、
それ以上読んでる学生は、いくらでもいたわけです。
だから、大学生のくせして月に一冊も本を読まないなんて、考えられない。
まあ、知識の吸収という意味では、インターネットでやってるのかもしれませ
んけど、それはまた別だと思うわけでね。

ただし、それはともかく、私は別に文学青年でも何でもなかったので、
いろんな本は読んでましたけど、小説作法的な本はほとんど読んでません
でした。広告の製作マンになりたいと思って憧れてましたので、広告の発想
法とかコピーの文章術とか、そういったものは読んでましたけどね。
それから、これは今日現物を持ってきてます、『私の小説作法』という、
毎日新聞に連載されて雪華社という出版社から発行されてた、
この本はたまたまですけど、大学時代に読んでました。
奥付を見ると発行が1966年になってまして、その当時の著名作家、
流行作家が、自分の小説作法を披露してるわけで、SF作家では
星さんと小松さんが書いておられます。だけど、買って読んだときには、
ただ読んだというだけで、特に強い印象も興奮も与えられなかった。
それは、そのときの自分が小説を書こうとは思ってなかったからで、
ましてや将来作家になるなんて思ってもいなかったから、まあ、
「猫に小判」ということわざそのままの反応でした。

ところが、それから七年だか八年だかのち、いざ自分が書き出して、
ああすればいいのか、こうすればいいのか、小説作法というものを
自分のこととして、具体的に考え出してから読み返したら、
これがまあ、「宝の山」になりましてね。この本からは、
非常にたくさんのことを吸収させてもらいました。なるほど、本は何でも読ん
でおけばいいし、捨てずに置いとくべきやなあと、実感したわけです。
もちろん、いま言った宝の山というのは、私にとってこの本がということです
から、古本屋さんをあちこちまわったり、ネットで調べて買ったりしたからとい
って、皆さん方の役に立つかどうかはわかりません。
それは皆さんそれぞれが、自分にとっての宝の山にめぐりあえばいいわけ
で、めぐりあうためには、入門書、指導書を、やっぱりある程度以上は
読んでいく必要があると、まあ、そういうことですね。

ちなみに、SFを書きだして、筒井さんが主催しておられた
「ネオ・ヌル」という同人誌に入れてもらったときには、筒井さんの篇で
ポプラ社から出てた『SF教室』という、児童向けの入門書を読みました。
それから、福島正実さん篇で早川書房から発行されてた、
『SF入門』という本も読んだ。どちらにも、SF全般の解説とともに、
その書き方も載ってますので、参考書として買ったわけです。
ただし、さっき出てくる前に確認してみたら、二冊とも古書店で買ってました
ので、当時すでに一般の書店にはなかったんでしょうね。いま現在は、
どうなってるのか知りませんので、何とも言えませんが。
で、その間、丹羽文雄さんの文章作法の本とか、あと誰でしたか、もう忘れ
てしまってますけど、著名作家のその種の本は一応読んで、
丹羽さんの本からは、こちらが書きだした当初、そのまま使わせてもらった
テクニックなんかもあったんですけど、失礼ながら、ちょっとやっぱり古くなっ
てるなと感じだしたんで、その時点でそれはやめたりもした。
そういった、いろんな本のなかから、皆さんの参考になると思う本を、
いくつか紹介してみましょう。

まず、これはいま書店にあるかどうか知りませんが、講談社現代新書で
『映画の創造』という本、川崎義祐さんという映画監督が書かれた本です。
一本の映画ができるまでの過程、企画会議から始まって、
シナリオハンティングやスタッフ編成やキャストの選定、
それからシナリオ決定、撮影開始うんぬんというプロセスに沿って、
各部門のプロの仕事を紹介しながら、映画の創造法が解説されています。
そして、それ自体が非常におもしろかったのと同時に、私が思ったのは、
「われわれ作家は、ここに紹介されているプロセスすべてを、一人で、
自分の頭のなかでやって、小説を書いてるんやなあ」ということでした。
もちろん人に協力を頼んだりし、メモやノートを作りながらですけど、
もし皆さん方がこの本を読むなら、ここに書いてあること全部を、
頭のなかでやるのが作家の仕事なんだと、そう思って読んでいけば、
その全容や手順がわかって非常に参考になると思います。

それから次に、これも講談社現代新書で、これはいま現在、
大きな書店なら置いてるはずです。大塚英志さんという評論家の、
『キャラクター小説の作り方』という本。この本は、たとえばアニメ風のキャラ
クターが登場して活躍する小説、それからロールプレイゲーム式の小説、
そういったものの書き方を教えるマニュアル本になってまして、
そういう作品を書きたいと思ってる人には、大変参考になると思います。
それこそ、前に言った「起承転結」とか「発端・展開〜」とかのパターン式に、
このマニュアルに合わせて、当てはめて、書いていく稽古をしたら、
何作か書くうちにコツがわかってくるかもしれません。

ついでに言っておきますと、私自身はキャラクター小説というものは書いてま
せんけど、読んでみましたら、ここに書いてあることは、自分の流儀で、
自分の書く小説に適応させたかたちで、ほぼ同じことをやってました。
だからこの本は、伝えてるパターン、型としてなら、
エンターティンメント小説一般の、書き方入門にもなってるわけですね。
そしてこの著者は、そういった定型を使いつつ、それを破るというか越えると
いうか、そんな内容や深みを持った小説をめざしてほしいという、
そういう意味のことも書いておられます。その点も、まさにそのとおりだと思
うわけで、型を使いこなせるようになったとき、
悪達者の「書き屋」になっていくか、それとも「作家」でありつづけるか、
そのあたりは常に警戒し、自戒しておかなければならんことなんです。
型と決まり文句と紋切り型の文章を使ったら、それらしい話なんか、
いくらでも書けますからね。まあ、それの何がいかんのだという意見もある
でしょうけど、私としては、それはむなしいと思いますのでね。

次に、これは確かいま早川文庫にも入ってると思いますが、SF作家クラブの
大先輩、野田昌宏さんの『スペースオペラの書き方』、早川書房。
これも、ヒーローやヒロインが宇宙狭しと駆けめぐって活躍するスペースオペ
ラ、その書き方を実に具体的に、ここまで公開していいんですかと言いたく
なるほど詳しく、マニュアル的に解説した本です。
発想法、構成法、執筆環境の整え方、編集者の求めていること。
いろんなことがぎっしり書いてあって、私はキャラクター小説と同様、
スペースオペラも書いてませんし、書けと言われても多分、能力と適性に欠
けてて、パロディ形式でしか書けないだろうと思いますけど、エンターティンメ
ント小説の指導書という意味では、いろいろ吸収させてもらえた本です。

それから、これは角川文庫の『作家ってどうよ?』という本。鈴木光司、花村
萬月、馳星周、姫野カオルコ。四人それぞれが、どうして作家になったか、
普段どんな具合に仕事をしてるか、収入はどれくらいなのかなど、
いわば内幕を公開するようにしゃべってる、それを文章化したものです。
収入というのは、ベストセラーになればどかっと入ってくるだろうけど、
通常、これだけの時間をかけて一冊の本を書いても、
実はこんな額の印税しかもらえないんですよという、
まあ、皆さんが読んだら愕然とするようなことも書いてあります。
その意味で、せっかくふくらましてた夢を壊されるかもしれませんが、
私としては、そういう種類の夢は壊しておいたほうがいいと思いますので、
お勧めするわけです。

次に、これは小説家ではなく漫画家、東海林さだおさんの
『超優良企業、さだお商事』という本。この東海林さんは文章もうまくて、
独特の雰囲気で書かれてるグルメエッセイのシリーズが、ベストセラー、
ロングセラーになってますね。そしてこの本は、その東海林さんの
漫画家生活の、これまた内幕を公開したもので、
いかに日々さまざまな努力をしてはるか、それを何十年とつづけてきておら
れるか、その実情実態が書かれてます。軽いタッチで書いてはるんで、
読み飛ばしたら何とも思わないかもしれませんけど、作品を作りつづけると
いう点では同じ立場にいる私にしたら、まあ、ものすごい内容でした。
皆さんがたのなかに、もしプロをめざしてる人がいたら、
こういう努力をつづけなければ、長年第一線には立てないんだなという、
そのことを知るためには非常に良い本だと思います。

ほかにもまだ、皆さんがたの参考になり、手に入れやすい本をあれこれ持っ
てきてますけど、時間がないので、タイトルとかの紹介だけにしておきます。
これ、小松さんの『小松左京のSFセミナー』集英社文庫、筒井康隆さんの
『短編小説講義』岩波新書、丸山健二さんの『まだ見ぬ書き手へ』朝日文庫
、田辺聖子さんの『猫なで日記・私の創作ノート』集英社文庫、
それからこれも創作ノートで、松本清張さんの『黒い手帳』中公文庫。
こうやってならべてみると、いろいろ出てるでしょう。だから皆さんがた、
一度大きな書店へ行って、別に最初は、文学とか文芸評論とか、
そういうむつかしそうな書棚へ行かなくてもよろしい。普通の文庫や新書の
棚を、端から端まで、じっくり見てみてください。
そしたら、いまここに持ってきたような本が、いくらでも見つかるはずです。
それを、自分の勘や好みでよろしいから順に選んで、三冊、五冊、十冊と読
んでいったらいいんです。もちろん練習作品を書きながら、
自分がわからないこと、うまく書けないことなんかと照らし合わせながらです
けど、そうやって読んでいったら、まあ、十冊、二十冊と読んでいくうちに、
小説作法に関することが、だんだんわかってきますからね。

<9 ストーリーの盛り上げ方>

次の質問ブロックに進みます。
ええっと、「ストーリーに起伏をつける方法がありましたら、教えてください」
それから、「プロットの盛り上げ方は、どうすればいいのか」とか、
「設定や状況説明の方法や手順を知りたい」とか、
そういう質問も出ています。そして、こういった質問はみんな、
ストーリーの展開とか構成、組み上げ方の問題ですね。
まあ、ストーリーの魅力化とも言えますかね。

で、構成ということで言いますとね、普通、文章で一番シンプルというか、
すっきりした構成の方法として、昔から「起承転結」というやりかたがありま
すが、これはねえ、使いこなせるようになれたら、便利な方法ですよお。
ほんとに便利。始まりはまあ、昔の中国の詩、漢詩ですね、
あのあたりの約束事なり構成術だろうと思いますけど、
こんなうまい組み立て方を誰が考えたのかしらと思うほど、
便利で応用の効く、よくできた方法です。
小説に限らず、普段書くような普通の文章、手紙でもレポートでも
ビジネス文書でもね、どう書いたらいいかなと迷ったりしたときには、
内容の各要素をこの「起承転結」という要素にふりわけて、
あてはめて書いていったら、実にすっきり仕上げられる。

私もエッセイなんか書くときに、短いものでしたら、
書こうとしてることの項目を箇条書きのメモにしたら、大抵はそのまま書ける
んですけど、ときどきスッと書き出せないことがある。
そういうときは、書くべき要素、書こうとしてる内容が、
まだ頭のなかでちゃんと整理できてない証拠ですから、
まずその整理と確認をすることにしてるんです。
一枚の紙の左隅側に縦線を一本引いて、それから今度は横線を適当な
間隔で三本引いて、左隅の四つの小枠に、起、承、転、結と書き入れる。
そしてそれを睨みながら、右側の欄に、起なら起のブロックに該当するとい
うか、そこで書いておくべき要素をメモする。
で、起で話をそう始めたら、次の承のブロックでは、それを受けてこれを書い
ておかなければならんなとか、こう進めた方がわかりやすいなとか、
そういう要素をメモしていく。そうするとまあ、どんなことを書こうとしてる文章
でも、ほぼ百パーセント、すっきりと構成が立ちます。

そしたら、それは具体的にはどう組立てることなのかと言いますと、
起承転結を具体化した、昔から言い伝えられてるサンプルがありますね。
『大阪本町、糸屋の娘。姉が二十歳で妹が十九。
諸国諸大名は弓矢で殺す。糸屋の娘は目で殺す』。
姉と妹の年齢、違ってるかもしれませんけど(笑)、こういう具合に話を持っ
ていくというお手本ですね。話の持っていき方のニュアンス、わかりますか。
まず起承転結の起で、どこそこにこういう姉妹がおりますと伝えてる。
次に承で、起の内容を受けて、その姉妹の説明をしている。
読む方は、「ふんふん。それで?」と思うわけですね。
ところがその次の転で、突然話が全然関係ないことに飛んでる。
当然読者は、「諸国諸大名は弓矢で殺すって、何のこっちゃ。
それと糸屋の姉妹と、何の関係があるんや」と思うでしょう。
そこへ結として、「糸屋の娘は目で殺す」とくると、
「なるほど、そういうことか。その姉妹はよほどの美人で、見つめられたら、
男はふらふらっとなるんやな」とまあ、そういう納得が成立するわけですね。

これ、文章全体としては、要するに「糸屋の姉妹は美人です」ということを言
ってるだけなんですよ(笑)。でも、それをそのまま一行で書いたって、
印象が薄いし、姉妹のイメージもわかないでしょ。
だけどこういう持っていき方で伝えると、謎解きの快感みたいなことも手伝っ
て、印象が強くなるし、美人姉妹のイメージも湧いてくるわけですね。
もちろんこれはサンプルですから、どんな文章でもこんな具合に
謎解きスタイルにしろということではないですよ。またこれは、起承転結の
転結の部分が、まあ、あざといというか、受け狙い過剰の感じもしますよね。
でも、型、パターンの問題として、起承転結というのは、こういう具合に話を
組み立てればいいのですよということは、理解できるでしょう。
だから、別に小説でなくても、手紙でもレポートでもいいですけど、
まずこの「起承転結」という骨格をお稽古するのが、文章構成、盛り上げ方
の習得の第一歩だと思いますね。

そしてそこから段々進んで、ショートショートなら、
たとえば起の部分が原稿用紙1枚、承が2枚で、転が3枚か4枚、
そして結がまた1枚で、ラストのオチやどんでん返しが数行とか。
短編なら、それがそれぞれもっと増えて、長篇になったら各部分が五十枚、
百枚、二百枚とかいうことになる。その場合には、第一章全体が起、第二章
全体が承という役割を担うわけで、その各章のなかでストーリーをどう進め
ていけば効果的かは、また細かく考えていかなければならないことになる。
その意味では、長篇の構成というのは、なかなかしんどいものです。
面倒くさがりの人には向いてないというか、私も面倒くさがりで、
かなりのイラチですけど、構成したり原稿を書いたりするときだけは
そのテンポを落とします。また、本気で考えて真剣に書いていこうとしたら、
自然とテンポは落ちるもんです。書き進めるうちに乗ってきて、
いくらでも書けるという状態になることもありますけど、そのスピードだって、
意識だけで想像するスピードに比べたら、遅々たるものですからね。

それから、もう少し複雑な構成の例としては、映画なんかでよく使われてる
パターンがあって、これは「発端、展開、葛藤、クライマックス、大団円」
という、五部構成になってます。
大団円というのは、まあハッピーエンドだと思ってもらえばよろしいけど、
映画でも小説でも、別に必ずそういう終わり方にしろということではない。
ミザリーもあれば、大逆転があってもかまわない。
だから型としての一般化をすれば、結末ということです。
そしてこの五部構成にしても、起承転結と同じように、各部分が同じ長さだと
いうことではありません。発端は話の始まりで、まあ短め。展開は、そこから
出来事なり事件なりが広がって話が進んでいく部分。
そして葛藤は、ストーリーが進んだ結果、いろんな人物がいりみだれて、
話が複雑になって、観客なり読者なりがハラハラドキドキ、
この人がかわいそうだとか、こいつは憎たらしいとか感じて、この話はいった
いどうなるんやろうと思う部分。送り手側から言えば、そう思わせる部分で
すね。で、そうやって刺激を与えて、プレッシャーもかけておいたうえで、
クライマックスへと持ち込むわけですね。

たとえば時代劇映画で「忠臣蔵」を撮る場合、
クライマックスは吉良邸討ち入りの場面ですから、当然、
その部分にたっぷりと時間をとって見せることになる。
逆から言えば、そのクライマックスシーンをたっぷり見せたいがために、
それまでのストーリー、松の廊下とか、赤穂城明け渡しとか、
大石内蔵助の祇園での遊興場面とか、あるいは吉良邸を探るために米屋
に化けた浪士が捕まって責め折檻を受けるとか、
そういった場面を見せてきたわけで。そういう部分が、展開とか葛藤に当た
るわけです。特にこの例の場合、赤穂浪士はエエモンで、吉良側はワルモ
ンなんですから、亡き御主君のために艱難辛苦してるエエモンが、
ワルモンに捕まって拷問を受けるなんて場面は、観客が感情移入しやすい
、典型的な、それこそあざといような葛藤場面ですよね。

そしてそれがあってこそ、遂に討ち入り場面ということになると、観客が、
「そうじゃ。いけ、やってまえっ!」という具合に、カタルシスを感じることにな
る。となりの旗本、土屋主税邸から塀越しに高張り提灯を立ててくれるシー
ンなんかには、ええ歳したおっさんが、泣いたりするわけです(笑)。
そして結末、大団円が、四十七士が高輪泉岳寺にむかって行進していくシ
ーンですね。これはつまり、クライマックスで見せたい部分、観客が見たい
部分はもうすんでるんですけど、そこでいきなりずばっと終わったら、
やっぱり不自然というか唐突というか、客は何かすっぽぬけたような気持ち
になる。だから、はい、仇討ちは無事に終わりましたよ、
そして浪士はこんな具合に凱旋したんですよという、まあ、ソフトランディング
と言いますか、余韻を残して終わらせる工夫が必要になるわけですね。

もののたとえで、雰囲気がわかってもらえるかどうかは知りませんけど、
飛行機に乗って旅行するとしてですね、搭乗手続きをしてゲートを入り、
飛行機に乗り込んで座席に座る。ここまでが、まあ発端ですね。
そして、「ベルトをお締めください」というサインが出て、誘導路から滑走路に
出ていく。そしていよいよ、飛行機がスピードを上げて滑走して、離陸する。
これが展開部分にあたると思えばよろしい。そして、離陸したら
次第次第に高度を上げていく。これがいわば葛藤部分で、
まだベルトを外してもよろしいというサインが出ないのは、その段階では、
まだまだ、いつどうなるかわからないという、「緊張」の要素が含まれてるか
らですね。で、予定の高度に達したら、普通の飛行機はそのまま
平穏に飛びつづけますけど、エンターテインメントという飛行機は、
急降下してみたり宙返りしてみたり、ハイジャック犯が出てきたりして盛り上
げるというサービスをやるわけです。それがクライマックス。

で、そういったことが無事に解決したからといって、そこでストップしたら、
飛行機は落ちてしまうでしょ。結末としては、ちゃんと着陸しなければいけな
いわけですね。けど、それも滑走路に着いたら、それでおしまいではない。
滑走路を走ってスピードを落とし、そこから誘導路に入って、
ターミナルビルにまで到着する。そこで初めて、スチュワーデスがお疲れさ
までしたと言ってくれて、にっこり笑って送り出してくれる。まあ、そういう
面倒の見方をするのが、娯楽映画や小説の終わり方であるわけです。
だから、忠臣蔵の例で言いますと、娯楽映画では大抵、
凱旋場面で「完」という字が出ますけど、娯楽のみではない、ちょっとマジな
ドラマや小説では、そのあと浪士があちこちの藩邸にお預けになって、
最後、切腹までいくこともある。芥川龍之介の小説なら、「ある日の大石内
蔵助」ということになるわけですね。これはまあ、到着してゲートを出たら、
そこで意識が日常感覚にもどって、あれこれ考え出したてなことですか。

そんなことで、盛り上げ方とかの稽古としては、自分自身の考えや
好みはとりあえず置いといてですね、起承転結とか発端展開云々とか、
そういう決まり切ったパターン、使い古されたパターンと言ってもいい、
そういった型に合わせて、小説を書いてみたらよろしい。
最初はぎこちなかったり、不自然だなと思ったりすることもあるでしょうけど、
それを何作かやってるうちに、おのずと構成や盛り上げ方の呼吸がわかっ
てきますからね。で、それに関連して、ここで参考書籍の紹介しておきます。
(この項、つづく)

〈8・ストーリーとプロット、承前〉

そこで、いま説明したような意味でのプロット、その構築作業に関して、
皆さんが練習しやすい例を、ひとつ言ってみましょうか。
お伽噺というものがありますね。そしてそのお伽噺というものは、大抵が、
時間の流れに添って進行していきますね。たとえば、浦島太郎の話。
ある日、浦島太郎が浜辺を歩いてたら、子供たちが大きな海亀をいじめてま
した。それで太郎はかわいそうに思って、子供たちにおかねをやって
その亀を引き取り、海へ放してやりました。すると何日かたってから〜、
という具合に、ああなって、こうなって、そうなりましてと、
話がすべて、ストレートな時間の流れに添って進んでますね。
そしたらそのストーリーを、仮に乙姫様の側から書くとしたら、どうなるか。
それをじっくり、リアルに考えていったら、プロット構築の練習になるんです。

なぜかというと、まず竜宮の乙姫様を登場させるとして、その段階の乙姫様
は、まだ浦島太郎のことは知りませんね。浦島太郎のことどころか、
亀が砂浜で子供にいじめられてることも知らないですよね。そこで話を、
たとえば竜宮で乙姫様が、珊瑚の林のなかを散歩でもしてるところへ、
亀が帰ってくるシーンから始めるとしますよ。
竜宮の門番か誰か、仮に鯖なら鯖として、そいつが
「乙姫様。大変でございます!」とか言って飛んでくる。
「騒がしい。どうしたのですか」と乙姫様。「ただいま亀乃助(笑)が、
傷だらけになって帰って参りました」「それはまた、どうしてです。亀乃助を、
すぐここへ呼びなさい」とか命じて、亀を呼ぶ。そいつはまあ、息もたえだえ
になってて、アニメだったら、あちこちに絆創膏を貼ってるでしょう(笑)。
そこで、「いったい、何があったのですか」と乙姫様が聞くと、亀は当然、
砂浜で子供にいじめられたこととか、それを浦島太郎が助けてくれたことを
報告するわけですが、ここですでに、話のなかでは、時間の流れがストレー
トに進むのではなく、一度バックすることになりますね。
亀は時間的には「過去」に経験したことを、思い出して語るわけですからね。

でもって、その語りのなかで初めて浦島太郎という人物が登場し、
もし小説式の人物紹介が必要ならば、その顔かたちはこんなので、
釣り竿と魚籠を持ってましたから、多分漁師でございましょうとか何とか、
亀が言うことになる。三人称の地の文で紹介するのではなく、亀の報告の
なかで、亀が見てきた特長というかたちで紹介することになるわけですね。
そしたら、それに対して乙姫様は、「ちゃんと、御礼を言ってきましたか」とか
聞いて、「いえ。なにしろ息もたえだえでしたので、そこまでは気がまわりま
せんでした」「まあ、何ということでしょう。いのちを助けてもらっておいて、
御礼も言ってこなかったとは。それでは、私からも御礼を言いたいので、
亀乃助、傷が治って元気になったら、もう一度その浜辺へ行って、
浦島さんをこの竜宮城まで御案内しなさい」というようなことになる。

そしたら、その次はどうするか。迎えに行って案内してくるシーンには、
乙姫様は直接出てこないし、出す必要もないんですから、
話を短く仕上げようと思ったら、次はもう、亀が背中に浦島さんを乗せて、
帰ってくるところを書いてもいい。竜宮城に着いて、乙姫様の前へ案内され
た浦島太郎に、「いや、驚きました。海の底に本当に竜宮城があり、あの亀
が乙姫様、あなたの家来だったとは」とか言わせて、話を進めればいい。
また、もう少しゆったり書こうと思えば、亀が出かけてから帰ってくるまでの
あいだ、乙姫様に「大丈夫かしら。また子供たちに
つかまったりしてないかしら」と心配させてもいい。
で、とにかく浦島さんが竜宮に着いてからは、これはもとのお伽噺のとおり、
鯛や平目の舞い踊り、毎日ごちそうをたべさせてもらって云々と、その場面
の描写をすればいいんですけど、難しいのは「月日のたつのも夢のうち」と
いう、滞在時間が過ぎたそのあとです。

浦島さんが「そろそろ、帰りたいと思います」と言い、乙姫様は土産に
玉手箱を渡して、「開けてはいけませんよ」と伝える。
そして、また亀の背中に乗って帰っていく浦島さんを見送る。
ここまでは、場所は竜宮なんですから、乙姫様の側から書けますけど、
いよいよ浦島がもとの村へ帰ったあとのことは、どう処理すればいいのか。
自分の住んでた村がどこにもないとか、道行く人は知らない人ばっかりだと
か、浦島さんが陸上で経験しているそういったことは、
竜宮にいる乙姫様にはわからないことですよね。
それを、乙姫様の側から書くには、どうすればいいのか。
イージーな手を考えて、乙姫様のところには、地上の様子を映し出す
鏡か何かがあるとしますか(笑)。しかし、それは別にかまわんけど、
あるならあるで、話がここへ来るまでに、ちょっとくらいはそれを言っておか
ないと、いきなり「実は、そんな鏡がありました」では、
いくら何でも御都合主義的過ぎる。そしたら、前もってふっておくとして、
それはどのあたりでふっておくのがいいのか。

また、そもそもそんな便利な鏡があるんだったら、亀が子供たちにいじめら
れてることも、それを浦島さんが助けてくれたことも、乙姫様はそれで見て
知ることができるはずで、もし知ってたとしたら、亀が死にかけで帰ってきた
ときの冒頭シーンも、変更しなければならんことになる。
そうやって考えていくと、そのあたりの矛盾や煩雑を避けて、
話をすっきりさせようと思うなら、この「鏡がありました」という手は、
やめといた方がいいということになりますね(笑)。
そしたら、他にどんな手があるか。浦島さんが帰ってしばらくしてから、
さっきの亀でもいいし、また別の家来、たとえば飛び魚が、
たまたま浜辺近くの海面を飛んだとき、陸上の様子を見て、
帰ってきて報告するという方法もある。「乙姫様。かくかくしかじかで村の方
角を眺めましたら、突如白い煙が立ち上って、それが晴れたあと、
そこに白髪頭のお爺さんが、へたりこんでおりました」
「ああ。それでは浦島さんは、あれだけ言っておいたのに、とうとう玉手箱を
開けてしまったのですね。竜宮の一日は、あちらの一年。あの玉手箱を開け
ると、その時間のズレが、もとにもどってしまうのに」とか何とか、
これだったら、ずっと乙姫様の側から書けて、矛盾も起きてきませんよね。

でまあ、いまこうやって、しゃべってきたのはひとつの例ですけど、
こんな具合に、設定や視点を変えてみるだけで、
ストレートな時間の流れに添うストーリーだけでは表現しきれなくなり、
別の構成、別の話の成り立たせ方が必要になってくることがある。
その成り立たせ方が、さきほど言いましたプロットというもので、すると必然
的に、そこには、「因果関係によって結ばれている、統一性」というものが
要求されるようになってくるわけです。
過去現在未来という時制の問題、その場におるかおらんかの場所の問題、
話の進め方が御都合主義になったり、アンフェアになったり、
矛盾を生じたりはせんようにしなければならないという問題。
そういったあれこれを解決して、すっきりと読みやすいものに仕上げようと思
えばですね。だから皆さんがた、いまの話で、なるほどと思ったり、おもしろ
いなと感じたら、「かちかち山」でも「桃太郎」でも、好きなお伽噺を例にして
、いろいろ頭のなかで、あるいはメモでも取りながら、いじくってみたらよろし
い。だんだん、複雑な構成が生まれてくるはずです。

で、話を私の現実の仕事の方に戻しまして、私は原稿を書くとき、
もうとうからパソコンでやってますので、プロットをこういうA4の紙一枚に、
一覧表のかたちでまとめることにしてるんです。
これ、今日持ってきたのは実際に使ったものですから、赤のボールペンでい
ろいろ書き込みもしてますけど、とにかく書き出す前に、
こうやって構成をはっきりさせておくわけです。仮に起承転結という流れで
書くとしたら、起の部分ではこれとこれとをふっておけよ。承の段階では、
これを忘れんように入れておけよという、心覚えですね。
そして短編でしたら、これ一枚作ればそのまま書き出せますけど、
長篇となると、これはほんとに全体構成の概略なんですから、
これにのっとって、それじゃプロローグはこういう構成にしよう、
第一章はこんな手順で進めればよかろうという、
各章の構成表は別に作るわけで、それがこれです。これ、5章構成で書い
た長篇ですけど、それぞれの構成表を作ってますでしょう。

そして、それぞれの部分を書いてる最中、ちょっと迷ったり
混乱したりしてきたら、この、最初の全体構成表を確認して、
自分がいまどこを書いてるのか、この部分を書いてるんなら、
何か抜けてる要素はないかとかいうことを、チェックするわけです。
ですから、長篇を書くにあたって、この全体構成表をがらっと変えることは
あんまりありませんけど、各章のそれを変更することは、いくらでもある。
それはつまり、自分ではわかってるつもりだったことがわかってなかったと
か、話が進むにつれて、最初に考えてた章内容では、
具合が悪いことになってきたとか、そういうことが出てくるからです。
だからこれも、書き込みが多いでしょう。

それから、第四章まではちゃんとパソコンで文書化してますけど、
第五章の分はボールペンで書き殴ったような表になってますね。
なぜかというと、もう第四章までで書くべきことはすべて書いてしまってて、
あと残ってるのは、結末と、おはなしをソフトランディングさせることだけです
ので、それらが頭のなかではもうできてるから、わかってるから、
文書化して確認する必要がなくなってたからです。
こういう一覧表については、長篇の場合、登場人物とかの分も作るんです
けど、それはまた時間があったら説明します。

〈7・ストーリーとプロット〉

それから、次のブロックで、ストーリー、プロット、構成などについて。
今回、プロットについての質問が多かったですね。
『どう、発想を組み立てるのか。プロットの立て方について、教えてほしい』
とか。ほかの人の質問のなかにも、同じようなのがありましたし、
構成に関する質問のなかにも、プロットについての問いがありました。

そこで、まずプロットとは何であるかですが。ええ、小説入門とか
文芸用語事典とか、そういう書籍を読みますと、
プロットとは何かということが載ってて、いろいろ説明が書いてあります。
小説のあらすじ、筋立て、つまりストーリーと同じような意味で扱われてる
こともあるし、そうではなくて、ふたつを別のものとした解説もある。
どう別かというと、ストーリーは時間の流れに沿って進んでいくあらすじの
ことを言い、プロットは、各部分が因果関係によって結ばれている、
統一性を持った構成であるとか何とか、初めて読んだら、
具体的にはどういうことを言ってるのか、見当がつけにくい解説です。
これを初めて読んで、意味がそのままわかって、
その考え方を取り入れた小説がたちまち書けるという人は、まあ、
あんまりいないと思う。私も小説を書く勉強を始めた当初、
わかったようなわからんような、はっきりせん感じがしました。

それで私、これは別に小説に限ったことではなく、
他の分野のことがらについてもときどき同じことをするんですが、
専門用語や業界用語で、意味がもうひとつわからんとか、
腑に落ちないということがあったら、元の意味を調べるようにしてる。
たとえば若い時代に、エドワード・デボノという学者の「水平思考」という、
発想法、創造的思考法の本がブームになったことがありました。
で、広告の仕事をしてた人間ですからさっそく読んだんですけど、
水平思考というタイトルが、どうもピンとこなかった。
「内容はわかったけど、この思考法が何で水平なんや。どこが水平なんや。
おまけに、新しい思考法が水平思考だというからには、これまでの思考法は
垂直思考ということになるけど、そんな言葉もないやないか」と、
理屈っぽい人間ですから、そう思ったんですね。
そこで、その本の原題を確認してみたら、即座にわかって、納得もできた。
原題は「ラテラル・シンキング」で、直訳すれば「横からの思考」
「側面からの思考」という意味だったんですね。そして内容は、
まさにそうやって、いろんな面からものを見ていくということが書いてあった。
それを「水平思考」と名付けたわけで、まあ、そのタイトルによって
ブームが巻き起ったんですから、マーケティングの観点から言えば
大成功例ですけど、書いてある内容を正しく現したものかどうかと言ったら、
ずれてるなあと思ったわけです。

で、このプロットについても、文芸用語事典や小説入門書だけでは納得が
できなかったので、基本にもどって英和辞典で確かめてみたんです。
そしたら、その意味が確認できた瞬間、
それこそ一発で全部わかった感じがした。どう書いてあったか。
プロットという単語の第一の意味は、「陰謀」「秘密の計画」だったんです。
そして第二の意味として、「小説や劇の筋、構想」と載っていた。
アメリカ人とかイギリス人とか、英語を普段しゃべってる人間にとって、
プロットというのは、陰謀であり秘密の計画であったんですね。
そしたらそれで、どんな具合に一瞬で全部わかったかと言いますと、
「そうか。プロットというのは、小説を書く側が読者に対して用意する、
秘密の作戦計画なんやな。そう思っておけばいいんやな」と、
こう思って納得したわけで。もちろんこれは、現にSFやショートショートを書
き出してた実作者、送り手としての、いわば「現場」の解釈ですから、
文学論とか芸術論とか、そんな分野にでも通用するかどうかは知りません。

しかしとにかく、自分が書いてるのは、まさにエンターテインメントという要素
の強い小説なんですから、この発想で読者をびっくりさせてやろうとか、この
どんでん返しで大笑いさせてやれとか、そう思って書く作品が多いわけで。
そしたら当然、その驚きの効果はどうすれば高まるのかとか、
話をどう持っていけば、どんでん返しが生きてくるのかとか、
そういう手順や仕掛けを考えて、書いていかなければならない。
まさに、それらを考えるということが、
プロットを構成するということなんやなと、合点がいったわけです。
そしてこの、いかに効果的に話を構成するかということについては、
約束事があって、無理なものや不自然なものにはならないように、
かつ、読者に対してアンフェアにならないようにという、
その前提や条件を守って、作戦を立てていかなければならんのですね。

これはまあ、推理小説を例にして考えてもらったら、すぐわかるでしょう。
ひとつの作品のなかで、最終的に「こいつが犯人だ!」ということを言うまで
には、それ以前の段階で読者に対して、あいつも怪しい、そいつも怪しいと
思わせながらも、実は犯人はこいつなんですよと暗示する、
ヒントを与えておいたり、伏線を張っておくのがルールですね。
そのルールがあればこそ、読者は推理を働かせながら読んでいって、
最後の最後に、それこそどんでん返しで自分の推理がくつがえされたら、
「あーっ、そうやったんか。そういうたらこいつ、確かに前半で、
あんなこと言うてたな。あの何気ない会話のなかのひとことは、
そういう意味も含んでたんか。くっそーっ。やられたーっ。だまされたーっ!」
とまあ、そう思って喜ぶわけです。
推理小説の魅力のひとつは、だまされる快感ですからね。
ところがそれをせずに、ヒントも伏線もなしに、五百ページくらいの長篇を
延々読ませて、あいつが怪しい、こいつも怪しいと思わせておきながら、
最後の最後に突然、警察の発表か何かで、「犯人が自首してきました。
全然関係ない男の行きずりの犯行で、当人は、相手は誰でもよかったと言
ってます」なんて書いたら、読者は怒りますよね。
まあ、それもどんでん返しには違いないけど(笑)

だから、「事実は小説より奇なり」という言葉があって、現実の世の中では、
小説にさえ出てこないような、作家なんぞが考えも及ばないような、
そんな事実があったり、起きたりするんだというニュアンスで使われてます
けど、それは、いま説明してることの意味から言いますと、
あたりまえのことなんです。
なぜかというと、仮に殺人に限って考えてみても、現実の社会では
行きずり殺人はいくらでも起きてますけど、推理小説という虚構世界のなか
では、それは許されない。行きずり殺人なら行きずり殺人で、
その可能性を前もって振っておくのが約束事なんですから、
扱えるケースが限られてくる。現実社会には、そんな約束事はないんです
から、それはまあ、小説より奇なりの事件も起きるでしょう。
また、ドタバタ小説や実験小説で無茶苦茶を書くといっても、
文字通りの無茶苦茶を書いたら、そもそも小説ではなくなるし、
読者とのコミュニケーションが成立しなくなる。現実社会では、
そんなこといくらでもありますけど、小説のなかの無茶苦茶は、
コントロールされた無茶苦茶なんですから、これも当然、
事実の方が「奇」の例が多くなりますよね。

だからまあ、そんなふうなことで、推理小説やSFに限りませんし、
結末がどんでん返しではない小説でも同じことですけど、
そうやって約束事を守りつつ、自分が書こうとしているおはなし、
作ろうとしてる世界、伝えようとしている雰囲気やメッセージを、
いかに効果的に組み立てて読ませていくか、その手段、方法、
仕掛けを考えるのがプロット構築作業なのだと、私はそう思ってから、
その種の作業が非常にやりやすくなりました。
そして、そのつもりでやってみると、さっき言いました、
「因果関係によって結ばれている、統一性を持った構成」云々ということも、
おのずとと言いますか、必然的にと言いますか、
まさにそうなってくることがわかったんです。
(この項、つづく)

〈6・アイデアをいかに発展させるか〉

それから、次の質問。
『いつも人から、発想はいいのに、それを生かしきれてない。
もう少しアイデアを発展させて長くしたほうがいいと、よく言われますが、
どのように発展させたらいいでしょうか』と、こういう質問も出てますね。
これはね、まあ、何か発想やアイデアがあったときに、頭のなかでとか、
あるいはメモを取りながらとかしながら、とりあえずおはなしを作るでしょう。
で、そうやってストーリーを広げていくんだけども、どう言えばいいのかな。
う〜ん。これもねえ、私は経験してきてるから答を知ってるというか、
わかってるんだけど、それをそのまま言って、本当のところというか
核心部分を、実感を持って理解してもらえるかどうか……

要するに、たくさん書いて、その過程で、「おかしいなあ。
これでいいと思って書いたけど、何かもひとつ発展してないな」とか、
「よし。今度はよくできた」と自分で思ってても、人に読んでもらったら
やっぱり同じことを言われたとか、そういうことの繰り返しのなかで、
ひとつ訂正し、ひとつ改良していった結果、できるようになることなんですよ。
どんなことでもそうですけど、稽古、訓練、トレーニング、
そういうことをせずに、いきなり上手にできるなんてことは、
まあ、絶対にないと言っていいと思う。スポーツでも何でもそうでしょう。
だから、そういう意味での「しんどい目」はしなければいけません。

で、そういうことを繰り返してますとね、たとえばこのアイデアは、
ショートショートで十分いけると思って書いてみたと。ところが時間を置いて、
もうちょっと稽古してから読み返してみると、
「あれえ、あのときはこれでいいと思ったけど、どうもこのへんが足りないな」
とか、「このあたりの説明が抜けてたな」とか、そういうことが見えてくるんですよ。
もちろん書く稽古とともに、一方では、小説なり何なりを読んで考えるという、
そういう稽古もせんといかんのですよ。そうやって、書きつづけ、
かつ読みつづけてると、だんだんわかってきて、
「足りなかったり抜けてたりした部分を埋めていくとしたら、
これはショートショートではなく、短編で書くべき話やったんやなあ」とわかったりする。
また逆に、「精一杯ふくらまして、30枚にもなったんだからいいだろう」
と思ってたのが、「この部分は、いらんことばっかり書いてるな。
どうもこのときには、無理に長くしようとして書いてたみたいやな」とか、
そんなことが見えたりする。そしたら、そういうところを足したり、
刈り込んだりしていけばいいわけで、だから、そういうことに関する「勘」ですね、
勘というものが働くようになるためには、たくさん書いて読んで、かつ、
過去に自分が書いたものも、読み返して考えるということが必要なんです。

勘というものを簡単に言えば、「いちいち考えなくても、
瞬間的に答や対応策がわかる能力」だと言えるわけですけど、
それは別に超能力みたいなものが備わったわけではなくて、
特定分野の個別例、具体例を大量に経験して吸収しつづけた結果、
脳のなかに認識とか判断の高速反応回路ができたということだろうと思う。
スポーツでしたら小脳の反射神経ですか、またわれわれの仕事なら大脳の、
いわゆる潜在意識部分とかにですね。だから、その高速反応回路、
つまり勘を成立させるためには、まず何はともあれ、一定量以上の
経験と吸収が必要になるわけで、その作業を繰り返してますと、だんだん、
アイデアの発展のさせ方とか、ストーリーのふくらませ方とかが、
身につくようになってくるわけです。

ひとつその例を言いますと、私自身が書き出したころの経験なんですけど、
当時は広告の仕事をしてて、ラジオのCMなんかも、たくさん作ってたわけです。
で、ラジオCMというは20秒が基本でして、その20秒というのは、
原稿用紙にすれば大体100字なんですよ。もちろん、音楽とか効果音とか
も使いますから、実際の言葉数、文字数はもっと少なくなる。
その計算でいきますと、60秒のコマーシャルは原稿用紙1枚弱、300字という
ことになるんですね。もちろん、実際の文字数はもっと少なくなりますけど、
とにかく最大300から400字見当なんです。
そしたらね、20秒CMを作り慣れた立場で、いきなり60秒のそれを作れと
言われたら、作られへんのですよ。秒数が長すぎて、必要なメッセージを
全部入れてもまだ余るし、といって、新聞広告やカタログに書いてあるような
細かいことまで、くだくだ入れたら、聞く方がいらいらするでしょうしね。
その長い時間をダレさせず、バランス良く、ひとつの世界に構成するということが、
どうすればいいのかなと思うくらい、難しかった。こっちにしたら、
60秒も使わなくても、20秒や30秒で済むやないかと思うんですね。

で、それはコマーシャルの話ですけど、そんな人間が、
さっき言いました筒井さんの同人誌に入れてもらって、
ショートショートとか短編を書く稽古を始めたわけですから、
そのコマーシャルでパッパッパッと短くやってしまう癖がついてるもんですから、
そもそも30枚とか50枚とかいう長さが、どういうものなのか。なぜそんな
沢山の枚数を使わないといけないのか、考えられへんかったわけですよ。
一応、本を読むのは好きでしたから、学生時代からいろいろ読んではいましたけど、
いわゆる「文学青年」ではなかったから、そういう方面に関しても、
まったく知りませんでしたからね。だから、とりあえずは広告の知識、
コマーシャルの知識で類推してしまいますから、30枚50枚、
ましてや400枚の長篇なんてものは、いったい何やねんと。
「それほどの枚数を使わんと、言いたいことを表現できませんか?」くらいに
思ってたんですね。そんなわけでその当初は、
5枚くらいのおはなしを書くのに、へとへとになってました。

笑い話があって、星新一さんがショートショートを書き慣れてはったんで、
あるとき30枚の短編を頼まれたら、「う〜ん。大長編ですな」と言われたという。
もちろん、これは冗談ですよ。星さんは長篇だってちゃんと書いておられた
んですからね。でも、その感覚というか、ニュアンスはよくわかる。
で、それが、さっき言いましたように、書きながら、読みながら、いろいろ考
えて稽古していくうちに、「なるほど、そうか。書いたときは5枚で十分だと
思ったけど、読み返してみたら、かなり詰め詰めやな。
読む方はしんどいやろな」とかね。
あるいは、「登場人物が3人も出てきて10枚では、やっぱりきついな。
もうちょっと枚数使って、それぞれの人物をゆっくり紹介した方が、
読者も話に入りやすいな」とか。そういうことが、段々わかってきたわけです。
その間、筒井さんの短編を何度も読み返して、どういう構成で、どういう文章で、
どんな具合に話の世界へ読者を誘導していってるかという、
そんな分析をしたりもしました。
そのころはラッキーなことに、SF雑誌だけじゃなく一般の雑誌からも、
ショートショートや短編の注文をもらえるようになってきてましたんで、
いわば切羽詰まって、そういうことを本気で勉強したわけで。
それで5枚10枚から始めて、まあ、30枚の短編くらいは
何とか書けるようになったんです。

ただ、そこまではいわば「地続き」で行けた感じがしたんだけど、
400枚の長篇という注文、これは難しかった。話をどう広げれば、
そんな長いものになるのか見当もつかなくて、これもいろいろ
試行錯誤したんですけど、何とか書けるようになるまでに、
2、3年かかりましたかね。それでも下手は下手で、
最初の長篇は書き直しをして、やっとOKが出たくらいでした。
いまでも、書けることは書けるようになってますけど、正直言って、
私は長篇はあんまり上手じゃありません。これはまあ、体力、スタミナ、
性格、気質なんかも関係してのことですけど、
やっぱり短編型作家だなと、自分で思いますね。
ま、とにかくそんなことですので、発想の広げ方、
アイデアのふくらませ方の根本は、たくさん読みながら、書きながらの稽古、
訓練だと、そう思っておいてください。具体的な手順やヒントなんかは、
またあとで出てくると思いますけど、基本姿勢としてはですね。


〈5・ひらめきから作品化までの事例。承前〉

それは、いま分析してみると、SFのアンソロジーに載る作品だから、
間口が広くて、何を書いてもいいのだという安心感があったし、
無茶苦茶な発想を示せば示すほどSFファンは喜ぶという、
読者に対する安心感もあったと思う。
同時に、他のSF作家がどんな短編を書いてくるか、
それに対する対抗意識も出てたんですよね。がちがちの、
「負けてたまるか!」みたいな根性モノ的な対抗意識じゃなくって、
「さあて。こっちは、どういう球を投げてくれようか」という、
まあ、にやにや笑いながらの、ゲーム感覚の対抗意識ですね。
それが出てたんで、チャレンジ精神が働いたんでしょう。

そしたら、それまでは何で連想が働かなかったのか、
逆にそれが不思議なんだけど、蛸には骨がないということから、
人間が宇宙に出て、無重力状態で長期間過ごすと、骨のカルシウムが
尿のなかに溶け出すということを思い出したんです。
重力がないので、それに抗して骨格を保っておくという、
その必要がなくなるからとか何とか、そういうことでね。
とたんに、おかしな発想が出てきて、生物の進化は海から陸へと進んで、
さらに人間は空を飛びたいと思いだしたと。
一方、鳥は空を飛べるようになってるけど、
その過程で身体を軽くするため骨が中空になったわけだし、
人間が遂に宇宙に出ると、その骨はいらなくなって
消滅の方向にむかいだす。ということは、生物進化の歴史は、
海中から陸上、そして空中、さらには宇宙への上昇史であると同時に、
骨の消滅史ではないかという(笑)、これはもちろん詭弁、強弁、
こじつけの理屈ですけど、そう思ったんですね。

そしたらと、ここでまたこじつけの飛躍があって、
わざわざ海から陸へという道筋を経なくても、
最初から骨のないタコやクラゲが、海中から空中、そして宇宙へと、
陸上を抜かして進化してた方が、無駄がなくてよかったんやないかと、
こういう理屈ができた(笑)。
ここまで屁理屈ができたら、あとはそれをいかにひねって
発展させていくかという作業になりますから、この段階で遂に、
「よし。蛸の街、書ける!」と思ったんですね。
と同時に、これは発想や思考の前後関係を覚えてないんで、
はっきりしないんですけど、三年も四年も、何回カードを見ても
ひらめかなかったという、そのことも影響したんでしょうかね、
「ひらめきとは何か」という要素も入れられると思った。これは、
発明家や科学者が、「アイデアというものは空中に漂ってる」とか、
「考えつづけてると、誰かが耳元で答を教えてくれる」とか、
そんな言葉を残してるということを、何かの本で読んで覚えてたからです。

エジソンが言ったのか、アインシュタインが言ったのか、
そこまでは覚えてないけど、その「空中に」とか「耳元で」という部分が、
さっき言いました、空中に直接進化した方が
能率がよかったんじゃないかという、その理屈とつながって、
ここで「空中蛸」というものが想定できた。
海中から空中に直接進化し、そのためには身体すら消滅させて、
無形の意思生物になって漂ってるという、そういう蛸です(笑)。
そして、ひらめきとか発想とかの秘密を知りたいと思っている人間が、
仕事で明石へ行ったときに、空中蛸からそれを教えてもらうという
そんな話にすればいいと思った。ただし作品のなかでは、
明石という地名を出したらイメージが限定されますし、
こういう何やわからんような話は、そういった部分もぼかしておく方が、
その何やわからん雰囲気を一層強くしてくれるように感じましたので、
名前は出さず、描写だけは明石でやりましたけどね。

それから、前に言いました、自分自身の実感をいかに込めるか、
どうすれば込められるかという点については、
ひらめきとか発想とかの、秘密を知りたいと思ってるのは
私自身であって、広告マン時代以来、
その関係の本なんかもたくさん読んできてますから、
その面については、込める何も、自分の経験としての
実感を書くんだから心配はない。
作品のなかでは、そんな分野を研究してる大学教授が、
講演を頼まれて蛸の街へ行ったという、そういう設定で
ストーリーを組み立てて、途中、生物進化は上昇史であり
骨の消滅史でもあるのだという部分は、
SFファンが喜びそうな疑似論理で、蛸に演説させる。
ラストにちょっと、笑いの要素を入れまして、
50枚だったか60枚だったかの短編が、
タイトルを思いついたときから数年後、
ひらめいたら一週間ほどで書き上がったわけです。

だからこれは、思いついたことは何でも
とにかくメモして置いておけばいいということと、
普段から、断片でもいいから、いろんな分野の知識を増やしておくと、
いつか突然、それが生きてくることもあるのだという、
そういう事実の例になってると思います。
ついでに言っておきますと、この『蛸の街』は、
光文社文庫の『百の眼が輝く』というタイトルの、
私の短編集に入れてありますから、
興味をおぼえた方は、読んでみてください。


〈4・ひらめきから作品化までの事例〉

で、そうやってメモしておいたけど、なかなか作品にできなかったという、
ひとつの例ですけど、かなり前に明石へ行ったことがあるんです。
別に用事があったからではなく、何か具体的な作品のための
取材というわけでもないんですけど、明石といえば漁港で、
「魚の棚」という有名な商店街もあるから、
どんな街か、じっくり見てみようと思ってね。
だからこれは、機会あるごとに見聞を広めておくという、
まあ、自分では一般取材と称してるものです。
取材、一般取材、研究取材と、自分ではこう思ってまして、
取材は具体的な作品を書くために行くもの、
一般取材はおりおり見聞を広めておくもの、
研究取材は自分が興味を持った、特定のテーマを調べたりするためのもので、
あとのふたつは、先々で仕事に結びつくかどうかはわからないけど、
楽しみとして、勉強として、まあ、趣味と実益をかねて、
いろいろやってるというものです。

で、話をもどして、明石へ行ったときには、写真撮ったりしながら
魚の棚を歩いたし、漁港も見た。そしたらやっぱり、おもしろいんですよね。
魚屋の店先で、獲れ立てのタコがうにうにゃうごめいてるし、
干物になった茶色いやつは、ミニチュアのマントみたいになってぶらさがってる。
客が多くて活気もあって、海産物だけではなく農産物も豊富だし、
そういうところを歩くのは好きですから、嬉しくなってくるわけですね。
そしたら、そうやってうろついてる最中に、ふっと
「たこのまち」という言葉がうかんだんです。
「たこ」はショウギョと書く「章魚」ではなく虫偏の「蛸」、
「まち」は元町の町やなしに市街地の街、それで「蛸の街」やなと思った。
そしてこれは、短編のタイトルやなあと、そう思いました。
そういうタイトルの、短編が書けそうやなあとね。

だから帰ってさっそく、さっき言いました名刺型のカードに、
「蛸の街」とだけ書いておいた。ほかに何か書こうと思っても、
その段階では別に何もうかんでませんし、
それが明石へ行ったときにうかんだタイトルだということは、
見れば思い出しますから、ごちゃごちゃ注釈しておく必要もない。
とにかく、「蛸の街」とだけ書いといたんです。
ところが、それ以後、短編とかショートショートの依頼があるたびに、
何百枚とできてるカードを繰りながら、これは頭のウオーミングアップのために、
パッパッパッと早めのスピードで繰りながら、締切、枚数、特集なら
そのテーマなんかも考慮しつつ、何が書けるかを考えていくんですけど、
そのたびに「蛸の街」が出てくるんだけど、発展しないんですよ。
自分の頭のなかで、ブレーンストーミングみたいな高速思考をやっていって、
「蛸の街」が眼に入るたびに、「明石を舞台にした、蛸が出てくる話。
短編で書けるはずなんやけどな。写真も撮ってきてるし、
うろついたときの印象も残ってるんやから」と思うんだけど、
そしたらどんな話なのかということは、全然うかばない。
とにかく、書けるということだけはわかってて、何かひとつ、
きっかけさえパッとうかんだら、その瞬間にダーッと発想が広がって、
すぐさまストーリーができるということも、感じてるんですけどね。

で、そんな状態が、大方三年か四年か、
ひっょとしたら五年くらいつづいたかもしれません。
もちろん、ずっと考えつづけてという意味ではなく、
依頼があるごとにカードを繰るという、
そういう作業を断続しながらということですけどもね。
そしたらあるとき、SFのオリジナル短編を集めた
アンソロジーを作るという話があって、ぼくにもその依頼がきました。
徳間書店から出た『日本SFの大逆襲』(笑)という本で、
これは何で「大逆襲」かと言いますと、
それ以前にSFブームがあったんだけど、それが終息して、そのころは、
だんだんSFが読まれなくなってきてた時期だったんです。
ブームのころには、一般の小説雑誌も特集を組んだりしてたんだけど、
それも無くなってた。
それで、徳間書店は「SFアドベンチャー」という月刊誌も出してたくらいで、
SFの単行本や文庫もたくさん刊行してくれてましたし、
編集者とSF作家とも仲がいい。ここらで一発、「SFはおもろいねんぞ!」と
アピールをしようという、それで大逆襲なんですね(笑)。
で、こっちも「よおし」と思って、例によってカードを高速チッェクしだしたら、
何と、このときに「蛸の街」がひっかかって、ひらめいたんです。
(この項、つづく)


3・作品の題材、承前〉

そして、その当時の自分の感じたことで言えば、書こうとしてる話の世界と
自分とのつながり具合と言いますか、その話が、感情、感性、情動、情緒、
そういった部分においての自分自身、あるいは、
その経験や記憶とつながってるかどうか。
思いついたときはつながってなくても、
つなげられる要素を含んでる話であるのかどうか。
また、つながるとしたら、つなげられるとしたら、
喜怒哀楽、嬉しさ、哀しさ、怖さ、寂しさ、
そういったものの、どの面とつながってるのか、つなげられるのか。
それをチッェクして、何もつながらない話、つながってない話は、
書いても、「ああ、そうですか」ですまされるものになってしまうみたいやなと、
まあ、そう思うようになったんです。
もちろん、勉強してすぐそう思うようになったわけではなく、
練習作品を書いていく過程で、いつしかということですけどね。

だからそれからは、ひとつのアイデアなりきっかけなりがあったら、
仮にそれが「嬉しさ」を基調にするような話だとしたら、
自分が本当に嬉しかったこと、
飛び上がりたいくらいに嬉しかった経験を思い出して、
その生の感情を使える話かどうかをチェックして、
そうでなかったら書かないことにしました。
ただし、そのときには捨てても、いつかまた書けるとわかるかもしれませんので、
そのきっかけを書いたメモ自体は置いておく。

逆に、使えると思ったら、その自分自身の実感を「こめて」というか、
そのときの気持ち、心持ちで書くようにしたんです。
経験や記憶を具体的に書き入れるということではなく、
そのときの気持ちになって書くということで、いわゆる「感情移入」ですね。
「怒り」とか「哀しさ」とか「寂しさ」とかも同じことで、そうすると、
理屈や思いつきの話にも、情動とか情緒とかの要素が入って、
何か違った雰囲気が出てくるように思ったわけです。
だからまあ、実感しにくいたとえになるかもしれませんけど、
凧をあげるのに、細いながらも糸がつながってて、
自分が手元でそれを握ってるかどうかという、
書くときの感じをいえば、そんな感じですね。
話だけが勝手に舞い上がってるんじゃなくて、ちょいちょいとひっぱったら、
ぐっぐっと手応えがあるようなね。そんな感覚があるんです。

また作品というのは、作者と読者との間にコミュニケーションを成立させて、
理解なり納得なりしてもらわなければならんものですからね。
その点から考えても、そういう喜怒哀楽、感情、情動、情緒という面は、
どんな人間も持ってる要素ですから、それがふくまれてたら、
読む方も自分のそれに「引き寄せて」というか、フィットさせて読みやすくなるし、
その結果、読者としての「感情移入」もしやすくなるわけですからね。
でもね。言ってることのニュアンスはおわかりでしょうけど、実際書くときに、
気持ちをこめて書きながら、同時に、それを冷静にチッェクしていくという作業は、
やってみたら難しいですよ。
私も、だいぶ練習した結果、できるようになったことですからね。

ただまあ、念のために言っておきますと、これは私の特殊事例に過ぎなくて、
他の作家の方は、そんなこと最初から考える必要もなく、
書き始められてるのかもしれません。
というのが、私はそのときには広告の企画や製作の仕事をしてて、
自分個人の感情とか気持ち、好き嫌いとか賛否とか、そういうものとは無関係に、
文章を書いたり映像を考えたりしてましたからね。
個人としては「こんな、つまらん商品」と思ったって、
仕事となったら、いかにもそれらしい、得ですよ、便利ですよ、
楽しいですよとアピールする世界を作らなければいけないわけで。

それが身についてしまってたから、
ショートショートの練習をするについてもその癖が出て、
どんなものごとやきっかけからでも、
すべて、必ず、作品はできるはずだと思ってたところがある。
それまでそういう訓練、実感がなくても、
必ず何か作らなければならないという世界の、
発想訓練をしてきてたわけですからね。
でも、そういう方法で書いてったら、仮にたくさん書けたとしても、
大量に出てる広告物の、ほとんどが「ああ、そうですか」ですまされるのと、
同じことになったでしょう。だから、その広告式の「結論先行」の発想法を捨てて、
ショートショートの発想法や小説というものの書き方を身につけるために、
とっかかりとして、自分自身と「つなげる」とか
「つながるかチェックする」ということをやりだしたわけで、
天性の作家というタイプの人から見れば、
おかしなことをしたんですなあということになるかもしれません。

それから、さっき言いました、そのときは書かないにしても、
メモ自体は置いておくということですが、これはノートにメモしといてもいいし、
カードを使ってもいいし、自分に向いた、やりやすい方法ですればいいわけです。
私は、こういう名刺型のカードを使ってます。時間があったら、
あとからその内容をいくつか紹介しますけど、うかんだとき、思いついたときには、
必ずメモするようにしてるんです。メモしてから、書けるとわかるまでに
三年五年かかったという例もありますから、
そんなの、書いておかなかったら忘れてしまって、
そのまま消えてしまうに違いないですからね。


〈2、作品の題材〜〉

で、ひとつめのブロック。題材とか発想とかアイデアの関係から始めます。
ええっと、最初は、『どうしても書きたい一場面から、話を作ることはありますか』と。
シーンか何かが頭にあって、そこから作っていくことがあるかという質問ですね。
これはいくらでもあります。これに限らず、話のもとになるもの、
きっかけ、動機、題材。それはもう、何でもです。「森羅万象、これみなネタなり」と、
私は冗談半分で言ったりするんですけど、何でも材料に「なりうる」んです。
全部「なる」とは限りませんよ。でも、「なる」要素は、どんなことにも含まれてる。

たとえば、何かで見たシーン、旅行にいったとき見た光景に感動したとか、
テレビや映画で見たシーンが心に残ってるとか。
それから、これもシーンのひとつですけど、夢で見た光景が、
なぜか忘れられないとかね。
そういったものは、すべて十分、小説のきっかけになりうるんです。
小説に限りません、漫画でも映画でも音楽でも、作品というもの全般の、
創造のきっかけにね。
あるいは、光景とかばかりではなく、普段、自分がちょっと考えたこと、
思いついたこと、アイデア。それ;から何か、世の中で事件でもあったときに、
感じたこと、自分が考えたこと。そういうものも、きっかけになる場合がある。

昨日のニュースで、曽我さん一家の再会がありましたね(04・7・9)。
ジェンキンスさんが飛行機のタラップから下りてきて、
曽我さんが抱きついて、横で娘さん二人が泣いてるという。
あの光景を見て、自分がどう感じ、何を考えたか。
やっぱり、何か考えるでしょう。まったく何も思わないということはないでしょう。
まして、ぼくらは職業上の癖になってるし、いわば、
もともと考えることが好きだからこそ、こんな仕事をしてるわけですから、
どんなことでも、必ず何か考えるんですね。
だから、これから書いていこうとする人は、どんなことでも、何かあったら、
それに関して自分がどう思うか、どう感じるか、
考える癖をつける稽古をしたらいいと思います。

そして、もうひとつ言うならば、そうやって自分が思った、感じた、
考えたことが、世の中の常識と比べて、合ってるのかどうかとか。
少々ずれてるにしたって、そのずれ方が、いいほうのずれ方なのか、
感心しないずれ方なのかを、自分でチッェクしてみるとか。
そういうことも必要であるし、大事なことなんです。
だからまあ、とにかく常に何か考えるという、
そういう癖をつけることが第一だと思いますね。
で、さっきも言いましたように、
どんなことでも材料やきっかけには「なりえ」ますけど、
すべてが「なる」とは限らないんですよね。
ここがちょっと、むつかしいところでね。

たとえば、ひとつのアイデアがあって、それをショートショートにしようと思ったと。
ショートショートは短いものですから、アイデアさえあったら、
すぐ書けそうに思いますからね。
そして実際、書いたら書けるんですよ。形はつくんですよ。でもそれがね、
読んでおもしろいかというと、あんまりおもしろくないことが多いんです。
ただ、お話だけがあって、「ああ、そうですか」ですまされてしまうような、
そんなのになってしまってね。
それはなぜかというとね、まあ、頭で考えた、
理屈で考えたストーリーがありますと……、
で、それを書くときに、それをそのまま書くとねえ……、
どう言うたらええのかな、やっぱり「つくりもの」になるんですよね。
作ってるんですから、作り物に違いはないんですけど、
雰囲気とかリアリティとか、そこらの微妙な点においてですね。

自分の経験を言いますと、ぼくは一番最初、まだサラリーマン時代、
広告代理店に勤めてたんですけど、
そのときに筒井康隆さんの『ネオ・ヌル』という同人誌に入れてもらって、
ショートショートから練習しだしたんですよ。というのが、
その少し前に、SFマガジンという雑誌でコンテストをやってたので、
いっぺん応募してみようと思って、70枚ほどの短編を書いてた。
何も知らないまま、見よう見まねで、無茶苦茶な話を書いたんです。
広告製作の仕事をしてましたから、原稿用紙は使い慣れてたし、
構成ということも、まったく知らないわけではなかったからね。

で、結果として、それは内容はおもしろいけど、
ストーリーの進行とかに無理や不自然があるので、書き直したら、
選外佳作として載せてあげましょうということになったんですけど。
ちょうどその審査結果の発表待ちの時期、
たまたま、『ネオ・ヌル』という同人誌がスタートしたということを、
週刊誌の記事で読みましたので、筒井さんの大ファンで、
それまでに出た本は全部読んでましたから、
小説作法を一から勉強させてもらおうと思って、入会してたわけです。
応募の短編書いたら、おもしろかったんでね。

で、ショートショートを送ったところ、それは載せてもらえましたけど、
選評として、このときは眉村卓さんがしてくれはったんですけど、
まさにさっき言ったのと同じことを指摘されたんですよ。
一応、形はできてるけど、もひとつおもしろくないというか、
深みがないというか、これはこれだけで終わってしまってるというようなことをね。
そこで、それをどうしたらいいのかなあと、自分なりにいろいろ考えたり、
小説作法の本を読んだりして、いわばそこから、稽古を始めていったわけです。
(この項、つづく)


<1、 はじめに>

ええ、かんべむさしです。
さっきまで原稿を書いてまして、途中で出てきましたので、
顔がひきつってるかもしれませんけど、
別に怒ってるわけではありませんから(笑)。

それで、いろいろ質問事項を出してもらいまして、全部読ませてもらいました。
そして、それらをグループ分けしてみますと、いくつかにまとまりました。
たとえば、発想とかアイデアに関する質問。それから、ストーリーやプロット、
あるいは構成をどうすればいいのかという質問。そして、文章や表現関係。
それからまあ、仕事に対する姿勢とか取り組み方とか、そんな質問ですね。
ですから、それをいまから、順番に説明していきます。
ただし、抜けている要素もありまして、それは取材とか資料調べとか、
普段からの吸収とか、そういった問題ですね。
だから、時間があったら、それにもふれようと思います。

そして、ひとつひとつの質問には、例をあげてお話ししますけども、
毎年、私が言っていることがあって、それは私の言うことが、
別に絶対的な正解ではないということです。
人それぞれのやりかたがありますから、あくまでも、私はこうしている、
長年やってきたなかで、おのずとこういう方法になってきた、
自分にとっては、これがやりやすいのでそうしているという、
そういうことをしゃべりますから、皆さんがたはそれを、
「なるほど」と思ったら採り入れればいいし、
「ちょっと、しんどいな」とか、「自分には向いてないな」と感じたら、
やめておいたらいい。

同じことは、いままで聞いてこられた、
いろんな講師の方のお話についても言えるわけで。
あの先生のあの部分はおもしろかったから採用しよう、
この講師のこの方法はなるほどと思ったから練習しようと、
自分にとっての「いいところ」を取ればいいわけです。
ただ、それをやりますとね、いろんな先生のいろんな部分を、
いわば、ばらばらに取ってるわけですから、
やりかた全体としての整合性みたいなことには欠けてるわけで、
最初はしっくりいかない場合があるんですよ。

でも、それぞれの部分をおもしろいとか、
なるほどとか思ったのは確かなんですから、
それを頼りにやっていけばよろしい。
そしたらやっていくうちに、「ああ。このやりかたは、
聞いたときはおもしろいと思ったけど、自分にはしんどいな」とか、
「なるほどとは思ったけど、やってみるともうひとつやな」とか、
だんだんそういう部分が出てくるんですよ。やってるうちにね。
で、それを取捨選択し、かつ、書くという作業をつづけていくうちに、
おのずと、少しずつ、自分のやりかたというものができてくるわけです。

だから、皆さんがたがこのさき、
ずっと書きつづけるのかどうかは知りませんけど、
プロかアマかは問わず、仮に五年十年書くとして、
まあ、それだけつづけたら、
自然に自分のやりかたというものができてきますわ。
ただ、ここがいわばアマチュアとプロとの違いというか、
ひとつの区分基準になることなんですけど、
その、おのずとできてきた自分の方法で作品を書いたとき、
それが世の中に通用するかどうかという問題がある。

つまり、「私はこのやりかたがいいんだ!」と思って書いても、
それが独りよがりになってたら、何もならないわけで。
自分で書いて自分で読んでるだけなら、
それでもいいのかもしれませんが、プロの場合は仕事ですから、
作品が採用されなかったら大変ですから、
もしも読者や編集者、評論家などから、
ちらっとでもそんな反応が返ってきたら、すぐにそれを考えて、
作品自体とともに、やりかたも考え直して、修正しますからね。
だから、修正を重ねていまのようなやりかたになってきたのだという、
そういう前提ですので、「いいところを取る」ということも、
そのつもりで考えておいてください。