ラジオ雑談室

AM、FM、SW。キー局、ローカル、コミュニティ。
番組、タレント、スポンサー。そして歴史や未来像まで。
『ミラクル三年、柿八年』刊行を期にスタートさせた、
ラジオに関することなら、何でもありのメモルームです。
このホームページのメールによる御参加、大歓迎。
ただし、誹謗中傷や無関係の情報などは、
掲載いたしませんので念のため。



99・超「長期」展望のシミュレーションを。
引札(チラシ)、看板、景物(配り物)、ポスター、
新聞、雑誌、チンドン屋、DM、映画、ラジオ、テレビ、ネット等々。
ざっと書いたので洩れもあるだろうが、江戸時代以来現在に至るまで、
広告媒体は多種多様に開発され利用されてきた。
チラシやポスター、チンドン屋やDMなどは広告そのものを伝え、
新聞雑誌ラジオテレビなどは、情報や娯楽を伝えるマス媒体が、
同時に広告も送り伝えている。そしてどちらも
(電波媒体の場合は民放のみだが)、それによる収入で
経営を成り立たせているわけである。そこで概観してみるに、
時代によって「はやりすたり」はあるが、上記した各メディアのなかに、
完全に滅んでしまった媒体というものはない。しかしたとえばチンドン屋は、
各地に小規模会社やグループがあり、毎年全国コンテストなども
開催してはいるものの、日常的には「珍しい」メディアになっている。
大阪ではチンドン通信社がユニークな活動ぶりを見せているが、
といって商売上の競争相手が続々出てくる業界でもないのである。
映画館の数も全盛期に比べれば激減状態だから、
本編上映前に映される広告スライドやCM映画の影響力は、
失礼ながら「微々たる」ものだろう。すなわち、
各種媒体のなかには、「滅んではいないが……」というものがあり、
その数は時代の流れとともに、増えていくように思われるのだ。

一方、インターネットとそれを媒体とする広告の普及によって、
既存のマスメディアは広告収入面で苦戦をづつけており、
雑誌とラジオはその影響が特に大きいように見受けられる。
無論どちらも滅びることはないだろうが、
遠い未来における広告媒体としては、「珍しい」もの、
「微々たる」ものになっている可能性が、ゼロとは言えないのだ。
よって一度そこに視線を向け、情報や娯楽を伝えるのが
本来の使命であるマス媒体どうし、雑誌とラジオの両業界で、
超「長期」展望の共同シミュレーションをやってみればどうかと考える。
なぜなら、戦前からの日本の雑誌変遷史には、
民放ラジオにとって経営面でも番組内容面でも、
比較対照して吸収できる事例が多々含まれているはずである。
加えて戦後大衆社会が成立してからの週刊誌
(一般、女性、芸能、漫画、少年少女漫画等々)、
その消長と内容の変遷事例などは、
スペキュレーション素材の宝庫だろうとも思うし、
当然、その逆も成り立つはずだと思うからである。
以上、このラジオ雑談室、今回の提言をもって99回に至ったので、
予告どおり一応の区切りとさせていただく。
もし100回目を書き、さらに先へ進むとするなら、それは当方が、
また「現場」を経験させてもらえているときなのだ。

98・視聴率(聴取率)は、「作品」レベルの指標ではないのだが。
『刑事フランク・リーヴァ』という、アラン・ドロン主演で全6集の
DVD作品がある。もともとはフランスのテレビで放映されたものだそうだが、
見た印象として、「前半の3集は話もじっくり進んで見ごたえがあるんだが、
後半の3集は何かバタバタごちゃごちゃしてて違和感があるなあ」と感じた。
合点がいかないのでネットであれこれ検索したところ、
実はこれはテレビで全12回の作品として放送する予定だったのだが、
後半に入って視聴率が低迷したので放送回数が短縮されたのだという。
「作品」としての完成度や、長篇の「全体」構成から生まれる効果などは
まったく無視され、無理矢理終わらされたわけで、「芸術の国フランスでも、
やはりテレビはそういうことをするのかねえ」とシラケたわけである。
しかも、全12集は制作されていたけど6集分だけ放映したというのなら、
DVDはもとの12集で販売できるから、購入者は、制作者が意図した
本来の完成度やおもしろさに接することができるだろう。
しかしこれはそうではないから、後半がやたらにバタバタごちゃごちゃした
バランスの悪い作品がずっと販売されて残ることになり、出演者や制作者は
「買わんでくれ。見ないでくれ!」と叫びたいのではないかと同情してしまうのだ。

で、この問題を他のメディアで考えてみると、映画演劇ミュージカルなどは、
客の入りが悪ければ上映や公演の期間を短縮することでこれに対処する。
演劇やミュージカルは初日以降、作品の随所にカットや手直しを加えるだろうが、
不人気だからといって2時間の作品を1時間に縮めて上演することはないだろう。
映画にしても、興行面から判断して「長すぎる」場合の短縮は編集段階でやり、
試写後に多少の手直しがあったとしても、劇場公開後は
完成作品としての「全体」構造が提示されていくのである。
一方活字メディア(新聞雑誌週刊誌)で考えると、
差別表現や盗用などで問題化した場合は別であるが、通常、
長篇小説が不人気だからといって連載回数を減らされ、
バタバタと終わらされることはない。あったとしたらよほどの破綻作品で、
逆に書き足りなくてバランスが悪いまま終了し、
書籍化するとき加筆する事例の方が格段に多いはずなのだ。しかし
漫画週刊誌の連載期間短縮や打ち切りは、上記テレビドラマ例と相似している。
少年向け漫画誌など毎週人気投票をやり、往年の手塚治虫さんでさえ、
票が伸びなくて打ち切りをくらったことがあるという。
そして、上記のテレビドラマ例とこの漫画長篇例に共通するのは、
営業や販売に影響を及ぼす「目先の人気」数値が、
作品完成度などに関する志向を押しつぶしてしまうということである。
ただし小説やエッセイ同様、漫画も書籍化する段階で書き直したり、
本来の構想通りに書き加えたりできるから、
作者は「バタバタ終了」のリベンジを図れるし、
バランスの悪い作品を市場に出すことも避けられる。
上記「フランク・リーヴァ」の場合、テレビ用に短縮版を作ってしまってから、
DVD発売時に再撮影などということは、現実的には不可能なのだ。

さて。ところで。延々と書いてきたのは、
この問題をラジオに適用して考えるためであるが、歌番組にせよ生ワイドにせよ、
レギュラー番組が不人気で聴取率が低迷したとき、
民放ラジオは通常、番組「打ち切り」で対処する。しかし、
それは映画演劇と相似した「期間」の短縮であって、「内容」の圧縮ではない。
よって、テレビの「フランク・リーヴァ」事例と対比考察するためには、
連続放送ドラマを例に持ってこなければならないのだが、
そもそもそういうレギュラー番組が、現在の民放ラジオには皆無であろうと思われる。
往年のラジオ全盛期、子供向けに加えて、大人向けの連続ドラマも各キー局系列で
複数流されていたから、「そのなかには現在のテレビドラマ式に、不人気ゆえの
バタバタ終了をくらった作品もあったんだろうなあ」と想像するしかないのである。
また、時代の変化によってラジオは歴然たる「ながら」媒体、
「聞き流し」媒体になったわけだから、その聴取環境のなかで
カチッとした作品を連続放送して聞いてもらおうというのは、
リスナーにかなりの心理的負担を強いる行為だということにもなる。

そもそも現在のラジオ番組には、「作品」としての確固たる構造や
バランス美などは求められておらず、「流れ」があればそれでいいのだから、
仮に月〜金ベルトで毎回10分とかの連続ドラマを流すとしても、
それはひたすら「流れのスムースな」「聞き流してても心地良い」ものが
適していることになるのではないか。週一で30分枠などとなると、
誰も先週の話なんか覚えてくれていないだろうから、
もはや番組自体が成り立たないのだ。したがって、
視聴率(聴取率)低迷によるバタバタ終了を念頭に置き、かつ制作者が
「作品」たるべき完成度や構成バランスを確保していきたいのなら、
テレビの連続ドラマは長篇ではなく「水戸黄門」や「シャーロック・ホームズ」式に
一話完結が連なる連作長篇、逆にラジオは「やおい」作品、
山なしオチなし意味もなしという、夢の中で聞いているような
「流れゆく」物が手堅いのかもしれない。しかしこれにしても、
「そこまでして作ってもらわなくても結構です。受け手はラジオに
ドラマなんか求めてないんですから」と言われれば、それまでなのである。
当方としては、ラジオの連続「やおい」ドラマで、
予想外におもしろい作品ができそうに思うのだが。

97・この先、高齢者ゲストは増えるでしょうし。
人気歌手やタレント、各界著名人などをゲストに招き、
ワイド番組のコーナーや特番で、そのインタビューを流したりする。
その場合、生番組では会話や談話がそのまま放送されるので、
内容が散漫であったり、話がおもしろくなってきたところで
時間切れになったりすることも少なくない。
対して収録番組では大抵の場合、放送枠より少し長めに録っておいて、
ディレクターなりミキサーなりが編集したものを流している。
「え〜」とか「あ〜」とかの間投詞を省いたり、
言い間違い部分をカットしたり、ひとつの話題に関して
あっちで半分こっちで半分語っているなどという場合には
双方を抜き出してつなげたり、さまざまな手があるわけである。
そしてその効果は絶大であって、会話や談話の各部分が
歴然として聞きやすく、わかりやすくなる。ぼくの体験で言えば、
ある高齢の著名人を相手に聞き手を務めた長めのインタビューが、
編集されたら実にテンポ良く仕上がっており、
ゲストの声まで生き生きしだしたように聞こえたことがあった。
テープで編集していたので、試聴したときには、
「これ、キャプスタン替えたの?」と質問したほどだった。

広告マン時代、某社社長の経営方針説明という冗長な素材を、
カセットテープの時間枠内に収めなければならないことがあり、
どう編集しても2分だか3分だか「こぼれ」てしまう。
すると録音スタジオのミキサーが、「奥の手を使いましょうか」と言って、
薄い箱形のケースを取り出してきた。蓋をあけると複数のキャプスタン
(テープデッキで使う小さな金属ローラー)が収められており、
そのサイズ差によってテープを送る速度も変わるので、
長時間素材なら全体で若干の短縮ができるというのだった。
そのかわり、送りを速くすれば声もわずかながら高くなる。
上記の高齢者インタビューでも、声が若やいで聞こえたので、
カットや間引きを施したあと、キャプスタンを替えて
全体をなにがしか短縮したのかと思ったのだ。
しかしディレクターいわくは、そんなことはしておらず、
不要部分をカットしたあと、使う部分の間投詞を抜いていったのだという。
それだけで全体がくっきりはっきりとし、声まで変わって聞こえたわけで、
「さすがですなあ!」と感嘆していたのだ。

ついでに書いておくと、何年か前に某ラジオ局の特番で、
上記とは別の著名高齢男女二人の収録対談をオンエアしたことがあり、
聞いていた当方、「これ、もう少し編集の工夫がなかったのか」と思っていた。
確か60分だった枠内で、女性高齢者が同じ話を
あちこちで三回繰り返していたからで、しかもそれは
一度聞けば十分という程度の内容だったから、
「あとの二回分、せめて一回分はカットすべきだったのでは」と感じたのだ。
けれどもそのあと、ハッと気付いて関係スタッフが気の毒になっていた。
編集を前提にした対談を、余裕を見て80分してもらったのか、
90分してもらったのか。それはわからないが、
切って抜いて詰めてという作業をしていったら、
タイトな構成では60分持たなくなってしまったのだ。
つまり双方が高齢者であるため、仮に90分収録したとしても、
その素材には空白や言い間違いや念押しなどが多く、
同じ話の繰り返し部分でも使わなければ、
時間が余ってしまうことになったのだ。無論これはぼくの推理推測であるが、
全体の内容が期待以下だったことから考えても、多分当たっていると思う。
申し訳ないことながら、「高齢者ゲストの収録時には、
話題の数と種類を極力増やすように努めておくべきなんだな」という、
他山の石が頭に残ったのだ。

96・まさしく、「人さまざま」なのである。
前回、昔むかしのラジオCM製作体験を書き、
思い出したことがあるので今回も書く。
CMの収録を依頼するタレントの話であるが、当時、
男声ナレーションが必要な場合、頼む相手は大体決まっていた。
なにしろ大阪ローカルだから、放送や広告の業界自体が小さくて狭い。
仕事の総量も限られているため、女性CMタレントの数は
東京に比べてぐっと少なく、男性となるとさらに少なかった。
そしてそのなかには新人もおり、経験年数の割りには
下手という人もいるわけだから、そもそも
安心して候補にできる人数が五、六人という時代だったのだ。
そして、よく依頼していた男性「安心」CMタレントは二人おり、
一人は松竹芸能の○○氏、もう一人はTTB
(テレビタレントビューロー)の××氏。

○○氏は細身で小柄、常にぴしっとしたスーツ姿で、
薄い茶色の入ったメガネをかけていた。低めでよく通る地声が良く、
だからショッピングセンターや家電量販店の店内CMなどにも、
あちこちで起用されていた。と同時に、呑み込みが早くて器用なので、
どんな業種どんな設定のCMでも、手堅くこなしてくれる。
録音スタジオで待ち合わせをし、原稿のコピーを渡して
主旨と狙いを説明する。そのあとマイクに向かって一、二度下読みをし、
そのまま本番で20秒CMをAタイプ、Bタイプ、Cタイプくらい収録する。
多少の注文をつけることもあったが、スタジオ入りしてから
一時間以内で片付くことが多いという効率の良さだったのだ。
その代わりと言っては何だが、その分野での「売れっ子」であるため
スケジュールが一杯なのか、終わるとすぐさま挨拶して帰って行った。
もっと言うなら、その挨拶も公式的で、仕事全体についても
効率第一主義だったらしく、かなりの回数を依頼したのに、
ぼくはこの人と収録が終わってからコーヒーを飲んだこともなく、
プライベートな話をしたこともない。
また、特定企業の専属タレントは当然として、
CMをレギュラー的に継続して受けている場合、
同業他社のそれは断ってくるタレントが大多数だったのだが、
この人は何でも受けていた。当時聞いた話では、
「私がその会社のCMをやってることくらい、
広告関係者なら御存じでしょう。その上で依頼してこられるんだから、
私は仕事として受けますよ」という姿勢だそうで、
「とにかく、数をこなして荒稼ぎしてるらしいで」とのことだった。

一方××氏は、○○氏が少々陰性の雰囲気だったのとは対照的に、
太り気味の体形で陽性の顔。声も明るく、
服装も普段はノーネクタイが多かったと覚えている。
そして、同業他社のCMは丁重に断ってくる人だった。
ところが誰にでも一長一短はあるもので、この××氏は雑談が長い。
収録を終えてコーヒーを出前してもらい、ミキサーなども一緒になって
しゃべるなどということがあると、胴を取って渡さない。一度、
スポンサーの重役も同席で夜の食事会をしたことがあるのだが、
延々しゃべられて困ったことがある。なお、CM以外、
テレビやラジオの番組出演という仕事については、
○○氏は声がかからなかったのか、かかっても
そんな効率の悪い仕事は断っていたのか、まったく記憶にない。
××氏は、テレビのローカル枠で
スタジオ番組の司会をしていた姿を見た覚えがあるのだが、
ラジオ出演はなかったように思う。
「あれだけしゃべるのなら、パーソナリティーだって務まっただろうに」
と思うのだが、雑談とそれとはまた別だったのか。
それともその雑談を、短くまとめるのは苦手だったのだろうか。

95・「血の出るようなカネ」、だとはわかるけどなあ。
昔むかし、広告の仕事をしていた時代、
ローカルスポンサーのひとつに「薬用歯磨き」の会社があった。
歯槽膿漏を防止あるいは改善する歯磨きで、
家内工業に近いような製造発売元だったと記憶する。
あるときそこがラジオCMを打ったのだが、
それについては一騒動あったことを思い出す。
というのが、週に二、三回のスポットCMとはいえ、
その程度の規模の会社が電波媒体に出稿するというのは、
予算面での「大英断」が必要である。参考までに書いておくと、
大企業のキャンペーン企画などでメディア予算を割り振る場合、
その大半を占めるのはテレビと新聞の出稿料金、
それからポスターやパンフレットなどの大量印刷費であって、
ラジオCMは通常ごくわずかな比率となる。
しかし比率は小さくても額面としてはそう小さくはないわけで、
小規模スポンサーの場合、それがいわば一大キャンペーンなのだ。

そこで営業担当者が何度もうちあわせに行き、
ようやく話が決まって、製作担当者たるぼくにも出番がまわってきた。
先方へ出かけた記憶はないので、スポンサーの部長という人が
こちらの会社に来て、応接室でうちあわせをしたのだったと思う。
四十代だったか五十代だったか、小柄で色黒で、
失礼ながら「しなびた」ような顔の人物だったが、
それ以上に記憶に残っているのは、
彼が自社の製品に絶対の自信を持っていることだった。
だから、一大キャンペーンたるラジオCMは、
多大の反響を呼ぶに違いないと思い込んでいるのだった。
ところが、製作予算がなかったのだったか些少なのだったか、
もちろん先方の意向によってという理由も加わってであるが、
肝心のCMはごく普通のストレートトーク形式でしか作れなかった。
それを、予算がなかったのなら局アナ、些少だったのなら
安いランクのタレントに朗読してもらったわけである。
すると、それが何回かオンエアされた段階で、
くだんの部長から営業マンにクレームがついた。
「歯槽膿漏で悩んでいる人にとって、うちの製品は、
たとえばカーラジオでそのCMを聞いたとしたら、すぐさま
路肩に車を止めて、電話で問い合わせてくるほどのものなんや。
そやのに、まったくそれがないとは、どういうことや!」

答はわかっていて、ひとつはオンエア回数が少ないから、
まだリスナーの印象に残る段階にまでは達してないということ。
もうひとつは、どんな商品のCMにせよ、(携帯電話などなかった時代)
わざわざ車を止めて公衆電話で問い合わせるなどという消費者は、
まずいないからということである。しかし代理店の営業マンとしては
それは言えなかったのか、その後もクレームは何回かついたらしい。
そこで彼はどうしたか。局の営業担当者に頼み、
「ラジオでCMを聞いた、歯槽膿漏に悩む者」として、公衆電話から
スポンサー宛に、「やらせ」で問い合わせてもらったのである。
それで先方が納得したのかどうかは知らないが、
CM出稿自体は三カ月か半年で終わったように覚えている。
部長が「プッツン」したからか、それとも予算が尽きたからか。
ちなみに、現在でもたまに薬店でその製品を見かけることがあるが、
成分表示を確認すると、普通の練り歯磨きに
塩が入っているだけのものである。
関係する人物たちの動きといい、製品といい、
これぞ「大阪ローカル」というお話だったのだ。 

94・いまは検閲はないが、自粛や、その要請がある。
太平洋戦争の敗戦後、アメリカを主体とした
連合国に占領されていた日本では、新聞雑誌にせよラジオにせよ、
流される記事やニュースはGHQによる検閲を受けていた。
戦前戦中も内務省や軍による検閲はあったわけだが、
それよりこちらのものの方が狡猾だったという説がある。
日本の検閲で記事の一部または全部が掲載禁止になった場合、
その部分は××や○○などの伏せ字が使われたり、
該当する記事のスペースが白抜きになって発行されていた。
だから読者は少なくとも、「この部分に何かまずい点があって、
検閲で禁止になったのだな」と判断できるし、内容も推測できる。
進駐軍による検閲ではその方法が認められず、
他の表現や記事と差し替えさせられていたから、
読者は検閲があったことにさえ気付かなかったというのである。
とはいえ当時の日本人、報道や通信がまったく自由になったとは
思っていなかっただろう。なぜなら占領後の何年かは郵便も検閲され、
私信でも何でも、封筒が開かれてなかみが読まれていたのだから。
ついでに書いておくと、当方の小学校低学年時代、家にはまだ、
そうやって一度開封された父親宛の手紙が少なからず残っていた。
封筒の底辺部分を切って内容を読み、問題がなければもどして
セロハンテープで再封するわけで、いわゆる「セロテープ」というものを、
ぼくが初めて見たのは、この検閲された封筒によってだったのだ。

また民放スタート以前、NHKのラジオ放送にも内容チェックのため
米軍将校だか関係者だかが詰めていた時期があり、聞いた話によると、
当時JOBK(大阪)で、副調整室で生放送に立ち会いつつ、
連れてきた日本人の女と始めだしたアメちゃんがいたという。
ディレクターやアナウンサー以下のスタッフ一同、
見て見ぬふりをしながら放送をつづけたのだろうが、
『アーロン収容所』(会田雄次、中公新書)に出てくる
イギリス軍の女性将校と同じく、アジア人の敗戦国民を
同じ人間とは思ってなかったことがよくわかる事例である。
そしてその一方、ラジオでは間接的な洗脳活動も始められていた。
日本軍国主義の実態と犯罪行為を暴露告発するため、
終戦の年(1945)の12月からNHKラジオで
10回にわたって放送された『真相はこうだ』という番組であり、
GHQの命令で制作されていることを隠し、タイトルや形式を変更しつつ、
1948年の1月までつづけられたという。
保阪正康氏や櫻井よしこ氏の旧作に、それらを扱った書籍があるので、
古書店で見つけたら読んでおこうと思っている。

93・登場しました。神風さんと小西さん。
『勝利者たち・マイク越しの戦後スポーツ史』
その記述から最終回として紹介させてもらうのは、
スポーツ放送と解説者の話である。戦前そして戦後も何年か、
NHKラジオのスポーツ放送はアナウンサー一人が引き受け、
「解説者もいなければベンチリポーターなるものもいない。
野球の試合が三時間になろうと四時間かかろうと、
担当したアナウンサーが、はじめから終わりまで
全部ひとりでカバーしなければならなかった」という。
だから岡田氏はその極端な例もあげており、
戦前の甲子園の全国中等学校野球(現在の高校野球)、
「中京対明石の延長二五回の五時間半におよんだ大熱戦も、
当時大阪局勤務の高野国本先輩が
ひとりで頑張り通したのである」と書いている。
引用しながら想像するに、映像のないラジオだから、ポーズや
数秒程度の空白以外、一息入れるための沈黙もはさめないわけで、
それで五時間半しゃべるというのは、頑張り通したどころの話ではなく、
難行苦行を通り越した、「荒行」だったのではなかろうか。

また、戦後の一時期にはプロ野球の球場不足のため、
後楽園球場から一日二試合ただし別カードという、
変則ダブルヘッダーが放送されたこともあった。
そのときにはゲームとゲームの間の三十分ほどを、
前半は中継を終えたアナウンサー、後半は
次に放送するアナウンサーが受け持って、持たせていたのだそうだ。
そしてその時期、その時間にゲストを入れたらどうかという案が出た。
そこで中沢不二雄、サトウハチローといった人に出てもらったところ、
「これがなかなか好評であったので、ゲスト出演という形は
ただちに定着した。これがいわば解説のハシリなのである」という。
ただしこのときには、アナウンサーとのかけあい形式にまでは発展せず、
それがラジオから流れ始めたのはもう少しあとのことになる。すなわち、
「NHKのスポーツ解説者としては昭和二八年、相撲の神風正一が最初で、
次いでプロ野球に小西得郎が登場した」、「この人選が良かった」、
「この二人の解説者は、その後も出てこないような
素晴らしい解説者であったのだ」、とまあ岡田氏大絶賛である。
そして団塊世代の一員として、子供時代以来この二人の解説を
数限りなく聞いてきた(聞かされてきた)当方も、
「なるほど。まさにそのとおりだったんだろうなあ」と思う。

わかりやすくておもしろく、二人の声や口調は現在でも頭に残っている。
だからいま、仮に小説のなかで、「栃錦と若乃花の横綱対決。
その見どころを解説する神風さんの声」という部分を書く必要があるとしたら、
御本人に頭のなかでしゃべってもらって、
いかにも録音テープを起こしたように書けると思う。
小西さんの「何と申しましょうか」という名台詞や、
「長嶋の守備は」などと言うときの、「ナガシマ」の「ガ」がぽーんと上がる
独特のアクセントとイントネーションもくっきり覚えているのだ。
岡田氏の絶賛はつづく。「二人は、スポーツ放送の解説者という
新しいジャンルの職業を確立したパイオニアというべきであろう。
もしこの二人の出来が悪かったら、解説者は定着せず、
ふたたびアナウンサー単独の形にもどったかもしれないからだ。
その意味でも、小西、神風の功績は大きいといわなければならない」
そしてまた小西得郎は、「マイクの前に坐るからには
話すことでもプロにならなければ」と、話術の研鑽にも
人一倍の努力をした人なのだという。だから岡田氏は、
その面での努力も工夫もせず、雑な言葉を使ったりする解説者には
苦言を呈している。いや。他人事ではございません。
他日に備えて、拳拳服膺させていただきます。
以上、非常に興味深く勉強にもなった書籍の紹介、
故・岡田実氏に感謝の意を表しつつ、これにて終了といたす次第。

92・華やかに謳い上げる人、冷静淡々と写実する人。
NHK東京のスポーツアナウンサーだった、故岡田実氏の著書
『勝利者たち・マイク越しの戦後スポーツ史』の、紹介四回目である。
前回の末尾ではローマ・オリンピックのマラソン中継で、
エチオピアのアベベの活躍を伝えたエピソードを紹介したが、
その当時、テレビの衛星中継はまだ始まっていなかった。
だからローマ大会でもテレビの同時中継はヨーロッパ地区だけで、
「日本やアメリカへはビデオテープやフィルムを
空輸する方法しかなかったので、国内のテレビ放送は
実際の競技と二、三日のズレがあった。
したがってNHKの放送も、ローマ大会までは
同時中継のできるラジオが主力であった」と書いてある。
しかし次の東京大会でテレビの衛星中継が始まり、
その次のメキシコ大会からはオールカラーにもなったので、
主力の立場が逆転したという。そのためというわけでもなかろうが、
岡田氏はメキシコ大会でボクシングの試合を担当しているとき、
「こんな珍しい経験もした」という。

放送中、となりの席でしゃべっていたメキシコのアナウンサーが、
突然マイクを氏の口もとに突き出し、実況放送してくれと言う。
何かの間違いではないかと聞くと、「いや、かまわない。
日本語のボクシング放送をメキシコ人に聞かせたいのだ」とのこと。
「したがって、その日のメキシコのラジオには
私の日本語のアナウンスが流れたわけで」、
「このようなメキシコ流のおうようさが、
むしろ羨ましくさえ思われた」という話である。
そしてぼくの感覚で言うなら、こういう融通の利いた気軽さ楽しさを、
現在の日本のラジオも、もっともっと取り入れてほしいと思う。
規則、慣習、業界常識などに照らせば多少問題がありそうでも、
それを聞いたリスナーが喜び、おもしろがるに違いないことなら、
どんどんトライしてもらいたいのだ。
もちろん、それが社会的な良識に反したり、
悪ふざけにならない限りという条件付きであるが。

さて。ところで。この本のラスト、第17章には
『スポーツ放送の変遷』というタイトルが付けられており、
その記述内容には、「おもしろいなあ」と思ったことがふたつある。
ひとつは、戦前のスポーツ放送からの流れで、
岡田氏が現役時代のNHK東京には、
スポーツアナウンスの原型があったという話。
いわくは、「初期の松内、河西両先輩によって、
すでにふたつの源流ができ上がっていた。
松内型は、いわゆる美辞麗句で、華やかに謳い上げる名調子であり、
河西型は冷静淡々と写実に徹するいき方である」
松内則三は戦前の六大学野球、秋の早慶戦の中継で、
「夕闇迫る神宮球場、ねぐらへ急ぐカラスが一羽、二羽、三羽」
と描写して有名になったアナウンサー。河西三省(さんせい)は、
これも戦前のベルリンオリンピック女子水泳の放送で、
「前畑ガンバレ」を連呼したアナウンサーである。
岡田氏の「冷静淡々」という記述と矛盾するようだが、あの連呼は
「河西氏にとってはまったく異例のことであった」のだそうだ。
そして岡田氏は、双方の流れを受けた先輩アナたちから指導を受け、
源流でいうなら、語り口は松内型、内容は河西型でいってみようなどと、
「欲張ったことを考えた」とも書いている。
また、「おもしろいなあ」と思ったもうひとつは、スポーツ放送における、
解説者の登場とその役割についてであるが、
これは次回(このパートの最終回)で書かせていただくことにする。(つづく)

91・卓球を描写する。マラソンを活写する。
『勝利者たち・マイク越しの戦後スポーツ史』、
その内容紹介の三回目である。前二回で触れたごとく、
岡田氏は終戦直後からさまざまなスポーツを放送してきたわけだが、
当方が「そうか。なるほど」と膝を叩く気持ちになったものに、
卓球を実況中継したときの話がある。
そもそも、「卓球の試合が、はじめて電波にのったのは、
昭和二三年一二月、横浜の蒔田小学校の雨天体操場で開かれた
全日本硬式卓球選手権大会であった」という。
放送では男子シングルス決勝の模様を伝えたのであるが、
氏は「喋りにくくて本当に参った」と書いている。なぜなら、
「他の種目は全部終わり、会場中央に卓球台がひとつあるだけ」で、
風が入らないよう「窓は全部閉め切り、外の音は入ってこない」
という場内には満員の観客がおり、卓球の初放送というので、
「いったい、アナウンサーはどういう風に喋るのだろう」という好奇心から、
試合前には 「その満員の観衆がシーンと静まり返って
ステージ上の私の方に視線を集めて」いたからだそうだ。

漫画なら、アナウンサーの右こめかみに
ツツーッと汗が落ちているシーンになりそうだが、
当方が膝を叩いたのは、もちろんこの部分ではない。
「あの目まぐるしい打ち合いのスピードに、いくら早口とはいえ、
どうやってついていくか。前例がないだけに、これにはまったく往生した」
という箇所であって、テレビなら映像を見せておけばそれですむけれど、
ラジオだからしゃべらない限り伝わらない。そこで岡田氏はどうしたか。
「いろいろ思案した末、考えついたのは
ラリーのすべてを描写するのは無理なので、
サーバー側に重点を置いて喋ることにした」というのだ。
つまり、両方の動きを均等に伝えるのは不可能だが、
片方に重点を置いて描写すれば、
もう一方の動きもおのずと想像してもらえるだろうという判断。
これもまた、以前書いた、聴取者の「脳の霊妙な働き」を活性化させる、
みごとな手法なのだ。だから氏は、「ラジオならではの苦心のいるところで、
以後、私はこの方法で押し通した」と書いている。

またこの本には、マラソンの実況中継体験もいくつか紹介されており、
なかでも興味深かったのが、1960(昭和35)年の
ローマ・オリンピックにおけるそれ。古都ローマの
「名所旧跡をめぐる観光・三角コース」が設定されていたものの、
「旧市街は道幅が狭く、交通規制が難しいので、
放送車の伴走は許されなかった」という。そこでNHKのラジオチームは、
岡田氏がスタートを受け持って選手たちを送り出し、そのあと、
ゴールである凱旋門前に仮設されたスタンドの放送席に移動して、
彼らの到着を待つ。一方、往路にも復路にも通過するという地点の
レストランに同僚のアナウンサーを待機させ、電話で状況を伝えてもらって、
何とか録音を構成することにしたという。
報道関係者には大会本部から、四カ国語(英、独、仏、伊)の
ガイドアナウンスが送られてくるので、それも参考にしながらだ。
すると、20qあたりからレースが予想外の展開を見せだし、
「先頭グループの中から、黒人選手二人がスルスルと抜け出し」たのだが、
そのトップ選手が誰なのかわからないという情報が入ってきた。
無名の選手で顔が知られておらず、しかも、「ゼッケン番号で調べると、
そんな番号はマラソンでは登録されていない」ので、
大会本部でもよくわからないらしいという。

結局、彼はモロッコのラジという選手で、
ゼッケンは別の競技に出たときのものだとわかったのだが、
そのあと岡田氏はこう書いている。「その人騒がせなラジにぴったりとついて、
何とはだしで軽やかに走っていたのが、やはり〈名もなき〉アベベであった」、
「二番手につけているアベベという選手は、石畳の道を
はだしで走ってるぞというニュースは、たちまち報道陣の間にひろまった」
……いま引用させてもらいつつ、当方、背筋に寒気、
胸にこみあげてくるものを感じているのであるが、これが「走る哲人」、
エチオピアのアベベの、世界を驚愕させたデビュー・シーンだったのだ。
岡田氏いわく、「古代と現代が直結する〈永遠の都〉
ローマならではの光景であり、私の耳には、ローマ軍の戦車のわだちの音と、
アベベのはだしが石畳を踏むひたひたという軽やかな足音とが
交錯して聞こえてくる思いであった」
そしてアベベは40qを過ぎた地点でラジを追い抜き、
そのままぐんぐん引き離してゴールインした。
この年、ぼくは中学一年生で、アベベ優勝のニュースは確かに覚えている。
しかし、裸足で走るレースの模様はテレビで見ていたはずなので、
このときのラジオ放送についてはまったく知らない。
いま思えば、録音とはいえ刻々の伝達から受ける感動は、
この岡田氏のラジオ放送からの方がはるかに大きかったのではなかろうか。
前回にひきつづき、残念至極なのだ。(つづく)

90・第二放送とVOA。どちらも聞けてないのが残念です。
前回につづき、NHK東京のスポーツアナウンサーだった岡田実氏の、
『勝利者たち・マイク越しの戦後スポーツ史』から紹介させていただく。
終戦後、日本のマスコミ(新聞、放送、出版)は、GHQの一部局である
民間情報教育局(CIE)の監理指導を受けることになった。
この場合の放送とは、もちろんテレビは未放送だし、
ラジオの民間放送もまだ始まってなかったから、NHKラジオのみを指す。
そして、戦前の軍部の横暴を告発する政治宣伝番組「真相はこうだ」が、
そのCIEの指示のもとに制作されたことは、当方も知っていた。
しかし、「第二放送の午後の長い空き時間に目をつけ、
これをスポーツ放送で埋めるように指示してきた」という話は知らなかった。
氏の記述によれば、当時の第二放送は午前中の番組は正午までで、
夕方六時前に再開されるまで、午後は放送休止になっていたのだそうだ。

それをプロ野球をはじめ、アマチュアスポーツも含めて、
「ほぼ全面的に」スポーツ番組で埋めるよう勧告され、
「戦前、スポーツが盛んであったときも、このように
連日スポーツ番組を放送することはなかったのだから、
NHKにとって、これは空前のスポーツ番組ラッシュとなった」という。
そのため急遽スポーツアナウンサーが増員養成され、
その一人となった岡田氏も、野球、ラグビー、バスケットボールなど、
様々なゲームを放送していくことになる。
ぼくは1948(昭和23)年の生まれだから、
こういった戦後初期のことは知るよしもない。しかし、いま紹介してみると、
「占領軍が日本人を骨抜きにするため、3S
(スポーツ、スクリーン、セックス)を流行らせた」という俗説は、
こういうところから生まれたのかとも思う。なぜなら、
午後の空白時間を埋めろという勧告はわかるとしても、
それを連日べったりとスポーツで埋め尽くすべき理由はないからだ。

一方、その数年後の1951(昭和26)年から三年間、
岡田氏はアメリカ国務省からの要請による派遣チームの一人に選ばれ、
VOA(ボイスオブアメリカ)の日本向け放送にも従事している。
これは 「終戦で中断していたが、サンフランシスコ講和条約を機に、
六年ぶりで復活したもの」で、「戦争中の謀略放送と違って、
アメリカの事情を正しく日本国民に伝えようという」意図があったという。
最初の「大仕事」は、大リーグのワールドシリーズ実況放送で、
この年はヤンキース対ジャイアンツという、ニューヨーク球団どうしの対決。
両本拠地は地下鉄で二駅くらいなので「地下鉄シリーズ」と呼ばれ、
市民が大熱狂したのだそうだ。放送は実況録音方式で、試合終了後、
3時間ほどの録音テープをすぐさま1時間番組に編集し、
つなわたりで放送時間に間に合わせていた。
アメリカの電池式録音機はときどき回転ムラを起こし、
日本の手巻き式の方が「余程マシであった」とも書いてある。
このあたりになると当方も幼児期だが、家のラジオで
VOAがかかっていたはずもないから、何の記憶もない。
そして父親の転勤先新潟市で小学校に入学したのが、
早生まれだから1954(昭和29)年の春。近くに米軍の通信基地があり、
四六時中強力な電波が発せられていて、ラジオのダイヤルをまわすと、
ちょうどNHK第二放送のあたりで「バリバリバリッ」と物凄い雑音が入った。
だから、もし「スポーツ番組ラッシュ」がこの年代までつづいていたとしても、
ぼくはそれを聞けなかったことになる。
リアルタイムで耳にしたかったなあとは思うのだが。(つづく)

89・上井草球場の帽子アナウンサー。
戦後史の本は、政治、経済・文化・風俗など、
まざまな分野のそれを読んできた。自身が団塊世代の一員だから、
自分史と重なる部分が多くて興味深く、勉強にもなるためである。
そのなかの一冊、『勝利者たち・マイク越しの戦後スポーツ史』
(岡田実、晩聲社、1982年発行)は、NHK(東京)で
スポーツアナウンサーだった著者の、体験的スポーツ放送史である。
もうとうに故人になっておられるが、氏は太平洋戦争中に入局し、
終戦後のスポーツ復興期(テレビ放送開始以前のラジオ時代)から、
アマチュアならびにプロの各種競技(ゲーム)を放送してきた。たとえば
終戦翌年の昭和21年春、東京六大学野球を実況中継した話があって、
上井草球場という、いかにも都内ローカルらしい名前の球場が出てくる。
神宮球場は進駐軍のレクリエーション用に接収されていたためだそうで、
多分、東京都か杉並区かが運営する、よくある公営施設だったのだろう。

そしてその体験談には、次のような記述がある。
「上井草球場というと、私の頭にまっさきに浮んでくるのは
猛烈な砂ぼこりである。とくに春特有の強い風が吹く日は
たまったものではない。屋根のないスタンドの最前列の中央に
放送席があったのだが、頭から全身まともに砂ぼこりをかぶってしまう」
「当時の古い写真を見ると、私たちスポーツアナウンサーは、
ソフトやハンティングなど、好みによって違うが、
ともかく全員帽子をかぶっている。これはお洒落のためよりも、
むしろ球場の砂ぼこりよけのためだったのである」
開高健氏の自伝的小説『夜と陽炎』のなかに、昭和30年代前半、
氏がこの井草地区(当時は矢頭町)に転居したとき、あたりは雑木林、
麦畑、キャベツ畑ばかりだったという意味の記述がある。
岡田氏の体験はその10年余り前だから、さらに田舎的だったのだろう。

こういう事実は、当事者の証言が残ってなければ推測のしようがないことで、
現在の杉並区や上井草しか知らない人が「全員帽子」の写真を見ても、
お洒落のためとか、精々、「直射日光が強かったんじゃないか」
くらいにしか思えないはずなのだ。しかし、上記の引用文中で岡田氏は、
「喋っている口の中がざらざらになる日もあったくらい」とも書いている。
ちなみに東京六大学野球はその後、進駐軍の許可が得られれば、
神宮で一部開催できるようになったという。
しかし、球場そのものが全面返還されたのは昭和27年
(講和条約発効の翌年)だそうである。この岡田氏の本、
ラジオやスポーツ放送に関する興味深い記述が多いので、
あと何回か、題材にさせていただくことにする。(つづく)

88・「笑い」は、その国の自由度をも表す。
韓国の連合ニュース、その日本語版サイト(11/09/16)によると、
『平壌で受信可能なラジオ放送、わずか二つ』とのことで、
国内向けの「平壌FM放送」と、国内外向けのAM「平壌放送」だそうだ。
元になった情報は、北朝鮮関連ウエブサイト
「ノースコリアテック」が流したもので、マーク・フェイヒーという
オーストラリア人が平壌に滞在中、ホテルのラジオで確認したという。
もちろん距離的に近いから、夜間など北朝鮮各地に、
韓国、中国、ロシア、日本、それぞれのラジオ放送が入るはずである。
しかし、一般家庭のラジオはそれらが聞けないようにセットされており、
秘かに改造して聞いていることがわかると検挙されるらしい。
このあたり、以前ナチスドイツのラジオ放送の項でも書いたように、
独裁国家の「定番」対応である。そこで韓国の脱北者団体などは
巨大なバルーンを飛ばし、各種宣言や暴露情報を記したチラシとともに、
1ドル紙幣やポケットラジオも乗せて、北朝鮮国内に送り込んでいる。
一方、同じバルーンによって、あるいは中国国境地帯経由で、
韓国の人気テレビドラマを収録したDVDが大量流入し、
それを見た若者たちの間で、登場人物たちのファッションを
真似するのが流行しているともいう。となるとテレビの場合、
普通のドラマやドキュメンタリー番組のなかに、韓国の一般家庭、
繁華街、ショッピングセンター、大型レストラン、オフィス、
大学構内等々のシーンをさりげなく使用していけば、北の国民に、
作為的な宣伝番組以上のインパクトを与えることが期待できる。
事実ほど強いものはないわけで、韓国政府や放送関係者たちも、
そんなことは先刻承知と、とうから実行しているのかもしれない。

対して映像のないラジオの場合、どんな「事実」音声が
インパクトを与えるかであるが、まずニュースや報道番組では、
選挙や政局や景気について街頭でインタビューし、
生活者のナマの声を伝えるということが考えられる。もちろん、
賛成、反対、批判、提言など、まったく自由であるのが前提となる。
音楽番組やスタジオ番組で、リスナーからのメッセージを
ふんだんに紹介するのも、日々の生活感を伝える意味で大いに結構。
そして娯楽番組では、ぼくは韓国の演芸事情には無知なのだが、
漫才、漫談、浪曲、講談、そういった芸があちらにもあるのなら、
その「お笑い」部分が有効だろうとも思う。
自分や家族や友人たちの日常生活をネタにする。
あるいは、けしからん政治家や高級官僚をコケにする。
するとそこに、それを聞いた観客多数の笑い声が入る。
そんな流れがそのまま、「自由」を表す音声になるだろうからだ。
ただし、番組制作者がそれらを意識しすぎると、
宣伝臭が強まって嫌味なものになる。といって、
普通の番組を普通に放送しているだけでは、
この場合に伝えたいことの情報密度が「薄く」もなる。
自然体、無手勝流、宣伝ではない宣伝。なかなか難しいものなのだ。

87・単発の特番でなら可能だろうが。
ペリー・メイスンといえば、
E・S・ガードナーの推理小説に出てくる弁護士。
そのシリーズはアメリカのCBSテレビでドラマ化され、
日本でも吹き替え版が人気を博した。またそれ以前に
同じCBSで、連続ラジオドラマにもなっていたのだそうだ。
第二次大戦真っ最中の1943(昭和18)年にスタートし、
戦後の1955(昭和25)年までつづいたという。
法廷における検事との対決場面など、
どんな緊迫感を出していたのか聞いてみたいと思うわけだが、
こういうシリアスな法廷ドラマや探偵ドラマ、
いまこの時代にラジオでやろうとして、やれるものなのかどうか。
以下は当方の推測であるが、現在の日本の民放ラジオ局にとって
最初の大きな関門は、原作の著作権使用料問題だろう。
海外の作品を使うとすれば、交渉はエージェントがやってくれるが、
使用料が予想以上に高いはずである。日本人作家の作品でも、
エージェントや日本文藝家協会など、しかるべき団体に
交渉を委託している人が少なくないから(me too)、
「なあなあ」ですますわけにはいかず、一定の支払いが求められる。
よほど太っ腹なスポンサーのつく予定がない限り、
企画はこの段階でぽしゃってしまう率が非常に高いと思うのだ。

また、その関門をクリアーできたとして、ラジオドラマ化するには、
脚色担当のシナリオライターを頼まなければならない。
仮に週一回放送で一話完結のシリーズドラマにするなら、
そのライターには仕事レベルのコンスタントな高さが求められ、
となると駆け出しを使うわけにはいかないから、
ギャラのランクも当然高くなる。でもっていよいよ収録となると、
上記ペリー・メイスンを例に取れば、メイスン本人、女性秘書のデラ、
友人の探偵ポール、弁護を依頼してきた人、検事、判事、
少なくともこれくらいは登場させなければならない。
日本人作家の作品だとしても、あるいは法廷物や探偵物でなくても、
登場人物が毎週二人か三人だけということではあまりに貧弱過ぎる。
そこで、それなりのイメージを構築できるだけの出演者、
その人数分のギャラ、スケジュール調整、
本読みからランスルーそして本番へと至る収録の手間等々、
しかもそれが毎週なのであると考えていくと、
予算面にせよ制作スタッフ面にせよ、
いまの民放ラジオ局にはほとんど不可能なことだと思えてしまうのだ。

そしてここまで考え、あらためて思ったのは、
「としたら、子供向けなら赤胴鈴之助や少年探偵団、
大人向けなら、うっかり夫人ちゃっかり夫人、サザエさんなど、
往年の民放ラジオで流していた連続放送劇。
あれらは、どうやって制作していたんだろう」ということだ。
原作料、脚本料、複数出演者への出演料、
外部スタッフやアルバイト人員がいたのならそのギャラ等々。
要するに上記の諸問題は予算の潤沢さに帰結し、
それは確実なスポンサーがつくことによって保証される。
まさにそんな背景があったに違いなく、
本格的な連続ラジオドラマを聞いてみたい当方、
「ラジオにとって、実に結構な時代だったんだなあ。
おのれ憎いはあのテレビ」と、怨みがここへかかるのだ。
まあ、そのテレビも現在は予算面での苦戦がつづき、
次第に連続ドラマが作りにくくなってきているようだが。

86・半村説。私は指針のひとつにさせてもらいました。
3月11日の東日本大震災発生直後、このラジオ雑談室で、
ニッポン放送の報道特番のことを書いた。特番のなかで
随時流された、「学校安否情報」についても触れておいたのだが、
8月30日の産経サイトによると、同局が
そのシステムを構築したのは「約30年前」なのだそうだ。
そして「今回の震災が初運用となり、2日間で
対象672校のうち約150校が活用した」とのこと。
有用なシステムを作っておいたのは、高く評価できることだと思う。
また同じ記事中には、「昔から災害が起こるたびに
『ラジオって大事だ』といわれるが、やがて忘れられるのも通例だ」、
「だからこそ、聞き続けていただく努力を続けなければ」との
東北放送ラジオ局長の談話、同じく、震災時に限らず
「普段から(ラジオを)持ち歩いてもらえるよう、
親しまれる放送を続けなければ」という、
ラジオ日本の編成営業推進部長のコメントも載っていた。

そこで思うに、「普段から持ち歩いてもらう」件については、
ハード面では機器の小型化軽量化や価格の低廉化、
あるいは各種モバイルへの受信機能組み込みなど、
すでに実現していることや、実現できることばかりだから、
前提条件は大方満たされていると言える。
しかし、「聞き続けていただく」ための
「親しまれる放送」というソフト面になると、
景気動向、スポンサーの意向、番組予算、人員等々、
背後に問題が多々控えている。そしてそのなかには、
制作者とリスナーとの、「経験、知識、感覚のズレ」という問題も
含まれているのではないかと、ぼくは考えている。
だから、それに関して参考になればと思って書くのだが、
当方の若い時代に半村良さんが、
「なぜ学生時代には小説を読んでいた人たちが、
社会人になり年齢が上がっていくにつれて、
読まなくなっていくのか」、というエッセイを書いておられた。
要点を紹介するなら、仮にある読者がサラリーマンになったとして、
彼は5年10年と働くうち、業界知識、人間模様、現実の社会の姿、
世の中の裏表に関する生の様相などを、たっぷりと学習させられ、
吸収させられていく。そうなると小説に書かれていることなど、
経験不足、認識不足、勉強不足が見え見えで、
読むのが馬鹿馬鹿しくなってくる。だから作家は、
そんな彼らにも納得してもらえるような、
リアルで読み応えのあるものを書かなければならず、
そのための勉強と努力をつづけなければならないのだ……。

とまあ、こういう論旨だったのであるが、
ラジオの番組制作者にも(それ以上に、テレビの制作者にも!)、
これは当てはまることではないかと思う。
「だけど、おれたちだってサラリーマンなんだから、
世の中の様相や人間模様は知ってますぜ」と、
放送局員は言うかもしれない。しかし実は、
放送業界(広くはマスコミ業界)の社員というのは、
雇用形態としてはサラリーマンに違いないけれど、
世間一般の企業に勤めるサラリーマンたちと
同種同類のサラリーマンであるかというと、
そうではない部分が少なからずある。
詳細な例証は省くが、大まかに言えば放送局の社員は、
「世間の多数派サラリーマンたちが思っているサラリーマン」
ではないのである。それが上記した
「経験、知識、感覚のズレ」を生む一因になっていると、
ぼくは思い、局の社員におけるその事実認識と自己修正が、
番組企画にも必ず生きてくるはずだと考えているのだが、
さて、そもそもこの主旨が伝わり、真意が受容されるかどうか。

85・まして相手側は記憶のキの字も?
ラジオ番組のゲスト依頼は、よほどの支障がない限り、
快諾してきた。関西エリアのAMでは、さすがに和歌山放送は
「遠隔地」だからか依頼されたことがないが、それ以外、
朝日、毎日、ラジオ大阪、ラジオ関西、KBS京都、NHK大阪、
それぞれ呼んでもらっている。ただしゲストというのは、
局の制作者側から見れば、番組の特定コーナーに
「はめこんで」登場させる人間である。だから
「はめこまれる」側にすれば、仮に生ワイド番組だとして、
すでにそれが始まっている時刻に局に入り、
しばらく待ってから出演して、まだ番組が終わってない時刻に、
局を出ることになる。よって番組全体の特性や雰囲気などは、
ほとんど記憶に残らないことが多い。収録の場合には、
まさにその「はめこみ」部分だけを録るのだから、なおさらだ。
もちろん、道上洋三、和多田勝、浜村淳、やしきたかじん、
梨木加代子、角純一、桂九雀、桂都丸などなど、
迎えてくれた方々の名前や印象はちゃんと覚えている。
しかし、それが何というタイトルの番組だったかとなると、
いまとなっては思い出せないものが大半なのだ。

FMについても同様で、FM大阪で真夜中の放送に出て、
確かわかぎえふさんが一緒だったとは覚えているが、
どんな番組であったのかはまったく記憶にない。
若い時代、上京時に遠藤泰子氏の番組に呼んでもらい、
リクエスト曲として「ナイト・ウォーク」をかけてもらった。
彼女もカントリーファンだということで、
話が盛り上がったのを覚えている。しかし情けないことに、
または申し訳のないことに、FMだったとは思うけれど、
どこの局の何という番組であったのかは霧の彼方なのだ。
とはいえ、KissFMで筒井康隆さんの番組に呼んでもらったとか、
NHKのFMで、はかま満緒氏の番組に呼んでもらったとか、
光景や雰囲気をよく覚えている例もある。

しかし、AMに話をもどして、日本SF大会開催中の会場に
約束に従って電話が入り、当方とあと二、三人のSF作家が
順にインタビューに応じていたのは、
いつのことだったか、どこでのことだったか。
そしてその番組は、NHKの東京制作だったのか、
それとも大会開催地だった県のローカル枠だったのか。
あるいは、新潟放送から過去に一度だけ依頼があり、
生ワイド番組に電話出演したのであるが、話しぶりによると
先方は、新潟は当方が小学校低学年期を過ごした
思い入れの深い街なのだということを、知らないようだった。
ならば、どういう意図で、わざわざ大阪まで電話してくれて
インタビューということになったのか。
肝心の会話の内容を覚えていないため、狙いが何だったのか、
見当もつかなくなっているのである。

84・モード番組、ファッション番組、スタイル番組。
若い時代、あるラジオ番組のゲストインタビューで、
著名な服飾デザイナーに話を聞かせてもらったことがある。
そのとき教えてもらった、モード・ファッション・スタイルという
専門用語の使い分けに大いに納得し、その場で覚えてしまった。
それによると、モードというのは、デザイナーが提案する
新しい思想や表現やその試作具体例。
ファッションというのは、その提案が消費者に受け入れられて
流行しだしたとか、現に流行しているもの。
(だから実は、ファッションショーという言い方は間違いで、
本当はモードショー。モードの提示でないと、意味がない)
そしてスタイルとは、年月の経過とともに過去のファッション事例が
蓄積され、消費者が自由に選べるようになった定型、
もしくは数多い定型のうちのひとつ。
記憶で書いているので、厳密にこれで合っているかどうかは
保証の限りではない。また、これが服飾業界全体で
通用している分類なのか、それとも、教えてくれた人の
提言的区分なのかは、確認しなかったのでわからない。
しかし、実に理解しやすい使い分けであり、
ミニスカートやパンタロン以下あれもこれもそれも、
モード→ファッション→スタイルというこの流れのなかに、
きれいに収まるのだ。そして同時に、
これはさまざまな創造分野に応用の効く捉え方であるとも思う。

早い話がラジオの番組編成や制作に、
このパターンを当てはめればどうなるか。
たとえば改編期ごとに各局が出してくる新番組は、
「新」とついていても、内容的には必ずしもモード番組ではない。
日々の現実の生活者に向けて流すのだから、
それはむしろ当然のことで、次から次へとモードを繰り出されたら、
リスナーは気分的に疲れてしまうのだ。とはいえ、
上記「モード→ファッション→スタイル」の推移例を
モノサシに使って考えれば、それら新番組と並行して、
別のどこかで小粒ながらもモード番組を作っておくとか、
定番的な番組中にもモード枠を作っておくとか、
そういった姿勢も、長い目で見れば必要だろうことがわかってくる。
また、ある時間帯のリスナー特性から考えれば、
そこではスタイル番組の方が受け入れられやすいのに、
ファッション番組にしてしまっているとか、その逆であるとか、
そんな分析や判定も、このモノサシを使えばやりやすくなる。
したがって、そうやって全曜日の全番組を再チェックしていけば、
「各々その処を得させる」作業が、より良く、
リアルにできるはずだと予測もつく。それらは実際には、
「プロの経験」「現場の勘」で処理されている例が多いと思うが、
こういった「概念」のモノサシは共有できるし応用範囲も広いので、
意識的に使えば大いに有効であろうと思うのだ。

83・自己表現の欲求自体は結構なのですが。
先般(2011年7月19日)、東京の日野市で
無線機メーカーに勤める45歳の男が、
ミニFM局を無免許で開設し、電波法違反で逮捕されていた。
何と1999年頃から週末に音楽を流したりしており、
ファンがついていたのか、リクエストも
一日100件を越えることがあったという。
読売新聞のサイト記事によれば、『調べに対し、
「リスナーの反応がうれしくてやめられなかった」と供述している』
とのことなのだ。そして、ネットで関連記事をチェックしてみると、
無線のプロだけにか、ときには出力40Wで放送したこともあったらしい。
「そら、捕まるわ。無茶しよるな」であって、
他の電波への悪影響が目に余ったのかもしれない。
なにしろ、正規のコミュニティFMの出力が10Wあるいは20W。
AM放送で記者やレポーターが現場からスタジオに声を送る
ハンディ型の無線機器など、わずか5Wでやっているのだからな。

で、それはともかく。解説記事によればこのミニFM、
本来は微弱な電波でやるので電波法には抵触せず、
開局許可も不要であったため、1980年代にブームになったのだそうだ。
ブームという言葉が使われているところを見ると、その後すたれたとか、
いまは非常に少なくなったとか、そういう推移なのだろう。
それで連想するのは、当方が若い時代にブームになっていた
ミニコミ誌紙のことで、ちょっと文章が書ける、イラストが描けるといった、
マスコミ系あるいは芸術系の大学生や専門学校生たちが、
バイトで稼いだカネを出し合って、よくパンフレットや
小冊子形式のそれを発行していたものだった。当時、
ワープロもなければパソコンもなく、コピー機も普及していなかったから、
一定以上の部数を作ろうと思えば、謄写印刷や
タイプ印刷などの業者に頼まなければならない。
まともな活版やオフセットでやるとなると、さらに見積額が跳ね上がる。
これは、小説や詩を書きたいという人たちの同人誌についても同様で、
そうやって高いカネを払って刷ってもらったやつを
学校内で売ったり街頭で売ったり。大抵は売れ残って資金も続かず、
自然消滅していくのが大半だったのだ。そしてその根底にあったのは、
自己表現の欲求、コミュニケーションの欲求、プラス「獲らぬ狸の」的な、
プロ世界からの評価や高収入への夢も含まれていたと思う。

ミニFMがブームだったという80年代、
それをやるのにどの程度のカネが必要だったのかは知らないが、
心情としては70年代前後のミニコミ誌紙と、
共通するところがあったのではなかろうか。
現在はネットの時代だから、個人またはグループによる
雑誌、単行本、写真集、音声、映像作品等々、
すべて画面内でいくらでもできるし、
制作や発信に必要なカネも格段に安くなっている。
その結果としての百花繚乱は結構だが、
垂れ流しが激増したことも確かなので、やはり
費用面の「ハードル」は高めの方が良いのではとも思うのだ。

82・ラジオはおもろいで。なあ、かんべちゃん!
2011年7月26日、小松左京さんが亡くなられ、
突然の訃報に揺れた心が、まだ落ち着いていない。
だから今回は、小松さんとラジオに関する当方の体験記憶を、
いくつかメモ的に列記させていただくことにする。

☆ぼくが脱サラして間もない頃、小松さんも一緒の酒席で
ラジオの話題が出て、これは多分、往年のラジオ大阪の人気番組、
小松さんと桂米朝師匠がやっておられた、
『題名のない番組』の話がメインになっていたと思う。そのとき当方、
「自分もラジオが大好きで、いまも深夜放送の愛聴者である。だから、
いつか番組をやらせてもらえたらなあと思ったりしているのです」
とまあ、そんなことを言ったらしい。こちらはそのまま忘れていたのだが、
小松さんは覚えていてくださったらしく、後日、
ラジオ大阪から初めてゲスト出演か何かの打診電話があったとき、
「小松さんからうかがいましたけど」という前振りがあったのだった。

☆同じラジオ大阪で、小松さんが持っておられた30分番組、
週一回放送でゲスト対談をメインとする収録番組に、
小松さん超多忙につき三カ月だったか半年だったかの代役、
いわゆる「トラ」を務めさせてもらったこともある。前に書いたことだが、
六代目・笑福亭松鶴師匠のお話を伺えたのは、この番組だったのだ。

☆このトラを務めた番組のディレクターは近藤さんという人で、
小松さんからは「近スケ」と呼ばれていた。
上記『題名のない番組』の進行役は
菊池美智子さんという局アナで、愛称がミッチー。
小松さんもお気に入りのアシスタントだったそうで、
しきりにミッチー、ミッチーと呼んでおられたという。
また、ラジオではないが、関西テレビのOBで、
現役時代、米朝師匠や小松さんの番組を数多く制作し、
お二人とはツーカーの仲になった古吟(こぎん)さんという人がいる。
小松さんの呼称では、普段は「吟ちゃん」、ときどき「吟公」になっていた。
こんな具合の愛称や通称を、多方面の仕事相手に関して、
いったいどれだけ持っておられた人だったのかと思う。

☆これまた当方の駆け出し時代の話であるが、
毎日放送ラジオの小松さんがやっておられた番組で、
その横にくっついて、ときどき口をはさむとか茶々を入れるとか、
そんな役割で週一の番組にレギュラー出演させてもらったこともある。
進行役の女性アシスタントはついていたから、当方、
別にいなくても番組には何の支障もない存在だったのだが、
これも多分、小松さんが局の担当者に、
話を通してくださった結果だったのだろう。

☆この番組は、小松さんのスケジュールやゲスト依頼の都合上、
毎日放送東京支社のスタジオで収録することが多く、
そのときにはぼくは日帰りで上京していた。
その日のこちらのスケジュールはそれがすべてであるのだが、
あるとき遅れてスタジオ入りした小松さん、
「すまんすまん。文部省で講演してたんや。
夕方からはまた肩の張る会議があるよって、そういうときには、
こうやって気分転換の仕事をはさんどくねん」

☆余談ながら、この番組で半村良さんにゲスト出演してもらったとき、
当方が会話のなかでついついくだらない駄洒落を言ったところ、
すかさず半村流の「突っ込み」が返ってきた。瞬間、
「あっ。これはまさしく、東京の突っ込み。
でもって、バーのマスターの突っ込み!」 
そう感じたことを覚えている。どんなのかというと、こんなのだ。
駄洒落を聞くなりニコニコッと笑い、同時にこってり気味の口調で、
「おもしろい! おもしろいねえ。もっと、なぁい?」

☆ともあれ、ラジオ大阪につないでもらった縁が数年後、
中西ふみ子アナウンサーに助けてもらって務めた土曜の朝のトーク番組、
『阪神サタデーインクローバー』に結びつき、さらにはずっとずっと後年の、
『むさし・ふみ子の朝はミラクル』へと育つことにもなった。
毎日放送ラジオにつないでもらった縁も、翌年だったか翌々年だったか、
新井素子さんと一緒に務めることになった、
これもまた東京支社での収録が大半だったインタビュー番組、
『おしゃべりトリップ』へと結実したのだ。

☆上記『朝はミラクル』が決まったときの、小松さんの言葉。
「ラジオ大阪は、わしの古巣やからな。
言うてくれたら、いつでもゲストに出るで」
そして後日、新版の映画、『日本沈没』完成試写会が
東京と大阪で同時開催された翌朝、東京のホテルに電話して
インタビューを収録させてもらった。多分、というより十中八九、
これが小松さんの、「古巣」への最後の出演になったと思う。
本業関係のみならず、この分野についても
大変お世話になりました。本当に、ありがとうございました。

81・どちらも好きなジャンルで嬉しくはあったけど。
昔、FM大阪に「上方FM寄席」という番組があった。
いま、ネットで検索してみると、落語マニアらしき人が、
「日曜深夜の30分番組」だったとブログで回想しており、
ということは後年、放送時間が変更になったのだろう。
ぼくがよく聞いていたサラリーマン時代には、
週休二日制などまだ欧米の話で、週末も昼過ぎまで働いていた、
その土曜日の夕方にオンエアされていたのだった。
司会進行役を務めていたのは今井音也という人で、
朝日放送出身のフリーアナウンサーであり、
同時に桂小米(のちの枝雀師匠)の弟子で
桂音也という芸名を持つ落語家でもあった。
「今井音也です。桂音也と同一人物なんですけど、
桂というこの名前は、落語のとき以外は
使ったらいかんように思いますので……。そんなこと、
どうでもええやないか。しょうもないこだわりは捨てて、
桂音也で売ったらええんや。悔しかったら売ってみい。
売れてへんやないかと、よう言われるんですけど」などと、
番組冒頭で言っていたのを、ぼくは何度も聞いている。
だから当時広告の仕事をしていた当方、
実はこの人とも名刺交換しているのだが、
それはラジオCMの収録時であったため、
「今井音也」名義のそれなのである。で、それはそれとして、
確か5時30分から6時までだったと記憶するその番組を、
毎週楽しみに聞いていたのであるが、そのときには大抵、
その前の、5時から始まるラテン音楽番組も聞いていた。

タイトルを思い出せないのが我ながら腹立たしいのであるが、
テーマ曲にはザビア・クガート楽団の
「ミザルー」が使われていたと覚えている。
それがBGレベルに落とされると、女性の声で
スペイン語の挨拶の言葉が入り、そのあと日本語になって
「こんにちわ。○○○○○こと、シガヤマセシュウです」とつづく。
ところがこの○○○○○部分、「ノブキイタ」と聞こえていたので、
当方、「何のことかな。シガヤマは多分踊りの志賀山だろうけど、
その人が信木イタとか何とか、別の名前を持ってるってことかな」と、
毎週不思議に思っていたのだった。
(なにしろ、局の公式サイトとかファンのブログとかネット検索とか、
そんなモノやコトなど想像もできなかった時代で、
出演者のことを知ろうと思えば、ラジオ雑誌の出演者名鑑号を買うか、
切手同封で局に申し込んで番組表を送ってもらうくらいしか、
方法がなかったんですからね) だから、上記の「信木イタ」が
正しくは「ノブキータ」というスペイン語風の愛称か何か(?)であり、
セシュウは勢州であって、その彼女が日本舞踊のみならず
ラテン音楽や文化にも詳しくて、トリオロスパンチョス公演の
司会役も務めた人であると知ったのは、ずっと後年のことなのだ。
そして、ラテン音楽から上方落語へ、志賀山勢州から今井音也へという、
自分自身にとって独特であった土曜日夕方のこの雰囲気を、
ぼくはいまでも、ザビア・クガート楽団の「ミザルー」を聞くたびに
おぼろげながらも再体感させられている。「明日は日曜だから、
今日は好きなだけ夜更かしして本が読める。明け方まで読んで、
昼前まで寝て。しかし午後から夕方、そして夜になるにつれ、
ああ、明日からまた会社かあと、心が重くなっていくんだよなあ……」 
それがわかっているだけに、土曜夕方のこの聴取時間帯、
ミザルーのメロディーだけで、早くも心がゆらいでいたのである。
ううむ。それにしても、その番組タイトルは何だったか。
提供スポンサーは心斎橋の川口軒(老舗の茶葉商)などと、
忘れてもかまわんことは覚えているのにな。

80・いそうな社員と、ありそうな対応。
以前、某落語家に聞いた話である。彼が居住する○○市にも
コミュニティFMがあり、そこに中年女性社員がいた。
コミュニティ局はどこもぎりぎりの人数でやっているから、
そのキャリアウーマン的な社員も営業から制作から、
すべて兼務のようなかたちで動いていたのだろう。
ところが落語家いわくは、「そいつ調子のええやつで、
仕事の話なんかもその場の雰囲気で、
口先だけで対応しよるんですわ」だそうで、あるとき、
ある女性ミュージシャンと意気投合したのか、
彼女をメイン出演者とする番組を立ち上げる話になった。
女性ミュージシャン、後日、そのための
スケジュール調整なども始めたというのだから、
相手の口ぶりは、「確約」を感じさせるものだったのだろう。
ところが社内事情か何かで支障が出たらしく、
その話はちゃらになった。それどころか相手から、
「そんな約束はしてません」というような対応をされた。
女性ミュージシャン、スケジュール調整によって逃した仕事や
断った仕事が発生していたから、損害賠償を申し立てるべく、
前からの知り合いである落語家に相談した。
落語家、他人事ながらカチンときたのか、局にクレームの電話をし、
すると社長が出てきて 「何で関係ないあんたに、
そんなことを言われなければならんのか」などと言う。

それに対して落語家は、「彼女に相談されたから、
その立場で電話をしてるわけで。また、おたくの会社は
○○市も有力な株主になってる。そして私はその市民なんだから、
局の姿勢についてクレームを言う権利はあるはずだ」云々と
理屈で攻め立てる。どうやら本気で怒っていたらしく、
以後も何度か電話をし、追及のFAXも送り、
「それでも、まだ非を認めんのですわ」と、
わざわざこちらにも電話してきたのだった。当方突然の長話にとまどい、
「それで、おれに何をせえと言うわけ?」と聞くと、
「いや。別に何もしてもらう必要はないんです。
いま、いろんな知り合いに電話して、こういうええかげんな局があると、
聞いてもらってるだけですから」とのこと。で、そのあと
なにがしかの月日が過ぎ、落語会だったかで顔を合わせたとき、
「あの話、どうなった」と聞いたところ。「なんぼ言うても
聞く耳持たんので、くそったれめと思ってました。ところがたまたま、
そこの番組のスポンサーだという社長と会うことがあったんです。
それでその話をしたら、その社長が局の社長に言うてくれて、
それで即解決ですわ」 以上、むかつくような、あほらしいような、
もしくは、情けないような、笑いたくなるような、
民放をめぐる力関係の縮図とでも言うべき事実談である。

79・アメリカ大使館ラジオ部(最終回)
『秘密のファイル』から引用させてもらえば、
[ラジオ部がつくった番組は週に五、六本。報道番組から、
ワイドショー、アメリカ文学を紹介するラジオドラマ、
科学番組「サイエンス・スケッチ」もあり、バラエティに富んで]いた。
そこで働いていた岡山卓史という人の回顧談によるなら、
[宇宙開発、環境問題など自由にやらせてくれた。
アメリカ的な民主主義を紹介した。長い目で見て、
アメリカと日本のためになると思った]という。
そして、著者の春名氏がアメリカ国立公文書館で発見した
国家安全保障会議の秘密文書によれば、
ラジオ部の活動に関する報告書中には、提供した番組の放送量は
全民放放送時間の5パーセントに達したという記述があるそうだ。
もちろん民放だけではなく、NHKもラジオ部からの番組を放送したと
明記してあるとのこと。よって春名氏の判定として、
[ラジオ部作成の多くの番組は、明らかに、
日本人のアメリカ観改善という初期の目的を達成した]とある。

ちなみに、アメリカ大使館のラジオ部長は初代がヘンリー・御所(ごしょ)、
二代目がフランク・馬場という人で、どちらも日系二世。
太平洋戦争中、前者はビルマ戦線で語学情報兵として勤務し、
後者は戦時情報局で日本向け放送の仕事をしていたのだという。
だから春名氏は、[ヘンリー・御所もフランク・馬場も戦時中、
日系二世の情報要員であった。二世情報要員の活躍は
戦時中だけにとどまらなかったのだ]と書いている。

まさにそのとおりであって、前にも書いたが、
アメリカは自分たちの国益のために、
文化交流の看板を掲げて、情報活動をしていたのだ。
[しかし、日本が高度成長をとげて、民間放送局は徐々に力を付け、
独自の番組を増やしていった。他方、ベトナム戦争の戦費がかさみ、
米政府の予算を圧迫していった。一九七一年、(中略)
ラジオ部から民放各局への番組提供は中止された]
始めたのも自国のためなら、中止するのも自国の都合による。
そしてこれもまた繰り返しになるが、そんなことは国際政治上、
国家戦略上、当たり前のことなのである。「もしソ連に占領されてたら、
彼らはどんな番組を大量提供してきただろう」などと、
ポリティカル・フィクション式の「I F」を考えれば、当方、
まだしも相手がアメリカで良かったと思う。しかし団塊世代の一員で、
あれこれ紹介してきた年少期記憶を持つ人間であるゆえ、
その「まだしも」という感想自体が、
洗脳されて育った証拠かもしれないのだ。
以上、春名幹男氏に敬意と感謝の意を表しつつ。(了)

78・アメリカ大使館ラジオ部(その4)
『秘密のファイル』には、アメリカ大使館ラジオ部が制作配布した
各種番組の具体例も載っている。たとえば
「ミート・ザ・ピープル」という30分番組は、
来日した著名人に三木鮎郎がインタビューするもので、
昭和38年(1963)には映画『ウエスト・サイド物語』の監督、
ロバート・ワイズも登場したという。
多分ダイジェストしたり一部を抜き出してだろうが、
[ワイズのインタビューは民放でよく使われた]のだそうだ。
来日した著名人を紹介する番組は他にもあり、
「ようこそ日本へ」という10分番組には、ボブ・ホープ、
ジョン・ウエイン、ウイリアム・ホールデンなどが出演したとのこと。
朝鮮戦争の前線慰問には人気俳優も多数起用されていたから、
そのときの収録だったのではなかろうか。
「どの番組も宣伝臭い嫌味はなかった。アメリカを理解して
好きになってほしいと思って働いた」というのは、
その三木鮎郎と一緒に番組を作っていた、
船山喜久弥という人の回想である。
また船山氏は、母の日にカーネーションを贈るという、
「恐らく、そんなアメリカの習慣を伝えたのは、
この番組が初めてだったのではないか」とも言っている。

さて。そこでであるが。当方の記憶のなかには、
これらの記述によって、「そしたら、ひょっとして
あの番組もアメリカ大使館ラジオ部が作ったものだったのか?」
と考え始めた番組がある。すでに記憶が曖昧になっているので、
新潟にいた小学校低学年時代だったか、豊中に転校後の
高学年時代だったか、そのあたりは明確ではない。
しかしとにかく小学生時代、学校から帰っての昼食前か後か
(つまり土曜の昼前後?)に聞こえてきていたと覚えているもので、
簡単に言えば、ドラマ仕立てで、世界の「おもしろニュース」を
短く何本か紹介する番組である。もちろん日本人の男女タレントが
日本語でやっており、たとえば
「イタリアのナポリで大金持ちの家に忍び込んだ泥棒が、
酒蔵にあったワインをついつい飲み過ぎ、
酔っぱらって寝てしまって御用となりました」といった話を、
台詞と音楽と効果音で、軽くテンポよくおもしろく、
ニュースの内容によってはおかしく聞かせていく。

聞いていた当時は子供だからわからなかったが、
いま、会話の雰囲気やテンポを思い出してみると、
その軽さはアメリカのコメディあるいはコントのものであって、
非常にバタ臭く、日本人離れしていた。
だからアメリカ大使館ラジオ部に、日本語もぺらぺらという
二世のライターか演出家がいたのではないかとも思えてくる。
第一、そんな内容そんな手法の番組を、当時の日本の民放局の
社員やスタッフたちが、ゼロから発想して制作していくべき
営業上または企画上の必然性がないし、世界のおもしろニュースを
どうやって収集していたのかという点にも疑問が残る。それよりも、
その番組は完パケで無料で提供され、東京のキー局が流して、
新潟か大阪の局が受けていたのだと解釈すれば、
すべてが腑に落ちるのである。(以下、次回)

77・アメリカ大使館ラジオ部(その3)
『秘密のファイル』によれば、[アメリカ大使館ラジオ部は組織的には、
広報・文化交流局(USIS)の下にあった。ラジオ部は、
大使館別館として接収された旧満鉄ビルの五階に陣取っていた]。
満鉄は戦前の特殊会社「南満州鉄道」の略称であるが、
このビルは霞が関にあり、『秘密のファイル』には、
[現在は商船三井ビルがたっている]と書かれている。
当時、アメリカ政府の機関である上記USISとともに、
CIAの東京支局も同じビル内にあったという。
こうやって組織名を併記すると、文化交流という言葉にも
裏がありそうに感じ、ラジオ部による完パケ番組の無料大量提供も、
決して好意や善意だけによるものではなかったのだろうと思えてくる。

無論そんなことは当たり前であって、敗戦国日本に対する占領政策を、
アメリカはアメリカの国益のために定め、実行して改訂もしていた。
親米、親自由主義。反ソ連、反共産主義。
その意識とムードを日本人に広く植え付けることこそ、
広報と文化交流の第一目的だったのである。
アメリカ人のやることだから間接的で洗練されたものだったかもしれないが、
同じ目的でソ連や中国(当時の略称でいえば中共)が、直接的
かつ野暮ったくそれをやれば、その活動は煽動あるいは洗脳と呼ばれる。
だから、前回引用させてもらったように、[出演者は、日本のラジオ、テレビの
草創期から活躍した大物俳優や司会者、タレントばかりで、
聞けば驚くようなそうそうたる顔ぶれだった]けれど、彼らは内心に
何かひっかかるものや忸怩たるものを感じていたのかもしれない。
その職歴や経験を、後年までオープンにはしない人が多かったそうなのだ。

著者の春名氏は、[大使館ラジオ部に勤務していたことを自分の履歴に
公然と書いていたのはいソノくらいのものだった]と書く。いソノは、
日本のDJのパイオニアでジャズ評論家だった、いソノてルオであるが、
逆にその事実を伏せていた人物として、インタビュー番組を担当していた
三木鮎郎があげられている。以下ピックアップさせていただけば、
国際ニュースを担当した宮城まり子、録音構成番組のナレーターを務めた
森繁久弥、フランキー堺。その他、横山道代、中村メイコなどの名前が出てくる。
ラジオ部から民放への番組無料提供、驚いたことに昭和46年(1971)、
当方が社会人になって二年目という年までつづいていたそうであるが、
60年安保、70年安保と、左翼知識人が大活躍(?)していた
その時代の雰囲気を思い出せば、当然こういう感想がうかんでくるのだ。
「なるほど。アメリカ大使館のラジオ部で番組をやってるとは、
確かに公言しにくかっただろうな。当時の左翼用語で言えば、
そんなの反動も反動、米帝の走狗ということになってしまうもんなあ」
そしてそれとは別に、下世話な興味で思ってもいた。
「だけどその分、ギャラは良かったんだろうなあ」。(以下、次回)

76・アメリカ大使館ラジオ部(その2)。
日本の民放ラジオは、朝鮮戦争がまだ継続中に開始された。
『秘密のファイル』の記述によれば、[電波に乗って、
明るいムードのアメリカの文化が全国の茶の間に
届けられるようになったのはこれ以後のことである]のだが、
[その裏で、アメリカの心理戦略が始動したことに
気付く者は誰もいなかった]という。どういうことかというと、
前回末尾に書いた「取材網の不備と音楽ソフトの不足といった悩み」、
それを補い助ける形で、[東京のアメリカ大使館が、
既製品のラジオ番組を制作して、各放送局に配布していた]のだ。
そしてそれは、放送のプロが作った本格的な番組で、
明るさやバラエティに富んでおり、しかもアメリカ本国から
音楽レコードが大量に送られてきていたため、
ジャズでもヒット曲でも、いくらでも使えるものだったという。

ここで思い出すことがあって、当方、
小学校入学から4年の終わりまでを新潟で送ったのだが、
市の中心部のビルにアメリカ文化センターという施設があり、
そこにはアメリカの本やレコードが数多く用意されていて、
貸し出しもしているという話だった。
ぼく自身は行ったことも借りたこともないけれど、
同じクラスの男子の父親がそこに勤めているとかで、
そんな話を自慢げにしていたのを記憶している。
ちなみに小学校入学は昭和29年(1954)4月で、
大阪の豊中へ転校した4年の3月末が昭和33年(1958)。
もちろん朝鮮戦争はとうに休戦になっていたが、
米軍は日本各地にまだいくらでもいたし、
アメリカ文化センターという名称やその語感は、
新潟の繁華街にあった映画館のネオンサインや
ハリウッド映画の看板と共通する、別世界的な印象を与えていた。
だから、ラジオから流れてくるアメリカのジャズやヒット曲も、
同等のイメージを生んでいたに違いないと思うのだ。

『秘密のファイル』によれば、[完成品の番組は無料だった。
各ラジオ局は、配られてきた番組をそのまま放送することができた。
番組の制作、提供者の名前は一切紹介されず、
聴取者は各放送局でつくられたものと思っていた。米大使館ラジオ部は、
まるで無料のラジオ番組通信社のようなものだった]とある。
もちろん、流されていたのは日本人が日本語でしゃべる番組で、
東京のキー局はそれを素材に使ってアレンジし、
ローカル局ではそのまま流すことが多かったそうだ。
[出演者は、日本のラジオ、テレビの草創期から活躍した
大物俳優や司会者、タレントばかりで、
聞けば驚くようなそうそうたる顔ぶれだった]というのである。(以下、次回)

75・アメリカ大使館ラジオ部(その1)。
『秘密のファイル』(春名幹男・新潮文庫)という実録作品があって、
サブタイトルは「CIAの対日工作」。上下2巻本で
それぞれが600ページ前後あるという、大変な労作である。
CIAの前身組織が行った第二次大戦前の対日活動から、
戦後の占領時代、さらにはそれ以降まで、各時代における
公然・非公然の活動例が満載されており、通読すると、日本が
アメリカの見えざる支配網にからめとられていることがよくわかる。
そして上巻の第六章は「日本改造」というタイトルで、
戦後の冷戦激化や朝鮮戦争勃発にともなう
占領政策の転換を扱っているのであるが、その第3節「思想改造」では、
民放ラジオとアメリカ大使館との関係も公開されている。
以下、今回を含めて5回ほど題材にさせていただくつもりなので、
まずは民放のスタートについて、簡単に紹介しておこう。
言うまでもなく 戦前の日本では放送はラジオのみで、
それも日本放送協会すなわち現在のNHKだけだった。
実質的には国営放送で、娯楽番組も流しはしたが、
戦争中は軍部の統制下に置かれたようなものだった。

そして敗戦から6年たった昭和26年(1951)の9月1日、
ようやく民間放送ラジオがスタートすることになった。
上記『秘密のファイル』には、
[民放の第一号は名古屋の中部日本放送(CBC)である。
午前六時半、「みなさん、おはようございます」で始まった
最初の番組はニュースだった]と記されている。
同日の正午に大阪の新日本放送が本放送を開始し、同年内に、
朝日放送、ラジオ九州、京都放送、ラジオ東京もスタートしている。
新日本放送は現在の毎日放送、ラジオ九州はRKB毎日、
京都放送はKBS京都、ラジオ東京はTBSであるが、
この6局で始まった民放ラジオが、翌年に18局、
翌々年には31局と順調に増えていったという。
[だが]と、『秘密のファイル』で著者は書く。
[揺籃期の民放には取材網の不備と
音楽ソフトの不足といった悩みがあった] そのあと文章は、
[実は、その欠点を補い、助ける形で、東京のアメリカ大使館が]
……とつづくのだ。(以下、次回)

74・サテライトスタジオは、いまもあちこちにありますね。
大阪駅が大改造され、アクティ大阪の高層ビルにも
新「薄型」ビルがくっつけられて、梅田のデパート戦争が激化している。
そのアクティ大阪の高層階に、以前、朝日放送のサテスタがあり、
当方一度、ここから放送するラジオ番組にゲストで出たことがある。
生だったか収録だったかも含めて詳細は覚えてないのだが、
桂べかこ(現・南光)氏の司会で、映画評論家の水野晴郎氏も
ゲストの一人だったから、何かの特番だったのかもしれない。
サテスタというと普通は前面がガラス貼りの狭いボックスを想像するが、
ここはライブコンサートやテレビ収録もできる広いフロアで、だから
通称もサテスタではなく、駅にあるスタジオで「エキスタ」と呼んでいた。
で、我々はステージ上で横一列に並んで座り、
観客多数がパイプ椅子に座ってそれを眺めるという、
そんなスタイルで番組を進めたのだが、
終わって帰ろうとするとスタッフが、「あちらの出口やエレベーターは
混雑してますから、こっちから帰ってください」と、
ステージの裏側にわれわれを誘導してくれた。ステージ裏手は
コンクリートむき出しの広くてがらんとした薄暗いスペースで、
誘導されるまでそんなスペースがあることに気がつかなかったのは、
これまた正確には覚えてないのだが、アコーディオンカーテン式の
仕切り壁でもあったのだろう。その殺風景さに思いうかんだまま、
「ここ、どこかのテナントが出たっきりなんですか」と聞いたところ、
相手は苦笑していわく。「そうじゃなくて、火災や大事故が起きたとき
観客に避難してもらうスペースです」 つまり、客がキャパシティ一杯に
入っている場合でも、その全員を移動させられるよう、
「表」部分とほぼ同じ広さのフロアが、「裏」に確保されていたのだった。
高層階・観客多数・火災発生。
そんなシーンを想像し、当方思わずゾーッとしていたのだ。

一方、そのアクティ大阪の南側斜め正面には阪神百貨店があり、
駅スタと時代がダブっていたかどうかは知らないけれど、
一階に長らくラジオ大阪のサテスタがあった。
こちらはまさにサテスタの見本のようなボックスで、
ぼくはここから生放送する番組に、
何度かゲストで呼んでもらったことがある。
そのうちの一回はちょうど春闘の時期だったのか、行ってみると
担当の局アナは時限スト中で出られず、
「代役がやりますのでよろしく」と言われた。
そして中年男性を紹介されて名刺を交換したら、
肩書きが人事部の管理職になっていた。
「えっ。何でまた人事部の人が。筒井さんの短編じゃあるまいし」
そう思ったのは、筒井康隆さんに『経理課長の放送』という作品があり、
それはストライキ中のラジオ局で代役が確保できず、
経理課長がアドリブでしゃべりだすという内容だからだ。
しかしいざ番組が始まってみると、番組進行にせよインタビューにせよ、
こちらは短編の経理課長と違って非常に滑らかで卒がなかった。
あとで聞いてみると、それもそのはず、元アナウンサーだというのだった。
なお、毎日放送も以前、阪急グランドビルの上層階に
ボックス式のサテスタを持っていた。
しかしそこには呼んでもらったことがないので、
当方のサテスタ経験、この2局で合計数回のみなのだ。

73・いよいよ、動き出すのでしょうね。
(↑ 最初からナンバーを振ってみたら、こうなりました。
   とりあえず、99か101まではつづけたいと思います)

今年(2011)の3月初旬、総務省は
「マスメディア集中排除原則」に則った省令を改正し、
ラジオ局の合併や統合を解禁すると発表した。以後、一ヶ月間
パブリックコメントを募集し、電波監理審議会にもはかったのち、
6月下旬からの施行をめざすという。
朝日新聞のサイトなどから報道内容をまとめさせていただくと、
これまでは少数の特例以外、ある放送局が別の局の株を保有しようとしても、
都道府県単位による放送エリアが同じ場合には10パーセント以下、
別エリアの場合にも20パーセントまでという制限がついていた。
しかし今回の改正では、ラジオ局に限ってその原則を適用せず、
ラジオ局は放送エリアにかかわらず最大4局の合併が可能、
また新聞社などの企業がラジオ局を最大4局まで保有できることになるという。
無論、その背景にあるのは全国のラジオ局の業績長期低下傾向で、
たとえば前に紹介したことだが、神戸のFM局が民事再生法の適用を申請したし、
名古屋の外国語FMは廃業してしまった。AMだってローカル局は赤字が目立ち、
大都市圏の局も低空飛行をつづける局が少なくないらしい。
だから、業績悪化や回復困難の実態に各社の経営陣が悲鳴をあげ、
もはや合併や統合を認めてもらわなければ業界全体の衰退につながるとて、
その総意として省令改正を要望し、総務省もそれにこたえたということだろう。

よって、以下は当方の推測であるが、すでに業界内部では
合併や統合の青写真ができつつあるのではないか。
そして、ケースによっては事実上決定しているのではないか。
鉄道の新線や巨大ダムなどが建設されるとき、
計画は我々が想像する以上に早くから立案されており、
各種交渉や法的準備が水面下で進められて、
全容が公表される段階にまでくれば、
あとはほぼ現実の工事のみとなっていたりする。
それと同じく6月下旬の施行以降、合併案や統合案が
次々に公表されだすのではないかと思うのだ。

上記した「放送エリアにかかわらず最大4局の合併が可能」というのは、
極端な話、東阪名九のラジオ4局をひとつにできるということである。
「新聞社などの企業がラジオ局を最大4局まで保有できる」というのは、
全国紙はもちろんブロック紙などが、持とうと思えば複数県で
AM2局とFM2局などの局を持てるということである。
それら種々の可能事例に、経営面、制作面、人材面等々、
どれだけのメリットがあるのか。大いにあるのか、ほとんどないのか、
かえってデメリットの方が大なのか。
それは場合場合によるとしか言いようがないわけだが、実は当方、
ある統合または合併発表を、その一例として予想している。
情報もデータも何も持たない部外者が、単に「活性化」可能の事例として
予想しているだけのことだから、社名を出すのは控えておく。
しかし、持株会社を作ってぶらさげれば、その複数各局のメンツも立つし、
経営や人材の面はもちろん、番組編成や制作の面でも
種々のメリットを創造していけると考える。本年後半以降、
仮に予想が的中すれば、また書かかせていただく。
書かなければ、素人の予想が外れたと思っていただきたい。

72・師匠である六代目松鶴師の口ぶりで言うなら、
 「頼みもせんのに、どっからともなく……」

昔々、ラジオ大阪が北区の桜橋にあった時代の一時期、
日曜深夜に『ぬかるみの世界』という番組を流していた。
出演者は笑福亭鶴瓶(つるべ)と放送作家の新野新(しんのしん)。
日付としては月曜になる午前零時から三時までの生放送で、
ときどき音楽をはさみつつ、両氏が延々としゃべりあう。
トークと言おうか、雑談と言うべきか、それとも
「うだうだ」話と言ったほうが正確なのか。なにしろ内容が
どう変化してどこへ到達するのか見当のつかない長話なのだが、
そこに独特の雰囲気があって人気番組になっていた。
当方も入眠に便利なので部屋を暗くしてベッドのなかで聞き、
そんなことをしゃあしゃあと書くのはお二人に対して失礼ではないかと
思う人がいるかもしれないが、このあとを読んでいただきたい、
入眠せず三時まで聞いてしまったことがいくらでもあったのだ。

そして、これは伝聞でしか知らないことなのだが、あるとき
その長談義のなかで新世界(大阪の下町にある歓楽街)が話題になり、
「何月何日の何時頃、二人でひさしぶりにその界隈を
ぶらぶら歩いてみようと思うから、気が向いたら皆さんもどうぞ」
という話になったという。洒落で「新世界ツァー」と称していたようだが、
正規のイベントではないし、プレゼントや抽選会があるわけでもないので、
番組側としては何十人とか、多くても百何十人とか、
そんな程度の参加者を予想していたらしい。ところが当日、
若いリスナーたちがぞろぞろうじゃうじゃと集まりだし、
何と二万とか三万とかいう規模の人数になって、あたり一帯、
人人人で通り抜け困難のぎゅう詰めエリアになった。
大勢の警官が来て雑踏整理をし、あとで番組関係者は所轄署から、
注意だか警告だかを受けたという話なのだ。

無論こういう動員は現在でも、人気歌手やタレントが番組で呼びかけ、
メールやツイッターで広めれば、いくらでもできるだろう。
しかしそれは「集めようと思えば」ということであり、上記の新世界ツァーは、
出演者二人が「集まるとは思ってなかった」ところに特異さがある。
そしてその吸引力の過半は、やはりラジオタレントとしての鶴瓶氏の、
キャラクターとカリスマ性だったのだろうと思う。それには傍証があって、
同じ時代のあるとき、KBS京都のラジオにゲストで呼んでもらったことがあり、
彼の番組だったのかそれとも当方と同じくゲストだったのか、
そこまでは覚えてないのだが、鶴瓶氏も一緒だった。
そのとき、以前からの知り合いらしいディレクターが雑談のなかで、
「鶴瓶ちゃん。〈教祖〉にはならんといてよ」と、
そこだけマジで本気に聞こえる声で言っていた。
時代の雰囲気とカリスマ性によって、
なろうと思えば、いつでもなれる状況だったのである。

71・「芸」になっていればまだしもですが……
UFOが着陸したとか宇宙人の死体が発見されたとか、
テレビの「疑似ドキュメンタリー」番組では、
ナレーションにもオーバーで思わせぶりなものがめだつ。
「それでもなおアメリカ政府は、彼らの来訪を、
否定しきれるとでも言うのだろうか」
「さらに取材を進めていた我々のところに、
そのとき衝撃的な情報が飛び込んできた」等々であって、
しかし内容はそう大層に言うことでは全然ない。前者は実は
エイプリルフールの冗談ニュース用に作られたUFO着陸ビデオ、
後者は「そのとき飛び込んできた」など嘘っぱちもいいところで、
もう何年も前に大衆紙に載ったガセネタだったりするので、あほらしくなる。
つまり、制作者は何とか番組を盛り上げようと必死に「煽って」おり、
しかしそれが見え見えなのでシラケてしまうのだ。
そして当方が感じるところでは、この種の番組に限らず、
またテレビほどではないにせよ、ラジオにおいても、
こういった言葉の「オーバーさ」や「煽り」傾向は少なからずある。

たとえば生ワイド番組のなかで出演者が、
「それについては、リスナーの皆さんからもメールをいただきまして、
昨日から局内で大変な騒ぎになっています」などと言う。
何事かと思ってよく聞いてみると、「伝統の○○手作り味噌は
××百貨店でも買えますよ」という話だったりするから、当方思わず
「その程度の情報で、大変な騒ぎになりますかえ?」と言いたくなる。
あるいは新番組スタートにあたって、メイン出演者が番組ホームページで、
「打倒○○放送!」などと宣言したりする。しかし、種々の条件を考えれば
そんなこと三年五年では絶対不可能だとわかる場合があるから、
「この人は、これを本気で宣言してるのか。だとしたら、
客観情勢を把握する能力はゼロじゃないか。そして
単に景気付けで言ってるんだというのなら、言葉だけが上滑りしてて、
無意味な告知になっておることよなあ」と、気の毒になってきたりする。
小説の場合、[扱うのがそういう世界だからその雰囲気を出すために]
という場合は別として、作者が読者を「煽る」ためにオーバーな表現をすれば、
それは作品としても作家としても二流三流と判定される。したがって
上記した事例あれこれ、プロパガンダ作家や書き飛ばしライターならいざ知らず、
まともな作家の視点や文章としては、まずおめにかかるものではない。
読者に与えたいのが興奮にせよ感激にせよ、作家はそれを、
「冷静」と「リアリティ」を土台にした言語表現で構築していかなければならない。
よってその立場にいる者としては、テレビはもちろん、
ラジオにおけるオーバーさや煽り傾向にも、違和感を感じてしまうのだ。

ただし活字でも電波でも、オーバーさや煽りが、
話を一層おもしろく効果的にしてくれるという場合はある。笑いのネタ、
もしくはマジな話題をシャレの手法で逆転処理していくときであって、
そういう場合にはこちらも各種のテクニックを使うし、
ラジオ出演者にもそれを期待する。しかし、事実を淡々と伝えるべき、
もしくはそう伝えた方がいい話題を、シャレとしてではなくマジで、
本人はそれが効果的だと思って、オーバーに煽り立てられると、
虚しくなるばかりなのだ。「大きなお世話だ。
そういうメディアなんだから、ほっといてくれ」と言われるかもしれないが、
テレビもラジオも、そういうメディア「なんだ」ということはない。
自分たちが、そういうメディアに「している」のである。

70・早い話が、「うさんくさい」送り手も多いからね。
デマやパニックという現象に関して、マスコミ論や放送論、あるいは
社会心理学などの教科書によく紹介されているラジオドラマがある。
1938年の10月、H・G・ウエルズ原作の「宇宙戦争」を、
オーソン・ウエルズが脚色してCBSラジオで放送したもので、
物語は、通常の音楽放送が突然中断されて臨時ニュースが入るという、
「いかにも」的なかたちの導入で始められた。
そして、そこは彼と某劇団とが毎週放送している時間枠であり、
番組の冒頭や途中には合計四回、これは、最初の音楽放送も含めて
ドラマである旨のコメントがはさまれていた。にもかかわらず、
本当に火星人が襲来したと思い込んだリスナー多数が恐慌状態になり、
各地の町と道路は避難する車や人で大混乱におちいった。
映像がなく音声だけのラジオ世界だから、恐怖の悲鳴、避難する群衆、
攻撃されて爆発倒壊する建物など、迫真の情景はいくらでもつくれる。
その「迫真」が「真実」として受け止められてしまったという、
マスメディアが持つ影響力の、恐い一面が顕在化した話なのだ。

ただし、『ウソの歴史博物館』(アレックス・バーザ、文春文庫)によれば、
この事件については長らく、およそ600万人が放送を聞き、
そのうち100万人近くがパニックを起こしたとされてきたのだが、
最近の調査では実際にはもっと少なかったらしいという。
だから嘘ということで言えば、ラジオドラマの「嘘」を本気にして
100万人近くがパニックを起こしたという、その話が嘘だったようなのだ。
また、そんな嘘ができあがった理由のひとつには、
[パニックの気配を嗅ぎつけるや、国中のメディアは
そのニュースに飛びつき、大げさに報じた]ということもあったという。
ただし、同じ『ウソの歴史博物館』には、それより12年前の1926年、
イギリスのBBCが流したコメディの話も載っている。
ロンドンで暴動が起きて拡大し、議事堂が砲撃されたとか
大臣が捕らえられたなどという内容だったそうで、
聴取者は本気にしてパニック状態になったという。
これもちゃんとフィクションであることを告げており、大臣の名前など、
架空のふざけたものがつけられていたにもかかわらずだ。
そして同書の著者アレックス・バーザは、CBSのパニックについては、
[異星人の侵略と見せかけたドイツ人の攻撃なのだ、と早とちりした者もいた]、
BBCパニックに関しては、聴取者は[ロシア革命のことが頭に浮かび、
イングランドにも同じ運命が襲いかかることを案じたに違いない]とも書く。
第二次大戦が始まるのはCBSパニックの翌年であり、
ロシア革命はBBCパニックの9年前に起きている。
「なるほど、なるほど」と納得しやすい記述であって、
このあたりが社会心理学の研究対象にもなるゆえんなのだ。

ついでに書いておくと、先に記した 『ラジオドラマの「嘘」を本気にして
100万人近くがパニックを起こしたという、その話が嘘であったようなのだ』
という件については、広告の世界にも似たパターンの話がある。
アメリカの広告業者が一般の劇場で公開されている映画のなかに、
「コーラを飲もう」とか「ホップコーンを食べよう」とかのメッセージを
一コマずつ何度かはさむ実験をしたところ、
売店でそれらの売り上げが顕著に上がったという。
サブリミナル(潜在意識)広告の事例として有名なエピソードであり、当方も
長らくそれを事実だと思っていたのだが、実はそんな実験などされておらず、
この話全体が広告業者の作った嘘だったのだそうだ。
どうもアメリカのビジネスマンや企業には、自己や自社の能力を誇示するため、
ときに平気で、ホラ話のような嘘をでっちあげる傾向がありそうに思う。
だから当方、上記ラジオドラマの話については、オーソン・ウエルズやCBSが、
事後、パニック話の嘘が広がり定着していくのを、内心ではほくそえみつつ、
黙認放置していたのではないかとも思っている。
アメリカンビジネスの基準において、それはいわば、
能力の証明、大成功の実績になることだからだ。

69・ナットソーワンダフルばあちゃん。
昔、上方漫才に、東五九童・松葉蝶子というコンビがいた。
女性の名前はそのまま読めるだろうが、
男性の方は難しいかもしれない。「あずまごくどう」と読む。
戦前からのコンビで、ぼくは中学時代か高校時代かに、
テレビの演芸番組で何度も見た記憶がある。
そしてその初老に見えた五九童は、顔が大きく鼻も大きく、
唇は分厚くて、背は低かったように覚えている。しゃべり方は、
大阪弁で言えば「まったり」しているということになるのだろうが、
「いらち」の当方にとっては、舌の厚くて長い人が、
わざとのたのたしゃべっているように聞こえた。
「古いタイプの漫才だな」と感じ、それ以上の興味は持たなかったのだ。
ところがずっと後年、誰の何という書籍だったかは覚えてないのだが、
概略こういう記述に接した。 「東五九童は、戦後のラジオ全盛期に
『ワンダフルばあちゃん』という連続ドラマに主演し、その独特の口調が
主人公のイメージにぴったりだというので人気を高めた。
そこでそのテレビ版も制作されたのだが、
カツラやメイクによるばあちゃん姿がグロテスクに映ったため、
こちらは敬遠されてしまった」云々。
それを読んだ当方、グロテスクとはひどい表現だなと思い、
しかしそのとおりだったろうなあとも感じて、
おかしいような気の毒なような気持ちになっていたのだ。

そしていま考えてみるに、これはラジオとテレビの特性を
実に良く示したエピソードだと思う。すなわち、ドラマの主人公、
この場合は「ワンダフルばあちゃん」という女性について、
ラジオの聴取者は人物像を「想定」しながら聞き、
テレビの視聴者は「実態」をそのまま視認する。
おもしろい。たのしい。ほのぼのする。
仮にそんな印象や感想を抱きつつラジオを聞いていたとしたら、
受け手がイメージする主人公像も当然、それに合った素敵なものになる。
しかもそれはリスナー自身が想像するのだから、彼または彼女にとって、
最も好ましい容姿や雰囲気をそなえたばあちゃんということになる。
ところがテレビは「もろ」の媒体だから、 「ラジオでおなじみ、
あの声あの口調のばあちゃん。その容姿と雰囲気はこうなんですよ」と、
送り手が作ったイメージをいわば押しつけてくる。その実態像が、
リスナーによる想定像と一致もしくは近似していればよかったのだが、
気の毒なことに違い過ぎていたため、それまでのファンも、
「理想」像と「現実」像の落差に引いてしまったということになるのだろう。

同じラジオ全盛期に、人気連続ドラマの公開録音サービスがよく実施され、
舞台の上手、センター、下手といった具合に並んだ複数の出演者が、
それぞれのマイクに向かい、台本に従って収録を進めていったという。
写真資料によれば、このとき彼ら彼女らは役柄の衣装やメイクではなく、
自分たち自身の服装や化粧で出ている。その方式なら、見せているのは
「素顔の出演者たちが客席に挨拶したあと、リハーサルや本番で、
見る見る登場人物に変化していく」という光景だから、
ラジオ世界の舞台裏を見せてもらえた客たちは感心も納得もしてくれる。
そしてその客たちが本来のドラマ世界に入りたければ、
眼さえ閉じればそれでOK。東五九童だって、
これならグロテスクとまでは書かれずにすんだに違いないのである。
ところがテレビの場合には、眼を閉じたとしても、
すでにグロテスク像を見てしまっており、かつ、映像あっての会話進行だから、
登場人物たちの台詞を聞くだけでは中途半端の感が否めないだろう。
つまるところ、いかにラジオで人気が出た主人公役とはいえ、
伝達の機能や効果が本質的に違うメディアに、
東五九童をそのままスライド起用したのがテレビ側の失敗だったのだ。
後年なら、連続アニメ漫画でばあちゃんの「ほのぼの」キャラクターをつくり、
その声を彼に担当してもらうという手もあったのだが、
まだテレビアニメの時代でもなかった。そう考えるとこの場合、
別の俳優を起用するか、それでは角が立つというのなら、
テレビドラマ化自体をあきらめるべきだったのだろう。

68・私企業の採算性と社会的責務との関係を論ず。
などと、大仰なタイトルを掲げたのは、ほかでもない。
今回の東日本大震災以降、ホームセンターや大型スーパーを
三店覗く機会があったのだが、乾電池や懐中電灯などとともに、
ポケットラジオもみごとに品薄もしくは売り切れ状態になっていた。
東北や関東に親戚や友人知人のいる人たちが、
支援物資のひとつとして買ったのか。それとも、
「いつまた、阪神淡路大震災の再来が」と思って自宅用に買ったのか。
とにかくがらんとした棚や展示台に、災害時におけるラジオの有効性が、
あらためて証明されたように思ったのだ。
そして以前、ある会合で議論したことを思い出していた。
携帯やネットの普及と景気の低迷により、マス四媒体
(テレビ、ラジオ、新聞、雑誌)はもう何年も苦戦をつづけている。
なかでもラジオが一番深刻で、たとえば2009年度は
民放ラジオ101社中、45社が赤字になったという。そんな実情を前提に、
ビジネスマンやジャーナリスト数人と議論していて、当方が言ったのだ。

「2011年以降に新しくデジタルラジオがスタートしても、
アナログのAMやFMはそのまま残ることになってる。その理由として、
やはり生活に密着した媒体だからという事実とともに、大災害のときの
情報伝達にはやっぱり強いからということがあげられたりするわけですけど、
しかしそれ、だから残せ、そのために残せという話になったら酷ですよね。
いくら公共の電波とはいえ、私企業が赤字をつづけながら、
アナログ放送を継続していかねばならん義務はないわけでしょう」
出席者たちがこたえていわく。「それはそうですな」
「全国各地にコミュニティFMが数多くできたのも、
阪神淡路大震災でラジオの情報伝達力が見直されたからだけど、
赤字のところが多くて、自治体の負担になってる三セクも少なくないらしい」
「確率的には何十年に一回くらいしか起きないというような、
そんな危機に備えて維持しつづけろということになったら、
ある意味、本末転倒ですからね」 そして議論は、こういう方向に進んだ。
すなわち将来、携帯によるメール受信や、
その携帯にも組み込まれる予定のデジタルラジオなどによって、
緊急情報が大多数の人たちに即時伝達できるようになったとしたら、
アナログのAMやFMでなければ情報を摂取できないという人たちは
少数派になるわけである。しかしそうなったときにも
私企業たる民放ラジオが、「緊急時の情報伝達」という責務のために、
アナログ放送を存続させていなければならないのかどうか。

すると一人が言った。「状況がそこまで変化したら、
AMにしろFMにしろ、アナログ放送による緊急情報伝達は、
NHKの役目ということになるんじゃないですか」。聞いた当方、
「あっ、そうかそうか。NHKがあったんだ!」と声をあげていた。
「アナログ聴取者が少数派になっても、NHKには
それを維持しつづける義務があるわけですね。
いまはラジオは無料でテレビ料金だけなのかもしらんけど、
とにかくカネを取ってるんだから」
一同ここでどっと笑って話に区切りがついたのだが、
これはアナログラジオ局の経営面から見た将来像、
そのデジタル放送への移行の可能性などについて、
シミュレーション的な議論をしたものの一部である。
したがって、現実にはここまでには至らないか、
至るとしてもまだまだ先のことであろうと思うので念の為。

67・ラジオは「霊妙なメカニズム」を稼働させてくれる。
雑誌『ノーサイド』1996年2月号より、
鴨下信一氏の卓見を、もう一度題材にさせていただく。
前回紹介した「当時のラジオには何でもあった」という部分のあと、
氏はこうつづけている。[こうしてなにからなにまであったラジオに、
なかったものは映像・画面だろうといまの人は質問する。
これも大きな誤解で、あの〈ラジオ・デイズ〉のラジオには
映像・画面がちゃんと付いていた]。もちろんこれは本当にではなく、
[スクリーンは聴いているぼくらの頭の中にあって、そこには
生々(いきいき)とした映像が必ず映し出されていた]という意味である。
そして氏は、たとえばプロ野球の中継を聴きながらリスナーは、
飛ぶ打球、追う外野手、スタンドに吸い込まれる白球等々、
白熱のシーンをそのスクリーンで鮮明に見ていたわけだが、
なぜそんなことができたのかとも考察している。
[おそらく新聞の写真、雑誌のグラビア、ニュース映画の短いショット
などを見て得た映像の断片が記憶に蓄積されていて、ラジオを聴くと、
その頭の中の映像素材がアナウンサーの描写にしたがって
さまざま形を変えながら動き出すという、
ひどく霊妙なメカニズムが出来上がっていたに違いない]
ちなみにニュース映画というのは、往年の映画館では
冒頭に短いニュース映像が何本か上映され、
そこには必ずスポーツニュースも入っていたことをさす。

おまけに当時の子供たちは、それら素材源に
ブロマイドや顔写真入りのメンコなども加えていたわけで、
「ひどく霊妙なメカニズム」は子供に対しては、
一層鮮明な脳内シーンを生みだしてくれていたのだ。
これは体験者たる当方の断言できることであり、しかも鴨下氏は
それに加えて、アナウンサーも今よりずっと描写力があったと書く。
[川上の打つ弾丸ライナーならば
「打ちました、ライトへライナー、大きい、入った」とアナウンスも短い]、
[大下があの虹のように高く舞い上がるホームランを打てば
「大きい、大きい、高く上がった、センターもうバックしない、
ゆっくりとボールはバックスクリーンに落ちてゆきます」
ボールの滞空時間とアナウンスの時間が完全にシンクロする]、
[口調も川上の時は鋭く早く、大下の時はややゆっくりと大らかである。
これがアナウンサーの描写力であり、技術だった]云々。
いま書き写しながらでも、「センターもうバックしない」という伝達は
うまいなあと再感嘆したのであるが、聴取者の脳内シーンは、
こういった絶妙の伝達によっても、いやましに活性化されていたのである。
断片素材多数を視覚に与えて記憶させ、次には聴覚への刺激によって
蓄積されたそれらを統合させ、脳内映像として上映させる。
これは人の頭を生き生きと能動的に稼働させるシステムとして、
教育や医療の分野に応用可能なのではあるまいか。
以上、鴨下信一氏に敬服感謝しつつ。

66・その豊饒は一回限りのものだったのか。
前回につづいて、鴨下信一氏の文章から、
啓発された部分を題材にさせていただく。
戦後日本の「文化」に関連して、氏は新聞、出版、
映画、テレビなどはもちろんのこと、スーパーマーケットや自動車ショー、
国際見本市、ジェットコースターなどの登場も折り込みつつ、
ラジオの番組内容や聴取スタイルの変化変質を考察する。
そのなかに、〈ラジオが王様〉の時代、[ラジオは本当にリッチだった。
そこにはあらゆるものが、あらゆる文化が同居していた]という部分があり、
それぞれ番組名をあげたりしつつの対比列挙がなされている。すなわち、
同じクイズ番組でもディレッタント的なものもあれば庶民的なそれもあり、
連続ドラマでもハイブラウなものもあれば大衆的なものもあった。
音楽なら歌謡曲は当然として、クラシック、ジャズ、ポップスなどなんでもあり、
しかも、[ディキシィとスイングとモダン・ジャズが雑居している状態だった。
シャンソンもタンゴもウエスタンも今のように一部の好事家だけのものではなく、
まったく大衆のものだった]とある。そして氏は、
原文では順序が逆になっているのであるが、こうも書いている。
[このあらゆる文化が同居していたということがまた、
今の時代ではわからなくなっている]、さらに、一人の人間(リスナー各自)が
それら異種複数の番組を同等に楽しんでいたわけだが、それについては
[すべてが細分化され〈分衆化〉されている時代の
今の人たちはけげんな顔をする]とある。

前回書いたごとく、これは「ノーサイド」1996年2月号に掲載の文章だから、
「分衆」という言葉もコンテンポラリーなものだったのだろう。
以来15年、大衆論の観点から見た日本の社会は、分衆どころか
個別の蛸壷化が進んでいるわけだから、上記「何でもあり」の豊饒は、
単なる未整理乱雑のごちゃまぜ状態だと解釈されるかもしれない。
当時の特色として氏は、仮にシャンソンが好きだという人も、
[シャンソンだけ聴いていたということは絶対にない。必ず他のなにか、
ジャズを聴き、タンゴを聴き、歌謡曲も聴いていた。(中略)
いやひょっとしたら浪曲も聴いていたかもしれない]と書く。
テレビ以前のラジオ時代には小学生だった団塊世代の当方でも、
それ以降テレビとの並行接触をつづけた学生時代の経験として、
これはまさに「まったくそのとおり!」と叫びたい指摘であったのだが、
もちろん鴨下氏も当方も、単なる懐旧談としてそう書いたり
感じたりしているわけではない。そもそも氏の文章のタイトルが
『ノスタルジーだけでは「ラジオ・デイズ」は語れない』であるし、
当方もこの豊饒の本質や構造を、
じっくり解析してみたい思いにかられだしたのだ。たとえば、それは、
終戦後の「解放と自由」が土台になっておればこそ成り立った事象であって、
日本の社会においてはそのときその一回に限って存在しえたものだったのか。
つまり、変数部分をどう操作しても再実現はできないことなのか、とか……

65・そうか。おれは、ここに惹かれてたのかもしれんな。
とっくの昔に廃刊になっているが、
文藝春秋発行の『ノーサイド』という雑誌があり、
毎月、テーマを定めた特集号スタイルの編集がなされていた。
手元にあるのは1996年2月号、「懐かしのラジオデイズ」特集で、
創成期からの数々の名番組紹介をはじめ、
放送作家や元アナウンサーの談話なども掲載されている。
そのなかに鴨下信一という方の、
『ノスタルジーだけで「ラジオ・デイズ」は語れない』という文章があり、
文末に付けられた略歴紹介ではテレビディレクターとなっている。
そのとおりではあるのだが、
実はTBSの経営陣にも名を連ねたVIPなのだそうだ。
昭和10年(1935)生まれで、それこそラジオデイズを
創成期から聞いてきた人だから、いま読み返してみると、
うなったり得心したりする点が多くて敬服させられる。
たとえば、ラジオ世代はその全盛期が
ずいぶん長くつづいたように言ったりするが、
実は10年ちょっとであったのだという。
また、全盛期を終わらせたのはテレビの普及だというのが通説だが、
そこにも思い込みがあるという。それよりも、機器のコンパクト化と
低価格化によって、一家に二台三台のラジオがあるようになり、
家族各自が「ながら聴取」できるようにもなった、そのことの方が、
テレビ普及より先に現れてラジオの番組や聴取スタイルを変質させた、
重要な事実なのだと指摘する。

日本における戦後SF史を例にとれば、
一時期「SFの浸透と拡散」という言葉がよく使われていた。
SFブームが到来して「全盛期」的に浸透したのはいいが、
それが拡散につながってマイナス効果も生みだしたという説であり、
ラジオのパーソナル化と「ながら」聴取も、
同様の流れをつくってしまったということだろう。だから鴨下氏は、
それら思い違いや思い込みを補正してラジオを再論考すれば、
[そこには戦後の日本の文化史の面白い問題が無数にある。
ノスタルジーだけでは〈ラジオ・デイズ〉は語れない感じがするのだ]
と結んでおられる。当方、「なるほどなあ」と眼からウロコ的に納得し、
団塊世代たる自分がラジオへの関心をいまも持ちつづけているのは、
実はこの「戦後の日本の文化史の面白い問題」という点に
惹かれているからではないかとも思っていたのだ。
氏の文章、啓発される部分が多いので、
あと二回ほど題材にさせていただくことにしよう。

64・アメリカの著名なユーモア作家といえば?
以前、京都の某FM局の番組を聞いていたら、
女性タレントが街に出て、商店街の人や観光客などに
生で話を聞くコーナーがあった。そのときには外国人に
英語でインタビューしていたのだが、発音がきれいなのに感心した。
明らかにしゃべりなれている口調で、アクセントやイントネーション、
言葉を連ねていく流れなどが、「音楽的にきれいだな」と感じた。
そして連鎖的に、子供時代にラジオで聞いて驚いた、
アメリカの作家名の発音エピソードを思い出していた。というのが、
当方の小学校低学年時代、トム・ソーヤーとかハックルベリー・フィンとか、
あの物語の作者は「マーク・トーエン」だった。
子供向けに発行されていた本に、著者名としてそう表記されていたのか。
それとも同じ時代に、民放ラジオでそれらの朗読か放送劇かがあり、
原作者名がそう紹介されていたのか。そこまでは覚えてないが、
とにかくトーエンだったのである。ところが高学年になってから、
あるいはもう中学生になっていたのかもしれないが、
NHK第1放送で夕方の連続放送劇を聞いたところ、
女性アナウンサーが原作者名を、「マーク・トゥエイン」と紹介していた。

トーエンだと思い込んでいた子供の耳に、
このトゥエインという発音は強烈な印象を与えたのであって、
いま思いついたたとえで言うなら、トーエンは「桃園」とか「遠縁」とか
日本語で当て字ができるが、トゥエインはできない。
無理に音のみでこじつけても、「都絵院」や「杖員」が精一杯で、
つまりトゥという音が(現代の)日本語にはない。
子供心に「英語だ。すごい!」と感じ、「本当はそういう名前だったのか。
さすがはNHK!」とも思っていたのだ。
冒頭に記したインタビューにしろ、この原作者名紹介にしろ、
仮にテレビ番組での経験だとしたら
意識の大半は映像に向けられるはずなので、
音声からこれほどの印象を受けたかどうかはわからない。
言わずもがなのことながら、
「ラジオは耳を鋭くさせる媒体であることよなあ」なのだ。
なお上記の女性タレント、面識はないが、
確か慶元まさ美という人だったと思う。御参考までに。

63・そのあと楽屋で、主催者を怒鳴りつけてたかも。
前々回、東京出張で公開放送立ち会いの話を書いたので、
もうひとつ出張とラジオに関するエピソードを書いておこう。
大学紛争と70年安保問題で殺気立っていた、60年代末期の世相。
1970年だったか71年だったか、その余熱がまだ残っていた時期に、
一泊二日の東京出張で研修会を受けてくるように言われた。
広告やマーケティングの業界関係者に対する講演会形式のもので、
カリキュラムも二日にわたる。広告とか放送とか流行とか、
関連分野の専門家や著名人がステージ上で講師役を勤め、
参加者は客席でそれを聞くスタイルだった。だから会場は
日比谷か丸の内か、そのあたりのビル内ホールだったと思う。
その講演のなかに、ラジオのDJ番組をテーマにしたものがあり、
講師は当時のナンバーワンDJ糸居五郎氏だった。
そして研修会全体についてと同様、氏の話の内容も
ほとんど覚えてないのだが、ひとつだけ頭に残っている部分がある。

自身のDJ体験や哲学を述べていくなかで糸井氏は、
「放送中、少々の雑音が入ってもかまわないと思っているし、
逆にそれがリスナーの想像力を刺激して、
番組にリアルさや立体感をもたらすのだ」という意味のことを言った。
言いながら、確か低いテーブルに向かって座ってだったと思うのだが、
そこに置いてあったレジメか何かの紙をとりあげ、
くしゃくしゃとまるめて、マイクにその音をいれてみせた。
「アメリカじゃこんなの平気です」とか何とか、
とにかくどんな番組でも雑音は排除すべしという考え方は、
もう古いのだというニュアンスだった。聞いていた当方、
広告の表現技術における「シズル効果」という概念を知っていたので、
この話はそのまま理解できたし、当然その方が自然だろうとも思っていた。
そして後年、ラジオ番組などをやらせてもらうようになってから、
「そうか。ということはあの頃が、雑音極力排除から
少々のそれは逆に効果的なのだとする、
考え方の変化時期だったんだなあ」と、懐かしく思い出していたのだ。

ところで、研修会の記憶を紹介するのに、なぜ冒頭、
殺気だっていた時代の余熱云々などと書いたのか。
実は二日目のカリキュラム中、ファッション関係の女性講師が登場して、
流行をいかに把握するかといった話をした。
アパレル関係の会社を経営しているとのことだったが、
これが自意識過剰的な人物で、ピエール・カルダンを
ピィィエール・キャァルダンなどと大層な巻き舌で言って参加者を爆笑させ、
流行を把握するため自分は月に百万円くらい使うのだと言って、
客席をしらけさせた。大卒初任給が4万5千円前後だった時代であり、
そのあと質問を受け付けたところ、一人の男性参加者が立って、
鋭い口調で概略こんな追及をした。
「月に百万円くらい使うと自慢してたが、本日、国鉄はストライキ中で、
その労働者は賃上げ交渉で何百何十円という端数をめぐって戦っている。
その落差をあなたはどう思うか」
それに対して講師がこたえだしたところ、内容が的はずれだったのか、
くだくだしかったのか、別の誰かが「わかったよ。もういいよ!」と叫んだ。
相手は、「もういいよとおっしゃるんなら、
これで終わらせていただきます」と切り口上で言い、
つかつかつかと舞台袖へ去っていった。当時の雰囲気を表す言葉で言えば、
高度資本主義の尖兵か手先か御用聞きか、そんな仕事をしている
広告あるいはマーケティング業界の末端労働者諸君が、
研修会の講師たる女性社長を、実質的には舞台から
「引きずり下ろして」いたのである。
いやまあ。実に、まさしく、そういう時代だったのであります。

62追加・菅笠さん。ありがとうございました。
『いい勉強をさせてもらいました』を掲載したところ、
こういう事態だからか、すぐさまメッセージをいただいたので、
こちらもすぐさま、原文のまま、御紹介させていただく。
タイトルは『地元AM局』である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つくば市在住、58歳の男です。大地震の後も電気が通じており、
しかし断水したので、TVで災害情報を得ようとしても、
震源に近く、そして大津波による考えられない被害のあった、
東北地方と原電のことが殆どでした。そして残りは東京の事柄です。
これでは、こちらの日常生活をどうするかの情報が得られないので、
日頃は聴かない茨城放送にダイアルを合わせると、
県単位、市町村単位の停電、断水、給水、鉄道、
バスなどの地元情報が大半でして、実に重宝しました。
そして、聴きながら、阪神大震災を大阪の外れで経験しましたが、
かんべさんが時折取り上げられるラジオ関西も
当時はそのようにしていたのだろうと思いました。
ところで、私がポケットラジオを携帯しているのは、
かんべさんのエッセイが影響しています。香港に行かれたときの話で、
香港製の安価なラジオを持って行ってスイッチを入れた途端、
生まれ故郷の言葉で喋り出した、というのがあって、
そのおかしさに大笑いしたのです。
ポケットサイズのラジオがあると知った4年くらい前に購入し、
出歩くときはたいてい携行しています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
日頃は聴かない茨城放送とは、気の毒な。
これをきっかけに、せいぜい愛聴してあげてください。

62・いい勉強をさせてもらいました。
今回の東日本大震災であるが、3月11日(金)午後の発生以降、
関連情報はまずテレビとネットで収集した。
そのあと夕方から夜にかけては、テレビをちらちらと見ながらネット、
またはテレビを消してラジオをつけ、
それを聞きつつネットというかたちで並行収集を継続した。
ラジオは複数の局にダイアルをまわしてみたところ、
朝日放送がニッポン放送の報道特番をそのまま流していたので、
それを断続聴取することにした。聞こうと思えば
東京のラジオはネット上のラジコで聞けるわけだが、
まだそれを試したことはなかったため、
「あちらの生特番がそのまま聞ける」という点に情報価値を感じたのだ。
そしてその放送は、朝日のスタジオから関西の関連ニュース、
(和歌山、淡路島、大阪湾の津波情報など)も
適宜はさむというスタイルをとっていたので、
東阪の状況をリアルタイムで知っていくことができた。

首都圏も震度5や6で、千葉県市原の石油タンクが爆発炎上したり、
公共交通ほぼ全面ストップという状況にもなったのであるが、
ニッポン放送の特番を聞いていて強く感じたのは、
「東京は万一に備えての用意やシミュレーションを、
これまでに大分やってるんだな」ということだった。
たとえば都内の私立学校から随時連絡が入り、
「どこそこ中学校、生徒何百何十何人、全員無事で
校内で待機中です。保護者の迎えがあれば下校してもらいます」
といったメッセージが読み上げられる。
「学校情報」と言ったか何と言ったか、記憶のみで書いているので
名称は不確かだが、これは多分、そういう連絡システムが
局と各私立校との間で前もってつくられていたということだろう。
また帰宅困難者に対して東京都が、都立の体育館や学校などを
次々に開放していき、その告知も特番内で行われていたのだが、
各区各施設の開放決定がスピーディーで、これもまた
事前の計画や演習がなければこうはいくまいと感じさせられた。
交通情報も何度か入り、プロの職務だから当然とはいえ、
伝える女性たちがそれぞれ落ち着いているのに感心させられた。
無論リスナーからの各種情報メールも入り、なかには
「一人で心細いけど、この番組を頼りにがんばります」
というのもあって、「大災害時におけるラジオの役割」
というテーマを、あらためて考えさせられたのだ。
以上、とりあえず備忘メモとして(3/15)。

61・新幹線で横を通過するたびに思い出す。
1970年4月に社会人になり、大阪が本社の豆粒代理店に三年、
東京が本社の中型代理店(その大阪支社)にまた三年、
合計六年間、広告や販促の仕事をした。
当然、東京出張を何度も経験したわけだが、初めてのそれは、
「明日、支社の仕事が重なって大変らしいから、
手助けに行ってくれ」と言われて行った、
新社会人ほやほや時期の日帰り出張だった。
上下合わせて三、四人で「支社」と称していた会社だから、
少し業務が輻輳すると人手が足りなくなるのだ。
何をどう手助けすればいいのか、
それは支社長の指示を受けてくれという話である。
そこで始発かその次くらいの新幹線に乗って出かけたところ、
指示されたのはラジオの公開放送の立ち会いだった。
局名も番組名も覚えてないのだが、出演者は一谷伸江氏。
場所は有楽町駅前の東京交通会館で、
あそこの低層階外縁部の屋上はテラス風になっている。
そこから生中継するというのであるが、
オフィス街の午後で場所が屋上テラスだから、
行ってみると客の姿はちらほらに近く、
放送スタッフも彼女とあと一人いたくらいだった。

だから、いま考えてみるに、これは番組そのものの公開放送ではなく、
ワイド番組内のコーナー中継だったようだ。
調べてみると、このときの一谷氏は25歳になるかならずだから、
まだアシスタントかレポータークラスだったのだろう。
しかし、それはいいとして、その場で当方は何をしたのか。
文字どおり「立ち会って」いただけだったのか。
いやいや。ちゃんとした仕事、正確には「作業」を受け持ったのであり、
片足でフイゴ式のポンプを押して、観客に配る風船をふくらませていた。
そして出演者が一谷氏だったと覚えているのは、
オンエアのなかで彼女が周囲の光景を紹介し、例の明るい調子で、
「今日は風船屋さんが来てるんですね」と言っていたからだ。
タハハもしくはトホホであって、
「こんなの、わざわざ大阪から社員を出張させなくても、
学生のバイトを雇えばそれですむのに」と思っていた。
まあ、それでは代理店が「立ち会い」をしたことにはならないのだろうが、
費用対効果という点で、会社組織はときに
非常に不合理なことをやるんだなあと、新卒社員、学習もしていたのだ。

60・あの早口で、馬の名前をよく間違えないものです。
競馬は全然わからないので、番組もまともに聞いたことがない。
しかし、アナウンサーが大変な早口でもって
レースを実況中継するのだということは知っており、
その息継ぎ無しのようなしゃべり方が耳に残ってもいる。
ノベルティ・ミュージックのスパイク・ジョーンズ楽団、
そのレパートリーのひとつに、「ウイリアムテル序曲」の途中で
ファンファーレが入って競馬中継の始まるやつがある。
若い時代に初めてそれを聞いたとき、
ファンファーレが日本の競馬でもおなじみのものであり、
中継アナウンスの冗談英語がやはり猛烈な早口だったので、
驚きとおかしさのミックス笑いをしてしまった。ということは
ラジオの競馬中継、それ以前に自分で聞いたことはなくても、
何度も聞こえてきていたのだということになる。

とはいえ親兄弟にその方面の愛聴者はおらず、
大学は阪神競馬場の近くにあったので
ファンになっていた友人は何人かいたが、
その彼らも学内でラジオを聞いたりはしていなかった。
高校、中学、小学校とさかのぼっても、
競馬中継が聞こえてきていた場面など思い出せないのだ。
ただし、こういう可能性は考えられる。学生時代か子供時代かに、
行きつけの理髪店が常にラジオをかけていたのだとすれば、
こちらが散髪に行くのは休日が多かったはずだから、
日曜の競馬中継もおのずと何度も聞こえていたのであると……
もちろん、実際がどうだったかは覚えてないけれど、
ここ数年の経験をいえば、以前行っていた理髪店は
常にラジオ関西、現在行っている店はFM802をかけている。
そんなわけで競馬中継の「刷り込み」音源も、
理髪店ではなかったかと思ったわけである。
散髪屋のラジオ。こう書くと「三丁目の夕日」の雰囲気ですね。

59・大勢いても食えるのは少数。作家と一緒ですな。
東京とは比べ物にならないだろうが、
京阪神にもタレント養成教室がいくつもあり、
ネットや新聞広告で随時受講生を募集している。
タレント派遣のプロダクションと一体化している教室が多く、
卒業後、希望者はそこに所属できるシステムになっている。
だから各プロダクションのホームページを見ると、
ベテランや中堅らしき人たちとともに、
まだ学生のような男女も多数紹介されている。
大型プロダクションの場合、それら新旧何十人もの顔写真や略歴、
タレント歴が閲覧できるので、作家たる当方にとっては
「頭の体操」的な勉強にもなるのだ。
しかし、そうやって大勢のタレントが所属していても、
職業として成り立つほどに稼げているのはごく一部で、
一プロダクションに十人もいれば立派なものだそうだ。
ラジオ関係でいえば、レギュラー番組のメインまたはアシスタント、
ニュースを担当する長期契約アナ、
そしてCMやナレーションの吹き込み等々。
そういった仕事をコンスタントに、しかも並行して
複数依頼されるくらいにならなければ、
知名度面でも経済面でも厳しいということだろう。

実際、各プロダクションのホームページで多くのタレント歴を見てみると、
これは放送局の人から聞かされた言葉であるが、
「こんな程度の仕事を実績として載せてるのかと驚くほど」、
貧弱なそれが間々見受けられる。
上記の「まだ学生のような」人たちに限らずで、極端な話、
○○団地の夏祭り司会とか、××会館の案内アナウンス収録とか、
もちろんそれらも仕事ではあるのだが、それを実績のメインにされたら、
う〜む、業界内の人間は苦笑するか、鼻で笑うか、
そんな反応しか示せないよなあというレベルなのだ。といって、
最初に書いたタレント養成教室やそれと一体化したプロダクションに、
卒業生や所属タレント全員を「食える」ようにする義務があるのかというと、
別に味方をするわけではないが、これはない。まったくない。
しかし、とはいえ、別に味方をするわけではないから書いておくが、
その厳しい実情実態も教室で教えているのかどうかについては、
当方アイワンダーなのである。以前このことを放送関係者に言ったところ、
「教えても、スカタンは自分には関係ない話だと思ってタレントになるし、
根性のある人間は、自分はそれを乗り越えるぞと決意してタレントになる。
常識的な中間層がためらうくらいのものでしょうね」とのこと。
なるほど。そうかもしれませんな。
そのあたりも、作家志望者のパターンとよく似ています。

58・ネット世界ではもっとすごいのだろうな
各局各番組に関する、性別や年齢以下のリスナー特性。
これは、大きくはビデオリサーチの聴取率調査でつかめるものの、
サンプリング調査と統計手法による推計数字が主になっているから、
彼らの日常感覚や生活の匂いなどはあまり捉えられない。
だから制作者は、そのあたりを日々送られてくるメール、FAX、
ハガキなどで感知し、番組に反映させているわけだが、
そこから導き出される「経験則」はどんなものであるのだろう。
それらに関する、「リスナー論」的なレポートや研究書籍があったら、
ぜひ読んでみたいと思う。性別と年齢によるくくり、職業によるくくり。
カーラジオのリスナーというくくり。商売しながら、手作業しながら、
ウオーキングしながらのリスナーというくくり等々、
「集団」分類は多種多様に成立するわけで、
それらの特性を個々に分析していけば、
社会心理学的に意味のある成果が得られるに違いない。

また当方、「ぜひ読んでみたい」という思いに一番強くかられるのは、
「トンデモ」リスナーに関する調査レポートや論文であって、
昔からどこの局にも、そういう常連リスナーはついていたらしい。
女性出演者にストーカー的なメッセージを毎日送ってくるなどは序の口で、
局や番組とは無関係の政治家や著名人に対する誹謗中傷、
シオンの議定書がどうでイルミナティがこうでという世界支配の陰謀論、
さらにはまったく主旨不明の文章等々、怪しいメールやFAXは
少数ながらも途切れることがないという。同じことがテレビ局にもあるのか、
新聞社にもあるのか。それともラジオに特有のことなのか。
何にせよ、これらは社会学ではなく心理学や
精神医学が受け持つ対象だろうと思うので、その分野の専門家にして
ラジオファンという、そんな方々の探究心に期待したいのだ。

57・術によって芸を示す
戦後、民放ラジオが始まり、次のテレビ時代が来るまでは全盛を誇った。
その創成期の番組面における活気のなかから、またそれ以降、
現在に至るまでの多様な変遷のなかから……、という意味であるが、
桂米朝師匠が、「何か新しい芸が出てくるんやないかと思ってたけど、
出なんだなあ」と言っておられた。これは当方が
ラジオ番組のインタビューで直接うかがったお話である。つまり、
たとえば落語や漫才は昔からある演芸であり、ラジオは(無論テレビもだが)、
それらを伝える役目は果たしている。しかし、そのラジオの世界で生まれて育ち、
落語や漫才同様ひとつのジャンルにも成長したという、
そんな新しい芸は生まれてこなかったなあという感慨である。
昔、サイレント映画の時代に活動弁士という職種ができ、「活弁」は
弁士を表す略称であるとともに、ひとつの話芸ジャンルの名称ともなった。
すなわち、サイレント映画が新しい芸を生んだのである。

ただしその寿命は短く、映画がトーキーになって彼らは失業したのだが、
なかにはラジオ(戦前だから日本放送協会)や演芸分野に進出して
朗読や漫談で人気を再上昇させた人たちもいる。徳川夢声はその代表例である。
しかしラジオにおける朗読は、たとえば徳川夢声が
吉川英治の「宮本武蔵」を読み聞かせる、それは芸(話芸作品)だったのであるが、
現在、俳優やタレントや局アナが、番組あるいはボランティア録音用に
エッセイや童話を朗読している、それは芸ではなく術(話術作品)であるだろう。
だから「ラジオ朗読」イコール「新しい芸」とは一概には言えず、
第一彼らは朗読で話芸をしようと思っているわけではない。また逆に、
徳川夢声の話芸が話術とは別物だったわけでも無論なく、これは正確には、
高めた術を芸として、もしくは芸の方向に、使っていたということになるのではないか。
このあたり、少々まわりくどい書き方をしてきたのであるが、
実は米朝師匠は先述の感慨のあと、パーソナリティーについても触れておられた。
あれはラジオが生んだ存在や仕事ではあるが、彼ら
(演芸のプロや局アナが務めているパーソナリティーではなく、
本職がパーソナリティーであるという人)は「芸人」ではないし、
そのトークも「演芸」ではないわけだしなあ……。とまあ、概略こんな感想によっても、
「ラジオから新しい芸は出なんだなあ」が導き出されていたのである。

しかし、上記の徳川夢声の例を敷衍するなら、会話やトークやインタビューにおいて、
「高めた術を芸として、もしくは芸の方向に」使っているパーソナリティーは少なくない。
往年、漫談の名手に牧野周一という人がいたが、あの身辺雑記風の軽いおしゃべりと、
庶民派パーソナリティーのトークとは、話題やネタの引き出し、生活感覚、
話の構成テクニック等々において、ほとんど一緒なのではないかと感じることがある。
その意味ではパーソナリティーは、ラジオ漫談という「新しい芸を生んだ」と、
見てもいいのではないかと思ったりするのである。
もちろん無理に演芸世界の物差しで計る必要はなく、
そんなことをされたら御本人たちにとっては迷惑かもしれないから、
パーソナリティーはパーソナリティー、トークはトークでいいのであるが。

56・ラジオの外国人、いまは誰でしょうね?
父親の転勤で新潟にいた小学校低学年期、東京や大阪では
すでにテレビ放送が始まっていたが、県下はまだラジオだけだった。
その時代、新潟放送(一局だけの民放)に「電報クイズ」という番組があり、
日本語ぺらぺらの外国人が司会をやっていた。もちろんこれは、
子供のことで事情を知らない当方が新潟放送の番組だと思っていただけで、
本当は文化放送からのネット番組。「赤胴鈴之助」や「少年探偵団」なども、
すべて東京発のものとは意識せずに聞いていたのである。
で、公開録音番組だったらしいその「電報クイズ」であるが、
まず、ツツー・ツーツーとモールス信号の発信音がカットインし、
そのあと戸を叩いて「電報。電報!」と叫ぶ男の声が入る。
それからオープニングのテーマソングや、タイトルコールと提供社名告知。
そのあと大勢の拍手が聞こえだして、舞台に司会者が登場してくる雰囲気。
彼は英語で何か挨拶したあと、「ぼく、誰?」と日本語で客席に問いかける。
それに対して、大勢の子供の声が「ジョージ・ルイカ!」とこたえ、
彼は「イエス。イエス。ジョージ・ルイカ」とか何とか言って、
番組内容の紹介に入っていくのである。

ただし当方、長らくこの姓名をジョージ・ルイカだと思っていたのだが、
いまネットで調べてみると、正しくはジョージ・ルイカーなのだった。
また、なぜそう思い込んだのか根拠は不明だが、イギリス人だと思っていた。
しかるに何と、父親はエストニア人で母親がアルメニア人。
二人は大正末期から日本に住んでおり、だから御当人も
昭和2年(1927)の横浜生まれとのことだった。
そして、まさに当方が新潟にいた昭和31年(1956)には、
日本に帰化して類可丈治になったという。このあたりのことをぼくは全然知らず、
映画やテレビにもよく出ていたそうだが、見た記憶もない。
とにかく、ジョージ・ルイカといえばラジオの人だったのである。

そしてずっと後年、誰に聞いたのか何で読んだのか、
彼がオーストラリアで日本語のラジオ放送をやっていると知った。
かつ、そのまた後年、落語会の打ち上げの席でそんな話題が出たとき、
故桂枝雀師匠から、(そうだ。師匠も姓の語尾は伸ばさずに言っておられた)、
「私、オーストラリアでジョージ・ルイカに会いました」という話も聞かせてもらった。
英語落語の公演で行ったとき、空港で時間待ちをしていたら、
向こうから話しかけてきたのだという。
ネット調べでは、彼は昭和41年(1966)年に移住し、
メルボルンで日本語の短波放送を担当していたそうだから、
空港もメルボルンのそれだったのだろうか。
誰それさんはどうしてますか、何某さんは元気ですか、などとと聞かれたが、
その芸人名タレント名は古い人ばかりだったという。
向こうから話しかけてきてのそういった質問が、微笑ましいものだったのか、
それとも、往年の彼が得意にしていた台詞、「切ないわねえ」のものだったのか。
その点を枝雀師匠に聞き忘れたのが、作家として残念と言えば残念。
ともあれ、当方にとって、ロイ・ジェームスやE・H・エリックはテレビの人であり、
ラジオの外国人といえばジョージ・ルイカなのだ。

55・少しの工夫で、ぐっとユニークになるのに
テレビCMに比べて、ラジオCMは非常に安く制作できる。
タレントのギャラと録音スタジオ料金(人件費含む)は必要だが、
場面セットや大道具小道具もいらず、したがってスタジオ内での
建て込みやライティングの料金も不要であるし、
出演者の衣装代やメイク代もかからない。
音楽や効果音の工夫により、ロケの宿泊費や交通費をかけずして、
諸外国や宇宙、過去から未来まで、舞台と役柄は自由に設定できる。
各分野のプロに頼むだけの予算がなくても、ライターに素養、
タレントに器用さがあれば、落語、漫才、講談、狂言、歌舞伎などなど、
多様な芸能の形式を借りたCMもできる。もっと安くあげようと思うなら、
CMを流す局に原稿を渡して局アナに読んでもらえば、制作費はタダになる。
ただし、生番組のなかに入るパブリシティ(お知らせスタイルの広告)ではなく、
完パケにして反復使用するCMをサービスで読んでもらう場合、
男性または女性アナ一人のストレートトークが基本であって、
複数の人間の会話でとか、あんな効果音を使え、こんなBGMを流せなどと、
ややこしい注文はつけられないはずである。

しかしとにかく、スポンサーや制作マンにとってラジオCMは、
安くて手軽に、直球でも変化球でも投げ放題ができるものなのである。
なのに日々のそれらを聞いていると、
「工夫」や「遊び」の足りないものが多いと感じる。
「これだけの秒数を使って、もったいないなあ」と思うと同時に、
安く作れるので逆に、ライターやディレクターが本気になってないのか、
あるいは代理店やプロダクションが二線級の社員に担当させているのか……、
などと思ったりする。それとも、スポンサーも
「安い制作費では、まあ、この程度しかできんのだろう」と、
変に物わかりがいいのだろうか。どれが正解なのかはわからないが、
まずは原稿に、「艶と芸」がないんですな。

54・ひたすら数字を朗読する「恐怖の特番」
かなり前のことで記憶が曖昧だけれど、
今回は週刊誌の書評欄に書いたアメリカの本を思い出し、
そのラジオに関する部分を紹介するつもりである……。と書くと、
「おまえは前にこの欄で、記憶術で鍛えた脳内バイオレコーダーなどと、
自慢げに書いていたではないか。なのに、なぜ曖昧なのだ」と言われそうだ。
しかしそれには事情があって、小説エッセイ書評など掲載誌紙の切り抜きは、
一冊の本にするときのためファイルに入れて保存してある。
だから今回の題材に使う書評の切り抜きもあるはずなのだが、
種々雑多大量なので、いま、ざっとチェックしてみたのだが見あたらない。
また、阪神淡路大震災で本棚総崩れの書籍ぐしゃぐしゃ状態になったとき、
泣く泣く大量処分した。その一冊だったらしく、書籍の現物も本棚にないのだ。
そして当方、「記録」がある場合には、仮に先で必要が生じたとしても
それを見ればわかるという判断のもと、意識的な「記憶」作業は省略している。
よって、「かなり前のことで記憶が曖昧だけれど」と、こうなるのである。

で、タイトルも著者名も覚えていないその書籍は、
アメリカの大学教授の自伝的エッセイ集で、
専攻は数学だったか物理学だったか、とにかく理科系の人だった。
年齢はぼくより一歳上で、アメリカの新学期に日本とのズレがあるとしても、
早生まれの当方と学年は一緒であろうと思えた。
仕事や余暇についての文章があり、自身の青春時代を題材にしたそれもあって、
アメリカの学者の日常や個人史がよくわかる内容だった。つまりまあ、
黄金時代だった1950年代に育ち、1963年から65年がハイスクールで、
そのあと大学へという、往年のアメリカ青春映画を思い出させる内容だったのだ。
ところが、その大学時代はベトナム戦争の激化期でもあり、
反戦運動や徴兵拒否が続発していた。公民権運動も起きていたし、
世界的な若者反乱の時代でもあったから、アメリカ国内が騒然としていたのだ。
そんななか、ベトナム増派のための徴兵が行われ、
当時のアメリカは選抜徴兵だったから、適格者のなかから必要人数が選ばれる。
選別は適格者に付与されている番号の無作為抽選で行われ、
発表は夜に生のラジオで、ワシントンから全国中継されることになっていた。
このとき、自身も適格者の一人だった著者は、大学の寮の自室で
それを聞いていたのであるが、概略こんな内容のことを書いていたと記憶する。
「私は、いまアメリカ全土で、ガソリンスタンドやスーパーマーケットなどから
その日の仕事を早めに終えて帰宅した同年代の若者たちが、
自宅や学校の寮で、ラジオに真剣に耳を傾けている姿を想像した……」

そして、アメリカ青春映画にはさまる緊迫シーンのようなこの部分を読んだとき、
ぼくは同学年とはいえ日本とアメリカの若者が置かれていた立場の
隔絶した差異を実感させられ、身体に寒気を走らせていた。
大学紛争の時代だった日本でも反戦運動は激化していたが、
双方のそれには絶対的な違いがある。むこうは
「自分がベトナムで死ぬかもしれない、殺されるかもしれない」という
切迫感を背負って反対していたのであり、
こちらは知識または観念としての戦争や抑圧に反対していただけだった。
全米の適格者が不安や恐怖にかられつつ必死にラジオに耳を傾け、
自身の番号を読み上げられた者たちは、眠られぬその夜を
重苦しい沈黙で過ごしたかもしれない。しかし日本の同年代の若者たちは、
昼間、全学集会や街頭デモに参加して乱闘投石をしていたとしても、
夜は若者向けの音楽番組や深夜放送を聞けていたのである。
ワシントンからの全国中継ということは、公共放送のネットワークだろう。
日本でいえばNHKに当たるわけで、しかしそのNHKが生放送で、
「死の可能性」を秘めた番号を、全国中継で読み上げていくなどということは、
その時代の日本の若者が想像すらしなかった(できもしなかった)ことなのだ。

当時、当方が大学で英会話を受講していたアメリカ人講師が、
全共闘の活動を「ナンセンス」という言葉を使って批判していた。
この書籍で上記エピソードを読んだとき、講師が使ったあの「ナンセンス」の、
真のニュアンスが初めてわかった気になれた。「ナンセンス!」は
全共闘が反対論者を批判するときの言葉としても乱用されていたが、
思えばそれ自体がナンセンスであったのだ。
現在、アメリカの兵役は志願制になっているので、
もうこんな重苦しい生放送はないだろう。
しかし、その志願制に経済格差による不平等と欺瞞があることは、
堤未果氏の「ルポ貧困大国アメリカ」(岩波新書)で知ることができる。
若者たちが背負うものは、いまも日米で巨大な差異があるようなのだ。

53・どちらも様の、業績回復を祈るや切なのです
2010年末、ニューヨークのダウ平均がようやく、
リーマンショック前のレベルにまでもどったそうだ。
その原因となったサブプライムローン問題は、先年、
当方がラジオ番組をやらせてもらっていた期間内に顕在化したものだが、
リーマンショック自体は番組終了後三カ月ほどたってから発生した。
そしてその影響が日本に及び、当然ラジオ業界も受けだした打撃、すなわち
番組やスポットCMからのスポンサーの撤退ぶりはすごいものだったようだ。
首都圏やローカル局の事情は知らないものの、
とりあえず当方が直接知ることのできる在阪各局が同様にであって、
それは各局が番組の低経費化を、いかに激烈に行ったかで察知できた。
タレントがやっていたベルト番組を局アナにやらせる。
アシスタントがついていた番組をメイン一人でやらせる。
生だった早朝ベルト番組を収録にして毎朝の送迎タクシー代を無くす。
ギャラを値下げして、それでもよければと通告する。
東京キー局からのネット番組をふやす、等々である。

リーマンショックは、アメリカでは「百年に一度」の事態と称されていたらしく、
ということは1929年の大恐慌以来ということになるわけで、
これは日本では昭和一桁時代の、
満州事変にもつながっていく大不況として記録されている。
しかし現在の日本は、東北の村役場に
「娘身売りの節は御相談ください」という貼り紙が出ないかわりに、
軍事力行使だの植民地獲得だのもできない国だから、
前回同様アメリカ発である大不況の影響も、
今回は上記のような具合に各業界が堪え忍びつつ、
マイナスを少しずつ分散して、
じわじわと解消していくしかないということになるのだろう。
そう見ると、日本の株価の回復は、まだまだ先のことに思えてくる。
業界関係者に聞いた話だが、首都圏ラテ兼営某局の東証株価が、
リーマンショック以前の三分の一に下がったままなのだそうだ。

52・初春をことほぎ、復元と推理と感慨を。
以前この雑談室で、「パーソナリティーとしての落語家」というタイトルで、
桂春蝶氏(現在の春蝶さんの父親)のことを書き、そのなかで春蝶氏が、
正月の元日だったか二日だったか、深夜の生番組でスタジオから、
米朝師匠の自宅に電話をかけた話を紹介しておいた。
受話器を取った内弟子が、「はい。こちら桂米朝宅でございます」と言い、
ラジオを聞いていた当方、その「米朝宅」という言い方に
妙に感激したというエピソードである。そこで今回は
新春サービス(?)としてその会話を、録音テープも何もないけど記憶に頼って、
復元してみようと思う。もちろん全部は覚えておらず部分的なものになるが、
なにしろ四十年近くも前のことなのだから御容赦を願いたい。
局はラジオ大阪。番組は『ヒットでヒット、バチョンといこう!』という、
出演者が日替わりする深夜のベルト番組。春蝶氏は月曜日の担当で、
アシスタントは真弓圭子さんというタレントだった。
ウィキペディアによると「バチョン」は1970年から74年まで放送とのことだから、
いま、その5年間で元日または二日が月曜だった年を調べてみると、
1973年がずばり元日=月曜だったとわかった。
よって春蝶氏が電話したのは、73年(昭和48年)元日の夜と確定。
米朝師匠は1925年11月生まれだから、その二カ月ほど前に47歳になられたばかり。
春蝶氏は1941年生まれなので、32歳になるかならずということになる。
で、その春蝶氏が正月だというので酔って少々口をもつれさせつつ、
「米朝師匠のお宅に電話してみよか」みたいなことを言って、上記エピソードがスタートする。

明かりを消して、布団のなかで寝ながらラジオを聞いていた当方の耳に、
電話の呼び出し音が何度か入ってきて、カチャッと受話器を取り上げる音。
「はい。こちら、桂米朝宅でございます」 「誰?」 
「えっ。あ、米輔です」 「ああ、米輔くん。師匠、起きてはる?」
「はい。起きてはります。あ、春蝶兄さんですか」
「うん。ちょっと頼んます」 「はい。しばらくお待ち下さい」
空白があって、「お弟子さんですか」 「うん」というアシスタントと春蝶氏の短い会話。
そして人の近づいてくる気配があり、「もしもし」
「あっ。師匠ですか。おめでとうございます」 「おめでとうさん。いまやな」 「へ?」
「おまはんいま、生で何かやってるんやろがな」 「えっ。知っててくれてはりましたん」
「いや。わしは知らんけど、子供が聞いてるさかい。春蝶さんがやってはる言うて」
「まあっ。光栄ですう」とアシスタント。
「おまはん、お年玉やってくれたからな」 「い、いえ。ほんの千円ずつで」
「いやいや」 「それより師匠、今日はどないしてはりましたん」
「いやあ。お正月はねえ、皆が集まって朝から呑みつづけで、それでまた、
べろべろに酔うて、あほが喧嘩しよってな」 「えっ。喧嘩しましたん」
「はいな。それで、ようよう仲直りさして、ついさっき帰ったとこや」
と言ったあと米朝師匠、「えっ!」と気づいた様子になり、
「ちょっと待って。これいま、流れてるの?」 「はい。生放送で」
「ええっ。おれの声、流れてるんかいな。何をすんねや。それを先に言うてえな」
「いえ師匠。そんなんよろしいやん」 とか何とか春蝶氏はごまかし、
リスナーの皆さんに御挨拶をお願いしますと頼む。米朝師匠、そこで口調を改め、
「本当にありがとうございました。昨年一年間、上方落語を応援していただきまして……」
ただし、それ以降は公式的な挨拶なので、あまり当方の脳細胞を刺激しなかったらしく、
受験生時代、記憶術のトレーニングで鍛えた我が脳内バイオレコーダーも、
ここで録音ボタンが解除されている。そしていま、復元して初めて「ん?」と思ったのだが、
これは前もって打ち合わせ済みの電話だったのか、
それとも本当にぶっつけのそれだったのか、どっちだろう。

というのが、会話によれば春蝶氏は米朝師匠の子供たちにお年玉を渡しているのだから、
昼間、自宅へ年始の挨拶に行っていたということになる。
そしてまた同じ落語家でもあるのだから、弟子を持つ師匠宅の元日が
どんな様子なのかは知っているはずである。となると
「今日はどないしてはりましたん」 「いやあ。お正月はねえ」云々は、二人は承知の上で、
リスナーに聞かせるための会話を始めていたということになるのではないか。
しかし一方、米輔氏が「あ、春蝶兄さんですか」と言ったのは素(す)で言った様子であって、
前もって「電話があるから」と聞かされていたときの受け答えではなかったと思う。
また、「ちょっと待って」という米朝師匠の言葉が出る直前には、
電話の向こうで子供たちか弟子たちかの笑う声が聞こえていた。そしてその笑いは、
生番組を聞いていたら家に電話が入り、スタジオの春蝶氏と自宅の師匠とが会話を始めて、
それがそのままラジオから流れ出したという、そのことに対するものだったように聞こえた。
とすればあの会話は、笑い声によって米朝師匠が初めて「えっ!」と気づいたという、
まさに生の、ぶっつけの流れであったのかもしれないのだ。さて。どっちだろう。
それにしても、あのときの米朝師匠が47歳とはな。
1973年1月1日、日付としては多分二日になっていたと思うが、
当方は若僧も若僧、あと二週間ほどでやっと25歳になるというときだから、
さらにずっと年長の人に思えていたことに不思議はないのだが。

51・宣伝大臣とラジオ
 最終回 いまも小ゲッベルスはあちこちに
……
戦時下のドイツでは海外からの放送を聞くことは厳しく制限され、
職務として傍受する公務員も、その内容を他人にもらせば処罰されていた。
『第三帝国と宣伝』によれば、[禁じられている外国放送を
秘密に聴取していることが発見されると、投獄されるか収容所へ送られた。
しかし国民の外国放送に対する好奇心は強かった。
ゲッベルスは戦争中の日記のなかで、民衆が実にさまざまな理由を捏造して、
宣伝省へ外国放送聴取の許可を願い出てくることに対して不平をのべている]とある。
対してイギリスでは、ドイツからのプロパガンダ放送を聞くことは、
無論推奨はされなかったものの、違法でもなかったという。
そしてその放送で当初、英国民から一種の人気を博したのが「ホーホー卿」である。
彼は本名をウィリアム・ジョイスという30代の反ユダヤ主義者で、
アメリカ生まれのイギリス育ち。イギリス国内でファシズムの党に所属して活動し、
第二次大戦開始(1939年9月)直前、ドイツに渡った。
自身に対する拘束命令が出そうなので逃亡したものらしいが、
以後、宣伝省の管理下で対英宣伝放送をつづけた。
太平洋戦争中、日本の対米宣伝放送に出演する複数の女性を
「東京ローズ」と総称したのは米軍のG Iたちだが、
ホーホー卿という通称はイギリスの新聞がつけたのだそうだ。
では、ゲッベルスも初期には評価していたというその放送は、どんなものであったのか。

もともと、[英語による放送では辛辣な皮肉や洒落が効果的だと考えられ、
多くのアナウンサーによって採用された]のだというが、それが
[所謂ホーホー卿の英国向け宣伝放送では、かなり高度に洗練されていた]とのこと。
彼は、[チャーチルが戦争指導者になる以前の
イギリス国民が感じている不安感をたくみに突いていた]
[彼は冷淡で陰険なスタイルの対英放送を開始し、
英国民をいわゆる冗談音楽的な調子で揶揄し始めた]
[ジョイスの態度は急進的で、その狙いは英国という国がいかに堕落した
偽善的な国であるかということを、英国人に信じこませることにあった]という。
ちなみに、チャーチルが首相になるのは開戦翌年の1940年で、
それまではミュンヘン会談でナチスに譲歩し、
優柔不断や弱腰とも見られていたネヴィル・チェンバレンである。
だからホーホー卿の放送も、英国民の不満やいらつきを捉えて、
最初の一年ほどは成功したのだろう。
[しかし、ひとたびウインストン・チャーチルが首相になるや否や、
ホーホー卿の軽薄な態度は英国民の新しい精神にマッチしなくなった。
その度を越した悪ふざけは、もはや大衆の心をとらえることができなくなった]という。

さあ。そこでゲッベルスであるが。彼は邪悪で高慢、自意識超過剰の人間であるが、
物事や事態を冷静に分析する能力には優れていたようで、『第三帝国と宣伝』中、
放送に関してだけでも、当方が「さすがに、わかってるな」と感じた例がふたつあった。
ひとつは労働者や前線兵士向けの番組にジャズを認めたことで、
ナチスの思想から言えばジャズなどは退廃音楽であり、彼も否定していたのである。
しかし戦争が激化しだすと、[経験の教えるところによれば、
放送番組の編成は理屈でなしに実際の必要から決めねばならない]
[一般大衆は二時間以上も続く番組を強制的に聞かされるにはあまりに緊張し過ぎている]
[一日に十二時間乃至十四時間も働き続けた人が音楽を求めるとしたら、それは
押しつけがましくない音楽、軽音楽でなければならない]と判断して、実行させたのだ。
そしてふたつめがホーホー卿の件で、ゲッベルスは1942年にこういう判断を下している。
[攻撃的で傲慢な、相手を侮辱するような調子をいつまでも続けていては、
決して目的を達することはできない][今は、この種のナンセンスな放送は、
直ちに止めさせなければならぬ段階に来ている。現在のイギリス人に呼びかけるには、
親しみ深い、謙遜な態度でなければ、けっして効果をあげることはできない]
唐突だが、これを演芸世界にたとえれば、ホーホー卿のウィリアム・ジョイスは、
客であるイギリス国民の意識変化には「KY」状態で、最初に受けたからというので、
一手一色(ひとてひといろ)の芸を演じつづけている頑迷な二流芸人。
しかし席亭で演目プロデューサーたるゲッベルスは、
客と芸人との心理的な関係変化をちゃんと見ていたということになるだろう。
ただし、当方が「さすがに、わかってるな」と思った二例とも、所詮は
懐柔のための「テクニック変更」判断であるという、
そこにこの種の指導者が敬愛されない理由があるのだけれど。

なお、ウィリアム・ジョイスは戦後イギリスで裁判に付され、大逆罪で絞首刑になった。
ゲッベルスは大戦末期からベルリン陥落までヒトラーと行動をともにし、
最後は家族もろとも自殺の道を選んだ。生前、戦争が終わったらアメリカへ移住したい、
あの国なら自分のような天才を正しく遇してくれるだろうから、などとも言っていたという。
うぬぼれ鏡の典型であって、自身に関しては冷静な分析能力も働かなかったようなのだ。
というわけで、以上をもって「宣伝大臣とラジオ」の終了とするが、
放送や宣伝広報の専門家諸氏には、もう一度「イントロダクション」から読み返していただき、
プロデューサー、ディレクター、タレント、演芸人、あるいは上司だの官僚だの、
似たタイプの人々を思い出していただくのも一興かと思う次第である。(了)


50・宣伝大臣とラジオ
 その4 「そら、あんたは楽じゃろう!」と言いたくなる話。
1936年の8月にベルリン・オリンピックが開催され、
ヒトラーのドイツは、独裁下のそれとはいえ、躍動ぶりを世界に示した。
日本では昭和11年であって、その半年前に2・26事件が起きている。
このとき戒厳司令部は事件関係者の電話盗聴と録音を実行しており、
『盗聴 二・二六事件』(中田整一。文藝春秋)という本には、
その詳細や、国産の録音機を使ったいきさつなども記されている。
[初期の円盤録音・再生機は、収録時間が短く、
最新鋭のテレフンケン社製のものでも片面三分程度であった]とのことで、
この場合の円盤は録音原盤を意味し、
テレフンケンは言うまでもなくドイツの機器メーカーである。
[最初期には、いくつかの録音方式があったが、あくまで中心は円盤式である。
磁気テープによるレコーダーに主役の座を明け渡すのは、
ドイツで一九四二年、米国では戦後の一九四七年]という記述もある。

ところでゲッベルスであるが、自身も望んでの多忙のなか、
映画界も統制する地位と権力を背景に複数の女優と浮気をし、
1938年にはそれが離婚騒動にまで発展して、ヒトラーに叱責されたりしている。
一方この年、ドイツはオーストリアを併合し、チェコのズデーテン地方も獲得している。
翌39年、ポーランドに侵攻して、遂に第二次世界大戦が始まるのだ。
そして『第三帝国と宣伝』から紹介すれば、
[宣伝省は、ドイツ軍が外国を席巻すると同時にその国の放送施設を接収した]
[オランダ軍が降伏した翌日、三十名からなるベルリンのラジオ報道部隊が
ヒルヴァーサムへ到着した。彼らは放送装置が破壊されている場合に備えて、
あらゆる部品の代替品を用意しており、新しい送波機を据えつけさえした。
また二週間分の録音したオランダ語の放送番組を携行しており、
すぐ配布できる番組の時間表を用意していた]とのこと。
ただし実際にはそれらは使われず、[ニュース放送が解禁になったとき、
オランダ人のアナウンサーは好きなようにどんなことをしゃべってもよいと告げられた。
しかし実弾をこめたピストルを手にした監視員がまわりに座っていたので、
どのアナウンサーもあえてドイツに不利なニュースを流すことはできなかった]という。
これまでと同じアナウンサーによる報道で聴取者を信用させようという、
巧妙かつ陰険な策であるが、それよりも当方がこの記述で呆然としたのは、
録音した番組二週間分を持ってきたという部分である。

なぜなら、冒頭に紹介した『盗聴 二・二六事件』によれば、
磁気テープはドイツでは1942年に主役の座についたわけだが、
オランダ侵攻はその2年前である。ということは、
最新鋭のテレフンケン社製でも片面3分程度だった原盤を使って、
二週間分の番組を制作収録してきたということだろうか。
もちろん、一日一回の放送で毎回の長さが3分なら円盤14枚、
両面が使えたのなら7枚を持ってくればいいだけだが、
まさかそんな程度のものではなかったはずだろう。
おまけにラジオ部隊のトラックには、「英国向け」とラベルの貼られた
二カ月分(!)の録音番組も積まれていたのだという。
合計すれば何百枚なのか何千枚なのか。重さは何百キロか何トンか。
(昔のSP盤の、あのずしっとした重さを御想像あれ)
機材や部品以下、延々たるトラック隊列で運び込んだのかもしれず、
しかもそれが、(少なくともオランダ語版は)実際には使われなかったという、
そのシジフォス的な行為には絶句するしかないのである。
仮にその事実を聞かされたとして、制作者たちの徒労感はどれほどだったか。
現在の民放ラジオにたとえるなら、何か壮大な実験をやるとて社命により、
ニュースと天気予報と交通情報以外、徹夜の連続で番組表一週間分を、
ゲストから何から、オール事前収録して編集も終えていたのに中止となり、
やはりいつもどおりのオンエアになったという、
その虚しさの何十倍だったのではあるまいか。
トップのゲッベルスは、演説と浮気で自己陶酔しながら、
指示だけ出しておればよかったのかもしれないが。

49・宣伝大臣とラジオ
その3 フォルクス・エンプフェンガー、訳して国民ラジオとは?

ナチ党が政権を取ったのは1933年だが、
その頃のドイツにおける放送事業はどうなっていたのか。
『第三帝国と宣伝』によると、1928年にドイ
ツ郵政省が
[当時国内の若干の地方で開始されていた約十の会社の放送事業に対し
強い監督権をもつことになり、ラジオ受信機をもつ一般大衆が支払う聴取料を
一手に収めることになった。コマーシャル放送は企業化されなかった]とある。
そして、[郵政省はまた、ドイツ放送会社を監督していた。このドイツ放送会社は、
地方の放送会社の株を大部分所有しており、それら地方放送会社の
放送番組を送り出す国内送信機を所有し、管理していた]のだという。
ウィキペディアでは、この管轄は郵政省ではなく内務省、
ドイツ放送会社は帝国放送協会となっているが、何にせよ民放というものはなく、
中央集権的な放送体系がつくられていたことになる。

ただし当時の他国の放送は、イギリスがBBC(英国放送協会)一本、
日本もNHKの前身である日本放送協会のみだったから、
このドイツ方式が格別特異だったというわけではない。
むしろ、1919年にGEが放送機器メーカーRCAを分離独立させ、
そのRCAが各地のラジオ局を傘下に収めつつ、
1926年には子会社としてラジオ局NBCも設立したという、
アメリカの資本主義「自由増殖」体系の方が特異だったのだ。
それはともかく、政権奪取と同じ年に宣伝省が発足するや、
ゲッベルスはその放送体系を同省の管轄下においた。
と同時に、大衆用ラジオ受信機の開発と普及にも乗り出した。

以下、ウィキペディアの「国民ラジオ」という項目記述から抜粋させてもらえば、
当時のドイツでは労働者の平均月収が120〜150マルク、
国産のラジオは安い物でも150マルク前後していたのだが、国民ラジオは
最初の型が76マルクで買え、その後さらに安い製品も発売されたという。
ここで思い出せすのはヒトラーの肝煎りによるVW、
フォルクスワーゲン(直訳すれば国民車)のカブト虫であって、
これも労働者に安い車をという構想で開発された。そして購入希望者の
積み立て金制度もスタートしていたのに、戦争でパーになってしまった。
ラジオはそうではなく購入者が年々増加し、『第三帝国と宣伝』ではその数を、
[一九三三年から三四年にかけて、全国のラジオ受信機を所有する家庭は
百万を越した。一九三八年には、その数字は九百五十万になった]としている。
ただしこの国民ラジオ、ウィキペディアによれば短波が入らず、
中波でも海外放送は受信できなかった。いわくは、
[たいていの場合、国民ラジオのチューニングスケールには
ドイツの放送局のダイヤル位置だけしか記されておらず、
低価格帯のモデルには、もともとチューニングスケール自体が欠落していた]
当方読みながら、「現在で言えば北朝鮮のラジオだな」と思ったところ、
ウィキペデイアの注記にも、まったく同じ主旨のことが書いてあった。
それは当然であって、ヒトラーとスターリンは背中合わせの同類人間であり、
北朝鮮はその双方から独裁手法を流用して体制を死守しているからだ。
それにしても、こうやってあれこれ時空を超えて対比していると、
ラジオ受信機ひとつを見るだけでも、国家や社会の特性がわかることに気づく。
現在の日本は、以前紹介した、「ホームセンターで12バンドのポケットラジオが
1980円で買える」という、そんな国であり社会なのだ。

追記。宣伝大臣とラジオ(イントロダクション)で、ヒトラーとノーベル賞のことに触れ、
「よって、仮に中国が似たことをしだしたら〜」と書いておいたら、何たることだ、
ノーベル平和賞に対抗してか、北京大学が孔子平和賞なるものを設立したという。
当然政府の主導だろうが、何と授賞相手の台湾元副総統から拒絶されている。
結局、独裁国家としてはこうせざるをえず、自分で自分を追い込んでいくんですな。

48・宣伝大臣とラジオ
 その2。雄弁家とはこの場合、扇動家なのであるが。 

前回紹介したゲッベルスの日記抜粋のあと、『第三帝国と宣伝』
(原著は1960年にイギリスで刊行)の著者はこう書いている。
[すぐれた雄弁家は、聴衆に向かって直接話しかけるときには、
声の出し方を正確に一定の高さに保つことによって、
聴衆の注意を完全にひきつけることができる。ゲッベルスはもちろん
この多分に勘を要する技術に充分な経験を積んでいた。
しかし自分の顔からたった二尺しか離れていないマイクロホンに
(ラジオ向けとして)ちょうどいい声の出し方をしながら、
同時にその声を満員の大会場の隅々まで響かせようとすることは、
高度の技術を要することであった] 
そしてこの部分を、共著者の片方であるロージャー・マンベルは、
リアルにわかって書いていたのだろうと思う。
なぜなら、彼はシナリオライターであり映画評論家であり、
BBC(英国放送協会)の解説者も勤めた人物だという。
発声法やしゃべり方(さらには表現効果を高める表情や身振りなど)の
知識や技法に仕事として接し、自身でも応用していただろうからだ。
したがって、仮に記録フィルムでゲッベルスの演説を検分したならば、
「あ。断定したあと、聴衆の反応を見ておるな」とか、
「いまの怒りの声は少しわざとらしかったな」とか、
プロがプロのそれを分析するという作業ができていたに違いない。

対して当方は上記の引用について、「声の出し方を」から
「ひきつけることができる」までの記述には、「へええ。そうなのか」と思うけれど、
ならば「正確に一定の高さに保つ」というのが具体的にはどうすることなのか、
その見当がつかない。後半の「二尺しか離れていないマイクロホン」以降については、
これまた「なるほど」とは思うものの、実際の技法やイメージが思いうかばないのだ。
類推材料として、日本の民放ラジオの興隆期によくあった何々ホールからの公開放送、
リスナー参加の歌合戦やクイズ番組を想起してみたのだが、
それらは出演者がラジオ向けの声として普通の大きさ高さでしゃべっていても、
PA用のスピーカーによって会場の隅々まで音声が届いていた。
ゲッベルスの演説に「PAありだったか否か」については前回書いたので繰り返さないが、
上記の引用は、それなしで、「肉声を隅々まで届かせつつ、しかも
マイクを通したラジオからは聞きやすい声が出ているように」、という具合に読めるのだ。

実際、ゲッベルスも日記に書いている。
『スポーツ宮殿で二十分間聴衆に向かって話し、同時にマイクを通して放送する。
思ったよりもうまくいった。いつも生きた聴衆に向かって話しかけ、
会場の雰囲気とともに興奮し、聴衆の顔色を読んで、
自分の演説の効果を判断することになれている者にとって、
とつぜん生命のないマイクロホンと顔をつきあわせることは、なんとも奇妙な経験である』
この記述には、「うまくいった」ことを自慢したげな様子はあっても、
前回触れたような「嘘」はなく、そのまま受け取ってもいいと感じる。
しかしこれまた前回も書いたが、スポーツ宮殿は巨大なホールなのだ。
PAなしだとしたら、よほど「伸びる」声を使っていたことになる。
まあ、常識的には、PA用のマイクも併用しつつということだろうが。
ともあれ、日記を引用したあと、著者は述べている。
[ナチが政権を握り、ラジオ(それは民間に普及してから
まだ数年にしかならなかった)を自由にすることができるようになるや否や、
新しい講演の技術をマスターせねばならなかった。
ゲッベルスは間もなく放送のエキスパートとなった]
公的目標や私的願望に邪悪さを隠していた雄弁家は、
それゆえに努力家でもあったということだろうか。

47・宣伝大臣とラジオ(承前)
 その1。しゃべって、湧かせて、嘘を書く。  

パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスは大学で学んで哲学博士号も取得しており、
ナチ党主要メンバーのなかでは知性派の側に入る。ただし、
幼児期の病気のため片足に障害が残り、肉体的にも貧弱でスポーツが苦手だった。
彼もまた、ヒトラー以下ナチス著名人に少なからず見られた、
「優越感と劣等感」が複雑にからみあったキャラクターの持ち主だったとされている。
経済壊滅と超インフレで知られたワイマール共和国時代、
職を転々とし、ナチ党には早い時期から加盟している。
そして次第に、党の演説家として知られるようになっていく。
『このような聴衆に話しかけることはまったく楽しい。
まるで夢中で時空の一切を忘れてしまう。
僕は二時間半にわたって話し、政府に対し攻撃に次ぐに攻撃をもってした。
それは長い拍手喝采をもって終わった。スポーツ宮殿のわきかえるような人波を後にし、
(中略)たった二、三分後にわが家に帰って静かに座っている自分自身を見出すことは、
なんとも奇妙な感じのするものである。時間もおそいしくたびれてもいるので、
すぐに床について、死んだように眠る』 

これは前回紹介した『第三帝国と宣伝』に載っている、
ナチスが政権を取る前の時期(1932年頃)の、彼の日記の一部である。
ただし当方の直感印象では、「静かに座っている」以下の記述には「嘘」を感じる。
政治家に限らずだが、自己を偉大視し、日記でさえ
他日の公開を前提に書くようなタイプの人間が、この種の嘘をよく書く。
考えてもみてほしい。自己愛と顕示欲の異常に強い人間が、
多数の聴衆を前に政府に対する攻撃また攻撃の演説を二時間半やり、
大歓声を浴びて会場をあとにしてきたのだ。三分後に自宅に帰ったのが本当なら、
普通に考えて、静かに座るとか、そのまま眠るなどということができるわけがない。
脳は興奮しつづけており、したがって肉体疲労などほとんど感じず、
たとえば室内を歩き回りながら演説の「受けた」部分を思い出してさらに興奮し、
自己の全能感を反芻して心理的エクスタシーに至るという、
それがこの種の人間の「正常な」反応なのである。
(実際、ヒトラーが演説を終えた直後の写真には、欲情恍惚の眼をしているものがある)
第一、すぐ床について眠ったのなら、この日記はいつ書いたのか。
翌日以降に、鎮まった頭で「美しく」書いたに違いないのだ。

でまあ、それはそれとして、記録映像によればスポーツ宮殿は巨大なホールだから、
このときの演説には当然マイクとスピーカーが使われていたと思うのだが、
日記にもこの書籍自体にも、それについては何も書かれていない。
しかし、それ以降の動きに関しては、著者のこういう文章がある。
[彼はまた最も困難な技術、即ち演壇から大勢の聴衆に呼びかけながら、
同時にその同じ演説をマイクを通して、
ラジオで全国に放送するという技術をマスターしなければならなかった]
ということは、聴衆に対してはマイク無しだったのか。
それともPA用と放送用のマイクを使い分ける技術ということなのか。
(記録フィルムに残っている、1933年の彼の別の会場での演説場面では、
形状の異なるマイクが三、四本立っている。しかし、上記の演説のとき、
PAありだったか否かは、とりあえず当方には不明なのだ)
何にせよ、自分を宣伝の天才だと思っているナルシストが、
いよいよラジオに関係しだすのである。 

46・宣伝大臣とラジオ(イントロダクション)
国内のジャーナリストを全員登録制にする。
新聞、出版、映画、演劇、放送などを党の統制下に置き、
それに従わず異論を伝える媒体には休刊や業務停止を命じる。
某作家へのノーベル平和賞授賞が決まったとき、彼は収容所に入れられていた。
……などと近頃聞いたような話だが、
これは第二次大戦以前のナチスドイツの話であって、
作家はカール・フォン・オシツキーという人である。
このとき彼は釈放されたが、ヒトラーは以後のドイツ人のノーベル賞受賞を禁じ、
翌年にはドイツ国家賞という代わりの賞を制定した。(よって、
仮に中国が似たことをしだしたら、さらに警戒警報を高鳴らせなければならない)

で、これらは『第三帝国と宣伝』(ロージャー・マンヴェル&ハインリヒ・フレンケル)
という書籍に書いてあることで、ぼくはこの本を1969年の再版で買っている。
だから版元も、事情があって再建中だったのか、
東京創元社ではなく東京創元新社になっている。
大学四年のときだから、「独裁国家における報道」という
卒論代わりのレポートを書くための、「丸写し」資料として買ったのだ。
(すいません。私、社会学部のマスコミ専攻で、ゼミが新聞学だったもんで。
それにしても、いまの大学生は「コピペ」などをやりおってけしからんな。
わしらは丸写しと言えども肉筆で書いたのだ)

まあ、そんなことはどうでもいいのであるが、書籍のサブタイトルが
「ゲッベルスの生涯」で、この男はナチスの国民啓蒙宣伝大臣である。
そして先述のごとく、新聞から放送まで、すべてを自己の統制下に置き、
多忙かつ大所高所から全体を見ていくべきトップであるのに、
個々の記事や作品内容にまで指示や命令を下していた。
これはこれで、また別の近隣某国の独裁者を思い出す話であるが、
ここでようやく本題に入る。当時の放送はもちろんラジオオンリーで、
この書籍には彼がそれをどう利用したかという話が、随所に載っている。
ひさしぶりに読み返したらおもしろかったので、次回から何回か、
その紹介と当方の感想や考察を書くことにしたのである。
今回ここで「エピソード・その1」も書くつもりだったが、
前説が長くなりましたので失礼……

45・テーマ曲に名曲を使うと、こんな反応も起きるんです。
大学受験の勉強に、「赤尾の豆単」を使った世代である。
しかしその発行元の旺文社が提供していた、
『大学受験ラジオ講座』で勉強したことはない。
「いらち」すなわち「せっかち」だから、こちらの意識の流れを
講師の講義スピードに合わせるのは苦痛なのだ。
にもかかわらず、あの番組のテーマソングは耳に残っている。
それがブラームスの「大学祝典序曲」という曲なのだとは知らなかったが、
いまも何かの機会にイントロを聴くだけで、講師の声が聞こえてきそうに思う。
居住エリアではラジオ関西がベルトで流しており、多分、深夜放送を聞くため
ダイヤルをあちこちまわしているとき、何度も耳に入っていたのだろう。
調べてみると、番組は何と昭和27年(1952)に始まっており、
当方の高校ならびに大学時代はもちろん、社会人になってからも
ずっとつづいていたから、耳に入った回数もかなり多かったに違いない。
ゆえにいつのまにか、あの曲=旺文社という連想回路ができてしまったのだ。

同様の例はもうひとつあって、カトリックの宗教番組『心のともしび』のテーマソング、
つまりベートーベンの「田園」、その第一楽章の一部である。
こちらも昭和32年(1957)スタートの超長寿番組で、当方は毎日放送で接していた。
早朝のミニベルト番組だから、多分、大学時代の徹夜読書のあととか、
作家になってからの同様の執筆後とか、
脳の興奮を鎮めるためのダイヤル操作で耳に入ってきていたのだろう。
じっくり聞いたことはないのに、「心に愛がなければ、
どんなに美しい言葉も相手の胸にひびかない。聖パウロの言葉より」などと、
定番ナレーションまで覚えているのだから、まさに「継続は力なり」である。
前記「ラジオ講座」は平成7年4月で終了したそうだが、こちらはいまもつづいている。
だから当方、前例と同じく、あの曲=カトリック教会と思っていたのである。

ところがあるとき、まだ半分寝ながら某局の早朝音楽番組を聞いていて、
「えっ!」とばかりに一瞬で目覚めてしまった。
リスナーからのリクエストで「田園」の第一楽章がかかったのだが、
その番組を提供しているのは仏教系の某著名教団だったからだ。
「おいおい。これは生番組ではないから、収録時には多分、
教団の担当者も立ち会ってたはずだろう。その人、
『心のともしび』を聞いたことがないのかな。この時間帯で
この番組を聞いてる年齢層のリスナー、少なくともその半分くらいは、
いま、カトリック教会を思い出してると思うんだけどなあ」
もちろん担当者や教団幹部の心が広く、
「ええ、ええ。それはよく知ってますけど、別にかまいませんよ。
名曲は名曲なんですから」と言ったのかもしれないが、あれには驚いたな。
たとえばの話が、学研とか河合塾の提供番組で、
「大学祝典序曲」がかかるようなもんだからな。

44・これもまた、ネットが雑誌を駆逐した例かな〜。
三才ブックスという会社から、『ラジオ番組表』というムックが
改編期ごとに刊行されており、いまは2010年の秋号が出ている。
情報やコラムのページもあるが、8割方は全国のAM、FM、短波、
その各局のタイムテーブルをそのまま掲載するページである。
縮小印刷だから文字が小さく細かくなり、じっくり見ようと思えば、
当方などルーペを用意しなければならない。
まあ、急ぐ必要はないから、その気になったときにと思っているのだ。
で、それはともかく、この「番組表」はこうやっていまでも刊行されているが、
ラジオの「出演者名鑑」(出版社がどこだったか覚えておらず、
タイトルも「タレント名鑑」か「パーソナリティ名鑑」だったかもしれない)は、
いつのまにか出なくなってしまったようだ。

もっか年に一回、東京ニュース通信社から『TVスター名鑑』が出ており、
タレント、歌手、局アナ、レポーターなどが顔写真と略歴入りで掲載されている。
上記ラジオ名鑑は、その「スター名鑑」と同じようなサイズと編集内容で、
北から南まで、各地ラジオ局の出演者が紹介されていた。
毎年とまではいかないが、二年か三年に一度は買っており、
タレントや歌手よりも、各地の局アナの顔写真と名前を見ていくのが楽しみだった。
作家の常として、ローカリティー豊かな顔や苗字があれば、
「いつか、何かの小説のなかで使えるな」などと思っていたのだ。だから、
すでに退社したと思うが、東北某局、ある女性アナの顔と姓名はいまでも覚えている。
名鑑の現物を保存しておけばよかったのだが、雑誌類は定期的に処分しているので、
いまとなっては惜しいことをしたものだと思う。と同時に、
刊行されなくなったことについては、「売れなくなったからかなあ」と残念に思うのだ。
早い話が、それらの欲求は各局の関連サイトで満たされるため、
ファンやマニアにとって、名鑑は不要になったということなのだろうか。
『ラジオ番組表』同様、全局まとめて見られるという、
その便利さとおもしろさには意味があると思うのだけれど。

43・三人とも知ってるだけに、映像が動き出します。
以下に書く二人の略歴は、SF作家仲間にとっては衆知の事実である。
しかしそれをここで紹介するのに、実名で書いていいかどうか判断に迷うので、
イニシャルを使い、地名などもぼかしておくことにする。
SF作家のM氏は四国出身。東京の大学で学び、
就職は地元に戻るかたちで、ラジオ・テレビ兼営の○○放送に入った。
営業や管理部門ではなく、確か制作のディレクターをしていたと聞いている。
同局のアナウンサーのなかに、同じく地元出身で東京の女子大を出た人がおり、
彼女の実家は大きな時計宝飾店である。
県庁所在地であり観光都市でもある市内中心部の、
一番賑やかなアーケード商店街にあり、
「○○町のK時計店」といえば地元では誰でも知っている店だという。そして、
どちらが先に退社したのか、また、退社してから結婚したのかその逆だったのか、
そのあたりの詳しい経緯と時系列は知らないのだが、
一緒になった二人は再度東京に移り、M氏はSF作家になって現在に至っている。
唐突になったわけではなく、大学時代にはSF研究会に属して活動していたから、
いわば好きな道にもどったわけだ。

で、以上の略歴をもとに当方が何を思ったかといえば、こうである。
「二人が○○放送に勤めつづけて、結婚もしてたら、どういう日常になったかなあ」
M氏はディレクター稼業と並行して、SF作家としても活躍しだす。
夫人はそういう場合大抵旧姓を使うから、Kアナウンサーとして仕事をつづける。
歴史ある城下町と陽性の風土。市の中心街の賑やかな雰囲気とそこにある民放局。
それらを土台や背景にして二人の仕事や生活を想像しだすと、
当方取材でその街を歩き倒したことがあるだけに、いくらでも広がることがわかるのだ。

たとえば、これは事実であるが、Kアナウンサーは往年の一時期、
桂べかこ(現・南光)氏と週一のラジオ番組をやっていた。
毎週の生放送だったのか、それとも隔週で二回分ずつとかの収録だったのか、
それは聞き忘れたが、べかこ氏が出張してやっていたのであると、
後年ぼくはその双方から聞いたことがある。となると、
仮に上記「IF」の世界にその番組をはめこめば、当時の「べかちゃん」のこととて、
Kアナの実家は○○町の時計宝飾店であって「お嬢さんなんですなあ」とか、
今度めでたく社内結婚したのはディレクターのMさんだが
「東大出てはるんやそうですな」とか、番組で次々とネタにしていくに違いない。
それらに対するリスナーの反応や、
各方面への噂の広がりなどをリアルに想定していけば、
これはもう軽いタッチの青春長篇小説もしくはドラマの世界になる。
ディレクター兼SF作家のM氏と、ラジオだけではなく
当然テレビの番組やニュースも担当しているKアナウンサー。
べかこ氏を根回し役の三枚目にして二人の日常をトレースしていけば、
その全体が、陽と陰、明と暗を含んで、
「ローカル放送局」それ自体を表現するに至ると思うのだ。
Mさん、(あらためて)、お書きになりませんか。

42・ほんと。「商売は道によって賢し」ですね。
出演者が一人というラジオ番組はいろいろある。
FMのDJ番組などに目立つし、さらに省力化(?)して、
ディレクターもミキサーも誰もおらず、本当に出演者一人で
すべてを処理している音楽番組も増えているらしい。
AMでは、知名度とキャリアを誇るベテラン俳優などがやっている、
長寿のトーク番組がいくつかある。一方長びく不景気状況のため、
「えっ。この時間帯の、このワイド番組を一人で?」と言いたくなるような、
気の毒さを感じてしまう事例もある。しかしいずれにせよ、それらを聞いていて思うのは、
「よく一人でしゃべれるなあ。そこがやっぱりプロなんだな」という感嘆である。
というのが、ぼくも一人で1時間なり2時間なりしゃべることはあるが、
それは○○市民大学の講演とか、××創作講座のレクチャーであって、
どちらも眼の前に聞き手がいる。前者なら何百人、後者なら
十数人から二十数人という見当であるが、こちらの視界に入っている人たちの表情や、
うなずく動作などを見ながらしゃべれるし、笑いが起きたときには
それが収まるのを待つわけだから、テンポや間合いもおのずと調整されていく。

ところが、ラジオ番組を単独でやるときは眼前にマイクがあるのみで、
スタジオ内には誰もおらず、自分が口を閉じれば周囲はしーんとしてしまうわけである。
その「しーん」を相手にしゃべっていって、テンポや間合いは何を基準に調整していくのか。
また、これは仕事の特性上もあってのことだが、当方、一人でいるときには
三日が五日でも平気で沈黙状態をつづけている。
だから、相手もいないのにしゃべるということが、感覚的に理解できてないのかもしれない。
「眼の前にはいないけど、マイクの彼方に大勢のリスナーがいるじゃないですか。
その姿を思いうかべながらしゃべるんですよ」などと言われるかもしれず、
つまりまあ、そのあたりを「さすがプロだなあ」と思うわけだ。
誰だったかは忘れたが、著名人だけれど放送に関してはアマチュアという立場の人が、
その種の番組の収録時にはマネジャーか誰かにテーブルの向かいに座ってもらい、
その人を相手にしゃべっていくのだという話を聞いたことがある。
もちろん相手は黙って聞く役だが、うなずきや表情の変化は視認できる。
この方式なら、当方も稽古すればできるかもしれないと思うのだが。

41・おみごと。名文。三重丸!
まず例示するのは、ある日ある時刻の某AM放送から交通情報を録音し、
そのまま文章化して若干カットしたのち、
当方の長篇小説中に使わせてもらったものである。
『はい。お伝えします。一般道路、枚方市内、事故の情報です。
国道1号線京都方面ゆき、国道須山で事故がありました。
このため7キロにわたって渋滞しています。
車二台の事故で、同行車線が規制されています。
反対方向西行きも、現場を中心に3キロ渋滞しています。
次に阪神高速ですが、西行きの船場で事故のため守口線にかけて6キロ、
東大阪線にかけても7キロ混んでいます。長柄と高井田の入り口が閉まっています。
環状線までの通り抜けに、守口から30分、水走から1時間前後かかっています。
西名阪道の東行き、郡山インター付近に停まっていた故障車は移動しました。
影響で4キロの渋滞。神戸明石間の第二神名道路西行き、
伊川谷からも4キロ渋滞しています。
名神高速や中国道、阪和道は順調に流れています。以上、道路交通情報でした』

実際はもう少し長く、だから若干カットというのも添削的な作為を加えたわけではなく、
短くするため、伝達内容を一部単純カットしたということである。
しかしそれでも、小説のなかでこれを一気に読ませるのは、読者に「長いな」と
心理的な負担を感じさせ、ストーリー進行の「流れ」を止めることにもなる。
だから上記を三分割し、地の文や台詞をはさみつつ、順に使用させてもらったのだ。
そしてぼくはそれらの作業をやっているとき、
それまで数え切れないくらい聞いてきていた交通情報のアナウンスが、
実に「名文」であることに初めて気づいて驚嘆していた。
これら交通情報は、日本道路交通情報センターに所属する女性アナウンサーが、
刻々変化する状況を把握しつつ、自分で作成して伝えている。
全体を文章化して朗読しているのか、それとも箇条書き程度のメモを見ながら、
頭のなかでセンテンス化してしゃべっているのか。それは知らないが、
必要な情報を短い時間で無駄なくコンパクトに伝えるという、
実用文に要求される条件を満たしつつ、流れやリズムの良さによって、
耳で聞くときの心地良さまでうみだしている。

『一般道路、枚方市内、事故の情報です』
書き起こしながら、まずこの、情報を特定していく「畳み込み」の速さに驚き、
しかしその伝達自体は女声による標準スピードのアナウンスだから、
決して「せかせか」はしていなかったことに感心した。
『このため7キロにわたって渋滞しています』
このセンテンスでは、「わたって」という言葉がリズムを作って、
「渋滞しています」という結語の強調効果を出している。
『次に阪神高速ですが、西行きの船場で事故のため守口線にかけて6キロ、
東大阪線にかけても7キロ混んでいます。長柄と高井田の入り口が閉まっています。
環状線までの通り抜けに、守口から30分、水走から1時間前後かかっています』
これは三分割で使用した二ブロック目であるが、います・います・いますの三連続は、
普通なら印象が平板になってしまう、「芸のない」繰り返しである。
ところがこの場合の三センテンスは、
混んでおり・閉まっており・かかっているという、異なった情報を列挙しており、
かつ、混んでいて・閉まっているので・かかっているという、因果関係も伝えている。
「長柄と高井田の〜」という真ん中のセンテンスが短いこともあってか、
「います」の三連続が、各センテンスの内容をぐっと明確にしているのだ。
そのあとの、『影響で4キロの渋滞』という名詞止めも効いているし、
『以上、道路交通情報でした』という、時間の都合によっていつでも締めくくれる、
「以上」と「でした」の威力もすばらしい。情報の把握と言葉による伝達。
その作業を毎日毎日繰り返して何年もやっていると、
仮に最初は無駄が多くて間延びしたような文章しかできなかったとしても、
伝えやすさわかりやすさというモノサシに照らした日々の修正が功を奏して、
遂にこういう「名文」が生まれてくるのである。
当方、これはまさにプロの技であると、感服した次第であります。

40・作家だから、構成にも意識が向くのです
文章は通常、「起承転結」という構成で書いておけば、
まずまず無難で間違いがない。娯楽映画(特に時代劇など)なら
「発端・展開・葛藤・クライマックス・大団円」という構成が有効である。
ならばラジオ番組の構成には、どんな定石があるのだろう。
ドラマなら、ミステリーはミステリー、ホラーはホラーの手法や約束事を使い、
それを耳で聞いたときリアルになるよう応用していけばいいのだろうが、
2時間とか3時間のワイド番組はどう考えればいいのだろうということだ。
もちろん、ニュース・天気予報・交通情報などの定番コーナーがあり、
CM枠もあって、それぞれ複数回流されるその時間帯は、
最初から決まっていることが多い。したがって構成手順としては、
まずそれらを進行表の該当箇所に配置し、空いている時間枠に
リクエスト曲・お便り紹介・ゲストインタビュー等々、
あれこれの要素をちりばめていくことになるのだろう。
しかしその順序は、何にのっとって決めていくのか。
番組のオンエア時間帯やメインリスナーの聴取状況などから、
経験則的におのずと決まってくるものなのか。
それとも各局のプロデューサーやディレクター、あるいは
構成作家などは、それぞれ独自の構成定石を持っているのだろうか。

何でこんなことを書いているかというと、
ラジオとは直接関係のない分野に一種の「人間」理論があるのだが、
実は当方、その構成要素や展開順序が、そのまま
ワイド番組に適用できるのではないかと思っているからである。
しかし、それを最初から「この理論を流用して」などと言うと、
「現場」感覚による反対もしくは冷笑が返ってきそうでもある。
やるなら黙って試してみるのがよさそうで、うまくいったときの、
秘かなる快感満足感も大きかろうと思うため、
かくは奥歯にモノをはさんだ書き方となった次第なのだ。
無論、何の効果も反響もないという可能性も十分ある。
その恐れもあるがゆえに、黙ってこっそりとですね……

39・いまみたいにデジカメや写メールがあればなあ……
『屋上の小さな放送局』(庄野至・編集工房ノア)という本の帯、
その裏表紙側には本文の一部が紹介されている。
「阪急百貨店西側の隅のエレベーターに乗る。屋上にあたる九階で止まる。
そこは開局して半年あまりが過ぎたNJB(新日本放送)。
百貨店の屋上にスタジオと事務所を急拵えした小さな放送会社」云々。
で、前にもちょっと触れたこのラジオ局、
(毎日放送の前身で、昭和26年にスタートした会社)、
上記作品を読んだとき、「阪急の屋上に建てたスタジオって、
いったいどんな具合のものだったんだ?」と興味が増した。
しかし表紙カバーのイラストは、百貨店を斜め下から見あげた夜景であって、
肝心のスタジオは、何か横長の箱のようなものと、
その上にそびえたつ鉄塔が描かれているだけだった。

だから、リアルな姿が知りたくて気になっていたのだが、
あるときGoogleの画像検索で「新日本放送」と入れてみたところ、
即座に出てきたので嬉しかった。
ごく小さな、拡大すればぼやけてしまう精度の写真ではあったが、
「なるほど。これはまさしく急拵えという雰囲気の建物だ。
このスタジオで、しかもデパートの屋上で、そのまま長く
放送業務をつづけるわけにはいかなかったんだろうなあ」と得心できたのだ。
そこで、次には思い出して「和歌山放送」で検索し、
期待している画像が出てこなかったので、
「和歌山放送 旧社屋」とか「旧本社」とかにして再トライしたのだが、
残念ながら願いはかなえられなかった。当方の古い記憶で言うなら、
欲しかった画像というのは、こういう建物の写真なのである。

敷地内に入ると正面に送信用の鉄塔が立てられている。
その向こうに木造二階建ての社屋。色までは覚えていないが
板壁はペンキ塗り。建物中央に玄関があって左右対称に窓が並ぶ。
ただしその数は片側三つか四つかそんなもの。
内部に入ると床は板張り。階段の手すりも木製。
行ったときにはちょうど床の油拭きをしていたので、
鋭い匂いが鼻を突いてきた。
地元釣り針メーカーのCM打ち合わせのためだったか、
南海電車の端から端まで乗って大阪から出向いた当方、
「田舎(失礼!)のラジオ局って、のんびりした雰囲気なんだなあ。
まるで昔の村役場か、連隊本部みたいな建物じゃないか」と思っていたのだ。
1970年代初めの話であるが、どこかの、どなたかの、
ホームページにでも載ってませんでしょうかね。
御存じの方がおられましたら、なにとぞ御一報を。

38・う〜ん。実情実態を、もっと知りたくなってくるねえ。
共同キャンペーンのときなど「民放101社」と言っているように、
日本の民間ラジオ放送局は101社ある。
うちわけは、AM47社、短波1社、FM53社である。
(それ以外に、コミュニティFM160余社がある)
ただし前回書いたように愛知国際放送が廃止になるので、
以後は100社ということになる。これが多いのか少ないのか、
「本場のアメリカはどうなんだろう」と思ってネット検索してみたところ、
2004年6月現在のデータであるが、何と連邦通信委員会認可のラジオ局、
AMが4771、商業FMが6218、それ以外にも、
教育的FM局(どんな放送局なんだろう?)が2497あるという。
AMと商業FMだけでも1万社を越すわけで、日本の大方100倍という多さである。

しかし人口は、概数だがアメリカが3億1千万強、日本は1億3千万弱であるから、
2倍半弱の人口に対して100倍の放送局があるということになる。
AMすべてが商業局なのかどうか、この検索データだけではわからないが、
アメリカのことだから、ほぼすべてと思っていいだろう。したがって当然、
「その全局、ちゃんと採算が取れてるのか?」という疑問がうかぶことになる。
しかしそんなこと、当方がわずかなデータと知識だけで考えてもわかるはずがなく、
詳しいことが知りたければ専門家(調査研究部署を持つ放送局か広告代理店、
もしくは、マスコミ論や放送論をやっている大学教授など)に聞くべきなのだ。
ただし、当方の漠然とした印象では、きわめて少人数でやっており、
番組制作にもほとんどカネをかけない、本当にその町の住民だけとか、
特定ジャンルのファンのみを対象にしているとかの、
ミニミニ放送局が多いのではないかと思う。
昔、北杜夫氏の旅行記(確か『南太平洋ひるね旅』だったと思うのだが)で、
ハワイかどこかに父親と娘の二人でやっているラジオ局があると知り、
「これは放送局というより、放送店だなあ」と思った記憶がある。
ロックなりカントリーなりを流しつづけている音楽専門局も多いそうで、
人件費にしろ制作費にしろ、そういう局も
個人商店的なレベルで運営していけそうなのだ。

そういえば何年か前に、雑誌「文芸ポスト」がラジオ特集をやったことがあり、
「パック・イン・ミュージック」で鳴らした小島一慶氏がエッセイを寄せておられた。
文中、一番感動した番組として、ハワイで聞いた日本語放送が紹介されており、
それは男性DJが琴か何かの曲をBGMに、日本の鉄道時刻表に載っている駅名を、
北から南まで、順に読んでいくだけの番組だったという。
しかしそれらの駅名によって、土地土地のイメージがぶわーっと喚起され、
これこそラジオだと思ったという話だが、これもギャラ以外の制作費はゼロに近いのだ。
ただしもちろん、ハワイで日系人向けにやっている番組だからこそ通用したわけで、
日本国内でそれをやっても退屈されるだけかもしれないが。
しかし何にしても、民放ラジオや商業放送というものに関して、
日本とアメリカでは送り手も受け手も、
やはり異なった認識と価値観を持っているらしいなと感じる。
そうでなければ、2倍半の人口に100倍の局などという、
そんな数字が成り立つわけがないのである。

37・こちらも、「ないか」に「ないか」を重ねた推測ですが
外国語のFM民放局「RADIO―i」、すなわち名古屋の愛知国際放送が、
2010年9月末で放送を終了し、そのあと会社を清算する予定とのこと。
放送業務を新会社に引き継がせず廃止してしまうのは、
コミュニティFM局以外、地上民放局では初めてのことだという。
1999年に設立され、2000年の4月に放送を開始したが、
単年度で黒字になったことは現在まで一度もなかったそうだ。
この外国語によるFM民放局、阪神淡路大震災のとき、
居住する外国人への情報伝達が十分ではなかったという反省から、
まず95年に大阪で「FMCOCOLO」(会社名、関西インターメディア)、
96年に東京で「InterFM」(エフエムインターウエーブ)が開局した。
そのあと、97年福岡の「Love―FM」(九州国際エフエム)、
そして00年にこの愛知国際放送とつづいたそうだが、
どの局も正直なところ苦戦状態が続いてきたらしい。
地元の有力企業に支援を求めたり、他の放送局の傘下に入ったり、
外国語放送の比率を落として日本語の番組を増やしたり、
さまざまな打開策を講じてきたという。そしてその苦戦の原因は、
経営・番組・人事等々、各局が各面で複数持っているのだろうが、
背景要因として共通しているのは、リーマンショック以降の不景気状況と、
インターネット広告の増加によるマス媒体全体の業績不振傾向だろう。
スポンサーも必死だから、限られた広告費は
少しでも効果の大きそうなところへ、どんどん移されていくのだ。

しかし、ぼくが思うに外国語FM局の場合、この背景要因以前に、
さらに根本的な共通原因があったのではないか。
それを最初から内包しつつスタートしたところ、案の定、
それが顕在化したということではないのか。
当方の推測であるから、間違っていたらお詫びして取り消すが、
その根本共通原因とは、数字の読み(予測)の甘さではなかろうか。
上記4局とも、当初の想定リスナーはエリア内に居住する外国人であり、
その人数は限られているわけだから、放送対象地域は採算性を考慮して、
複数の都府県をカバーすることが認められている。愛知国際放送の場合、
愛知県名古屋市以下の6市に静岡県の浜松市が加えられ、
これは日系ブラジル人など自動車産業で働く人たちが多いからだそうだ。
だからその合計数は確定近似値として算出できるわけだが、
そのうちの何パーセントが聞いてくれるかという、
聴取率の予測に甘さがあったのではないか。
無論それは災害時にはぐんと跳ね上がるだろうが、
前にコミュニティFMの項でも書いたように、
日常の番組編成でリスナーを確保して
採算を取っていかなければならないという、
それだけに「しんどい」平時の予測値においてだ。
「これくらいのパーセントはいくだろう」「としたら、その実数はこれこれ」
「それだけ吸引できれば、広告の訴求対象としても十分な人数なのだから、
スポンサーも納得して出稿してくれるだろう」etc。

そして、もしこういう、「だろう」に「だろう」を重ねる楽観予測が
計画段階から通ってきたのだとすれば、それはさらにその前段階に、
「まず設立ありき」という政官民によって合同醸成された「空気」があり、
そこに、「それもひとつのビジネスチャンスだから、
とにかく出資話には乗っておこう」という、
地元企業の思惑が加わっていたからではないか。
放送は免許事業で「権利物」だから、戦後の民放ラジオ・テレビの設立期以来、
既存のマスコミ企業たる新聞社から失礼ながら有象無象の会社まで、
多数の参画希望社が錯綜してきた歴史がある。
そして複数社がそれぞれのパーセンテージを出資してスタートするのだが、
仮に赤字がつづけば、持ち株を他社に売却して損切りする企業も当然出てくる。
愛知国際放送の場合も、当初は複数だった地元出資社が、
途中から某社の100パーセント子会社になったという。
そして今回、とても維持できなくなって清算ということなのだ。
「まず設立ありきという意思」「それを合理化するための楽観予測」
そして、「とりあえず乗っておこうという思惑」。
このパターンで進められた事業の成功率が非常に低いことは、
全国各地で数多くの第三セクターがつくられ、同じく数多く破綻していった、
その経験でわかっているはずなのだが。
まあ、そんなことは承知の上で計画を進めていくのも
政治家・官僚・経済人の戦略であって、それぞれ高等戦術的には、
地域経済に十分のプラスをもたらしてきたのかもしれないが。

36・嗚呼。いまはなき録音スタジオよ……
昔々の広告制作者時代、ラジオCMや業界情報テープを、
ディレクター兼ライター兼進行マンとして作っていたとき、
収録作業は時間貸しの録音スタジオで行った。
大録(大阪録音?)、大スタ(大阪スタジオor大阪録音スタジオ?)、
アートボーン(正式社名はアートボーン・アソシエーション)などであるが、
一番よく使ったのは大江橋近くのビルの地下にあったアートボーンで、
その最大の理由は料金が割安だったからである。
ラジオCMは長いものでも60秒、当時は20秒のやつが多かったから、
一商品でAタイプ、Bタイプ、Cタイプと3種類録るにしても、
まあ1時間借りておけば十分だった。CMタレントには現場で原稿を渡し、
主旨や狙いを説明して、口ならしのため一度自分で読んでもらう。
そのあとマイクに向かってテスト朗読してもらうのだが、相手はプロだから、
多少の指示や訂正だけで、そのまま本番収録に入れるからだ。

ところが上記の業界情報テープというのは、
某合板会社が業界ニュースや自社の新製品情報を、
月単位で収録して60分物のカセットテープにプリントし、
全国の販売代理店に郵送提供していたものだった。
冒頭、テーマ曲に乗せてタイトル告知があり、次に社長の挨拶が入って云々。
中頃には銀行の人に頼んで景気動向の分析と予測もしてもらうという、
まあ、硬派の経済番組のような構成でやっていた。
当然、社長や銀行マンという素人(失礼)の録音は長くかかるし、
素材として収録したそれらからも、言い間違い部分や、
「あ。失礼しました」などという言葉を抜かなければならない。
そうやってきれいにした素材を揃えておいて、
そのあと男女タレントによる進行部分を通しで収録しつつ、
その要所にはめこんでマスターを作っていくわけだから、
全員が慣れてない第一回目は8時間ほどかかってしまった。
以後、作業手順を工夫し、皆も慣れてきたので、
4時間から5時間というあたりにまで短縮できたのだが、とにかく
時間料金の安いところというのがスタジオ選択の大前提だったのだ。

ちなみに、このラジオ番組風カセット情報の仕事は、
ぼくにとっては、結果として非常に有益な訓練になった。
口語を軽くリアルに書くトレーニングは大量生産したラジオCMでやり、
それは作家になってのち、小説の会話を書くとき大いに役立った。
小説の構成作業や文章を書いていくための下稽古は、
このカセット情報でさせてもらったとも言える。
話をいかに進めていくかという点において、進行台本を書いた経験が、
そのまま小説執筆にスライド応用できたからである。
なお、アートボーンスタジオは当時の社長が確か音楽関係出身の人で、
男女コーラスグループのマネージメントもしており、
彼らは在阪テレビの歌番組のバックコーラスに出たりしていた。
後年その社長が亡くなり、当時仕事相手だったミキサーが
古顔になっていたのでその跡を継ぎ……、と、そこまでは聞いていたのだが、
さらに後年、残念ながら会社が消滅してしまった、その事情は知らない。
まさか、スタジオ料金が割安だったからでもなかろうと思うのだが。

35・まあ、社長と言っても、いろいろいるからね
地元の中小企業で、経営は良くも悪くもワンマン体制。
そんな会社が30分を週一回とか、5分だけど月〜金ベルトでとか、
ラジオの時間枠を買い、社長直々に出演する番組を流すことがある。
過去、ぼくはそれらを愛聴した経験はないが、どんなものなのかと、
何度か聞いてみたことはある。そしてその印象記憶によれば、
そうやって出演する社長には、とりあえず二種類あると感じた。
その一種はタレント型「文化人志向」の人であり、
もう一種は単なる「目立ちたがり」のおっちゃんである。
だから前者の番組は、折々、話題の人をゲストに呼んで対談したり、
リスナーからの質問にこたえるコーナーを設けていたりする。
ただしその文化人志向にも二種類あり、
会社を経営しつつ趣味や教養も豊かにしていこうとする本物派と、
経営者たる自分を大きく偉く見せようがためにという虚飾派である。
したがって前者のゲスト対談は誠実なものとなり、
後者の質問コーナーは、実質的には自慢コーナーになっていたりする。

一方、第二種たる「目立ちたがり」のおっちゃん社長は、
自己の欲求発現にこれほど正直な人はいないと思うほど、
番組内ではしゃぎまくっていたりする。女性タレントが相手のこともあるが、
贔屓にしているらしい演芸人を相方にしていることもある。
笑いのプロを相手に、素人がボケたり突っ込んだり駄洒落を言ってみたり、
大胆なことこの上ない。しかしこういう「お笑い」タイプは、
相方や番組スタッフが、騒がしいのさえ辛抱していればそれですむのだから、
罪がなくてよろしいとも言える。身を以て会社の広告塔の役を演じつつ、
高級クラブなどで飲むときには、それを自慢話のタネにもするに違いない、
ある種、「堂々たる」所業なのだ。

ところが、その亜種なのか変種なのか、下司な事例もあって、
つい先年、仕事関係の知り合いに聞いた話であるが、
彼が某ローカル局の番組ゲストに呼ばれて出向いたところ、
それは地元会社の社長がメイン役を勤める番組だった。
そしてアシスタントには中年の女性タレントがついていたのだが、
収録前の打ち合わせ中ずっと、社長は横に座った(座らせた?)
その女性の脇に腕をまわして、胸をさわりつづけていたという。
あとで局の人間に聞くと、最初は若い女性タレントをつけたのだが、
そういうことをされるので怒って番組を降りたため、
いまの女性に替えたのですと言われたとのこと。
当方、仕事の場でそんなことをする男がいるということに驚き、
いくらスポンサーとはいえ局の人間は何も言わんのかとあきれ、
同時に怒りの念でもって思っていた。
「中年の女性タレント、ギャラの割り増しとか、社長から別途にとか、
何らかのメリットがあって、納得ずくで出演してるのかもしらんが、
おれなら、そんなおっさんの番組、聞くのも出るのも嫌やな」
眼の前でそんなことをされたら、その場で席を立つに違いないのだ。

34・ネット世界同様、プロとアマとが溶融しだしているのかな?
コミュニティFM局は、阪神淡路大震災以降、
緊急時の情報伝達に有効であるということで、
第三セクター方式などで全国各地に多数できた。
しかし小なりと言えども私企業だから、
緊急時だけ役目を果たせばいいのではなく、
平時にも日々の放送業務を行って採算を取らなければならない。
もっかの不況状況、あるいは地方経済力の長期低下傾向から
それがなかなか難しく、廃止に至った局が15局とか聞いている。
で、それはともかく、経費節減および地域密着の実を上げるべく、
エリア内の聴取者からパーソナリティーやレポーターを募集し、
トーク番組などにレギュラー出演させている局も少なくない。
そしておもしろいことに、某コミュニティ局の経営者に聞いた話では、
応募者の審査をすると、男性より女性の方がはるかにうまいのだという。
この場合の「うまい」というのは、プロ的な資質や技術という意味ではなく、
何はともあれマイクに向かって普段の調子でしゃべれるか否かということ。

その局のスタジオは車や人が行き来する道路に面しているので、
実技テストとしてそちらを向く席に座ってもらい、
「眼に映る光景を、そのまま紹介していってください」と頼む。
すると、主婦とかパート勤務とかダンス教室の講師とか、
そういった立場の女性たちは、いくらでもしゃべってくれるのだそうだ。
ところが男性で応募してくる者は、
定年でリタイアしたけど在職中はかくかくの実績をあげたとか、
しかじかの分野については評論家にだって負けない自信があるとか、
海外旅行が趣味でほぼ世界中をまわったとか、
売り込みの弁は立派なのだが、同じテストをやると言葉が出ないし、
出てもつづかないのだという。当方思うに、これは彼らが、
ビジネスの口調で論や説や体験談をしゃべることなら十分できるが、
素にもどった彼自身の普段の口調で、
どうでもいいような(?)無駄話を長くつづけることは苦手だということだろう。
なぜなら男はそんなことに慣れておらず、第一、社会で働いてきたなかで、
そんな訓練だって受けていない。対して女性は、訓練は受けてなくても、
オフィスの給湯場会議や公園のベンチ会議あるいはファミレス会議等々、
それぞれの立場で鍛錬を重ねてきている。したがって、慣れてもいる。
仮にスタジオ前を女性一人が通過すれば、
そのヘアスタイルからメイクから服やバッグのブランドからセンスから、
いくらでもしゃべれるのは、いわばそれが日常のことだからなのだ。

というわけで各地のコミュニティ局に、
アマチュアの女性パーソナリティーやレポーターが出演しているわけだが、
それに対しては批判的意見もあるらしい。謝礼程度で出てもらっているので、
局側はどうしても、甘やかしたり、おだてたりという姿勢を取りやすくなる。
プロから見れば「そこらのおばさんたちがしゃべってるだけ」なのに、
なかには自分のことを、プロとしても通用するタレントなのだと、
そう思ってしまう人がいるというのだ。
それで周囲にどんな迷惑や弊害を及ぼしているのか。
そこまでは聞いてないので、機会があったら確かめておこうと思うのだが。

33・パーソナリティーとしての落語家
「ローカル放送局を女にたとえたら、
全国各地の女が東京という男になびいてしもてるなか、
大阪という女だけは、まだ言うことをきいてないわけや」 
録音記録ではなく耳の記憶で書いているので、
正確にこの通りの言葉だったかどうかは請け合えないが、
そう言っていたのは、落語家の故・桂春蝶氏(いまの春蝶さんの父親)である。
ラジオ生番組の会話のなかでの発言であり、
直接的には「他地方の局は右にならえとばかりに標準語で放送しているが、
大阪の局はニュース以外は平気で大阪弁を多用している」ことを言い、
間接的には、「自分はその背景をなす、歴史や文化の独自性が好きなのだ」
というニュアンスも含まれていたと思う。

で、この問題は論じだすと長くなるのでまたの機会とし、
今回、何が書きたいのかというと、「パーソナリティーとしての落語家。
その好事例としての春蝶氏」ということである。ぼくは大学時代以来、
笑福亭仁鶴、桂小米(後の枝雀)、桂春蝶、桂朝丸(現、ざこば)
といったクラスの人たちがレギュラー出演するラジオ番組を、あれこれ聞いてきた。
それぞれ個性の強いキャラクターであるわけだが、
いま思い出してみると、ラジオのパーソナリティーという意味では、
春蝶氏が一番おもしろいと感じていたようだ。そしてそこには、
落語家としてのネタや体験談や話術とともに、入門以前は証券会社に勤務という、
サラリーマン体験がプラスに作用していたからではないかと思う。
たとえば朝の生番組でゲストを招いて時事談義をやっているとき、
この社名で年代がわかるのだが、山陽特殊製鋼の倒産問題が出てきた。
そのとき春蝶氏は「あのヤマトッコウは」云々と、
ごく自然に符丁的な略称を使ってしゃべっており、聞いた当方、
「おっ。さすが証券会社出身!」と得心していた。
そして、その瞬間の氏はゲストの話を、落語家ではなく
証券マンの知識と感覚で受け止めているのだと感じていた。
折々の話題にその視点からの、あるいはサラリーマン感覚の、
解釈や感想をはさんでいけた点が、パーソナリティーとしての
強みのひとつになっていたと思うのだ。

もちろん一方、いかにも落語家という部分も、随時聞かせてもらった。
某年正月の元日だったか二日だったか、生の深夜番組を
機嫌良く酔ってもつれる舌でやっており、
いきなり米朝師匠の自宅にスタジオから電話したこともあった。
「はい。こちら桂米朝宅でございます」と、受話器を取った内弟子の声が入り、
聞いていた当方、「なるほど。電話がかかってきたら、米朝でございますではなく、
米朝宅でございますと告げるのか」と、妙に感激していた。だから
それから二十数年後、米朝師匠に実名で登場していただく長篇小説を書いたとき、
自宅に電話がかかってくるシーンで、その応答をそのまま使わせてもらった。
その意味では当方、春蝶氏には「リアルな受け答えを教えてもらった」
その恩義があるとも言えるのだが、それだけに
晩年ちらちらと伝わってきた話には残念さが募った。

いわく、落語家仲間と一緒に出演するラジオの生番組で、
終わってから相手が改善点などをアドバイスすると、
「そんなん、もうええやないか」と話をそらすようになっている。
いわく、ラジオのレギュラー番組が減ったのは、
昼間から酒を飲んで局へ来るようになったからである云々。
同年代の人気落語家と競り合っていた時代には、
二日酔いのへろへろ状態で(弟子によって)スタジオに担ぎ込まれても、
生放送が始まるとしゃんとして、みごとに自分の役割を果たしていたという。
そんな話も聞いていただけに、マイナス方向への変化に哀しさも感じていたのだ。
ともあれ、落語家としてと同様、パーソナリティーとしても惜しい早死にだったと考える。
笑福亭松枝氏が『当世落語家事情』(弘文出版)のなかで、
「やはり少し破滅型の性格だったのかもしれない」と書いているくらいだから、
詮方のない話ではあるのだが。

32・テレフンケンみたいにドイツ語かなと思ったりしてた
昔、放送局が街頭や事件現場で使う取材用の録音機は、
「デンスケ」と呼ばれていた。カセットレコーダー出現以前の
オープンリール時代だから、持ち運び可能とはいえ
随分大きくて重たかったらしく、それを使って移動取材した女性が
腰を痛めたという話を聞いたことがある。
しかし当方、そういう録音機があることは知っていたが、
なぜそれがデンスケと呼ばれていたのかは、長らく知らないままだった。
そこでこの機会にと調べたところ、
これはソニーが商標登録している商品名なのだった。
昭和26年(1951)にその1号機
(Sony Japan公式サイト中、「商品のあゆみ−放送業務用システム」の
紹介記述によれば、ゼンマイ式ショルダー型テープレコーダー)を発売し、
それが、毎日新聞に横山隆一が連載していた漫画
「デンスケ」のなかにも何度も登場した。
それでソニーがその名を商標登録したというのだが、
この場合、横山隆一の権利はどういうことになっていたのだろう。
当然、ロイヤリティは請求できると思うのだが。

で、それはともかくこの放送業務用録音機、電池式の後継機や
他社の同類機などいろいろ発売されたそうで、
ぼくが広告マンだった70年代前半にも当然使われていたことになるのだが、
実は現物を見たことも触ったこともない。そしてデンスケという名前も、
その頃にはあまり一般的ではなくなっていたらしく思われる。
その証拠に当時、ぼくが勤めていた広告代理店の東京本社で
ひとつの珍事が発生した。イベントの仕事か何かで年輩の社員から、
「当日、デンスケを手配しといてくれ」と言われた若手社員、
愛称が「デン助」だった浅草出身のコメディアン、
大宮敏充のスケジュールを押さえたという話が伝わってきたのである。
この場合、年輩社員は普通のテープレコーダーのつもりで
デンスケと言ったに違いなく、それほどに商品名が
一般化していた時代があったということなのだ。
ソニーの後継商品には、「カセットデンスケ」や「デジタルデンスケ」
という機種もあった(ある)そうだが、その通称を知っている人の数は、
往年に比べればきわめて少ないのではあるまいか。

31・もちろん、悪いことではないのですよ
「いかにその道のプロとはいえ、パーソナリティや局アナたち、
よくまあ毎回、あれだけいろんな分野のゲストや解説者たちに、
次から次へと対応できるなあ」 
前々からときどき、生ワイドや報道番組を聞いているとき、
感心と不審のいりまじった、こんな思いにとらわれることがあった。
感心はわかるとして、そこに不審の念もまじるとはどういうことか。
こちらの作家としての常識や経験で推し量れば、
それだけ多彩な登場相手と次々に、知的レベルにおいて
「対等」にしゃべっていけるということは、
知識や経験によほどの広さ深さを持った人だということになる。
しかし、普通に考えて、一人の人間が
そう全方位に満遍なく広さ深さを持てるとは思えない。
そのあたり、いったいどういう仕掛けになっているのかと、
そこに不審の念を抱いていたのである。そしてある時期、
その秘密を探る気持ちであちこちの番組を聞いていった結果、
「受け取り」と「マスターキイ」という言葉で説明できそうに感じた。

前者は以前、落語作家の小佐田定雄氏から聞いた言葉。
「あの人、受け取りの落語をしてるから」とか何とか、
師匠から教わったネタを、自分で咀嚼して深めたりせず、
そのまま演じている者のことを言っていた。
パーソナリティーも局アナも、その場その場で、
登場相手やテーマに関する情報や知識を、用意された資料の
「受け取り」でこなしている場合が少なくないのではないか、
それなら「満遍なさ」がいくらでも出せることになるのだが……
と、そう思っていたのである。そして後者のマスターキイは、
一本でどのドアにも使用できるホテルの鍵のごとく、
さまざまな会話のなかで使え、「それらしく」聞こえて「おさまり」も良い、
汎用性の高い言葉という意味をたとえた当方の用語。
たとえば対談やインタビューで相手が何か意見や体験談を述べ、
それに対して彼または彼女自身の反応が必要とされる場合、
それを言っておきさえすれば一応の感想や感慨になり、
会話もちゃんとつながる便利な言葉というニュアンスである。

「たとえば○○氏はかくかくで、××さんはしかじかで……」などと、
具体例を明記すると営業妨害になりかねないので書かずにおくが、
まあ、そのつもりで聞いてもらえば、要所で出てくる、
各人各様のマスターキイのあることがわかるだろう。
テクニック論で言えば、この「受け取り」と「マスターキイ」で、
優良可の良くらいに聞こえる会話は作れそうに思ったのだ。
ただし、作家が下手にそういう手を身につけると、
プラスよりマイナス影響の方が大きいことは明白なので、
ぼくはラジオ出演者としても、それらを持とうとは思わなかった。
また当方、面識を得てはいないが、
「あの人は多分、そういうテクニックを嫌う人だろうな」
と推測する放送人も何人かいる。故人で言えば、
三國一郎氏など、その代表例だったのではなかろうか。

30・なめたらいかんぜよ……
前回、ゲスト出演したときの話を書いたので、
今回はゲストを迎える側に立ったときのことを書いてみよう。
先年の生ワイド・ベルト番組体験によって、
たとえば各分野のプロのゲスト(歌手、タレント、俳優、落語家等々、
ラジオやテレビへの出演が仕事のひとつである人たち)に関して、
紹介や分析をしたい題材はいろいろ収得させてもらった。
しかしそれらについては、まだ頭のなかが未整理なので、
ここではアマチュアのゲスト(世間一般の人たち。および、
何らかのプロではあっても、ラジオやテレビへの出演が
本来の仕事ではない人たち)のことを書く。
過剰に緊張する人、ひたすら自説を力説する人、
次第に乗ってきて盛り上がる人……。上記ワイド番組で
アマチュアゲストもいろんなタイプを経験させてもらったが、
こちらがゲストとしてフォローしてもらった体験を思い出し、
毎回かなりの気を遣って接してきたつもりである。

普段の当方、そうにこにこと愛想のいいタイプではなく、
特に物を考えているときなど仏頂面に見えているに違いない男である。
しかし番組でゲストを、特にアマチュアのゲストを迎えるときには、
「おれはいま、ホスピタリティの権化になっておるなあ」と、
自分で気づいて内心で苦笑したことも少なくなかったのだ。
とはいえごくまれにだが、「けしからんな」と
秘かに憤慨していた事例もあった。
依頼されているテーマやジャンルについて、
ゲスト出演者が話題の整理も用意も何もしておらず、
資料やメモなどを持参してないのはもちろん、変な言い方だが、
「頭も手ぶら」という状態でやってきたときである。
善意に解釈すれば、趣味なり仕事なり珍しい体験なり、
自分が知っていることを聞かれるのだから、
そのままこたえればいいのだと、簡単に考えていたのかもしれない。
本当は、それにしたって一度頭のなかを整理しておかなければ
的確な応答がしにくく、断片回答の断続ということになりやすいのだが、
「そんなこと、アマチュアのおれが知るわけないだろう」と言われれば、
それはその通りなのである。したがって当方も、
相手がこちらから依頼して出てもらったゲストの場合には、
内心憮然としつつもフォローに奮励努力(?)した。

けれども、「こういう話題はいかがですか」と、
ある団体が向こうから売り込んできて、
それでその代表者に出てもらったところ、
「手ぶら頭」だったときには、「仕事をなめとるのか!」と言いたかった。
まさしく断片回答の断続で、その断片さえ焦点が曖昧で、
会話の発展など、させようがなくて難儀した。
「頭の整理も面倒臭いのなら、売り込んでくるな!」なのである。
そういえば、これは売り込んできてではなかったが、
放送出演が仕事のひとつである某分野のプロにも一人、
頼んでいたテーマに関して、明らかに「手ぶら頭」で来た男がいたっけな。
共通しているのはやはり、「ラジオのゲスト出演くらい」と、
仕事をなめていたことだろう。そうはイカの何とかよ、なのである。

29・贅沢な期待なのかもしれませんが
「……今日のゲストは、作家のかんべむさしさんです。
ようこそ、いらっしゃいました」
「こんにちは。かんべむさしです。よろしく、お願いいたします」
過去、京阪神および東京のあちこちのラジオ局で、
こんな挨拶から入る会話を数多くさせてもらってきた。
「お客さん」だから、少々つっかえようが言葉が途切れようが、
アナウンサーやパーソナリティーが、ちゃんとフォローしてくれる。
こちらも、事前に聞かされたテーマに沿う話題は用意していくので、
大抵の場合、まずは無難にゲストの役を勤めることができるのだ。
ただ、生にせよ収録にせよ、しゃべっていて内心で物足りなさを感じ、
それがつづくと憮然たる気持ちになるという事例も、何度か経験した。
会話の相手が、「へええ」「そうですか」「なるほどねえ」などと、
受けや相槌、納得や感心の言葉しか返してくれないときで、
これにはぼくが作家だからという事情も関係している。

つまり、体験談や感想や意見をワンウエイで伝えるという行為は、
当方、日常の執筆作業でいくらでもやっている。
編集者や読者からの反響が返ってきたら、そこで双方向、
ツーウエイのコミュニケーションが成り立ったことになるのだが、
印刷媒体の特性上、そこには大きなタイムラグが生じている。
だからこちらの感覚として、執筆はワンウエイ・コミュニケーションなのである。
そしてそれを日常的にやっている当方、大方のゲスト出演をOKしてきたのは、
ラジオが好きだからということとともに、
そこに、即時的なツーウエイ・コミュニケーションを求めているからだ。
すなわち、その日のテーマに関して、「私はこんな経験をしましたよ」とか、
「こういう意見を持ってるんですよ」とか言う。そしたらそれに対して、
「いやあ。似た体験は私もしてますよ」とか、
「その意見は、どちらかといえば少数派の意見じゃありませんかしら」とか、
とにかく何か、会話の発展する言葉が返ってくることを期待している。
それによってこちらも相手の体験談を知ったり、
意見や感想の再点検ができたりするという、いわば脳の心地よい興奮、
執筆で得られるものとは別種のそれを求めているのである。

しかるに、「へええ」「そうですか」「なるほどねえ」の連続では、
虚空に球を投げ続けているようなもので、手応えがないから気が抜けてくる。
遂には、「これだったら、この話を一人でエッセイに書いてる方が、
充実感が持ててたな」と思ってしまうのだ。
彼または彼女が、ゲストにできるだけ多くしゃべってもらおうと思っているため。
ゲストのトークに言葉をはさむのは失礼だと思っているため。
準備不足でテーマを表面的にしか捉えておらず相槌しか打てないため。
などと、理由はいろいろ考えられるのだが。

28・歌手名を知りませず失礼ながら
ドコモの携帯電話のラジオCMで、女性歌手の演歌一曲を流し、
最後に「効果音+女声」のジングルで「ドコモ」と締めて終わるやつがある。
その演歌の歌詞が延々たる説得メッセージになっているわけで、
言葉全部を正確には覚えていないが、大意はこんな具合である。
まず短いイントロ演奏のあと、
「♪長年、同じ携帯を使っているあなた」と呼びかけ、
「これでいいのよ私には、思う気持ちもわかるけど」、
試しにドコモに変えてみませんか、なぜならかくかくしかじか、
簡単だし便利だしお得ですし云々ときて、
「ドコモのお店に、来てみてね。あなた〜」
別の女声で「ドコモ」と、こう終わるのである。

で、これを聞いたとき、ぼくは内心で大笑いし、
元広告マンとしても、「うまいなあ。やりおるな」と感心した。
自身が「長年同じ携帯」派であるため、冒頭から注意をひきつけられ、
そのまま最後まで歌詞を聞かされてしまったからだ。ただし、
だからといって、「ドコモのお店へ」行ってみようとは思わないままなので
(携帯については、一応持っているけどほとんど使ってないから)、
CM本来の目的は当方に対しては果たせなかったことになるのだが、
少なくとも、「ドコモのあのCM、おもろいやないか」という
好印象は成立させたことになる。同様の例は以前にもあり、昔、
確か朝日放送ラジオの「パルコ十円寄席」のなかで聞いたと思うのだが、
「熊本みかん」のCMがあった。男声が元気な熊本弁でメッセージを伝え、
「山中(やまじゅう)、街中(まちじゅう)、良か香りた〜い。
熊本みかん、買うてはいよおっ!」と締めていた。
聞いた途端に、緑濃いみかん山と、
そこに無数になっている鮮やかな色のみかんが眼にうかんできて、
以来当方、熊本や熊本みかんに好印象を抱き続けている。
こういうことがあるから、単純なストレート・トークのラジオCM一本でも、
手抜きコメントでイージーに作ったら損なのである。

27・いわば、極意秘伝書ですね。
『上岡龍太郎かく語りき』(筑摩書房。1995年1月刊)。
「私の上方芸能史」とサブタイトルのついたこの本が出たとき、
ぼくはすぐさま買って読み終え、大いに満足していた。
なにしろ、漫画トリオのパンチ君(横山パンチ)だった時代から、
あのテンポのいい漫才が好きだったし、
それが解散して、タレント上岡龍太郎になって以降のラジオ番組、
『歌って笑ってドンドコドン』(ラジオ大阪)のファンでもあったからだ。
そして上記書籍のなかには、「パーソナリティ開眼」という小見出しで、
そのラジオの仕事をいかに覚え、
いかにオリジナリティを出していったかを語っている項目もある。
つまり、それまでの漫才経験によれば、
《客に提供する話題》とはすなわち「ネタ」のことであり、
それは「ボケや突っ込み」によってアクセントがつけられ、
「落ち」でもって区切りをつけるものなのだった。
ラジオのパーソナリティーに変身するについて、
その癖や常識を、自身のなかからどう消去していったかという話である。

そして、なるほど、なるほどと納得しつつ読み進めていくと、
次の小見出しは「ネタもオチもいりません」となっており、これは後年、
相方の引退によって漫才から一人芸に転向した海原小浜師匠が、
「ラジオの番組をやってんのやけど、うまいこといかん。
どうやったら、一人でしゃべれるのか教えて」と、
アドバイスを受けに来られたときの話である。だから上岡氏は、
パーソナリティーとしてしゃべるのなら、
漫才の世界で言うところのネタやオチなどは必要なく、
スーパーへ買い物にいったとか、大阪へは京阪電車で出てきてるとか、
自分自身の普段の生活のエピソードをそのまましゃべればいいんです、
というより、「それ以外は絶対ダメです。
ネタなんかやったら、絶対にダメです」と教示した。
小浜師匠、「そんな普通のことを言うてええの?」
「そんなんで、ほんまにええのん?」とけげんそうだったが、後日、
「楽になったわ。ほんまに、あれでよかったんやなあ」と喜んでもらえたという。
そして上岡氏はこの話に、「ぼくらみたいな者のところへ聞きにきはって」
「聞いたら、それができるというすごさ」と、
小浜師匠の偉さや実力についての感嘆もつけくわえている。
一方、さらにその後には、同じく漫才コンビから一人になった若井けんじ氏が、
小浜さんに言われたからとアドバイスを受けに来た話も載っている。
それで上岡氏は同じことを教示したのだけれど、
「納得して帰らはったんですが、けんじさんは結局できませんでした」と、
こちらは少し哀しいエピソードである。

で、以上、延々と引用や紹介をしてきたことにはわけがあって、
この本の刊行からちょうど十年後に、
ぼくは早朝ベルトの生ワイド番組を担当させてもらうことになり、
そのときまずこの本を思い出して上記部分を再読三読した。
そして本業に当てはめれば、「漫才におけるネタは、
こちらの短編小説やショートショート。
上岡さんが言うてはる普通の話というのは、
自分が軽いエッセイや身辺雑記で扱ってる、
そういう材料や雰囲気の話に当たるわけやな」と、
自身のなかでの「腑分け」もできた。
と同時に、別の本で読んだエピソードも思い出していた。
永六輔氏が超ベテランの女流漫才師と洒落で漫才をやったことがあり、
よく受けたので、「またやりましょうよ」とか何とか、
プロの芸を軽く見たようなことを言った。
すると次の機会にはまったく受けなくて悪戦苦闘し、
そこで初めて、実は前回受けたのは、プロが「受けるように」、
会話や進行をリードしてくれていたからだとわかったという話である。
「できるなら、やってごらん」と放っておかれたら、
素人は即座に立ち往生しなければならないのだ。
というわけで、上岡龍太郎氏と永六輔氏、
このお二人の体験談を自分への指針と警告に使って、
ぼくはベテラン女性アナとの番組をやりだしたのである。

追記。前回の記述に関して、プロからメールをいただいたので御紹介を。
『……元、野球中継アナウンサーの経験から言わせていただくと
「イニング・点差と、どっちがリードなど」を言わないのは、
担当アナウンサーの未熟さ・・・と言う事に尽きます。
ラジオの野球中継は、テレビの様に画面に
イニング・点数・カウントが表示されていないので、(極端に言えば)
投球ごとに言わなければなりません・・・・それが基本なのです。
これは研修時代に、先輩から徹底的に叩き込まれました。
そのお手本は、ニッポン放送の深沢ANです。
ラテ兼営局のANは、昨日はテレビ、今日はラジオの担当と言うことがあり、
ついついテレビ的になってしまうきらいはあるようです。
なかなか切り替えは難しいのかも……』とのこと。
T・M様、ありがとうございました。

26・あに野球中継のみならんや
テレビとラジオの兼営局に勤める、年輩者から聞いた話である。
その人はプロ野球某チームのファンなので、夜、タクシーに乗ったりすると、
すぐさまカーラジオをつけてもらって中継番組を聞きだす。
ところが、たとえば「バッター○○、ツーナッシングに追い込まれました」とか、
「××さん、いまのはシンカーですね」とか、
そういう情報は逐一伝えてくるのだが、いま現在、イニングは何回であって、
点数は何対何でどちらが勝っているのかという、その「肝心の」数字を、
なかなか言わないアナウンサーが少なくないのだという。
「こっちはまずそれを知りたいわけだから、こらっ、早く言え、
まだ言わんのかと、いらいらしてくるわけですよ。
うちの局がやってるときには、そのアナウンサーを知ってるだけになおさらね」 
そして推理するに、その原因はこうではなかろうかという。

すなわち、世間一般のプロ野球ファン同様、アナウンサーたちも
子供の頃からテレビの中継番組を見て育ってきており、
イニングや点数やカウントなどは画面の隅に
刻々表示されていくことに慣れてしまっている。
また、自身がテレビで中継を担当するときには
当然その表示があるから、それらの数字をくだくだしく告げる必要もない。
その結果ラジオの生中継でも、眼前の動きと
それによって変わっていくカウントは細かく告げるが、
イニングや点数は「言わなくてもリスナーにわかっている」数字なのだと、
錯覚してしまっているのではないか。もしくは彼自身の意識から、
そのときどきにおける「しばらく」というかたちで、
消えてしまっているのではないか。とまあ、そういう推論なのである。
ラジオで野球中継を聞くファンの心理や欲求と、
それに対するアナウンサーの伝達不備(?)という点で、
非常に興味深く聞けた話だったのだ。

25・それとも、私が勘違いしてるんですかね?
少し前の話になるが(2010/5/7)、産経のネットサイトに
『トーク飛ばして録音 新型レコーダーがリスナー巻き込んで物議』
という記事が載っていた。4月に三洋電機から発売された
ラジオ付きICレコーダー、そこにFMラジオ放送の
トーク部分を飛ばして音楽だけを録音できるという、
「楽曲セレクト」機能がついており、これが「ラジオ文化の破壊」であるなどと、
「パーソナリティーだけでなくリスナーも巻き込んだ議論に発展している」
というのである。その部分を引用紹介させていただくなら〜、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「僕ら話すプロにとっては、バカにすんじゃねえぞ!」と憤るのは、
フジテレビの朝の情報番組「とくダネ!」の小倉智昭キャスター。
FM NACK5「Fresh Up9」パーソナリティーの仁井聡子さんも
「今日、この新聞記事を読んでね、ディレクターと私はね、
本当にちょっと泣きました…」と番組内で感想を述べた。
ネットでも「ラジオの良さが半減どころか激減ですね」
「逆にトークだけを録音する機能をつけろ」など
ラジオファンからの批判が集中した。
日大芸術学部放送学科の橋本孝良教授も
「この機能はラジオの命を殺すものだ」と憤慨する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〜ということなのだが、ぼくが思うにこれらの反応は、
何か「誤解」や「早とちり」を土台にしているのではないか。
つまり、トークと音楽で構成されるFM番組があるとして、
(どういう仕掛けによってか)そのオンエア自体に「楽曲セレクト」機能が働いて、
トーク部分はまったく聞こえず録音もされず、
音楽になるや聞こえだして同時に録音もされていくという、
そんなICレコーダーが発売されたのなら、
これは現に放送されている番組をその場でずたずたにしているわけだから、
「バカにするな」とか「泣きました」とか「ラジオの良さが激減」
「ラジオの命を殺すものだ」という感想が出ても不思議はないと思う。
場合によっては、著作権をめぐる訴訟になりうる問題だろうとも考える。
まあ、そんな長い無音が断続するような放送、
聞いてる方がしんどいだろうと思うが、仮にそうできるICレコーダーが普及し、
そういう聴取態勢を取る者が増えればという話である。
しかしこれはそうではなく、オンエアはオンエアとして
番組はそのまま聞こえており、しかしそれを同録するときには、
その全部を入れることもできるし、音楽だけ入れておくこともできますよという、
そういう機能だろう。つまり、リスナーが再聴取するときの、
好みや利便に合わせることができるセレクト機能だろう。

ぼくは複数局の番組で録音した上方落語や漫才を、
それらのみを連続させるかたちでMDに入れ直して愛聴しているが、
これはいわば、その手間を省いてくれる便利な機能なのだ。
「トークだけ録音できる機能もつけろ」というが、
それは音楽をカットしてトークだけを聞きたい味わいたいというリスナーが、
どれだけ存在するかの問題になる。圧倒的に多ければ、
メーカーはその機能を開発してつけるのである。しかしいずれにせよ、
これはいかにも建前的な理想論になるので書きにくいのだが、
泣いたり怒ったりするのなら送り手側は、そんなセレクト録音をされないような、
リスナーがオンエアの全体を同録して再聴取も愛聴もしたがるような、
そんな番組の制作を志向すべきだということになるだろう。
当方の感覚としては、そこに帰結する問題だと思うのだが、
どうだろうか。なお、上記産経の記事、局側の意見も載っているので、
御参考までに下に引用紹介させていただく。
これらは、おおむねそのとおりであると思うのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一方で、FMラジオ局の反応は、「とても寂しく思う」(NACK5)との意見もあるが、
「いい悪いと論じるつもりはない」(J−WAVE)、
「特に苦情を言うでもなく様子見」(TOKYO FM)と冷静だ。
リスナーがラジオに接触する機会を増やしたい局側は、
高性能のラジオ付きレコーダーの登場を歓迎する向きもあるようだ。
「音楽だけを聴きたいというリスナーのニーズはある」というラジオ局もある。
短波放送のラジオNIKKEIは、ほとんどトークを入れずに
音楽を流す番組を5月初旬に放送した。同局はこれまでも、
株式市場が開いていない時間帯にクラシック音楽などを流していたが、
「ここ1〜2年で曲目などの問い合わせが増えた」という。
薬師神美穂子編成センター長は
「音楽は、聞いている人の思い入れが反映される。
このシンプルな番組が好評ならレギュラー化も考えたい」と話している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

24・中国製の銅鑼を、餃子CMの後に叩くとか
日本のラジオ放送は、大正14年(1925)の3月、
東京放送局(という名称の官設局)が、仮放送を開始したのが最初である。
以下、同じ年に大阪放送局、名古屋放送局もスタートし、
翌15年の八月、三局の合同で日本放送協会が発足したという。これらは、
『昭和二万日の全記録』(講談社)の第一巻から引用しているのだが、
その「ラジオ放送、人気高まる」という解説ページに、
時報についての記述もある。それによると、
[東京放送局ではアナウンサーが時計とにらめっこしながら、
「ただ今から何時何分をお知らせします。
ただ今四十秒前、三十秒前、あと五秒……」と、
やおら木製のしゅ木で中国製のどらをたたくという
原始的な手動方式だった]という。対して
[大阪と名古屋では、約一分前からベルが鳴り始め、
丁度の時刻になった瞬間、鳴りやむ]という、
往年の国鉄の発車告知と同様の方式が取られていたそうだ。
現在のラジオの時報は、御承知のごとく
「ピーン」または「ポーン」と聞こえる信号音で告知されており、
ぼくは長らく、法律か規則でそう決まっているのだと思っていた。

ところが先般、たまたま早朝のラジオ関西を聞いていたら、
6時の時報前に奈良の長谷寺(はせでら)のCMが入り、
「長谷寺が6時をお知らせします」というナレーションのあと、
「ゴーン」と鐘の音が入った。
神戸の局に奈良の寺のCMが入り、
おまけに重々しい鐘の音が時報になるというその意外性に、
まだ半分眠っていた頭も一遍に醒めたのだ。そして、
ウィキペディアで「時報」および「ラジオ時報CM」という項目を見ると、
信号音以外の時報告知は、鳩時計風とかチューブラーベルの音とか、
他局にもいくつかあるのだった。と同時に、番組編成のワイド化によって、
各局とも時報告知は減少しているとも書いてあった。
[クォーツ時計の普及前には最も聴取率が高く、
レートもステータスも高いCM枠のひとつだったが、
ステブレレス(シームレス)編成が多用される現在では、
番組編成上の邪魔扱いされることもある]とのこと。
時報ひとつにも時代の変化が出ていて興味深いが、
邪魔扱いはひどいのではないか。信号音以外、
あれこれ音を工夫すれば、ワイド番組のアクセントにもなるような、
おもしろいミニ枠もしくはCM枠ができそうなのに。

23・「残された」もいいが、「残った」もいいですよ
[タブチ君といっても、いしいひさいちのタブチ君ではない。
その昔、「大学対抗バンド合戦」というラジオ番組があった。
そこに登場した桃山学院大のカントリー・ウェスタン・バンドの
フィードルがタブチ君なのであった。これは確かに凄かった。
超絶的テクニックの持ち主であった。その後渡米、
今はレストラン経営で成功とは聞いていた。
ボブ・グリーン『DUTY』の最終章に出てくるのが、このタブチ君である]
上記は、SF作家堀晃氏のホームページ中、
マッドサイエンティストの手帳(2001年10月)からの抜粋引用である。
そしてぼくは、ある交遊ルートから、まさにその「大学対抗バンド合戦」
(TBS発で、1960年代の人気番組のひとつ)におけるものらしき、
彼ら、ブルーグラス・ランブラーズの演奏を収録したCDを入手している。

会場のマイク経由で直接収録したものなのか、それとも
ラジオとテレコをつないで放送を録音したものなのか、それはわからない。
当時のこととて一次音源はオープンリールのテープだろうが、
やはり音が劣化しているし、その全体が、他の場所での演奏も連ねた
私家版のメドレー集としてラフ編集されているからだ。
ならば、番組のタイトル告知や司会者(大橋巨泉)の声や
CMなどはまったく入っていない演奏部分のみのそれで、
なぜバンド合戦のときの収録らしいとわかるのか。それは彼らが、
御存じの方は御存じ「オレンジブロッサム・スペシャル」を、
例の猛スピードで演奏しながら途中に遊びで会話を入れており、
そのなかに、「コカコーラの大学対抗バンド合戦」を見たいので、
「文京公会堂へ行きたいんだけど」、という台詞をはさんでいるからだ。
そして、急いで行かなければならんからスピードを上げようと言い交わし、
次の瞬間からオレンジブロッサム・スペシャル、
さらなる高速演奏に移るという「芸」を示しているのである。

もちろんそれは、別のコンサートで言っていただけのことかもしれない。
しかし何にせよ、こんな具合に時代の雰囲気を突如追体験できるのは、
脳に対する刺激になって結構である。当方が収録した落語や漫才の
古いカセットテープを再生してみると、その前にニュースが入っていて、
往年の事件が異様にリアルに伝わってきたりすることもある。
正規に「残された」記録以外に、こういう偶然「残った」断片記録を集成すれば、
時代や風俗の興味深い点描集ができるのではないかと思うのだ。
なお、上記堀氏の文章中、「レストラン経営で成功」という文言があるが、
これはカントリーの演奏を鑑賞できるレストランシアターであって、
フィドル一丁持って渡米したタブチ氏、現在は2000名入る劇場も所有という。
小泉総理訪米のときブッシュ大統領に招かれ、
ホワイトハウスで演奏を披露した人でもある。御参考までに。

22・秘中の秘だろうとは思いますが
民放ラジオは(テレビも)主として広告収入、
すなわち番組提供やスポットCMの料金収入で成り立っている。
しかしそれが個々の事例としてどれくらいなのか、
部外者であり素人でもあるリスナーには見当がつかない。
コミュニティ局などには、公開サイト内に時間帯ごとの
CM料金表を載せているところもあるが、それは正価であって、
実際にそのままの料金で契約されているとは考えられない。
大なり小なり、値引きされていることは常識と言っていいはずなのだ。
まして景気低迷にネット広告の拡大がつづいている現在、
AM局もFM局も、その面での厳しさはさらに増していると思う。

新聞を例にとれば同じ理由によって、健康食品や通販会社の
大型チラシをそのままモノクロ化したような、
以前ならスポーツ紙に載っていた広告が、全国紙の朝刊に
全面広告として幅を利かせるようになっている。あるいは
大阪本社版の限定掲載にせよ、実質は個人商店に近いような
地場産業の小企業が、単品で全五段広告を打ったりしている。
どちらも、仮に正規の広告料金を払っていたら、
その広告主は費用対効果の面で大損をする計算になる。
それは当方が販促プランナー時代、キャンペーンなどの企画書に
予算表をくっつけ、そこに新聞広告料金の項目も入れていたから、
そこからの類推で見当がつくのだ。ということは、
「かなり」以上の値引きがなされている理屈になるわけで、
そのことを某全国紙の人に聞いたところ、苦笑していわく。
「してるでしょうね。だけど広告部はプライドが高いから、社内でも
他セクションの者には、どれくらい値引きしてるか言わないんですよ」

ラジオについては、上記「予算表の料金項目」記憶でいえば、
当時からスポットCMなどは、新聞やテレビの単発広告料金に比べて
気の毒なくらい安かった。そこからさらに値引きしているとすれば、
「いったい、実際の料金はどの程度にまで落ちているんだ?」と、
実情を知りたくなってくるのである。

21・いい声でしたよ。ホント。
高い声、低い声、太い声、細い声などなど、
声の特徴を表す形容詞はいろいろあるが、過去のラジオ聴取体験
および広告マン時代のラジオCM製作者体験で、
「あの声、いい声だったなあ」と、
いまだに耳に残っている事例がいくつかある。そしてときどき思い出し、
それをどう形容すれば的確な表現になるかと考えるのだが、
これがなかなか難しい。たとえば『ナベサダとジャズ』という番組があり、
(キー局はニッポン放送)、イントロ部分に
「ナベサダとジャズ。お送りするのは、東京銀座、資生堂」と、
歯切れ良く告げてポーンと切るような男声が入っていた。
(当方、氏名不知。御存じの方は御教示を)
だみ声ではないが、太くて厚みがあって、よく響いていた。
当時の流行語的に言えば「ニクイねどうも」と思わせる声だったが、
こうやって文章でそれを紹介していて、そのままの声が
読者の頭のなかに再生されるはずもない。
何か別の形容がないかと、また考え出すのである。

大阪ではTTB(テレビタレントビューロー)所属で、当時、
大阪ガス専属のかたちで仕事をしていた女性タレントの声が良かった。
岩崎さん(ひょっとして岩倉さんだったかな?)という人だったが、
艶のあるおだやかな声で、わずかに鼻にかかったような声質が色っぽく、
しかしそれが上品に聞こえる、そこはかとない色っぽさだった。
上記のごとく「専属」ということは知っていたものの、
あるラジオCMでその声をぜひとも使わせてほしいと思い、
TTBに打診してみたのだが、無論断られた。タレントブックで見ると
(だからこそTVのスタジオCMなども多い大阪ガスに起用されたのだろうが)、
明るい雰囲気の美人でもあった。ついでに書いておくと
彼女はミセスであって、確か御主人は同じTTBに所属する同業者。
こちらは上方落語に出てくる表現を借りれば、
「ごつうて、脂ぎってて」というタイプの人だった。
まだ二十五歳前だった独身の当方、
「男女の仲はわからんもんだなあ」と思ったものである。
現在出演している人たちも含めて、他にも何人か
「いい声だなあ」と思う男女がいるので、気が向いたらまた書くとしよう。

20・新聞社や出版社には校閲部があるのだが……
以前このホームページのフリーメモ欄で、丼(どんぶり)という字を
「どん」と読むのだと思っている若い人が、増えているようだと書いた。
そこからラジオに関係する部分を抜粋するなら、ひとつは、
《ある民放ラジオ番組でアシスタントの女性が何か説明していて、
「どんぶりの一種なんですけどね」とか言うところを、
「どんの一種なんですけどね」と言っていた……》、であり、
もうひとつは、和歌山カレー毒物事件裁判の、
《初審だったか控訴審だったかまでは覚えてないが、
たまたま某日の朝、NHKのラジオを聞きながら二度寝していた。
すると若い男性アナウンサーが裁判の争点を伝えるなかで、
容疑者が家に訪ねてきた客に「どんものをふるまい」云々と言っていた。
一瞬何のことかわからず、少し考えて「どんぶりもの」の読み間違いだと
推定できたのだが、周囲の誰も注意しなかったのか、
何と1時間後のニュースでも、同じアナウンサーが同じ箇所を同じく
「どんもの」と言っていた……》、なのである。

そしてこの種の間違い事例は他にもあり、民放局のニュース朗読で、
NATO(北大西洋条約機構)を「ナトー」と伸ばさず、
ローマ字読みして「ナト」「ナト」と繰り返していた男性アナがいたし、
ワイド番組で恐山のイタコのことであったか、
「そういう人ってマジシャンて言うんでしょう」と言った女性アナもいた。
それぞれ若い人であるが、前者は注意する人がいたらしく、次の枠から
「ナトー」になった。しかし後者は会話相手の落語家がこれまた若く、
さらに副調のディレクターやミキサーも同様だったらしく、
誰も「それはシャーマン。マジシャンは奇術師です」とは言わなかった
(言えるだけの知識がなかった)ようで、そのままになってしまっていた。

ただしぼくは、こういう言い間違いや覚え間違い自体は誰にでもあり、
自分だって何度も経験したことだから、周囲からの注意や教示をもらって
訂正すれば、それでいいと思っている。しかし当人だけではなく、
周囲の者たちまで、「それで正しいと思っているので注意しない」
「知らないので教示できない」「そもそも、それが間違ってるかどうかすら
わからない」というケースが増えてきているのなら、
それは大問題だと思っている。NATOがナトで、イタコがマジシャンでは、
良く言ってスカタン放送、悪く言えば正味のアホ番組になってしまうからだ。
そして仮にその当人たちが、「それくらい、別にいいじゃないですか。
リスナーはそんな細かいことまで考えて聞いてるわけじゃないんだから」
などと言いだすようになったら、番組に知的荒廃の雰囲気が漂いだす。
活字媒体の校閲マンは、うるさがられるほど問題点や疑問点を指摘し、
それによって、著者、会社、読者、すべてにプラスをもたらしている。
ラジオも(無論テレビも)、その種のプロを育成すべきだと思うのだ。

19・壮烈・3分間睡眠
以前、ある女性タレントから教えてもらった話。
かなり前のことになるが、彼女は某局で、
朝の報道系ベルト生番組のアシスタントを勤めていた。
メインのパーソナリティはある新聞社の論説委員なのか主筆なのか、
とにかく長年第一線で活動してきている人物。
「ところがその人、曲をかける枠とかになったら、うなだれて固まって、
動かなくなりはるんです。えーっ。どうなったの。何か急病?
まさか死んではるんと違うよねと思って、最初はすごく焦りましたよ」
「死んではるとは大層な」
「だって、本当に固まって動かなくなりはるんですから」
彼女がそう言いながら焦り顔になったので、当方大笑いをしたのであるが、
さらにその先を聞かされて納得し、敬意を抱いてもいた。

そのジャーナリスト氏、放送が終われば新聞社へ出社して仕事をし、
夜も月曜から木曜まではホテルに泊まって、
そこでも論説か何かの原稿を書いていたそうだ。
そして興奮した頭ではすぐには眠れず、しかし睡眠不足は
早朝番組に差し支えるので、毎晩睡眠薬を服用して寝ていたのだという。
だから生放送時にもそれが残っており、しゃべらなくてもいい枠になったら、
ふっと緊張が解けて寝てしまうということなのだった。
壮烈な話であるが、彼女いわく。
「奥さんが偉いんですね。御主人が宿泊してるホテルに通って、
身のまわりのことを全部世話してあげてはったそうですわ」
彼女もそれを見習い(と言うより、御本人がそれに慣れてしまっているので
、せざるを得ずか?)、朝食をとりに行った喫茶店では、
コーヒーに砂糖とミルクを入れ、ゆで卵の皮をむき……と、
かいがいしく世話をしたらしい。それについては当方、
「戦前生まれの男は得やなあ」と思うのみなのでした。

あ。それから。前に書いた「ラジオ局の黒電話」に関し、
少しピンボケだが写真を入手できたので、御参考までに。
ずら〜っと奥まで、受信専用電話が並んでいた、
桜橋時代のOBC、3階スタジオフロアの廊下です。


18・「ったく、もう!」でございます
前に書いた「8時だヨ!神仏集合」に関する続報である。
4月21日の読売新聞サイトによると、この番組のタイトルが
「8時だヨ!神さま仏さま」に変更になったという。
その記事タイトルを見たとき、ぼくは往年のテレビ番組、
「8時だヨ!全員集合」の関係者からクレームがついたのかと思った。
だから、「そんなの、シャレとして認めてやればいいのに」とも思いつつ
記事を読んでみると、何とそうではなくて、[1回目の放送開始前に
インターネットで紹介された内容を見た宗教関係者から]、そのタイトルが
[誤解を招く][『神仏習合』を思わせ、よろしくない」と指摘された]ため、
2回目からはタイトルを変更したというのだった。
神仏習合を思わせると、どんな誤解を招き、なぜ「よろしくない」のか、
記事にはその部分の記述がないのでクレーマーの本意は不明だが、
たとえばそのタイトルでは、番組が神仏習合説をアピールする内容だと
思わせてしまうということだろうか。しかし、仮にそう思わせたら
何かまずいことでもあるのか。あるというのなら、それはそのこと自体の
検討や啓蒙や解決に努力をするのが先決ではないのか。
「クレーマーの本意不明だが」という前言を繰り返した上でであるが、前に
「宗教番組のコストパフォーマンス」や「番組の活況をお祈りいたします」で
書いたとおり、こういう「真面目」で「正しい」意見の多さが宗教番組を、
ああいう、「文句のつけようがない」ものにしてきたのである。

17・次の御用命は、どちら様から…‥(^o^)
過去にラジオ番組をレギュラーで担当させてもらったのは、
ラジオ大阪が2回、毎日放送が1回である。
前者の初回は、まだ31歳から32歳という若かった時代の当方と、
同じく若かった中西ふみ子アナとで一年半つづけた、
トークと音楽の週一番組、『阪神サタデー・イン・クローバー』。
土曜の朝の放送で、時間は60分、提供は阪神百貨店。
ときどきゲストを招き、眉村卓さんにも出てもらったことがある。
2回目はもちろん、先年三年三カ月やって長篇作品化もした
早朝ベルトの生ワイド番組、『むさし・ふみ子の朝はミラクル』である。
一方後者は、確か35歳頃の一年間、雑誌「いんなあとりっぷ」提供で、
新井素子さんと一緒にやったインタビュー番組、『おしゃべりトリップ』。
スポンサーが東京の会社だし、ゲスト候補者も東京居住者が多いから、
大半は当方が定期的に上京し、毎日放送の東京支社で何回分かずつ、
まとめ録りをしていた。オンエアは平日の夜で枠は30分だったが、
「いんなあとりっぷ」の編集長大坪直行さん
(この人は出版界の古顔で大実力者)の顔の広さでもって、
隆の里(「おしん」横綱)、桑田佳祐、横尾忠則、タモリの各氏など、
次から次へと豪華ゲストを招いてもらった。

また、サブ的なレギュラー出演やパーソナリティーの代役出演も、
何度か経験した。前者は小松左京さんがやっておられた
毎日放送のトーク&インタビュー番組で、半村良さん、
筒井康隆さんなどにもゲストで出てもらった。
後者その1は、ラジオ大阪で、これまた小松さんがやっておられた
インタビュー番組の代役、いわゆるトラ出演。
御本人が多忙で出られなくなり、週一回のそれを何ヵ月か受け持った。
そうだ。六代目笑福亭松鶴師匠にインタビューさせてもらったのは、
この番組だったのだ。部外者に対しては優しい人、という印象だったな。
その2は、KBS京都の午後のベルトの生ワイド番組。
そのうちの一曜日を担当しておられた茂山あきら氏のヨーロッパ公演中、
二カ月だったか三カ月だったか、週一回のトラを勤めた。
何でKBS京都から当方にその依頼がというと、
それまで同局の他番組に何度かゲスト出演しており、
顔なじみになっていたディレクターが打診してくれたのだ。

ともあれ、それらすべてで良い経験をさせてもらい、
聞く立場のみならず、しゃべる立場としてもラジオが大好きになった。
そして、「好き」ということは、適性があるということだと思い、
収録中や生放送中、自分の脳が心地よく興奮しているところをみれば、
かなり「向いて」いるんだなとも思ってきた。
しかしそこから先の能力、(アマチュアたる当方の実感として、
必要とされるその能力とは、「才能」以前の「職能」だったのであるが)、
その初歩や基礎を開発させてもらえたのは、
やはり先年の生ワイド番組、『朝はミラクル』ということになる。
それは第三者からも言われたし、自分でも実感していた。
せっかくその芽を出させてもらえたのだから、枯らさず、
もう少し育ててみたいと思っているのだ。
作家としての責務(?)を果たすべく長篇を書いて、気が楽になった。
ある意味、ふっきれて、次はもっと自由にやれそうだからでもある。

16・番組の活況をお祈りいたします!
ネットで新聞社のニュースサイトを見ていたら、読売(2010年4月6日)に、
『「8時だヨ!神仏集合」宮司と住職がFMでDJ』という見出しが出ていた。
言うまでもなくこのタイトルは、往年のザ・ドリフターズの人気番組、
『8時だヨ!全員集合』のもじりであり、かつ出演者が宮司と住職だから、
「神仏集合」は当然、日本史で習った本地垂迹説だの何だのの、
「神仏習合」と掛けているに違いない。
「どこの局や。そういう、知的でおもろいタイトルを考えたのは!」
そう思って、すぐさま記事を読んでみると、残念ながら
(と言うのは番組をスタートさせる局に失礼だが)
ぼくが思ったFM東京とかFM大阪とかではなく、
「FMあまがさき」という、兵庫県尼崎市のコミュニティ局なのだった。
友人が京都の同種局で社長をしており、その見聞で当方、
表面的ながらもコミュニティFM局の事業規模や制作態勢は知っている。
だから、「そうか。それなら、こういう番組も実現しやすかっただろうな」
と思ったのだが、しかしとにかく、
こういうおもしろそうな企画が通ったのは結構な話である。

記事によれば、毎週火曜日の午後8時から30分間、
市内居住で以前からの知り合いという宮司と住職がトークを受け持ち、
リスナーからの質問や相談にこたえるし、他宗教のゲストも招くという。
『「多くの人に神道や仏教の本来の考え方を知ってほしい」と、
FMあまがさきに企画を持ち込み、実現した』とのこと。
音楽もかかるのだが、そのコーナータイトルが
「今週のありがたい一曲」というのには笑いましたな。
そして、前に「宗教番組のコストパフォーマンス」で書いたから
わかっていただけるだろうが、ぼくはこういうおもろい企画を、
何でAM局がやらんのかと思うのである。
まあ、料金が格段に高くなるので番組提供は教団規模でしかできず、
となると提案相手は組織であるから、会議の席で
「不謹慎だ」とか「ふざけてる」とかの反対論が出て、
結局OKが出るのは、無難な番組になるのだろうけれど。

15・ラジオで奇術をした人
『藝人という生き方』(矢野誠一・文春文庫)のなかには、
ユニークでコミカルな味のあった奇術師、故・伊藤一葉の項目もあって、
[大マジメに「ラジオで奇術をやりたい」って考えてるひと]と書いてある。
ところが別ページの、こちらは話術も含めて名人だった奇術師、
故・アダチ龍光の項目には、本当にそれをやった話が紹介されている。
それによると、TBSラジオが依頼し、15分という約束で収録を始めたが、
30分たってもディレクターからOKのサインが出ない。
[おかしいと思って「まだかい!」ってきいたら、
「すみません。面白かったんでサイン出し忘れてました」ってやがる]と、
龍光先生の言葉が記録されている。としたら伊藤一葉、
大先輩のその経験を知らなかったのだろうか。それとも、
自分も同じことにチャレンジしたいと思っていたのか。

しかしそれはともかく、この依頼をしたTBSラジオは偉い。
そしてラジオの魅力を、「映像が映らないからこそ、ひとつの音声情報が
聞き手の数だけのオリジナル映像を生み出せる」ことだと考えている当方、
そのテープが残っていたら、ぜひとも聞いてみたいと思う。
もちろんスタジオでは、タネや小道具を使って実際に奇術をやり、
ディレクターがサインを出し忘れるほどおもしろかったのは、
それを副調のガラス越しに「見て」もいたからだろうと思う。
しかし龍光先生も、ラジオ向けに説明を多くしていたに違いなく、
その話芸によって喚起されるイメージを体験してみたいのだ。
そしてまた、この種のチャレンジを、洒落の精神でもって、
他のラジオ局もどしどしやっていただきたいと願う。
ただし、決して「悪ふざけにはせずに」という条件つきであるが。

14・ラジオ局の黒電話
往年の神戸放送(現・ラジオ関西)の看板番組、『CR電話リクエスト』は、
生放送が始まる前から、リスナーからのリクエストを受け付けていた。
その様子を映した古い写真を見たことがあり、長方形のテーブル上の
長辺両側にずらりと黒電話を並べ、アルバイトらしい若い女性たちが、
受話器を耳に当ててメモを取っている光景だったと記憶する。
こういう設備はどこのラジオ局も持っていて、リクエストのみならず、
アンケートの聴取やクイズの回答募集などにも使われてきた。
たとえばラジオ大阪では、桜橋の旧社屋なら三階スタジオフロアの廊下に、
壁に面して細長い机が設置され、そこに確か受信専用の黒電話が
ずらりと並べられていた。

現在の弁天町のオフィスでもAスタ横に同様の設備があり、
これまた受信専用で壁掛け式の黒電話であって、1番が話し中なら2番、
2番も話し中なら3番と、つながる受話器が順に移る仕組みになっている。
当然、番号の若い席ほど多くの電話を受けることになるわけで、
要領のいいバイト嬢はできるだけ後ろの番号席に座ろうとしたものだと、
笑い話として聞かされたことがある。しかし現在では各局とも、
その設備はほとんど使っていないという。理由はふたつあって、
ひとつは各番組に、10人20人というアルバイトを雇う予算上の余裕がなく
なってきたから。もうひとつはメールの普及で、百人だろうが千人だろうが、
一斉にリクエストや意見を送ってきても、パソコンで処理できるからである。
一般家庭と同じく、ここでも固定電話の使用頻度が低下しているのだ。

13・公開資料はないものか?
名神高速や中国道を使って、日々24時間、
無数の産業車両や乗用車が行き来している。
近畿のラジオ局の聴取エリア内を、東から西へ、西から東へと
刻々通過していくわけだが、そのドライバーたちに、
カーラジオはどんな聞き方をされているのだろう。
仮に東からやってくるとして、AMで言うなら、
岐阜県から滋賀県にかかるあたりでまずKBS京都が聞こえ、
次いで滋賀県内では朝日、毎日、ラジオ大阪が入り出す。
京都府に入ればそれらがクリアになるのか、それとも地形上、
KBS京都以外はかえって聞こえにくくなるのか。
そのあと京都府から大阪府へというあたりでは
神戸のラジオ関西も入り出すだろう。
そして大阪府を抜けて兵庫県にかかるにつれて
KBS京都が入りにくくなり、岡山の山陽放送が入ってくるようになる。
在阪各局も聞こえてはいるが、クリアー度の高い局は
ラジオ関西から山陽放送へと移っていくに違いないのだ。

とまあ、以上は当方の大まかな推測であって
実際がどうなっているのかは知らないが、そういう場合、
彼らはカーラジオの自動選曲ボタンを押して、聞こえやすい局を
適宜聞き継いでいくのか。それとも、近畿、山陽、中国といった
各エリアで贔屓の局が決まっており、
各エリアごとに一局という態勢で選択しているのか。
あるいはそんなことは面倒とて、NHKを聞きつづける人が多いのか。
その種の調査資料があるのなら、一度見てみたいと思うのだ。
そして番組内容について、どんな意見や好みが出ているのかも知りたい。
まあ、音楽が多めの方が聞きやすいだろうとは思うが、
たとえば近畿圏に入ったら大阪弁の番組が聞こえてくるという、
そのローカリティーは好まれているのか、それともそれは逆に
アクの強さとして敬遠されているのか。早朝、午前、午後、夜、深夜。
時間帯によって好みや受け止め方が変わるのかもしれず、
じっくりと調査したら、おもしろい結果が出るだろうなあと思うわけである。

12・宗教番組のコストパフォーマンス
AM各局の宗教番組は、大抵早朝の時間帯に設定されている。
仏教系、神道系、キリスト教系、独立独歩(?)系。
多種の教団が、朗読したり、語りかけたり、ドラマタイズしたり、
多様な方式で毎回短い内容を伝えているのだが、「誰に対して、
どんな意図や目的で伝えているのか?」と、疑問に思うことが少なくない。
そして、もし「一般のリスナーに、自己の宗教や教団のことを、
より良く広く知ってもらう」という意図でやっているのなら、
効果よりは逆効果を与える内容の方が多いと思え、
「伝達」を職業にしている者として、ひとこと言いたくなってくる。
無論、送り手側は企画構成から番組収録までを、真面目に、
誠実にやっているのだろう。けれども、その「真面目」は「クソ真面目」、
「誠実」は「偽善」と受け止められやすい。なぜならその背景には、
「凝り固まる」ことに警戒と忌避の感を抱く日本人一般の宗教観、
ならびに、その思いをさらに強めることになっている、
各種宗教団体の内紛やスキャンダルや犯罪事例などがあるからだ。

そこでぼくが思うに、もし一般リスナーへの啓蒙を意図しているのなら、
まず、内部用語、専門用語、過剰な敬称、わざとらしいドラマタイズなどは
取っ払うべきである。そして、一般リスナーが「良し」としている
日常の価値観を基盤にし、彼らが普段使っている言葉でもって、
宗教というものに対する「誤解」「偏見」「先入観」を、
初歩の初歩から解きほぐす作業から始めるべきである。
それができて初めて、「……さて、ところで。
どんな人間にとっても意味もあり価値もあるその宗教というもののなかで、
私たちの教派教団は、かくかくしかじかの教えを基礎とし、
これこれこういう活動を続けているのです」と、
伝えてもかまわない資格(?)ができたことになる。
「何でしたら、どうぞお近くの施設へ」と言っても警戒されなくなるのは、
さらにその先のことなのだ。これは、それらをシリーズとして伝えなければ
ならないという意味ではなく、毎回の企画構成にその「順序を踏む」
という姿勢や思いをこめるだけでも、違ってくるはずだと思うことである。
なのに実際の宗教番組は、その大前提抜きで
いきなり「美しいこと」「立派なこと」を言い立てているから、
一般リスナーから「勝手に言うとれ」ですまされるのだ。
まあ、各教団がそれぞれ自派の信奉者を対象に、学習や洗心や
反省自戒の材料もしくは契機を与えるために流しているというのなら、
部外者たる当方が意見を言う必要はまったくないのであるが。

ただし、その「自派の信奉者」も、実はあんまり聞いていない。
嘘だと思うなら、放送局や広告代理店の関係者なら
聴取率調査のデータをチェックできるはずだから、
その数字から概算できる人数と、各教派教団が公表している
(聴取エリア内の)信奉者数とを比較してみていただきたい。
「聞け」と言われたら、一斉に聞くはずであろう巨大教団の番組でも、
早朝は寝ている信者の多そうなことがわかるはずである。
そうでないとすれば、公表信奉者数や世帯数が誇大なのだ。
ともあれ、それら早朝の宗教番組、結局は自己満足に過ぎないのか。
それとも、たとえば累計百万人に聞かせて一人の心に影響を与えれば、
それが真の成果ということになる世界なのか。
何にしても、寄付、献金、浄財を使って放送をつづけているのだから、
それこそ「もったいない」の精神から考えても、
もう少し費用対効果を考えた方がいいのではないかと思うのだが。

11・広告効果を考えれば、一体化が正解ですね
「チョコラ、チョコラ、チョコラのエーザイ。
チョコラ、チョコラ、チョコラのビタミン。チョコラの童話の時間だよ」
ひょっとして、ビタミンが先でエーザイが後だったかもしれないが、
男女児童のこんな声が入って、テーマソングが始まる。
これは、当方が小学校低学年時代に聞いていた子供向け番組のひとつ、
トニー谷が童話を朗読するそれの冒頭部分である。
番組名は『トニーの童話』と言ったか、何と言ったか。
当時の番組表を再録した本を持っているので、
いまそれを開けばすぐわかるのだが、今回の話の都合上、
わざと記憶だけで書いているのである。

連続放送劇『赤胴鈴之助』では、
道場で竹刀を打ち合っている効果音がカットインし、
少年剣士の鋭い掛け声が入って、
「う〜む。ちょこざいな小僧め。名を、名を名乗れっ」
「赤胴鈴之助だーっ!」という台詞から、テーマソングに移っていく。
提供は「ニッスイのハム、ソーセージでおなじみの」とか何とか
女声の告知が入ったのだったか、とにかく日本水産であって、
魚肉ソーセージが遠足の弁当のおかずになっていた時代だったのだ。
同じく連続放送劇『少年探偵団』となると、
「少年探偵団!」と凛々しい男児の一声がカットインし、
次いでテーマソングが始まる。途中でそれがBGレベルになり、
女性ナレーターの「一家に一瓶、養命酒」という、
提供会社のスローガン告知から導入へと移っていくのだ。

……とまあこんな具合に、当時よく聞いていた番組は、
その記憶が提供社名とセットになっている。ところが、
これもまた連続放送劇だった探偵ドラマ『ビリー・パック』については、
どこの会社が提供していたのか、まったく覚えていない。
記憶している上記例はすべて、冒頭から商品名や会社名を告げて、
番組のタイトルや導入部分とそれとを一体化させていた。
そこから推理するに、『ビリー・パック』はそうはせず、
構成的にも時間的にも、両者を分離させていたのかもしれない。
なぜなら当方、『赤胴鈴之助』や『少年探偵団』と同じく、
『ビリー・パック』の主題歌もちゃんと覚えているのに、
それでも会社名や商品名が出てこないからだ。

10・どんな業界にもある話でしょうが
略称や呼出符号を連想させるようで、アルファベットは使いにくいから、
甲乙丙丁で書くことにしよう。甲局の人から聞いた話によると、
以前、ある大型ベルト番組のブレーンなのか構成作家なのか、
とにかくスタッフの一人として加わっていたフリーの人物が、
何かずれている男だったらしい。
明日の相談、来週の打ち合わせをする会議で、
長期間の取材や準備が必要となる案を出してくる。
生放送開始前の最終確認をしているとき、
突然立ちあがってどこかへ行ってしまう。
そんなことが頻発したので、半年で降りてもらったのだという。
乙局の人から聞いた話では、ある週一回の新番組を構成しだした
フリーの人物が、これもまた、ずれている男だったらしい。
局側に迷惑がかかるといけないので詳しくは書かないが、
おだやかな話題、気持ちのいいエピソードでつなげていくべき番組なのに、
「この局特有のそういう微温的な体質や雰囲気を、自分が打ち破る」
とか言って、当人の主観としては新鮮でおもしろいものらしいのだが、
他のスタッフや出演者の受ける印象としては、
番組内容とは無関係な話題や不釣り合いなエピソードを書いてくる。
困惑と不満の声が高まり、御退場を願うことになったのだという。
そして実は偶然ながらこの二人は、前者が丙局、後者が丁局、
どちらも局の出身者で古巣では優秀であり、
ヒット番組を多く作ってきたと言われている人物だったのだそうだ。

それが本当なのか嘘なのかは、当方にはわからない。
しかし本当だとすれば、その「優秀者」が通用しなかった理由には
大方見当がつく。すなわち、二人とも古巣の局では
PなりDなりという立場で番組を作ってきたわけだから、
自分の好み・主観・個性・わがままを通せただろうし
(出演者やスタッフは言うことを聞くからね)、それがプラスの方向に
作用したときには、番組がヒットすることにもなったのだろう。
だが、フリーになって他局でブレーンやスタッフを務めるとなると、
そうはできなくなる。甲乙丙丁の各局にはそれぞれの歴史と社風があり、
それが社員に各局内での価値基盤を共有させることになっている。
その結果、社員の個性や判断基準も局ごとに違ってくるし、
「良し」とされる番組の雰囲気も異なってくることになる。
この場合、価値基盤や判断基準に「絶対」の尺度は使えないのだから、
侃々諤々、甲論乙駁をやったって唯一無二の正解は出ない。
ならば日々の「相対」世界の実務としては、その立場の変化を自覚し、
甲局なら甲局、乙局なら乙局における価値基盤、
その番組のPやDや出演者の好み・主観・個性・わがままを感知し受容し、
それを満たしつつ、あるいは満たすふりをしつつ、
自分の存在を印象づけていかなければならないということになる。
上記の二人はそれができなかったわけで、悪く解釈すれば、
古巣で「わがまま」に慣れてしまった結果、
思考が狭い範囲内で硬直してしまっていたのかもしれない。
あるいは、もともとそんな視野や視点も持てない人間だったのか。
何にせよ、どんな業界にもいそうなこの種の人物、
放送業界にも確かにいるのである。

9・社員や外注スタッフが気の毒です
もっか(2010年2月)神戸のFM局、「Kiss-FM」が、
粉飾決算の疑いありということでニュースになっている。
架空の売り上げ計上で、07年度売上高約10億のうちの2億、
08年度は約13億のうちの4億を水増ししていたのだという。
現在の同社社長は去年12月に就任したので、
これは前社長の時代の話だということらしい。そして同社は、
その虚偽の決算を基礎に融資を受けたりもしていた。
だからそのニュースに接したとき、ぼくはまず、
「業績悪化をごまかすため、苦し紛れの粉飾をやったのかな」と思った。
しかし上記の数字から水増し分を引いてみると、07年度8億、
08年度9億となって、実際の売り上げは1億増えている。
経営上のモノサシで計ったとき、8億とか9億とかが
「苦しいけど何とか」の数字なのか、まったく「話にならん」金額なのか、
それはぼくにはわからない。しかし、給料遅配も起きていたというから
苦しいことは確からしいが、この御時世にあの局が1億増やしたなんて
立派ではないかと思った。以前一度ゲストに出たことがあり、社員数や
スタジオの態勢など、コンパクトな局であることは知っているからだ。
つまり当方としては、「1億増やしても厳しさに変わりはなかったので、
それで苦し紛れの粉飾を……」とまあ、そんな解釈をしていたのだ。

ところが続報に接して、「あ。これはいかん。当然、前社長を告訴して
厳しく追及すべきだ!」と思わされた。無論、現社長の談によれば
という話だから全面的な事実かどうかは不知であるが、前社長は
自分の経営する制作会社から年間2千万円の報酬を得ており、
そこに相場の3倍以上の金額で仕事を発注していたという。
粉飾は、その支出をごまかすためだったというのである。
かくて特別背任、損害賠償請求事件となってきたのだが、
念のために書いておこう。拙著『ミラクル三年、柿八年』に出てくる
神戸のFM局はここであるが、文中、阪神淡路大震災のときの
「決断」ぶりに敬意を表してある社長は、この前社長ではない。
ダイエー出身の小榑(こぐれ)さんという人である。
しかし、それなら、この前社長なる人物はどんな男なんだ。
放送業界に間々見受けられる、軽薄「悪ずれ」狡猾人間なのか?

8・海外放送の傍受体験
ホームセンターで家電売り場を見ていたら、
AM・FM・SW、12バンドというラジオがポケット型になって、
1980円で売られていたので驚いた。昔、サラリーマン時代、
この種のラジオを買って愛聴していた時期があるのだが、
それはA4サイズを少し小さくしたくらいの分厚い箱形で、
無論AC電源用のコードはついていたが、電池で聴くときには
単一を四本だか六本だか入れなければならない。
ロッドアンテナも2本ついていて、片方は伸ばせば随分長かったのだ。
そして価格が、1万8千円だったか2万4千円だったか。
30年以上前のその価格だから、いまなら
3万とか5万とかの使いでがある金額だろう。
売っていたのは神戸の元町、高架下商店街を
西元町近くまで行ったところに何軒もあった電器店、
というより電器商会と言ったほうが的確な店で、
中古のテレビやステレオ、怪しげな情報機器なども売っていた。

このラジオも家内工業的な製品で、
もちろんいくら何でも真空管は使っておらず
トランジスタやダイオードという時代の話だが、
ボックスがプラスチックではなく、薄い合板に
ビニールレザーを貼ったものだったように覚えている。
それがいまや量産品のポケットラジオで2千円以下なのだ。
しかしそれはともかく、英語圏はもちろん、韓国、中国、
言葉がわからんのでベトナムなのかインドネシアなのか不明の某国など、
夜にはそれで海外からの放送をよく聞いたものだった。
ひたすら符号か何かの棒読みをつづけている放送も入り、
そのときには何だかわからなかったのだが、後年、
北朝鮮関係の本を読んでいて、あの国の工作機関は、
日本に潜伏する工作員への指示を乱数のラジオ朗読で送っていたと知り、
そうか、それだったのかと得心したことがある。
うん。思い出した。それら毎晩深夜の聴取体験をもとに、
作家になってから、「ふくろう放送局」という短編を書いたのだった。

7・好みの問題だと言われれば、そうなんですが
ラジオ関西は、昔、神戸放送という会社名で、
ラジオ神戸という通称を使っていた。社名変更してからの一時期、
「AM神戸」という通称も使っていたが、現在はラジオ関西で統一している。
通称「KBS京都」は昔は京都放送で、それが近畿放送に社名変更し、
再び京都放送にもどった。で、二社が社名変更したとき、
ぼくは、「変なことをするなあ」と違和感を覚えていた。
港町や古都のイメージを喚起させられる具体的な名称を、
なぜわざわざ関西や近畿という漠然とした社名に変えたのか。
他地方の人間にとっては、関西も近畿も、
それらしいイメージを喚起する呼称かもしれないが、
二社ともリスナーや営業対象とするスポンサーは九分九厘、
聴取エリア内の人たちと企業だろうから、
あらためて関西や近畿をイメージしてもらう必要はない。
また、初めてその社名を聞いた人は、それが何県何市にある局なのか、
見当がつかないではないか……。とまあ、そんなことを思ったのだ。
実際、東北放送、四国放送、南日本放送等々、
広いエリアを示す社名局名は数多くあるが、
それが何市にある局かと聞かれたら首をひねる人が多いだろう。
正解は仙台、徳島、鹿児島であるが、ぼくとしてはそれより、
秋田放送、高知放送、熊本放送などの方が、
いい意味でローカル色豊かな番組をやってそうで、
イメージ喚起力という面でも優れていると感じる。
その意味で、KBS京都と同じく、
AM神戸という通称も使えばいいのにと思うのだ。

6・心落ち着く音の多いのがよろしい
NHKのラジオに、「音の風景」という番組がある。
5分間の短い録音構成物で、ぼくがときどき聞いているのは、
第2放送(月〜金)の夜11時50分からの分だが、
第1放送の「ラジオ深夜便」のなかや、FMでも流しているそうだ。
地方漁港の「競り」の様子とか、どこかのお祭りの賑わいとか、
山間の滝の音と鳥の声とか、毎回、
各地の現場の音や声を編集し、ナレーションを簡潔に入れて作ってある。
耳への刺激で光景を想像させ、雰囲気を味わわせるという、
その意味ではラジオの原点的な企画だと言える。
5分といえば、番組としてはまず「短いな」と思うところだが、
それを現地収録の音と声で聞かされると、随分聞き応えがある。
したがって、10分となると聞いていてダレそうに思うし、
イメージを喚起しつづけることにも疲れそうだから、
5分は適当な長さなのだろう。民放でもCMをくっつけ、中味3分ほどで、
こういうやつの「エリア内」版を作ればいいのになと思う。
ワイド番組のなかの「息抜き」コーナーとして使えるし、
番組表の随所にある「隙間」番組としても成り立つのではないか。
無論ぼくが知らないだけで、やっている民放局はあるのかもしれないが。
また、そんな、ある種「贅沢」で「優雅」な番組を継続制作していくには、
カネと人手の余裕もNHK並みに必要なのかもしれないが。

5・読み間違いに関する、経験者の推理
当方としては、参考までに事実と推理を書いておけばそれでいいので、
某局/某番組/某女性タレント/としておく。
聞いていると原稿や記事の読み間違いが多く、「えっ。普通そこで、
そんな読み間違いをするかな?」と思うことも少なくない。
たとえば、これは例としていまぼくが考えたものだが、
「カンタベリー大僧正」を、「カンタベリーだいぞうせい」と読んで、
「あ。失礼しました。カンタベリーだいそうじょう」と訂正する。
こういう事例に何度も接しているうち、あるとき自分の経験に照らした、
「ひょっとして本人、近視か乱視が進んでるのに、それに気づかず
裸眼のままでやってるのではないか」という推理がうかんだ。
というのが、ぼくは学生時代以来ずっと両眼とも視力1・5だったのだが、
作家になってからそれが急速に低下した。そして検査に行くまでは自覚で
きてなかったのだが、近視に乱視が加わっていた。
その間、書籍や雑誌の細かい文字を読んでいるとき、
上記「だいぞうせい」のような読み間違いをしかけ、自分で「えっ?」と思っ
て見直して、それで正しく読み直すということが間々あった。
なぜ一瞬にせよ、そんな間違いをするのか。

実は頭のなかには文章を読んでいく意識の流れがあり、
それは視線の動きとシンクロナイズしている。ところが
近視プラス乱視の眼は、大僧正の「僧」の字を「憎」と誤認することがある。
となると、すでに「だい」と読んでいる意識が次を「ぞう」と読み、
すると最後もおのずと、その連なりにおいてもっとも自然な読み方である
「せい」と読んでしまう。それで「カンタベリーだいぞうせい」となるのだが、
その読み方が変であることは読んだ瞬間わかるから、
驚いて文字を見直し、「憎」ではなく「僧」であることを知って、
あらためて「だいそうじょう」と読み直すのである。
そして、ぼくはそれを個人的に黙読でやっていたわけだが、
彼女は仕事として音読しているため、そのままラジオで流れてしまうのだ。
この推理が当たっているかどうかは不明だが、
当たっていたなら気の毒なことだと思う。けれども、その解消は簡単至極。
検査してもらい、眼鏡かコンタクトレンズを作れば、
その場でくっきりはっきりと見えだすのである。
御本人にも番組関係者にも面識はないので、
人を介して知らせてみようかとも思うのだが、
単に下手で物知らずで勘が鈍いだけだったら、眼も当てられんしなあ。

4・何にせよ、古き良き時代です
毎日放送(大阪)の前身だった新日本放送は、
昭和26年のスタート以降、梅田の阪急百貨店の屋上に造られたスタジオ
から放送していた。その日々を描いた作品が、『屋上の小さな放送局』
(庄野至・編集工房ノア)である。昭和26年といえば当方まだ三歳だし、
父親の転勤で地方都市にいたから、無論それを直接には知らない。
しかしこの作品を読んだとき、別の局のことを思い出した。
小学校入学(昭和29年)から四年の終わりまで新潟にいたのであるが、
県下最初の民放局だった新潟放送が、同じくデパートから放送していたの
だと、大人になってから読んだか聞いたかした記憶があるのだ。
いまネットで調べてみると、昭和27年、大和(だいわ)百貨店7階の
映画館跡を演奏所(スタジオと放送設備)に改装して発足したのだそうだ。
屋上と7階の違いはあるが、他にビルも数多くあるだろうし、
資本や社員出向などの系列でいえば新聞社関係のビルの方が
自然だろうと思うのに、どうしてデパートが選ばれたのか。
全国の民放ラジオ局について発足事情を調べたら、
同様のデパート活用例がぞろぞろと出てくるのか。それとも、
この二局だけの特殊事例なのか。作家として、気になるところである。

3・キットを作れば、わかるかな?
子供の頃、模型店で「鉱石ラジオ」の組み立てキットを売っていた。
ぼくは模型については、「飛行機・軍艦・戦車」派だったので作ったことは
ないが、確かクリアに聞くためには、長い棒か竹を屋外に二本立て、
その間にアンテナ線を張らなければならない物だったと覚えている。
少しあとになるが、「ゲルマニウム・ラジオ」のキットも売られだし、
これは煙草の箱くらいの大きさにまとまっていて、
イヤホンで聞くスタイルだった。しかも何と(覚え間違いかもしれないが)、
どちらも電源コンセントも乾電池も不要で、いつまででも聞けるのだという。
どういう原理でそれが可能なのか、もちろん調べればわかることだろうが、
まだ調べてないのでいまだにわからない。
そもそも、なぜラジオは音声が聞けるのか、
中学の理科だったか職業家庭科だったかで習った覚えはあり、
だからこそ「バリコン」などという部品略称も記憶しているのだが、
基本原理はまったくわかってないままなのである。
「う〜む」と言おうか、「あはははは」と笑うべきか。

2・名調子でしたがねえ……
『ミラクル三年、柿八年』のなかで、小学校高学年の頃、
ラジオで、伊藤正徳の『連合艦隊の最後』を、
ダイジェスト朗読する番組があったことに触れている。
しかしこの件、なにしろ子供時代の話なので、
NHKだったか民放だったか、民放ならばどこの局だったのか、
ぼくの記憶としては長らく不明のままだった。ところが後年、
ラジオ大阪の人から、「ああ。それはうちでやってた番組ですわ。
○○○○が読んでましたな」と聞いて驚いた。
こちらの耳に残っていた声と朗読の調子から、
ぼくはナレーターは芥川隆行氏だったと思い込んでいた。
同じ時代、テレビで戦争の記録フィルムなどを紹介する番組がいくつかあり
、氏はその分野のナレーターとしても著名だったからだ。
だから『連合艦隊の最後』も、東京で作った番組だろうと思っていたのだ。
ただし、上記の「うちでやってた」という言葉は、ネット受けしていたとか、
搬入素材を流していたという意味かもしれず、だとしたら実際、
東京制作だったのだろう。それをはっきりさせるためには、
同じく上記の○○○○が誰だったかを思い出せばいいのであるが、
二十年以上前に、飲みながら聞いた知らない名前だったので、
まったく出てこない。教えてくれた人も、とうにリタイアしてしまっている。
どなたか、御存じならばお教えください。

1・大きなお世話でしょうけれど
まずは御挨拶がわりに、前々から気になっていることをひとつ。
取材やぶらり旅で地方都市へ行くとき、
バッグのなかにミニサイズのラジオを入れていく。
街のあちこちをうろつきながら、イヤホンで地元局の番組を聞くわけだが、
農協県連が午後の生ワイド番組のコーナー提供をしていたりするので、
「なるほどなあ」と納得させられる。しかし同時に、メインは局の男性アナ、
アシスタントが女性タレントなどという組み合わせには、
人様のことながら心配になったりもする。
「局アナはサラリーマンだからわかるけど、
この土地でタレントをしてて、生活が成り立つのかな?」

テレビはNHK以外、Vが一局、Uが一局。ラジオはVの兼営AM局と、
あとFMが一局にコミュニティ局。まあこんな感じの県下で、
甲さんなり乙さんなり、特定タレントがそれら全局に起用されることなど、
ありえないだろう。だから、そう多くはない数のタレント諸氏が、
おのずと色分け(局分け?)されて働いているのだろうと思うけれど、
としたら、その各自の限られた仕事量による収入はどれくらいになるのか。
地方経済力の低下、ローカル局の現状、CMでわかるスポンサーの大小。
それらの条件から推測すれば、どうしても、
「厳しいだろうなあ」と思ってしまう。
まして、妻子持ちの男性タレントとなれば、なおのことなのだ。
もちろん、イベント業者や結婚式場などとも契約しているのかもしれず、
だから案外高額所得者なのかもしれないのだが。
そのあたり、どんなものなんでしょうね。