佐藤功太郎先生の思い出


                       
80年卒業 打楽器 伊代田誠二



伊代田氏
 
(佐藤)「こりゃー困った・・(絶句)・・(少し間をおいて)君たちホントに演奏会やるの?」
(団員)「○×△□・・(佐藤先生の困った顔を見つめながら)・・・□△×○・・・」
 佐藤先生が初めて金大フィルの練習にお見えになったのが、1978年10月のことでした。技術的な未熟さと初対面の緊張とが入り混じって悲惨な音を出している金大フィル。佐藤先生が我々団員に語りかけられた最初の言葉がこれです。


 金大フィルが客演指揮者として佐藤先生を初めてお迎えしたのが今から21年前、第39回定期演奏会の時でした。定期演奏会の会場や日程をおさえながら、音楽事務所との交渉をすすめ、その年の6月頃には、佐藤先生に客演をお願いすることが決まったと思います。今思えば本当によくお引き受け下さったと深く感謝しています。冗談まじりに先生が「これからアマチュアの客演を引き受けるときは、相手のオケをよく調べてからにしなくちゃいけないな。何にも知らずに引き受けると大変なことになる。」と笑いながら言っておられました。しかし一方では、演奏会をあまりにも心配する私の顔を見て、「そんなに心配しなくてもいいよ。僕が何とかするから。失敗したら指揮者のせいなんだから。」と言って下さったことを今でも鮮明に覚えています。「僕が何とかする」という先生の言葉は、私にとってこの上ない安心感と、何が何でも成功させてやるという気概をもたらしてくれました。

 演奏曲目は、オープニングがラコッツィー行進曲、サブが白鳥の湖からの抜粋。そしてメインが、ブラームスの第4交響曲です。当時の金大フィルが技術的に向上しつつある状況であったとはいえ、ブラ4を演奏するのはかなりの冒険でありました。
 練習も佐藤先生の初回練習以降、かなりハードなものになったように思います。特に先生の来沢が間近になると何となくオケ全体がソワソワし始め、先生が練習場に姿を現すとその緊張感は極限に達するのです。さらに追い討ちをかけるように(佐藤)「はい、それじゃー 2nd バイオリンの人、一人ずつやってみて」(2nd)「ギョエー!!」 という具合で、初心者の多い弦楽器のメンバーの中には、緊張のあまりに口から心臓が飛び出しそうな経験をした人も数多くいたように思います。「佐藤先生には本当に鍛えられたよな。しごかれたって感じだね。」ともらしていた先輩の言葉が懐かしく思い出されます。


佐藤氏、40回定演より 客演を依頼したとき、当初の契約ではアマチュアオケの場合、1回の演奏会で練習回数は最大10日でということになっていましたが、先生のご厚意で1,2回増やして頂いた記憶があります。そうでもしなければ、本番に耐えられる演奏にならないという先生の親心だったのかもしれませんが、今思えばあまりにも未熟な金大フィルによくあそこまで根気強くお付き合い頂けたと感謝の気持ちでいっぱいです。
 定演が終わり、打ち上げコンパの会場からホテルまでお送りしたタクシーの中で、佐藤先生から「来年もやるなら、マネジャーに連絡をとって早めにスケジュールを押さえておきなさい。」と言って頂いたときは、定演の感激以上にこみ上げてくるものを感じました。
 翌年、創立30周年第40回定期演奏会も佐藤先生に客演をお願いしました。金大フィルが初めてチャイコフスキーの交響曲に挑戦した演奏会でした。




−後日談−

 40回定期の打ち上げコンパは、1次会にOBを交えて厚生年金会館のボールルームで行われましたが、その席上佐藤先生が、「次に金大フィルを振るのは、50周年。その次は100周年。」と笑いながらおっしゃっていました。その年、卒業を控えていた私は、「50周年なんて20年も先の話だから、気が遠くなるような話だよなぁ。
佐藤先生本当に来てくれるのかなぁ?僕が42歳だぜ。こんな約束してホントに覚えていてくれるのかなぁ?」などどコンパの司会をしながらとりとめも無いことを考えていました。すると今年8月、珍しく金大フィルから封筒で手紙が来ました。早速開いてみると「創立50周年第60回定期演奏会 指揮 佐藤功太郎」と書かれているではありませんか。oh−!思わず家内に「オイ、今年50周年で佐藤先生が振ってくれるって!!」と言うと、「すごーい!ホントに来てくれたね」と家内もびっくり。私の脳裏には冗談かと思った40回定期での佐藤先生の言葉が、昨日のことのように思い出されました。


更新 2000/10/14