金沢大学フィルハーモニー管弦楽団との思い出

金沢大学名誉教授 川口 恒子

 


    第50回記念定期演奏会おめでとうございます。創立30周年の特集が出たのはついこの間のように思われるのに、はや10年が経過した。資料を探していると金大フィル「25年の歩み」がみつかり、創設当時の熱意がひしひしと伝わって来る。金沢大学フィルハーモニー管弦楽団という原稿用紙の一行の大部分をうめつくす長い名称には、ウィンフィルやベルリンフィルなど世界の一流オーケストラを目標とした重い理想が秘められていた。
 金沢大学創立は1949年。音楽が好きでたまらない棚倉さんはじめ同好の熱心な学生達が集り結成への準備がなされた。教育学部音楽研究室主任佐々木宜男助教授の指導や難波得三教授のバックアップもあって翌50年10月第1回演奏会が金大理学部(旧四高)講堂で開かれた。独唱やピアノ独奏をも加えた中でバッハの管弦楽組曲第2番でスタートした。(16名)バッハ200年祭にちなんでの選曲だった。

 第2回定演は'51年6月理学部講堂、旧制金沢医科大学小オーケストラとの正式合同が出来メンバーもふえた。シューベルトのロザムンデ序曲、ベートーヴェンピアノ協奏曲第4番ソロ高泰夫。工学部入試をうけにきた廊下で棚倉マネージャーに出演を頼まれた。何と合格以前のことである。第3回定演は'52年5月理学部講堂。シューベルトの交響曲第8番未完成、ウェーバーピアノ小協奏曲ソロ難波菊江(元東京音楽学校教授・難波得三金大フィル部長夫人)さすがに手なれた演奏で殊にグリッサンドが見事だった。

 第4回定演は'52年11月理学部講堂。ベートーヴェン交響曲第5番運命、シューマンピアノ協奏曲イ短調ソロ川口恒子。私が金大フイルとかかわりををもったのはこのときからである。川崎さんから出演依頼の話をきいたときには大好きな曲であり心がはずんだ。演奏会の前夜東京からOBの棚倉さんがかけつけチェロのトップをひく楽しげな表情がいまだに印象に残っている。3楽章に入ると「この曲こんなに速いの?」「今どこひいているの?」など小声で囁きがきかれたのも懐かしい。熱気に包まれた練習は夜おそくまで続いた。当日は沢山のお客様にきいていただいた。この協奏曲の3楽章はピアノとオーケストラのリズムが違うので指揮者なかせといわれる。無事終わって拍手をきいた時にはほっと我にかえり喜びがわいた。第5回定演は53年5月理学部講堂。メンデルスゾーン交響曲第5番のイタリア、ベートーヴェンヴァイオリン協奏曲ニ長調ソロ斎藤裕(N響)すばらしい演奏であった。

 佐々木氏を助け、安藤芳亮氏も指揮に加わった。篠原虎一氏は弦楽部門の育ての親といってよいだろう。その他中村外治氏、ずっと後になるが浅地修氏、松中久儀氏にも指揮をお願いした。

 その間私の記憶に残る演奏は第9回、平井康三郎作曲筝協奏曲ソロ釣谷雅楽房と、第11回モーツァルトピアノ協奏曲K466ソロ村杉弘(信州大教授)である。金大フィル部長は岩崎二郎氏・木村久吉氏・佐々木宜男氏と受継がれた。佐々木氏が愛媛大学へ転じ、後任に橋本秀次教授着任。同時に金大フィル部長となる。そしてパリから帰国したばかりの私に金大フィル顧問となるようにいわれた。「金大フィルが囲の中の蛙にならぬよう助言してほしい」とのことであった。以後退官するまでおつきあいすることになった。

 第22回以後教授は新任の山下成太郎、再びシューベルトの未完成から始まった。第25回は教育学部音楽研究室との合同演奏会。この時の指揮者は東京芸大音楽学部指揮科金子登助教授で、N響の海外放送もふっておられた。当時はたやすくは来ていただけない存在になっていた。その指揮はオーソドックスだから出演の皆さんにとって大きなプラスとなったはずだ。

 第32回プラームス交響曲第1番、第33回同じく第2番演奏、金大フィルもここまで力をつけてきた。指揮の山下氏の苦労が大へんだったと思う。第34回は流れがかわりエキストラをよばない方針となった。第35回指揮本多敏良ベートーヴェン交響曲第3番エロイカ。会場も理学部講堂がなくなってから北国講堂・北陸学院栄光館・女子短大講堂をへて金沢市観光会館・石川厚生年金会館と次第に広いホールを使用するようになった。金大フィルは団員も著しく増え、大編成の曲にいどむようになった。聴衆も定着し広い会場もうめつくされる盛況である。第1回以来学生指揮者のはたした役割も大きい。

 第37回よりプロの指揮者をよぶ事となる。先ず伴有堆、次に佐藤功太郎・石丸寛・堤俊作・末広誠・金洪才の諸氏によって指揮をうけつがれた。曲目もプラームス、チャイコフスキー、シベリュウス、マーラー、ブルックナー、ベルリオーズの交響曲など多彩となった。指揮者の個性から団員はいろいろ学び、かつ厳しく鍛えられた。

 さて第50回定演は指揮堤俊作マーラー交響曲第5番。終曲の二重フーガ三重フーガを明確に響かせコーダのクライマックスでは50回の重みをこめてこの大曲の見事な演奏をきかせてほしいと切に期待する。
 石川県にプロのオーケストラ・アンサンブル金沢が結成され盛んな活動を展開している状況となった。金大フィルは之に対してライバル意識を大いにもえたたせて頑張って下さい。たゆみない努力を重ねてその名の由来のように第一級の大編成のオーケストラに生長し、21世紀には外国にも通用する学生オーケストラとなるよう祈っております。
 最後に金大フィルの育成にまた指揮にお骨折り下さいました多くの方々に、いつも力強い協力を惜しまぬOBの方々に心からの感謝を捧げます。




  




昭和30年・40年代のフィルと私


金沢大学教授 山下 成太郎

 


  私は昭和37年に金沢大学へ赴任しました.
そしてすぐに「常任指揮」を引き受けて昭和48年の3月までの期間金大フィルとかかわりました。この時を一言で表現すると金大フィルが市民オケとしての側面を有しながら日を追って団員が増え、演奏曲目が豊富になって発展していった時代と思います。


 最初に結論めいたことを書きましたが私がかかわった11年間の金大フィルの歩みは、単純な図式で表せるほど平坦なものではありませんでした。私が最初に指揮をした演奏会は昭和37年6月2日に「未完成」を短大講堂に於いてと記録されております。しかし現在当時のプログラムを一部も所有していませんので当日の正確なメンバーや演奏を思い出すことは至難のわざです。しかしコンサートマスターそしてマネジャー(当時はそうよんでいた)はもちろんのこと1プルト2ブルトの主だったメンバーや管の人達十数名の顔が記憶にうかんできます。練習場は教育学部音楽研究室の木造ホールを使っていました。練習風景は・・・・そして当時の団として所有する楽器はと考えをめぐらしてみるとその頃のオケの姿がよみがえってきます。ヴィオラ、チェロ、コントラバス等は必要最低限度を割っていましたし、管に至ってはオーボエ、ファゴットなどは使用できるものが1本か2本だったはずです。

 当時県内でオーボエを個人で持っていた人はOBの川崎氏一人でしたでしょう。演奏曲目も古典、それも難曲でないものを中心にしていましたし、団員数も40名を一応の目途としていました。このように考えてから昭和37年の金大フィルを見てみると、それは創立から13年の歳月を経ていましたがまだ初期の時代であったと思います。そして私は昭和39年の教育学部音楽研究室との合同演奏会すなわち第25回定期演奏会を金沢市観光会館で行ってからしばらくの間常任指揮の立場を退いています。


 次に会場についてのべてみましょう。赴任最初の演奏会の「短大講堂」について補足すると、この建物は今から十数年前にすでに姿を消してその跡地は現在の県立美術館となっています。その頃は短大講堂といえばそれで十分だったのですが、正確には金沢女子短期大学講堂であり、なぜか定期で「短大講堂]を使ったのはこの時1回限りとなっています。第1回の定期から第8回の定期まではすべて金大理学部講堂となっています。この建物の現在地点は中央公園の県立歴史博物館(旧四高校舎)の左隣にあたります。平たくいうと現在のアトリオ広場へ渡る横断歩道のあたりでしょう。古風な木造2階建のもので正面にあった大銀杏が風情をそえていました。第9回からは北陸学院栄光館に会場をうつし第17回に再び理学部講堂に戻っています。昭和36年の第21回定期に北国講堂が登場してその後数回定期会場となりましたが、これも現時点では北国新聞社の建替によって消滅しました。そして昭和42年の12月に単独で行った定期演奏会としてはじめて金沢市観光会館を会場とし、その後昭和51年の第37回定期までここを動いていません。話しが私の指揮した時をすぎてしまいましたので前に戻しましょう。

 三年間のブランクを経て昭和43年から5年間「常任指揮」を引受けました。この間の5回の定演におけるメインは「新世界」「エロイカ」「ベートーヴェン7番」「プラ1」「プラ2」でした。この5回の定期演奏会メンバーズリストによると90名前後のメンバーが毎年記載され、またこの中には15名から20名のOB、客演がふくまれています。金大フィルが観光会館を常時使用し、演奏曲目に古典・ロマンの大作をとりあげたこの時期こそフィルが中期に足をふみ入れた時といってよいでしょう。


 その頃の私は週三回の練習日はかかさず出席しましたしその他に能登演奏旅行、オーケストラと少年少女、などすべてに参加したことがよい思い出となっています。私の指揮をした時代とその後のフィルとの違いを一つあげると、客演・OBを加えての演奏とそうでないものといえます。そして演奏そのものに関してはこれが最も端的に1stヴィオリンに表れていると思っています。
 金大フィル40年の歴史の中でどの1年をとっても、どの10年をとっても山あり谷ありであったでしょう。しかしフィルに在籍した各個人の存在がフィルの歴史そのものなのです。寝食をわすれて事にあたったそのことこそ大切であるのです。

ここに私の好きな詩の一節をあげてこの稿をしめくくりたいと思います。



  「存在の独立」  野口米次郎

「新しい詩は私をもって始まらねばならない。」
こう私がいったなら人は私を許すでしょうか・許さなくてどうしましょう。
毎朝咲く朝顔を御覧なさい、どの朝顔でも、朝顔の美は自分をもって始まるという誇りに輝いているではありませんか。
               (以下略)



 金大フィルの今後の発展を願ってやみません。
   1990,1,7   金沢市長坂の自宅にて。