金大フィル創立30周年を祝して

 29年度卒 OB会長 川北 篤氏
 

  金沢大学フィルハーモニー管弦楽団  この名を引き継ぎ活躍される後輩諸君に、心から30周年のお慶びと御礼を申し上げます。

  思えば学制改革で金沢大学が誕生し、当時の旧制金沢医科大学洋楽部にあった小オーケストラと合同で昭和24年にこのオーケストラが発足し、その後教育学部の佐々木宣男先生の御指導にて、独自の金沢大学フィルハーモニー管弦楽団として定期演奏会を持つ様になってから30年、金大フィルと言う愛称で親しまれ、名実共に北陸オーケストラ界のリーダーシップを取る程の管弦楽団に成長出来ました事は、OBとしましても大変喜ばしく思います。

 聞けば今期第40回定演のオープニングは「エグモント序曲」だそうですが、昭和27年5月に第3回の定演で私もこの曲を棚倉昭美君の指揮で演奏した記憶があります。あの頃は城の中のアバラヤを本拠地として、練習場もなく、不自由な階段教室で行なった事も思い出されます。そしてその創設期の苦難時代に写譜をはじめ色々な点で特筆すべき実行力を行使したのが、現在金大フィル関東支部長の棚倉君だと思います。

 当時のプログラムや写真を見る毎に青春時代の想い出として懐かしく心に甦って来ます。初代部長であった難波得三先生の奥様(元東京音楽学校教授)をピアノ独奏者に迎えてのウェーバーのコンチェルト・ステユツク(第3回)、現教育学部教授川口恒子先生(現金大フィル顧問)とのシューマンのピアノコンチェルトの共演(第4回)、NHK交響楽団々員の斉藤裕氏とのベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(第5回)、当時学生ピアニストナンバーワンだった高泰夫君とのベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」の共演(第7回)、平井康三郎作曲の筝協奏曲第一番「ト短調」を釣谷雅楽房さんの筝独奏で北陸初演したこと等々想い出はつきません。卒業後もOBとして数回出演しましたが、鈴木博君、川崎直由君等は数年前に現役学生のみで定演をする様になるまで賛助出演していた様です。今では私は金大フィルとの接触も、年に数回のコンサートとその後の打ち上げコンパ位なのですが、オーケストラの編成といい、演奏レヴェルといい、あの頃にはとても想像できない程の大オーケストラに成長しています。

 5年前に25周年を記念して当時の団長上野君や多くのOBの努力で金大フィルOB会が誕生いたし、その会長に推されましたが、中々思う様な活動が出来ず、すまなく思っています。その後OB会関東支部ができ、又最近関西支部も相沢君が中心になって出来ました。皆さんも卒業後はOBになる訳ですから各地に散っても、これらの支部に入会し活躍される様お願い致します。


 最後に現役役員諸君をはじめ精力的に活動されている現役団員の皆さんに、一層の御活躍されん事を期待するとともに、OB会として年に一度ぐらいは金沢に集まり、現役団員と交流できる様な機会を設けられたら良いなと思っております。
 30周年にあたり、金大フィルに栄えある事を願って!!



 




未完成の思い出


元指揮者兼部長 佐々木 宣男
            聖カタリナ女子短大教授
 
      
      
 古い学生食堂のつづきに、文化部の各部室があって、その中に音楽の部室もあった。六畳くらいの広さであったろうか、薄暗い電燈がひとつかふたつか。ここでシューベルトの未完成交響曲の練習が始まった。練習にくる人数は七人前後だったように思う。雪の降る夜、深く積った足もとの悪い道を開拓民のような気持で、横山町の自宅から通った。

 そのうち人数も増して何とか格好がついたようだった。しかし練習の経過はさっぱり記憶にないが、とにかく当時、未完成交響曲は金大フィルの大事なレパートリーのひとつになって何度か公演したようだ。

 「二十五年の歩み」という回顧誌に掲載してなかったけれど、山中町の主催であったか、或いは町の学校団体から依頼されたのか忘れたけれど、温泉気分を満喫させて貰って、昼夜二回の公演をやったことがある。出し物はやっぱり未完成交響曲が主であった。冒頭のダブルベースの出だしが、いつも珍妙な音が鳴り出すのは慣例であった。その日は、たまたまNHK交響楽団の北陸方面の巡回演奏会があって、その中に金沢出身のベース奏者、今村清一氏が来て居られた。懇意の仲なので、彼の休養の日を無理にお願いして、学生のメンバーの中に交って一緒に弾いて貰った。その時、それこそ初めて未完成交響曲の冒頭の八小節が、まっとうな音が出た。楽々と弾かれて綺麗な音が出た。学生ベースの連中は勿論、部員たちは、流石だなと嘆声をあげた。
 覚えている古い人もあるでしょう。






金大フィルの過去・現在・未来


        32年度卒  座主 晴ニ



 インドネシアの赤道直下バドガタ島へ駐在員として出かけようとしているところへ、三十周年記念の案内を受け、時の経つのは早いものだとつくづく思う。


 当時の演奏会の服装は、OBもエキストラの社会人も全員均一学生同様、黒のツメ襟の学生服だった。その学生服を着て演奏していたのもつい先日の様に思えてならない。再び賛助出演してみたいと思い、それを後生大事に今でも持っているが、何時の間にかスタイルがすっかり変って役に立たなくなった。
 名ピアニスト・ティンパニ奏者高氏の後を受けてティンパニを受持ちながら、太田氏の次のマネージャーを担当したので、六代目に当るのだと思う。マネジャーを担当したおかげで、その後の社会生活に役立つことを種々勉強できた。会社生活においては逆に専門職型を通して来た。

 当時は不況で、勉強だけに専念していても就職は難しい時代だった。更に「音楽好き」は軟派に見られて大変な時代だったが、皆々が、音楽・スポーツ・勉強と三本建てをよくもやってのけ、揃って第一志望の会社に就職できたのは、特記すべきことだと思う。
 費用面でも厳しく、演奏旅行の時など、富山駅から市公会堂まで、力持ちの麻生達乗君がティンパニを背負って運んだものだった。


 卒業以来二十一年以上経過したが、その間全く音楽とは関係のない生活を送った。しかし、ティンパニ奏者だけは、昔取ったキネヅカ、只今でも忘れていないつもりである。鬼が大笑いするだろうが、定年後再びやってみたいと思っている。棚倉・相沢・高氏等は、卒業後今日まで常に二足のワラジをはいて活動しておられることに敬意を表したい。
 チェロの寺西保秀君の妹さんが、遥々大阪からヴァイオリンの応援に来てくれていた。縁あって、後年、結婚ではなく、仲人を務めた。
 ティンパニー奏者としての思い出は、次の機会にさせていただく。
 また会う日まで、紙面で、コンニチワ、サヨナラ。





金大フィル雑感

        35年度卒  加藤 恒


 私は昭和32年から36年まで在籍した。定演でいえば第14回(昭和32年秋)から第20回までである。以後はOBとして2回程出演した。

 私の在籍していた頃の金大フィルは大きな峠を越した後の様相であり、14回定演を頂点に以後次第に下降線をたどり、私がマネージャーをやっていた頃が最底であり、私の卒業後優れた部員が多数入部してきて、上昇気運に乗り始めた様に思う。あの頃の金大フィルにとって最大の難関は、何はともあれ部員の絶対数が足りない事であった。オーケストラと名がつく以上ある程度の人数がいなければ、その存続を維持することは不可能である。私としてはこのオーケストラを何としても存続し、次代に引渡すことを最大の目的として、常に活動していれば決して倒れることは無いと信じていた。だから年2回の定演、合唱団との合演、芸交祭等の定期的なものは勿論、それ以外にも演奏旅行、劇伴と機会あるごとに活動の場を求めていた。少数の部員で何故あのように動き得たかの理由は、OB・客員に依存したからにほかならず、あの当時金沢にはオーケストラがなく、唯一のオーケストラ金大フィルを暖かく見守ってくれるOB・客員・音楽関係の諸先生方が多数おられたからである。私の下手なマネージングで無理を承知の強引な依頼を聞いて頂けたのもそうした人々の好意に甘えていたのであり、金沢のオーケストラ活動のことを考えた上での事であったと思っている。

 現在の金大フィルの隆盛は嬉しいというより、うらやましい限りであるが、私のたどった様な過程もあったことを思うと単に学内のオーケストラにとどまらず、地方の音楽活動における金大フィルの位置を考えた上での活動であってほしいと願っている。








金大フィルの思い出

39年卒  石黒 泰治 氏(Vl)

  
  私が金大フィルに入ったのは、昭和36年だったと思います。その頃のオーケストラの部室というのは、通称「クラブ長屋」と言われていた食堂の二階の一郭で、廊下を隔てて、向い側が合唱団、隣がESSだったと思います。その部屋も幅が3間、奥行が1間半ぐらいの非常に狭いもので、10人前後入ると、いっぱいになってしまったように思います。ですから私が入った当時のメンバー構成は、第1バイオリンが私を入れて2、3人、第2バイオリンが3、4人、ヴィオラが2人、チェロが2、3人で、管楽器は各一本づつで、もちろん、バスーン・オーボー等は学生で吹く人は居なかったように思います。

 これだけの人数で最初は週に1回、音研のホールを借りて、練習をやっていたのですが、皆が練習に揃うことは仲々ないので、弦楽四重奏に管楽器が入って、やっているようなものでした。ですから音楽会だというと、マネージャーは、金沢在住のOBの皆様や楽器をやっていらっしゃる方々に出ていただくように頼みに行くのが仕事だったように思います。その頃、石川県にオーケストラは金大フィルだけだったので、学生を中心にして各方面からの同好の士が集まり、市民オケ、県民オケ的な面が非常に強く、今思うと、その結果OBの方々や、その他、いろいな人達と知り合う事が出来て幸せでした。昭和37年になると、山下先生が赴任して来られ、その頃から部員数も増えだして、先生を中心に、小編成ながらまとまった演奏が出来るようになっていったようです。

  人間関係も非常に家庭的で、合宿、クリスマスパーティー、麻雀大会、ハイキング、コンパ等、非常に懐しく、現在でもその時の情景が思い出されます。現在の金大フィルは部員数が百人を越えると聞き、私達には想像もつかない大世帯になったものだと感心させられます。まるで私達の当時の夢が実現したようで、心から喜んでいる次第です。今後のますますの御発展をお祈りしています。


新歓コンパ昭和36年
昭和36年 新歓コンパ風景