![]() 53年度卒 桶谷篤夫氏 |
「金大フィル」と聞けば、いったい人は何を連想するだろうか。半部外者である私にはちょっと見当るものがない。ありきたりの学生オーケストラで、あまり個性のないオーケストラのように見えるからだ。全くの部外者ならば何かを抱いているかもしれない。思うにこれは、主観と客観の相異からくるのであろう。 オーケストラにおける個性とは、音楽と集団の二つの面があるように思われる。音楽面での個性とはうまいへたは別である。今の金大フィルは一つの転機にさしかかっていると言える。レベル的にはかなり高いものもあり、それをどう生かすかはこれからの問題である。少なくともこのままでは頭打ち。 また、集団においては、音楽に対する考え方はどうあろうと、それを考えることは必要だ。百数拾人というメンバーで、考え方も十人十色。しかし、一人一人がそれぞれの異なった考え方を自覚し、それらが集まる時に、一つの個性とも言うべき方向性が表出するであろう。それにはディスカッションも必要であろう。ディスカッションといっても承認のみの総会だけでは、とてもそんなものは期待できない。もっと討論の場を設けてはどうだろう。なるべく自然な形で。 どららにおいても、目的意識を持つことが必要である。もちろん全てが同じ方向などということはありえない。今後このようなことを考えながら、一日一日の練習をこなすことによって、少しはおもしろみが出てくるのではないだろうか。個性のある音楽、その集団、一つ考えてみては? |
![]() 京都大学交響学団 畑 英也 |
大学とは、社会から隔離された温室のような所なのだそうです。またその中にあっても、オーケストラというのは非常に閉鎖的な団体であると思います。実際、たまに他の大学の演奏会を聞きに行って自分で比較してみるぐらいで、それ以外には外部からの刺激などほとんどないといってもいいでしょう。どの大学にしてみても、週に何回か集まって練習し、年に2回ほど演奏会を開くだけなのです。それほどやり方に違いがあるとも思われません。少し上手だとか下手だとかいう程度でしょう。 しかし現実に合同演奏会をやってみて、同じ学生オーケストラでもこんなに違うのかと、つくづく感心させられました。おたがいさまという気もするのですが、私たちは金沢大学の皆様に教えられたことが多かったように思います。ことに団員相互の交流の深さという点は、私たちも見習うべきものであると思います。合同演奏会が終わったときはとてもさわやかな気分だったのですが、これもそのへんのところに原因があるのでしょう。 今考えてみると合同演奏会はとてもよい思い出なのですが、あの当時は本当にうまくいくかどうか心配ばかりしていたような気もします。でも私たちは心配ばかりでなにもしなかったといってもいいのに、皆様方のおかげでとてもよい演奏会にすることができました。ここに改めて、金沢大学の皆様の厚い友情と絶大なる御協力に感謝いたします。本年で創立30周年を迎えられるとのことですが、今後の増々の御発展を心からお祈りいたしております。 |
![]() 医学部4年 瀧口哲也 |
団に望む事といわれても戸惑いを感じてしまいます。次代の人間はそれぞれの信念に基づいて行動するであろうからです。しかし一つだけ言わせて下さい。何かにつけ団において面倒臭がる人間が目につきます。一般の団員は勉学と音楽との両立に悩んでいることでありましょう。まして執行部・PLなど、他に仕事がある人たちはなおさらでありましょう。しかしそのような人たちが結果として責任を果たさない言い訳をしているうちに、団全体の活動は確実に停滞してしまうのではないでしょうか。 これまでは学業を半ば放棄した人が団の仕事の中心となっていた気がします。しかし勉学を人並にやっていて、しかも素晴しい仕事をした後輩もおります。 『邪魔くさがらない』ということを私はかって先輩に鍛えられ、そしてそれは多くの後輩に今だに誇れることだと思います。 トップは行事を失敗させてはならぬから、充分な考慮のもとに事を起こさねばならない。しかし、何もしなければ非難を浴びることは無いという態度は決して団に活気をもたらすものではないと私は信じます。考えているうちに時間が過ぎてしまったでは何ともしようがないのではないでしょうか。意義を感じつつ精一杯やり、その後反省してさらによい行事を行う、という積極的な態度を期待したいと思います。 |
![]() 法学部3年 大崎智子 |
今宵、飲む酒うまい酒、と申しますのは、気心の知れたオケラの面々と、一緒だったからです。オケラに入いり、はや三年、Vnと共にの三年であり、オケラの人たちと共にの三年でありました。音楽が好きな人が集まって、下手も上手も一つになって曲を演奏する金大フィル。ここにはいって本当によかったと思っています。音楽は、音を媒介に心を表現するものでしょう。偉大な作曲家たちが、何を感じ、どう生きたか。音の構築に託されたバッハやモーツァルトやべ一卜一ヴェンの心情を知り、彼らに近づくこと、彼らの偉大さを全身で感じて激すること、そして、彼らがそうであったように、それを日常生活と切り離されていない一体なものにすることが、私達の求めるところではないでしょうか。しかし、現実は厳しく、ここ三年やってもVnのかまえ方、弓の持ち方すら いまだにできていないのが実状です。 近頃、それをひしひしと感じて、とても空しい思いでいます。けれど、歩かなければ進まないのは明白で、見通し暗くて立ち止まり、オロオロ泣いてもいっこうに変わらないのですから、下手は下手なり、自分の尊敬するバッハやモーツァルトやべ一トーヴェンの経験を追いかけていこうと必死になることが大切なんだなあと思っています。 音楽は、一人でするのでは、ハーモニーの美しさを感じようったってまず無理ですし、より音楽的に優れた人と一緒にやることで、一人であがくよりもずっとその曲をわかることができるでしょう。百人が心を一つにした時の緊張感。音を出すのが怖いくらい曲を大切に思う気持ちが、百人みんなの中にあって すばらしい指揮者のもとに演奏したら きっと 作曲家の魂と演奏している私たちの魂がユラユラと陽炎のように立ちのぼり、それが聴いている人たちの魂と触れあうんじゃないかしら。 どれだけ 曲を愛するか どれだけ 曲を大切に思うかで 演奏は違ってきます。もちろん練習態度だって違ってきます。曲を大切に思う心は、人を大切に思う心と一緒でしょう。人に好き嫌いがあるように 曲にも好き嫌いがあるでしょうけれど、演奏すると決まったら、好きになろうと努力しなくてはと思います。好きになったら、やっぱり大切にするでしょうから。と言っても"言うは易し、行なうは難し"ですネ。 |
![]() 52年度卒 大久保 譲氏 |
とにかく30周年おめでとうございます。 私は元来のんびり屋ですので、大学生活は最大限に活用させていただき、金大フィルとの関わりも奇怪千万に、かつ多年にわたり、卒業した現在も延々と続いております。今年はチェロのトレーナーという肩書きを与えられ、毎週一度くらいはオケラの部室に顔を出しに来ておりますので、過ぎ去った昔の金大フィルの想い出というものも、まだ実感としてわいてきていません。 とはいえ、私が入団した頃の雰囲気 --- オンポロ長屋に薄暗い蛍光燈、尻の痛くなる木の低いいす、留年しない団員は女性かモヤシ男といった気風、音楽とは何ぞやと夜を徹して語り合うわりには、演奏者の絶対数が不足していたり、演奏技術には少々無頓着だったり--- そういったものは、現在の金大フィルを見る限りでは、全く感じられません。新しいビルの一、二階を占有し、明るい照明とパイプいす、留年する人は要領が悪く、クラブのせいではない。音楽とは何ぞやと考えるより先に、プロの指揮者にシゴいてもらい、大曲を演奏する。少々演奏者もダブつき気味、といった具合に私には見えます。 十年前の夢は大部分叶えられているのではないかと思います。けれど団員の一人一人を見る限りにおいては、昔も今も、何かにとつりかれたように、わからない音楽(?)に、かじりついている姿である。金大フィルのよき伝統がそこにあるのではないでしょうか。 だから、特別金大フィルに望む事もないのですが、しいて言えば、これからの金大フィルは、演奏会の一サイクルから脱して、大局的な大きなサイクルを見つけ出してほしいと思います。逆から言えば小さな事で無理無茶をせず、個性を失なわない団員が増えていくことを望みます。それに、卒業したあと、その素晴らしい腕を埋もらせず、どこでも活躍してほしいと思います。というのも、近ごろアマチュアオーケストラの団員の高齢化が進んできているようですので・・・・・。 最後になりましたが、昨年秋、小さな独奏会を若さにかまけて催させていただいた折に、金大フィルの多くの方々に応援していただいて、本当に感謝いたしております。 |