在団当時の思い出


昭46年度卒  岡本 広敏氏(Tr)
 

 
  大学を卒業してはや3年目、教師生活もまる2年半がすぎました。まだまだ”頼りない先生”という状態が抜けきれない昨今です。高校時代のブラスバンドより、オーケストラの分野に入った訳ですが、今ではまた古巣のブラスバンドに戻り、我大阪市立鶴見商業高校の吹奏楽部の顧問及び指導をやっております。みなさん笑わないで下さい。これでも一応さまにはなっているのですよ!我クラブも今夏大いに飛躍し、現在上昇気運にあり、生徒のヤル気というものが、日に見えて表われ頼もしく思っているところです。しかし、今年から大阪府吹奏楽連盟の事務局の仕事をはじめ、吹奏楽関係の仕事が大巾に増え、今までのように十分にはみてやれないのが残念です。生来音楽に対しては苦手な私でしたが高校以来ずっと音楽の中につかっているのが不思議なくらいです(マーいまでも音痴であるのは変りありませんが)しかしこの音楽の道をふりかえってみますと、金大フィル時代が楽しかったようですし、又充実感もあったようです。(現在も充実感にみちあふれていますが)というのは、いろんな事に頭をつっこみ又たくさんの人達と親しく接することができたという事が大きかったと思います。このように書いていくと在団時の事がたくさん思い出されてきます。

その1
  私の3回生の時の定演に実行委員長をやったことです。たくさんの人が実行委員をやってくれて、和気合々と仕事ができたことが思い出されます。そして仕事が完全に分担化されて、各部所でみんなが責任をもってやってくれたので、本当に楽な委員長でした。そして定演が終ったあとのコンパの酒がおいしかった。又コンパの席が楽しかったこと。やはり充実感にあふれていたでしょうね。ここで現団員の方々に一言、1つのことをやる時には、それを自分のこととしてしっかりとらえて欲しい。80名もの団員1人1人がそれを完全に「私がやっているのだ」という気持をもてて初めてそのことが完成するのであると思う。何をやるにもそのことに対して他人になってはいけないし又前面に立ってみんなをひっばっていく立場にある人も、絶対80名1人残さず他人にさせてはいけない、という気持ちでやっていって欲しいものです。

その2
  私の下宿に先輩も同輩も後輩もたくさんやってきてくれて、多くの人達と親しく話ができたことです。私の下宿の位置が良く、城内と医学部・工学部の中間に位置していたため、足を運び安かったのが幸したのでしょう。たくさんの人達と話をしたり、議論をたたかわせたりできたことが、やはり現在の自分にとって大きな糧となっていると思っています。恋愛の話、クラブの話、政治の話、女性の話等、話がつきることがありませんでした。特に4回生の時には、私と同期ですが、何如かまだ学生である大峡君なんかは毎日通ってきていろんな話をしたものでした。その大峡君も1児のパパなんですから月日のたつは早いものです。反面コーヒーの減り方がはげしく、それに比例してさいふの中身の減り方もはげしいということもありました。逆によく人の家や下宿にも遊びに行ったものです。清水君をはじめ、加藤小介君、大峡君、加藤大介さん、長枝さん等、たくさんの人達の名前が出てきます。私の場合みんな程、クラッシックに興味が大きかった方ではないので、こういう時又団の仕事をしているときが楽しかったのです。しかしクラッシックに対する興味が少なかったとはいえ、やはり練習は楽しいものでした。ラッパを吹いている時が安らぎの時でした。

その3
  あの学生運動の嵐、大学立法に対する嵐が吹きまくった頃(私の2回生の頃だったと思います)にも1つの思い出があります。大学立法反対運動が高揚したとき、私自身のクラブに対するかかわり方の疑問がではじめしばらくの間クラブへ行かなかったことがありました。あの時はクラブ全体の大きな問題として、相当ゆれ動いたものです。何回もクラブ内の討論が繰り返されました。クラブとしては、その問題に対して真剣に取り組んでいくことを基本に、クラブ活動は続けていくという結論になったのです。しかし私1人そういうことはできないと、一時、クラブ活動をやめてしまったのです。よほど頑固な頭をもっていたのでしょうか。いやよほど単純な頭しかもっていなかったのでしょう。しかしこの時、私1人のわがままを許してくれて私の好きなようにさせてくれ、その上再度クラブ活動をはじめたとき、暖かく迎え入れてくれた団員の方々に、今新ためてお礼をいいたい気持です。しかし団をあげての真剣な討論のくり返しは、本当に若者の集団の良いところが出た1つの出来ごとだったと思います。このことも私にとって大きな歴史の1つとして今も残っています。

その4
  楽書帳、TUTTIも大きな思い出です。在団当時のTUTTIは全部現在でももっていて、暇なときはよくひっばり出して読んでいます。そしてあの頃は若かったナー(?)と今の自分にムチ打つこともしばしばです。又楽書帳にもよく書きました。今でも部室にいったときはよく読ましてもらっています。このように思い出していくと、たくさんのできごとがでてきますが、やはり紙面の制限もあることですので、このへんでペンを置きます。OB会ができて年に1度くらい集まれることを祈っております。(係の方ご苦労さまですがよろしくお願いします。)25年間いろんな人達によってきざまれてきた団の足跡に、私も小さな足あとをきざませてもらえたことを光栄に思います。そしてこれから何十年も後輩達のたくましい足で団の歴史を作っていってくれることをお祈りします。
 




クラブでの6年間


     昭48年度卒 藤島 秀敏
 


  私は1968年の入学ですから、ちょうど山下成太郎先生がカムバックされた年に入ったわけです。その頃は3・4年生はまだバンカラ時代のなごりをとどめており、1・2年生がワンバク坊主のようで、4年生の指導力と2年生のバイタリティーの間で失礼ながら3年生はあまり目立たなかったようです。クラブは先生を迎え上昇しようとしていた時であり、期待された我々1年生はというと、後のコンサートマスターである大峡君を筆頭にバイオリンの経験者が5人もおり、他にも頑張り屋の村田さん、ビオラの小掘君チェロの市村君など練習熱心な弦奏者が多く、管奏者も人材が豊富で先輩達を大いにうれしがらせたものでした。
 さて1年生は入学早々団結して「Bオケ」なるものを組織し、二軍として1人前になるまでの期間を基礎的なアンサンブルを作ろうとし、私が音楽面を、ホルンの清水君がマネージメントを担当しました。これは途中で破産しましたが、その原因は自分達が先輩のやっているクラブにもの足りなさを感じ、暗に「つきあげ」の意味も含めてBオケ活動をやったのが良く受けとられず、「お前達はクラブを分裂させる気か」とまで言われて意気消沈し、中止するに至ったのです。しかしこの1年生養成のためのBオケの意義はその後も認められ、今日まで極めて細々と伝統が継がれているようです。
 さてともかくもベートーベンをはるかにとび越えてドポルザークの「新世界」を成功させた先輩達の喜びはひとしおであったようです。しかし古今東西を問わず「成功は崩壊のはじまり」であり、謙虚なきびしい反省をおこたったために少しずつクラブ内に批判が出ていたのも事実です。1年生など「新世界」をたたき台にして今後を考えるのですから。

 ともかくその前の「運命」「ロンドン」などに比較し格段に飛躍した金大フィルがそこにあり、その前の「田園」とよい勝負ができるようになった事は評価されるべきことです。
(私に言わせれは前が悪すぎただけなのですが)1969年ほ芸交祭が金沢であるために定演を初夏に行なうことになり、メインの「英雄」に早くからとりかかった訳です。本年度のメインである「英雄」をわずか半年それも例年のストーブリーグである冬から春にかけての期間で本番にのぞんだことをみてもこの頃のレベルアップは推し測られようというものです。

 さて、そのころからクラブ全体に「民主的な運営による大オーケストラ」に対する憧れがあり、それは「新世界」で卒業していった先輩が最後に言って去った「これからはクラブを大きくしてゆかねはならぬし、事実今年は人数が大変増えた。大世帯のクラブを運営していくには今までのような市民オケプラス団長ひとりではダメだ」という言葉が今後のクラブ活動の大きな指針となったのです。それからの数年というものはその組織作りのための暗中模索の時代であったと言っても過言ではないでしょう。代表会議というものができたかと思うと任期半ばにして全員辞任するといった事実がそれをよく表わしています。そしてそれは大学紛争の時期とも重なって、ある意味で原始的な「音楽が好きだからそれだけでクラブにいる」ひとにも自己反省を迫られ、憲法ともいうべき部則もない中で新体制をさがし続けた人にも「挫折感」を与えたのでした。

 私はこの時期、つくづく下級生であることの無力さを感じ、無責任ながら「時の来るのを実力をつけて待つ」ことに徹しており、何も言う資格のない人間である事を告白しておきます。私はその頃素晴しいチームワークで大発展の途上にあったマンドリンクラブ(当時部員130名)に身を投じ、「フルートなら入部できるから、自分で行って体で民主的な組織づくりを覚えてきてやる」と皆にあいさつして、それからの3年と少しの間、両方のクラブをかけもちしたのです。途中指揮者としてむこうが主に、こちらが従になることもありました。そしてマンクラの更なる発展に大変力をつくした事を認められ、そのかわり組織づくりと指揮のキャリアを習んで帰ってきた訳です。両方のクラブからにらまれましたので、途中2年間学校をサボリ、他の人が学校プラスクラブであるところを私はあっちのクラブプラスこっちのクラブだといったら、わかってくれた人もいたようです。

 マンクラを4年生で卒業してからこの2年間は本当に短かく、大分と強引にやりまして、もう1年学校にいたらなあと本当に心残りなことが多いのです。ともかく団長の岩佐君、パートリーダー議長林田君との三人四脚でチャチな部則を作り、組織を直し、反省点に戻すいみでOBの客演も指揮もたのまず、自前で定演を行なってみたわけです。ダラダラしていた練習時間もきちんと決めたら「シューマン」など例年の1/3ほどの時間になり、皆の内心の不安のうちに定演をむかえたわけでした。まだまだ全体の沈滞ムードと団長、指揮者など上に立つ人への不信感のぬぐい切れない状態での演奏会は、指揮をした私には大変寒々としたものでした。なにやら全員に悲愴感の漂っていたのも事実でしょう。本当の音楽とはもっとリラックスした信頼関係の中にこそあるものです。ともあれ最後まで弦の低音楽器の少なさのために押し殺したような音しか出せなかった金管楽器が、その指示を忠実に守ってくれた事に人間として最敬礼したい気持です。

 ソビエト、中国などの革命後をみますと、血も涙もない冷酷さが少しずつやわらぎはじめています。私も「おだやかな人間味」をクラブ組織全体に注入したかったのですが、その前にタイムアウトとなったのです。我々には強引なほどの改革が是非必要であったのです。そしてそのあとにはのんびり音楽を楽しむ集団が新鮮に蘇生して欲しいのです。現在、人材はだんだんへってゆき、我々の真の意図でない間違ったお題目が唱えられ、民主政治は衆愚政治となり、大人のつまらない意地のはりあいの真似がはびこるのを、私は一番恐れています。私にとってオケでの最良の日はコンパを見れはすべてわかりますが、1972年金沢での芸交祭に新世界のフィナーレをぶっ飛はした時で、あれは実にいい気分でした。







今後のオケに期待する

      現団員 金丸 保典
 


  黒い屋根亙の合い聞に、白いビル群が次々と生まれ、城下街金沢も近代化へとその姿を変えていこうとしている。25年前と言えば、我々が生まれる数年前の話であるが、その頃にはいったいどんな街並があり、どんな学生生活があっのだろうか。オーケストラ誕生時の様相を知る由もないが、4分の1世紀の歴史を踏まえ、現在80余名の団員をかかえサークル内でも屈指の大世帯になったのは非常に喜ばしい事である。

 さて、一般に良く言われる事であるが、学生オーケストラにとって致命的問題点は、何と言ってもそのメンバーのサイクル性である。4〜6年の間に全くその姿を別のものに変えてしまう新陳代謝の激しさである。1年間かかってどうにかまとまったオーケストラが出来上ったと思うのも束の間、卒業生を送り出し、新しい出発点に余儀無く立たされるのである。これは謂わは宿命であり、我々の力ではどうする事もできない事項である。考えてみるに1年々々その姿を変えていくのであるから、金大フィルと一口に言っても現在までに25個の金大フィルがあったのではないだろうか。ある時はメンバー不足に泣き、ある時は楽器不足に心を痛め、又ある時はそれまでに演奏不可能だった難曲をこなし感無量の心境に浸り、そういった1個々々の歴史の上に今や25個目が躍動しているのである。ところがここで見逃してならない注目すべき特徴は、当然ながらメンバーの平均年令がいつまでたっても若いという事である。25年間で年を取ったのは金大フィルと言う名前とその間卒業していった人達であろう。(先輩どうも失礼)。平均年令20才前後のオケに若さを感じない訳にはゆかない。

 幼児期からヴァイオリンやチェロを習ってきている人達は以前に比べれは増えてはきているだろうが、ヴィオラやコントラバスを含めたオーケストラの弦楽器奏者全てをそういった人達で構成するのは現在は不可能である。自然と大学へ入ってから初めて弦楽器を手にする人の数は多くなる。1人前と言われるには何年もかかる代物を、わずか数年でどうにかしようと言うのであるから、人目には不思議であるかも知れない。勉学の合い間に楽器を手にし(勿論この逆もあり得る)、そしてべートーペン、チャイコフスキーに親しもうと努力する。当前最初生まれ出る音は到底ベートーベンの墓の前では出せる類の物ではない。
 一方スーザに慣れ親しんできた多くの管楽器奏者もオーケストラの華麗なる音の追求に目を丸くする。ブラスバンドでの演奏経験はあってもオーケストラでの経験は皆無に等しい。そういった人々が一同に集まり、耳からだけだった音楽分野に新しく挑戦するのであるから冒険ではある。しかしそこでものを言うのが若さである。作曲者が草葉の影で泣き叫ぼうとも、我々を静止させる事は出来ない。我々もやはり荘厳な弦の響き、美しい管の音色、力強い打楽器の響きをこの手でこの唇で見近なものにしたいのである。世界中に数しれない多くのプロ及びアマチュアのオーケストラがあるが、今我々の手によるそれは只ひとつしかなく、スピーカー等では決して再生出来ない人間臭のギラギラ光る若いオーケストラサウンドである。

 ややもすれは東京に中央集権化されがちな音楽文化ではあるが、金沢という恵まれた環境下において活動を続ける我々にとって、生の音楽を当地の多くの人々に楽しんで貰えれば幸いであるが、それにはやはり高度の音楽性が要求される。学生だからという甘えは我々の間では許されても、音楽と云う名の下においては決して許されるものではないであろう。先に述べた様な学生オケのギャップを越えて、これこそが金大フィルの演奏だと言うものを持ち続けていきたいものである。これは容易に言葉には表現出来ても、それがいかに難しい事かは、日々感じている所である。ある時は、弦楽器にとってprestoは波のざわめきの如く、ピチカートは爪弾かれたハーブの如く、木管のさえずりは歌を覚えたばかりのカナリヤの如く、金管の響きは霧笛の如くであるかも知れない。しかしそれ等を練習の積み重ねによりいかに音楽として構成していくか、それは団員1人々々にかかっている。音を学びそれを楽しむ、それが音学であり音楽ではないだろうか。

 指揮棒の下に張りつめた緊張感、それは表現し難いものであるが、それは正に各団員の1つに集中しなければならない一瞬である。すばらしい演奏を耳にした時のあのゾクゾクする感激をこの手にしたいと思う強い欲望の一瞬でもある。そう、いった一瞬々々を大切にして、金大フィルはこれからも活動を続けていくであろう。ただ、現役の活動に対する意見なり忠告を得る機会が無く、卒業と同時にサークル活動とは疎遠になりがちなのが残念です。我々先輩、後輩の関係は全く面識がなくとも、『モーツァルトはお好き?』の一言で気軽るに話かけが出来る音楽仲間ではないでしょうか。「あの頃のオケはこうだった。」と言う経験的意見も、今の我々の活動にどんなにか参考なるかしれません。そう言った意味で、今回OB名簿も整備され、これを機会に新旧世代の交流がより促進されれば幸いに思います。

 最後に、現在社会の各分野で御活躍中の諸先輩、並びに音楽指導してくださった諸先生の更なる御発展と御健康を祈り、これからのオーケストラを支える次の世代の健闘を願って止みません。