![]() 昭和39年卒 雑賀 龍一 氏(Vla) |
私は36年入学と同時に入団しました。当時部室は尾山会館2階中央の部室長屋の一角にあり広さは3間×1.5間つまり9畳の狭くるしいところで廊下をはさんで向かい側には合唱団の部屋があり今は広いホールのようになっている所に、中央の廊下を挟んで7つあまりの部屋があり中には1つの部屋に2部同居しているところもあった。現在の部室は崖の側が「歌う会」道路側が「文芸」、入口のところの廊下のつきあたりの2畳ほどのところに「らくだの会」が入っていたので3室分を専用しているわけで当時より非常にめぐまれている。 当時は先にも述べたように多くの部と同居していたのでオケラは随分他部に騒音公害をまきちらしていたが、幸いにも追放運動も起らなかったのはなによりである。そのころ部室長屋で盗難が多発したため合唱団とオケラの一部の人たちで徹夜の張り込みを続けたことがある。合唱団が市内の質屋を回りオケラが古道具屋を回って盗品の発見に努めた。古道具屋だけでも市内に50軒以上もあるので大変だった。ようやく犯人がわかったが、ところがもっと大変なのは犯人を警察につき出すか出さぬかで部室長屋は大激論となり、つき出せば警察は現場検証の為長屋に入ってくることになり学生運動関係の部は大反対した。ある活動家の曰く、犯人が盗みを働かざるを得なかったのは、アメリカ帝国主義のせいであるからこの事件を全学友にPRし犯人をかかる行動に走らせた米帝を糾弾しようといい出した。いかにも風がふけばオケ屋がもうかる式の論法だがそんなことをやれば犯人(本学学生)こそいい迷惑で、結局大学という所は警察が入らないのをよいことにしていつまでも盗難がつづくおそれもあり、警察に通報に行くことになり私も中署に出向いた。ところが先の犯人は、市内で別の事件で逮捕状が出て居るが顔写真がないため捕らることができないし学生部にある顔写真さえも見ていない、とにかく学内に入るとつるし上げられるからそっとしておいたと警察が言うので、こちらは2度びっくり。我々の持参した顔写真70枚を渡し一件落着と相なった。帰りぎわに刑事曰く「我々はこの犯人逮捕の為に学内に入るつもりはないので学内で発見したら君らに任せるから近くの交番所までひっ捕らえて連行しても不法監禁に問うようなことはしません」とのことであった。ついでながらバイオリンーつが300円位で入質されていたが、全部回収できたのは幸いだった。 話がだいぶん軌道をはずれたが2年のときビオラ奏者が足りないので、私は第2バイオリンをやめビオラに転向することになったが、ビオラの譜面は非常に弾きにくいのでよく考えて見ると音符のオタマジャクシを3度下げて書くとバイオリンと同じ個所を押えればよいことに気づき(但し♯は一つ追加bは一つ減らして奏く)写譜さえすれば何の苦もなくビオラが弾けることになる、つまりバイオリンとビオラの奏法の共通化ができるので以来ずっとこの便法を続けて来た。在学当時は、いまに世界中のビオラの譜面を新方式に変えさせるように運動するつもりであったが、どうやら共鳴者が出ず私は孤立無援の状態にある。この写符したものは今でもオケラに残っているのではないかと思う。当時この譜面のことをインチキビオラと皆が言っていたので私も抵抗せず譜面の表紙にはIn Violaと書いていたInとはインチキのインのことである。しかし私は同じ音が出るならひきやすく汎用性(バイオリンさえひければひけるためアマチュアオケでは第2バイオリンとビオラの人数配分が臨機応変、自在にできる)もあるインチキ方式の方が合理的と今でも思っている。本当のインチキビオラというのはバイオリンの弦を一本づつ隣に移し、C線のみビオラのC線を張った即席楽器のことを言うのだろう。これも当時部室に一台あったが定演などには使用しなかった。まことに、とりとめもない話になってしまったが当時の思い出をつづってみたが何はともあれ当時の苦しくまた楽しい金大オケが今日まで発展して来たのは喜びにたえない。 |
![]() 昭41年度卒 米田 薫氏(Hr) |
管楽器の連中は新しい音楽が好きで、弦楽器の連中は古いものが好きなようです。音を出している時のものどもの顔を見ていると不思議に知的なのです。頭の痛い時には「インチキ製薬のヅツー丸」などと言う宜伝には彼等はだまされません。楽器を鳴らせはそんな頭痛なんて一発やと信じている連中ばかりですから。 我々の練習は長いチューニングで始まります。時にはそれだけで終ってしまいます。「ルネ王の暖灯」を練習しています、よく蚊の出る室で。近ごろは自と黒の縞のステテコをはいたのが無断で聞きに来ます。彼は「B」の音が好きだそうです。クラリネットのやせて最も血の気の少いN君の所に集まって血を吸いながら聞いてくれます。 妙な話ですが、昨日パスーンをケースから出したら、かびだらけだったのだそうです。楽器でかびを栽培した奴が居るのです。知らずに吹いたら、エントツの先から煙が出たのだそうです。オーケストラに愛着があって規定の4年をはるかに越えて残っていてくれるF君がカンカンに怒っておりました。実に悲しそうに彼はかびを払っておりました。 コントラバスのY君を白山につれて行きました。石徹白から中宮へ行くのです。登山口から三十分歩いたらもう帰ろうと言いだしました。泣きそうなんです。「もう絶対に山なんて登らない。」と言うんです。それでもなんとか室堂に着きました。空が素晴らしく青いんです。「先生、来年はいつ登らはりますか。」と彼。彼は今近くの山を走り回っているとか。台湾のRさんがバイオリンを弾いています。彼はメンデルスゾーンの協奏曲しか弾きません。それがすごく調子っばずれなのです。上昇するメロディーはより高く、下降するメロディーはより低く、ですから彼は平均律でも純正調でもないR正調で弾いているのです。誰も彼との合奏にはついていけません。顔は名人中の名人と言う感じになります。彼は今年台湾に帰りました。台北の市民を毎日例のメンコンで悩ませているでしょう。 4年生が研究室にやって来ました。オーケストラが最近だらしないと言うのです。楽器楽譜の管理、練習態度、本当にそうかもしれません。団員を結んでいるものが音楽以外のもの、例えば麻雀、でそれによって穴うめをしているならばもういけません。やはり音楽を創ることでつながっていて欲しいものです。組織もしっかりと確立してほしいです。合奏の喜びを本当に知ったらそんなに簡単にオーケストラはつぷれません。そこがわからないと簡単につぷれます。単純なことですが心を通わせる為の努力が要ります。工夫が要ります。 ポロポロのホルンが出てきました。前からナチュラルホルンを欲しいと思っていました。工学部でバルブの所をはずし短絡しました、そうしてF管のナチュラルホルンを作りました。現在、昔の奏者の苦労をしのんでいます。ついでにこわれたペットとトロンボーンでナチュラルトランペット(D管)を作りました。全長2メートル25センチのダンディな奴です。農学部の女の子達が部屋の横に花壇を作りました。花がいつも咲いています。男どもが時々肥料をやります。彼等にとっても好都合なのです。生態学の原理にのっとって調和が保たれていると思われませんか。オケの女の子は皆グラマーぞろいであります。くつ下よりずっと強くなったようです。馬力のある女の子ばかりなので、とうとうホルンに進出されました。一番大きな音を出すのです。彼女に対抗するには2人の男が要ります。 プラームスの一番をやることに決まりました。コントラファゴットが要ります。ありません。大事な音は3つばかりとわかりました。そこで、その3つの音だけの出る楽器を作ることにしました。まず塩ビの3メートルばかりの管をひろってきました。アマのオケはもっと地元に尽くすべきではないでしょうか。プロのあとを追いまわすのはどうかと思うのですが…。 セカンドバイオリンは12人中男性2人、クラリネット、フリュートもカカア天下です。女性の居ないパートはコントラバス、オーボエ、ファゴット、ペットくらい。又、進出されそうです。金沢から大阪に来て8年まだラッパを吹いています。今まで続けられたことは大変恵まれた環境に居る為かもしれません。卒業された皆さん、音楽を一生続けられますように。自分の生活の一部として無くてはならないものとして日夜の練習に励んで下さい。いいオーケストラは理想社会である、とは最近つくづく感じていることです。 |
![]() 昭42年度卒 山ノ井 基臣(Fg) |
在団当時には感じなかったが、今こうして6年以上も昔のことを努力しながら思い出そうとしている時、1つの喜びを感じる。 つまり当時は別に「先輩達が育んできた伝統を僕達が今、継続しているのだ。又僕達の後にも後輩達がこれからの伝統を継続してゆくのだ。」といったような歴史性は感じず、ただ部屋で、しゃべり合い、合奏し合い練習にとりくみ、そして遊び合って来たのであった。 しかし僕達が大学を卒業して、もう6年以上たった今、特に僕のようにオーケストラ活動とは全く縁がなくなってしまった者にとっては、自分の古巣が若い力によって脈々と成長し続けているという事実は、驚きでもあり、喜びでもある。又若かりし青春時代を思い出させてくれるというだけでもうれしく思う。これは僕が年を取ったせいだ。 振り返えると当時はいろいろと無鉄砲な事をやったものだと思う。フィラデルフィア交響楽団が金沢に来た時は、山本君と駅前のセントラルホテルへ、バスーン奏者を訪ねに行った。そして僕のバスーンをいろいろテストしてもらったものだ。ベルリン交響楽団が来た時もホテルまでついて行ったものだ。僕はバスーン奏者をつかまえそこねたが小宮山君は話していたようだった。京都交響楽団に当時、三原さんというバスーン奏者がおられて浅地先生の紹介で京都へその方を訪ねて行き、その後も山本君と三原先生の自宅でモーツァルトの二重奏を聞いてもらった。今も懐しく思い出されるのは京響が金沢で第九を演奏したとき、ステージが終ると早速楽屋へ行き、ステージの服装そのままにオーバーをひっ掛けた三原さんを山本君と屋台に連れ出し酒を飲んだことである。雪が降る小路の屋台にとまり、何を話したかは覚えていないが、僕の青春時代のひとこまとして残っている。 おんばろ部屋には多くの仲間が群っていた。長屋の御隠居さんこと雑賀さんは、段々と学生気質がみみっちくなってきたと、こぼしていたが最近はもっと旧式の人間は減っているのではないだろうか。これも時代の流れ。昔は学業よりオケラの方を優先させた御仁が多くいたそうな。大風呂敷にラッパを包み、時には左手はポケットに、右手の1本の指だけで冬の合宿を務めた米田さん。今でもホルンを吹いているのだろうか。 多くの仲間がいた。みんなおもしろい人達であった。ひとりひとりの仕草を思い出していると僕の頬が、にやにやしてくる。 |