世附   

                     森の友  (社)かながわ森林づくり公社 

                     1999年 秋号より 特集記事の転載

 

特集 ふるさとの「水源の森」を訪ねて…

    丹沢湖B…世附川周辺の森  服部一景(森林インストラクター)

 

 玄倉川の痛ましい事件から半月。ときおり立つ秋風が、透明な湖水に映る青い山影を揺らしている。夏の出来事を思い起こさせるのは、下がった湖の水位くらいだろうか。

 玄倉川の反対にあるのが世附川だ。剣の西端の森の水を集めて丹沢湖の西側から流れ込んでいる。地図を見ると、西の外れに三角形にはみ出した部分がある。不老山、三国山、畦が丸の点を結んだ三角形だ。その突端の三国山は、その名の通り、西に甲州(山梨)、南に駿河(静岡)、そして東が相模(神奈川)と、山頂が三つの国の境界になっている。標高1320mの山容は、山梨県から山中湖を縁取る山として知られている。三国山から東に向かう尾根筋が静岡県の小山町との境界だ。たどると明神峠、1041mの湯船山、峰坂峠、世附峠、928mの不老山と続く。

 一方、山梨県の山中湖村との県境は扇の弧のように北東に曲線を描く。順に三国峠、1291mの鉄砲木の頭、切通峠、1174.1mの高指山、1268mの大棚ノ頭、1297.3mの西の丸、1348.2mの菰釣山(こもつるしやま)、1199m城ケ尾山、1246m大界木山、モロクボ沢の頭。この稜線は、東海自然歩道の一部にもなっている。そこから南に畦ケ丸、屏風岩山、権現山と、中川川を隔てる稜線が続いている。

 鉄砲木の頭、大棚ノ頭、モロクボ沢の頭などの地名に付いている「頭(あたま)」とは、谷や沢の源頭にあたる隆起や峰のことである。

 不老山を扇の要にした扇状の地域に、世附川や上流の水の木沢、北に向かう大又沢を中心に、大小幾多の沢が張り巡らされている。付近一帯は丹沢大山国定公園・県立丹沢大山自然公園の一部にあたる。

 丹沢湖のメーンブリッジ、永歳橋を渡って左に折れると、すぐ落合隧道にはいる。道は権現山の南麓を湖に沿って走る。途中、直ぐに湖に流れる沢をいくつも越える。穂を開いたススキや赤紫のクズの花が、道行く人に秋の訪れを教えてくれる。湖岸の草花は、人の心を和ませる。

 道の左手、湖岸の高台に石碑がたっている。中心にある大石に陰刻された文字は、「望郷之碑」。湖の底に眠る世附の集落を偲ぶ碑である。台石に線香の燃えた跡が残っていた。

 世附村の歴史は古い。天正年間(1573〜1592年)末期には中川村、玄倉村とともに川村郷から分離、独立して「新山三か村」とか「奥山家三か村」と呼ばれていた。『新編相模国風土記稿』によると、江戸から28里、東西12町余、南北2町余、南方を小田原道が走り、家数56軒、鎮守は八幡宮、寺院は曹洞宗能安寺があると記されている。玄倉でも書いたが、奥山家三か村は1667(寛文7)年、小田原藩主から木材切り出しを命じられてように林業が盛んな地域であった。1974(昭和49)年に起工式が行われた三保ダムの建設は4年後に完成。三保地区にあった世附・神尾田・焼津・大仏・田ノ入および玄倉の一部が湖底に沈んだ。当時の人口の推移を見ると、起工式の頃は547人、2年後は79人であった。県の無形文化財に指定されている世附の百万遍念仏は曹洞宗能安寺とともに山北町向原に移った。

 対岸の湖水に沿って走る世附林道が合流する世附川橋を越えると、緑濃い山が迫ってくる。左手が不老山、右側がミツバ岳だ。その辺りが浅瀬というところで、浅瀬造林休憩所と売店の建物がある。ここから一般車は進入禁止。鉄のゲートで閉ざされている。

 世附川は「ゆづくがわ」とも呼ばれ、丹沢山塊の最西端の山間を流れる川だ。長さは13.4km、流域面積65平方キロメートルの2級河川。夕滝橋、芦沢橋、山百合橋と世附川沿いの景観は素晴らしい。世附一帯は大部分が国有林。林業が盛んに行われているところだが、秋は紅葉狩りが楽しめる。川原ではカワガラス、キセキレイ、カジカガエルなどの生き物も観察できる。世附川の上流域は「水の木沢」と呼ばれ、流長5.8km、流域面積19.8平方キロメートルで、菰釣山に端を発している。神奈川と山梨の県境にある山で、「こもつるしやま」と呼ぶのは神奈川県側、山梨側では「ブナの丸」と呼ぶ。ブナの大木が多いことからの呼称である。

 丹沢の植生を垂直的に見ると、標高700〜800mよりしたにはコナラやクヌギなどの落葉広葉樹や、1960(昭和35)年代以降、植林されたスギ・ヒノキの針葉樹が多い。それより上部にはブナを主体とした落葉広葉樹林が発達している。ブナやカエデの仲間やシナノキ、シオジなど様々な樹種がある。山頂部や稜線では、立ち枯れが目立つと、ビジターセンターの友人は憂いている。中腹には、クリ、ミズナラ、シデ類などに混じってモミ、カヤ、ツガなどもある。

 浅瀬付近で世附川から分かれて北に向かうのが大又沢。今回の取材ルートだ。ここから畦ヶ丸と菰釣山の鞍部にある城ヶ尾峠に続く道は、白石峠と並んで昔から甲州との交易路だった。峠の呼び名も山梨側では「三ヶ背峠」だとか。

 「右道の幅2丈2尺ばかり今は篠竹茂りて僅かに人蹤を尋ね往来す、サガセ峠を越えて…」と『甲斐国志』に記されている。峠の名は、急な斜面を表す道志の方言「さがしい」からきている。『新編相模国風土記稿』には「西北の方甲州堺に城ヶ尾と言へるあり、一に信玄家鋪とも、信玄平とも唱ふ」と記されている。

 大又沢に沿って続く道には、馬頭観音や地蔵堂など生活の匂いが残っている。地蔵平を中心にして大又沢流域には20軒ほどの人家があったという。セギノ沢の「せぎ」は水車小屋を造るために築く「堰」、シキリ沢は丸太をのこぎりで切る台のことなどと、木地師に関係のある沢の名が、多く残されているのもおもしろい。

 世附川一帯の森に続く未舗装の林道は、周辺の自然と調和し美しい。歩くのに快適な道である。