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2002.12.08.

ビルバオの旅
 

 グッゲンハイム・ビルバオは、スペインの旅で一番楽しく、興味深い空間だった。フランク・ゲイリー建築の巨大でぴかぴかした建物と、レストランで有名なこの美術館は、しかし、展示物については余り話を聞かないので、ただの見かけ倒しだったらどうしようかと、少し心配していたのだ。
 まずレストランでランチの予約をした後、美術館の中に入る。日曜日、そこは観光客で一杯だった。外観はぐるぐると渦巻きが巻いているような形なのだが、中は意外に広い空間が開けている。しかし、変な形の小部屋も沢山あるので、構造は、すぐには把握できない。一階が常設展示、二階と三階が企画展で、この日は「ジョルジオ・アルマーニ展」と「ナム・ジュン・パイクの世界展」が開かれていた。
 ランチの時間まで、とりあえず私は先に「アルマーニ展」を見る。日本でも、時々行われるような、デザイナーのファッションを展示したものだが、量がすごいので、見応えがある。数々の服が、服の形に作られた透明のトルソーに飾られているので、まるで服だけが立っているように見える。白いドレスだけを集めた真っ暗な部屋や、空中に浮かぶアクセサリー小物もあって、結構手の込んだ展示方法だ。

 ランチを堪能した後、企画展に戻る。一階は一番広く、とにかく大きな何か、よくわからない鉄のかたまりが置かれていたりする。ただ真っ白で、強い光に照らされている部屋もある。目がハレーションを起こして距離感がなくなり、左右は勿論、上下の感覚も怪しくなってくる。間違って壁にぶつからないように、壁と床の角が丸くなっていて、その感触だけで、壁があるんだなあ、ということがわかるのだ。そんな体験は多分初めてなので、とてもおもしろい。南極の、雪の固まりの中にいる気分。その部屋に入ってしばらく経つと、強い光に徐々に色が混じり始め、突然目が距離を感じ始めるのもおかしい。

 外に出ると、大段幕に「変容する知覚」と書かれている。十分哲学的なのだが、作品自体は子供でもわかる。

 次の場所には高い壁があって、その前で人が並んでいる。数人ずつ、順番に入っていくのだ。私はフィゲラスの、ダリ美術館で同じように人が並んでいたのを思い出す。順番に階段を上って、オブジェの前にある望遠鏡のようなものを覗くのだが、何のことはない、見え方は並ばずに下で見るのと同じなのである。つまりその階段自体が、ダリらしい、人をおちょくった一つの作品なのだが、ここでは中が全く見えないので、予想がつかない。
 私の番がきて中にはいると、そこは人一人やっと通れるぐらいの通路である。道は一つしかないので迷路ではないのだが、迷路のようにぐるぐるとその道を歩く。その距離たるや、旅行者にこんなに歩かせるか!というぐらいの長さである。一緒に中に入った一団は、しかたなく歩き続け、突然、明るく開けた空間に出る。
 しかしそこは、ただの小部屋なのだった。へとへとになってたどり着いた先が行き止まりだとわかると、人はとりあえず大笑いする。旅行者が多く、そこにも英語圏の人、フランス語圏の人、スペイン語圏の人、と色々いたわけだが、皆一様に、大笑いする。それを見て、すでに行き止まりにいる私たちもまた大笑いするので、しばらく大笑いが続く。自分の努力が全く何も生み出さなかったことに、ただ大笑いできるのである。私はどこかに隠し扉があって、外から開けてくれるのだろうと、壁をトントンたたいたりした。あるいは、途中で道が変わって、出口が現れるとか。それにしても、先に何があるのかわからない、ただ細くて長い道を歩くだけで、どうしてこんなにドキドキするのだろう。後で二階の吹き抜けからそのオブジェを眺めると、本当に小さな空間内を、ぐるぐる回っていたことがわかる。でも壁の高さがとても高いので、中にいる人までは見えない。笑い声も、聞こえない(怒り出す人とか、いるんだろうか)。

 ここで「ナム・ジュン・パイクの世界展」を見られたことは、私にとっては本当に幸運だった。韓国で見たビデオの塔も大好きだったし、坂本龍一やローリー・アンダーソンのビデオクリップは、当時はとても新しかった。こんなに大量の作品をスペインでいっぺんに見ることができるとは。
 ナム・ジュン・パイクがいいなあ、と思うのは、彼が自分の作品を、芸術だとか、前衛だとか、そんな風には全然考えていないと思えるところだ。全くのジャンク、何かの象徴でも表現でもないゴミの山を作っちゃいましたーという感じで、だからその空間はとても気持ちいい。私はただ、くるくる回る光や山積みになったテレビを見て、楽しいなあ、とか、きれいだなあ、とか思っていればいい。巨大なスクリーン、そして様々な映像がランダムに映し出されるモニターの中でボーとしていると、突然懐かしい「羽の林で」が流れたりする。スペインの北の端で坂本龍一!私は真面目に泣き出してしまった。

 建物の外、正面玄関の前には、グッゲンハイム・ビルバオのシンボル、巨大な犬のオブジェがある(注★)。初夏、この表面を草花で覆われた馬鹿でかくて不細工な犬は、所々咲いた花でまだら模様である。その無意味さと言ったら、表現を絶する。なぜ、超近代的な建造物の前にこれがあるのか、ぼーと見上げていると、無性に笑えてくる。そう、グッゲンハイム・ビルバオは、とにかく笑える美術館なのだ。

 遊園地のように入場券を手首に巻いてくれるので、その日は一日、美術館は出入り自由である。私は一旦外に出て、スルバランやゴヤやエル・グレコが、何の秩序もなく並んでいるかわいらしいビルバオ市美術館に行ったり、気持ちのいいカフェでハンサムなカマレロとおしゃべりしたり、ちょっとショッピングをしたりして、またグッゲンハイムに戻ってくる。閉館までずっと、ビデオの山の前にいる。何にせよ、何か知識を得るよりは、身体がドキドキしたり、背筋がざわざわしたりする方に価値を置く私には、この空間は心地よい。慣れないホームステイで縮こまっていた身体が、うきうきと休日を楽しんでいる感じ。

 外に出ると、雨が本格的に降り出していた。傘を持っていないので、ホテルに帰る頃にはずぶぬれになっていた。さすがに疲れて、夕食はホテルのバールで簡単にすませる。ホテルの中なので、まあいいか、と、この旅で初めて飲んだビールが悪かった。部屋に帰るなり私は気を失い、気がつくとベッドに頭をゴンゴン打ち付けていた。一瞬自分がどこにいるのか全くわからず、一人でビルバオにいるのだということを思い出すまで、ものすごく時間がかかったような気がした。
 ぞっとはしたが、人が優しく食べ物のおいしい、この奇妙なテロの街には、何だか似つかわしい体験だった。
 

注★) 「入り口に座る巨大な犬」は、滋賀のワンワン王国が真似しているらしい。しかし、こちらはワンワン王国であるので、いたく当然な意味があり、面白くはないと思う。

(c) 2002 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki