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2000.07.04.

黒いマリア
 

 バルセロナ・モンセラ(モンセラート)にある黒いマリアのことを知ったのは、中沢新一さんの『バルセロナ秘数3』だったのか、それとも旅行案内が先だったのか、よく覚えていない。初めてバルセロナに行った時、とにかく私と妹は、黒いマリアに会うのだという強い使命感に燃えていた。一体どうしてそんなことになったのかは、よくわからない。

 黒いマリアの像はヨーロッパ各地に点在する、名の通り黒色のマリアと、膝に抱かれた子供のキリストの像だ。大抵が農民が泥の中で見つけたというような逸話を持つ。それはキリスト教のマリア像なのだけれど、それだけでは説明のつかない不思議さを持っている。諸説あって真相はわからないらしいが、黒マリア像の多くが、宗教絵画やレリーフ中心のロマネスク以前-キリストやマリアを四次元の像に描くのはタブーだった-から存在していたことなどから、キリスト教が心底普及する以前、土地土地にあった信仰、ガリア・ケルト神話の大地女神だったのではないかとも言われている。確かにカタルーニャ・ロマネスクの美術館でも、教会のレリーフばかりが並ぶ中、黒いマリア像だけが立体化したオブジェとして存在していた。大体マリアの肌の色が黒い、ということが異様である。最近ではすっかりはやりになっているヨーロッパ文化の源流としてケルトをクローズアップする、黒いマリアはその象徴ともいえる。しかし、モンセラのマリアは恐らくもっと新しく、逸話こそ同じようなものが語られるが、これは完全にカトリックのマリアとして作られたものだろう。

 まあ、私たちにはそんなことは関係がない。世の中の多くのマリアが白く華奢で優雅なのに対して、黒いマリアは独特のおかしさと柔らかさと優しさを持っている。私たちは彼女が大好きだ。初めて行ったモンセラは、寒く人けがなかった。私たちはがたがた震えながら、マリア様を見た。彼女に会うためには、洞窟のような印象がある階段
(しかし実際には様々な美しい宗教絵画や像で飾られた階段なのだが)を登って、礼拝堂から見れば正面の高い位置にある回廊に行かなくてはならない。マリア様はとても美しい。キリストでさえ、とてもかわいい。そして手には球体-世界が乗っている。私はカトリックではないが、正確にはプロテスタント教会で幼児教育を受けてシモーヌ・ヴェイユの神秘主義とスピノザの汎神論の影響を受けた私は、この象徴的な像、絶対的な他者を膝に抱き、全世界を掌にのせる女をとても愛している。

 拝観しおわって帰る途中で撮った写真では、私たちは寒さで真っ白の唇をしている。しかし、私たちはとても幸せそうだ。

 6年ぶりにモンセラを訪れた時、夏のバカンスでそこは大観光地になっている。マリア様に会うにも、長い行列を並ばなくてはならない。一歩一歩少しずつ進み、マリア様の前に立っても、まさか十字を切るわけにもいかず、私は会釈だけして遠慮がちにその手に触る。全世界を持っている手だ。そしてまた会釈して離れる。私の後ろに並んでいたイタリア人っぽいおじさんは、私たちの所在なげな様子を笑うように、派手なゼスチャーでマリア様の足にキスをした。

 人がどんなに多くても、拝観を終えて出口に向かうゴツゴツとした通路は、私たち二人きりだ。その坂をトントンとリズミカルに降りながら、私たちは長く並んだことも、ゆっくり見れなかったことも忘れて、やはり幸せな気分でいる。

(c) 2000 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki