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2001.05.29.

私の好きな歌3
 

 勤めていた料理屋が、突然立ち退きで閉鎖されることになって、私は飛んでもない混乱に巻き込まれた。立ち退き話は前からあったから、いずれはそうなることはわかっていたのだが、なにしろ急だった。調印してから1ヶ月しか余裕がなかったのだ。そのせいで、真夜中まで賑わって働いた次の朝には、大慌てで荷物を運び出す中、もう取り壊しが始まるという状態だった。

 これで私は失業してしまった。まあ、それ自体は、まだそれ程実感も、不安もなく、「さすらいもしないで、このまま死なねーぞ」と大声を出して強がっていれば済む、という感じである。
 問題は少し、違うところにあった。

 ついうっかりと、取り壊しが始まってすぐ店に行ってしまった私は、半分壊され、半分残っている建物を見た。つい3日前まで、人で賑わっていた場所が、無惨とか悲惨とかいう言葉では言い表せないような有様で、じっとしていた。居着いていた野良猫たちは、逃げもせずに、半分壊れた店の中をうろうろしていた。人がいる間は、決して入ろうとはしなかった場所だ。

 傷ついたのは、その落差だった。

 昔、大好きだった紅茶カップを割って、ひどく落ち込んで以来、私はものには執着しないように努力する癖がついていた。いずれは壊れるものだ、しかし、そのいずれが、たった三日間でしかない現実に、私はぞっとした。こんな風に、人はモノを壊すことができるのだ。

世界がモノの総体ではないように、壊されたのは建物ではない。そこに至る道や集まっていた人、そこで交わされた会話、そして、勿論、猫の餌やりまで、要は私の生活世界が、壊されてしまったのだ。それは、私が壊れてしまったのと、さほど大差ない。大好きだった紅茶カップが壊れたときも、壊れたのはただのカップではなかった。お気に入りの紅茶を入れ、お気に入りの椅子に座り、お気に入りの本と音楽を準備する、そんなすべてが壊れてしまったから、私は随分と落ち込んだのだった。しかし、今回は規模が違う。何十キロにもわたる空間が、全部爆破された気分だった。
 
 そんなわけで、「さすらいの道の途中で、会いたくなったらうたうよ、昔の歌を」というのは、「このまま死なねえぞ」と叫ぶより、もっと難しい気がする。なくなった世界も自分も、全部ひっくるめて消化し、認めなくてはできないからだ。新しい世界を作ることなくさすらいながら、昔の歌を歌うなんて、いつになったらできるんだ?と思いながら、この曲を聴く。


●奥田民生 「さすらい」
1998年2月発売のシングル(Sony SRDL-4483)。翌月発売のアルバム『股旅』(Sony SRCL-4204)にも収録されている。

 
 

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