「カイエ」表紙に戻る
2000.03.15.

理解できないもの1
 

 子供の頃、はないちもんめという遊びが嫌いだった。まあ、嫌いならやらなければいいのだけど、みんながやるというのを一人反抗するほど根性もない。なんでこんなことをしなくちゃならないのかと不条理を感じながらつきあっていたのだが、大人になってあれは人身売買の歌だという説を読み、自分の感覚のまっとうさに感心した。花は女郎、もんめは金銭であり、かってうれしいは買ってうれしい、まけて悔しいはディスカウントされて悔しいの意味だという。(寺山修司編著「日本童謡詩集」より)

 そんなことを思い出したのは、テレビに幼稚園児がはないちもんめをしている様子が写っていたからで、未だに禁止されていないということは、あの説は世の中にさほど認知されなかったらしい。

 大体このようなゲームにおいては、かわいくてきれいな子からもらわれていく。そのうち、あ、欲しいと言われてないのは私ぐらいだ、と学級委員やら生徒会長やらをしている子が気づき、博愛の精神、さも本当に私が欲しいのだと言わんばかりににこやかに、私の名前が呼ばれる。なんたる不条理。

 きっとこのたわいなくかつ残酷な遊びが今もなくなっていないのは、たとえ幼稚園児でも、これが自分の中のセクシャルな側面をくすぐることを理解しているからだろう。「○○ちゃんが欲しい」と公然と叫ぶなんてこと、日本における長い人生では、はないちもんめをしている時しかないかもしれない。でも同時に、ハナからそんな欲望の外にいる自分を自覚する子もいる。かけっこでビリになる方が、はるかにマシなような気がする。

(c) 2000 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki