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2000.02.06.

サイバーパンク
 

   妹がカーステレオでパール兄弟ばかりかけるので、最近サイバーパンクのことをよく考える。パール兄弟の歌には、サイバーパンク的な風景が頻繁に出てくるのだ。世代論なんて大体が眉唾ものだし、そう信じてるわけではないけれど、人それぞれに、もっとも時代と密接に生きた時があるのは確かなことで、私にとってそれは、18歳から28歳までを過ごした80年代だった。科学がそれまでとは全く違う仕方で人間と関わるようになった時代。レコードがあれよあれよというまにCDに変わり、YMOがそれまではそこそこ良質の、変化に富んだものだった世界中のポップスを、全部同じ機械音のリズムに変えてしまった時代だ。そして82年の『ブレードランナー』を中心にして生まれたアメリカSF界のムーブメントがサイバーパンクだった。

  それが実際日本で、どの程度流行っていたのかは知らない。『ブレードランナー』がロードーショーでは成功せず、徐々にカルトファンを獲得していったように、そのイメージは知らぬ間に、私たちの間に浸透していった。身体に様々な機械を組み込んだ人間、コンピューターのネットワークが神のごとく隅々まで浸透した世界、ヴァ−チャル・リアリティ、見分けがつかなくなった現実と夢。90年の終わりにはもう完全に現実のものとなった未来世界を描いたそれらの小説は当時、私にはすごく新鮮だった。その頃はまだ、モデムですら見たこともなかったのだ。しかし、忘れてはならないのは、そうした新しい未来都市を舞台に描かれるのが、昔ながらの、ちっぽけな人間の希望や愛だったということだ。サイバーパンク小説は、その新しい外見とは不似合いに、中身はチャンドラーのハードボイルドみたいな人情の世界を描いていた。しかし、それらはあまりにありきたりで古めかしいので、まるで存在しないかのようにみえる。そして中身のない、新しい形だけが一人歩きを始めた。

  新しい〈形〉だけがどんどん作りだされていく、80年代はそんなことが始まった時代でもあった。ノマド・リゾーム・器官なき身体といった言葉が一人歩きしたポストモダンの流行も、その頃だった。私たちはそうした〈形〉に夢中になった。しかし、どこまでその中身を理解していたかはわからない。そして、〈形〉だけが進んでいった結果は、誰もが知っている。

  しかし、80年代と密接に生きた私には、現実に進む〈形〉を頭ごなしに拒絶したり、嫌悪したりすることはできない。クローン羊にあんなに非難が及ぶのも、私にはよくわからない。待ってたんじゃなかったの?そうしたものを。精神科医の香山リカさんは、そうした未来都市を懐かしいと思い、それが一瞬にして廃墟となってしまう感覚を、テクノスタルジアと名づけている。でも、と私は思う。懐かしいのは未来だけではない。そこに今でも残る紀元前からの、何も変わらない人間存在もまた、懐かしいのだ。クローンだったりアンドロイドだったりしながら、しかし、ある日突然存在されられた、という点で共通するこれら存在者たちは、あいも変わらず謎と不安に満ちていて、形のない愛や希望を支えに生きるしかないのだ。

  形を拒絶することなく、忘れられた中身をつなぎ止める。それが世代感に乏しい今30代の私たちがすべきことなのかもしれない。
 

思い出した 10 YEARS AGO  海だったよね  このへん
(パール兄弟 「TRON岬」)

(c) 2000 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki