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2000.06.09.

モンド
 

 例えば仕事で無理難題をねじ込まれたり、レストランで邪険に扱われたり、つまりは不必要な意地悪をされた時、私はいつも、ル・クレジオの『モンド』に出てくる〈いつまでもたくさん〉という言葉か、ジャン・コクトーの『ポトマック』に出てくる人食いのウーディーヌたちを思い出す。きっと彼らはこうしたものの存在を知らないのだ、だからこんな意地悪ができるのだ、と自分を慰める。

 『モンド』が映画になったと聞いた時、だから私はいくらかがっかりした。興味はあったが、「さあ、どんなふうにけなしてやろう」という興味だった。小説が映画化される時、映画は読者が持つすべてのイメージを越えなくてはならない。つまり、書かれていることだけではなく、その本の形、装丁、行間すべてを映像にしなくてはならない。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の舞台が、うどんの屋台が並びワカモトの宣伝が流れる街だったのか、と驚き納得できる飛躍がないと、映画は文学を越えることはできない。

 『モンド』はいい意味でも悪い意味でも、〈原作に忠実な〉映画だった。忠実に映像にするという点では、この監督は出来うる限りの努力をしていたと思う。事象一つ一つを映す短いショットのつながりはル・クレジオの文体を思わせるし、その鮮やかな色がとても美しい(美しすぎて環境ビデオ風になってもいるのだけれど)。音楽もいい。ほぼ全員素人の出演者も悪くない。エピソードや風景のほとんどが原作通りで、飛躍はない。だから、当然、原作には遠く及ばない。一番困難なのは、モンドという主人公の子供がただの子供でも天使でもなく、世界の象徴であるという不思議さをどうやって映像にするかということだ。それがないと、ただ社会からはみ出した孤児と浮浪者たちのふれあいの話になってしまう。そしてそうなっている所もないとはいえない。

 しかし、恐らくル・クレジオ崇拝者のこの監督には、原作を越えようなんてすけべ心も意欲も全くない。デュラスが一人称から三人称に変えて書いている『愛人』のラストを、デュラスの本が並ぶ書斎でデュラスそっくりな俳優を映すという恥知らずなことをしながら「私は原作通りに映画化した」などとうそぶく厚顔無恥に比べれば、遙かにいさぎよい。そしてその控えめな態度は最後の〈いつまでも  たくさん〉という文字の表現の仕方によく出ていて、私はとても、感動してしまう。

 しかし、その瞬間から、私の感動はもうル・クレジオの小説のものだ。だからこの映画は、原作を貶めることなくル・クレジオ文学へ誘うという、小説の映画化には余り見られない価値を獲得している。他のすべての映像はいずれ失われるだろうが、もう私はあの最後の映像なしに〈いつまでも  たくさん〉を思い浮かべることはないだろう。もっと正確に言うと、〈TOUJOURS BEAUCOUP 〉という言葉を。なにせ日本語とフランス語では字数が全然違うのだから、映像も全く違うものになるのだということに、私は映画を見て初めて気づいたのだ。


 

●モンド
監督・脚本/トニー・ガトリフ
原作/ル・クレジオ
出演/オヴィデュー・バラン フィリップ・プティ ピエレット・フェシュ 
1995年フランス/カラー/スタンダード/80分 
配給/日活

●海を見たことがなかった少年 〜モンドほか子供たちの物語
ル・クレジオ 集英社文庫

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