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2004.10.01.

デブラ・ウィンガーを探して
 

     『デブラ・ウィンガーを探して』は、女優のジョアンナ・アークエットが同業・同年代の女優たちに、女優業のつらさをインタビューして歩くドキュメンタリーだ。「いかにして、女優と母・妻業を両立させるのか」という疑問に始まり、今のアメリカの30歳を過ぎた女優の取り扱い方への批判、へと続く。真摯かつフランクな彼女の態度は好感が持てるし、いろいろと考えさせられる、いい映画だと思う。女優の条件として挙げられるfuckabilityという言葉があるのも始めて知った。「働く女性は働かなくてはいけない」という言葉にも、勇気づけられた。

 しかし、見ていくうちに、少し違和感が出てくる。そもそも「女優業」という特殊職業がテーマなので、すべてが単純に全女性に当てはまるわけではないのは当たり前なのだけど、次々とでてくるアメリカ女性たちの話を聞いていると、どこか、共通の幻想があるように感じてしまうのだ。つまり、「人間は歳をとるにつれ、成長しなくてはならない」という。結婚し、出産し、子どもと共に成長し、よりよい大人の女になったのだから、私にはもっと仕事があるべきだ、と。これは、アメリカに共通の発想なのかとも思う。偶然出くわして困惑気味のシャーロット・ランプリングが、「自分の中の尊厳をいかに保つか、それが問題」と言う時、「成長」はあまり関係がない。

 成長、とはどういうことなのか。よりよいものになる。よりよいものを目指す。例えば、自分が本当にしたいことが見つからない、と言う女性。昼間仕事中にFM番組がかかっているのだけれど、そこでかかる日本の今のポップスの多くが、「運命の人」との出逢いや別れを歌っている。『デブラ・ウィンガーを探して』のアメリカが成長病にかかっているとすれば、日本(の若者)は天職や生涯の伴侶への幻想にとりつかれているように見える。成長と、オンリー・ワンへのあこがれ。勿論そうしたものを信じないわけではないが、求めた時点で意味がなくなる類のもの、のような気がする。

  そう思うと、この映画はとても残酷な現実を映し出してもいる。20数年前、結構一世を風靡していた女優たちが、変わり果てた姿で現れて驚く。ハリウッドはガキ向け映画しか作らない、と嘆いてみても、ホリー・ハンターやヴァネッサ・レッドグレーブ、ウーピーのような、第一線との落差は大きい。彼女たちには成長しなきゃといった強迫観念は感じられないし、ごく自然に生活していて、結局それが才能の差なのだとすると。(例外がエマニュエル・ベアールで、元々アイドル的な受け入れられ方だったせいか、それともその体つきのせいか、歳と共に成長することや、老化による変化にこだわっているように見える。あんなトップ女優なのに!)。  

 この映画ではないが、ウーピー・ゴールドバーグのインタビューで印象的な言葉があった。どうしたら夢が叶うのですか、という俳優志望の学生からの質問への答えだ。「大金が稼げるというのは、また別の問題。鏡で自分の顔を見て、聞いてみて。今、好きなことをしてる?答えがイエスなら、夢は叶ったのよ」

    


●デブラ・ウィンガーを探して
監督:ロザンナ・アークエット

2002年/アメリカ/配給:トライエム=ポニーキャニオン

(c) 2000 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki