「カイエ」表紙に戻る
2000.02.06.

百一夜
 

  映画にオマージュを捧げた作品は沢山あるけれど、大抵はハリウッド中心だし、名作フィルムを切り貼りしただけのものもつまらない。

  私はずっと長い間、『百一夜』のような映画を待っていたのだと思う。私が大好きな映画が沢山出てきて、それらへの愛に満ち溢れていて、それ自体とても美しい映画。

  百歳のムッシュー・シネマ(ミシェル・ピコリ)は、失われつつある記憶を刺激するために映画好きの若い女性を雇う。彼女に毎夜映画の話をしてもらうのだ。映画の権化である彼の城には有名俳優が大勢訪れ、彼女は大喜び。しかも行方不明の孫の話を聞いて、遺産を奪う計画も立てる。こんなストーリーを軸に、名画のワンシーンやパロディ、イメージが散りばめられる。話題になる映画や人物は、登場人物の背景に現れたりせりふで説明があったりするので、元の映画を知らなくてもそんなに困らない、というのも親切だ。

  例えば若者たちが映画作りを始める場面は当然『アメリカの夜』で、しかし作っているのはタランティーノ風のギャング映画である。映画少年少女たちが『天井桟敷の人々』の話を始めると、彼女たちの口の動きに合わせて、オリジナルのサウンドトラックが流れる。うっとりする彼ら。あの映画にうっとりしない映画ファンなんて、いるだろうか!もっと下世話で直接的なパロディも多い。『冬の旅』の浮浪者の格好で現れたサンドリーヌ・ボネールが、『ジャンヌ・ダルク』の姿で帰っていく(その間に挟まるお姫様の格好は、フランス女優にはよくあることだけれど、どうにもならないほど似合わない)。『ヌーヴェル・ヴァーグ』の一シーンを庭でやってるなあと思ったら、案の定アラン・ドロンが現れる。シネマ氏の執事はドロンのファンで、しかもJ・P・ベルモンドのファンで、それを人に隠している(20年前の映画雑誌の読者のページみたい!)。ヒロインが自転車で走るのは『ひまわり』畑の小道で、止めた自転車はやっぱり盗まれる。

  しかし最高なのはやはり、イタリアのお友だち(M・マストロヤンニ)とシネマ氏のやりとりだ。『8 1/2』での、マストロヤンニが帽子を被ったまま入浴するシーンが映る。と、「私はミシェル・ピコリだ」といきり立ったシネマ氏が「あれは私のまねだ」と言い出す。それまで全く気がつかなかったが、確かに『軽蔑』の入浴シーンとそっくりである。そして『8 1/2』と『軽蔑』が、同時期に同じローマで作られているという驚き。

  この冒頭のエピソードがこの映画の象徴だと思うのは、勝手な解釈すぎるだろうか。フェリーニとゴダール。学生の頃、どれだけこの世界一のシネアストを比較しただろう!悲しみの果てに爆発する幸福を予感させながら、フェリーニの道化師たちが城の庭を行く。ヒロインは、くだらない映画を撮り、シネマ氏に嫉妬する恋人を軽蔑し始める(名は勿論、カミーユである)。他のあらゆる映画を見ていなくても、『軽蔑』だけは見ていないと、この映画の独特の余韻は感じ取れないだろう。繰り返し、ゴダールにしては感傷的な、そしてジョルジュ・ドルリューならではの美しい『軽蔑』のテーマ曲が流れる。私は、恋人を捨て、交通事故に遭うだろうヒロインの行き末を想像する。

  そして最後にフェリーニの勝利が訪れる!シネマ氏は死に、城にこっそり現れ彼の遺品を盗み出すイタリアのお友だち。今更ながらマストロヤンニの巧さには驚くばかりだ。冒頭からラストのオチに至るまで、彼なしでは、この映画は成立しなかっただろう。

  しかし、誰もが知るように、実際に生き残っているのはゴダール=ピコリなのだ。映画って、本当にそんなものだ。繰り返される生と死と嘘。フェリーニとゴダールの混沌を飲み込んで、最後には映画が残る。


 

●百一夜 LES CENT ET UNE NUITS

監督/アニエス・ヴァルダ
撮影/エリック・ゴチェ
出演/ミシェル・ピコリ、マルチェロ・マストロヤンニ、ジュリー・ガイエ、マチュ・ドゥミ 
94年フランス/105分 カラー
配給:大映(株)

(c) 2000 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki