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2010.07.02.

フランソワーズ
 

  

 
彼を愛すると、彼が世界になった。
彼女は彼の瞳で世界を見、彼の耳で世界を聞き、彼の声で語った。
彼女は自分の顔を洗いながら、その手が彼の手であると感じている。
彼のセックスは身体と身体の境界を越える。
自分が完全に自分でなくなる甘美な瞬間。
それは、心地よい。
彼女にとって、それが心地よくないなんてことがあるだろうか。

彼女の友人は、みんな、彼の友人になる。彼女が生きてきた時間すべてに、彼は浸食してくる。彼女だけのもの、彼女にしかないものは、もう何も残っていない。
しかし、彼女はまだ気がつかない。
彼との関わりさえあれば、世界中とつながっていられる、その危うさに気づかない。

そうして時が経って、彼がいなくなったとき、彼女は呆然とする。
彼がいなければ、自分が世界とつながっていないことに。
自分の回りには何もないし、誰もいない。彼と過ごした時間、彼と過ごした空間以外には、何もない。彼を失うという事実には耐えられるだろう。一人の男が消えたというだけのことだから。しかし、彼と共に、彼女の全世界がなくなってしまうことには耐えられない。

ピカソがそれを、自覚していたかどうかはわからない。NHKの日曜美術館を見ながら、こういうふうに人を愛する人がいるのだと、私は思う。
愛した女のほとんどが、自殺か発狂した中で、自分からピカソのもとを去り、生き延びた画家、フランソワーズ・ジローを巡る番組だ。彼女は80歳を過ぎて健在で、絵を描き続けている。 彼女が出て行くときピカソは、「ここを出たら、外は砂漠だぞ」と言ったそうだ。
私は思う、世界すべてがなくなるよりは、砂漠だけでもあれば、ましだと。

恐らく彼女は息を潜め、ひとつひとつつまみ上げるように、自分の世界を取り戻していっただろう。それは、気の遠くなるような作業だ。自分ひとりの手で、顔を洗うこと。ひとりで食事をすること。自分の身体のどこにも彼の気配を感じずに、身体を動かすこと。 そして、ようやくできた小さな新しい世界すら、彼は壊しにやってくる。いろいろな理由をつけて、愛しているとか、離婚したとか、子供の父親になりたいとか、考えられる、ありとあらゆる理由と理屈をつけて、彼は、彼女が彼抜きの世界を作ることを許さない。 それでも彼女はあきらめない。壊されたらまた、何度でも、繰り返す。彼の知らないところへ行き、知らない人と出会い、彼を介してつながっていた世界と、直接つながっていく。

彼女にそれができたのは、絵を描くこと、それだけは彼に譲らなかったからだろう。それは、大変な精神力だ。なにせ、相手はピカソである。番組で、研究者がつい口を滑らせる。「ピカソと一緒に暮らしながら絵を描くんですからね、ずうずうしいというか…」 しかし、そのずうずうしさのおかげで、彼女は発狂もせず、自殺もせず生き延びた。それは、気高いずうずうしさだ。

こうも思う。ピカソは、彼女の絵を評価していただろうか?
「私が何か言うと、すぐピカソにやりこめられるので、私はあまりしゃべりませんでした」と彼女は言う。それが、寡黙な「花の女」と呼ばれた由来だと。
そんなピカソが、絵に関しては彼女を評価した、とは思えない。でも、もしそうなら、これは彼女にとってはとてもラッキーだ。ピカソが彼女の絵を、特に評価していなかったなら、彼女は「自分の絵を評価してくれたピカソ」を失わずにすむ。これは、とてもとても幸運なことだと、私は思う。 「外は砂漠なんかじゃなかったわ」と、すがすがしい表情で彼女は言う。美しいアトリエには、彼女の絵が並んでいる。素人目に見ても、ピカソと比べては、どうにもならない。しかし、彼女は絵を描くことを愛していて、適正に評価された自分の絵でもって、生きてきた。その評価が、ピカソと比べたら如何に低かろうと、彼女には関係ない。

「僕の命を10年分君にあげる」と、彼は彼女に言った。
様々な喧噪の後で、こんなことが言える男だから、彼は女性たちの世界を制圧できたのか。それとも発端は女性の弱さで、彼はそれを見抜いていただけなのか。 何が正しくて何が正しくないのかはわからない。彼を愛して、死んだ女性たちも、自分の人生を生きたのだろう。ちゃんとした一個人が、一個人として愛し合うことのあたりまえさと健全さも、最近はわかるようになってきた。

何にせよ、凛として生きる、という言葉を、体現しているように、彼女はたたずんでいる。

(c) 2000 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki