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2009.10.01.

趣味
 

  

  文章を書くことと映画を見ることは、お金は儲からないけれど本業だと思っているので、暇なときにする本業以外の好きなこと、といういわゆる趣味は、ほとんどない。かろうじて、きっと私を知る人は意外に思うだろう趣味に、編物がある。  とはいえ、二年かかって縄編みのケープが半分しかできない程度の趣味である。ごく暇な時に少しづつ、というか、半年に一回思い出して編み始めるような趣味なのだけど、この趣味には結構ばかにできない効用がある。    

  まず、編物というのは、極めて論理的に完結している。論理的というのはおかしいかもしれないけれど、要するに、書いてあるとおりに編めば、書いてあるとおりのものができる。他に編みようがない。糸をこうかければ、表編みになるし、それを続ければメリアス編みになる。不確定要素もない。勿論、編み方が緩いとか堅いとかで思ったより大きいとか不細工とかはあるけれど、おおかたは予想がつく。普段の生活で、このように完結しているものは、余りないように思える。パン作りでも何でも、その日の気温や湿気で状態は変わる。私の体調にも左右され、予想外の結果は容易に起こる。しかし、編物にはそのような要素のはいる余地はない。間違えたら間違えたように、ごまかしなく、表現される。人によっては、愛を込めてとか、恨みを込めて、というような感情が入るらしいが、私は編物をするときに感情を使わない。そんなわけで、針を動かしていると、自分がとても理路整然としたものに接しているという、ニュートラルな心地よい気持ちになれる。  

  そして編物には、もう一つ画期的な作用がある。人間の脳は、覚醒しているときの、眠っているときのα波とβ波、そして、その中間にθ波というのがあるらしい。これは、ちょうどうとうとしている、という状態の脳波で、覚醒も寝てもいない状態、そしてそのとき、もっとも創造的な状態らしい。ちょうどうとうとし出したとき、ものすごくシュールなイメージが浮かんだりする経験が何度もあったので、私はそれを書き留めるよう努力している。覚醒した途端に99パーセントは忘れてしまうのだけど、何とか一部でも言語化しようとするのだ。編物を続けていると、大抵、当然、眠くなってくる。しかし、手は動かしているので、寝てはいない。それは、θ波の出ている状態にかなり近い。編みながら不思議な光景を思い浮かべることもあれば、ただ単に、編目を間違えることもある。そのまま本当に眠ってしまうことも多い。そのせめぎ合いが楽しい。  

  そのようにして、ある日目覚めた私が見たのは、ぐちゃぐちゃの字で書かれた「お猿の黄色いおしり」というメモだった。一体どんなイメージを見ていたのだろう。

(c) 2000 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki