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2004.10.01.

年の初めに
 

    ある知人が、人は子育てのために生きているんです、と言った。抽象的な意味合いでは理解できなくもない。けれど、私には子どもがいないので、100パーセント子どもの立場で言うと、親にこんなこと言われたらたまんないなあ、とだけ思った。あなたの人生が、私を育てるためにあるなんて、とんでもない話だ。親の人生を肩代わりする義務まで、子どもにあるとは思えない。  

  海外ドラマの主人公の、感情の発露があまりに激しいのを、ドラマの解説者(?)の女性たちが責める。「もう少し感情を抑えるべきだ」とか、「プライドをもて」だとか。  

  プライドなんて下らないもので押さえられるなら、そもそも感情や欲望ではない。どうせなら、もっとましなもので、押さえろと言って欲しい。たとえば、神への愛だとか。  

  神への愛を、存在することへの愛、と言いかえてみよう。確かに、存在することへの愛になら、盲目的な感情を抑える価値がある。だから私は自分や他人を傷つけたり殺したりせずに生きることができる。  

  人は何のために存在しているのか、そんな問いかけはもうずいぶん長い間していなかったので、私は知人にとっさに応えることができなかった。できてもしなかっただろうが。既に存在しているものに、存在意義など必要がない。存在していることを喜んであげればいいだけだ。それでも何かあるとすれば、世界が美しいということを、何度でも確認するために、人はいるのだと、私はずっと信じている。

(c) 2000 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki