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2002.10.19.

猫騒動
 

 猫は唐突に現れた。窓の向こうの、その大きな背中が突然目に入ったとき、私は驚いて声を上げた。窓の外にあるクーラーの室外機の上に、彼女(その時は彼女だとは知らなかったのだが)は寝ていた。前の店にいたときも、野良猫は必ずやってきた。料理屋の裏には、猫がいるものなのである。「日本中で、鴨食べてる野良猫はお前だけだぞ」と言いながら、いつも残飯をやっていた。
 その猫はどこかで餌をもらっているのだろう、まるまると、悠然としていた。私が牛乳とか魚のあらをやると、少し嫌そうに食べた。いつももっといい物もらってるのよ、と言いたげだった。しかし、よく見ると、下腹付近がひどくただれて重たげだった。
 それから二週間ほど、私たちは猫がいる生活を過ごす。つまり、ちょっとした残り物を食べてくれる人がいるという生活。これは、悪くない生活だ。もっともこの猫はそう沢山食べないので、大量に発生する鰯の頭などは、彼女のために冷凍保存する羽目になった。調理場の窓の外に彼女が来ると、匂いがするのですぐわかる。その匂いは段々きつくなって、料理屋としては少々マズいのでは、と思い出した頃、彼女はめっきり痩せていた。最初の大きさが、嘘のようだった。最初はちょっと立ち寄るだけだったのに、ほとんどの時間を室外機の上で過ごすようになっていた。私には、嫌がる野良猫をひっつかまえて病院に連れて行くような趣味はない。基本的に彼らは勝手に生きて勝手に死んでいく誇り高い動物だと思っているので、この猫も、そのうちどこかに行って死んでしまうのだろうなあ、とぼんやり考えていた。
 二、三日前から猫の匂いが、消毒液のようなものに変わり、その日彼女は随分と清々しい顔をしていた。滅多に鳴かなかったが、その日は人の顔を見てはやたらと鳴いていた。さよならを言っていることはすぐわかったが、その時は私たちの思っていたさよならと彼女のさよならが違うことにはまだ気づいていなかった。店を開ける時間になり、バタバタしている私たちの耳に、突然変な音が聞こえる。今の何?と振り返ると、調理場の窓の内側に猫がいた。私たちは飛び上がった。猫はそのまま、窓とその前に置かれた冷蔵庫との10センチほどの隙間に入り、動かなくなった。動転したまま、まず私がしたのは、手を差し入れて猫の目やにを取ることだった。外では決してさわらせなかった猫も、その状況ではされるがままになるしかなく、猫の顔はきれいになった。それからやっとのことで冷蔵庫の隙間から引っ張り出すと、その頃には猫はもう、窓の桟の中でぐったりしてしまっていた。窓には二重に格子があり、室外機のあるところには網戸もあるので、入って来るには5センチほどの隙間目指して斜めにジャンプしなくてはならない。それだけで、この猫が最後の力を使い果たしたことは想像できた。猫がまた冷蔵庫の横に入っていかないように押さえながら、鼻筋をなでている間、妹はすっかり動転して近くにいる知人と獣医に電話をかけまくっていた。
 猫は死ぬときは人に見られないところに行く、と信じ切っていた私たちに、この猫の行動は理解を超えていた。一体全体どういう訳で、冷蔵庫と窓の隙間で死のうなどと決めたのだろう。都会の猫は、そこまで追いつめられているのか。友人たちが持ってきてくれた段ボールに彼女を入れ、妹が病院まで運んだ。冷蔵庫の横で静かに死にたい彼女の気持ちはわかったが、いくらなんでも料理屋でそれは無理だった。

 彼女は乳腺癌だった。下腹の傷は、腫瘍が破裂した痕だったのだ。破裂するまで増殖した腫瘍。そのイメージは、強烈だった。腫瘍は肺にも転移し、彼女は窒息死する寸前だった。親切なその獣医は、窒息死より安楽死を勧めた。断る理由はどこにもなく、妹は猫を獣医に預けて帰り、泣きじゃくっていた。
 雌猫の乳腺腫瘍は、とても多い病気らしい。発病すると、すぐ肺に転移するので、普段からおなかを触ってしこりを見つけたらすぐ病院へ、というチラシを、妹はもらってきていた。そんなこと言われても。野良猫の腫瘍には誰も気づかず、破裂するまでふくれるのだ。
 わずか数週間のつきあいだったのに、いなくなると寂しかった。調理場に入ると窓の外を見る癖が、しっかりついている。いつか食べるだろうと保存してあった残飯を、全部処分する。やっぱりこの猫も、鴨肉をやったときが一番嬉しそうだった。大抵半分は残すのに、これだけは全部食べた。
「日本で鴨食べてる野良猫はお前だけだぞ」と言うと、ちょっと胡散臭そうな顔をしていた。
 私は、自分の甲状腺腫瘍を、良性だからとほったらかしにしてることを、嫌でも思い出した。その日の客は、助けてもらった友人を除けば全員女性だった。猫が教訓のために集めたみたいだった。

(c) 2002 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki