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2015.04.10.

足先が触れるか触れないか
 

  

 
映像作品は観るのが大変なので、ちょっと面倒くさいのだけれど、フィオナ・タンの作品を観て、不思議な感覚に囚われる。
勝手な感想だけれど、同じものが好きだったり、モノを見る目が近いような気がしたのだ。共感するとか感情移入できる、ではなくて、もっと肌に近い感覚。近くにいたら友だちになれるだろうし、場合によっては、恋人にもなれるかもしれない。

土手を歩く人や自転車の動きを、上下逆さまにした映像がある。
少し伸びた影が実像になり、本体は影になっている。
それだけのことなのだけど、エッジが効いた美しい映像で、影がふいに立ち上がって話しかけてくるような妖しさと清々しさ。

二つのスクリーンに、女性たちと水を映した作品も魅力的だ。
滝の轟音と川の流れ、バスタブの中で水がぴちゃぴちゃいう音。
年輩の女性と若い女性、それに水、というとりあわせに、ヴァージニア・ウルフを連想してしかたない。ウルフもまた、私にとっては、好きとかいう以前に、肌が近い感覚を持つ作家だ。

バルーンのシリーズは、たくさんの風船を身体に装着して、空中散歩する様子を撮った作品だ。赤ちゃんが風船に吊られて浮かんだり、まだ歩けない足で地面をバタバタして歓声をあげているものは、単純にかわいらしい。
もうひとつ、そのバルーンに吊るされた人の、足元だけを撮った作品がある。
これには、風船も、人の顔も映らず、ただ、地面から数十センチ浮いたり、つま先が地面に触れたりしている足元だけが写されている。
ギリギリ浮くか浮かないかの浮力の風船をつないで、足が地面を蹴るわけではないのに上下するというのが、どういう状態なのかわからず、もし、他になにか仕掛けがあるのでなければ、ひょっとして、呼吸が影響しているのかと思う。
本当にそんなことが可能なのかどうかわからないけれど、大きく息を吸うと、少し浮き上がり、吐くとギリギリ地面に届く。

その時、地面はなにかの境界線だ。

中国人の父とオーストラリア人の母を持ち、インドネシアで育った彼女の境界線は、二つの国だろうか。あるいは、ルックスを見ただけではよくわからない彼女の性か、現実と架空のあわいか。

足先が触れるか触れないか、境界線を行き来するその行為は、意志的なようでもあり、生理的なものにも見え、軽いようで重力も感じさせる。彼女が描く、つま先や影や水飛沫に、自分の中の、そして自分の外の、境界線を思い重ねる。


フィオナ・タン まなざしの詩学
国立国際美術館にて、2014年12月20日から2015年3月22日まで開催。

(c) 2000 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki