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2015.10.13.

環境をめぐるあれこれ
 

  

 
元々のきっかけは、シアノバクテリアという、数十億年前から地球に酸素を供給している不思議な生物に興味を持ったからなのだけど、水質浄化や水辺、生物の保全活動をしている人たちの話をたまに聴きに行く。子どもも大人も、みんな熱心で情熱的で、感心したり、知らないことばかりだったり、刺激になることが多い。

最初は、聞きかじりの知識で、シアノバクテリアが地球を救う!みたいなことを考えていたのだけれど、いろいろな話を聞いたり読んだりするうちにすぐ、そう単純にはいかないことがわかる。自然の複雑さ、そのメカニズムの繊細さを、人間がコントロールするのはとてもむずかしい。シアノバクテリアだけでなく、各地で水質浄化に活躍している牡蠣やアマモでも、すべての場所ですべての問題を解決できる訳ではないだろう。


環境問題の困難さは、個々の解決方法がむずかしいだけでなく、目的地をどこにするかで中身が変わってしまうという点にもあるだろう。

海をきれいにしましょう、みんなが愛せる海に、という大前提は共通していても、そこを海水浴場にしたいのか、魚場にしたいのかで話が変わってくることは、素人でも容易に想像できる。絶滅危惧種の存続なのか生物多様性なのかというと、もっと微妙な擦り合わせが必要になるだろう。完全な部外者の私は、そのあたりの折り合いがどうやってつけられているのか、各団体間で摩擦が起きたりしないものだろうかと思う。


例えば、先日拝聴したシンポジウムでも、おもしろい話が紹介されていた。

琵琶湖で野外学習を行っている博物館で、在来魚のニゴロブナと外来魚のブルーギルを解剖し観察したところ、眼の水晶体がニゴロブナの方が大きいことがわかった。それに気づいた子どもが、より視界の広いニゴロブナは濁った水の中では優位だけれど、水がきれいになったら外来魚に食べられる可能性が増えるのではないか、という仮説を立てたそうだ。この仮説が正しいかどうかはわからないが、このエピソードは、シンポジウムの中でも、とても象徴的に論議されていた。大阪湾でも、排水浄化で水がきれいになったものの、かえって海苔の色づきが悪くなった場所があると聞く。

必要とされる「きれいさ」は、ある程度までは共有できても、その先は変わってしまう。なにせ、相手は水である。ここにいなさいと言って、じっとしているものではない。すべてを満足させる答えはあるのだろうか、各自がバラバラに行動して、全体がうまくいくのだろうか。


ほんの少し、森の整備のボランティアをしたことがあったのだけど、その時に理解できなかったことも、それと近いように思う。

かつての生態系を再現したい、という大きな目標はわかるし、今日、この外来植物を抜きましょう、という目の前のミッションもわかるのだけど、じゃあ、この空間をどうしたいの、というのがわからない。かつての生態系という具体像がわからなかっただけなのかもしれないが、こちらでは外来植物を駆除し、あちらでは同じものの繁殖を許し、ということもあるわけで、どうもすとんと腑に落ちない。何がよくて何が悪いのか、そもそもそういう問いの立て方が間違っているのか。

そんな折り、ずっとお世話になっている教授から、環境倫理の本をいただいた。その中にこんな一節があった。

『諸科学の専門分化状態と並んで、それと深く関わりながら環境問題の解決を阻んでいるもうひとつの要因は、言葉の問題かもしれない。すなわち、環境問題を相互に理解し、解決に資する思考を展開して、ともに議論するための共通言語がなお不足している、ということが、環境問題の解決を困難にしているひとつの要因なのではないだろうか。それゆえ、そしてまた私自身の専門が個別科学ではなくて哲学であるがゆえに、以下では、まずは言葉にこだわって、言葉について考えてみたいと思う。』(里山学のまなざしp.002 「序・里山学のねらい−〈文化としての自然〉の探求」丸山徳次)

先ほどの「きれい」という言葉も、人によって思うところは違うだろう。透明度何メートルとかCOD値がいくらとか、数値化できるところもあるだろうし、海苔やフナにも言い分がありそうだ。「きれい」という言葉の意味から考え起こしたら、また違う議論もできるだろうなあ、と思いながら、私はシンポジウムを聞いている。

長くなるが、引用する。

『環境プラグマティズムの代表的な哲学者であるノートン(Bryan G.Norton)は、自分自身の立場を「弱い人間中心主義」(weak anthropocentrism)と呼んできたが、環境倫理の探求の過程で、結局私たち皆が支持できる原理は、「持続可能性原理」(the sustainability principle)をおいてほかにはないだろう、と主張する。つまり、未来の人間の自由と福利にとっての必要な様々な選択肢の基盤となる生産的な生態系と物質過程を保護することが、私たちの義務だ、と考えるのである。』
それを可能にするのは、『正義が貫かれ、公正であり、持続可能な、そのような人間共同体を形成することに参加していこう、という「共同の意志」を私たちが肯定しているからである。それゆえ、持続可能性原理そのものは、一元論の原理ではなく、環境をめぐる活動に統一性を与えはするが、持続可能性に向けて様々な課題を開くものだし、様々な社会集団に開かれたものである。』(里山学講義p.48 「持続可能社会と里山の環境倫理−里山学の展開−」丸山徳次)

丸山氏はこの環境プラグマティズムの考え方を基礎として、人間中心か、自然中心か、という二項対立を乗り越えるための「里山の環境倫理」を提唱し、持続可能性を「命のつなぎ」という、とても心に響く言葉で展開している。


みんなが支持でき、活動に統一性を与える持続可能性原理。この言葉のことは、もちろん知っていたけれど、これまで、当たり前に必ずつく形容詞、ぐらいにしか考えていなかった。

この原理が大前提にあるとすれば、個々の目標はすべて、ひとつの過程となる。ミニチュアのジオラマのような理想空間を思い描き、再現するのではなく、その空間を移ろいゆく持続可能なものとしてとらえること。森のボランティアで、私に見えていなかったのは、そこだったのではないか。そしてまた、それは個々の有意義な活動に、統一感を与える指標ともなりうる。


今まで体験した限り、環境を巡るシンポジウム等の場所で、「環境倫理」といった言葉を聞くことはない。逆に、環境の現場をかいま見る以前、環境倫理の本を読んでも、あまりぴんとはこなかった。科学の本を読むのも楽しいのだけれど、哲学の立場から、環境に近づくこともできるのではないかと、元哲学徒の私は考え始めている。

「里山学講義」 村澤真保呂 牛尾洋也 宮浦富保 編著
「里山学のまなざし」 丸山徳次 宮浦富保 編

文中のシンポジウムは、「海遊館25周年記念シンポジウム」、
ニゴロブナの話は滋賀県立琵琶湖博物館の間所氏の話を参考とさせていただきました。

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