2007.01.01. |
読書2006
私が読む本の傾向は、なぜか二年周期である。スピノザ/ドゥルーズばかりに二年間、ケルト=初期キリスト教関係を読む二年間、
海外小説ばかり読む二年間。そして一昨年からは超ひも理論と数学の本を読み続けている。とはいえ読書の時間は布団に入ってから
寝るまでの10分ほどなので、読んでいる量はしれているし、すぐ眠くなる本しか読んでいないとも言える。
2005年がアインシュタインの何かの記念イヤーで、その関係のドキュメンタリーを沢山やっていたのがきっかけだった。
量子力学はそれこそ歯が立たないが、ひも理論になると、ほとんどSFの世界で、もともとSF好きの私のつぼにはまったのである。
しかし、それにしてもわからない、特に数式が出てくると全くお手上げで、これでは進まん、と、高校数学をやり直すことにした。
中学では、数学好きだったのに、高校に入った途端全くできなくなったというコンプレックスもずっとあった。一体何があんなにわからなかったのか、解明したい気もあった。
で、しばし、寄り道のつもりで数学の本に入ったのだけど、この、高校数学の解説から最終的に量子力学に
至るという変わった数学書を、ひーひー言いながら数学のところを読み終え、待望の物理学に入った途端、イヤになった。
高校数学にも挫折したけれど、私は振り子も大嫌いなのである。量子力学への道は遠い。
それとは別に、シモーヌ・ヴェイユを引用をする機会があり、彼女の本を少し読み直す。そのついでに、
買い損ねていたカイエを買っておこうと思い立った。このホームページが彼女にあやかってカイエとつけているように、
これは彼女の思想の日々の断片である。だから、体系だってちゃんとわかるわけではないのだが、初期のカイエのページをめくって驚いた。
相対性理論やら量子力学に関する記述の多いこと。兄が著名な数学者であり、自分の数学的才能のなさが彼女の大きなコンプレックス
だったそうだが、こんなに物理のことを考えていたとは知らなかった(ヴェイユの科学論もあるけれど、翻訳されていない)。
残念なことに、そうした断片の後に続く数式の数々は訳本では割愛されているので、
一体ヴェイユがなにを解こうとしていたのかはわからない(見てもわからないとは思うけど)。
しかし、この一年、物理・数学関係の本を読んできたおかげで、
プランクだのガウス空間だの出てきても、はてな?とは思わないで済んだ。もし一年前にこのカイエを読んでいても、
プランクが誰か(何か)100%わかりません。これだけで、この一年の読書の価値はあったわけだ
(もっとも、量子力学はヴェイユのお気に召さなかったらしく、どうにかして量子力学を無効にできないだろうか、という記述には笑ってしまう)。
大体、ヴェイユの基本的な概念である〈重力〉とか〈真空〉も、本来物理学の用語である。神学的意味を考えるより先に、物理学的意味をとらえるのが筋ってもんじゃないの。
気がつくと、シモーヌ・ヴェイユに至っている、というのは、私の読書ではよくあることだ。以前ケルト関連の本を読んでいたときもそうだった。
これなぞ、書いているのがヴェイユ研究の第一人者なのだから、予想がつきそうなもんだけど、そもそものとっかかりが全く違うところだったので、私は随分驚いた。
私にとって、すべての読書は、シモーヌ・ヴェイユに通ず、なのである。
わからないわからないと言いながら数学のテキストを読んできて、わかったことが一つある。これは、わからない、と思っていては
一生わからない類のものだということだ。普段、本を読みながら、無意識にその意味や内容を考え、それを疑ったり検証したりすることに慣れていると、
数学の本は読み辛い。数式に対して、これはどういうことやねん、とか、どんな意味があるねん、とか、考えてはいけないのだ(もちろんもっと高度な世界は知りません。
今私にわかる範囲の、ということで)。目の前の数式を、ただそういうものとして受け入れる、すると、何となく、すとん、とわかったような気がする。
いや、わかったような気がするではなく、すとん、とわかるのである。だから、複雑怪奇な数式が出てきても、わからないーとは思わずにわかるまで見つめ続ける。
(c) 2000 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki |