「カイエ」表紙に戻る
2010.06.05

ル・クレジオと海
 

  
ル・クレジオは海が好きだ。
このあたりまえの事実に、私は気がついていなかったような気がする。あまりにあたりまえすぎて、意識したことがなかったかのようだ。
そんなことを思ったのは、彼の新しい邦訳「地上の見知らぬ少年」を読んでいるからだ。
この散文集は、最新作ではなく、「海を見たことがなかった少年」と同じ時期に書かれていたという。読んだ印象もそのまま、「海…」と 裏表のように対になっている。

  「海は美しい。どうして海から遠く離れたまま、いつもでも生きていられるだろう?」「海がいない。さびしい」 「ぼくたちが愛するのは海だ。ぼくたちが欲しているのは海だ。たとえ海と暮らしていなくても、たとえ岩や都市に囲まれて日々を過ごしていても、 探し求めているのは海なのだ。海に洗い清められて、知識は何て新鮮に、純粋になるのだろう。人間のちっぽけな富、ちっぽけな言葉、ちっぽけな決まり、 そんなものを海はまったく気に留めない。果てしない空間を広げ、ひとつの道を示すだけだ。だから大地にあるものはみんな海へと向き、海へと降りて いくのだ」…等々、海好きの私でも気恥ずかしくなるような、これはほとんどラブレターである。

70年代に、ル・クレジオが、それまでの難解で文体を逸脱したような文体から、上記のような、シンプルな文体に革命的な変貌を遂げたことは よく語られる。例えば、「窓の高見から顔を出したり、階段を下ったり、柵の間に首をつっこんだり、映画館の休憩室の鏡と鏡の間に消えうせたり、 あるいはもっと単純に灰皿代わりのジャム壜のなかにおしつぶされた肉体。皮膚をやぶり、紙からはみだし、コップの側面にくっついたたばこ。 踏みつけられても、まだ死にむかって炭酸ガスを出して燃えくすぶる燠火のような頭。」(「大洪水」)といった文章と、「海がいない。さびしい」を、 同じ人が書いているというのは、かなりおかしい。
初期のル・クレジオの小説では、モノの羅列が多い。偏執的なほど、モノを羅列して記述することで、 世界を表現しようとしている(あるいは、それでは表現できないことを表現しようとしている)ように見える。その膨大なモノの都市に生きる、 はみ出した者たちの、狂気や苦悩や、とにかく複雑なぐちゃぐちゃ、が多く語られる。

しかし、今、ここにあるのは、海である。ただただ、海である。「地上の見知らぬ少年」のル・クレジオは、まるで、愛する人をはじめて見つけた少年 のようなはしゃぎようである。世界はモノの総体ではない。モノの総体ではない隙間に、自然の美しさがある。タイトルには、はじめて地上に降り立った 少年が見た世界、という意味が込められているそうだ。

この本をめくりながら、いろいろなことをランダムに考える。
世界はモノの総体ではない、でも、インターネットは、徹頭徹尾モノの総体として成り立っているのか、とか、人とつながるのが苦手でも、 海とつながっていれば人は生きていけるだろうか、とか。ル・クレジオの海は、いつも私たちを、どこかへ運ぶ。彼の伝記的小説の中で、 くりかえしくりかえし語られる船出。いろいろなことの、入り口として、そして出口としてもある海。

ル・クレジオの海への恋文を読んでいると、私は自分の恋人が認められたような気がしてとても嬉しく、同時に嫉妬もしている。
「ねえ、私がどんなに愛しているか、知ってる?」と、私は海につぶやく。あなたが、そこにいることが、うれしくてたまらない。
 ル・クレジオの小説も、そんな思いで私を満たす。海とル・クレジオの散文が相互にシンクロして、身体中に満ちている。

●地上の見知らぬ少年…J・M・G・ル・クレジオ著 河出書房新社


(c) 2000 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki