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2016.01.02.

『追憶』の追憶
 

  

 
毎年、アカデミー賞の授賞式が近づくと、過去の受賞作がテレビで放映される。『炎のランナー』や『追憶』といった、懐かしい映画が流れていて、つい最後まで観てしまう。

あまり人には言いたくないが、子どもの頃、ロバート・レッドフォードの、単純にミーハーなファンだった。だから、『追憶』は、『明日に向かって撃て』や『スティング』などとともに、見たくてたまらない憧れの映画だった。ネットはもちろん、ビデオデッキもレンタルビデオ店もない頃の話だ。
サントラを聴いたり、原作を読んだり、ポスターを貼ったり、あこがれだけが募り、実際に見たのは、テレビ放送か、名画座か、よく覚えていない。
いずれにせよ子どもに、ついたり離れたりという男女の機微がわかるわけもなく、このレッドフォードは本当にかっこいいのかも疑問で、やっぱり彼は大根役者なんじゃないかとか、それよりもっと根本的に、映画としていいのか悪いのか、というのもよくわからなかった。

大人になってからも、何度となく見る機会はあったのだけど、その、ちょっとハテナな印象はずっと変わらなかった。
まず、彼らが本当に愛しあっているのかがよくわからない。そして、なぜ愛しあっているのかもわからない。ただ、一から十まで、バーバラによるバーバラのための映画で、レッドフォードは脇役、添え物だと思っていた。この頃から増え始める自立した女性映画のひとつ、という先入観があったのかもしれない。映画そのものより、音楽の方が出来がいい、ちょっと不幸な映画のひとつとも思っていた。

しかし今回は、レッドフォード演じるハベルに、不思議と目が行った。
ハベルは、お金持ちでスポーツ万能、容姿端麗な大学の花形で、あまりにもステロタイプな男に見える。大学一の人気者の彼が、ソ連かぶれのユダヤ人活動家の女性というこれまたステロタイプなケイティと恋に落ちる。裕福で、スタイルも顔もよくて、きれいな女の子を連れて人生を謳歌しているようにみえるハベルと、貧しく、不細工で、うるさくて偏狭なケイティ。

驚くべきことに、私は今までそのようにしか、彼らを見ていなかった。
激情的で政治的で自立した女性を好きになってしまったことで起こる悲喜劇、としか、この映画を見ていなかったのだ。

しかし、今見ると、ハベルは、全く別のことで苦しんでいた。
授業で小説を読まれている時の、困惑した表情。その小説が評価され、とりまきを連れずにひとりで祝杯を挙げる複雑な想い。
再会したケイティに勧められ、再び書き始めた小説をケイティに見せる時の、いてもたってもいられない意味不明な行動。
ケイティと別れることを決意したと同時に、自分の小説が下らないハリウッド映画に成り下がることに同意したときの、冷たく、突き放した表情。

どのハベルも、私の記憶にはなかった。
彼がなぜケイティを愛したのかわからなかったのは、私が子どもだったからでも、レッドフォードがダイコンだからでもなく、作家としてのハベルを全く見ていなかったからだった。
作家としてのハベルには、ケイティは「一番の読者」だった。どうしても彼女にだけは認めてもらいたい、そんな特別な読者だった。そういう意味では彼は、彼女に恋などしていなかった。面白いことに、ミューズでもなさそうだ。彼にとって彼女は人とは違う革命家で、彼は、革命家の彼女が評価するものが書きたかった。人気者のハベルにとって彼女の政治的な活動は邪魔だったが、作家としては、それが必要だったのだ。
赤狩りが自分たちの身に降りかかってきた時、息を潜めてやり過ごそうとするハリウッド人たちに反して、ケイティは抗議を始める。ハベルはその様子を見て、ケイティを諦める決意をする。そして、彼にとってそれは、小説を諦めることだった。

一方、ケイティは、ただただ彼に恋していた。彼と一緒にいたいだけだった。
彼に自分の政治的信念を理解してもらおうとか、認めてもらおうとか、考えてもいなかった。彼女にはその点、他人のことは意に介さない自信がある。だから、譲歩してハリウッドにも行き、身綺麗にし、セレブな彼の妻を演じても(子どもの私には、これも大きな疑問だった)、ワタシ、このままでいいの?!などと悩む様子はない。言いたいことは言うし、活動したい時は誰がなんと言おうとするのだから、彼女には悩む必要がないのだ。

妊娠しているのに離婚する彼女は泣いてはいるけれど、ハベルほどダメージを受けただろうか?そもそも、彼女は本当にハベルの小説を評価していたのだろうか?

有名なラストシーン、別れて数年後、ニューヨークで再会する二人。
いや、テレビドラマの脚本はせわしないよ、などといつもの軽口を叩くハベルは、一旦去ったケイティを追いかける。原爆反対のビラを配る、相変わらずのケイティのことを、本当に泣きそうな顔で見る。彼のこの表情も、私は全く記憶していなかった。
このとき、彼が見ているのはケイティではなく、失くしてしまった夢だ。
ケイティは、それに気づいていたのだろうか。

それぞれの想いと思惑は、チグハグにすれ違う。
ゴダール風に言えば、ハベルの夢はふたりでいること、ケイティの夢はひとつになること、だったのかもしれない。
人と人との関わりだから、それでもうまくいくこともあるだろうし、いかないこともあるだろう。

しかし、この映画で彼らを引き離すきっかけとなるのは、国が国民を監視するという、新しい戦後である。こうした監視社会はずっと前から始まっているのに、私はそれが今、始まったように感じている。


追憶…1973年/アメリカ 118分 
監督/シドニー・ポラック
キャスト/バーブラ・ストライサンド、ロバート・レッドフォード
音楽/マーヴィン・ハムリッシュ

新ドイツ零年をはじめ、何度も繰り返されるゴダールのテーゼ。「国家の夢はひとつになること、二人の夢は、ふたりでいること」

(c) 2000 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki