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2013.07.02.

ライク・サムワン・イン・ラブ
 

  

 
『ライク・サムワン・イン・ラブ』は、デートクラブでアルバイトする芸大生とその恋人、死んだ妻に似ている芸大生を買おうとする歳老いた元大学教授の三角関係を描いていて、ほろ苦い大人の恋愛話……では、もちろんない。

冒頭から繰り広げられるのは、ただただ不毛で一方通行な会話。全くかみ合わず、肝心なところで言葉が出ず、突然電話は切れる。自分がしてもらいたいとか、してあげたいとか、激しく主張しているようでいて、その内容は曖昧だ。ごく稀に会話が成立するような気がしても、それはどちらかが別人のふりをしている時で、だからそれはすぐ崩壊してしまう。会話だけではなく、老人の緩慢な動きや怠惰で投げやりな少女の仕草、青年の貧乏ゆすりからも、伝えられないこと、伝わらないことが、ありありとわかる。もどかしくてもどかしくて、何度となく「一回リセットして理性的に話そうぜ!」と叫びたくなり、「ほんとにいいコミュニケーションは、コミュニケーションしないことである」という教訓が、頭を回る。

しかし、こんなふうに書きながら、実はこの映画について、1000分の1も言い表せていないのだ。実際はもっと緻密で、目に見えない光線のようなもので溢れている映画だった。例えば、これは夜更けから次の日の午後にかけての物語だけれど、女学生の携帯に残されたその日の朝のメッセージは、描かれていない彼女の朝を激しく想像させる。老人の死んだ妻についても何も語られないのだが、無視できない存在感を持ってそこにいる。主人公のみならず、ほんの少し登場した人物も、その過去や背景がやたら気にかかる。現実の不確かさに比べて、映画に出てこないものたちの存在は大きく、透明な光を重ねていくように重層的だ。
だから、この映画は胸に響く。そうでなければきっと、イライラするばかりだったと思う。

監督は、アッバス・キアロスタミ。あの(あの、といっていいだろう)『友だちのうちはどこ?』を撮ったイランを代表するシネアストである。彼が日本に来て、映画を撮り、全編日本語、タイトルロールも日本語、出演者も全員日本人で、一見、彼が見た日本の印象を映画化したように見える。全編にあふれる不必要な音はその象徴だ。至るところで鳴る携帯電話、カフェのBGM、タクシーのラジオ、そして、取り忘れ防止のための、耳障りな電子レンジの警告音。全く、あの機能を考えた人は、コーヒーを温める一分の間に、世界が崩壊する可能性があるなんて、想像もしないんだろう。

しかし、よくよく思い返してみると、彼の映画は最初からずっと、コミュニケーションの行き違いを描いていたのではないか。探しても探しても見つからない友だちの家や子ども、執拗なまでに求婚する男性、夫婦ごっこが収集つかなくなる男女。コミュニケーションの不在や困難さが、キアロスタミ・ワールドの基礎だった。だから、友だちの家が見つかっただけで、私たちは奇跡が起きたように感じたのだ。

そして、現代の日本で、奇跡は起きない。
当然のように何も解決せずに映画は終わり、私は、どうしたらこのボタンのかけ違いを直せるのか、右往左往してぐったりしている。しかし同時に、光のシャワーを浴びたような、不思議な幸福感も感じている。そして、ちょっと反省する。ヴァレンタインにチョコレートを押しつけてはいけないと。



『ライク・サムワン・イン・ラブ』
2012年日本・フランス 109分 監督;アッバス・キアロスタミ
奥野匡 高梨臨 加瀬亮

蛇足…見ている間、先のテーゼと共に、頭を回っていたのが、discommunicationという言葉だった。調べたら、一応「相互理解不能」みたいな意味はあるみたいだけど、造語かなにか…?なぜ知らない言葉が頭を回るのか、よくわからない。

(c) 2000 Shirokuma Seshiro, Hebon-shiki