東慶寺


 円覚寺から七分ほどのところに東慶寺がある。かけこみ寺、縁切寺ともいわれている。 開山は北条時宗の夫人、覚山志道尼(かくざんしどうに)で時宗が没した翌年尼となってこの寺を開いたというから創建は弘安八年(一二八五)になる。

 当時の女性は、いったん嫁ぐと、夫にいくら苦しめられても縁を切ることができなかった。そのために自殺する人が多かった。覚山尼は、そのような不幸な女性もこの寺に尼として入り三年間仏道修行すれば離縁できる寺決を願い出て許可を得た。それは、東慶寺の特権として認められることになった。

 男子禁制の寺で七歳の男子入るを許さずの制札が立っていたという。女性のかけこみはしだいにふえ、江戸後半の一五〇年の間には、江戸市中や武蔵、相模などから約二〇〇〇人以上がかけこんだと記録されている。

 その一つ。万延二年(一八六一)二月二十日の暮れ近く巡礼姿の女が数人の男たちに追われて逃げてきた。追手は女に追いつき、あと一歩で捕えようとしたとき、女は、身につけていた櫛を東慶寺の寺内へ投げこんだ。門番はただちに男たちの間に割って入り、女を寺の中へ導いていった。

 女は、武州橘樹(たちばな)郡長尾村(現、川崎市高津区内)、農業、熊次郎の妻、しのといい、夫の不法に耐えかねてかけこんだという。寺ではしのの実家や夫の村の名主をよび出し「内済離縁」の形で決着をつけた。

 このかけこみも明治六年(一八七三)の太政官布告「人民自由の権利」により廃止され、東慶寺も尼寺から男僧の寺となり、今では、縁結びの仏前結婚も行なわれている。

(角川書店「20 神奈川の伝説」より)