日台環境フォーラム2002 講演資料
有毒化学物質と食品の安全性−台湾の現状
Huan-Chang Huang(医科技術大学準教授)
情報源:Japan-Taiwan Environmental Forum 2002
TOKYO, Japan, September 1, 2002
Toxic Chemicals and Food Security
掲載日:2002年9月7日



始めに

 台湾公衆衛生局の最新の統計によれば、2001年には平均49秒毎に1人が死亡しており、過去20年間、がんは死亡原因上位10の中で、常に第1位の座を占めている。平均すると15分56秒に1人ががんで死んでいることになる。
 年齢層で死亡原因を調べてみると、1歳から24歳の年齢層では、がんは死亡原因の第2位であり、24歳以上になると第1位となる。
 1957年の統計と比較してみると、当時、がんは死亡原因の上位10中、第7位であり、この大きな相違は、主に、台湾における環境の変化によるものであると考えられる。

 台湾には129の河川があり、そのうち21河川(チョウシュイ川、タチア川、カオピン川など)が本流、29河川が支流、79河川が小流である。汚染のひどい河川は毎年0.5%づつ増えており、1983年には26%であったものが、1999年には38.7%と汚染率が増大している。重金属による河川の汚染は恐らく世界最悪であろう。

 汚染の激しい河川は主に台湾の西部平野を北から南に流れる河川であり、ペイカン川、プツ川、パチャン川、チシュイ川、イェンシュイ川、エルジェン川、コアピン川、ツアカン川などである。河川における汚染の激しい流域の占める割合は、例えば、エルジェン川では総延長の85.16%、イェンシュイ川では総延長の52.46%であり、この2つが台湾で最も汚染が激しい河川である。

 台湾の西海岸を走るタイ17号線は、台湾の”がんハイウェー”となった。このハイウェー沿いの南北につらなる町、シェンカン(伸港), マイリアオ(麥寮), タイシ(台西), コアフ(口湖), ドンシ(東石), ブタイ(布袋), ベイメン(北門), ジアンジュン(將軍), アンナン(安南), ミツオ(彌陀), ジグアン(梓官), ズオイン(左營), カオシン, ツアカンだけで、がん死亡数が全市町村の10%を占める。

 台湾EPAの調査によれば、全調査地域の5.7%にあたる約50,000ヘクタールの農地が高濃度の重金属を含んでおり、そのうちの319ヘクタールはグレード5(深刻な汚染)であるとしている。

内分泌撹乱化学物質

 1962年、『沈黙の春』の中で著者、レーチェル・カーソンは、農薬DDTがいかに自然を汚染し、いかに人体に蓄積するかについて述べた。彼女は、人類の現在と将来の生活は、人類自身が作り出した化学物質との闘いになると我々に警告した。

 1997年、シーア・コルボーン等は、著書『奪われし未来』の中で、DDT、ポリ塩化ビフェニル、ダイオキイン、ジエチルスチルベストロル(人工エストロゲン)及び多くの農薬などの化学物質は繊細な内分泌システムを撹乱し、女性化作用、不妊、各種がんの原因となると指摘した。その根拠のほとんどは動物実験や生態系に与える化学物質の影響に関する調査報告書に基づくものではあるが、人間の健康に対しても重大な意味がある。

 国立台湾大学海洋学研究所教授であるツ・チャン・フン博士の指導の下に、台湾の西海岸の”牡蠣(カキ)文化”地域で実施された、カキと巻貝の成長に関する長期監視プロジェクトにおいて、TBT(トリブチルスズ)汚染がカキのインポセックスを引き起こしていることが分かった。1999年11月に採取したサンプルから、カキのインポセックスは、ピンツン、ルカンで最も著しく、80%に及んでいた。
 また、カキを餌とする巻貝(whorls)に関しては、キアンシャン(香山)、シンチュ地区のメスの巻貝の30%〜98%がペニスを持っていたが、その比率はサンプルを採取した季節により異なっていた。

 2000年、環境保護基金(Environmental Quality Protection Foundation)は国立ツィン・ファ大学化学部門のリン教授に、市場から魚を購入し、分析するよう依頼した。その結果、47%の魚に有機塩素系農薬の残留が見られた。

 2002年、台湾環境保護庁(以下台湾EPA)は国立チェン・クン大学環境毒性研究所のリー教授に、”有毒化学物質の環境における分布と曝露”に関する調査を依頼した。これは、タンスイ川、トウチェン川、チョスイ川、タチア川、エルジェン川、カオピン川、及びランヤン川の7河川の川底の泥、川の水、及び魚に含まれるDEHPを分析する調査である。

 調査の結果、ランヤン川以外の全ての河川はDEHPにより激しく汚染されていることがわかった。魚類に含まれるDEHPの平均量は、タンスイ川で3.8ppm、トウチェン川で3.8ppm、チョスイ川で1.8ppm、タチア川で1.8ppm、エルジェン川で8ppm、カオピン川で7.7ppmであった。
これら汚染の激しい6河川の川底の泥に含まれるDEHPの平均量は、上流域で284ppb、中流域で1,099ppb、下流域で1,127ppbであった。タンスイ川上流の川底泥に含まれるDEHPの平均量は966ppbであり、他の河川の数倍の値であった。この数値から、タンスイ川の汚染の深刻さを理解することができる。平均すると、川底泥のDEHP含有量は、上流域や中流域よりも下流域の方が多い。

 DEHPはジ-エチル-ヘキシル-フタレートの略称であり、プラスチック可塑剤として使用されており、軟質PVC樹脂製造業にとって欠くことのできない原料である。DEHPはまた、アクリルレートおよび合成皮革の可塑剤としても使用されている。
 台湾におけるDEHPの年間使用量は約300,000トンである。DEHPは天然には存在しないので、環境中の存在は汚染そのものを示すこととなる。さらに、DEHPは生体内に蓄積し、食物連鎖系で濃縮される。特に食物連鎖系の頂点では濃縮が高くなる。いくつかの研究報告によれば、DEHPは生物のオスをメス化する作用がある。人間に対する影響に関しては、現在のところ、それを直接的に示す科学的な根拠はまだない。

カドミウム米

 1955年から1992年にかけて、日本の神通川流域の住民は、鉛及び亜鉛の精錬工場から排出された廃液が原因でカドミウム汚染された米を長年食べていた。このことによる惨状はイタイイタイ病と呼ばれ、世界でも主要な環境汚染事件であった。
 台湾に話を戻す。タオユン県のダタン(大潭)と呼ばれる村は、現在、誰も人が住んでいない。この村はかつてタイヤ(泰雅)族と呼ばれる先住民の居住地であったが、彼等は上流のシメン(石門)貯水池から強制的にそこに移住させられていた。ダタン(大潭)に移住してから、彼等は長い年月をかけて苦労しながら農地を開墾した。しかし、1981年頃、化学工場が建設されて操業を開始し、工場廃水を農業用潅漑溝に10年以上にわたって流し続けた。

 廃水に含まれていたカドミウムにより米には色がつき、野菜にも高濃度のカドミウムが含まれた。有毒な米、野菜、そして水を通じてカドミウムは村民の体内に入り、蓄積していった。カルシウムから成る骨格はカドミウムにより損傷し、そのために骨と関節は変形し、村民は激しい痛みにさいなまれた。

 この病気はその症状からイタイイタイ病と呼ばれた。イタイイタイ病は生涯にわたる苦痛を伴い、多くの村民が死亡した。ついにタイヤ(泰雅)族は再び他の場所に移り住まなくてはならなくなり、その土地を離れた。部族としての結束とその文化は消滅した。

 1982年、台湾EPAは、ジリ(基力)化学工場からの廃水により、農地がカドミウムで汚染され、22.67ヘクタールの農地で作物栽培ができなくなったという事実を把握した。食糧農業当局の担当官は451トンのカドミウム汚染米を焼却処分した。

 1985年、タオユン県のカオイン(高銀)と呼ばれる化学工場の廃水に含まれていたカドミウムにより汚染された農地は40ヘクタールに達し、この汚染農地からのカドミウム汚染米の総重量は160トンに達したと。そのうち、当局の管理下にあった汚染米は約半分で、残りは市場に出回ったと思われる。

 ジリ(基力)とカオイン(高銀)化学工場によって引き起こされたカドミウム汚染に関する台湾EPAの調査によれば、汚染地域の住民は蛋白尿症と腎臓障害の症状があるが、彼等の尿中のカドミウム濃度は病気といえるほどのレベルには達していないと台湾EPAは指摘した。
 従って、現在のところは、イタイイタイ病の特徴は見られないが、台湾EPAは今後も引き続き状況を監視するとしている。

 1989年から1989年にかけて、タオユン県とチャンフア県で、カドミウム汚染米事件が何度も発生した。要監視区域と認定された農地は105ヘクタールに達した。
 1984年から1989年にかけて、タオヤン県のルズ(蘆竹)区チュンフ(中福)村で、83ヘクタールの農地がカドミウム汚染されていることが発見された。現在、9ヘクタールの農地の土壌改良が行われ、残りについても実施中である。

 1989年に再び、チャンフア県フアタン(花壇)区バイシャ(白沙)村でカドミウム汚染米事件が発生した。金属工場の廃水で、9.17ヘクタールの農地がカドミウム汚染されていることがわかった。

 1992年に、チャンフア市とハーメイ町の境界区域で農地のカドミウム汚染が発生した。これにより、3.59ヘクタールの農地が耕作を禁止された。1995年に耕作が再開された後も、農地のカドミウム濃度は基準値を越えていると言われている。

 2001年9月にカドミウム汚染米事件がユンリン県フウェイ(虎尾)区の北東にあるリアンシ(廉使)と呼ばれる小学校の近くの農地で発生した。町の南部をフウェイ(虎尾)川が南西に向かって流れている。考えられる唯一の汚染源は、Lianshi(廉使)小学校近くの台湾ペイント会社の工場である。地域住民の話によれば、同工場は20年以上にわたって操業しているという。

 当初は工場廃水の側溝にはふたがしていなかったので、汚染された廃水と黄色い煙からの臭いはひどいものであった。台湾ペイントのすぐ隣にある昭和食品会社の屋根に目をやると、屋根が黄色くなっているのがわかる。水道管が敷設されるまでは、地下水が飲料水として使われており、農業潅漑用水もまた側溝の水と地下水を使用していたが、工場は廃水を直接側溝に放流していた。

 1981年に、米がカドミウムで汚染されていると報告したユンリン県の河川管理局の記録がある。当時、土壌は取り換えられ、土壌改良がなされたが、その費用は河川管理局が負担した。さらに、汚染源である台湾ペイントは汚染された農地の一部を買い取り、用途を農地から工業用地に変更した。
 現在でも同工場は夜間にこっそり汚染水を排出しており、その結果、側溝からは煙と臭いが立ちこめている。そのような状態でありながら、ワンアン(萬安)警備会社が警備する同工場の正門には、国際品質基準ISO 9002の認証マークが堂々と掲げられている。
 現在、側溝の近くの農地では、米やトウモロコシ、ピーナッツ、ジャガイモ、青物野菜が栽培されている。

 2001年11月5日に、タイチュン県タチア区で新たなカドミウム汚染米事件が発生した。当初、汚染された農地はわずか0,5ヘクタールであるとされていた。しかし、よく調べてみると、汚染区域は増大し、市場に出た可能性のあるカドミウム汚染米の量も増大した。カドミウムは穀物や野菜、米などに吸収されやすく、人間の健康に対する影響は無視できない。

 2002年4月25日、台湾EPAは、カオシウン県で4ヘクタール以上の農地がクロム、銅、亜鉛、ニッケルなどの重金属で汚染されてることを発見した。そのうち2ヘクタール以上はネイフ区、特にエルジェン川沿いの砂糖キビ畑であった。そこにはかつての回収金属精錬工場が残っているが、この工場は汚染で告発され取り締まりを受けたことがあった。
 この工場はエルジェン川沿いの砂糖キビ畑のすぐ近くにあり、エルジェン川は回収金属の処理プロセス廃液でひどく汚染されていた。従って汚染された川の水が潅漑に使われ、その結果、土壌が汚染されたものたものと思われる。

台湾苛性安順工場の話

 1942年(昭和17年)、日本の化学会社であるカネエンジソトツ(鐘淵曹達株式會社)が現地住民から強制的に土地を借り上げてタイナン(台南)市アンシュン(安順)に工場を建設した。この工場は、水酸化ナトリウム、塩酸、及び液体塩素を製造していた。また、この工場は、日本海軍が毒ガスを製造した工場でもある。第二次世界大戦中、連合国側に爆撃されて、一部破壊されたが、現在でも小規模の生産を行っている。

 当時、日本は、連合軍の攻撃を避けるために、その製造設備をチアイの山岳地帯に移そうとしていたが、その前に戦争は終わった。戦後、1946年に、台湾政府はこの工場を修理するために人を派遣し、工場の名前も”台湾苛性製造会社台南工場”と改称した。同工場はその年の12月25日に操業を再開した。1951年、同工場は再び”台湾苛性会社安順工場”と改称した。1982年6月、同工場は経済的な理由で閉鎖され、中国石油化学開発会社”に併合された。この40年間、台湾苛性は水酸化ナトリウム、塩酸、液体塩素、及びペンタクロロフェノール (訳注:木材防腐剤・農薬)を製造した。
台湾安順廠汚染地図
同工場が引き起こした汚染区域を示す図

 水銀は常温で液体となる唯一の金属である。水銀は、水銀、無機水銀、有機水銀として存在する。水銀は、水銀温度計、苛性ソーダや塩素、農薬、水銀灯、マーキュロクロム(赤チン)、歯の詰め物などの製造に使われる重要な原料である。水銀とその化合物は脂肪親和性であり、有機水銀は非常に毒性がある。基本水銀はバクテリアによって有機水銀に変換される。

 1953年から1960年頃、日本の熊本県の水俣湾周辺で、いわゆる水俣病が起きた。この病気はメチル水銀が原因で引き起こされた。当時、魚類に含まれた水銀濃度は50ppm、貝類で85ppmに達していた。
 1972年に日本の環境庁は283人が中毒にかかり、60人が死亡したと発表した。1991年、水俣病の症状を示す患者は2,252人に達した。患者の症状は、主に、言語障害、視覚障害、歩行障害、記憶障害、等の神経中毒症状であった。また、精神遅滞や出生児の先天的異常なども見出された。

 台湾政府は、1972年に有機水銀系農薬の使用を禁止し、1989年には苛性ソーダと塩素の製造のための水銀電極法の使用を禁止した。しかしこれらの産業が残したものは悲惨な状況であった。1986年に発行された台湾環境保護年次報告によれば、台湾プラスチック会社キアンゼン(前鎮)工場を含む7つの苛性工場が禁止以前に排出した水銀汚染スラッジの量は、5,599トンに達していた。

 しかし、その量を産業局は100,000トン、環境保護団体は130,000トンとそれぞれ推定している。台湾苛性安順工場が40年間に排出した水銀汚染スラッジの大部分は行方不明となっている。著者が現地の住民にインタビューしたところでは、水銀汚染スラッジの一部はルエルメン(鹿耳門)川に排出され、あるものは荷馬車やトラックで運び出されて投棄され、あるものは工場内の海水貯水槽と土中に残っている−とのことであった。

 1964年に台湾苛性安順工場はペンタクロロ-ナトリウムフェノキサイド(PCP-Na)の製造に成功した。1969年、同工場はPCP-Naの増産計画を実施し、当時アジア太平洋地域では最大規模と称された、生産規模4トン/日のPCP-Naプラントを建設した。
 その後、台湾苛性の主要生産はペンタクロロフェノール(PCP)にシフトしていったが、それらは主に日本に輸出された。
 1982年6月、同工場は環境に対する配慮と経済的理由で閉鎖されたが、工場内には約5,000トンのPCPが蓄積していた。1983年、同社は中国石油化学開発会社に併合された。

 PCPは白い結晶、PCP-Naは黄色の粉で、非常に毒性が強い水溶性の化学物質であり、広く農薬や木材防腐剤の製造に使用された。

 近くで養魚場を営むリンさんによれば、PCP汚染により近隣の養魚場は甚大な被害をこうむった。養魚場の底泥にはPCPの白い針状の結晶が生成し、そのために魚の上唇は内側に縮み、下唇は外側に突き出した。
 また、魚のヒレと尾には徐々に穴があき、その結果、魚は泳ぐことができなくなり、ついには腹を上にして死んでしまった。後に養魚場の経営者たちは、PCP汚染を防ぐために養魚池とルエルメン(鹿耳門)川に続く側溝をPVCの布で覆った。これにより魚の成育は正常になった。しかし、ルエルメン(鹿耳門)川とその河口近くの海に汚染が広がった。

 近年、さらに毒性の強いダイオキシン類がPCP製造時の非意図的副産物として出ることがわかった。ダイオキシン類は水溶性ではなく、脂溶性の化学物質で、食物連鎖を通じて生体蓄積する。ダイオキシンには75の異なる種類があり、その中で最も毒性の強いのは2,3,7,8-TCDDで、”世紀の毒素”と呼ばれている。
 ダイオキシン類の毒性の強さはヒ素の数千倍である。ダイオキシン汚染の激しい土壌は密封した石の棺おけの中に保管されている。

結論

 1987年、チクシン族の族長デルガム・ウンクは”我が故郷を返せ”控訴の法廷で、「全ての族長の先祖は、その土地の神に会い、力を授けられている。人間を含む全ての神の創造物には魂があり、我々は等しくそれらを敬ってきた。それが我々の掟である」と証言した。
 人々はその故郷を守り、健全な状態にしておかなくてはならない。欲しいものを全て持去るというようなことをしてはならない。良い行いをすれば報われるし、その逆もそうであると言われている。
 地球に時間と場所をもっと残すことが、我々の将来に時間と場所を残すことになる。

(訳: 安間 武)



化学物質問題市民研究会
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