ビチャリ。ボタリ………。
建物の裏口に滴り落ちる大量の海水。赤黒く汚れたそれは、うずくまった黒い影から、とめどなく墜ちゆく雫。
「ハァッ…。ハァッ………!」
全身潮に濡れ、刻まれた傷口は、なお塞がらず、満身創痍の影は這うようにしてこの町に辿り着いた。魔法で町に落下し、目的の建物の裏口にうずくまる。
「………っぐ、畜生……!」
なんてザマだ。
無様に海に落ち、そのまま藻屑となってもいいと、初めて「生」に投げやりになった。
それを喰い止めた、唯一の存在がこの建物の中にいる。
悠長に待っている時間は無かった。何より急いた心を止める術を知らない。
「ク、レイモアーーー…!」
なけなしの感情を込めて叫んだ。
数呼吸の後、そっと静かに扉が開いた。僅かな隙間から、不審に思った少女が覗く……。
弾かれたように顔を上げ、少女の腰を掴み取ると、即座に郊外の森へと駆けた。商人の町、役場から裏路地を奔り抜け、屋根の上を奔り、森へと跳躍する。
「ハァッ…。ハァッ…。ううっ!」
激しい葉音を掻き鳴らしながら森を突き進み。
木の根につまづき、枯れ葉の山に転がり落ちた。打ち所悪く、すぐには起き上がれずに大地の上で痛みに耐える。
濡れた体に落ち葉が多量に貼りついて、それはますます惨めさを増すのだった。
腕に守られ無傷だった少女は起き上がり、そろそろと苦痛に喘ぐ黒い影を覗き込む。丸い瞳は零れ落ちそうな位に大きくて澄んでいた。
「ファラ君……?ファラ君だよね………?」
数ヶ月だが、同じ町で過ごしていた少女。栗色の髪を首の後ろで結び、桃色のリボンを巻いている。いつも恐ろしく陽気だった彼女だが、見下ろす双眸は疑心暗鬼に揺れていた。サワサワと潜めく森の木々と同様に、彼女の垂れた横髪が小刻みに震えている。
「だとしたら、どうする……」
占い師の弟ファラ。もう彼女は知っている事だろう。
僕が魔物であり、商人の町に恐ろしい仕掛けをしていた事も……。
それを知ってなお、彼女がどんな反応をするのか見たかった。
この命が尽きる前に、未練が残る、その確認を……。
「………。どうしたのこの怪我……。酷いよ…」
答えを言わないままに、問題を放棄して、少女は傷の手当てを始めてしまった。僧侶としての技量もいくらか持っている娘だ。最も簡単な回復呪文を繰り返し行使して、自分のケープを裂いて傷に巻く。白い衣服はすでに汚れてしまっていたが……。
みるみると血で汚れる様を見るのは苦しかった。
「どうして、手当てなんかするんだ……」
「どうしてって……。普通するよ、この状況じゃ」
明らかに普通なんかじゃないだろう。
薄汚れたフードを外して、ハンカチで僕の顔を拭く。こんなに長く、静かに、彼女が接している時間もこれまで無かった。自分の中で渦巻く感情も普通じゃない……。
「あ、ここも切れてるね。もう治りかけてるけど…」
あらかた手当てを終えて、体を確認したクレイモアは、右腕に小さな裂き傷を見逃していた事に気がついた。当て布を探して、自分の衣服を見るが、もうケープは巻いてしまったし、スカートの丈も元から短い。思い立って、彼女は首の後ろに手を回し、リボンをほどくと傷に巻いた。
「丁度いいね。はい、おしまいっ!
満面の笑みで嬉しそうに手を叩いた。あの町では、毎日のように見ていた笑顔。
しかし言葉なく見つめ合った後、俯いた彼女の表情は、「その日」の光景を思い出し、光を失ってゆく…。
「聞いて、いいのかな。なんで……。なんで町にあんな事したの?」
ようやく聞かれた。当然の責め苦が僕のために流れ始める。
町に符を敷き、町人同士を殺し合いさせた、その代償を。
「……人が嫌いなんだ。ラーの僧侶を石化させるため、多くの生贄が必要だった。イシスの時に失敗したけど、今回は多くの負の力を集められる筈だった…。失敗したみたいだけどね。別にあの町がどうなろうと、知ったことじゃなかったよ」
「………!なんで………!」
彼女にとっては大切な町だ。彼女自身も製作に加わった。それすら僕らが利用したことも知っている。激情に叫びそうになる彼女は、けれど堪えて打ち震える。
「なんで、人が嫌いなの」
「人は馬鹿だし、すぐに裏切る。奴らのせいで、僕たちは辛酸を舐めて来たんだ。人でもない、魔物でもない。どちらの世界でも僕らはつま弾きされる」
「……。ファラ君は、魔物じゃないの?じゃあ、一体……」
「僕は竜だ。この世界じゃない、アレフガルドのヒドラ一族…。僕らには人化の魔法がある」
「………。じゃあ、人と一緒に暮らせばいいじゃん!」
何を馬鹿なことを………。
突然の提案に完全に面食らって、開いた口が塞がらなかった。
「どうして…」
余りの馬鹿馬鹿しさに、声が裏返る。
「………そりゃあ、怒ってる。怒ってるよ!許せないよ!あんな事許せるわけない!」
黒い肩を掴み激しく揺さぶる、彼女は言い終えると、そのままうなだれ、僕の眼前につむじが広がる。
「でもさ……。………でも………。ファラ君は、友達だったんだよ……」
「………………」
『友達』。そんなこと言っても、僕にとっては演技の範疇。
「占い師の弟」として、人間どもに愛想振りまいていただけだった。確かにサマンオサで失敗するまでは、いい子ぶって良く笑いもしていた。町人にも親切だった。でもそれは偽り。
「……ねえ。どうして、私に色々話してくれるの?私、もう会えないって思ってた」
あの日、商人の町で「もう会いたくない」と言ったのは僕の方だった。それなのに彼女を攫った僕に問う。
「あなたは、まだ引き返せる」
ずっと消えない、フラウス様の言葉。また僕の耳に、消えない疼きを呼び覚ます。
人と暮らすなんて。人に好意を抱くなんて。
そんなこと到底できない筈なのに。
そんな葛藤の中、二匹の竜が人に馴れ合い、挙句の果てに恋人同士だなんて事を知った。人間の盗賊と竜の娘、引き裂いてやりたかった。
男は幽霊船を探し、オリビア岬を開放しようと狙っている。ちょっと突いてやれば、脆く崩れ去ると思っていた…。
「こんな話を聞いても……。君は僕に笑うと言うのか……」
友達だなんて。だから許すだなんて。途方も無い愚かなお人好しだ。どうしてお前に会いに来たかなんて、ベラベラ自分の事を教える理由なんて、口が裂けても言えそうにない。
「私の事、心配してくれてたの?だから町から出ていけみたいな事…。ニースさんがそう言ってた。本当は私の事好きなんだって。仲良くしたいんだって」
「!」
顔に火がついて、慌てて体ごと振り返り背を向ける。
冗談じゃない……。こんなこと計算外だ。こんなに顔が熱くなるなんて、自分で自分に動揺する。
「………………」
無言が勝手に肯定になってしまって、背中の向こうで笑い声。
「……あはは。そうなんだ…。嬉しいな。私、怒らせちゃったのかなって、ずっと思ってたから…。ありがとうね。ファラ君の事教えてくれて。私、ファラ君が竜でもいいよ。帰ってきて欲しい」
背中越しに聞こえる声が、涙に濡れる。
「ね…、帰ろうよ。一緒に帰ろう。私、手当ての続きして、何か美味しいもの作ってあげる。みんな待ってるよ。大丈夫、みんな許してくれる…。もうね、みんな元気になってるよ。町も綺麗になってきてる。だから……」
「……。クレイモア………」
小さな彼女が、自分のために泣くことがたまらなかった。町を陥れた後も、気にして胸を痛めていたのか。
抱きしめたい、そんな風に思ったことも初めてだった。
再度振り返り、鼻を啜る姿を見れば、もう咎は崩壊する。
帰りたい。帰れたら、どんなにいいか分からない。
竜の滅びも、死神にすがった無様な日々も忘れて。また町で過ごせたら……。
魔族の中でも、常に孤独だった僕に、あの町は常に暖かさをくれた……。
細い肩を抱きしめて、僕は我を忘れて声を上げて啼いた。
泣き咽び、しゃくり上げ、嗚咽して幼子のように胸に甘えた。小さな少女は僕の背負うものなど何も知らず、それでも優しく背中を撫でる。
こんなに何かに甘えたことはない…。
「クレイモア…」
だいぶ落ち着いて、見上げた彼女の屈託のない笑顔がどれだけ嬉しかったことか。伝えようとして顔が緩んだ。そこに吹き抜ける細い風の音。
「!!」
沸騰した湯も一瞬で凍りつく。絶対零度の死の粒子。
「ファラ君……?」
彼女には判別できないだろうが、僕には「それ」が何だか解る。
しまった。見られた。見られてしまった。冷や汗さえも凍りつき、抱いたクレイモアを投げ捨て、両手をつき額を擦る。
「お許し下さいユリウス様!違うんです!これは……!許して下さい……!」
「ファラ君、どうしたの……」
「触るなっ!小汚い小娘がっ!反吐が出るんだよ!」
突然の恐慌に心配して、伸ばした少女の手をはねのける。とにかく弁明のために僕は必死だった。
「コイツ……!僕の演技にいい気になって……!すみませんユリウス様!馬鹿な人間が煩くて……!」
ザワザワザワ。森の声は低く、高い所から嘲笑うように見下ろしたまま。
死神は怒りの空気を漂わせていた。生唾を飲み干して、しかしいくら飲んでも、舌が張り付いて離れない。恐怖に肌も歯も鳴いていた。
殺される。僕じゃない。
このままではクレイモアが殺される……!
ドクン。ドクン。
ドクン。ドクン。
死の秒読みが迫る。鼓動の速さに比例して、確実に彼女は虐殺される。
「ファラ君っ……!」
「っ!煩いっ!」
なお言い寄る彼女を殴り飛ばして気絶させた。手加減はした。打ったのは腹部。回復呪文でなんとかなる。
「フン。怪我を治せる奴を探していだだけだ。勘違いするなよ」
苦しい言い訳をして、死神ユリウスの反応を待った…。
商人の町での攻防で、ユリウス様は夢の神とやり合ったと聞いている。その際負傷して、ユリウス様も弱体化したと思っていたが……。
森を徘徊する風は、僕の行動を見守っていた。恐ろしく永く、酷く息苦しい時間。
死神が要求するのは、彼女の死。お前がやらないなら、鎌が喰らうと風が嗤う…。
「はぁっ……。はぁっ……!」
物凄いプレッシャーに息が詰まり、全身汗で気色が悪い。吐きそうだった。
彼女の命を奪う。
できなかった。それだけはできない……。
腐った地面に這いつくばり、鼻まで擦りつけ僕は願った。
「ユリウス様……!お願いします!この人間だけは……!クレイモアは殺さないで下さい!お願いします……!」
「………クスクスクス………」
白い指が倒れた、彼女の首筋に触れ、この世の終わりを疑った。
「いやだわファラったら。そんなに驚かなくてもいいのに…」
「………………」
殺されたそう思った表情のまま固まっている。出現した死神は、ころころと鈴のように笑っていた。
「可愛い子ね。魔物にしてあげてもいいのよ」
「………………!」
何度、心臓が止まる思いをさせるんだろう。
自分は魔になることを切望しながら生きてきた。
同じ運命を彼女に背負わせるなんて……。激しく頭を振って否定する。
「お、お願いします。許して下さい……。もうこんな事は…、決してありませんから……!どんな仕事でもします。ですからどうか……!」
僕は、死神の奴隷だ。弟なんて自称。現実は捨て駒。使い捨ての雑巾のような存在。自分から望んで受け入れて来たことだ……。何処までも、へりくだって土を舐める。
「クスクスクス……。では、火山へ向かってくれますか。ガイアを討つこと、貴方の仕事ですね。この子は私が町に送ってあげましょう」
「………………」
銀の死神は、そっと少女を抱き上げた。
もう、「終わりだ」 と、眩暈に世界がぐらついた。殺される。殺される…。
「信じられないのですか?私、とても機嫌がいいのですよ。なぜなら、『あの人』と一緒に居るのですから」
死神が微笑めば、なお恐ろしい。より『死』は確固なものとなってしまう。
「ラーの石化は失敗しましたが……。と、それも名目上の事。クスクスクス…」
「分かりました。火山へ、向かいます」
彼女は人質に取られたんだと理解した。
裏切りや逃亡すれば殺され、また失敗しても殺される。僕にはもう、後がない。
勝ったら、また、会える。僅かな希望。それは願い。
すでに僕の力は半減している。勝てない、可能性のほうが大きい。
初めて焦がれた人間に、僕は何も残さないまま死んでゆくのだろうか……。
必ず勝って、君と会う。
その時は………。言えなかった気持ちを。
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