世界に【暗幕】が落とされた。
 反動のように、瞼は開き眠りから覚醒する。
 
「……ニー…、ズ……!」

 …………なんてことだ。
 吐息を吐きこぼし、頭を抱えた。……悪寒が走り、吐き気が襲う。
 濃くなった闇の気配が、気持ち悪い。



 ニーズの存在が、闇へと消えた。

 憎悪の闇に呑み込まれ、この世界から、離脱した。
 あろうことか、妹と対峙し、父親に手をかけて   



「ニーズさん、起きていますか?」
 ノックはなしに、起きていなければ到底気づかなかった様な、微かな呼び声を廊下に感じた。寝癖を直し、静かに部屋の扉を開けた。横目に確認した、同室の戦士アイザックは爆睡している。
 声から、相手は予想済み。

「その様子ですと、もう事態を解っているのですね。ニーズさん」
 完全に臨戦態勢に整った、賢者ワグナスが笑顔で待っていた。
 無言の肯定。音も無く、後ろ手にドアを閉めた。闇に閉ざされた世界の深夜、廊下は鈍いランプの灯りがポツポツと揺れているだけ。

「ニーズが、大魔王になっちまった」
「…そうですね。死神の目的達成です」
 アイツ等は、これが目的だったのか。

「勇者の体内に存在する、【光の玉】を彼ごと消すのは簡単でしょう。しかし、光の玉はまた別所に出現する可能性があります。一応、竜の女王の城に卵もありますしね」
 ルビスの従者は、伏し目がちに昔話を口にする。

「幼き勇者を見て、死神ユリウスは遊びを思い立ってしまったんですね。【玉】ごと勇者を闇に染める、世界をかけた長い長い鬼ごっこを」
「アイツ等、揃いも揃ってニーズを好きとか言ってたし。訳がわからない」
 憎き死神の過去話など、聞きたくもない。理解する、理解したいという意思が無い。

「ニーズさん。恋とは、相手を欲すること。闇の衣は光の玉でしか払えません。闇の衣が具現化した彼女らが、光の玉である勇者を意識するのは道理です。意識し、執着する求心が、恋として表現されただけの事ですよ」

 自分たちを唯一廃絶できうる存在。羨望し、呑み込みたくて、焦がれた。


「王者の剣を治させて、それもあわよくば一緒に闇に染めたかったんでしょうね。そういえば、彼女らはサイカさんを大魔王と化したニーズさんに…、と思って居たようですが」

 ピクリと、俺の眉が反応した。
「彼女らにも嫉妬はありますから、妻とは言っても供物ですよ。無事で何よりでした」
 いくばくか、想像して、沸き立つ嫉妬心。



「さて。彼を助けに行きましょうか」
 知ってて、遮るように賢者は仕切った。
 どこまでも果てしなく、貼りついた賢者営業スマイル。

 ……まぁ、いい。
 ニーズを迎えに行こう。

 鬼ごっこの後の、かくれんぼ。勝つのは自分。





「虹」



 邪悪な気配が、口の端をもたげ、にやりと嗤った。
 そんな感覚に震え、ベッドから跳ね起きた。全身に冷たい汗が迸り、悪寒に口を覆う。……私は、【邪悪】に対する反応が強かった。
 ……感じたの。今、確かに、

 大魔王が 【受肉】 した。


「サリサさん、起きていますか。非常事態です。すぐに出発しますので、準備して下さい」
 たいして非常事態でないように、やんわりとした賢者ワグナスの声が響いた。寝室に一人、髪を結い上げ、身支度を整えた私は、急ぎ足で一階へと移動した。
 数分後には、支度を終えて仲間たちが収結する。


 精霊神ルビスを解放し、安堵して倒れ込むように皆が休んだ夜。そして開けた朝、二名の姿が収集に欠けているのに気がついた。白服の真の勇者、ニーズさんが。彼を慕う竜の生き残りアドレス君が、見当たらない。

 簡潔に、賢者ワグナスが状況を説明してくれました。
 顔を見るに、青服の勇者は全てを悟っているのは明白。ラーの化身ジャルディーノ君も然り。説明に驚くのは、アイザックや、リアクション王ナルセス君の担当となった。

 私は、未だ合流できていない魔法使いシーヴァスを覗けば紅一点なのに、驚くことも悲鳴を上げる事もなく、冷静に説明を聞き終わった。……事態はなんとなく、予想ができていたから。


 大魔王ゾーマが、得たこの世界での肉体。
 それが【誰】であるのかを。





 ……心配していたのにな。彼を、勇者として守ると誓った矢先なのに。
 影を背負った、儚い笑顔が、思い出されて苦虫を噛んだ。



 ……アドレス君、大丈夫かな。
 急激に、豪快な彼への心配も持ちあがる。勇者を追って不在なんだろう。勇者が大魔王に奪われた。どれだけ悲しみ憤慨しているか解らない。

「アドレスさんは、シーヴァスさんを連れて、逃亡したようです」 
 予想外な報せも舞い込んだ。

 ざっと、勇者オルテガと行動していたシーヴァスと、元ニーズさんとの再会、親子の確執、こじれて生まれた殺意などの説明がもたらされ、賢者は、一切のコメントもなく、事実をさらりと伝えただけに留まった。

 まさか、そんな、シーヴァスが……?


 元ニーズさんに、実の兄に、殺意を向けられ、殺意に応じた。
 身構えたなんて……。






 宿で待つ者。周囲を探す者。
 大魔王の島と対岸で距離の近い場所、ラダトーム城下と、東の対岸の岬などへと別れて二人を探し奔った。
 魔物の残党に襲われたり、海に落ちたりしていませんように    

 ミトラ神に祈りながら、私はマイラの周辺を捜索している。


 不意に何かの「力」が森に生まれるのを察知し、警戒しながら近づいた。邪悪な感じはしないけれど、聖なる力でもない。銀色の、魔法陣のようなもの。……旅の扉?

 魔法陣に倒れた人影が浮かび、誰なのかはっきり解るほどに具現化すると、陣は静かに力を失い消失した。夕焼け色の髪と衣服の青年が、守るように覆いかぶさる美しいエルフの娘。探していた二人の姿に駆けつけ声を立てた。

「アドレス君!しっかりして?シーヴァス、大丈夫!?」
 尋常では無いぐらい、竜族の彼の顔は変色して体温も低い。命の灯が消えかかっていて愕然とした。
 触れていれば感じる、命を蝕む呪いの魔力。肩代わりしている呪いを、もう、抵抗する力が彼には残っていないんだ。

 シーヴァスの方は、負傷はあれど、すぐさま命に別状は無さそう。頬の打ち身、切り傷、噛み傷、火傷?痣の浮かんだ頬には薄い涙の痕。
 どちらかと言えば、彼女が心配なのは心象の方。


「ベホマラー!ベホマラー!」
 回復呪文を唱えて、二人に応急手当てを手早く施す。二人の意識はすぐには戻らないけれど、シーヴァスの顔を拭くと赤みが差し、ほっとした。
 アドレス君はどうやっても呪いの進行が治まらなくて、迫り来る死の瞬間に鼓動が跳ねた。

「アドレス君っ!アドレス君っ!しっかりして!アドレス君っ!!」


 死神の呪いが、竜の生き残りを連れ去ろうと押し迫る。冷たい汗が、こめかみを伝い彼の髪に落ちた。……助からない。助からない……!

「サリ……サ、か……」
 不意に微かに、吐息が零れて、即座に手を握ると彼の双眸は真摯に私だけを見つめていた。紅の、強い意志に光る眼差し。私が、無力を喘ぐと、彼はフッと吹き出して宣告する。
     最後の時を。

「いいんだ。最期に、お前に会えて良かった」
 なんて事を、言うんですか。

「ちょ……!何言ってるのアドレス君!しっかりしてっ……!」
 死なないでっ!死なないで欲しい。願うのに、届かない思い。こんなに嘆くのに、彼には一切の迷いが無いなんて。
「好きだ、サリサ……。愛してる」




 なんで。

 最後にそんな事を、言うの?



「そんな、そんなこと……。……ごめんね。ずるいよ。ずるいよ。何も返せない……!」
 そんな事言われたって、私には返せる気持ちも無い。心の中にはもう、待っている人が居る。それを知っていても、最後に言うのは「その言葉」なの?

「どうしたら、いいの……!」
 彼は出会った時から、ずっとずるい。勝てない。無敵の竜。
「……笑えよ。それだけで、いい……」

 燃える竜の灯が、私の腕で消えようとしていた。抱きかかえる、彼の願いを、もう涙でクシャクシャになりながらも叶える泥娘。

 笑うよ。君が願うなら。君の強さに負けないように。




 満足そうに、竜は微笑み、おそらく最後の力で腕を伸ばし、キスを奪うと力が抜けた。本気で心底、ズルい男の子。
 もう、瞼が開くことは無いだろう。腕に抱えて、看取る瞬間をただ待った。




 待った。




 閉じた瞼から、涙が落ちて、睫毛が軽くなって。ほんの、僅かな数秒の時間。




 どうして、「待つ」んだろう?

 なぜ、待つの?まだ彼は生きているのに。
 待つなんて、私は決めたのに。


 無我夢中で戦いたいと!



 その瞬間まで、諦めず回復呪文を、壊れたように唱えないのは何故なの?
 私は馬鹿だ。何をカッコつけているのだろう。
 なりふり構わず、どんな事でもすればいいんだ。
 彼を助けるために…………!


 誰かを探してる時間は無かった。私が助けなくては!私に助ける力は無い。
 でも、ミトラ神様ならば、或いは。

 アドレス君を腕からそっと下ろし、身を翻し、私は荷物に手を伸ばした。

 抵抗は、あった。自分など、その高みに不似合な気がしていて。
 けれど、大切な仲間のためなら、話は違う。
 私のちっぽけなコンプレックスなんて、何の意味も無い。

 躊躇わずに、荷物から取り出した額冠を装着した。    瞬時に、この身に迸る神力。それは雷のように。力の濁流を受け入れ、瞳を開くと、自分の装いは賢者のそれと変貌していた。


「力をお貸し下さい。ミトラ様。アローマ様!」
 眩い宝玉の嵌め込まれた額冠は、先代賢者の遺品。彼女の未練が、後悔が、希望が、幼い私をそっと包み込むように広がる。

 私は、ただの寄り代です。
 ミトラ様、神のご加護を!慈悲を!奇跡を!

 「私」という概念を越え、私は神の御力をこの世に思召す指針となった。祈りを捧げ、信仰し、全てを委ね、闇の呪いを浄化する。


「シャナク……!」


 破邪の呪文を解放した。
 アドレス君、戻って来て。

 白き光に昇華され、強く、けれど優しく、温かく。悪しき死神の闇は、彼の体内から消え去った。ミトラ神の威光が天へ戻り、呼吸が整う頃、顔を寄せて伺った竜の吐息は、心地よい寝息のものへと変わっている。

「良かった。アドレス君。良かった……」



 死の色は、もう見えない。マイラの森がほっとした様に葉を揺らした。
 朝は来ないのに、朝の気配を肌に感じた。





「サリサ……?」
 エルフの魔法使いが、驚いて目を擦り、新しい賢者の姿を見つめていた。
「シーヴァス!気がついた?」
 状況を聞いたり、説明したり。いくらか話かけたけれど、彼女への浸透は低い。
 ぼんやりと、自分のしてきた事を思い出すのに時間がかかったのでしょう。地下水が沸くように、涙が浮かび、声も無く彼女は泣き伏せた。

「大丈夫。大丈夫だよ。ニーズさんを助けに行こう」
 肩を震わす魔法使いを抱きしめ、私は何度も繰り返した。

「サリサ、私は……!お父様、が……!」


==


 自分の所有物だという、自覚はあまり無い。
 修復した王者の剣。地の底から発掘してきた光の盾。ルビス神より、もたらされた光の鎧。
 そして勇者オルテガより引き継いだ額冠。

 本来の持ち主と思う【真の勇者】の姿もなく、仕方なく最終決戦への装いを固めた。青銀の鎧に紅いマント。神々しい?姿にジパンク゛娘は何度も何度も感嘆の声を上げまくった。

「はわ……あああっ……!なんて、なんて格好良いのでしょうか……!私くらくら致します。勇者びーぃむ出てます!」
「出てないから」

 色んな角度から眺めては、色ボケコメントが展開される。娘の興奮には感化されずに、俺の心は静寂していた。


「サイカ、頼みがあるんだ」
 水を打ったように、研ぎ澄まされた決意がある。ジパング娘の浮かれ空気は消え、真剣さが浸食した。歩み寄り、そっと抱き寄せて、心底願った。

 愛する者を     俺を、守ってくれることは熟知していた。ジパングでも、地球のへそでも、俺はコイツに護られていた。
 サイカには、愛する者に守護を与える巫女の力がある。
「俺だけじゃなくて、兄ニーズの事も、仲間たちの事も、守って欲しいんだ」

 どうか、全員無事で、上の世界に帰れるように。
 誰一人欠けて欲しくない。



 子供の頃から勇者に憧れ、遂にはここまで辿り着いたアイザックと。
 王より派遣された、お人よしで実はラーの化身だったジャルディーノと。
 そのファン、ナルセス。
 母違いの妹、シーヴァス。
 猪突猛進娘、サリサ。
 ついでに賢者。

 誰一人、欠けて欲しくない。



「……はい。勿論なのです。皆さまのご無事を、全身全霊お祈りして待っていますね」
 思いの丈を、声色に感じた。サイカにも、感じる事はあるのだろう。
 命拾いした竜の生き残りアドレスと、サイカはマイラに残して往く。
 サイカなどは、生贄としてまた狙われる可能性もあったが、復活した精霊神ルビスと、妖精の笛、つまり夢神の保護が二人に向けられたと賢者が話した。死神も大魔王城で布陣している状況。マイラはまず心配ないと判断した。

 これから一緒に生きてゆく決意を、口にしたばかりの娘との暫しの別れ。
 久しぶりに間近で見つめる、紅がかった瞳、淀みのない黒髪。何度も唇の感触を自身に刻んだ。視線が合うと、嬉しそうに少女のように微笑む。
 愛しさで、爆発してしまいそうに高ぶった。


「行ってくる」
「はい!行ってらっしゃいませ!ニーズ殿!v」
 語尾にハートマークをつけて、勇者の背に娘はいつまでも手を振った。






 ゴオオオオオオオオ……!

 激しい瘴気をまとう風が吹き荒れる。
 大魔王の城が佇む、孤島へと最も近づく岬へと勇者一行は集まった。
 荒れ狂う魔の海には、到底人の力で船を出せない。上の世界では神の鳥ラーミアに乗ってバラモス城に乗り込んだが、神の翼はもがれ、空を飛ぶ手段も失った。

 伝承、『虹』とは?
 太陽の石と雨雲の杖、虹のしずく。


 雨と太陽があわさるとき 虹の橋ができる。



 それは、預言か。このアレフガルドに古くから伝わる言い伝え。
 太陽の石とは、太陽神ラーが地上に降りる際に、地上に降ろした神の力。雨雲の杖は、ラーの賢者が創造した神杖。
 虹のしずくは……。へんげの杖すら生み出したという、エルフ族の秘宝。

 伝承と言っても具体的な手段は不明、言葉だけではあまりに曖昧で朧げ。
 岬をそれぞれ、対岸を覗いたり、調べたりしていると、異変に気づいたのは野菜好きの戦士だった。手にしていた月の弓の欠片が、熱を持ち、発行しているのに気づいたと叫んだ。

「リューが、道を示してくれているんだな」
 三日月形の弓の破片が発光していた。光は勇者の居場所を示すように、、収束し一本の光線となって対岸先まで伸びて行く。
 月の弓の所持者、ネクロゴンドの王子リュドラルが、死後も勇者を慕う意図に胸が熱くなった。


「……ここに、虹を作れって言うんだな?」
 月の光は、最も距離が短いであろう岬の先端へと誘導した。岸壁に激しい波が打ち付ける、落ちればひとたまりもない闇の海。
 風もますます力を増して、髪やマントが暴れてうるさい。

 僧侶ジャルディーノが、太陽の石を手に、岬に膝を付き祈祷を始めた。小柄な少年の全身が赤く輝き、その光明を両手にまとめ、岬の先、海上に両手を掲げ小さな太陽を生み出した。
 岬中が太陽の陽光に包まれる。風もいくらか治まり、周囲に温かさが満ち溢れた。

「よーーしっ!皆さん、ちょーーっと、濡れますよ」
 嬉しそうに、蒼いマントを整えラーの賢者が進み出た。従うようにジャルの後方斜めに位置し、雨雲の杖を翳すと、杖の先よりモクモクと灰色の雲が発生する。

 通り雨と言える、心地よい雨粒が浮かんだ雲より降り注いだ。
 太陽光にキラキラとはしゃぐ、優しい雨。ジャルの周りで嬉しそうにファンコールする、ナルセスそのものにも感じる。

 うっすらと、小さな虹が自然現象に寄って生まれた。


 ひとたび、生まれた歓喜。
 しかし、このままでは橋として渡ることなど出来はしない。



 小さな、虹のしずく煌めく小瓶を抱えたまま、エルフ娘は硬直していた。

 具体的にどうすればいいのか解らなかった。この液体を虹へ向けてまけばいいのか?失敗すれば、代わりは無い。
 森の娘の手は明らかにガクガクと震えていた。

「シーヴァス?大丈夫か?」
 異母妹の、帽子の下の顔を覗いた。不安に済んだ瞳は濡れている。

「お兄様……。私は、虹になんて……」
 整った美しい顔が、悲哀に崩れる。閉じた瞼から、ハラハラと涙の線が伝い落ちた。
「虹になんて、なれません……!」


「そんなこと無いよ。大丈夫だよシーヴァス!」
 僧侶改め、この最終決戦だけと、賢者になっているサリサが、エルフ娘の両手を掴み、激励を捧げる。シーヴァスとの再会以降、サリサは親身に妹に寄り沿い、絶えず許しと応援を与え続けてくれていた。……ありがたい。


 シーヴァスの、悲観も仕方がないだろう。
 期待していた親子の再会が最悪の結果となり、父親も死んだ。
 ニーズと直接憎しみをぶつけ合った。向けらえた殺意、自分に生まれてしまった殺意。自己嫌悪。
「別にいいんだ。綺麗なものじゃなくて」
 俺には、シーヴァスを責める気は毛頭なかった。
 出会った時から、妹は潔白だった。純粋だった。とても澄んで清らかだった。

 だから、認めたワケではない。
「虹なんて、混ざれば黒くなる」





 解らなくなるんだ。一体何が【正しい】のか。
 どうしてこうなったのか。どうすれば良かったのか。

 考えているだけで、もつれて解らなくなってしまう。


 それよりも、何も考えずに、今はアイツを迎えに行きたい。ただ、「帰ろう」その一言しか思い浮かばない。
 正しいも、間違いも、罪も罰もいらない。

「一緒に迎えに行こう。ただの、『橋』だ。それでいい」





「……おにい、さま…………」
「一緒に謝りに行こう。一緒に帰ろう」

 手を差し出す。
 いつか、ニーズがしてくれた始まりの手のように。



 小さな、細い、白い指は、おそるおそる、青い勇者の荒れた右手にそっと触れる。
「虹になれ、シーヴァス。エルフと人との」
「…………!」

 感じるから、お前の足を止める、鉄の枷を。


「竜と、人との」
 一つ、一つ、叩き壊す。森のエルフのしがらみを。竜の運命を。

「決別した、親と、子供の」
 血の束縛を。
 
「母親の違う、兄と、妹の」
 触れた白い指を引き寄せ、強く細い体を抱きしめた。





「溝を渡る、


 虹をつくれ!」






 呼びかけに、勇気の瞳は開き、
 抱き返した竜の娘は、意を決して、勇者から離れると、小瓶の栓を抜き、太陽の光に振りまいた。自身の涙もキラキラと舞い光った。

 自然現象の虹が、エルフの秘宝により、一時的だが物理化する。
 へんげの杖、乾きの壺、物体の法則を返還させる術に長けた森の魔法種族。


「あまり持ちませんので、すぐ渡りましょう」
 先導して賢者ワグナスが虹を渡った。
「お、おう!」
 半信半疑でアイザックが続く。弓の欠片が、尚まっすぐに道を示し続けるまま。
「落ちませんように!落ちませんように!」
 駆け足でナルセスが駆け抜けた。

 静かに、虹を渡るジャルディーノ。シーヴァスを気遣いつつも、サリサは後に続いた。マントを翻し、俺は、振り返ることなく、虹を渡る。

 もう、自分の【足】で進めるだろう。



 虹の袂に、最後に残った細い影は。
 帽子の広いつばを掴み、いかずちの杖を持ち直し、力強い一歩を踏み出した。

「……そう、ですね。私は『綺麗』だなんて、いつからか、思いあがっていたのですね」
 歩めば、彼へと近づく。
 もう、きっと、恐れない。


「お兄様。お兄様。会いたい。会いたい……!」
 呼ぶなと言われた、兄として彼を求めた。

「私、虹になります。どんな溝も、恐れない」

 最後の魔法使いが渡り終えると、虹は優しく霧散した。小さな太陽も、心地よい雨も。

「行くぞ」
「はい!」

 妹の笑顔が、霧散する虹の中に煌めいた。






虹とはつまり、【勇気】の結晶。

雨と太陽があわさるとき 虹の橋がうまれる。





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