「帰還」




 世界が暗転した。






 そこから、どれだけの時が経ったのだろう。
……ううん。時間なんて、空気なんて、自分の思考ですら、感じなくなって。


 全てが凍結した……。


「僕」は、
「僕」を失った。

 むしろ、【捨てた】。

 もう、何一つ、要らなくなった。






 ずっと、膝を抱え、閉じ籠もっていた。
 閉じられた意識。
 どれくらいの時が過ぎたのか、何日、何か月、全く関心は無い。
 閉じたままの暗闇に、誰かが近づいてくる気配がした。

 ……理解るよ。
 ここに、来ることができるのは、もはや【君】しかいないだろう。


【ニーズ】が近づいてくる。



 玉座に陣したまま、僕の意思ではないく、身体が勝手に攻撃を開始し、口から猛吹雪を吐いた。勇者ニーズを吹き飛ばし、再び、しぶとく立ち上がる彼にめがけて呪文を放った。


 ……来ないで。
 攻撃したくはないけど、傍に来て欲しくもない。


「帰って来い!ニーズ!!ニーズを返せっ!」
 どれだけ攻撃されても、勇者は反撃をして来なかった。

 瞳は、彼を映してはいた。……来ないで欲しい。来なくていいよ。
 君を、傷つけたくはない。

 何度も、叫んで。
 僕を呼んで。

 呪文や、ブレスの猛吹雪の中、苦悶の表情を浮かべながらも、決して諦めはしない。消え去った松明。暗闇の中、朧げに発光する王者の剣だけを頼りに。



 「愚かな」
「愚かな」

 懸命に伸ばす手が、ようやく大魔王ゾーマに届こうかという矢先に。大魔王の軽い吐息で、勇者ニーズは壁まで飛んだ。


 「もうよい。さあ、この手で殺してやろう」
「もうよい。
 さあ、この手で殺してやろう」



 玉座から立ち上がり、しのびよる。
 ニーズは、命の指輪を【僕】の前に指し示した。

「信じるよ、俺は。オルテガは母さんを愛していたんだと!」
 父の名前に、大魔王は僅かに息を呑み、一瞬動きが硬直した。

「お前の事も、愛していたんだと!!」


 「……!
「……!」


 大魔王の右手が、手刀で彼を凪ぎ払おうとする。引き裂かれる寸前で、勇者ニーズは身を捻って、からくも躱した。

「額冠をつけて勇者になればいいじゃないか!」
 なおも、勇者は叫ぶ。額冠、父の形見だ。
 視界が、揺らぐ。意識が、地響きを立てているのが解る。やめて欲しい。何も叫ばないで欲しい。その名前を言わないで欲しい。

 大魔王は、一歩よろめき、後退していた。事実に憤激し、歪む双眸。ぶれる、奥底の元勇者の存在をかき消すように、大魔王は熾烈に攻撃を繰り返す。
 反するように【僕】は体に重みを感じていた。
 攻撃したくはない。帰りたくもない。


 大魔王ゾーマが、闇の呪文を編み始めている。早く、逃げて。立ち去って。


 何かを、勇者ニーズが拾いあげた。
 僕が貰った。僕が落とした、精霊神ルビスの守りだ。

 女神が勇者に加護を与え、闇の呪文を跳ねかえす。マホカンタの盾が勇者を包み込んでいた。反射した闇魔法に舌打ちし、大魔王は剣劇に転じて勇者と討ち合う。
 僕が携帯していた吹雪の剣だ。ハラハラと結晶を落としながら、剣劇の音は連なる。



「帰って来い!ニーズ……!」



 不意打ちで、何を思ったか、勇者ニーズが腕を前に身を乗り出した。
 攻撃ではない。剣を手放した、無謀な突撃。何のために、……体当たり?いや、違う。その目が、僕に訴えていたから。

 ニーズは、僕 しか 見ていなかったんだ。



 ……そんな、なんで。……馬鹿。馬鹿だよ。
 馬鹿すぎるよ。
 ニーズが、僕を迎えに走ってくる。
 僕の外殻に大魔王ゾーマが居る。当然、勇者を貫こうと剣は突き出される。






 ニーズが、 死ぬ。




 刹那の、   思考は、      もう、     凍り付いて。

 ただ、 もう、 反射しかなかった。 彼が手を伸ばせば、



受け取らない世界なんて 

存在しない。



 全身全霊、勝負を捨て、命をかなぐり捨て、兄を信じて抱きしめに駆ける僕の分身は、存在の全てで『兄』を信じている。吹雪の剣が、胴を貫く突きを放つ。意識が爆発する。
 大魔王を押しのけ、剣の柄を握りしめる。刀身が雪の結晶を振りまいて霧散した。


 大魔王ゾーマの瞳が、色を変え、ガラスのように感情のない青に揺れている。
 刀身を失い、残された剣柄を落とし、大魔王は歯噛みした。


 「お き ……!」
「おのれ、貴様っ……!」

 雪の結晶が、ハラハラと、ゆっくりと床まで舞い落ちた。



 遅れて、強く弟がぶつかってくる。激しくも、温かい。命がけの抱擁だった。
「ニーズ……!迎えに来た!もう何も気にしなくていいから!誰もお前を責めないから!だから帰ってこい……!帰って来て……!」

 薄れた、闇の濃さ。乱れた呼吸は、僕のか、ニーズの吐息なのか。
 

 ……涙が、落ちる。




 ……どうして。
 どうして、信じるの。

「はぁっ……。はぁっ……っ!」
 動悸が乱れる。思考が乱れる。
 逃げだした、君も世界も全て、捨てて閉じ籠もった男のことを。



 …………やめてよ。
 全く。釣り合わない。そんな価値は 僕 にはないよ。




 ニーズは、何をしても、どうしても、
 突き放しても、罵っても、僕を決して逃がしてはくれない。

 逃がしてくれないの。放置しては、くれないね。





 どうしたら、一番いいようになるんだろう?

 閉じ籠もるなんて、意味がないと思い知った。絶対に、開けに来る者がいる。
 完全に、消えなきゃいけない。中途半端すぎたんだ。




 仲間たち、上の世界、下の世界。想いはよぎる。……ありがとう。
 全て渡して、僕は消えよう。


 僕を抱きとめ、顔を上げた弟に、額を重ね、祈りを捧げた。
「全部、君にあげるよ。世界を救って。幸せになって」

 【光の玉】、僕の魂、全て。君にあげる。




『さよなら』










 譲渡は、僕の意思は、弟へは移って逝かなかった。

 頬を殴られ、気づけば、僕は床に力いっぱいに叩きつけられていた。









「嫌だ!」
「…………」
 何が、起こったのか、思考が定まらない。頬の痛さに、遅れて、『弟に殴られた』事を自覚する。当然、初めての経験だった。

「ふざけるな……!」
 壊れたように、今までの吹雪の方が寒かっただろうに。悲しみと怒りで弟はガクガクと震えた。床を舐め、見上げる僕の、頭上にポタポタと涙の雨が降り落ちた。
 ポタリ。ハラリ。
「ふざ、けんなよ……!」

「そんな、そんなことして。そんなことされたら、その先、俺はどうやって、生きていけばいいんだよっ……っ!!」
「…………!」

 『その』先、弟は、律儀に使命を果たすだろう。
 受け取った命を、捨てることは『決して』できないから。
 受け取りたくもなかったのに。返すこともできないから。

 どれだけ、悲しくて。哀しくて。辛い人生になるだろう。


 ガクリと膝折れて、幼子のように弟は咽び泣く。



 ……ああ。
「ごめん。ごめんね」
 もう、結局。観念するしかない。

「ごめん。ごめんね、ニーズ……」
 起き上がって、抱きしめて自分も泣いた。もう、弟の存在すべてに完敗だった。




 こんな弟を無視して、全部丸投げで死ぬこともできない。



 ひとしきり、泣いて。弟の顔を外套で静かに拭った。
「帰ろう」
「……わかった」
 立ち上がると、遠く戦いの音が、世界の情景が、見えてくる。感じ始める。ここは、大魔王城の奥底。弟の手を取り、立ち上がらせると、一息、呼吸を整えた。

     心を、決めよう。



「ちょっと、離れて」
 怪訝がる弟より、距離を取り、そろそろ『煩い』大魔王ゾーマを背中から圧し出すために気合いを入れる。

「あああああああああっ!!」
 ズブズブと、黒い陰が奥へと吹き飛んだ。
 自分の身体を返して貰った。


 闇の塊は、 弾け飛び、ズルズルと、収縮して、大魔王の形へと変貌する。




==




 深い闇の底で、ずっと、少年は膝を抱えていた。

 父親を待っていた。そして、いつしか待たなくなった。
 自分たちを捨てた父親を憎み、剣で刺し、血まみれの手に目を伏せながら。

 ずっと、独りで閉じ籠もっていたかった。


 父は、冷たい。


「愛している。ニーズ、エマーダ……」
 足元に転がる、亡骸の最期の言葉。それだけで、もう、何もかもが凍り付いた。凍り付いたままでいい。


 でも。

 でも。






 凍りついたまま。血に濡れたまま。   立ち上がり、 僕 は歩き始めた。





「ニーズ……!行くな!行くな……!」

 僕が、闇へと堕ちてゆく。
 最後の竜の生き残りアドレスが、半泣きで縋って手を伸ばして叫んだ。……あの、屈強な彼が。

 吹雪の剣が、勇者オルテガの腹部を貫いてゆく。
 母違いの妹が、エルフの魔法使いが、自分への殺意で唱えた、呪文の詠唱を中断して受け身を取った。
 彼女は理性で留まった。

 ……僕は、敗けた。彼女は綺麗なままだった。
 僕のように、復讐に囚われないまま。

 引き金となった命の指輪は、弟のニーズが拾っていた。

 もう、求め、取り合う父親はいない。
 彼女も被害者ではあった。父親を取られたくないと思う気持ちはお互い様。

 「愛してる」と言って貰えた。
 抱きしめて貰えた。それだけで、救われてしまったから…………。

 今度は、笑顔で、踊れるだろうか……?



 走り始める。



 故郷アリアハンの景色が見える。
 実家の八百屋の野菜を抱えながら、勇者に憧れて、何度も訪れた黒髪の戦士アイザック。勇者を追いかけて、どこまでも何処までもまっすぐな君。
 その強さのひとすじでも受け取れたなら。

 息を荒げながら、奔る。ひた奔る。彼のように。
 僕は、知っていたから。

 何処までも走り続ける彼の、原動力となる到達点が、『勇者』であると云う事を……。
 僕はまだ、間に合う?その、『勇者』に。辿り着けるかな。


 聖女治める、ランシールの神殿へと、意識は移る。
 アイザックの親友、ネクロゴンドの王子だったリュドラル。僕を信じて戦ってくれた。それなのに、僕は守ることができなかった。
 彼の姉に、会わせる顔がない。
 だからこそ、約束を果たさなければ   

 小さな飛竜の子、アドレス。
 ごめん。ありがとう。僕のために、何もかもを背負ってくれて。痛みを、肩代わりしてくれて。誰も彼も、こんなに情けない 勇者 を信じてくれて。



 砂漠の国イシス。商人の町の、陽気な盟主。
 死神への恋を許した、ラーの僧侶ジャルディーノ、底なしに明るい商人ナルセス。

 僕も、許せるだろうか。
 父を、妹を。
 君たちのように、底なしの優しさを。


 
「あなたは、自分が嫌いですか?」
 王者の剣を掲げ、僧侶サリサは僕に問いた。

 嫌いだった。
 悩み続ける自分が、弱い自分が。


「私、貴方の仲間になります。貴方を『勇者』にするために、精一杯力になります」

 僕は、どうしたら、どうすれば、
 自分を許し、自分を好きになれるだろう……。

 それは、解ってる。
 ただ一つの光。


 足取りが強くなる。
 鼓動が逸る。



 生まれてからずっと、全ての情景で、僕を見守る存在があった。
 精霊神ルビスの従者、賢者ワグナス。初めから、貴方は全部解っていたのでしょうね。
 全部。全部。僕が闇に墜ちるであろう事も。

 だから、貴方はニーズを育てた。
 おかげで、ニーズのなんて頼もしいことか。

 僕は、迷うこと無く帰ることができる。
 彼という、道しるべに手を伸ばして。





 最後に、小さな三つ編みの少女が、僕の帰りを待っていた。


「貴方は選びますか?」

「選ぶよ」

「僕は、僕のために」

みんなと、勇者になる事を選ぶよ」



 ずっと、氷の彫像のようだった少女が、微かに微笑んだ感覚。



 掴む、右手。瞳には鏡の自分が映っている。青く。青く。額冠も、瞳も、鎧も、青い僕と色違いの勇者ニーズが。


 力強く立ちあがり、一呼吸。
 僕は、あの日、地球のへそでの【君】のように、微笑んだんだ。

「ただいま」


==


 ルビスの賢者と、死神ユリウスの攻防戦は長く、膠着状態のまま、お互いはお互いのために、進退の自由が効かなくなっていた。
 それが、崩れた。
「「…………!?」」
 にわかには、信じられなかったのだろう。【奥】で起こった、大魔王ゾーマが起こした、変化に。行動に。『心』に。

 大魔王の中の『勇者』が、自ら消えようとした。
 信じがたい衝撃だった。 

 完全に、死神ユリウスの動きが止まった。
 無表情に状況を見守っていた死神フラウスも、がくりと膝落ちる。
 
 驚きと、悲しみと、同時に怒りも覚えたのかも知れない。
 

 応戦していた賢者も、それは例外ではなく、完全に戦いの手は止まっていた。
 大魔王が、勇者に殴り飛ばされ、その音に自我を取り戻す。

 【奥】の、勇者二人のやり取りに、じっと、静かに、世界が行く末を見守っていた。



「…………。は、……はは」

「あははははっ」
 不意に、賢者は安堵に笑う。
「良かった。やはり。……最後に笑うのは、私達だったようですね」
「………………」
 動揺を隠せない死神ユリウスは、呆然としたまま、手から鎌が滑り落ちた。
「そ、んな、……。こと、が……」
 空となった右手を伸ばし、ようやく手に入れた「勇者」にすがる。【奥】が、この世の底である奥が、有り得ない光を生み、眩しさに目を細めた。
 


 大魔王ではない、大魔王ではなくなった、
 真の勇者ニーズが、そこに覚醒しようとしていた。

 体に取りついた大魔王の精神を追いやり、命の指輪を受け取り、ルビスの守りも装着した。弟勇者は額冠も差し出したが、僕は丁重に断った。
 父の形見を嫌がったわけじゃない。
 もう、「それ」は、弟ニーズのものだと思うからだ。苦難の旅を進んできた、もう一人の勇者としての、証だと思うから。



「待っていました。貴方が自由になる時を」



 場に合わない、春の木漏れ日のように暖かく柔らかい声が、そっと吐息のように耳元に響いた。胸元に着けた聖なる守りが輝き、衣服が白いローブへと姿を変えた。光の鎧と同様の、胸に翼の紋章。

「ようやく、闇から解放されましたね」

 実は、ずっと、傍に、すぐ横に居たかのような、声の距離。安心感。

「……申し訳ございません。ルビス様」
 心の底から謝罪した。

 刀身が砕けた、吹雪の剣を拾い上げれば、柄から光が伸び、白い刀身に竜の稲光が今にも弾けそうに火花を散らした。
 身構えると、呼応したように、額に新しく額冠が生まれた。僕自身の勇者の証だった。



 ……カツ。カツ。

 静かに、彼女の元へ向かう。


 僕が近づくことに、気づいた彼女は、頬を拭うと音もなく身を伸ばした。【勇者】を認め、悲しみの表情は緩み、ふと安堵したように、伏し目がちに相手を待つ。
 向き合うけれど、すぐに言葉は出なかった。
 
 数えきれない思い出が、想いが、よみがえって、胸に詰まった。
「……自害しようとした事は、彼が叩いてくれましたから、何も言いません」
 三つ編みの死神は、先に話すと、決意の微笑みを浮かべた。

 苦境に在っても、「死にたくない」、「死にたくない」と、勇者を目指す少年が好きだった。彼女亡き後、その先生きてゆく気概もない、落ちぶれた勇者に彼女は呆れ、離別した。
 全て放り出して消えようとした事、もう、許されるなんて思ってない。

「大魔王を倒して下さい。ニーズさん」
 どうして。何も知らなかった頃のように、花のように笑ってくれるの。
「うん。約束するよ」
 その微笑みに、覚悟が込められている。大きな自責を、慰めるかのように。


「今まで、たくさん、たくさん、ありがとう……。好きだよ。愛してる」
 両手を握り、二つの頬に口づけ。そして、優しく抱きよせ告白した。

「私もです。ニーズさん……。ずっと。ずっと。永久に」
 本当に?
 そんな言葉、聞けると思わなかった。


 最期に見つめ合い、長い口づけ。永遠にこの温もりを忘れない。
 
 アリアハンで出会った、小さな少女。記憶を失くした僕と、共に過ごした日々。決別。魔物であった彼女。
 銀の死神フラウス=闇の衣は、光の玉=僕に浄化され、優しい微笑みのまま消滅した。



「…………っ!」
 続く、自分への視線に、もう一人の死神はビクリと震えた。
 分身が消え、明らかに禍々しさを失い、二人の容姿に差がなくなっていた。勇者が近づく。対峙するも、眩しさに、戦うことも、逃げる事もできなかった。
「ユリウス……」
「……!ニーズ……、ああ……!」
 あんなに恐ろしかったのに。フラウスよりも大人びて、妖艶で、余裕に満ちて、常に哄笑していて……。そんな死神の脅威が、もうユリウスの何処にも見当たらない。

 眩しがり、目を背ける、死神ユリウスの両手を取った。
「あ……っ!ああああっ!」
 僕は、何もしていない。ただ、彼女が、僕の手が「高熱の鉄」でもあるかのように熱がり、悲鳴をあげて身をよじる。視線に灼かれるかのように、痺れているんだ。
「ユリウス。……僕を求めてくれて、ありがとう」
 彼女に、憎しみはある。恐怖していた。……けれど、僕を求めたことに揺るぎはない。
 僕を求め、闇側に取り込んだ。
 彼女もまた、僕の愛した存在の片割れ。

「…………っ!」
 殺意に紅い瞳を燃やし、勇者を睨みつける。首に牙をむいて噛み付いた。
「元ニーズさん!」
 賢者が構えるのを目で制して、噛み付くユリウスを、僕は強く抱きしめる。

 もう、攻撃の意思はないんだ。
「ユリウス。……好きだよ。落ち着いて」
 傷つけたくはない。僕の中に、刻み込んでおきたいんだ。
 
「そ、んな……!馬鹿な……。そんな、こ、と……」
 牙が外れる、表情が緩む。ユリウスは、僕の視線に、ただひたすらに慄いた。信じられない。彼女を、恐怖もなく、敵対心もなく、慈しむ青い瞳を。自分を、そんな風に優しく見つめる未来など、有り得ないと思っていたんだ。

「ユリウス。僕の中で、生きて」
「…………!」
 彼女もまた、勇者に恋した、少女の一人に違いない。
 限りなく、唇に近い頬に口づけ。すっかり、大人しくなって、可愛いらしく頬を濡らす彼女に、挨拶のようにフッと口寄せた。

 死神ユリウスは、泡のように、かき消えた。
 最期に、彼女も、全身で僕にしがみついて。





「大丈夫ですか?ニーズさん」
 心身を気づかって、賢者ワグナスが虚空を見つめる勇者に静かに問いかけた。体にダメージは無い。心は、別れに大きな穴が開いている。
 けれど、感傷に浸る時間はまだ早い。



「おのれ、貴様っ……!
 我を跳ねのけるとはぁぁぁ!」



 勇者に憑りついた影がはがされ、玉座奥に追いやられた増魔が、じわりじわりと這い上がり、憤怒の怒号をあげる。
 大魔王の影を型造り、世界を滅ぼさんと両手を上げて、怒りに歯を剥きだしにしていた。


「大丈夫です。行けます」
「俺も問題ない」
 小走りに、弟ニーズが横に並んだ。二人顔を見合わせた。
 お互いの決意は決まっていた。

「行こう、ニーズ。……力を貸して!」







俺は、気がついた。

兄が、ニーズが……。
ずっと、いつも、笑っていても、遠くに感じた。
乗り越えられない壁が、高く高く積み上げられていたのに。


なんの境界も距離も無い、
【隣】に帰って来たのだと。




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