BOOK HOLIC
書評対談
舞城王太郎

豊崎由美×米光一成

もう、舞城王太郎には驚きました。パワフルでセクシーでむちゃくちゃでござりまするのごっつい文体、その文体に全然負けてない驚天動地の物語! とにかく、熱いふたりの話を聞いてくれ!(2001年 10月発行号)
今回の主役
『煙か土か食い物』
『暗闇の中で子供』(共に舞城王太郎/講談社ノベルス)

豊崎さんの舞城リンク本
『ナイン・ストーリーズ』J・D・サリンジャー/新潮文庫●「グラース家サーガ」の出発点「バナナフィッシュにうってつけの日」を収録
『火蛾』古泉迦十/講談社ノベルス●第17回メフィスト賞

米光さんの舞城リンク本
『フリッカー式』佐藤友哉/講談社ノベルス●第21回メフィスト賞
『草のかんむり』伊井直行/講談社文庫

豊崎 2001年のしょっぱなに『煙か土が食い物』で現われた舞城王太郎。わたしは評論家の大森望さんに「これは社長も好きだよ」と薦められて、即読みました。
米光 オレは2冊目が出てからまとめて読みました。
豊崎 近年デビューした若いミステリ作家の中では、際立ってお気に入りです。個人的には、2001年のベスト1に挙げてもいいと思っています。いわゆるバカミスに近いような本格ミステリネタが仕込まれている作品なんだけど、『煙か土か食い物』とニ作目の『暗闇の中で子供』に共通して印象に残るのが、奈津川家っていう超ド級に暴力的な家族で、これが事件や謎解きよりも強烈。『煙か土が食い物』の語り手である四男の奈津川四郎が、物語にインサートさせるみたいに回想する家族の肖像がありますよね、中でもその父親。家族を圧倒的に支配する政治家の父親、彼の破滅衝動に憑かれた次男の二郎、このふたりの暴力衝動に兄弟たちが巻き込まれていって、ちょっと日本ではお目にかかれないようなドメスティックバイオレンスに満ちあふれた家族像になっているところが、なんと言っても心に残ります。米光さんはどうでしたか?
米光 は、はい。いきなり聞き惚れてしまいました(笑)。そうですね、とにかく文体が面白いなあと思ったんですよ。とても今っぽいっていうか、音楽で言えばラップのような。
豊崎 この人の文章を巡っては、ミステリの評論家でも真っ二つに評が分かれているようなんです。「特に何の自覚もなく書いてる」派と「計算づくで書かれた乱暴な文体である」という派ですね、わたしはもちろん後者。確かに読点の少ない文章はちょっと読みづらくはあるけれど、語り手の四郎という、まあ一種の天才ですよね? 二作目の語り手である三郎にしてもそうですが。彼らの並みの人間では着いて行けないような思考のリズムを伝えるには、とても適した文体だと思うんです。
米光 ポップミュージックの時代は、メロディにちゃんとことばを乗せていたんだけど、ラップはメロディ以上にことばを詰め込んでいる。それと似たような変化を感じました。純文学作家でも最近多いですよね。読点少ない文体の作品で、だーっとデビューしている。
豊崎 今の比喩は示唆的ですね。これまでのありていの作品における物語の枠や流れの中に適度に収まってきた文章量と比べると、舞城作品のそれは大きくハミ出している、と。米光さん、すごいですよ、それって凡百のミステリ評論家が提示できない深い“読み”です。
米光 冗長さがかえって面白いんだけど。リズムはやっぱり計算してやってる。ことばの選び方も、このあたりは母音のAが続いてるなあというのもあるし。音の響きをとても意識している。「どうするつもりニョロ〜?」とか、ぶっちゃけたフレーズも出てくるし。
豊崎『ドラえもん』の決めゼリフとか、いろんなのが出てくるんですよね。
米光 ラップでもいろんな人のことばをサンプリングして使う。例えば「ドリフターズ」のセリフがちょこっと入ってリズムの流れからストンと落ちて、そこがまたグルーブになってくるというふうに。そういう感覚を取り入れた今っぽさがあると思う。


サンプリングは危険なんですけどね

豊崎 実は、サンプリングというやり方は危険なんですけどね。元になるものへのリスペクトがなければ、単なる表層のなぞり、パクリになってしまう。それで、米光さんのリンク本、『フリッカー式』。これはわたしにはパクっているようにしか思えない。作者がサリンジャーの文体を真似しましたとどこかのインタビューで言ってるのを読んだけど、図々しい、似ても似つかない。ナメてるとしか思えない。後で言いますが、舞城王太郎におけるサリンジャーとは全く違う。『フリッカ−式』という作品は、サンプリングを意識しているかたちだと思うけど、わたしはここに何の生産的なものも感じないんですよ。どうですか?
米光 生産的であることがOKなのかどうかっていうのがまずあるんですよ。別にそれはいいよってオレは思ってて、『フリッカー式』で一番好きなのは、今でしかあり得ない作品であるところ。不朽の名作にはなれないし、20年後にはもう読まれないと思うけど。
豊崎 存在しないでしょう(笑)。
米光 ていうか、20年後ではわからない。今のインターネットの有名サイトが出てきてたり、とてもマニアックなゲームが入ってたり、オチのメインがいわゆるエロゲーの引用だったり。ほとんどが引用で構成されていて、わかる人にはわかるという閉鎖された同族意識で書かれている。そこが面白かった。「あ〜あ、やっちゃった」というショックがあった。作者は意識的にやってると思うけど。
豊崎 同人誌でやってもらうぶんにはかまわないんですよ、わたしも。とにかく偶然と御都合主義が目立ち過ぎ。狙いかもしれないけど、読まされる身にもなれと言いたい。あと、最初に大金持ちが3人登場しますけど、なんでこんな大金持ちの屋敷が札幌にあるんだ? そこからしてあり得ない。「今」が書かれているから面白いと言われるけど、だったらもっと基本的なリアルは追求しないと。
米光 基本的なリアルというのが、現実世界のリアルではなくて、きわめて同人誌的な虚構上の法則、文法に基づいていて、更にそれを応用して書いてると思うんですよ。例えばゲームの「ときめきメモリアル」とかに出てくる女の子って、ユーザーがリアルに接する世代よりももっと古臭い感覚ですよね。それを10代がプレイしてノスタルジックに感じているって、それ自体すでに虚構じゃないですか。
豊崎 確かにそういう美少女ゲームに対するアンチテイストは読み取れた。造りものの女の子を破壊してやる、わざわざ造った女の子を本人が壊す、めちゃくちゃに解体するという衝動にはリアルさを感じました。
米光 実際「ときメモ」自体はピュアな話なんだけど、わざわざ凌辱するような同人誌が出てたりするんで、そういう裏表の構造が入った作品だと思う。文学が大切なものだというような感覚からは生まれ得ない作品。
豊崎 まあ、二作目を待ちたいというところでしょうか。サリンジャーの話をしましたが、舞城王太郎とリンクする作品としてわたしが挙げたいのが「グラース家サーガ」のシリーズ。7人きょうだいが出てくるんだけど、これが子供時代、お子さま天才クイズ番組みたいなのの常連だったんですよね。奈津川四兄弟も天才ぞろいでしょ? あと、きょうだいが親のことを名前で呼ぶ。これも父親を「丸雄」とか呼ぶ奈津川家サーガに通じる。だから、おそらくは「グラース家サーガ」を意識しているというのは誰でもすぐ思い付くことだと思う。さっき米光さんが言ったメロディに乗り切らない文章量なんだけど、わたしは、サリンジャーがそれを一番最初にやろうとした人なんじゃないかと思うんです、ラップが発生する前に。舞城さんは、それをわかった上で取り入れている。サリンジャーがやろうとしていた文章の配置とかへ理屈や無駄話を盛り込むってやり方を読み込んだ末に、じぶんのものにした人なんじゃないかと思うんです。今の若い人は『ライ麦畑でつかまえて』ぐらいしか読んでないかもしれないけど、わたしぐらいの世代だと、サリンジャーって一通り読んでいる人が多い。新しさでもちろん若い人にも支持さながら、世代が上の本読みにも支持される要素をもっているところが舞城さんの強みでもあると思うんです。もしかしたら、『死刑台へのエレベーター』のシナリオライターとしても知られるロジェ・ニミエの『ぼくの剣』(国書刊行会)すら参考にしているのかもしれませんよ、この若くて生意気な作家は。
米光 舞城王太郎っていい意味で、ミステリっていうより純文学的な感じがする。『フリッカー式』はTVのバラエティ番組というのは言い過ぎかもしれないけど、それほど今の要素を詰め込んでいる。この二作品が同じ「メフィスト賞受賞作品」であるところは面白いですよね。メフィスト賞って選考のやり方が今までの文学賞のアンチテーゼみたいな感じ

で、オレが読みたいものを出すんだよっていう個別責任でやってるスタンスなんだと思う。『フリッカ−式』はメフィスト賞でなければあり得なかった作品でしょうね。舞城さんも……これだけ面白いと選ばれちゃうのかな?
豊崎 いや、メフィスト賞だったから通ったんですよ。例えばね、ほら、わたし江戸川乱歩賞の下読み始めたじゃないですか、わたしの箱の中に舞城王太郎があったらもう、死ぬ気で残そうとするだろうけど、下読み委員の本選で反対されるだろうし、残ったとしても選考委員の作家が選ばないでしょうね。乱歩賞はレベルが本当に高くて、100人読んだら70人が満足するような優等生的な作品を出せる賞でしょう。反対にメフィスト賞は、10冊のうち7冊がクズだとしても、3冊にすごいものがあったりする可能性があるわけでしょ、舞城さんのように。それから『フリッカ−式』みたいに、わたしは評価しなくても、米光さんは可能性を見たりするような作品も出る。そういう面白さ。舞城王太郎のデビューはメフィスト賞ならではの嗅覚の良さだし、視野の広さ、胃袋の大きさを感じますね。
米光 メフィスト賞は、狭い範囲でしかウケない作品や、ミステリの範疇ではない作品を積極的に評価しているところが面白い。

もしかして、それも伏線なのでは?

豊崎 舞城さんのニ作目『暗闇の中で子供』は一作目が出たときの衝撃もあると思うんだけど、ちょっと評論家の評価が低いんですよ。でも実はね、志としてはこっちのほうが高い。ミステリにこだわらない人なら案外こっちの方が好きという意見も出てくると思う。確かに物語に破綻が見えるけど、それは見えるように創ってるんですから。『暗闇の中で子供』って、ある種の物語論をやろうとしていて、例えば37ページから引用します。<作家こそが、物語の道具なのだと。作家を用いて、物語は真実を伝えるのだと。そう、真実を語るのは、作家ではなく、あくまでも物語なのだ。>今回、語り手が三男の三郎で、この人は推理小説作家。これが、文学の技法で言うところの「信用ならざる語り手」になっている。物語に細かい齟齬がいっぱい出て来るので、最初はいらつきます、何を書き急いでるんだ!とか思っちゃうんですよ。ところが最後の方でわかるんです。そうか、三郎は「信用ならざる語り手」だから、わざとそうしてるんだ、伏線が全然成立しないのも意識的にやってるんだと。思考回路が壊れてしまった三郎の意識の流れまで小説の中に取り入れたりね、ヴァージニア・ウルフやジョイスもやってたように。これってヘタすると「何書いてるんだ」「めちゃくちゃだ」って言われかねないわけじゃないですか。でも、そんなこと怖れてないんです。読めないヤツは読めなくていい、そんな覚悟すら感じます。唯一難があるとすれば、一作目の語り手の四郎と、二作目の三郎が書き分けられてないところ。ふたりのキャラがちょっと似過ぎてるんですよね。
米光 だけど、その似過ぎてるところも、何か全体の伏線になってるんじゃないだろうかと考えてしまう。
豊崎 そうなんですっ。
米光 極端な話、実は四兄弟全員は存在してないとか、そういうのもあり得ると思ってて。四人いるのは怪しい。案外、アゴタ・クリストフの『悪童日記』三部作みたいな。
豊崎 そうそう! だからわざと三郎と四郎が混濁してるのかもしれないんですよね。最後の方で三郎と四郎が乗ってる車をめぐって、大きな矛盾が出てくる箇所があるんですけど、これもわざとだと思います。
米光 この先、一郎、二郎が語り手の物語が発表されて、四部作が揃ったところで初めて全体の仕掛けがわかるような、そういう構造になっていると思うんですよね。
豊崎 こういうこと想像されるの、イヤでしょうね、作家は(笑)。やりにくいですもんね。この人の作品って、損なわれていくこととか、変わっていくこと、いわゆる「覆水が盆に還らない」っていうことに対する深い悲しみがあるんですね。これは大きな伏線になっていると思う。そして、ラストが明るい。これだけドメスティックバイオレンスや自傷行為やカニバリズムとかを詰め込んでいるのに、けして読後感は悪くない。圧倒的に人生を肯定的に見るラストを用意している。でも、これも怪しいなあ。実は精神病院で妄想を書き連ねている人間の悲しい明るさなのかもしれない。やっぱり舞城さんは、エンターテインメント作品より、サリンジャー以降の普通小説の影響が大きい作家だと思うんです。わたしは、スリップストリームといって、ジャンル小説と普通小説の中間にあるような作品が好きなんですよ。そういう人間にとって舞城王太郎はリスペクトしたくなる作家なんですよね。米光さんが持ってきた伊井直行も日本ではスリップストリ−ム系の作家ですね。
米光 伊井直行の『草のかんむり』は、特に『暗闇の中で子供』と感じが似ていると思ったんです。「今のことばで書く」というテーマが共通している。これは、群像新人賞を獲ったデビュ−作。主人公は古代のことばを勉強しているんだけど、最後に止めちゃうんですね。その思いはラストの方で決意表明として語られる。引用します。<軽薄でだらしない。見ていられないほどインチキくさい。ぼくたちのまわりにあるのは、そんな言葉だ(死んだ言葉は、なぜああ立派に見えるのだろう)。でも、それは生きていて、同じ時代の空気を呼吸している。これは確かに一つの価値だよね。ぼくは、いつか、そんな言葉の中からでも、意味のあることを語れるようになりたいと思っているんだ。> そうした、今のことばで今のことをきちんと語りたいという思いを『暗闇の中で子供』にも強く感じたんです。ちなみに『フリッカー式』もそうだと思って選んでるんですが(笑)。大好きな本なんですけど、現在絶版で入手困難。
豊崎 ほんとに普通小説って十年足らずで棚から消えちゃうんですよね。
米光 とてもエンターテインメント性が高くてすらすら読めるので、徳間デュアル文庫とかのヤングアダルト系でも、講談社文芸文庫で刊行してもちゃんと成り立つ作品。ぜひ復刊してほしい!
豊崎 全く同感。わたしのもう1冊は古泉迦十の『火蛾』。これは、舞城王太郎以外でメフィスト賞出身の期待の新人という意味で持って来ました。これも大森望さんに薦められて読んだんだけど、日本ファンタジーノベル大賞の作品が好きな人にはお薦めです。一言で言えば、ミステリにおける本格物のロジックがイスラム世界を舞台に展開されるという物語。なかなかタイムリーな作品です。これを読んですぐ連想したのは、平野啓一郎の『日蝕』。平野啓一郎が影響を受けたであろうユルスナールの『黒の過程』、ユイスマンスの『彼方』、バンヴィルの『コペルニクス博士』、日本では佐藤亜紀の『鏡の影』といった異端探究物と呼ばれるジャンル、これを踏襲している。このジャンルのテーマの特徴が、知識への情熱と殉死なんです。『火蛾』では、まさにそれをキイにした見立て殺人が起きるんです。ま、トリックはしょぼいです! 本格ファンはみんなそう言いますね。けど、特異な世界観を打ち出して、こっち側の世界の論理をどういう風に打ち壊してくれるのかなあという点で、わたしは最後まで興味深く読めました。語りが一本調子で単調だったり、難しい漢字を多用してたり、問題はあるんですが、やはり普通小説のテイストがあって、可能性を感じる。平野啓一郎が芥川賞獲るんだったら、古泉迦十が純文芸誌でデビューしたっていいじゃないかと思います。
米光『火蛾』は面白かったけど、後半もっと盛り上がって欲しかったですね。ミステリの枠組みにおさめようとしないで、幻想文学的に風呂敷広げ捲った終わり方だったらよかったのに。そう思うくらい前半の世界観づくりが面白かった。この人は、物語を書きたいというより世界をつくりたい人なんでしょうね。
豊崎 そうですね。端正さ、ストイックさを求めているんでしょう、怒濤の読み心地とかではなくてね。まあ、すべての人が舞城王太郎にならなくてもいいわけなんで、古泉迦十にはそこを追求してもらえばいいんですよね。
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